旧シュレイド王都へと続く街道は、整備されずに何百年と時が経っているにも関わらず、やけにしっかりと面影を残して先へと続いていた。
風化が進んでいる様子はある。石畳の割れ目からは草木が顔を出し、木々の根や地盤の沈下によって畝って破綻しているところもある。
ただ、それらは結局途切れきってしまうことはなかった。ところどころ沼や小川に沈んでいたり、土に埋もれてしまっていても、どこかで道は続いている。
普段から任務で僻地に飛ばされているフレアにとって、道があるというのはそれだけで多少はありがたく感じるものだ。
けれど、今回はそういったありがたみを覚えることはなかった。むしろふと足を止めてしまいそうな、得体のしれない不気味さを感じさえもする。
その名状しがたい不穏さは、この道の伸びていく先に広がる空模様にあるのかもしれない。
彼方に見える空には、幾重にも雲が折り重なっている。
天高く立ち昇るわけでも、雷を走らせているわけでもないが、まるで何かを覆い隠すかのような仄暗さがそこにはあった。
それらの雲にも陽光は等しく降り注ぎ、夕焼けにも似た茜色を返す。より間近に、あの雲の真下で見れば、何層にも渡る壮大な雲海を目にすることができるだろう。
城塞都市ヴェルドからでは、この雲の流れを見ることはできなかった。ヴェルドから何日もかけて歩いて、ようやく視界の端に見えてきたか、という感じだ。
ただ、それくらい距離を離すのも道理だろう。空の端にこのような雲が立ち込めている中で、安心して生活を送れる人々はそういないはずだ。
一見すれば綺麗と言えなくもないとフレアは思う。ただ、現地に入って同じような感想を抱けるかと言えば、それはきっと違うのだろうとも思った。
この辺りはもう禁足地に入っていて、人や集落の気配は一切感じられない。
それどころか、フレアが覚悟をしていた竜との遭遇すら起こることはなかった。おかげでここまでの行程は想定よりもずっと早く進んでいる。
本当に、シュレイド地方には竜がいないのだろうか。そんな気さえしてくるが、それでは金の獅子や黒紫の怪鳥の件と矛盾するだろうと気を引き締める。
東の方角を見れば、相変わらず
あの山々を目印に、他の山脈と間違えることなく歩みを続けていければ、いずれは旧シュレイド王都を通過して東シュレイドへと辿り着くはずだ。ヒンメルン山脈を迂回するいつもの道のりよりも、ずっと早くに。
けれど、そう簡単に事が進むのであれば、ここは禁足地にはなり得ない。
そうか、とフレアは思った。
もう既に、生還者が誰もいないという場所へ、フレアは足を踏み入れているのだ。
フレアは咄嗟に、これまで歩いてきた道のりを振り返ろうとした。
枯草の入り混じる草原を踏みしめ、幾度となく森を抜け、いくつかの丘陵を乗り越えた。
足跡などすぐに景色の向こうに途切れるだろうに、それを見たくなったのだ。
けれど、フレアは僅かだが鋭く息を吸って、その行動を押し留めた。自らの直感が、決して振り返るなと警鐘を鳴らしていた。
いや、どちらかと言えば、常に前方を警戒し続けろという警鐘か。振り返ることで、気が緩んでしまうことそのものを直感的に恐れているのだ。
その前方には、あの鮮やかな茜色と暗い灰色の同居する空が見える。
フレアはただ黙々と、廃れた街道に沿って歩みを進めていた。
フレアの顔には、決して治ることのない火傷の痕がある。
初めにそれが刻まれたのは、年少の頃だ。国の手の者に捕まって教育を受けていたときに、熱されて真っ赤になった鉄を顔に押し付けられて、そのときの火傷がそのまま残った。
爛れた皮膚は変色し、乾いた土のような無数の皺をつくり、元に戻ることはない。
その傷をなぞって、感傷に浸ることもできなくはなかったのだろう。しかし、数年前からそれはできなくなった。
上書きされたのだ。より広範囲に、顔の約半分を覆う程の新たな火傷によって。
あの日の、炎の龍との邂逅によって。
フレアの腕には、生涯消えることのないだろう火傷の痕がある。
それはかの炎の剣がもたらしたものだ。火は逆流し、柄は蕩けるほどに熱く、満遍なく手と腕を炙っていく。
フレア自身が煤の腕と形容するように、その手はもはや異形と見紛うほど黒く硬化したものとなっていた。罅割れの内から滲む血は、いつか見た火山のようだ。
ただ、どうしてだろう。まともに文字も書けない程に感覚が鈍化し、このまま焼き切れてしまいそうに思われた腕は、しかしいつからか戦いに馴染むようになっていった。
それどころか、その手はフレアの身体と繋がっていながら、まるでフレアのものではないような振る舞いを見せつつあった。
診療院の医術師が言っていた。黒紫の怪鳥との戦いにおいて、フレアの腕に打たれた毒は、本来すぐに対処しなければ命すら危ぶまれる危険なものだったという。
