私のお父さんは、二期団の技術者だった。
調査団では、調査用の装備や道具の開発を担っていた。荒地の強い日差しから身を守るための外套や、採取物を入れるためのポーチなどを作っていたらしい。
寡黙で真面目な人だった。忙しそうにしていたけれど、家族への思いやりはあった。お母さんはお父さんのそんなところに惹かれたのだと言っていた。
私のお母さんは、三期団の研究者だった。
竜人族が多かった三期団の中では珍しい人族だった。気球で峡谷を越えずに調査拠点に残り、森や砂漠の生き物たちについて調べていたらしい。
こちらはお父さんと違って、明るくて行動力があった。滝の近くの居住区に私たちは住んでいたけれど、夜になっても家に戻ってこないことはざらにあった。
でも、たまに帰ってきたときに聞かせてくれる話はとてもおもしろくて。幼い私に生き物への興味を持たせるには十分すぎるものだった。
そんな親を持つ私だ。加えて、周りには技術者と研究者ばかりのこの調査拠点で育ったのだから、とても素直に、分かりやすく影響を受けた。
つまり、幼いトビカガチと出会ってから私が取り掛かったのは────生態観察、だった。
勤勉なわけでも何でもなく、それは私にとってふつうに遊びだったのだ。
「あなたの毛は、何かと擦り合わせた方がばちばちするのね。自分でばちばちさせることもできるみたいだけれど」
ざら紙や裏紙を束ねた冊子と、筆を手に取る。
そして、目の前にいる竜をじっくり観察する。さながらその光景は、竜をモデルにし、あるいは竜と対話しようとしているような光景に映っただろう。
もちろん、彼の方からすり寄ってくるようなことがあれば構う。つぶての実や木片を使って遊ぶこともある。
空中にものを放り投げると、彼はそれに飛び掛かって器用に尻尾で打ち飛ばすのだ。たぶん彼の狩りの練習なのだろうな、と思いつつも、それを見るのも楽しかった。
ただ、どちらかと言えば私たちの関係は、同じ空間を共有しているだけ、という感じだった。
気ままに来て、気ままに帰る。そんな緩い関係性だったからこそ、他の人に勘付かれにくかったのかもしれない。あくまでそれは、自然の延長線上にあった、と思う。
あと、私が研究者たちからの言いつけ──野生の生物に食べ物を与えないこと、名前を付けないこと──をきっちりと守っていた、というのもあるかもしれない。
幼竜でありながらも、そのトビカガチは賢くて敏い子だった。
この広場に私以外の人がまったく来ないかと言うとそうではなく、たまに誰かが物資を取りに来ることがあった。
そんなとき、彼は茂みの中へと隠れてしまう。私以外の人の前には姿を現さないようだった。
私が一人でここに来て、おーい、と言葉をかけると、崖の上の茂みからこそっと顔を出す。もちろんいつもそこにいるわけではないから、呼びかけても出てこないこともある。そんな感じだ。
もしかして、前に言ったお願いを理解してくれたのかな、と一瞬思ったけれど。これはたぶん、ここにいる人たちの中で私が最も無害であろうことを本能的に察していたんだろう。
私自身、足跡を全て消すことはできないし、変に怪しまれてもよくないので、ここで遊んでいることは伝えていた。
ひょっとすると、こっそりヨリミチウサギと戯れているくらいの想定はされていたのかもしれない。
人がすぐに駆け付けられ、崖に阻まれて外には行けないこの場所で生物と遊ぶくらいなら、と見過ごされていた。それくらいは考えられそうだ。
その実、戯れていたのは大型モンスターの幼体だったわけだけれど。そんなの、なかなか想像できないだろう。
育ち盛りだからか、そのトビカガチの周りには抜け毛がたくさん落ちた。抜け羽と言ってもいいかもしれない。
青白くて目立つし、見つかってしまうと終わりなので、こまめに拾い集める。大変だったけれど、静電気で羽の毛がふしぎな動きをするのを見るのは楽しかった。
私と子どものトビカガチ。最初の歩み寄りはあちらからだったかもしれないけど、そのあとの構図としては、私がトビカガチに懐いていったという表現がより正しいかもしれなかった。
ある日、そのきっかけになるような出来事があった。私とトビカガチしか知らないことだけれど。
いつものように自然を装って、いや、もう十分に日常と化してしまっていたのかもしれない。離れの広場へと足を運ぶ。
しかしその日、そこには招かざる客が訪れていた。それは近づくまで静かにしているものだから、全く気付かなかった。
トビカガチの姿は見えない。それは特に珍しいことでもなく、遅れて来たり、終日顔を出さないこともあった。
お互い待ち合わせをしているわけではないのだから、気にしてはいなかった。何日もすれ違うとさすがに不安になったけれど、そういうことはなくて。大抵、顔を出してくれる。そういう不思議な信頼があった。
そんな流れで、私は一人で暇をつぶす。見よう見まねの記録書は三冊目になっていて、少しずつ文章も書けるようになってきた。もちろん、一冊目と二冊目は誰にも見せずに保管している。
今日はツタを登る練習がてら、木の上に生えるハジケぐるみを落とす方法を考えようか、などと考えながら岩壁に近づいたそのとき、いきなり何かが飛び立つ音がした。
ぶん、と低い羽音が響く。頭上を細身の影が舞う。半透明な羽がせわしなく動き、体の半分近い大きさの尻尾がゆらゆらと揺れる。
「ぁ、あっ……」
ランゴスタ!
