第24話 殺し合う運命へ
「本当に、そこまでやらなくちゃいけないんですかにゃ……?」
しとしとと細い雨が降りしきり、屋根に伝った雫が数珠のように地面へと落ちていく。
暖炉の火を光源として仄かに照らされた一室で、サミの不安そうな声が響いた。
「でも、国からの任務だから」
「フレアさまの話を聞く前までは、口出しはしなくてもいいって思っていましたにゃ。でも、話を聞いた後だと、とても得体が知れなくて怪しく感じてしまいますのにゃ」
「それは、私もそう思う」
「なら──」
「それでも行くって決めたのは私。……私は、シュレイド城に行く」
はっきりとそう告げたフレアに対し、シュレイド城という言葉を聞いたサミは僅かに体を強張らせた。
十数日前、生々しい傷を負ったままでフレアはサミの元へと帰ってきた。
任務先で瀕死の重傷を負うようなことはこれまでも何度かあったが、いずれも帰還してくるまでに応急処置は済ませてあった。
だから、ろくに止血すら済んでいないフレアと対面するのはサミにとってほぼ初めてのことだった。
そのままフレアの付添いでいつもの診療院へと行き、流れるように入院となった。
幸い命に関わるような怪我はなかったため、比較的短期間で退院の流れとなったのが数日前のことだった。
そして今、フレアの手元には、もう見慣れてしまった西シュレイド王室からの封書が置かれている。
既に封を解かれたその紙には、次の任務が簡潔に記されている。いやというほどフレアを振り回し、絶対に従うことを刷り込まれた命令だ。
いつにも増して余白が多く、ほとんど文字の書かれていないそれは、どこか言い捨てるようなそっけなさを感じさせた。
ヴェルドを北進し、禁足地の偵察を行うこと。
そのまま東西シュレイドの国境を越えて、東シュレイドの前線都市リーヴェルへと赴き、領主ヴィルマを暗殺すること。
ただそれだけの文にも、気にするべき点はいくつかあった。
いつかの金の獅子をも巻き込んだ暗殺任務で、フレアの証言と異なり、ヴィルマが生き永らえていることが把握されているだとか。
城塞都市ヴェルドを混乱の渦へと陥れた黒紫の怪鳥の一件について、全く触れられていないだとか。
しかし、それらを全て些事とせざるを得ない言葉が、文頭に置かれている。
今のフレアは、禁足地という言葉に覆い隠された本当の地名を知っている。
断崖絶壁と鋭く入り込んだ海とで通ることができないというのは、建前に過ぎない。地質が脆く崩れやすいというのも方便だろう。
けれど、東シュレイドと国境を接するにあたって、有事のために、あるいは近道をするためにその地へ足を踏み入れていった人たちは軒並み帰ってこなかった。その話だけはきっと事実だ。
東西シュレイドがまだ分かたれていなかった頃の遺物であり、フレアの先祖が住んでいたとされる土地。
厄災に見舞われ、逃げ延びていく中で彼らは振り返ってそれを遠くに見たのだろう。
以降、その地の現状を目で見て確かめて報告できる者はいなくなった。
かつて栄華を誇った国の王城と都市、シュレイド城がそこにある。
今までさんざん辺境へと飛ばされ、東シュレイドの内地にまで立ち入ったことのあるフレアだが、シュレイド城がある北東方面へは足を踏み入れたことがない。
今の王室ですら、あの地に触れるのは避けていた。それを、今回は堂々と名指ししている。どのような心境の変化があったのか、下民のフレアには伺い知れない。
ただ、経緯や意図はどうであれ、命令は命令だ。
自分が王室の傀儡であるという自覚を得られても、その縛りから脱け出す方法を学んだわけではない。
それに、サミに直接は言っていないものの、フレアは自分の意思でその任務を遂行しようとしていた。
拒む理由がないだけなのだが、サミにそれを理解してもらうのは難しそうだった。
古龍占い師のアイハルの話を聞き、自分自身の、フレアという人物にまつわる様々な歴史や因果を知った。
封じ込めていた記憶が連鎖的に蘇ってきて、自身の過去と今との繋がりついて自覚を得た。
たった一月の間に起こったそれらはまさに激動の日々と言えるものであった。
けれど、フレアは未だに、快か不快かに関わらず、満足のいく答えが得られたとは思えないでいる。