しかし、あのときのフレアは多少対処はしたものの、薬草だけでその場をやり過ごし、そのまま戦闘を続行しただけでなく、クラフタの救助まで行っている。
戦いの後の傷の治りも、かつてより早くなっていた。かつての方がより若く、古傷も少なかったというのに、だ。
一見すれば良いことのように見える強靭さはしかし、それだけフレアが戦いに適した身体になっていくことを指していた。
どれだけ深い傷を負っても、真っ黒な手を付いて立ち上がるフレアの姿は、もはや敵が竜だったとして、どちらが化物か分からないとすら言えるかもしれなかった。
フレアは、フレアという名は、それだけは記憶から零れなかった自分の名前であると断言できる。
故にフレアは、まるで自らの躰が炎に包まれているような熱感を覚えても、ただ苦痛なだけでなく、ある種それに委ねようとする安堵をうっすらと感じていた。
自身はそう在るべきだと、物語的には、そういう宿命なのだと証明されているようで、その期待は裏切られないから。
何をどう足掻こうと、火と紅からは逃れられない。彼らと共に、一体となって歩む。
『フレア』は正しく、炎の申し子だ。
ふと疲れを感じ、傍にあった石垣の破片に腰を下ろすと、がしゃんという金属の擦れる音が響いた。
旅の途中から身に着けていた、黒い鎧に胡乱な目を向ける。着慣れていないからか、妙に疲れるような感覚があった。
一年半ほど前からだろうか、危険な竜との戦いや未開地への遠征といった過酷な任務に代わり、僻地での鉱石採掘の護衛が主となった時期があった。
フレアとしては普段よりも楽なので特に不満もなく、何を掘りに行っているのかは知らなかったのだが、今になってなんとなく察しがついた。
恐らくはこの黒い鎧の材料となる鉱石を探していたのだろう。国で保有している鉱山は別にあるのに採掘に出かけていたのはそのためか。
鉄の鎧よりも軽く、硬く、丈夫だ。そういった素材にありがちな脆さもなく、しなやかな作りをしている。
これまでとは一線を画すとはこういうことなのだろう。飛竜の皮や鱗を鎧に使ったらこんな感じなのかもしれない。
西シュレイドの工房技術は多くが秘匿されていて、フレアにも加工の知識はないのであまり詳しくはないが、こんな鎧が作れてしまえるものなのだろうか。
今まさに現物を支給されているという証拠はあるものの、事実であればいきなり技術が飛躍的に伸びたとしか言いようがなく、僅かな訝しみがあった。
しかしなんにせよ、今、この黒い鎧に助けられているのは否定のしようがなかった。
困難な場面から生きて脱することにかけては玄人といえるフレアだが、これまでの装備であれば無事では済まなかっただろう。
旧シュレイド王都は、竜や獣たちの巣窟と化していた。
ヒンメルン山脈と西竜洋とに挟まれた広大な平野、東西シュレイドが軒を連ねるシュレイド地方に竜はいない。それが人々の認識であり、歴史が証明する事実でもある。
ただ、今この時をもって、フレアはその説は誤りであるとはっきりと認識した。
付け加えれば、それはフレアの推測になるが、シュレイド地方にいるはずの竜が旧シュレイド王都に集中していて、だから一見して東西シュレイドは平和に見えているのかもしれない。
焦げ付くように変色していた空の下では、不自然に隆起した大地が一帯を取り囲み、山々に囲まれた盆地のような地形ができあがっていた。
その周辺は逆に大地を引き裂いたかのような巨大な谷ができあがっていて、飛竜でもない限り迂回することはできそうになかった。
市井の人々の間で通説となっている、険しい地形によって通行ができないという話はある意味では間違っていなかったことになる。
さらに近づくと、これまで目印にしてきたヒンメルン山脈の峰が峡谷に阻まれて見えなくなった。
太陽や星々も積層された雲に隠されて垣間見える程度にしか見えなくなり、正しい方向を把握することができなくなる。あとはフレアの感覚頼りとなった。
代わりに見えてきたのは、広大な石造りの廃墟だ。
破棄された集落や、旧時代の建築物らしき建物であればフレアも任務中に目にしたことがある。しかし、それらはそこにあるものとは到底及びのつかないものだった。
つくりとしては、城塞都市ヴェルドの壁内にある石造りの建物が近いような。あそこまで豪華なものではないが、庶民が暮らすにしては十分に立派だ。
ただ、かつてフレアが訪れた前線都市リーヴェルの街並みにも似たようなものを感じ、これと同じ、と言えるものはないように思われた。
少なくとも、東西シュレイドの大本となった街並みがそれであることは、素人目のフレアから見ても明らかなことだった。
廃墟は広大だったものの、その風化、損傷具合も大分進んだものとなっていた。
石壁はその多くが崩れていて、家屋らしきものの天井は落ち、池や更地と化しているような所も多い。もちろん、人の気配など感じられるはずもなかった。
本当に?
