第29話 語り継がれない物語
────シュレイド地方には東西に分かたれた二つの国がある。
それぞれの首都の名は、ヴェルド、そしてリーヴェルである。
現代に至るまで、二国間の交流はほとんど行われないままであり、それぞれ独自の文化が発展している。
また、二つの国は同一の国を祖としているという説があるが、資料に乏しく、詳細ははっきりとしていない。
「炎の剣と氷の剣の保管を、私にですか」
「ああ。できれば引き受けてもらえないだろうか」
前線都市リーヴェルの主城の一室にて。
夜も明かりが灯され、慌ただしく人が行き交う中で、一人の文官のもとへ二人の人物が内密に訪れていた。
「携行はされていかないのですか?」
「人々に怪しまれたらいけないからな。国に対しての隠蔽工作でもある」
二人はそれぞれ被り物をし、手袋をして素肌が見えないようにしていた。
怪しまれずに街に入るのも大変だっただろうが、対竜兵団のごく一握りの兵士が手を貸しているのだろう。これもかつての彼の人望あってこそか。
文官──アズバーはもう一人の方をちらりと見た。今話をしている彼よりも随分と小柄だ。
直接その姿を見るのは初めてだったため、その静かな佇まいにアズバーは少し意外さを覚えた。
「すぐにでもここを発たれるのですか」
「ああ、情勢が混乱してる今が狙い目でな。本格的に軍が動き出すより前に国を出ておきたい」
このやり取りだけを見れば、まるで犯罪の片棒を担いでいるかのようだ。
実際、目の前の彼は正体が明かされれば投獄どころでは済まないだろうが、世間的には行方不明であり、既に死んだものとされている。
リーヴェルは今、東シュレイドの各都市から訪れた避難民への対処で忙しくしている。
山の龍は当初の見立て通り、東シュレイドを縦断するかたちで歩き去っていった。
元首都を含めた、いくつかの主要都市はかの龍の侵攻によって大打撃を受けることとなった。
土地を追われた民の受け入れは辺境の集落や街が分担して担うこととなったが、リーヴェルは一際多くの人々を受け入れている。
政府の役人や、貴族までもが足を運んできていて、もともと夜の篝火の多かった前線都市は、今や眠らぬ不夜城と化していた。
「もう俺の秘書の任は解いてあるから、友人としての頼みになってしまうが……」
「それは野暮というものでしょう。祖父より前の代から従者として仕えてきた身です。立場が変わった程度で解消できるものではありません」
アズバーは穏やかに答えた。
アズバーは今後、対竜兵団の文官として引き続きリーヴェルに留まることになる。
今後、主人であるヴィルマに付き従うことはなく、彼とは今生の別れになるかもしれない。
アズバーは以前からヴィルマの考えを聞いていたし、彼の密かな目論見にも察しがついていた。
そのため、急な解任を言い渡されようと特に驚きはしなかった。
むしろ、主人はようやく自分の好きに動く機運を得たのだろうと、喜ばしく思うような心向きさえあった。
傍に彼女がいるのだから、彼としては十分な結果だろう。二人が相討ちになるか、ヴィルマが一方的に殺される展開もあり得たことをアズバーは知っている。
厚い布に巻かれ、石壁に立てかけられている二本の剣をアズバーは見やった。
不凍布と不燃布、それぞれ高品質なものを使っているのだろう。よく持ち運んでこれたものだが、それでもずっと封じ続けることは叶わない。
直に木の机にでも置こうものなら、すぐに燃えるか軋むかしてしまう。最低限でも石櫃が必要で、保管には苦労するだろうことが目に見えている。
決して盗まれるわけにはいかないし、そもそも見つかってはいけない。彼らにまつわる事件のほとぼりが冷めるまで、何年、何十年と秘匿し続けなくてはならない。
正直、戦場で偶然見つけたとかの理由を付けて国に引き渡すか、どこか海にでも投げ捨ててしまった方がよさそうな代物だ。
ヴィルマもそのことはよくよく理解しているだろうし、アズバーが断るかすぐに手放すかしても、責めることはないのだろうが。
「これが、ヴィルマ様からの最後の任ということであれば、引き受けましょう」
ヴィルマが何かを言いかけたが、アズバーはそれを手で制した。
従者としてはあるまじき行為だが、ここは言い切る必要がある。
