肉親を含めた一族が粛清の憂き目に遭ってから、フレアは一人、何処かへと連れてこられた。
手枷や足枷が直に肌に当たり、ひどく不快な痛み方をしたことを覚えている。思い出した。忘れたなんてことはなかったのだ。
貧しいながらも幸せと言えた日々が一変したことで、幼いフレアは激しく動揺し、食事も喉を通らないくらい塞ぎ込んでいた。
あの大火が何度も悪夢となって蘇り、悪寒と共に目覚めて、一人が寂しくて泣いていた。
あの頃のフレアはひどく傷ついていたが、感受性は今より豊かだったのだろう。
心に傷を負うというのは、傷を傷と認められるだけの機微がそこにあるからできることだ。
そうして連れてこられた部屋で、フレアに渡されたのは、その小さな手から零れそうなほどの大きさの短剣だった。
扉の向こうにあるだだっ広い荒地に、フレアと似たように不安げに辺りを見渡す走竜の姿があった。
アレを倒せという命令であることは、言われずとも分かった。
ふとフレアが気付いたときには、フレアの目の前には、その淡い青色の鱗を血に濡らして倒れる走竜の姿があった。
後から分かったことだが。その竜もまた幼く、親元から離れて久しいのか衰弱した様子だった。そうでなければ、フレアはここであっさり死んでいただろう。
自暴自棄になっている自分との対話があったように思う。
ここで死ねば楽になれるのではとか、この竜の餌になってしまおうかとか、そういうことを考えていた。
それでも手に持つ刃を咄嗟に振るえてしまったのは、それこそが血筋と呼ぶべきものだったのだろうか。
剣や刃というものは、人相手であれば適当に振るっても凶器足り得るが、竜や獣が相手ではそう簡単にいかない。
竜は竜同士で戦い、命を奪い合っている。下手をすればよく鍛えられた剣よりも鋭い牙をその身に突き立てられているのだ。
彼らの鱗や皮を貫き、斬り裂くのには技量がいる。相手をよく見て、よく聞き、よく触れたフレアは、布を切るように丁寧に刃を走らせた。
斬られた箇所から溢れ出る血や肉、垣間見える骨を見て、なるほど、という場違いな感想を抱いたことを覚えている。
そうして最初の試練を生き残り、それから闘争と調教の日々が始まった。
痛いのは嫌だったので拒むような仕草をすれば、容赦のない暴力に曝された。単純な力によるものも、言葉によるものも、どちらもあった。
竜よりも人の方が怖いと、当時のフレアは真剣にそう思っていた。
相手が怖い、あるいは食いたいという欲求が見て取れる竜と違い、人の悪意には理由を見出すことができなかったからだ。
対人の訓練、対竜の訓練、どちらも切れ目なく行われた。
練習台には気性が荒く躾けられなかったのだろう家畜や罪人が使われたが、稀にどこからか捕まえてきたらしい竜が相手になることがあった。
飼育なんてできるとは思えないし、竜を捕まえるというのは並大抵の労力ではないだろうに、対竜軍という名の烏合の衆に任せたのか、国にまた別の組織があるのか。
とにかく、ほとんど死ねと言われているも同然の実戦によって、支配者たちに対し抵抗する気力を削がれていったのは違いなかった。
生きるだけで精一杯という状況に追い込まれて、常にぎりぎりのところに立つ日々だった。
そんな戦いに並行して、徹底的な教育も施された。
『お前は忌み子であり、棄てられるべき血の持ち主である』
『真に仕えるべきは現王室であって、個を捨てて仕えるべきである』
そのようなことを大真面目に、威圧的に、滔々と聞かされたことを覚えている。
このような言葉こそ忘れてしまいたかったのに、人の心身というのは不都合なもので、辛かったり痛かったりした思いほどより深く焼き付いてしまう。フレアもそれは例外ではなかった。
狂った教育というものは侮れず、恐ろしいもので、受け入れられないとはねのけていたものでも、延々と聞かされると本当にその通りであるような気持ちがしてくるのだ。
反抗することに疲れて、少しでも耳を傾けるようなそぶりを見せれば、すかさず支配されることの魅力を説いて心の壁を融かしていく。