先入観から来る判断に、直感が警告を発する。
フレアは地面に落ちていた木片を拾い上げた。
どうやら火が付いていたようで、先端部分が黒く炭化している。火事の跡は至る所にあるし、この辺りに雷が落ちたのかもしれない。
割れた陶器のようなものも散乱していた。もとは露店か何かだったのだろうか。建物の雰囲気に似つかわしくない、見覚えのない独特の模様が描かれている。
石柱に引っかかってたなびく布は、糸の集まりと言えるほどに擦り切れていた。よくよく見れば、旗のように見えなくもないが────。
ひゅっという風きりの音を、フレアは一瞬の間に聞き取った。
身を翻せば、直前にフレアがいた空間を何かが突っ切っていく。背後の壁に当たったそれはからんと音を立てて地面に転がった。
「小刀……」
のような何か、だ。見たこともないような形状をしていた。横切ったときにフレアの頬を水滴のようなものが叩いたので、毒が塗ってあったのかもしれない。
二投目はすぐに飛んできた。腰から抜いた短剣でどうにかそれを弾き返し、間髪置かずに刃が飛んできた方へ突貫する。
生い茂る草はフレアの腰から胸くらいまでの高さしかないが、その草ががさがさと揺れたのをフレアは見逃さなかった。
子供かもしれない。が、あの投擲はそう何度も避けられるものではない。
瞬きの間に決断を下し、その命を奪うつもりで剣を振るう。
斬られた草の葉が横倒しになって、その刃を咄嗟に避けたのだろう、刺客の正体が露わになった。
そこに居たのは、人間とは似ても似つかない、アイルーともかけ離れた、小柄な獣人だった。
頭部には奇怪な面を被り、盛んに奇声を発している。その手には先ほどから投擲していたのであろう刃物が握られていて、その刃には毒々しい色の液体が付着していた。
「──!」
見つかったと気付くや否や、その奇面の獣人は喚声を上げて刃を振り回し、フレアに向けて飛びかかってくる。
跳躍力はかなりのもので、常人では避けることは叶わないだろう。しかし、フレアならば話は別だ。竜に組み敷かれそうになったことなど、数えきれないほどにある。
万が一にも毒の刃に触れないように鎧を盾にして、剣の柄でその小柄な体を殴りつけた。
めき、とその面に突起が食い込む音がして、そのまま地面に打ち据えられ、ごろごろと転がる。発される叫びが悲鳴なのか怒声なのか、判断がつかなかった。
止めを刺すべく面に剣を突き立てようとしたところで、いつの間にか本体がその面から脱け出していることに気付いた。
周辺は薄暗かったとはいえ、かなりの早業だ。フレアは嘆息して、捨て置かれたその面を拾い上げようとした。
そのとき、ふと息が詰まるような感覚を覚え、もう一度周囲に気を配る。
見られている、フレアは取り囲まれていた。瓢箪を繰り抜いたようなあの奇怪な面が、かたかたと音を鳴らしているのを感じ取る。
フレアという余所者を排除し、あるいは喰い物にすべく、奇面の獣人たちが集まって目を光らせている。
かつて人が住んでいたであろう家屋は、今や異形の者たちの住処と化していた。
フレアは今一度剣を構える。いざとなれば炎の剣を抜くことも視野に入れて、駆け出した。
それから、怒涛の連戦が始まった。
ほとんど休みなく戦い続けて、どれほどの時間が経ったのだろう。数日か、あるいは数時間か。空を見る余裕がなかったためにはっきりしない。
少なくとも、ようやく一息つけるような間隙を見つけて腰を下ろしたのが数分前だ。ひょっとするとうとうととしてしまったかもしれないが、幸運にも襲われることはなかった。
鞄から砥石と布を取り出し、血塗れになっていた剣の手入れをする。
その合間に、ここまでの戦いを思い返し、この旧王都がどのような状況に陥っているのかをフレアなりに考えることにした。
ここに来るまでに出会った敵は、奇面の獣人に毒の走竜、黒蛇の翼竜だ。
それと、異常に大きな羽虫や角虫も辺りを徘徊していた。彼らの集まるところには大概竜や獣の死骸があって、それらを貪り食っている。
彼らは総じて気性が荒く、同族でもなければ誰彼構わず争いを仕掛けている。フレアに対しても例外ではない。
それに、見慣れた種でもフレアが辺境で戦ってきた個体よりも皮や鱗が硬く、より手強くなっていた。
このような環境では、弱い者は次々と淘汰されていき、自然と強い者だけが生き残るのだろう。その生き残りの中でも、さらに選別が行われていく。
