ヴィルマフレアの英雄譚   作:Senritsu

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第22話 そして狼が吼える

 

 

 西シュレイド王国の王都、ヴェルドの街の規模は非常に大きく、それそのものがひとつの丘陵を占有している。

 その広大さは、たとえ王都から時刻を報せるための大銅鑼を鳴らしても、壁外の端に住む貧民たちの耳には届かない程だ。

 

 そんな街の中で突如として起こった爆発、それと喚声は、ともすれば王城の大銅鑼をも超えるほどの広範囲にその音を伝播させた。

 民衆の間に戸惑いと不安が広がっていく中で、アイルーのサミもまた、びりびりとした空気の揺れをその髭で感じ取り、落ち着かなさげに辺りを見回していた。

 昨日からフレアが帰ってきていないことと何か関係しているのだろうか、などと勘繰っている最中、突然、挨拶もなく彼女の主の部屋に飛び込んできた人がいた。

 

「ニャッ……、フレアさまにゃ?」

「あ、サミ……ごめん、後で」

 

 これまでにないくらいの勢いで駆け込んできたフレアは、驚いて毛を逆立たせたサミを一瞥だけして言葉をかける。

 そして、ものの数分もしない内に手当たり次第に自らの装備をかき集め、風のように去っていった。

 普段とは全く違う気配に、サミは何も言葉をかけることができなかった。

 特に、彼女の目つきがとても剣吞としていて、さらにどうしてかいつもとは違う感情を宿しているような感じがして、思わず怯んでしまったのだ。

 

 彼女があのような雰囲気でいるということは、サミは今までに見たことがないが、つまり、この爆発の主犯はそういうことなのだろう。

 昨日の件に続き、本当はいろいろと聞きたいことがあったものの、この様子ではしばらくお預けということになりそうだ。

 フレアは強い。彼女の実績を知っているサミは、戦いに行く彼女のことをあまり心配することはなかった。

 ただ、今回はどうしてか、ふと尻尾を振ってしまうような不安がよぎっている。

 

 先ほどのフレアは何を憂いていたのだろう? 

 彼女の向かった先の事件がどのような形で終わろうと、それだけではない何かが起こりそうな予感がして、サミの毛並みをざわつかせていた。

 

「……にゃ? あの爆発がした方向、貧民街の北側……アイルーの集会所がなかったかにゃ? ええと、ヴィルマ氏に最後の手紙を送ってから半年弱……。

 ……まさか、にゃ」

 

 

 

 外の大通りは、騒動の元凶らしきモノから逃げようとする人々でごった返していた。

 押し合い圧し合い、まるで濁流のようだ。このままでは転倒や圧迫で重傷を負う人すら出てくるだろうに、我先にと逃げ惑う。

 竜や獣なんて見たことも聞いたこともない、そんな大多数の民衆たちは、この爆発を天変地異か、どこかの貧民の蜂起か、なんて思っているかもしれない。

 いや、実際に天変地異ではあるのかもしれないが。このヴェルドの街においては。

 

 これが東シュレイドの都市リーヴェルであれば。フレアはついそんなことを考えてしまう。

 竜に対する物的な備えも、心構えもできているあの街であれば、既に見回りの兵士たちによる対応が始まっているはずだ。

 しかし、西シュレイドではそういったことは一切ない。この街の衛兵では、とてもではないがこの騒ぎには対応できない。

 この騒ぎを鎮められる者は、今の段階ではかなり限られている。王族直々の命令で部隊を編成できれば良いのだろうが、そうするには時間がかかるだろう。

 

 逃げ惑う人々の中で、フレアだけが彼らとすれ違うかたちで反対方向に走っている。

 正直、ぶつかってくる人々が煩わしい。埒が明かないと思ったフレアは、思い切って通りに沿って立ち並ぶ家屋の天井に駆け上った。

 貧民街の家屋はほとんどが粗雑な造りだ。天井を踏み抜くことも大いにあり得るのであまりこの手段はとりたくなかったが、なりふり構ってはいられない。

 屋根から屋根へ、川渡りのように飛び移る。今の騒ぎに乗ずればそう目立つこともない。フレアがするべきは一刻も早く元凶の元へ辿り着くことだ。

 