「子や孫の代、それ以降も、お二方の剣を守り続けることを約束しましょう。私たちの一族の使命として」
それがヴィルマへの手向けであり、最大限の尊重であるとするならば、アズバーは喜んで剣の保管を引き受ける。
ちょうど、ヴィルマの一族の従者という役目を失い、家としても為すべきことを見失いかけていた頃合いだ。その楔として、この二本の剣は相応しい。
アズバーは軽く握り拳を作り、それを自身の胸元に当てた。
「良き主に恵まれました。実りある旅路になるよう、願っています」
「……そうか。俺もいい従者を持った。ありがとう」
感傷に浸るような笑みを少しだけ見せたヴィルマだが、すぐにその表情をいつもの不敵なものに戻した。
手を握って、アズバーの握り拳を軽く叩く。よろしく頼む、と小さく告げて、ヴィルマは踵を返した。
ヴィルマが部屋から出ようとしたときに、彼女──フレアがアズバーの元へと一歩歩み寄った。
フレアのことは手紙で語られるばかりで、互いに初対面だ。何か伝えたいことがあるのか。
彼女は被り物を少し上げて、その蒼い瞳でじっとアズバーを見つめた。
早々にここから立ち去らなければいけないのだろう。フレアは囁くような声で、一言だけ告げた。
「よろしく、お願いします」
アズバーとフレアの視線が交錯する。
アズバーは迷いなく、しっかりと頷き返した。
────西シュレイドの辺境、ココット村のある英雄が竜狩りの偉業を成し遂げてから。
竜や獣を狩る生業、ハンターと呼ばれる人々は瞬く間に大地へ広がっていった。
黎明期、ハンターが主に用いていた武器は大剣に片手剣、ハンマー、ランス、ボウガンの五種類だった。次いで、双剣や弓が後を追うように普及していく。
同じく、彼らを取り仕切る組織も立ち上がった。商人ギルドを参考につくられたそれは、ハンターの躍進に伴って次々と展開されていくこととなった。
西シュレイドの城塞都市ヴェルドに、いつもと変わらない夜が訪れる。
広大な都市の外れ、貧民街の一画で、フレアの世話係のサミは、早々に眠りに就こうとしていた。
サミの朝は早く、それを考えるとこの時間には眠らなくてはいけない。
日中の街をアイルーが出歩くと面倒事に巻き込まれかねないので、買い物などは朝市で済ませるのが日課だった。
「…………」
フレアが旅立ってから一年が経とうとしていた。
フレアの家の周りをうろついていた怪しい人影も最近は見かけなくなって、気を揉むようなことはなくなってきているものの、最近は少し寂しさを感じ始めていた。
遠征に行ったきり、半年以上帰ってこないようなことはざらにあった。帰ってきたかと思えば、数日後にはまた任務に出て行って、一年近くろくに話せなかった時期もある。
けれど、丸々一年以上帰ってこないというのは初めてのことで、それがサミを落ち込ませていた。
もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない。
フレアが戻ってこなくなるという事態は、実はこれまでも何度か想像していた。
フレアはいつも、死の危険と隣り合わせの戦いをしている。自分が死んだとしても深く悲しまずに生きてほしいと、フレア本人から言われたことすらある。
故にサミも取り乱すということはないのだが、実際に目の当たりにすると、思っていたよりも多くの迷いや葛藤があることに気が付いた。
あと何年かはここで待てる。帰ってくる家を維持し続けるというのは大切なことだ。
しかし、この家からの立ち退きを命じられたり、この家が撤去されたりすれば、アイルーのサミは成す術がない。
いつ来るか分からないその日に向けて、サミ自身の進退を考えなくてはいけない。それでもフレアを待つのか否か。
誰も寝ないフレアのベッドを整えて、自分の寝床で丸くなる。
もう何度目か分からないため息をついた、そのときだった。
こんこん、と家の扉が叩かれる音を聞いて、サミは飛び上がりそうになった。
聞き間違いかと思って耳を立てたが、続けざまに扉が叩かれ、急いで寝床から出る。
ずいぶんと控えめな叩き方だった。熟睡していたら気が付かなかっただろう。
期待してしまうことを避けられず、とくとくと心臓が高鳴る。
しかし、それと同時に過度な期待はしない方がいいと諫める気持ちもあった。