この地に踏み入った人々が生還できないわけだ。
そこにあるのは濃密すぎるほどの命の気配であり、強烈すぎるほどの弱肉強食であり、終わることのない闘争だった。
この場においては、人は喰われる側だろう。何人でかかろうと関係はない。ここで生き抜くにはきっと、理性をかなぐり捨てて生に固執しないといけない。
何十もの走竜を斬り捨てていったとき、フレアは強い違和感を覚えざるを得なかった。
竜や獣は人の脅威であり、敵だ。それは分かりきったことではあるが、彼らにも彼らなりの生活があるということを、フレアは悟っていた。
走竜は生きるために肉を食う必要があり、さらに子へ与える分までも考えながら狩りを行っている。
敵が強力すぎるときには、群れを生かすために撤収し逃げ去ることもある。縄張りから離れてまで深追いしてくることは少ない。
本来、彼らは自らの判断でこのような過酷な環境から抜け出し、広くシュレイド地方へと旅立って行くことができる生き物であるはずだ。
人々が先に居を構えていることは全く問題にならない。今の人々に竜を拒むだけの武力も知識もないからだ。
もしかすると、言葉の綾だけれど。愚かでない、という点でなら彼らは人より勝っている。
少なくとも、物語に描かれるような、ただ人を殺すだけの化物というわけではないはずなのだ。
ただ、この場においては、そんなフレアの見解にも自信がなくなってしまいそうだった。
何かしら、彼らが集中して留まろうとするだけの理由がここにあるのだろう。そうやって無理やり納得するしかない。
人であっても、一見不都合だらけの状況なのにそこから離れられないことはよくある。ヴェルドの壁外、貧民街が好例だ。
それに、今のフレアが一刻も早くここから出たいかというと、そうは思わなくなってきている。
理由は全く分からない。間違いなく劣悪な環境だし、気が休まることもないが、緊張と疲労と共に、高揚感や活力までもが与えられているような感じがした。
フレアが自身でそのことに気付いたとき、そっと鳥肌が立った。客観視できたからこそ、ここを早く出た方がいいという判断を下すことができた。
切り立つ山々に囲まれる地形に方向感覚を失い、連戦に次ぐ連戦で歩みが遅くなってきた中で、改めて危機感を持つことは決して悪いことではない。
けれども、多様な竜や獣が息づいて、どこで何に遭遇するか分からないような状況で、焦りに気を取られてしまえば、それが致命傷になりかねない。
苦しい局面だが、今、大きな怪我なく生き残っているだけで、少なくとも任務のための最低限はこなせている。そう考えて気持ちを落ち着けることにした。
休めるときに休んでおくことは大切だ。そうした方が、寝食をおろそかにして歩み続けるよりも最終的に距離を稼げる。
できれば小川などを見つけて身体を拭き、鎧を脱いで眠れる場所まで見つけていきたいところだが、そこまでは難しそうだった。
こうして石垣に腰を下ろしているだけでも、少しは息を整えられる。
どこか禍々しささえ感じる茜色の空と、渦巻く雲、風化しきった町並みは見ているだけでも気持ちが翳ってくるため、フレアは自然と俯きがちになっていた。
たった一人で、応える相手のいない思考に耽るフレアはしかし、つい最近聞き覚えたような羽音が聞こえた気がして、顔を上げた。
立ち上がり、音のした方を物陰からそっと覗き見る。
息を呑むことも、眉を上げることもなかった。やはりか、という思いと、避けることはできないのだろうな、という諦観にも似た決意が小さく息を吐かせた。
かつて街の広場だったのだろう荒地に降り立ったのは、黒い光沢のある甲殻に身を包み、刺々しい尻尾で辺りを威圧する鳥竜だ。
その頭部は左右非対称で、片方の耳が縮れているほか、片目は痛々しい火傷の痕に吞み込まれている。
巨大な嘴からちらちらと漏れ出す黒煙は、彼が既に怒っていることを示しているのだろう。かの竜に似て非なる、火の怪鳥との戦いでフレアはその覚えがあった。
しきりに辺りを見渡しているのは、視界の片方が失われているからか。しかし、それによって生じる隙を補って余りある怒気と殺意が周囲の生き物たちを黙らせていた。
黒紫の怪鳥、やはりここにいた。かの竜はこの旧シュレイド王都から城塞都市ヴェルドへと飛んできていたのだ。