 屋根に上ると、遮蔽物が少なくなって遠くまで見渡すことができるようになる。

 延々と続いているように見える貧民街の奥の方で、何やら濛々と煙が上がっている。規模の大きな火事が起こっているようだ。

 空まで立ち昇る天幕のようになった煙の中を、何か鳥のような影がちらちらと舞っているのが垣間見えた。

 ただ、この距離でそのように見えるということは、近場に着けば、あれはとても鳥とは呼べない大きさなのだろう。

 加えて、火災の音とはまた別の、人ではとても発することのできなさそうな騒音が先ほどよりも大きく鮮明に聞こえている。

 人々の恐怖を煽っているのはこの音だろう。フレアも聞いたことがないので、恐らくはフレアも相対したことのない何かがそこにいるということだ。

 

 駆ける。壁外にひしめくあばら家の屋根を踏み越え、ときに踏み抜きながら疾駆する。

 すれ違う人々はある地点を超えた辺りから減っていって、逃げ遅れた人々と、空き家泥棒を狙う命知らずだけになっていた。

 彼らもまた、煙の臭いが漂ってくるくらいの、本当に身の危険を感じる辺りからはいなくなっていて、そこにいるのはフレアだけだ。

 小さな町なら端から端まで辿り着けるくらいには走って、息も切れようかという頃に、とうとうフレアはこの動乱の主を視界に収めた。

 

「黒い……怪鳥?」

 

 衛兵たちも全てが臆病というわけでもなく、壁外であろうと民衆を守ろうと立ち上がる者がいたのだろう。

 そういった兵士たちの鎧を容易く砕き、べったりとした血に湯気を漂わせながら、その竜は嘶いていた。

 見た目だけであれば、火の怪鳥にとても似ている。かの竜も火を使う。けれど、全くもって火の怪鳥の同類とは思えない。

 雰囲気だけで語るなら、むしろ、いつかの黒の獅子の方が近いようにすら思える────視認された。

 

「────ッ!」

 

 隠れていた物陰から飛び出す。積み上げられていた木箱や丸太が吹っ飛んだ。

 熱風を浴びて、フレアは驚く。これは、かつてヴィルマを殺すために戦って、ヴィルマの手紙でリオレイアと呼ばれていた、あの毒の飛竜と同じ火球だ。

 何かの間違いかとかの竜へもう一度目を向けて、そこにいるはずの竜の姿がない。

 咄嗟に身を投げ出すことができたのは、ほとんど直感によるものだった。

 

 落ちてくる。鉄杭のように地上に突き刺さる。

 かの竜の全身の鱗が波打って、いん、とさざ波のような音が走った。

 黒の獅子と並び立つほどの巨体が頭から地面にめり込む様は、この竜はこれまで戦ってきた相手と何かが違う、と思わせるには十分な異様さを見せていた。

 

 直撃していれば死んでいただろう。兵士を殺したであろう攻撃も恐らくはあれだ。火の怪鳥と同じような嘴だが、あれがここまで凶悪な武器になるとは。

 ただ、避けてしまえば隙になるか。深く地中に埋まった嘴を一瞥して、フレアは踵を返してその特徴的な耳に向けて刃を走らせる。火の怪鳥は、あの耳が最も弱かった。

 黒紫の怪鳥の瞳がフレアを捉える。跳ね起きるように勢いよく嘴を引き抜いて、そのまま手当たり次第に頭部を地面に叩きつけた。

 攻勢を中断して飛び退く。とても近付けない。

 もしあれが人であれば、あのように頭を叩きつけていれば死すら見えそうなものだが、この竜はまるで堪えていないらしい。

 

 辺りは倒壊し火のついた家屋が散乱していて、土煙と煤煙にまみれて視認性が酷い。

 けれど、その動きづらさはかの竜にとっても同じはずだ。翼があるにもかかわらず地上で暴れているし、そういう意味では同じ舞台に立っている。

 とにかく、戦ってみるしかない。こちらに注目を向けているのは、フレアとしても好都合だ。フレアが引き付けられるなら、余計な感情を負わずに済む。

 

 叩きつけた嘴からの手応えがないと察するや否や、かの竜はフレアの逃れた先を素早く見つけて突っ込んでくる。

 無茶苦茶に走っているように見えて、冷静にフレアへ視線を合わせ続けている。それを感じ取ったフレアは、かの竜を十分に引き付けてから掻い潜るように突進を避ける。

 多少の岩程度であれば迷いなく突っ込む彼ら竜種にとって、人の家、それも貧民街のあばら家なんていい緩衝材程度のものだろう。

 隣の家屋を巻き込みながら突進の勢いを殺して倒れ込む黒紫の怪鳥に、フレアはその背後から再度切り込んだ。

 