まだ幼く、見聞きすることを本能的に学びとして頭に入れてしまうフレアに対して、教育というものは実に効果的だったのだろう。
自分でもそうと分かるほど、フレアは無感情に、従順になっていった。
淡々と命令に従っていれば殴られることはないし、暴言を吐かれることもない。それはある種の生存戦略とも言えた。
延々と聞かされる現王室への賛美や呪縛じみた言葉に、かつて物語を聞かせてくれた母の言葉が記憶から零れ出していく。
決して手放してはいけないはずだった、本当は煮え滾る怒りに委ねるべき事態すら、疲れ切ったフレアは気付くことができなかった。
物事の価値観が歪み、他人の望み通りの優先順位が埋め込まれていく。
いつしかフレアは、無条件に命令を受け入れ、従順であることを念頭に動く兵士へと育っていった。
脳を洗い流され、塗り潰されていくような日々に、無意識にでも悲鳴を上げていたことは間違いないだろう。
心が圧し潰されそうになって、実際に圧し潰されていく中で、自ら死地に飛び込むということが、いつしかフレアなりの現実逃避になっていった。
どう言うべきか、実践で命の奪い合いをしているときの恐怖が、辛い過去や今の寂しさを頭の中から追い出してくれたように思う。
ここで死ぬかもしれないという、頭の冷える感覚に充足感すら感じていた。
そうして振るわれる刃は、命を奪うときの躊躇を伴ってはいなかった。
訓練場とは名ばかりの牢獄から、どこかの街に隠された闘技場へ。奴隷の剣闘士として振る舞う日々が続いた。
戦うのは主に走竜や大猪で、たまに奇怪な言葉を発する獣人や大きな蟲が相手になることもあった。
それらは国の貴族や富豪の密かな楽しみになっていたようだった。竜を見慣れない彼らにとっては、走竜でも十分な化物であり、刺激になるのだろう。
倒して戻れば、賭けをしていたらしい人々から暴力を受けることもあった。理不尽だとは思ったが、それよりも従順であることが優先され、ただ耐えていた。
ある日、フレアは唐突に深い森へと投げ出された。
気が付いたときには地面に転がっていたので、眠り草とか、そういう薬を飲まされたのだろう。
そこにあるのは月明かりだけで、民家や櫓の灯りなどは見渡しても全く見えてこなかった。
当時はヒンメルン山脈や西竜洋などの一般的な地理すら把握していなかったから、自分がどこにいるのかは、全くと言っていいほど分からなかった。
見渡す限りの山林と、どこからか聞こえる唸り声に、ああ、とうとう捨てられたんだな、という思いと、ここから生還してこいという任務かなという動機が交錯した。
それから何日が経ったのだろう。何十日、何百日、下手をすれば一年くらい彷徨っていたのかもしれない。
幾度となく竜と遭遇したので、放り出されたのは西シュレイドの領地の外だ。剣や水筒などは身に着けていたものの、どうやって生き残ったのかは想像もつかない。
そう、歴史語りを引き金にして記憶を蘇らせたフレアでも、このときのことはよく思い出せないでいる。
このときにフレアは記憶を閉ざした。思い出を取り戻すまでのフレアはここから始まっている。
遭難の日々の記憶は喪われて、気付けば、ぼろ布のようになったフレアが城塞都市ヴェルドの貧民街に立っていた。まるで長い夢から覚めたようだった。
孤立無援の旅路の中でどんな取捨選択を行ってきたかは、今のフレアでもはっきりとは分からない。
でも、朧げに、どこかの岩陰に座り込んで、熱か悪夢かに魘されながら、こんなことを思ったような気がしている。
私の中にいる私に、これまでの私を仕舞っておいてもらおう。
これ以上、取り返しがつかなくなる前に、本当に心が壊れてしまう前に。
切り裂くような孤独と、蝕むような寂しさも一緒に連れて行ってもらって。
生存と戦いの日々が終わるまで。
願いや祈りが無くても、叶わなくても、生きていくことができるように。
クラフタの姿が火のついた瓦礫に埋もれて見えなくなっていく。
その一部始終を見たフレアは、両脚から力が抜けていくのを感じた。
それと同時に、戸惑う。自分自身の心身の急変に驚き、思わず胸に手を当てた。