ヴェルドでの抗争で負傷し撤退した後も、静穏な日々を過ごすことは叶わなかったようで、かの竜は先に見た時よりも傷ついているように見えた。
ここでは敵の弱みを狙う生物はいくらでもいる。戦いの中で淘汰されていることをフレアは期待していたのだが、かの竜は生き延び、そして報復に訪れた。
遠くにフレアの姿を見たか何かして飛んできたのだろう。物陰の多いここで隠れ潜んでもよかったが、かの竜の嗅覚や直感は異様に鋭い。いずれ見つかってしまう予感がした。
故にフレアはその姿を晒す。
ぐるりと振り向いたかの竜の隻眼が、フレアの姿を捉える。
かつてと身なりが異なっていようと、隠す気のない赤髪が、彼女がフレアであることをはっきりと示していた。
黒紫の怪鳥の割れるような咆哮が廃墟をびりびりと震わせる。
既に荒廃しきっていた廃墟は、これで一段と破壊が進むかもしれない。けれどもそんなことは、かの竜にとっては微塵も気にならないことだ。
フレアもまた剣を抜き、身構える。この場において、気にかけるべきものは何もない。守るべきはもはや自分だけだ。
互いに孤独な者同士の戦いか。
黒紫の怪鳥の突進に合わせて地を蹴る中で、フレアはふっと息を吐いた。
東西シュレイドにおいて最大級の禁忌である、旧シュレイド王都。
そこに足を運んだということを、隣国の彼に話したら、一体どんな反応をするだろう。
ヴィルマとの手紙のやり取りを始めて数年が経ってから、フレアはよく、そういったたとえ話を考えるようになった。
彼と実際に言葉を交わした数など、数えるほどしかない。それに、そのどれもが落ち着いて話せる状況とはかけ離れたものだった。
なんなら、最初の出会いとなったリーヴェルでの宴での会話が最も和やかなものだったかもしれない。
あのときは、まさか彼と手紙を交わすような間柄になるとは全く思っていなかった。
せいぜい彼を殺して、この街の人たちから恨まれることになるだろうとか、その程度の考えでいた。
今となっては、彼の不敵な笑みが瞼の裏に浮かんでくるようだ。
慌てふためくでもなく、忌避するでもなく、どうだった、とフレアに感想を訊くのだろう。多少は驚くかもしれないが。
なにしろ、自分が殺されかけているのにその刺客に興味を持ち、国境を越えてでも手紙を寄越してくるような人だ。
昔はただ不思議な人とだけ思っていたが、学術院に入るだけの勉強をした今、それがどれだけ特異なことなのかがよく分かる。
彼にとってのフレアは、彼の拡張された目のようなものなのかもしれない。不意にそう思った。
シュレイドの外に目を向け、フレアと事情は違えどフレアと同じように北の辺境を駆け回り、そこで得た様々な知識をフレアに伝えてくる。
それと似たようなことを、自覚のあるなしに関わらず、彼は求めてしまうのかもしれない。
彼は竜や龍との命のやり取りの中で、感情を露わにする。
フレアにも分からなくはない感覚だった。炎の龍との戦いで、フレアもまた涙を零していた。
竜はその質量も、膂力も、眼力も、気迫も、何もかも人を圧倒している。言い換えれば、彼らはあまりにも鮮烈だった。
竜や獣の剥き出しの暴力は、人の心をこじ開けるには十分だろう。
その代わりに、いわゆる日常の、人の社会における感度は鈍ることになるが、竜との戦いが日常であったフレアとヴィルマにさしたる憂慮はなかった。
金の獅子との戦いで共闘し、かろうじて生き残った末に彼と手を握ったとき、氷に触れているのかと思う程に冷たかったあの手が、どうしてかフレアに共感を覚えさせた。
あのときのフレアは戸惑っていたが、無理もない。フレアが何かに共感することなど、あのサミを含めてもまず起こり得ないことだったからだ。
あのときより前の共感は、あの炎の龍相手に憐れみを覚えて以来かもしれない。大それた物言いかもしれないが、あの感覚はそうとしか語れない。
ヴィルマとフレアでは、真逆と言っていい程に境遇が違う。
けれどもヴィルマはフレアと同じ視点に立った。そのように感じたのだ。
竜と向き合い、戦い続けた者として。そんな人は他に誰もいなかったから。そういう人でなくては、感じ取れないだろうものを彼の手から感じたから。
あのときからフレアは、ヴィルマに想いを寄せるようになったのかもしれない。
それは、人が集まって生きる生物である限り抗えない、他者の共感への期待の表れだったとしても。