 かの竜が起き上がるより先に、瓦礫に飛び乗ってその尻尾めがけて短刀を走らせる。炎の剣は、まだ抜かない。

 鱗の生え揃っていない腹の側の皮を狙い、深く切り裂くべく振るわれた剣は、しかし、思いがけない感触と共に弾き返された。

 

「──硬い!」

 

 目を見張る。刃毀れした刃の欠片がきらりと舞った。

 このような感触が返ってきたのは、かの金の獅子の赤熱化した腕を叩いて以来かもしれない。岩石に刃をぶつけたかのような手応えだった。

 鱗の生え揃っていない部分でこれか。思いがけない弾かれ方で痛いほどに痺れる腕を庇いながら、すぐにその場から飛び退く。

 尻尾を打たれたという感触はあったのだろう。思いきり背後を蹴たぐった後ろ足は、間一髪でフレアを捉えきれずに空を斬った。

 

 街が襲撃されたという時点でほとんど最悪に近い想像はしていたが、その最悪に見合うだけの状況だ。

 炎の龍や金の獅子ほど絶望的ではないとはいえ、彼らに手が届くほどの脅威をひしひしと感じる。少なくとも少しの判断の誤りで致命傷を受ける未来は簡単に想像できた。

 

 しかも、よりにもよって今日という日に。

 今のフレアは本調子からは程遠い。まだ任務で遠出させられる方がましだったかもしれない。昨晩のアイハルの話を、フレアはまだ全く整理できていないのだ。

 既に、周囲の惨憺たる有様を見て心がざわつき始めている。

 いつもなら戦いになればすぐに閉ざせる感情の蓋が壊れてしまっている。こんなことは炎の龍の一件以来だ。

 

 派手な叫び声を上げながら、黒紫の怪鳥が瓦礫の中から跳び上がる。

 巨大な嘴の上に付いた目は異様なほどにぎらついていて、何かしらの強い怒りのような気迫が滲んでいた。

 頭痛までしてきたことにフレアは顔を顰めながら、黒紫の怪鳥と対峙する。

 先ほどまで家屋の形をしていた瓦礫の山の中から呻き声のようなものが聴こえたような気がしたが、もはやそれらに構っている余裕はない。

 黒紫の怪鳥がフレアに対して興味を失うことのないように。フレアは再び地を蹴った。

 

 

 

 幼い頃、私にも母と呼べる人がいた。

 そのことを、覚えている。思い出している。

 

 長く伸ばされた髪は、フレアと同じ紅色をしていた。普段は結っていたようだから、眠る前の髪を解いた彼女と話をしていたのだろう。

 会話の中で何かの物語も語り聞かされていたように思う。当時の自分は幼くて、話の内容が分からずに、その声の音の並びだけが記憶に残されている。

 

 飢えてはいなかったが、貧しくはあった。あえて人の住めないような渓谷地帯に棲みつき、外との関わりを断って生活していたため、衣食住の全てを自分たちでこなさなければいけなかった。

 それでも、フレアとその父母だけではなかったという記憶がある。茶髪や黒髪の人たちもいて、フレアたちの手伝いをしてくれていた。

 今思えば、あれはフレアの一家だけの暮らしではなかった。言わば、ひとつの集落のようなものだったのだろう。かつての家来や領民たちを連れて、皆で流浪の民となったのだ。

 それでも人の数は少なかったように思うが、どうやって子孫を繋いでいたのかは分からない。

 元々の人の数が多かったのかもしれないし、ときどき外の集落の人を入れていたのかもしれない。とにかく、そうやって連綿と紡いでいた中でフレアは生まれた。

 

 一族には戒律があり、それらは恐らく、かつてのシュレイド王国の歴史や物語を忘れずに語り継いでいくことだった。

 新興の西シュレイド王国の手によってかつての書物が焚書の憂き目に遭う中で、歴史の流れに抗い、過去を忘れずにいることを一族の使命として定め、それを守らせた。

 厳しい生活だったはずだ。西シュレイドの支配が伸びている地域では誰の手も借りることもできず、かといって外の大地に目を向ければそこは竜の領域だ。

 