もはやそれは底なしの衝動だった。知識欲とはまた違う、探求心と呼べるほど高尚でもない。まるで引きずり込まれるような貪欲だ。
これ以上はたくさんだという思いも少なからずはある。もし本当に底なしだったのなら、行く先はろくでもないだろうこともなんとなく想像はつく。
灯火に惹かれた羽虫がふらふらと飛んで筒の中に入っていき、当然のように死んでいく。本能的なものに抗えないのだろうが、今のフレアと違うとは思えなかった。
フレアの一族の基点がシュレイドにあるとするならば、フレアがシュレイド城に行くということを、どう拒むことができようか。
それは一族の悲願であったのかもしれないし、忘れ去ってしまいたい禍根だったのかもしれない。ただ少なくとも、因縁は刻み付けられているだろう。
いつかはあの地に帰りつく。そうと教えられたわけでもないのに、フレアは想像上の「一族」からそう告げられているような気がした。
あるいはそれは、物語的に言うならば、シュレイド城を故郷としていた人々は皆そうなのかもしれない。このヴェルドはほとんどの人がフレアのような遺民とは違う、現地の民なのだ。
機会を与えられたなら、フレアはシュレイド城に進んで赴く。焼き討ちによってフレアの母の代で途切れた、言い伝えるべきことが何なのかをこの目で確かめに行く。
幸か不幸かに関わらず、それがフレアの選択だ。
まるでシュレイド城を最終目標とするような語り草だが、実際には、フレアはその地を越えていく必要がある。
そんなことができるかどうかは別として、その先にあるだろう東シュレイドの、前線都市リーヴェルを目指さなければならない。
地図上ではヒンメルン山脈を回り道するよりもよほど近い。けれども、それで行程も短くなるということはまずないだろう。
そして三度、フレアはヴィルマを殺しに行く。
依頼主の西シュレイド王室からは、半ば妄執じみた執念深さが感じられた。いったい何に執着しているのか、もはや理屈どうこうの話ではないのだろう。
フレアが刺客になるということそのものに意義がある。そうでなければ、二度も任務をしくじっているフレアを起用しようとは思わないはずだ。
現状、これこそが最も不可解で気になっていることなのだが、これの答えもまた、シュレイド城にあるのかもしれない。
あるいは、これまでの知識を携えた上でヴィルマと話すことができれば、何らかの手がかりを掴むことができるだろうか。
ヴィルマの生存が明らかになっていることについては、ヴィルマの立場上、時間の問題だったと考えることもできる。
その情報の延長線上にある、ヴィルマとフレアが文通をしているということについても、把握されているのか、否か、はっきりしていない。
どうやって、というところに着目するとたちまち信じられなくなってしまうので、あえて深く考えないでおく。
ヴィルマとフレアも、そして手紙の運び人であるクラフタも他者の探りに一切気が付かないほど勘は鈍くないはずだ。
強いて言うのであればクラフタ絡みだけれど、その方がむしろ話が分かりやすいし、彼に頼りきりになっている以上、諦めもつく。けれど、恐らく違うだろう。
そういえば、とふと思考が脇道に逸れる。
金の獅子との戦いでフレアはヴィルマの死を偽装して王室に伝えたが、あれはフレアが王室からの命令を意図的に躱したと言えないか。
今更ながらに驚く。これまで任務を十分にこなせなかったり、疲れて力を抜くような場面もいくつかあったが、最終的に従うことからは逃れられないと思っていた。
当時はごく自然にそう判断したものの、あの判断は驚くほど柔軟で、フレアらしくないものだった。王室の命令に従って死地に赴こうとしている今、改めてそう思う。
あの判断をしてから数年が経ち、今のフレアと何が違ったのか。
その問いへの回答は、やはり記憶と知識の有無の他になかった。無知だったからこそできた選択というのは、なんだか皮肉めいていた。
そして、これまでに考えてきたことが、フレアがヴィルマを慕っていて、彼と話をしたいという想いから組み立てられた理屈だとするならば。
たとえそれが、彼を殺すべく相対するものであったとしても。
そんなはずはないと内心で否定をしたかった。
けれど、十数日前の自分が、打ち壊された街の中で信じられない程に取り乱したフレアの、あの跪く姿がフレア自身をも疑わせ、ある種、認めさせている。