いったい何を。これは動揺なのか。だとすれば、どうして。
自分の命が脅かされたわけではない。多少の毒を受けて血を流したが、それによるものでもないと分かる。
クラフタ、それにヴィルマの手紙。
母の死すら経験したフレアが、どうしてこんな、胸を締め付けられるような焦燥に駆られるのか、分からなかった。
そしてこの一連の、十秒にも満たない出来事について、それらをまったく意識しない存在がいる。
その竜は、己の火球を避けておきながらなぜか隙を見せている、フレアだけを注視していた。
「……ッ!」
駆け寄り、そして後方宙返り。
突風のような風と共に、地表の土を削り取りながら尻尾が迫る。
一拍ほど対処が遅れて、フレアは今度こそ背筋が凍るような思いをした。正しく命を脅かされたが故の反応だ。
接触はしなかったようだが、本当に間一髪だったのだろう。顔に土がかかり、頬が切れる感じがした。
数歩よろめいて、腕で顔を拭う。ぬるっと滑る感触があって、鮮やかな赤が目に映った。
着地の風圧と共に、間髪置かずして黒紫の怪鳥がもう一度強く羽ばたいた。
煤や灰が舞い上がり、まともに口や目を開けていられなくなる。目を擦りたいが、そうすればさらに多量の塵が目の中に入ることになるだろう。
涙で塵を流しつつ、目を逸らしてはならないと、フレアはなんとか薄目で黒紫の怪鳥の姿を追う。
そして、ほとんど反射的に耳を塞いだ。
「ぐっ、うぅ……!」
咆哮だ。それは空気の振動というかたちを伴い、衝撃波が放たれているようにすら思える。
やはりかの竜を無理にでも視界に収めたのは正解だった。ほんの一瞬の息を吸うような動作、それとフレアと黒紫の怪鳥までの距離がぎりぎりで対処を間に合わせた。
耳を塞いでいてもなお、それは骨を伝ってフレアの頭を震わせ、いんいんと耳鳴りを起こす。それは不快という域を優に超えていた。
かの竜が心なしか笑っているように感じる。
実際、ここまでの行動を意図して行ったのなら、黒紫の怪鳥はかなり狡猾で頭の良い竜だ。
羽ばたきの風をあえてぶつけたり、あの大声で喚いたりすれば、フレアを含む人々の動きが鈍る。そのことに気付き、学びを得たのだろう。
人という生き物と出会うのが初めてかは分からないが、少なくともフレアに対して直接攻撃をするよりも、搦め手を使った方がいいと判断したその勘は、戦いに長けた種であることを証するようだった。
畳み掛けてくる。フレアの動きが鈍っている今、追撃の手を緩めない。
羽ばたいて回り込むか、そのまま嘴で突っ込むか、火球をばらまいて退路を断つか。
僅かな時間ながらも、黒紫の怪鳥はフレアの追い詰め方を思案する。
そしてすぐに決定を下し、行動へと移そうとした、そのときだった。
フレアがこれまで布で覆って隠していた武器を抜いた。その剣は外気に触れるや否や鮮やかな緋色に染まり、炎を揺らめかせる。
しゃがみこんだ体勢から一気に跳躍し、滞空している黒紫の怪鳥の足元にまで肉薄する。
フレアが振り被った剣の凄まじい熱量を直感で悟った黒紫の怪鳥は、危うく踏み止まって後方に向けて大きく羽ばたいた。
ごっ、という、重々しい音が響く。
黒紫の怪鳥の翼の付け根に、上空から降ってきた岩がぶつかった。
ヴェルド城壁からの投石器による岩石だ。かの竜も先ほど一度浴びて警戒していたが、フレアに注意を寄せていたが故に気付くことができなかった。
いや、フレアに執着するように彼女自身から仕向けられたのか。炎の剣による牽制も相まって飛んでくる石の音にも気付けなかった。
周囲の建物や人々への被害もお構いなしに、人の身丈ほどもある岩が次々と着弾する。
そのうちのひとつをもろに受けた黒紫の怪鳥は、滞空していたこともありたまらず体勢を崩した。
不自然な着地となり、その脚では体重を支え切れず、半ば地上に倒れ込む。土煙が舞い上がると共に、瓦礫が押しやられていく音がした。
翼が折れるまではなかったものの、肉や骨にまで衝撃を与えることはできたようだ。咆哮を受けたフレアのようにうまく立ち上がれずにいる。