それは拠点の研究者から教えてもらった、特に危ないから気を付けなさいと言われていた大きな羽虫だった。
木の幹やツタの生えた岩壁に張り付き、獲物や外敵が近づくと飛び立って襲い掛かってくる。肉食で、ちょうど私くらいの生物なら捕食対象だ。
特に危ないのはその大きな尻尾から生える針で、皮の防具くらいなら貫いてしまうくらい鋭いらしい。そこから即効性の麻痺毒を打ち込んで、相手を仕留めようとする。
一匹だけしかいないようだから、ここには迷い込んできただけかもしれない。けれど、明らかに私を認識して、そしてあわよくば仕留めようとしていることは明らかだった。
ばくばくと心臓が早鐘を打つ。狩猟の訓練を避けてきたことを初めて後悔した。
ソードマスターの教えを受けた彼ならば、私より少し年上くらいの年齢だけれど、冷静に対処してみせるのだろう。ランゴスタは怖いけれど、とても脆いとも聞くから。
私は……ポーチに小さなナイフを持っているくらいで、とても太刀打ちできる気がしなかった。護身用の毒けむり玉を持ってくるんだった、という後悔はもう遅い。
何秒かの硬直と思考の末に、逃げよう、と決心した矢先、その羽虫の毒針が目と鼻の先まで迫ってきていた。
「……っ」
ひゅん、と風を切る音。ぱぱっと尾の先から飛沫が舞う。続いて、私が地面に倒れる音が響いた。
息が止まる。そう気軽に聞いていい音じゃない。間一髪で避けられたものの、あの勢いだったら、私の腕やお腹は服ごと貫かれてもおかしくないと思った。
転んだ痛みに呻く暇もない。すぐに立ち上がって、なりふり構わず駆け出す。目には涙が滲んでいた。心の底から怖いと思った。
羽音が追いかけてくる。振り向いたらまた転んでしまう。そうしたら、今度こそあの針の餌食だ。
こういうのから逃げるときにはできるだけじぐざぐに走る、という教えを思い出して、そのために地面を蹴った、そのときだった。
ひゅうっ、と。さっきとは違う、遠くから矢が飛んできたような音が聞こえて。
それは何かにぶつかって、背後の羽音を途切れさせた。
何が起こったのか、咄嗟に振り向いてしまう。そこには、じじっと呻きを漏らして足を止めるランゴスタの姿があった。その腹部に、何か棘のようなものが刺さっている。
その棘の色を見て、あっと声を上げた。その二、三秒後には、その場から動けないランゴスタにもう一つの影が踊りかかっていた。
トビカガチだ。あの棘は尻尾から飛ばしたのか。
いつもよりも数段明るく、刺々しくなった尻尾がランゴスタを強かに打ち据える。吹き飛ばされて地面に落下したランゴスタは、明らかに痙攣していた。
トビカガチは一切の容赦もなく、追撃で飛び掛かる。ぐわ、と口が開かれて、ランゴスタの頭部と腹部のつなぎ目に噛みついた。
それが止めになり、痙攣していたランゴスタの身体から力が抜ける。十秒も満たずに、決着がついた。
「…………」
一部始終を見ていた私は、ぺたんと座り込んでしまった。命の奪い合いを肌で感じたのは、これが初めてだった。
トビカガチは力尽きたランゴスタの頭を咥えて、一息に飲み込もうとする。食べてしまいたいようだ。
けれど、幼体の彼にはまだ大きすぎたようで、途中で諦めて吐き出すと、前脚で亡骸をいくつかの部位に分解して食べ始めた。
その光景を、私はただ見つめていた。
私が我に返ったのは、トビカガチがこちらを振り向いてからだった。
何事もなかったかのように、こちらへと歩み寄る。しかし、途中で足を止めた。トビカガチもまた、私を見ていた。
私の目に怯えが宿っていたことを、感じ取ったのだろう。いつもとは違う空気が、そこにあった。
私は必死に、自分の中にある怯えを対処しようとしていた。
あのトビカガチに敵意はない。こちらを餌だとは思っていない。
私が恐れたのはランゴスタだ。このトビカガチは賢くて、好奇心旺盛な子どもなのだ。ランゴスタを襲ったのも、私を助ける意図なんてなくて、気まぐれだったはずで。
でも、どうしても足が震えてしまう。
それならもう、その事実ごと飲み込むしかない。
目の前のトビカガチは、危ない竜だ。その気になれば、私一人の命程度なら簡単に奪える。それを今、思い知った。