国の衛兵やフレアの知り合い、留守を確かめる盗人という線もあり得る。
期待が大きいと落胆も大きくなる。サミは慎重に、家の扉を開けた。
「にゃ……」
「サミ、ただいま」
みずぼらしい旅人の格好に、月光に照らされない黒い髪。
しかし、それらが変装であることはすぐに分かった。サミに向けた囁き声が、全てを証明していた。
サミが声を発しようとしたところで、すっと彼女の指が口元に添えられた。サミはすぐに言葉を飲み込んで、物音を立てないように彼女を家の中へと招き入れた。
そっと扉を閉めて、蝋燭の火は灯さずに月明りの差し込む窓の傍へ忍び寄り、座り込む。
そうしてお互いに顔を見合わせて、頷き合った。
サミは、フレアの懐に飛び込んだ。
「よ、よかったにゃ~……生きてるにゃあ……」
「ごめん。すぐに帰ってこれなくて」
緊張が解かれ、脱力してもたれかかるサミを、フレアは何度も撫でてやった。
「こちらこそごめんなさいにゃあ。みゃーが読み書きを教えたばっかりに、あんなことになってしまったにゃ……」
「それはいい、私がサミにお願いしたことだし、本当のことを言わなかったのも私だから」
サミはあまり思い詰めない性格のアイルーだが、あのような別れ方をしたともなれば、どうしても心配させてしまうだろう。
本当はよく話し合うべきだったのだろうが、サミを巻き込みたくない気持ちの方が強く、結果として彼女に疎外感を抱かせてしまった。
「でも……こうして隠れて来たってことは、何か事情がありますにゃ?」
「うん。急な話だけど、サミは今すぐにこの家から出るってなったら、できる?」
「にゃ? にゃ~……」
一年越しの再会だ。もっとゆっくり話したいところだけれど、フレア側の事情がそれを許してはくれない。
サミは唐突な提案に驚いたようだったが、ひとまずフレアから離れると、暗い部屋の中をぐるっと見渡した。
「できなくはないですにゃあ。もともとフレア様の私物は少ないですし、みゃーもなにかあったときのために荷物はまとめておりましたにゃ」
「えっと、いろいろとごめんなさい……」
「いいってことにゃ。悪いのはフレア様じゃなくて、フレア様に悪いことをする人たちにゃ。
でも、今後どうするつもりなのか、もう少し教えてもらってもいいですかにゃ?」
ふつうの生活を送っていればしなくてもいい備えを、サミにはさせてしまっていたようだ。
フレアは申し訳なくなったが、サミはあまり気にしていない様子だった。フレアと生活するうちに、慣れてしまったのだろう。
サミの問いにフレアは頷いた。急ぎとはいえ、状況を説明するくらいの時間はある。
「まずは私たちと一緒にヴェルドを抜け出して、西シュレイドからも出る。私は死んだことになってて、サミがここに残ってると危ないから」
「にゃー、前から逃げたしたらどうにゃって話はしてましたからにゃ、ようやくって感じですにゃ。でも、どこへ向かうつもりですかにゃ、田舎に隠居にゃ?」
「そのまま、東シュレイドまで行く」
にゃっ? と、サミが驚くのも無理はない。暗がりの中でもサミが目を丸くしているのが分かった。
東シュレイドは西シュレイドと隣り合っているとは言っても、とても遠い。普通に歩けば何か月とかかる。
それに、フレアは東シュレイドでは懸賞金がかけられるくらいの大罪人扱いだったはずだ。
東シュレイドのある要人を殺そうとしたのだから当然なのだが、だからこそ、フレアの口からその国の名前が出てきたことに驚きを隠せない。
「東シュレイドって……ヴィルマ氏の暗殺の任務はどうなったのですかにゃ」
「その……その人に助けてもらって。サミのことを話したら、リーヴェルで暮らしたらどうかって」
「た、助けてもらったって、にゃあ……変わった人だとは思ってましたけど、よくそんなことを思いつきますにゃ」
「信じられないかもだけど……。クラフタさんもサミがリーヴェルに来るなら手伝えるって」
「にゃっ? クラフタさんも生きてるにゃ?」
「うん。今、この家の周りの見張りをやってくれてる」
フレアの口から次々と信じられないようなことが語られて、サミはいよいよ困惑した。
ただ、まずはクラフタの安否を知れたことにほっと胸を撫でおろした。