ただ、目の色だけは明確な怒りに燃えていた。今度こそ明確に蹴散らすべき敵を認知した。立ち上がってしまえば、もうフレアを構うことはないだろう。
だからこそだ。今、フレアは動ける。
黒紫の怪鳥と同じく、人もまた狡猾な生き物だ。今このときのフレアには迷いも遊びもなかった。
疾駆する。瓦礫を飛び越え、穴だらけの地面を踏み越え、獣のように肉薄する。
有無を言わさず、咆哮などで抵抗する暇すら与えず、最短で黒紫の怪鳥の顔の上に
ぎろりとフレアを見つめる、琥珀色の瞳めがけて。
一息に、炎の剣を突き立てた。
反射的に閉ざされた膜は固く、あの硬すぎる鱗とそう変わらない。けれど、この一撃は弾かれない。弾かせない。
この竜が扱う火よりも、その鱗が守れるであろう火よりも、この炎の剣の方が間違いなく高温だ。あの火球は、フレアにとっては生温い。
融かし斬る。そう時間はかからなかった。
黒紫の怪鳥がまともに暴れ出すより先に、膜が裂け、捲れて焼け焦げて、炎の剣の刀身を受け入れていく。
ある程度まで分け入ったところで、その抵抗は一気に失われた。
ぞぶり、という感触と共に、炎の剣が黒紫の怪鳥の眼にねじ込まれ、多量の血と湯気、そして炎を迸らせた。
黒紫の怪鳥が絶叫する。炎の剣を両手に握るフレアに、その叫びを防ぐ手立てはなかった。
かの竜がのたうち回るように首と頭を振り回すと、フレアはすぐに振り落とされて地面に転がる。その手には突き入れたばかりの炎の剣がかろうじて握られていた。
燃え滾るような怒りを顕わにしながら、黒紫の怪鳥は立ち上がった。その目の片方は広く爛れて、とめどなく血を流している。
形容しがたいほどの痛みがかの竜を襲っているはずだが、それよりも憤怒が勝っているのだろう。激しく興奮しながらせわしなく辺りを見渡している。
なんとしてもフレアを見つけて報復したかったのだろうが、片目を失ったことで細かなものを視認する力が著しく落ちているようだった。
そのことにかの竜ははさらに苛立ちを募らせ、嘴から黒煙を零れさせる。
ただ、そうするのも束の間、黒紫の怪鳥はその扇状に広がる二つの耳を立ててヴェルドの城壁の方を見た。
その方向からは再び、大岩が風を切り裂いて飛んでくる音が聞こえようとしていた。
竜として致命傷にも近い傷を負った以上、あの煩わしい攻撃を避けるのは難しい。
黒紫の怪鳥は怒り荒ぶっていたが、同時に冷静に自身の置かれている状況を把握できる策士でもあった。
憎々しげに、空と地上を交互に見やって、低く唸る。
翼を広げた。投石が当たった片翼の付け根はやや動きが鈍るものの、羽ばたかせることについては支障がないようだ。
投石が三度貧民街を襲い始めたとき、その軌道から逃れるようにして、黒紫の怪鳥は空高く飛び上がった。
今度は急降下して嘴で地面を穿つこともしない。傷ついた翼で、ややもたつきながらもその高度を上げて街から離れる方向へ飛び去っていく。
かの竜にも、命を惜しむだけの本能はあったようだ。
全ての竜が、黒の獅子のように命尽きるまで戦い続けるような化物というわけではない。かなり近しい存在ではあったかもしれないが。
投石器は追撃を行うこともできただろう。火災の煙に紛れつつも、その図体によって遠くからでもかの竜の姿は追える。
けれど、次に装填された岩が放たれることはついぞなかった。
必要以上に黒紫の怪鳥を刺激しないという指示だったのかもしれないし、これ以上壁外の街を破壊すれば暴動が起きるという抑止がはたらいたのかもしれない。ただ単に投石器の射程から外れた可能性もある。
いずれにせよ、城壁の上で緊張の面持ちで事の成り行きを見守っていた西シュレイドの兵士たちは、ほっとした表情でかの竜を見送っていた。
彼らの眼下の地上で、何者かが竜と戦っていたことに気付いていた者は少数だった。
ほとんどの者が、かの竜が手当たり次第に人を襲っているだけだと思っていたし、ましてその暴走を抑え込んでいた人物がフレア一人だとは思ってもいなかった。
ごく一握りの、遠見の筒を持っていた者だけが、戦士がフレアであるということに気付き、より上層部へとそのことを報告していた。
