本小説は中盤まで同一の構成となります。第8話以降より描写や展開が異なりますが、大筋に変化はありません。
それ以外の方は、気にせずに手に取っていただけると幸いです。
第1話 「また会おうね」の始まり
私たちは、その地に足を踏み入れる前から洗礼を受けることになった。
噴煙が空を覆う。
海底から突き上げられる期団船。海上に現れる、山と見紛うほどの巨龍の姿。
ばらばらと海中に落ちていく調査団員たち。大波に煽られて転んだり、人同士でぶつかったりして騒がしい船内。海に落ちた人を救うべく甲板で大声の指示が飛び交う。
そんな中で私は一人、心そこに在らずといった面持ちで、遠くの景色を見ていた。
後で聞いた話では、あの状況下で私はいちばん冷静に振る舞っていたらしい。
肝が据わっていると評されたけれど、私はただ、別のことに気を取られていたに過ぎない。
熔山龍ゾラ・マグダラオスが立ち上がる。そして歩む。夜闇に紛れて、赤々と溶岩を零し、海水を蒸発させながら。
その全貌が少しずつ明らかになっていく。海に沈んでいた半身も露わになる。つまり、水深が浅くなっているということ。
騒ぎに紛れて気付く人は少なかったけれど、もう夜空は白みかけていた。
しばらくすると、本格的に日が昇り始めたのか、私が見つめていた先の大地が陽光に照らされる。
その雄大な景色を見て、さらに遥か遠くに見える捲れあがった山肌を見て。
巨大樹が記憶よりもさらに枝葉を伸ばしていることに驚きながら。
大蟻塚が記憶よりも巨大化していることにも、少し目を見開いて。
自分の心に浮かんだものを、確かめるように。自然と口が開いていた。
「……ただいま」
白き風、新大陸古龍調査団の第五期団の紋章を掲げて。
十年の時を隔てて。私は、生まれ故郷に帰ってきた。
短編:白藍の羽を梳けたなら
それは本当に、偶然の出会いだった。
朝から夜まで、いや、夜の間も、槌の音や人の声が聞こえてくる。
当時、まだ十歳にも満たない少女だった私は、暇を持て余すことが多かった。
いろいろな建物や施設が建設途中であることは、子どもの目で見ても分かった。彼らが忙しそうなのも分かっていたし、でも、あまり構ってもらえなかったことも事実だった。
そこは、調査拠点アステラ、という名がついていた。
私が生まれたときは、もっとたくさんの人がいたらしい。確か三期団だったはずだ。
でも、彼らはここに着いてすぐに、気球を飛ばして遠い山の向こうまで旅立ってしまった。だからここにいるのは一期団と二期団だけ。
しばらくしたら四期団が新しく訪れて、さらにその十年くらい後に五期団がやってくる。そんな予定だと教えてもらった。
調査拠点アステラに、子どもはほとんどいなかった。どこを見ても大人しかいない。
唯一、この拠点の長の孫にあたる人が、少し年上くらいの年齢だった。けれど、彼は最近、ソードマスターという人から剣術を教えてもらうことに熱心で、一緒に遊んでくれることは滅多になかった。
そんな理由で、当時の私はとても暇だった。
お世話係のアイルーと話したり、本を読むのにも飽きてきた。たまには思いっきり遊びたい。
でも、工房は危ないから近づかないでと言われているし、下の広場はたくさんの人が忙しそうにしているし、食事場ではさっきご飯を食べたばかりだ。
幼い私は、頬を膨らませた。
仕方がないので、探検をする。自分でできる範囲で。
工房の裏手にある展望台などはお気に入りの場所だった。滝の傍で最近できた大きな水車を見物するのもいいし、研究者の人たちに珍しい鉱石や植物を見せてもらうのもいい。
幸い、皆が構ってくれない分、この調査拠点はどんどん広がっている。歩き疲れて眠ってしまうことはあっても、飽きて不貞腐れるようなことはなかった。
そうして毎日が過ぎていく。
いつまでこんな日が続くかは分からないけれど、ここを離れたいとは思わなかった。
大きな海の向こうには、現大陸という、とてつもなく大きな大地が広がっているらしい。この調査団の人たちの故郷でもある。私と同い年くらいの子もたくさんいる。
でも、そこに行きたいかと言われると、そうでもないというのが本音だった。
同い年の子と話をしてみたい、という気持ちは少なからずあったけど、逆に言えば、それくらいしか動機はなくて。
ここの人たちはだいたい優しいし、学者さんの授業は大変だけどおもしろいし、これからが楽しくなりそうな雰囲気だし。
それなら、ここで大人になっちゃおうかな、なんて思っていて。子ども心は、相応の刺激だけを求めていた。
だから、その日のアステラ内探検で。
以前は壁だった場所に道ができているのを見つけて、それが滝の向こう側まで続いていることに気付いたとき。
恐る恐る、でも、好奇心を抑えきれずにその道へ足を踏み入れたのは、必然のことだったのだろう。
調査拠点アステラは、森と砂漠に挟まれた谷に建てられている。
私が進んでいったその道は、森の方に近く、でも、本格的に森へ入る前に行き止まりになっていた。