フレアの後に続くようにしてヴェルドから旅立ったクラフタは、見ている側が心配になる程にぼろぼろだった。
そんなクラフタとフレアが生きているのなら、ひとまずサミに心残りはない。
「ということは今、クラフタさんも近くに居ますにゃ?」
「うん。家の周りで怪しい動きがあったら教えてくれることになってる。でも、できればそうなる前にここから出たい」
フレアも一年間留守にしていながら、この家とサミに何らかの監視の目があったことには見立てをつけているようだった。
実際、これが半年以上前のことであったなら、今この場において戦闘が起こっていたかもしれない。ちょうど警戒が緩む頃で助かった。
「サミが嫌なら無理強いはしない。それでも、ここを立ち去るだけでもしてほしい」
「ちゃんと生活ができるのなら、みゃーは文句を言いませんにゃ。でも、フレア様は一緒にいてくれますかにゃ?」
「……ごめん」
フレアは僅かに視線を落とした。その言動で、サミはいろいろなことを悟った。
西シュレイドでのフレアの居場所は、ここを含めてなくなった。
表立ってそうなっていないとしても、フレアに禁足地に向かわせるようなことをした以上、この国に帰ってこない方がいいことはサミにも分かる。
それと同様に、東シュレイドでもフレアの罪状がなくなったわけではないのだろう。
ヴィルマ氏に助けられたのはただ個人的な繋がりがあったからで、国の方針まで覆りはしなかった。フレアがしていたことを考えれば、当然のことだ。
変装をし続けるわけにもいかない。市井の人と違って、フレアは赤髪や腕の火傷などの外見的な特徴も多く、潜伏し続けるのは難しい。
フレアはこのシュレイド地方のどこにいても追われる身となった。
であれば、シュレイド地方の外へと出ていくしかない。
サミの同行は難しいだろう。フレアでも大怪我をして戻ってくるくらい危険な外の世界では、サミはお荷物になってしまう。
最低限戦うなり逃げるなりできなければ、一度はぐれてしまった時点で詰みだ。いくら家事や手伝いができても、野宿や狩猟採集となると役立てない。
サミは物分かりがよく、フレアの一言だけでここまで想像できてしまう。
今までもそういう場面は多々あって、フレアもそんなサミのことを分かっているから、申し訳なさそうにしているのだ。
サミはそっとため息をついた。フレアがそんな様子では、世話役であるサミは何も言えなくなってしまう。
「分かりましたにゃ。そんなに困った顔をしなくても大丈夫ですにゃ」
「……ありがとう」
「向こうはきっと寒いでしょうにゃ。心配事と言ったらそれくらいにゃ」
「リーヴェルであなたが困らないように、あの人とクラフタさんに伝えておくから」
本当は、フレアの世話役をできなくなることはサミにとっても悲しい。彼女の安否が分からないよりも明確に、突きつけられるような寂しさを感じてしまう。
けれど、サミと別れた先でフレアが何にも縛られずに生きていくのならば、きっとその方がいいと思える。
ここでわがままを言って、サミがフレアの足枷になってしまうのはもっと良くないことだ。彼女はもう、十分すぎるくらいに苦しんだ。
「みゃーは東シュレイドに行って、フレア様は一人旅ですかにゃ?」
「ううん。あの人……ヴィルマさんが付いてきてくれる。一緒に、シュレイドの外の世界に行ってみようって」
「……それなら今、ヴィルマ氏も来ているにゃ?」
「うん。ヴェルドの外で待ってもらってる」
「……そうですかにゃ。ぜひ一度お話をさせていただきたいですにゃ」
サミの尻尾がぱしっと床を叩き、声の調子がひとつ下がった。
フレアはどうしたのだろうという顔をしているが、サミの内心を赤裸々に語るわけにもいかない。
端的に言えば嫉妬だ。しかし、別の想いもある。
フレアと別れる前に一仕事できたとサミは意気込みつつ、これ以上の長話は隠密に支障をきたすだろうと話を切り上げた。
「みゃーは東シュレイド、フレア様はシュレイドの外に行くのなら、しばらくは一緒に歩くことになりますにゃ?」
「うん。少なくともヒンメルン山脈を迂回するまでは一緒にいると思う」
「それなら、しんみりするのはもう少し後でいいにゃ。今は誰にも見つからないように、気合入れていくにゃ」