いつかの日、金の獅子との戦いの後、ヴィルマはフレアの傍で項垂れて、満身創痍でフレアの手を握っていた。
あのとき、彼ほどの人でもここまで弱ることがあるんだ、と心のどこかで思った。一度殺し合い、手紙を読む限りでは、とても心が折れるとは考えられかったからだ。
数十日前のフレアは、まさにあの光景と表裏一体のように思えた。次は自分にその順番が回ってきた、とさえ思えた。
フレア自身は自分の心身をそこまで強いとは思っていない、竜に比べれば弱いとさえ思っている。
ただ、心も体も疲弊するようなことがあったときに、ふと誰かの手を握りたくなる、そんな機微が自分にもまだあったというのが、小さな気付きであり、驚きでもあった。
これらのことをサミに説明するには、とてもではないが時間も、そしてフレアの語彙も足りない。
語っている途中にフレアの方が混乱して、何を語っているのかも分からなくなる、そんな気がした。
それに、この件でサミに深入りさせると、ひょっとするとサミにまで何らかの影響が及ぶような気がしている。
フレアの過去を明かした時点で手遅れかもしれないし、翻せばサミとしては危険も承知済みだろう。
けれど、フレアとしては、これまでよくしてくれたサミに対してこれ以上は、という想いを拭いきれない。
言葉に優れたサミでも表現しづらい、微妙なせめぎあいのような雰囲気がそこにはあった。
けれど、サミも、特にフレアが、言い争うことを望まない。
フレアの家にずっといてくれるサミに対して言葉足らずなのは、いつも、全面的にフレアが悪い。フレアはまた、サミに対して一言だけ謝って旅立っていく。
「ごめん、サミ。もし戻って来れたら、ちゃんと話すから」
「にゃ……わかりましたにゃ。今回は本当に大変そうな任務ですけれどにゃ。いつもみたいに生きて戻ってくることを願ってますにゃ」
「ありがとう」
結局、あまり多くの言葉は交わさなかった。
支給された物々しい防具を荷物にまとめて、最低限の探索道具を鞄に詰め込み、出立の準備を整える。
先の戦いでは耳と腕をやられたが、それ以外に重傷と呼べるものはなく、体力は戻っていた。遠出をするのにも問題はないだろう。
古龍占い師のアイハルに挨拶をするべきかともフレアは思ったが、あの黒紫の怪鳥の一件以降、彼は不在にしているようだった。何かまた、占いで忙しくしているのかもしれない。
そうしてフレアは旅立つ。自身の赤髪や黒い煤の腕、痛々しい傷痕が目立たないように、夜中に。
物盗りはいるが、フレアが逢うことはない。それはこの貧民街の一角における暗黙の了解であり、彼女の容姿も、国が絡むという事情も、彼女が忌避される要因になっていた。
遠くで木々が打ち合ったり、喧騒のような音が聞こえる。黒紫の怪鳥とその迎撃のための投石により破壊された区画で騒ぎが起こっているのだろう。
黒紫の怪鳥はその容姿も、どのような破壊をもたらしたかも全く伝わっていないようで、根も葉もない噂が広がって民衆を不安に陥れている。
遠く喚声が上がる中を、ひっそりとフレアは歩いていった。
その後ろ姿はおおよそ、この街を竜の襲撃から守るべく戦った戦士とは思えないものだった。
サミというアイルーにとって、フレアという主人は気前よく仕えることのできる存在だった。
アイルーという種族は人と違って、歴史や血筋というものに対してわざわざ制限せずとも興味が薄い。個体差はあるが、刹那的に生きている者がほとんどだ。
もし、サミがフレアのいう一族と何らかの繋がりがあったような気がしていても、代替わりの内に継承されなくなっていたのだろう。
サミ自身も、自身の経歴についてそこまで関心はなかった。そんなことよりも、もっと大事なことは別にある。
「にゃあ……」
心なしか鳴き声が出る。ひとりで過ごす時間はサミにとっての日常だったはずなのに、この日、フレアが出発した後の部屋はひどく広いように感じられた。
診療院での療養に入ってからというもの、フレアの様子がおかしいことをサミはひしひしと感じ取っていた。
表面上はいつもの淡々とした雰囲気を装ってはいるものの、時折深呼吸を繰り返すような仕草があったり、眠りが浅いのか、よくうとうととしている。