 自然と追い詰められていく一族は、それでも辺境を旅していくことを選択した。時に竜たちと縄張りを争いながら、かつての国土の外へ、外へと移り住んでいった。

 古くは竜と戦う戦士の一族だったというのは事実なのだろう。そうでなければできない選択だったはずだ。

 フレアの母もまた弓や剣を手に握っていたのかは分からない。少なくとも、フレアに触れるその手が決して柔らかいばかりではなかったことだけは覚えている。

 

 幼かったフレアも、あと数年もすれば、木刀でも握って誰かと共に竜と戦うための鍛錬を始めていたのかもしれない。

 いや、フレアが遊びと判別しなかっただけで、既に訓練のようなものは始まっていたような気もする。今となってははっきりしないことばかりだ。

 どちらかと言えば、何もするにも人の手が足りなくて、子どもながらに縫物や種植えなど、生活の手伝いをしていた思い出ばかりが浮かんでくる。

 同年代の友だちも、いたような、いなかったような。よく疲れてうたた寝をしていたことだけは確かだ。微睡の中でフレアを起こすのは、大抵は母の手と声だった。

 

 あのときのフレアは笑っていただろうか。今はもう、ほとんど笑うことなんてなくなってしまったが。

 ある日を境に、フレアの表情や感情はとても希薄なものとなり、その後生きていく中で、その出涸らしもさらに鈍く単調なものへとなっていった。

 今や、フレアは忘れていた思い出の全てを思い出しつつある。けれどそれは、情緒を取り戻すことにはならないのだろう。

 むしろ、記憶を封じた上で新しく育ちつつあった心の土壌を削り取り、再び荒ませていく。

 

 フレアの心の原風景は、乾いた炎に塗れている。

 

 

 

 頭上から叩きつけるようにして振るわれた尻尾が、虚を突かれたフレアの反応を振り切り、先端の棘をフレアの腕にえぐりこませた。

 僅かに表情を歪めて、フレアはその場から飛び退く。

 棘が突き刺さったままになることはなかったが、手袋を貫通された。もうこの手袋は使いものにならない。

 器用な動きをするものだ。翼の羽ばたきひとつでフレアの背後に回り込み、間髪置かずに踵落としの要領で尻尾を叩きつけてきた。

 滞空していながらこれだ。走竜や大猪くらいであればたちまち狩られてしまうに違いない。明らかに戦い慣れた動きだった。

 

 鞭で打たれたようになって、だらんと片腕を下ろして感覚が戻るのを待っていたフレアだが、傷口から流れ出す血の量を見て眉を顰めた。

 血が止まる気配がない。出血の毒か。

 だくだくと流れ出す血は、視覚からも、感触からも、フレアの命そのものが零れ落ちていくような感じがした。

 それでもフレアは焦らない。ただ、何もそこまで毒の飛竜(リオレイア)を模倣しなくてもいいのに、と心の中で悪態をつくくらいだ。

 

 ヴィルマの暗殺のために棘を引き抜いた毒の飛竜との戦いでも、同じような毒を使われた。

 あの竜は出血の毒以外にもさまざまな毒を駆使していたようなので、同じ成分とは言えないかもしれないが。

 かつてあの竜が振るった毒々しい色の尻尾は、辺りに気化した毒を撒き散らしてもいた。

 それを吸ってしまった兵士の一人が、口から血を撒き散らしながら仰向けに倒れる様は今でも印象に残っている。

 

 あれに比べれば、まだやれる。

 巨大な鉄の杭を何度も打ち付けている、といった表現が最適そうな嘴による攻撃を掻い潜りながら、フレアは毒を吸いだしては吐き、血が滞らない程度に布を巻き、懐に忍ばせた薬草を食んだ。

 炎の剣を持つようになってからというもの、腕の黒ずみは増していく一方だが、なぜか毒の類はそこまで怖れなくなったような気がする。

 どうしてかは分からないが、それこそ、何かの物語にあった加護のようなものなのだろうか。

 

 今度は黒紫の怪鳥の嘴から炎が迸り、火球が吐き出される。頭の位置を低くして、掬い上げるようにして放たれたそれを、十分に引き付けてから身を翻して回避する。

 すぐ傍を火の玉が駆け抜けていき、熱い空気が肌と髪を焼く。けれど、皮肉なことにフレアにはもう慣れた感覚となりつつあった。

 でも、とフレアは振り返ることのできない背後を思う。

 数秒後、フレアという目標から外れて飛んでいった火球は、まだ崩れていなかった家屋に直撃した。

 威力は落ち、崩れ落ちはしなかったものの、油か何かに引火したのだろう、激しく炎が立ち上がり、壁や柱を飲み込んでいく。

 