サミはそう言って小さく伸びをすると、音を立てないように細心の注意を払いながら、荷物をまとめるべく部屋の中を駆け回り始めた。
サミの振る舞いは一見すれば薄情に見えるかもしれない。けれど、だからこそフレアはサミが世話役として家に居着くことを許した。
内心で様々な想いがあったとしても、自身の判断に基づいて何も言わないでくれるサミの存在を、フレアはありがたく思う。
本当の別れまではあとひと月ほどある。思い出話や今後の話はその間にじっくり話せばいい。
一年前に身を粉にして奔走してくれたクラフタにもお礼を言うべきだろう。彼は素直になれないだろうが、きっと誰もが感謝しているはずだ。
アイルーは何かを語り継いだりすることがあまり得意ではない。フレアという良き主人の話も、サミの他には引き継がれない思い出となるだろう。
しかしきっと、それで良いのだ。思い出は独り占めするくらいがちょうどいい。
フレアという誰よりも強い戦士の傍に、世話役のアイルーがいたという記録は。
当事者であるサミ、ただ一匹だけのものだ。
────ハンターの躍進の背景には、竜人族が関わっていたとされている。
多くの知識と高い加工技術を持つ彼らが以前から各地に散っていたことで、ハンターの武具の生産や金銭取引といった障害となり得る要素は取り払われていた。
つまり、ハンターという存在が世に現れるより前から、既に変革の土台はできあがっていたと言える。
しかし、今の竜人たちに当事者意識はない。
数百年単位で代替わりする彼らの、何世代か前に何かきっかけがあったとされている。しかし、現状で分かっているのはそこまでである。
「儂に案内ができるのはここまでじゃな」
見渡す限りの緑と、青い空。
遠くには飛竜らしき生物が空を舞い、森の中からは竜や獣の鳴き声が絶えず聞こえてくる。
西シュレイドから南東に向かっていった先にある広大な丘陵地帯を、アルコリス地方という。
豊かな水と深い森を湛えたその地には、飛竜や肉食竜が数多く生息し、人の手による探索は全くと言っていいほどに進んでいない。
そんな未開の地の丘の上に、アイハルとヴィルマ、そしてフレアは立っていた。
色褪せつつも丈夫で軽い衣服を身に纏い、正しく旅人といった姿でフレアたちは眼前の景色を見渡している。
「もう聞いた話だろうが、なるべく竜人族のいる集落を探すのじゃぞ。
人を取って食うような部族はいないはずじゃが、余所者に厳しい目を向ける者は多い。君たちの旅が中途半端に終わらぬよう、交流は慎重にな」
「竜人に会ったら、この……竜仙花を渡せばいい?」
「そうじゃ。それで取引を持ち掛ければ、決して悪いようにはされん。滅多に生えておらんが、見かけたら都度一本だけ摘んでおくといい」
「分かった。いろいろとありがとう。アイハルさん」
ヴィルマが礼を言うと、老齢の古龍占い師は笑って返した。
「なに。儂も君たちの動向は気になっていたからな。それに、旧シュレイドや山の龍についても話を聞けたから、十分に対価はいただいておるとも」
アイハルとヴィルマたちは西シュレイドの南端辺りで合流していた。ヴィルマの伝手で、事前に手紙を出していたのだ。
東西シュレイドの垣根なく各地を渡り歩いている古龍占い師にとって、手紙という連絡手段の信頼性は低い。こうして駆け付けてくれたのはかなり幸運なことだった。
アイハル曰く、彼は東シュレイドに現れた山の龍の兆候は掴んでいたものの、実際に観測するには至らなかったらしい。
実際、ヴェルドの図書館でアイハルとフレアが話をしてから、小半年も経たずして山の龍は侵攻を始めている。
あのフレアでも山の龍の後に来たのだから、空でも飛ばない限りは到底間に合わない。古龍占い師としては歯痒い結果だろう。
そこでヴィルマは提案した。誰よりも山の龍を分析し、実際に相対したヴィルマがその見たままを話す代わりに、シュレイドの外の世界について教えてくれないかと。
ヴィルマの隣に立つフレアも、おずおずとだが、禁足地で見聞きしたものを話せる、と持ち掛けてきた。
アイハルは初めこそ難色を示していた。竜人族のしきたりなのか、人には話せないことも多いようだ。
しかし、二人の身を案じたのか、好奇心が勝ったのか、最終的に彼らの提案に頷いたのだった。