そんなトビカガチが、怯えて心に棘を生やした私を見て。
戸惑っている、いや、不思議がっている。そんな瞳をしていたから。
「……おいで」
わたしは座り込んだまま、両手を広げた。
最初は警戒気味で動かなかった彼は、けれど少しずつ歩み寄って、そのうち私のお腹にすり寄ってきた。
むっとする匂いは、ランゴスタの体液だろう。トビカガチの爪や咥内から滴っている、それが服に付いても、その生々しさこそ、生き物らしさだと思う。
「ごめんね。怖がっちゃってごめんなさい」
半ば覆い被さられるようなかたちで、トビカガチの背中や頭を撫でる。
ランゴスタを砕いた静電気はいくらか収まっているようだったけれど、やはりぱちぱちと弾けて痛かった。でも、今は我慢して撫でてあげたいと思った。
「助けてくれてありがとう。すごくかっこいい狩りだったよ。あなたの針は百発百中だね」
そう、彼は私を命の危機から救ってくれたのだから。たとえそれが意図的でなかったとしても、私の主観で、事実としてそうだったのだから。
彼に感情とか、愛情というものがあるのかはまだ分からない。でも、ゆらゆらと尻尾を振るこの竜に絆されたのは、私だ。
結局その日は、いつものように遊んだ。何か変わったことと言えば、私が投げたものをトビカガチが針で撃ち抜く遊びが加わった程度だ。
あとは、私が彼に対してより距離を縮めるようになった、と思う。あの怖さは消えることはなかったけれど、私は彼により話しかけ、より触れ合うようになった。
それはやはり、懐いたと言えてしまうのだろうか。
私の方が動物のようだけれど、その当時はまだ十歳にも満たない。知識はあっても感情の方は未熟で経験も少なく、懐くのも道理、なのかもしれなかった。
そうして、私とトビカガチの密会は続いた。
そんな大層な名前が付くような行為ではなかったけれど、よく周囲に見咎められずに続いたものだと思う。
もちろん、アステラでもしっかりと時間を使っている。あまりあの場所に入り浸って、怪しまれてはいけないからだ。
拠点内の子どもはずっと遊んだりしているわけではなく、有志の学者さんの授業が組まれている。内容は読み書きや計算、生き物について、など。
私はあまり苦ではないというか、むしろ楽しんでいたけれど、もう一人の年上の男の子は座学があまり得意ではないみたいだった。ソードマスターから剣術を教えてもらっているあの少年だ。外で身体を動かす方が好きだったのだろう。
そんな折に、ある探検家の女の人がアステラへと帰ってきた。
その話を聞いた私は、トビカガチにその日は来ないことを伝えた上で、お父さんよりも早く起きて彼女の元へと駆け付けた。
「フィールドマスター!」
空が白み始めた頃、彼女は森の方へ向かう門の近くで身支度をしていた。そこにいるだろうと目星をつけていたので、すぐに見つけることができた。
レザーと呼ばれる探索用の衣服をより身軽にした装備に、大きな背負い鞄。額には大きなゴーグルをつけている。以前と変わらない姿だ。
木組みの足場を駆けて声をかける。こちらへ振り向くと少し膝を下げて両手を広げてくれて、私は抱き着くようにそこへ飛び込んだ。
「やっと会えた……ずっと待ってたよ!」
「そのためにこんなに朝早く来てくれたのかい? あたしをよく分かってるじゃないか」
彼女はそう言って私の頭を撫でる。もし私に尻尾があったなら、ぶんぶんと振れていたことだろう。
彼女を捕まえることはとても難しい。なぜなら、アステラに滅多に顔を出さないからだ。拠点にいるよりも外に出ている時間の方が圧倒的に長くて、そのまま数か月や一年以上戻ってこないこともざらにある。
その卓越した探索とサバイバルの技術によって、誰もが挫折した大峡谷越えを単独で成し遂げて、遭難した三期団船を見つけ出した。その功績から、自然と周囲からフィールドマスターと呼ばれるようになっていた。らしい。
私が物心つく前の話だ。詳しいことは分からないけれど、それは全て誇張もない事実なのだろう。そう素直に思えるくらい、彼女の話はおもしろい。