普段は顔を合わせない診療院の先生すら、フレアの異変には気づいたようで、傷口から病が入ったか、あるいは心の病か、と勘繰っていたほどだった。
それでも、フレアの復帰は早かった。血塗れでまともに会話もできないくらい耳をやられていたのに、ものの十日休むだけで回復してみせたのだ。
ここ数年でフレアは、特にあの炎の剣を手に持つようになってからというもの、確実に腕は煤塗れでぼろぼろになっているのに、傷の治りはむしろ早まっているように思える。
件の竜の襲撃で診療院にも怪我人が数多く押し寄せていたため、必要がなければ長く療養することもできず、フレアとサミはすぐに自宅へ帰ることとなった。
そして、そんなフレアたちを出迎えるかのように西シュレイド王室から支給品が届き、フレアをさらに追い詰めるような任務が下された。
街の混乱やフレアの遠征の準備で、十数日という時間の中ではほとんど話すことができなかったように思う。
いや、どちらかと言えば、フレアが一方的にサミに話すような場面が多く、サミの発言が少なかったからそう感じているだけなのかもしれない。フレアの口数は、ある意味で多かった。
フレアが古龍占い師のアイハルという人物に出会って聞いた彼女自身の経歴を、フレアはサミにも語って聞かせた。
フレアもまた、サミに向けて話すことで膨大な情報を整理しようとしていたように思う。時折僅かに表情を歪めたりしたときには、大抵昔の記憶絡みのことを話していた。
幼い頃のフレアが現王室だろう人々から受けた仕打ちは、フレアが自覚している以上に重大なものだと、サミは思った。
教育を受けた本人の話なので信憑性は低いかもしれないが、もしあの話が過分や偽りのない事実なら、それはもはや洗脳と言っていい。
幼少期の記憶を一度飛ばすという選択を、無意識の内に取ったのも仕方がないように思えた。頭を打って記憶を飛ばすのと、フレアの選択とで何の違いがあるだろう。
洪水のように流れるフレアの昔語りに、サミが口を挟む余地はなかった。
フレアが頻繁に壁内の図書館へと足を運んでいた経緯だとか、古龍占い師のアイハルとやらは何者なのかとか、いろいろと気になるところはあっても、フレアの側にその問いに答える余裕がなさそうに感じたのだ。
そして息つく暇もなく、フレアはこれまでで最も重大に捉えなければいけないはずのシュレイド城行きを決めてしまった。
サミにできたのは、食料と傷薬を彼女に渡したくらいだ。何もかもが慌ただしく、それらが過ぎ去った今がどこか虚しく感じる。
本当に突然すぎる。どうしてこんなことに、とサミは思う。
フレアが古龍占い師と夜通し話をして自らの過去を知り、黒紫の怪鳥の襲撃に立ち会うまで一日とかかっていない。
それまで一年、二年と足踏みの状態が続いたのに、まるで足枷が解かれたかのように一気に話が進んでいる。物事はままならないものとはいえ、極端すぎるように思えた。
足枷、まさにかつてのフレアは目に見えずともそれを括りつけられていたと言えるだろう。
状況が突然進展したのも、その理解ができるだけの教養を何年もかけて身に着けてきたからだ。そうでなければ、ただ混乱するだけで終わっていたはずだ。
西シュレイド王室がどこまで事情を把握しているのかは依然として分からないが、既に彼女は解き放たれた。それが決して喜ばしいことではないということは、サミにも分かる。
いつか無茶な任務で死んでしまうかもしれなくても、何も知らないでいれた日々は、もう戻ってはこない。
凄惨な過去を知り、国と一族の歴史を知り、フレアはもう止まらなくなってしまった。
本当に、どうしてこんなことに────思考を整理しようとして、サミははっとした。
何を、サミというアイルーはさも無関係であるように振る舞っているのか。
「みゃーが、勉強を教えたからにゃ?」
フレアがきっかけを掴んでしまったのは、学徒として城壁の検問を通れるようになり、そして図書館で本を読めるようになったから。
ヴィルマ氏の手紙が始点であったとはいえ、それだけでは本来交わらない道筋のはずだったのだ。読み書きの技能だけでは、壁内へは入れない。
フレアを過去の因縁へと引きずり込んで、思索の末にかの禁足地へと駆り立てたのは……フレアの望み通りに勉学を教えたサミではないか。