黒紫の怪鳥の姿が雲の向こうに消えていくまで見送って、しかし、かの竜が起こした火や投石による延焼は未だ止まない。
被害を受けた地域は壁外の街の一部に留まりはしたものの、全てが消し止められるには長い時間がかかりそうだった。
逃げていった住民たちも、元凶が去ったと気付くまでにはしばらくの時間を要するだろう。彼らにとっては城壁からの投石も竜の仕業と区別がつかない。
逃げ遅れたり、逃げられなかった人々はより頑迷に閉じ籠り、一時、一帯は人の気配のほとんどない閑散とした空間と化していた。
火のくすぶる音と、時折瓦礫の崩れる音だけが聞こえる被災地に一人、フレアは跪いていた。
黒紫の怪鳥が戦線離脱していく様を呆然と見ていたフレアだったが、それを最後まで見届けることはなく、我に返ったようにその身を翻した。
辺りを見渡し、ある倒壊した家屋の残骸の元へと駆け寄る。炎の剣を手元に置き、その瓦礫を取り除き始めた。
手伝う人もいなければ、彼女の様子を眺める人もいない。フレアもまた、周りの惨状を気にすることはなかった。
炎の剣を握ったことで焼けた肌が傷つくのも厭わずに、一心不乱に瓦礫をかき分けていく。
その瓦礫の山の中に埋もれているものを、何としても、一刻も早く救い出さなければならない。そんな気迫や焦りといった感情が、フレアの行動には現れていた。
不幸中の幸いか、フレアでも持ち上げられないような柱や壁材はほとんどなく、フレアは瓦礫の中にまで入っていくことができていた。
ただ、炎が燃え移って竈のようになった瓦礫の山の中はかなり熱く、外気に触れると炭火のように表面が赤く染まって焼けている。
もし人が埋もれていたのなら、まず耐えることのできない環境だろう。そういったことを考えたくはないのに考えてしまう。フレアは歯を食いしばった。
そんな中で、か細い鳴き声のようなものが瓦礫の底の方から聞こえてきた。
今度こそ、黒焦げの腕がさらに焼けることも厭わずにフレアは瓦礫の山の中に両手を突っ込んだ。
そうして触れた手触りは、ざらざらとしていて、しかし押し込むと柔らかい。鼓動の音も伝ってくるようだった。
残骸が崩れないように慎重に押し退けながら、手に触れたそれを外へと引っ張り上げる。
それは人でなく、アイルーだった。フレアの知り合いのアイルーだ。
いつもの灰色の外套は見る影もなく破れ、ぐったりとした様子の彼だったが、フレアが気付けのために水を飲ませると、苦しそうな呻き声を上げて目を覚ました。
「ニャ……」
「大丈夫?」
「……命拾い、させていただきました、ニャ」
手紙の運び人、クラフタは息も絶え絶えといった様子で呟いた。
体毛は熱によって縮れ、あと少しでも救出が遅れていればそのまま焼け死んでいただろう。
まずは命があっただけでも良かったと、フレアはそう声をかけようとした。
けれど、フレアの顔色があまりにも酷かったのだろう、むしろクラフタの方が何か怖れるような、動揺するような表情を浮かべた。
クラフタの表情を見て、フレアは自分の顔を拭おうとする。
けれど、その腕もまた竜と自らの血に塗れていて、より汚してしまいそうで、どうすることもできなかった。
フレアの表情が剣呑としたものに映ったのだろう。クラフタは少し震えた声で、しかし、実際に悔いもあるような声色でフレアに告げた。
「……フレア様、申し訳ございません。旦那さ、ヴィルマ様からの手紙は……」
「…………」
「手紙が入った鞄を守り切れませんでした。配達人として、恥じ入るばかりですニャ」
クラフタはぽつぽつと、この地で何があったのかを語った。
もともとこの辺り、街の中でも外れの方にある貧民街の一角には、まだ社会的に厳しい立場に置かれがちなアイルーの密会場があった。
クラフタはフレアたちの住居へ赴く前に一度そこへと立ち寄り、壁内外の情報収集を行うのが常だった。
黒紫の怪鳥が襲撃をしてきたのは、ちょうどそのときのことだった。
黒紫の怪鳥の襲撃は本当に突然のことで、恐らくは空から急襲を仕掛けたのだろうということだった。