「それにしてもずいぶんと大きくなったもんだね。前見たときは一回り小さくなかったかい?」
「毎月背が伸びるんだよ。料理長から、アプトノスのミルクを分けてもらってるの」
草食竜の乳は貴重品で、子どもの特権のようなものだ。そのことを話すと、彼女はより笑みを深めてくれた。
実際、面と向かって彼女と話すのは一年振りかそれ以上かもしれなかった。だから、彼女の「一回り大きくなった」という表現は決して誇張ではない。居住区のある柱の傷を見てみれば分かる。当時の私の悩みの一つは、成長痛だったのだ。
早起きをしたご褒美として、フィールドマスターは出立の時間を少し遅らせてくれた。
ちかくの浜辺に二人で座って、その日も彼女はいろいろな話をしてくれた。
アステラは西に大森林があって東には荒野が広がり、景色や環境が大きく違ってくる。南の方は海で、北の方は。大峡谷の向こう側にはどんな景色が広がっているのか。
私がもっと小さかったころは、あそこが世界の端っこか、あるいは別の世界との境界線なんだろうなと思っていた。そしてそれは、あながち間違っていなかった。
陸の上にありながら、海の中にいるかのような景色が広がる陸珊瑚の台地。常に滑昇風が吹いていて、陸に進出した珊瑚は色鮮やかで、どこか甘い匂いが漂うのだという。
それは、アステラでは彼女しか知らない世界だ。子どもの私ですら想像が追いつかないけれど、幻想的だろうことは間違いなかった。
さらに、その台地の谷底、地下の世界はもっと特殊なのだという。そこがどんな場所でどんな生物が棲んでいるかについては、今まさに彼女の調査の主軸になっている。
「いつか私も行ってみたいな……」
「行けるさ。大峡谷を越えるのは大変だけど、現にあたしが辿り着いてるんだから。あっちでも一人じゃない。三期団が出迎えてくれるよ」
そんな不思議な世界でも、三期団はやっていけているらしい。お手伝いのアイルーたちが活躍しているのだとか。
でも、フィールドマスターは子どもの私が見てもすごい人だし、彼女とおなじことを為すには勉強も身体づくりも頑張らないといけない。
でも、くさるような気持ちは湧いてこなかった。それが、彼女の快活さというか、魅力なのかもしれなかった。
「私ね、みんなの研究ノートを読んで、自分でも書いてみてるの! 私の発見を書いているんだよ」
「ほう? 面白そうじゃないか。よければ読ませてくれないかい?」
「うん! …………あ、まって。やっぱりだめ! え、と。だめではないんだけど、今は秘密なの。もうちょっと後になってから見せるね」
研究ノートの話題になった途端に、面白そうに目を光らせたフィールドマスターの雰囲気に乗せられてつい返事をしてしまった。それを慌てて取り消す。
あれを今読ませるのはとてもまずい────トビカガチのことばかり書いてしまっている。あれでは誰が読んでも察されてしまう。だから、母親にすら見せていないのだ。
フィールドマスターは私が恥ずかしがっていると思ったのかすぐに引き下がってくれて、ほっと胸をなでおろす。
でも、これからまた遠出してしまう彼女へ向けて、何か繋がりを作りたい気持ちはあった。
ああでもないこうでもないと考えて、結果、私は小指を彼女に向けて差し出す。
「ね、フィールドマスター。私に約束をしてもらってもいい?」
「どんな約束だい?」
「私、アステラの外に出てみたいってずっと思ってるの。でも、まだ子どもだから許してもらえない……もし私が外に出れるようになったら、一緒に探検をしてくれる?」
それは、約束というよりも一方的なお願いに近しいものだった。
トビカガチの関係とは別として、このフィールドマスターと探索をすることに、大きな憧れがあった。付いていくのは大変かもしれないけれど、それ以上に楽しそうだと思った。
ややためらいがちな私の提案に対して、フィールドマスターはにやっと笑うと、すぐに私の小指に彼女の小指を絡めてくれた。
「分かった。あんたが外に出れるようになるのを楽しみに待ってるよ」
「……うん! ありがとう!」
私はあのとき、とびきりの笑顔を浮かべていただろうと思う。