後から聞いた話で、そこは四期団と五期団のハンターと呼ばれる人々のための修練場になる予定の土地だったらしい。
でも、ほんの数日前に拓かれたばかりで使う予定もないのだろう。今は人気もなく、雑多な物資だけが置かれているような状況だった。
傍から見れば何の見応えもない場所に見えるかもしれない。でも、子どもの私はむしろ胸を躍らせていた。
私が憧れていた、拠点の外の世界。モンスターが直に息づく世界。そこにとても近づいている気がしたのだ。
絶対に、拠点の外に出ることだけはしてはいけない。それは周りの大人たちから、何よりも厳しく言いつけられていたことだった。
外には危ないモンスターがたくさんいる。ジャグラスやガライーバ、ケストドンといったような。
それらから身を守るために人々は武器や道具を手に取り、あるいは知識を駆使してやり過ごす。私はまだ、そのどちらも十分に持ち合わせていなかった。
この道も、そんな外の世界に通じているようであれば、流石に引き返さないといけない。
ヨリミチウサギという生物が調査拠点に迷い込んで、それを追いかけて外に出ようとしたときの、延々と続いた説教はもうこりごりだった。
でも、ここなら外の世界とは言えないだろう。行き止まりの崖の上の方を見れば、頑丈に組まれた柵が敷かれているのが見える。竜除けの鈴も垣間見えた。
つまりここはまだ境界線の内側だ。境界のすぐ傍ではあるけれど、言いつけは守っている。これなら堂々としていても、調査団の人々に怒られることはないだろう。
そんな理屈をこねるよりも、私がわくわくした何よりの要因は、森の草花や鉱物が間近に転がっていることにあった。
調査拠点も自然の中に立地はしている。けれど、やはり人の手が入っているものだから、めぼしい物は取り除かれてしまっていた。
こうして、自然のままに近い状態で存在していることが、当時の私にはとても魅力的に映ったのだ。
さっそく、紙と筆を取って観察をしてみる。やり方は調査団の見よう見真似だ。
薬草や火薬草、なんと、百陽草までもが自生していた。そのどれもが、拠点の外に出ていた人たちからお土産でもらうような代物ばかりだった。
目に映るもののほとんどが、真新しく思えた。紙は無駄遣いしないように言われているけれど、それでも書く手はなかなか止まらない。
ハンターとして武器を手に取るよりも、こうしてスケッチや観察をしていた方が楽しかった。
帰ったら図鑑を借りて見比べてみよう。そんなことを思いながら歩き回っていると、あっという間に時間は過ぎて、太陽が崖に隠れてしまった。
そろそろ帰らないといけない。あんまり遅くなると、両親やお世話係のアイルーが心配して捜索が始まってしまう。
もっと居たかったけれど、面倒事は避けたかった。明日……は厳しいかもしれないけれど、数日後にはまた人の目を盗んで来れるはずだ。そんなことを考えながら立ち上がる。
そのとき、がさがさっと。
頭上の茂みが不自然に、でも大きく揺れた。
はっとした。それは全く想定していなかった事態だった。
調査団の人が言うジャグラスだったらどうしよう。肉食で、私よりも大きい。大人なら何とかなるかもしれないけれど、子どもは食べられる側だ。そう聞いていた。
もし、万が一彼らに出会ってしまったら、草むらや物陰に隠れて息を潜めること。その教えだけを考えて、じりじりと後退る。心臓はどきどきして、うるさいくらいだった。
かくして、頭上の茂みから、音を発した正体が現れる───。
「……え?」
───それは、教えられていたジャグラスとは違う。
体色は青白く、体表は鱗ではなく、羽のようなもので覆われている。尻尾が平たくて、長い。ジャグラスと同じなのは、体格と体の構造くらい。
壁を伝って降りてきたそれは、こちらに食欲という名の殺意を向けてくることもなく。ただ、珍しいものを見たかのようにこちらを見つめてくる。
警戒の色すらそこにはなくて、恐らくは好奇心だけがあって。
予想外のことに困惑して立ち尽くす私と、私の反応を見ても尻尾を緩く振るだけの竜。
それが、幼い私と彼の邂逅だった。
私が困惑から抜け出すまでに、ゆうに数十秒は費やされていたと思う。
その間、襲われていなかったからだろうか。私の第一声は、あまり震えてはいなかった。
「あなた、名前はなんて言うの?」
……いや、結局混乱していることに変わりはなかった。まさかそんな、アイルーに聞くみたいに。
当然、相手が答えられるはずもない。首を傾げるような仕草をするばかりだ。
恐らく、このときの私は、彼の種族名を問いたかったのだと思う。ジャグラスや、リオレウスといったような。自問自答にも近いかもしれない。
恐らくは竜種だということだけは分かる。でも、ジャグラスと同じくらいの大きさでこのような体色の竜なんて聞いたことがなかったから、困っていたのだ。
「あ、こら……」
返事の代わりか、青白い竜は私の足にすり寄ってくる。匂いを嗅ぐ、というよりも、体の匂いを擦り付けているかのようだった。