 こういう状況は初めてだ。いわゆる市街地戦というものはこんなにも目に入れ難い光景となるのか。

 図書館で読んだ戦争の話の、市民がいる中での戦闘は凄惨の一言に尽きるとの記述に、今のフレアなら心から頷くことができるだろう。

 

 端から端まで歩けば優に数分はかかるだろう範囲の区画が、灰と炎に包まれている。

 黒紫の怪鳥は時に、手当たり次第に辺りに火を撒き散らした。物陰に身を隠したフレアを炙りだすためだ。それらが貧民街の木材や藁、粘土に火をつけて燃え上がらせている。

 黒紫の怪鳥が突進するたびに壁や柱が崩れ、空を飛ぶたびに風圧で道に瓦礫が散乱する。かの竜にとっては建物なんて視界の邪魔にしかならない。更地にした方が好都合だ。

 

 そうして面影もなくなった瓦礫の山の底から、時に赤い染みが滴っては地面に広がっていくのだ。

 

 フレアは決して万能ではない。この街に思い入れがあるわけでもないし、正義感や人情なんて、炎の龍の一件で焼き尽くした。

 それでも、決して何も感じないことはできない。逃げ遅れ、成す術もなく崩れる家屋と運命を共にしただろう弱者の血だまりからは目を逸らしたくなる。

 フレアができることは、既に更地となった区画に黒紫の怪鳥に留まらせるよう努めることくらいだ。

 しかし、黒紫の怪鳥は間違いなく強敵であり、戦うためならば、フレアは今後も生き残りの家屋に身を隠し、周りに被害が及ぶと分かっても火球を避ける。

 

 では、一体何がここまでフレアの心を沈めているのか。

 あるいは、かつて炎の龍の惨状を目にしたとき、フレアが激情に呑まれそうになったのは、ただその現場にいた以外の理由があるのではないか。

 

 今なら分かる。思い出すことができる。

 フレアは、炎の龍と戦うよりもずっと前に、大火が空を焼く景色を見ているのだ。

 

 

 

 今なら分かる。説明がつく。

 あれはつまり、西シュレイドの王室にフレアたちの一族が見つかったからなのだろう。

 

 突如として集落を襲撃し、フレアの母を殺したのは、竜ではなかった。人だったのだ。

 ただ、幼いフレアにはいったい何が起こっているかも分からず、竜が襲ってきたものと勘違いしていたような気もする。

 実際に見てはいないので分からないが、恐らくは軍隊を動かしたのだろう。フレアたちの一族の何十倍もの人数で隠し集落を取り囲み、一斉に火矢を放ったのだ。

 一族の者が異変に気付いた頃にはもう遅かった。遠出していた者も、斥候によって先んじて殺されていた。一族の者は誰一人として逃げ出すことはできなかった。

 

 フレアの一族は竜との戦いに長けるが、人との戦いには慣れていない。特に策略や戦略では本職には遠く及ばない。

 西シュレイドの手の者が竜の棲む辺境にまで踏み込んで来れたなら、その時点でほとんど詰みだったのだ。

 

 母の最期をフレアは知らない。戦って死んだのかもしれないし、捕まって処刑されたのかもしれない。彼女が武人だったのかは、最後まで分からなかった。

 ただ、集落の人々の指示で隠れていた倉庫にも火を付けられ、兵士に捕まって連行されるまでの間、フレアは燃え落ちていく故郷をその目ではっきりと見た。

 見知った景色を上書きするように倒れ込む一族の人々の身体には、何本もの弓矢や槍が突き立っていた。

 彼らの暮らしていた家屋や倉庫は、その収納物まで含めて入念に火を付けられ、炎が激しく立ち昇っては風を吹かせた。

 

 ろくな抗戦すらできず、たったの一夜にして一変した集落の光景は、幼いフレアには受け入れがたいものだった。

 何度もえずき、腕を縛られて耳や目を塞ぐこともできず、目を強く瞑って目の前の事実を拒否し続けた。

 それでも、これは悪い夢か、あるいは物語の中にいるのだと期待を込めて目を開く度に、真っ赤な火に覆われて死体の転がる景色が目に飛び込んできた。

 

 熱い火で喉が焼けて、焼け爛れた鼻がかろうじて拾った匂いが、煤煙と血肉の焼かれる匂いだった。

 人の死体が焼けていくときはこういう匂いなんだな、とふと思ったということを、一度全てを忘れた上で、覚えている。

 