『アルコリス地方をさらに南東に進んでいけば、人の集落があるはずじゃ。
彼らも竜には頭を悩ませていて、独自に対策をしておる。始めに行くのはそこが良かろう。
さらに南には大砂漠という砂の海があっての。君たちが生きているうちに辿り着けるかは分からんが、あそこに住まう民族は君たちの参考になるじゃろうて。
北方に住む人々もおるが、東シュレイドよりもなお、寒さの厳しい土地じゃ。足を延ばすには覚悟が必要じゃろうな』
アイハルは布にごく簡単な地図を描き、いくつかの地を指で指し示して語り聞かせた。
竜人族でも未到達の地はまだまだ多く、地図の線は途切れがちだ。それでも、その大地の広さはヴィルマたちを驚かせるには十分すぎるものだった。
さらにアイハルは異文化との交流の仕方についても、伝えられることは全て教えた。
東西シュレイドは内部の問題こそ多いが社会は発達している。それ故にヴィルマたちが戸惑う場面は多いはずだった。
行先で原住民の不興を買って、処刑や軟禁などの憂き目に遭ってしまえば本末転倒だ。自分たちの価値観が正しいと思っての言動は避けるようにと念を押した。
「アイハルさんはこの後東シュレイドに向かうのか?」
「うむ。山の龍の痕跡をこの目で確かめるつもりじゃ。なに、心配はせんでよい。道なき道の歩き方は心得ているとも」
既にサミとクラフタは離脱している。彼らは街道を離れることなくヒンメルン山脈沿いを歩いていき、東シュレイドへと歩みを進めている。
サミとクラフタはそのままリーヴェルへと向かい、アズバーと共に働いていくことになる。彼らが無事に目的地へ辿り着けることを祈るばかりだった。
アイハルと別れれば、いよいよヴィルマとフレアの二人旅となる。
決して順風満帆とはいかないだろう。それどころか、数日後には二人とも命を落としているかもしれない。外の世界はそれくらい厳しい。
毒物や栄養の失調、滑落や寒暖による不調など、命の危険は都市にいるときとは比べ物にならない。
二人が元から持つ知識と経験、アイハルが継ぎ足した知恵でどこまで乗り切れるか。
アイハルの同郷や同業も、何人も行方不明になっている。自然の脅威は竜人族でも例外なくその命を奪う。
ただ、そうやって外の世界を恐れて誰も踏み出さなかったからこそ、シュレイドは閉じた国となった。
現状を変えるには、誰かがつべこべ言わずに踏み出さなくてはならない。ヴィルマとフレアが、その役を負うだけだ。
二人は炎の剣と氷の剣を手放したという。厳しい旅になると分かっていて愚かなことを、と思う人もいるだろうが、アイハルはその選択を支持していた。
今の時代、竜とは戦うものではないのだ。
本質は竜を避けることにある。ひたすらに逃げ、隠れ、欺く。そうやって生き残る。
彼らと戦えるという自負は、最後の最後に引き出すものでいい。
ほとんどの人が持ち得ないその引き出しを、彼らは持っている。であれば、それはここぞというときに発揮されるものでなくてはならない。
炎の剣と氷の剣は、きわめて強力な武器あるが故に、竜と戦わない努力を阻害してしまう恐れがあった。
あの剣を握るだけで、ほんの僅かにでも龍の力を振るえるのだ。理性で押さえ込んでも、本能の過信は避けられない。
であれば、元からその手段ごと放棄するのは潔い決断だ。アイハルはそう考える。
「……アイハルさん。もし、もしもだ。俺たちのことで国から圧力がかかるようなことがあったなら……」
「はは。皆まで言わずとも良い。儂は古龍占い師だからな、彼らが竜や獣に対し臆病である限り、どうとでもしようはあるとも」
手始めに、行方知れずの二名を無理に探ろうとすれば、龍の災いが訪れるやもしれぬ、とでも占っておこうかの、と、アイハルは笑って言った。
ヴィルマは肩をすくめて、フレアは何とも言えない顔をする。あながち間違っていないかも、などという怖い言葉がフレアの口から出る前に、アイハルは身を翻した。
「生き延びなさい。ただそれだけで、叶えられることはとても多いのだから」
「ああ、肝に銘じておく。アイハルさんも、元気で」
「サミとクラフタさんにも、もし会えたら、よろしく」
アイハルの言葉を除けば、その別れの挨拶はありがちなもので、しかし、恐らくはもう二度と再会することはないだろう。