得難いものを求めようとする、その心は否定できるものではなかった。
そして、フレアのヴィルマへの想いと暗殺に向けた殺意は共存できる、できてしまう。
フレアは国の命令であれば半ば反射的に、ほぼ何にでも殺意を向けることができる。それは想い人とて例外ではない。
洗脳、思考の放棄、どれも当てはまっているようで、微妙に違うような気もする。曖昧だが、この禁足地への旅で何か気付けることがあるかもしれない。
もし生きてこの廃墟から抜け出すことができたなら、ヴィルマを殺す前に、フレアの境遇と、この廃都がどのような状況になっているかを伝えよう。
この感情の方は留めておけばいい。それは彼の興味の範疇にないだろうから。フレアは、彼が面白がってくれることを話したいのだ。
殺し合うことを避けられないのだから、その過程を彩ろう。
フレアはもはや、西シュレイドに帰ることを考えていない。
黒紫の怪鳥との戦いは、何日にも渡るものとなった。
かの竜とフレアは共に逃げも隠れもしなかったのだが、彼ら以外の要因、度重なる乱入が二者を阻んだのだ。
それは走竜の群れであったこともあれば、女王率いる蟲の大群だったこともあった。
見覚えのない地竜や飛竜にも何度も遭遇した。大音量の咆哮を轟かせる竜もいれば、毒液を撒き散らしながら狂ったように走る竜も、目のない白い怪物のような竜もいた。
彼らの乱入を受ける度に、フレアと黒紫の怪鳥は分断を余儀なくされた。
フレアに追うつもりはなかったが、黒紫の怪鳥が凄まじいまでの執念深さを見せており、必ずフレアの痕跡を見つけ出しては後を追って来る。
そうこうしているうちに、荒廃した都市は徐々に荒野に呑まれていき、代わりに無数の山々が乱立する連峰が近づいてきた。
遠目で見ても不自然に感じたが、近づくとよりはっきりと違和感を覚える。もともとはここまで極端な地形ではなかったような、そんな感覚だ。
辺境の、特に竜が多い地域では時折変わった風景に出くわすことがある。巨大な矛が大地を突き破ったような地形や、深い森にぽっかりとあいた大穴、空高く吹き上がる間欠泉といったものもあった。
あれらの中には自然にできたものと、そうではないものがあるのだろうとフレアは勝手に考えていた。この連峰は前者に扮した後者のように思う。だから不自然に感じるのだ。
遠くを見れば、途中から崩れ落ちた水道橋らしきものが見えた。
もはや見る影もないが、当時は立派だっただろうことも分かる。今の国の職人たちではこれだけ大きいものは作れないような気さえする。
水道橋があるということは、少なくとも山と谷のある地形ではあったのか。それでも、
この辺はまだ都市構造が続いていたはずだ。連峰はその廃墟を食い破るようにして屹立している。
黒紫の怪鳥と交戦しながら、フレアはその山々の勾配が緩やかなところをどうにか見つけ出して、岩に手を付きながら四足で登っていく。
そうして、塞がれていた景色の向こう側へと足を踏み入れた。
一瞬、フレアは自分の眼がおかしくなったのかと思った。
幻覚、ではない。その風景は今まで見てきた廃墟と地続きであることが見て取れる。
けれども、黒紫の怪鳥に追われているにも関わらず、思わず足を止めてしまうような光景がそこには広がっている。
「ヴェルドの城壁……」
フレアはそこまで呟いて、自分の声に少し驚いた。もう何日も声を発していなかったから、自分の声と認識できなかったのだ。
切り立つ山々の中心部には、壮大な城が聳え立っていた。山の向こうからきた水道橋もその城へと接続されている。
その城の外観は、廃都と同じように荒れ果てていつつも、西シュレイドの首都、城塞都市ヴェルドの城壁にそっくりだった。
空の茜色はいよいよ深まり、荘厳な廃城と相まって、絵巻にあった空想の煉獄を思い出させる。
ふと足元を見て、再び息を呑んだ。ところどころ生えた枯草の先端に、小さく火が付いている。
よく見れば、火種は灯火のように点々と広がっていた。折れた枝は炭になって煙をくすぶらせ、水たまりの端がちらちらと燃えている。
そう言った火種のすぐ傍に、いくつか草木が生えているのが空恐ろしく感じた。風は冷たく、ぬくもりを感じることはない。
この地は生きながらにして燃えている。
かつて空を覆ったのだろう大火は、少なくとも数百年以上前だったはずだ。それだけの年月を経てなお、灼かれつづけている?