突然の爆音と悲鳴に包まれて、集会所のアイルーたちは飛び上がって一斉に逃げ惑った。
守るべき配達物のこともあって行動が遅れたクラフタは、不運にもかの竜に追い詰められてしまい、その咆哮を間近でくらう羽目になった。
それ以降のことはぼんやりしてしまっているのだという。少なくとも、フレアに目撃された時点で意識ははっきりとしていなかった。
かろうじて手紙を懐へと入れたが、その時点で既に手紙には火災の火が燃え移りつつあった。さらに瓦礫に埋もれ、鞴のように火が入ったことで、手紙はさらに蝕まれていった。
実のところ、かの竜の咆哮により耳をやられていたフレアは、クラフタの言葉の半分も聞き取れてはいなかった。
それでも大まかな事情は察することができたし、最も重要なことはそこではなかった。肝要は、ただひとつだけだ。
クラフタが懐から取り出したのは、ほとんど原形を留めずに炭と灰になった手紙らしき物体だった。
フレアに手渡そうとしたものの、もはや形を保つこともできず、ぼろぼろと崩れてフレアの掌の上に小さな砂の山をつくる。
クラフタを責めることはできない。あの竜と遭遇した時点で、どうしようもなかったことは分かる。死んででも荷物を守れとはとても言えない。
フレアはそうと分かってはいたものの、どうしても、込み上げてくるものを抑えることができなかった。
「……うっ、うぅ……」
「…………」
このような感情は、知らない。
もう読むことのできない手紙、ただそれだけのものが、悲しくて、痛くて、仕方がない。
フレアの嗚咽に対し、クラフタは何も言わなった。今、何を言っても慰めにもならないことが分かっているのだろう。
フレアはフレアで、どうして自分がこんな状況に陥っているのかが分からなかった。
昨日から眠れていないからなのか、戦いによる気持ちの昂ぶりが変な方向に結び付いてしまったのか。
気持ちの整理すらできない。何度もやってきたやり取りの内の一回が失敗しただけだとか、クラフタが無事なのだからまた手紙を書けばいいだとか、そんな慰めが思い浮かんでは感情的に放り捨てられてしまう。
今このときを、フレアは悲しんでいる。
そういうことができない、できなくなった、あるいはできなくしたはずなのに。
「ごめん、ごめんなさい……」
それは誰に対する謝罪なのか。
俯き、ぱたぱたと地面に涙を零す。止まない火事によって火の粉が舞い、からからに乾いた空気が涙の跡をすぐに揮発させていく。
フレアは地面に手を置き、縋るような姿勢で、何度もえずきながら絞り出すように涙と声を零し続けた。
「ごめんなさい……許して、ほしい……」
それは、今まで無自覚だったものを、自覚しただけ。
王室からの理不尽な仕打ちに耐えてきた。過去の悲嘆を思い出さないように抑えつけてきた。何年も何年もそうしてきた。
その歪みが表出する。灰になった手紙を前に決壊する。その事実が連鎖的に、最後にはひとつのことを指し示す。
ヴィルマからの手紙を、フレアは、自分自身が思っている以上に心の拠り所にしていた。
フレアに文字を学ばせたのは、ヴィルマだ。自らの出自に関心を抱かせたのも、ヴィルマだ。自らの出自にまつわる秘密を知るきっかけになったのも、ヴィルマだ。
フレアの十年以上にも渡る凍結された感情を、炎の龍によってようやく少し罅割れた程度だった氷壁を、数年をかけて融解させたのだ。
決して優しさから来るものではないだろう。むしろ、これがヴィルマなりの復讐の形なのだとすれば恐れ入る。
何しろ、痛い。本当に痛いのだ。胸を掻きむしりたくなる程に。
彼の綴った言葉が失われてしまったということが、こんなにも。
ここまでで、たったの一日。
何も知らずに日々を過ごすはずだったフレアが、いくつもの記憶を紐解き、その心をぐちゃぐちゃにされるまでに過ごした時間だ。
これが病なのであれば、あまりにも進行が早い。殺し合いなのであれば、毒殺にも等しい。
「うっ……うあぁ、ぁ」
人のいない焼けた街で、一人の少女が泣いている。立会人は一匹の獣人だけ。