やはりそこに敵意はなく、あまり恐怖も感じなかった。あまりのことに麻痺していた、とも言えるのかもしれない。
そのとき、ケルビの毛皮で編まれた服がぱちぱちと音を立てた。それは最近学んだ、静電気というやつだ。
こんな少し触れあっただけで、静電気が起こるのは珍しい。この竜の体毛が特殊なのかしら、と思った矢先に、ぱっと記憶が繋がった。
「トビカガチ! ……の、子ども?」
私の声を聞くように、その竜はこちらを見上げる。その赤い瞳と平べったい尻尾は、学者の人に見せてもらった図鑑の通りだ。
そういえば、と思い出す。ついこの前、トビカガチが捕獲されて調査拠点に運ばれてきていた。確か、ソードマスターが相手をしたのだ。
遠目で見ただけだったけれど、かなり大きな個体だった。今目の前にいる竜より少し青みが深くて。咄嗟に記憶が結びつかなかったのは、やはり大きさの違いがあったからだろう。
かの竜は電気を駆使して身を守っているのだと教えてもらった。その電気は、このようにして生み出されているのか。確かに、これをずっと続けられるとばちばちして痛そうだな、と子どもながら思った。
「あの捕獲されてたトビカガチは、ひょっとしてあなたのお母さんなのかな?」
そんなことを呟きながら、子竜の頭を撫でる。
もしその通りだとしたら、ふつうは人を警戒しそうなものだ。でも、この竜は真逆だった。むしろ、とても人懐っこい。
メルノスとアプトノス以外で人が竜を飼っているという話は聞いたことがないし、何かしら事情があるのかな、と思った。
「あ……」
しゅる、と、細い舌が私のグローブの指に絡む。そのまま、あぐあぐと噛みついてくる。子どものアイルーを彷彿とさせる仕草だった。
一瞬、食べようとしているのかなと思ったけれど、よく分からなかった。でも、その様子を見て、幼い心にある感情が芽生えた。……芽生えてしまった、と言うべきだろう。
言い訳をするなら、当時の年齢では、まだ人と竜の棲み分けや干渉といった概念を理解するのが難しかったのだ。
それは教本ではあまり伝えられず、この世界で生きている間に肌で感じるものだから。
だから私は、踏み越えてはいけない感情を簡単に踏み越えてしまった。
「ふふ、かわいいね」
甘噛みされていない方の手で、子竜の頭を撫でる。
トビカガチはまだ調査が進んでいない竜で、確か何を食べるのか、どのように子どもを育てるのかも分かっていなかったはずだ。
だから、この子の存在を調査団に伝えれば、何かしら動きはあるかもしれない。私に代わって、学者さんが相手をしてくれることもあるだろう。
でも私は、この子の存在を自分だけの秘密にしようと思った。思ってしまった。
退屈というわけではないけれど、他の人にあまり構ってもらえない日々。自分でできることも限られている中で、その子との出会いはとても興味深いものとして受け入れられた。
ねえ、聞いてと声をかけて、子竜の注目を私に向ける。
「私、今日は帰らないといけないの。一緒に来てほしいけど、それはあなたが掴まっちゃうかもしれないから。だから、今日はもうお帰りなさい」
竜に言葉が伝わるはずもないのは分かっていた。でも、だめもとでも伝えてみようと思った。
「私、三日後……ううん。明後日にもここに来るから。分かる? 今日の月が昇って、沈んで、次の日の太陽と月も巡って、その次の太陽が昇るときね。それまで、他の人に姿を見せたらだめだよ」
必死だった。これっきりの出会いにしたくなかったから、一生懸命に伝えた。
あるいはそれは、初めての友達になれそうな存在を、言葉で懸命に繋ぎ止めようとしているかのようだった。
赤色の眼、細長い瞳孔を覗き込む。私の瞳なんかより、ずっときれいでまっすぐだ、と思った。
「じゃあ、またね。付いてきたらだめだよ。今日は帰って、また会おうね」
今度こそその手を離し、私は駆け足で来た道を戻る。
途中、何度も振り返った。子竜が付いてくるようなことがないか、不安だったのだ。そうしたら、それで終わってしまうと思ったから。
子竜はしばらく私を見ていた。でも、追いかけてくるようなことはしなかった。周囲が薄暗くなり始めても、その瞳は仄かな光を宿し、よく目立っていた。
やがて子竜はふいと視線を外すと、器用に蔦を登って、森へと続く茂みの奥へと消えていった。
居住区へと行き付く前に、私は自分の服を土塗れにした。あの竜の匂いをかき消すように。
人はともかく、アイルーは匂いに敏感だ。彼らに気取られるわけにはいかない。
すっかり汚れた私を見て、すれ違う人々は少し驚いていた。ぬかるんだ道で転んだのだと言うと、笑われたり、呆れられたりした。
その後、すぐに身体を洗い、衣類も自分で洗った。後始末は自分でやる、と言えば、お世話係のアイルーも納得してくれた。
そうして、その竜との出会いの日は。
他の人には、私が少しはしゃいだ日として見過ごされたのだった。