胸の痛みがフレアを襲った。火が空気を食うからか、この辺りは空気が薄い。それに、こんなに痛切なことがあるだろうか。
かつて、フレアの先祖が顧みた風景は、それを代々継承するに足るものだった。
「────!」
殺気。咄嗟にフレアは身を翻す。
フレアの背後、頭上から飛んできた火球が足元の地面にぶち当たり、枯草を燃え上がらせる。
赤雲の空を垣間見れば、そこには大きく翼を広げてフレアを見下ろす黒紫の怪鳥の姿があった。
隻眼から注がれる眼光は、もはや正気を失っているように感じた。この地は竜をも吞み込むのか、フレアが既に呑まれていないと、誰が証明できるだろうか。
金の獅子がこの地からヒンメルン山脈を越えてきたのだろうことをほぼ確信すると共に、フレアはどうしてか、幼い頃に放り込まれた闘技場のことを思い出した。
この廃城と闘技場とでは何の繋がりもないはずだが、役割としては同じようなものかもしれないとフレアは思った。
ここを訪れた命は、等しく奪い奪われることになる。かつてフレアがそうしてきたように。
そろそろ決着を付けなくてはいけない。
消耗戦になるからというよりも、自分自身がもう任務のことを忘れ去ってしまいかけているのを自覚しているからだ。
炎の剣を手に取った。強く握るたびに腕へと駆け上る火が、どうしてか心地よく感じた。
黒紫の怪鳥が、空中から水に飛び込むような構えをとる。いつかの戦いのときのように、その身を鉄杭にして地面を穿つつもりなのだろう。
フレアもまた身構えながら、視界にちらと移った火花を見て。
私もこの地の仲間入りだな、と、そんなことを思った。
フレアは自身を支配していた西シュレイド王室のことを、いつも不思議に思っていた。
当たり前か。彼らのフレアに対する態度は誰もが疑問を抱くほどに不可解で、かつ中途半端なものだった。
新王族の繁栄に要らぬ影を落とすなら、フレアという例外を作るまでもなく一族を皆殺しにすればよかった。
フレアを手駒としたいなら、王城の牢屋にでも一生縛り付けていればよかった。万全に調教されたフレアはそれを拒まなかったはずだ。
それを、まるで腫れ物を扱うかのように壁外の貧民街に置き、生かさず殺さずの自由を与えている。
かと思えば、特定の竜や人物に対しては異常なまでの執着を見せ、全く合理的でない命令を壊れたからくりのように繰り返す。
無慈悲だというよりも、何をさせたいのかが全く読めない。フレア周りに限ってみれば、よくそれで西シュレイドという大国を運営できているのか分からないほどだった。
そんなフレアにとっての長年の大きな疑問が、今をもって氷解しつつある。
それは理解や納得というよりも、実感と言った方が正しいかもしれない。その要因を前にして、人の考える理屈などというものは大した意味を持たないのだろう。
西シュレイド王室の人々は、この地を訪れたことがあった。
領土拡大などの野心を持ってのことか、旧シュレイドや東シュレイドに危機感を抱いてのことかは分からない。ただ、少なくともそれらは最近のことではあったようだ。
フレアがこの地から生還したとして、それは最初の一人ではなかった。先駆者は既にいて、それを発端に西シュレイドに旧シュレイドの炎が持ち込まれることとなった。
廃城の片隅に転がっていた比較的真新しい鎧の残骸と、それに刻まれた見覚えのある紋章から、フレアはそのことを読み取った。
愚かなことを、とフレアは自分らしくもないことを思う。直接赴いたところで何ができるわけでもないだろうに。
あるいはその無謀な遠征が実施されるよりも前、ヴェルドの北の大地に目を向けたときには既に、新王室は吞まれていたのかもしれない。
西シュレイド製のその鎧は、見る者の言葉を失わせるような変わり果てたかたちになっていた。
熔けている。
砕けていたり、裂かれていたりするならまだ分かるが、そう言った損傷は少なく、ただ、熔けている。
炎の龍との戦いでも、立ち向かった者の剣や楯がその炎で人身ごと融かされることもあった。
常軌を逸するということであれば、力だけで巨大な丸太をへし折った金の獅子も同列に語ることはできるだろう。
しかし、目の前に広がる光景は、それらとはまた違い、異質であることが際立っていた。事実として受け入れ難いというよりも、思想として受け付けられない方が近かった。