「にゃ、にゃあ……」
教養には、責任が伴う。
動揺を隠しきれず、サミはぺたんと尻尾を下げた。
知らなかった、このようなことになるなんて思いもしなかったのだ。
フレアが何か隠し事をしていることは分かっていた。けれど、文章を書く技術を上達させて、よりしっかりとした返事を書きたいという彼女の想いもまた偽りのないものだったから。
言い訳も、後悔も先に立たないとしても、今のサミにはできることがない。
王室からの標的となっているフレアの、その付添いが今まで何の危害も加えられなかったのは、決して偶然ではない。
ひとえにサミがアイルーであり、フレアの事情には深く関わらない姿勢を貫いてきたからだ。
何かしようと思い立つことさえ、今のサミには重すぎる。
ただ意気消沈するばかりだったサミは、しかし、コンコンと戸を叩く音がすることに気が付いた。
フレアが戻ってきたのだろうか、そんな僅かばかりの期待を込めて、背伸びをしながら戸を開く。人用の家具はアイルーには総じて大きかった。
返事をして、念のために戸を半開きにして誰が訪ねてきたのか確かめようとすると、そこには、ひどく縮れて埃塗れになったかのようなアイルーが立っていた。
「にゃっ……!?」
「ま、まってください、クラフタ、クラフタですニャ」
「にゃ、にゃぁ……? みゃーが知っているクラフタさんとは毛並みがぜんぜん違うし、声も嗄れてますにゃ」
「この前の火事に巻き込まれてしまい……」
クラフタらしきアイルーのその話を聞いてサミは、黒紫の怪鳥の襲撃によってクラフタもまた重傷を負ったというフレアの話を思い出した。
恐る恐る戸を開けると、そこにはやはり以前のクラフタとは似ても似つかないアイルーの姿があった。
真新しい灰色の外套は新調したのか、それで隠そうとはしているものの、よく見れば身体の方はぼろぼろだ。まだ傷が癒えていないのだろう。
「分かりましたにゃ。入ってくださいにゃ」
半戸のまま、フレアはそっとクラフタを部屋へと招き入れる。
時期が時期だ。何度か辺りを見渡そうとしたが、クラフタがそれを制した。彼の方で監視の目などが無いことは確認済みなのだろう。そう言えば、彼はそういう業界の仕事人だ。
「お待たせしましたにゃ。要件は何でしょうにゃ?」
「フレア様への手紙の件で謝罪に来ました。これまで療養をしていたので」
「それなら……少し遅かったですにゃ。フレア様はもう次の任務に出てしまいましたにゃ」
「もう、ですか」
「はいですにゃ。詳しくは、聞かないでほしいですにゃ」
サミはそれきり黙り込み、両者の間に沈黙が流れた。
クラフタはそれだけで何かを察したようだった。縮れたひげが揺れている。
これまで、サミやフレアの側からクラフタに対して特に深い話はしてこなかった。何かクラフタが情報を掴んでいるなら、それは彼の本来の主人であるヴィルマ氏からということになる。
ただ、何にせよ、当事者であるフレアはここにはいない。せめて伝言として預かっておこうとサミが口を開きかけたところで、クラフタがそれを遮った。
「フレア様が出立されたのはいつ頃ですか」
「にゃっ? だいたい数刻前くらいですにゃ……でも、夜中に出ていったから後を追うのは難しいと思うにゃ。それに……」
サミが言葉を重ねようとしたところで、クラフタが再度それを遮る。
「フレア様を追いはしません」
「にゃ? 違うのですかにゃ?」
「ええ。ただ、こうしてはいられなくなりましたので、申し訳ないですがこれで失礼させていただきます。こうなれば時間との勝負だニャ」
首を傾げるサミとは別に、クラフタは床に置いたばかりの鞄を手に取った。言葉通り、すぐに出ていくつもりのようだ。
「ま、まってくださいにゃ? 一体どうするつもりなんですかにゃ?」
「……リーヴェルに行きます。ヒンメルン山脈を迂回するルートで。今ならひょっとしたら、間に合うかも」
「でも、クラフタさんの怪我は……」
「なんとか誤魔化します。それに──」
クラフタは珍しくまっすぐにサミの目を見た。
先ほどまで涙目で、不安げに揺れていたサミに対し、クラフタは大きな怖れを抱きつつも、静かな決意を宿していた。
「お得意様の信頼を取り戻すためなら、手紙屋は意地になりますニャ」