風に吹き散らかされていく手紙を見て、自らが開けてしまった歴史の重みを知って、押し潰されそうになって泣いている。
そこまでしてようやく気付いた。ようやく自覚させられた。
フレアはヴィルマのことを慕っているのだ。
取り返しのつかないことが起こってやっと、気付くのだ。
フレアが声を殺しながら静かに慟哭している中で、遠く離れた東シュレイドの最西端の都市、リーヴェルでは、緊急の軍議が執り行われていた。
城の詰所には、リーヴェルには普段訪れるはずのない国の要人たちが集まっていた。
彼らは一様に厳しい表情をしており、詰所は重苦しい空気に包まれている。
「申し訳ない。遅くなりました」
誰も言葉を発せないような重々しい空間に、一人の男の声が響く。
歩幅を大きくして詰所に入ってきたヴィルマは、そのまま席について息を整えた。小走りでここへとやってきたことが分かる姿の現し方だった。
長机の向かいに座っていた老人が咳ばらいをし、ヴィルマの後を取り持って話すことを暗に示した。いつかの国の会議にて、相当に高い役職に就いていた人物だった。
「構わんよ。それでは、皆の認識を確かめるためにも改めて現状を確認させてもらおう。
……今から二月前、古龍占い師なる者から龍災の予兆ありとの報せが国に入った。
いつかの鋼の龍の出現を予測した者じゃ。無下にはできんわけじゃが、此度の警告はこれまでと一線を画しておる。
件の龍はかつて類を見ないほど巨大であり、まるで山のようだという。まるで馬鹿げた話だが、そうなのだと。
何よりも重大なのは、その龍がこの東シュレイドを縦断し移動する怖れがあるということじゃ。
何より、東シュレイドの首都が進路上にあるとされておる……これを黙って見過ごすわけにはいかん。
故に、こうしてヴィルマ殿の指揮する対竜兵団の本拠地であるリーヴェル城に集まっている。この認識で合っているかね」
「ええ。ご説明ありがとうございます」
ヴィルマは淡々と答えるが、他の面々にとっては聞くだけで頭が痛くなるような話なのだろう。何人かが額を抑えたり天を仰いだりしている。
内々に非常事態を宣言した国の命令で、本来の治世や政治を差し置いてここに来させられている者も多い。貧乏くじを引いたという思いは少なからずあるはずだ。
「ヴィルマ殿は先ほどまで対竜兵団を動かしていたのだろう? 進捗を聞かせてもらってもいいかね」
「承知しました。では、盤上の地図をご覧ください
現在、ここから南の峡谷地帯に対竜兵器を運び入れ、兵士たちを地形に慣れさせるための訓練を行っております。
対竜兵器の生産にも大きな支障はなく、昼夜を問わず生産を行っています。
これを成せているのはひとえに各国領の協力と資源提供のおかげです」
「世辞はいい。今の段階で運用できる対竜兵器はどれくらいだ」
苛立たしげにそう言ったのは、最初にヴィルマと話した老人ではない、人対人を担う軍隊の将軍だった。
目の下に深い隈があり、あまり眠れていないことが察せられる。ただ、それは他の面々にも同様のことが言えた。
「南の峡谷は広大です。しかし、今の生産量であればその全域に対竜兵器を展開することができるでしょう」
「それだけか? これは西シュレイドとの全面戦争に匹敵する程の脅威なのだろう。人的資源を注ぎ込み、決戦を仕掛けるべきではないのか」
「現状では決戦形式ではなく、奇襲を繰り返すことで応戦することで検討しております」
「……話にならないではないか!」
その将軍は激しく机を叩いた。怒りに燃えるその目の奥に、焦りや未知への恐怖が滲んでいるようだった。
「敵戦力すら把握できていない体たらくで、その及び腰な作戦はなんだ! 我々は惜しみなく援助を行っているのだぞ。その恩情を無下にするようなことばかり宣いおって」
「……相手は人ではありません。卑怯だとか、正々堂々戦うべきだとかの理念は通用しないのです。奇襲は決して委縮しているのではなく、今回は決戦形式よりも有効と判断したまでのことです」
「我が国の領土が侵されようとしているのだぞ。国の威信をかけ、決死の覚悟で戦わずしてどうして軍人を名乗れようか……!