 灰や炎とフレアとの縁は断ち切れることなく、今に至るまで続いている。

 逃げようと、立ち向かおうと、それを望んでいるわけではないのに、何度でもフレアの前に見知った光景を広げていくのだ。

 

 

 

 突如、何の前触れもなく響き渡った大音響に、フレアは一瞬だけ意識を奪われかけた。

 これまで聞いたことのない、金属音に似た高い音だ。それだけならひどく耳障りというだけで済むが、音量が尋常ではない。

 犯人は明白だ。翼を広げて仁王立ちし、声を張り上げる黒紫の怪鳥の姿が目前にある。

 

 街の遠くから響いてきた音はこれか。これならば都市の反対側にすら優に届くだろう。

 黒の獅子すら凌駕するほどの大咆哮がかの竜の口から放たれるとは思わなかった。それをもろに受けたフレアは耳を抑え、何歩かよろよろと後退る。

 その隙を見逃す相手ではない。再び翼を羽ばたかせて飛び上がり、かの竜は嘴による強襲を見舞う。

 それが来るとフレアは分かってはいたが、平衡感覚がおぼつかずに大きく距離を取れなかった。

 

「うぁっ、ぐ……!」

 

 吹き飛ばされる。体にかの竜の嘴がめり込むような事態はかろうじて避けたが、衝撃を殺すまではできなかった。

 地面に転がり、なんとか受け身を取り、口に入った煤を吐き、乱れる息を落ち着かせる。尖った瓦礫によって全身擦り傷塗れだ。

 いん、いん、と耳鳴りがする。耳から血が出ているような気配はないので鼓膜は破れていないようだが、音を拾う機能は麻痺してしまったかもしれない。

 

 厄介極まりない。本当に生還できるかが怪しくなってきた。

 一応、フレアの側でも有効打を与えることはできているし、かの竜の鱗の防御が薄い部位も試行を重ねて把握しつつある。

 火力で押し切りに行くには、布で覆って背中に担いだままになっている炎の剣を取り出せばいいが、黒紫の怪鳥の体力の底が見えない中で、消耗戦になる恐れがあった。

 黒の獅子の時には互いに守りが弱く肉弾戦のようなかたちになったが、ここまで鉄壁の防御を固められるとどうしても慎重になりざるを得ない。

 

 それこそ、こういう時こそ、ヴィルマたち東シュレイドの部隊の保有する対竜兵器が役立つのかもしれない。

 硬い鱗を貫通したり砕いたりするのに大弩や爆弾は役立つというし、衛生兵がいれば毒への対応も少しはましになるだろう。

 あるいはヴィルマが共闘してくれたなら、今の時点で撃退も見えていた気がする。

 ヴィルマはよく謙遜するが、しっかりと強い。フレアが背中を預けられると心から思える相手は彼くらいのものだ。

 

 ……今この場にいない人のことを考えても仕方がないか。

 フレアにもそれは分かってはいるものの、激しい戦闘の中で無意識に心の片隅で別のことを考えてしまう。

 

 そう言えば、今このときにこんなことを考えるのはおかしいのだが。

 ヴィルマに手紙を送ってからもうすぐ半年が経つ。いつもであればそろそろ返事が来てもおかしくはない。

 この騒ぎであの手紙の運び人も足止めされてしまうかもしれないが、少なくとも壁内が無事であれば、ヴェルドには足を運んでくれるはずだ。

 そう考えると、気休めでも少しは心が軽くなる気がした。

 孤立無援の中、生きてこの竜を退けられるかは分からないが、それができれば彼の手紙を受け取ることができるかもしれない。

 

 サミの存在もそうだが、国を守る、民を守るという大義を持つよりも、誰かからの手紙が楽しみというようなことの方が、フレアにとっては活力を得られるようだ。

 手紙を読み、それを書くという行為が自分の中で大きな位置を占めていたんだということに、フレアは自分事であるにも関わらず、今になって驚いていた。

 