これから先、彼らを俯瞰する語り手はいなくなる。彼らの行末は、彼らだけが知り得るのだ。
ヴィルマがアイハルに語った理想は興味深いものだった。
竜に対して集団で抗うのではなく、個人で渡り合う未来。竜との戦いに特化した戦士のフレアがヴィルマに見せた希望。
閉じた世界にいる人は決して思いつくことはなく、竜人もまたその発想には至りそうもない。
竜人族は良くも悪くも長生きで、欲や生き方が自己完結しがちだ。人のように継承することを重要視せず、あるがままに任せることが多い。
アイハルもその例に漏れない一人だった。古龍占い師という役は人が与える称号に近く、自分の気の向くままに探求し、生を全うつもりでいた。
しかし、もしヴィルマの理想が百年後か千年後かに実現してしまったなら。
古龍占い師たちもまた、そのときに新たな段階に立つのかもしれない。
流石のアイハルでも、そこまで生き永らえることは難しいだろう。
竜人族にしてはごく珍しい、人の歴史について興味を持ち、龍を占う片手間で人の動向を追っていたアイハルとしては、ヴィルマの思い描く景色が見れないことが、少しばかり惜しかった。
様々なことを割り切ってしまえる竜人が未練を抱くこと、それ自体が稀なことだ。
だからこそ、数年前には決して考えもしなかったことが思い浮かび、アイハルはふっと笑って独り言ちた。
「ふむ。弟子を取ってみるのも、良いかもしれんな」
────シュレイド地方においては、かつてより空白の歴史が多く、言論統制の風潮が根強いとされている。
その中にひとつ、小さな不思議として、ある時代の古龍渡りに関するものがあった。
百年に一度の周期で起こるとされる古龍渡り、その被害は各地で言い伝えられている。
その時代、東シュレイドでは老山龍と思わしき龍の侵攻があった。東シュレイドの各都市は大きな被害を受け、後の遷都にも繋がったとされている。
一見すればそれこそが渡りの古龍だ。後にも先にもない大災害だったのだから、疑う余地はないように見える。
しかし、この古龍渡りの歴史には不可解な点があった。
老山龍の現れた時期と進路、どちらも古龍渡りの傾向とは微妙にずれている。ただ、それだけであれば誤差の範囲と言えなくもない。
この災いが起こるより前の数十年の記録が、抜け落ちたか書き換えられた、そんな痕跡があるのだ。
────本当に渡りの古龍は老山龍だったのか?
空白の歴史の中に、何か別の災いが潜んでいたのではないか?
検証する手段はない。東西シュレイドの歴史書は黙して語らず、隠し通せる程度なら、実際に何かがあったとしても掘り返すには値しないとみなされている。
ただ、この不思議には二点、蛇足と言えなくもない噂があって、その一つが、山の龍(老山龍)の侵攻はある咎人が意図的に引き起こしたというもの。
もうひとつが、ある二人の戦士と二本の剣にまつわる、短くも悲しい恋物語が、この時代のこの地に端を発しているというものだ。
「『氷炎剣ヴィルマフレア』?」
「そうだ。ヌシの目の前にある双剣の銘じゃ」
現在。時は物語のように過ぎ去った。
シュレイド地方の南東に築かれたドンドルマという街の中心部にて。
ひとりの少女と、その背丈の数十倍はあるだろう大男がそれぞれ言葉を交わしていた。
大老殿と呼ばれるその施設は、ドンドルマの政治の中心であり、ハンターズギルドの総本山でもある。限られた人のみが立ち入ることのできる要衝だ
少女はまるで雪の精のような出で立ちをしていた。絵画の中から出てきたと言っても差し支えのない程に白く儚く、なめらかなドレスを身に纏っている。
対する大男はもはや巨人と見紛うほどだった。身長に大きな幅のある竜人の中でも一際大きく、飛竜種とすら張り合えてしまうだろう。
全身に鎧を身に纏い、人が見上げるほどに長大な太刀を腰に提げるその姿は、彼こそがドンドルマとハンターズギルドの首領であることを何よりも証明していた。
「ずいぶんと古びているのね」
「打たれてから長い年月が過ぎているのだろう。百年か、千年か……もはや僅かな熱を残すのみよ」
大老殿には歴史的な価値のある武器が安置されている部屋がある。
世にも珍しい銀火竜の素材を用いた白銀の銃槍であったり、精巧な彫刻でそれ自体が芸術品とされる鋼龍の弓であったり。