お前は何も分かっていない! そもそも先の発言、竜とやらに対し国を守る立場としての自覚は────」
ドーン……と、遠雷のような地鳴りが轟いた。杯の中の水が静かに波打つ。
いよいよ語気が強まっていた将軍の口は一気にすぼみ、人々は互いに顔を見合わせて不安の色を浮かべる。
「今日で何回目だ……これが龍によるものだと?」
「我々は何を相手にしようとしているのだ……?」
ひそひそと不安を口にする中で、ヴィルマは足に感覚を集中させてその振動を感じ取っていた。
まだ、動いてはいない。昨日、一昨日と変わらなかった。恐らくは身動ぎでもしているのだろう。その姿かたちは知らないが、それだけは推測できる。
もうしばらくその場で大人しくしてろよと内心で呟きながら、ヴィルマは将軍の言葉を引き継いだ。
「もちろん、私や対竜兵団に手を抜くなどという選択はできようもありません。全力を尽くし、この迫り来る厄災を迎え撃ちましょう」
今の地響きについて特に言及するでもなく、言葉を続ける。
「引き続き、兵士の訓練と対竜兵器の製造、運搬。作戦の詳細検討を行います。先ほど指摘いただいた内容についても検討しましょう。よろしくお願いします」
頭を下げたヴィルマに対し、まともに取り合う者はいなかった。
先の地響きに気を取られていたのもあっただろうが、この場において、最終的にヴィルマに逆らえる者が誰もいないことも、ヴィルマには分かっていた。
本来はそんなことはあってはいけない。共和制を敷く国として不健全だ。
しかし、現実問題として、ここでヴィルマを追放したり処刑したりすれば、かろうじて専門と言える者すら誰もいなくなってしまう。
「……やはり話にならん。大臣、行きましょう。我々は我々で軍を動かす必要があるようだ」
「う、うむ。まずは避難先の候補を考える方が先かと思うがね」
「このまま資金援助をするだけでよいのか……? 後学のため、家の者を何人か呼んでこれから起こることを見守るべきではないだろうか」
「そんな物見遊山のような……いや、たしかに今後の情勢を左右するかもしれんが……」
隣り合ってひそひそと話をしながら、詰所から要人たちが歩き去っていく。
それぞれの会話のほとんどはヴィルマには聞き取れなかったものの、それらはヴィルマにとってはあまり関心のないことだった。
と、最後に残った一人から声がかかる。ヴィルマにも馴染みのある声だ。
「……ヴィルマ様」
「アズバー、今のやり取りも議事に取ったか?」
「はい」
「ありがとう。それを清書し国に送ってくれるか。後で俺から署名を書く」
「……ヴィルマ様に不義の疑いがかけられるのでは?」
それは付き人の身分から逸脱した問いであった。けれど、アズバーはそう問わずにはいられなかった。
ヴィルマは少し眉を上げると、ふっと笑ってみせた。まるで先ほどから今に至るまでに、初めて面白い問いを受けたとでもいう風だった。
「それでいいのさ。何なら単独で動いてもらっても構わない。こちらの作戦の妨害さえされなければな。
とにかく彼らには今回の件を自分事として動いてもらいたいんだ。その過程で俺に矛先が向くのは、多少なりとも歓迎だとも」
ヴィルマは笑みを湛えてそう話す。
その表情は、この一件以降、多忙に多忙を重ねてまともに眠ることすらできておらず、国から厳しい目を向けられ続けている者が浮かべているものとは思えなかった。
ヴィルマが忙しければ、付き人であるアズバーも同様に忙しくなる。自分が疲れている自覚を持ちつつも、アズバーは普段自分がしないであろう問いを重ねて口にした。
何より、今のヴィルマなら。アズバーにすらだんだんと分からなくなってきているヴィルマなら、特に戸惑いもなく応えてくれそうな気がした。
「ヴィルマ様」
「どうした?」
「あなたは一体、何を見据えているのですか」
ヴィルマは、上を向いて今度こそはっきりと笑った。
彼の青い瞳が、獣のように爛々と光ったように見えた。
「どうだろうな。案外、くだらないことかもしれないぞ」
作中設定解説
【黒紫の怪鳥】
後世ではイャンガルルガと呼ばれる鳥竜種。
一般的な飛竜種よりも小さな体躯に、狂暴な攻撃性を秘める。極めて好戦的。
作中の時代から遠い未来に至るまで、怪鳥イャンクックの近縁種として扱われていた。イャンクックとは似て非なる、完全な別種として分類されたのは現代でもつい最近のことである。
戦闘行為そのものを好むとされており、あらゆる身体能力に優れる。また非常に狡猾で、搦め手に事欠かない。後世においても恐れられている生物である。