 そのときだ。突然、ひゅうっという風切りの音がして、その直後に破砕音が響き渡った。

 黒紫の怪鳥が興奮するように羽ばたき、フレアも音が響いた方に目を向ける。

 濛々と立ち込める土煙の中で垣間見えたのは、フレアの身長は優に超そうかという程の岩石だった。

 相当な勢いで地面に叩きつけられたのか、辺りの瓦礫を吹き飛ばして、岩自身も砕けてしまっている。

 そしてまた、ひゅうっという音が鳴り響き、今度はフレアと黒紫の怪鳥のすぐ近くに大岩が落ちてきた。

 瓦礫の破片が飛び散ってフレアの肌に当たるが、それよりも、意識の外から飛んでくるこの石がフレアに当たれば命が危ない。フレアは今一度、今度は石が飛んできたと思われる方向を見送った。

 

 フレアの見た方向にはヴェルドの城壁が立ち塞がっていた。あそこに到達させないようにとフレアが立ち回り、中は混乱に陥っているであろう王都の守護壁だ。

 その城壁の上に、何本もの木組みの塔のようなものが立ち並んでいるのが見えた。傍にいる小さな点の集まりは兵士たちだろう。

 その光景を見てフレアは言葉を失う。あれは、投石器だ。

 主に攻城戦など、人対人との戦いで使う、図体が大きすぎて竜との戦いには使えないとされていた兵器だ。実際に見たことはこれまで一度もなかった。

 

 たしかに、こういった場面において投石器は有効かもしれない。

 流石にこの危機的状況への対処をフレアに任せきりにするということはなく、王都は王都で動いていたのだ。

 ただ、まず前提として、ここは少し前までふつうに人々が行き交って暮らしていた下町だ。それがあるから、兵器の類は使うことができないと思っていたのだが。

 怒りは湧いてこない。驚きはしたが、ヴェルドはそういう街だと理解している。炎の龍に対し何千何万の人を死にに行かせるような人たちなのだから、こういうこともする。

 

 かの竜が暴れた範囲の外まで無差別な投石が繰り広げられる中、とうとうその内のひとつが黒紫の怪鳥を捉えた。

 片翼に直撃したそれは、翼をへし折るには至らなかったものの、翼膜を裂いてかの竜の体勢を崩す。

 フレアもまた、投石から身を守らなければならなかった。柱や瓦礫に身を隠しても、投石はそれらをも潰してくる。であれば、あえて視界の開ける場所に立って避けた方がいい。

 軍の人々も、フレアが黒紫の怪鳥の近くで戦っていることは見て分かっているだろう。分かっていてなお、お構いなしに投石器を使っているのだ。

 以前サミがフレアに対して言っていた、壁内の、特に王室や軍部ではフレアのことを人扱いしていないという説が真実味を帯びてきた。

 

 フレアに被害が及んだところで構わないと考えているのか、フレアならばどうせ生き残ると考えているのか。

 ただ、無理やり良い方に考えれば、この支援を受けて黒紫の怪鳥の撃退が見えてきたかもしれない。

 かの竜は突然の反撃に怒り狂っている様子だが、その場から離脱するつもりはないようだ。依然として殺意の矛先はフレアに向いている。

 であれば、あとは投石器のある城壁の方に黒紫の怪鳥を突貫させないよう、全力を尽くすのみだ。

 

 畳み掛けよう。これまで使ってこなかった炎の剣を取り出そうとする。

 その最中、かの竜が咄嗟に放った火球を避けて、ふと、その火球が飛んでいった方向が気になった。

 

「────え」

 

 そこに、クラフタがいた。

 倒れている。身に着けているあの大きな鞄は目を引くため間違えようがない。

 どうしてこんなところに。既にヴェルドに着いていたのか。フレアたちに手紙を渡す前にどこかに立ち寄って、巻き込まれてしまったのか。

 そんなことよりも、そんなことよりもだ。彼が動いてくれない。

 アイルーたちは大きな音が苦手だというから、襲撃直後の咆哮で気絶してしまったのかもしれない。

 でも、動かなければ。今すぐにその脚で地面を蹴らなければ。

 

 火球が迫る。フレアを通り過ぎていったそれを、フレアが追いかけることは叶わない。

 思考だけが一気に過熱して、全く身体の方は追いついていなかった。

 今このときほど、自身の身体能力の限界というものを思い知らされた日は無かったかもしれない。

 

「──逃げて!!」

 

 フレアはただ、そう叫ぶことしか叶わず。

 無情にも、その叫びは届くことなく。

 

 ヴィルマの手紙を持っているであろう運び人(クラフタ)の傍で火球が弾け、その姿が瓦礫の中へ埋もれていく。

 フレアの口から、声にならない掠れた悲鳴が漏れた。

 

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