大長老が持つ刀も、彼が現役を退いた日にはここに保管されることになるだろう。
氷炎剣ヴィルマフレアと呼ばれたその双剣は、他の煌びやかな武器たちからすると、一見して地味なように見えた。
その刀身はくすみ、色褪せている。元は美しい緋色と銀色の剣だったのだろうことだけが窺えた。
「鋼龍と炎王龍の角、粗削りだけれど、だからこそ今でも余韻を保っていられるのかも」
「ほう、よく素材を言い当てられたのう」
「それくらい感じ取れるもの。ねえ、この剣はどうしてここに飾られているの?」
この場において、大長老と少女以外の人気はない。人払いがされているのか。
少女の仕草は可愛らしく、何気ない問いを父母に投げかけているかのようだった。
「ウム。どれくらい前のことだったか、東シュレイドより訪れた男が持ち寄ってきたのじゃ。
その双剣は男の家で代々大切に受け継いでいたが、時代が変わるにつれ、より相応しい場所に移すべきと考えたそうな。
ただの剣ならば取り合わんが、古の龍の武器ともなれば話は別じゃ。丁重に譲り受けたという次第よ」
そもそも、どのようにして古龍の角なんぞを手に入れたのか、まったくの不明じゃがの、と大長老は付け加えた。
大長老の疑問も当然のことだ。仮にもしこれが千年前につくられていたとして、その時代にハンターはいない。
それどころか、ドンドルマすら築かれておらず、竜や龍に抗う手段は極めて限られていたはずだ。
そう考えると、千年前に鍛造された古龍の武器なんて俄かに信じ難い存在なのだが、目の前の古びた双剣は事実としてそこにある。
「譲り渡してくれた人は、何か言っていなかったのかしら。この剣にまつわる逸話とか」
「もちろん語ってくれたとも、しかし、この剣の直接の由来に関係するものではなかったのう」
「聞かせてもらっても……いえ、銘板の下に刻まれているわね」
口頭で伝えられたものを、忘れたり憶え違えたりしないように書き記したのだろう。銘板に刻めば、文字が掠れていくこともない。
少女が覗き込んだその銘板には、次のような短い物語が記されていた。
『愛し合いつつ殺し合う運命に陥った戦士二人の伝説。死後、刀だけが双剣として結ばれた』
「……なるほど、そういう結末に導いたのね」
「ム? 何か気がかりなことでもあったか?」
「いいえ、何でもないわ。何でもないのだけど、ただ──退屈しないなあと思って」
少女は深い笑みを浮かべて銘板から離れると、軽くステップを踏んだ。ドレスの裾がふわりと広がる。
なんという悲劇だろうか──その感情を表現したのだろう。
作品に対する敬意をこめて、古龍の角が色褪せるほどの歳月に思いを馳せて。
やがて少女は大長老に対してでなく、天井、あるいはその先の空へ向けて、微笑みかける。
片目を瞑り、人差し指を唇に当てた。
大切な隠し事を、共有するように。
「語り継がれるべきでない戦記や英雄譚も、きっと、ね?」
「さて、格好つけて見送ったはいいが、まずは地道なところから始めていかないとな。さっき見つけた水源まで下っていこうか」
「…………」
「おや、どうした?」
「……新しい命令がなくなったの、初めてで。少しびっくりした」
「ははっ、ようやく実感が湧いたか。まあでも、恥ずかしながら俺もなんだ。今まで部下がやってたことも多いから、何から何まで自分でってのは不思議な感じがする」
「自由ってけっこう、大変」
「自分で考えて行動しないとだからな。しばらくここで空でも眺めておくか? いろいろと慣らしも必要だろうし」
「……ううん、大丈夫。行こう、水源まで下るんだよね」
「ああ、水を飲みにくる竜もいるだろうから、慎重にな」
「他に、あなたがやってみたいことはある?」
「そうだな、せっかく君を引き入れられたんだから、試作の武器で組手をしてみたいな! 木と蔓だけで作れるだけ作ってみようと思ってるんだ。それと……」
「……ふふっ」
これにて本編終了となります。
本作では番外編や過去編などは考えていないため、このまま完結の予定です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
後書きは気が向いたら書こうかなと思います。
感想などいただけますと嬉しいです。