元は整然とした石畳であったのだろうその床は、鈍く光る水銀のようなものによって塗り固められていた。
丹念に、丁寧に擦り付けられていたのだろうことが分かる、無数の薄い傷がその床には刻み付けられていた。
「土を焼き、くろがねを熔かすもの……」
ひとりでに記憶が蘇り、いつかの唄を口ずさませる。
それは幼い頃に教えられ、ずっと後になって古龍占い師の手により開封された、一族の宿命と厄災の予兆を記した唄だ。
「水を煮立たすもの……」
風を起こすもの。
木を薙ぐ者。
炎を生み出すモノ。
すべて正しい。今なお続く旧シュレイド王城の災禍を正しく指し示している。
黒紫の怪鳥は新たに現れた竜に喰われた。一進一退の攻防の中で、あまりにもあっけない幕引きだった。
その竜は黒緑の巨大な図体をたった二本の細い脚で支え、隆々とした筋肉には無数の傷跡が刻み込まれていた。
黒紫の怪鳥の尻尾を、強烈な毒があるのも厭わずに噛みついて地面に叩き落した。フレアとの戦いで手傷を追っていた黒紫の怪鳥は、ろくな抵抗も叶わなかった。
その尻尾と翼を食い千切り、一心不乱にそれを喰らった暴虐な乱入者は、見る影もなくなった死体の胴を咥え、フレアなど端から見えていなかった風に歩き去って行ってしまった。
フレアが見逃されたのは偶然だろう。もし目を付けられていたら、今頃フレアも胴から上がなかったかもしれない。
あれは金の獅子とはまるで違うが、在り方は同類だ。竜たちにも秩序はあるだろうが、そんなものは関係ない。ただ暴力を尽くす者だ。
そしてそんな暴虐の竜すらも、いずれ喰われる側に回るのだろう。
ここはそうしてできている。人も龍も例外なく招き入れ、身に纏う鎧や骨を養分として捧げるのだ。
旧シュレイドが一夜にして滅んだというのは誇張でもなんでもない。
正しく天災であり、現象だ。雨のように降り注ぎ、霧のように立ち込めた。そうしてすべてを閉じ込めて、坩堝と化した。
命あるものを等しく融かして、運命に紐づけて離さない。何百年、何千年と燃やし続ける。火に飛び込む虫を誘う。
ミラボレアス。これが、
もしそれが現存し、姿かたちあるものだったとして。さらに飛躍し、もし龍だったとして。
ここに来た時点でもう、かの龍の胎の中にいるものと違いはない。
西シュレイド王室はかの龍に呑み込まれた。
かの厄災を認識し、恐怖、あるいは狂気、狂喜に類するものを植え付けられ、その傀儡と化してしまった。
あるいは、その全てが実体のない妄想や幻想だったとしても、起こす行動に変わりはない。
人の心は強くなく、一度制御を失ってしまえば、ひとりでに転がり落ちていく。フレアの年少期がそうであったように。今のフレアが、そうであるように。
狂気の種火を宿して西シュレイドへと持ち帰り、旧シュレイドと因縁のあるフレアの一族へとその火を燃え移らせ、生き残りのフレアへ炎の剣を与えた。
そして隣国の、旧シュレイド王都にほど近い前線都市リーヴェルの領主、ヴィルマにも継火をしようとしている。まるでそれが、かれら新王族に課された使命であるかのように。
そうでなければ、火を持ち帰った彼ら自身が許されず、燃え上がって灰になってしまう。そう言ってもがき苦しんでいるかのように。
フレアは西シュレイド王室にとって重要な意味を持つと共に、この上なく関心のない存在だ。
かつて案じていた、フレアの経歴も因縁もどうでもいいことだった。旧シュレイドに関わりのあるものであれば、あとは何でもよかったのだ。
ただ、フレアという火を遠方で吹き消すことができれば、あるいは、
フレアという存在は、ただの篝火だ。ただの火のついた炭であり、松明だ。
呪われたという言葉が相応しい、松明という棒だったのだ。
「心在らば折れて……天と地とを覆い尽くす……」
フレアは小さく呟き続ける。辺りの火がちらちらと燃えて、火の中に佇んでいる。
黒い鎧を引きずるその姿は、どこか亡国の戦士か、あるいは戦中の祈祷師のように映る。
片手に炎の剣を持ち、片手に鉄の剣を持つ。
拙く踊った。それは母から教えられ、いつかの祝宴で無意識に披露した舞踏だった。
そうする必要がなくとも、いや、そうしなくてはならないから、舞うのだ。
燃え盛る火は、揺らめいていなくてはいけないのだから。