今より、何百年も昔。
竜が入り込めず、人々が栄え、長きに渡る隆盛を誇ったその国を、シュレイド王国といいました。
小国の群雄割拠をまとめあげたシュレイド王国の基盤は揺るぎなく、人々は歴史を紡ぎ、街は豊かに発展していきました。
遠くヒンメルン山脈の麓から水を運ぶ水道橋。うなりをあげる蒸気機関。石畳や城壁も堅牢なつくりで、誰にも打ち破れない王城は権力の証とされました。
王都では盛んに兵器が作られました。ヒンメルン山脈の向こうには、あるいは西竜洋の向こうには、幾多の竜が息づいていることを人々は知っていたのです。
竜麟を打ち崩す大砲に、火薬を用いて弾を飛ばす弩、さらには巨大な鋼鉄の槍に至るまで。
それらは時に、王国の支配に従わない人々に対しても振るわれました。圧倒的な力を前に、太刀打ちができる者は誰もいないとされていました。
王都から離れれば耕地が広がり、西と東で異なる気候をもとに農耕も発展していきました。
さらに王都から離れた地は辺境と呼ばれ、国が遣わせた防人たちが、国土の外から竜や獣が入ってこないように、厳しく見張りをしていました。
そんな人の楽園では、人の楽園であったからこそ、権力を巡った争いが絶えることはありませんでした。
シュレイド王国が滅びるとすれば、それは王族同士の争いの果てにあるだろうと噂されるほど、陰謀は渦巻き、派閥争いは熱を帯びていきました。
王族の歴史は古く、世襲制を何代も続け、王の血を継ぐ親族が増えて、家系図は枝葉のように広がっていました。
親族たちの家には役職が与えられ、それは年を経て伝統と化しました。
農業や公共事業を司る家、文書や学問を管理する家、税金や金融を取り扱う家、地方の貴族を監視する家など、役職は多岐に渡りました。
そんな中、国外の竜に対抗するべく、兵士や戦士を束ねる役職の家がありました。
それは人を相手取る軍人とは別枠で扱われ、最も位の高い血筋ではないものの、正当な王位継承権を有する武家が代々取り仕切っていました。
彼ら自身もまた戦士の一族であり、その優れた武でもって竜との一騎打ちにも勝利し、剣闘士としても国の民を喜ばせる存在でした。
対して、竜という強大な生き物を如何にして己の手中に収めるか、そういったことを模索する一族もありました。
飛竜の背に乗り、彼らの吐く炎を自在に操ることができれば、シュレイド王国はさらなる躍進を遂げる。そんな野心が彼らを突き動かしていました。
また、人の数の利や対竜の兵器を活かして竜を封じ込めることにも長けていました。それもまた、竜を利用するために必要な手段でした。
二つの武家は共に竜による災害から国や人々を護り、時に人の支配域を拡大するための先駆者となる者ではあったものの、互いの仲は良好ではなかったようでした。
片や竜を自らの手で撃ち滅ぼさんと戦う者であり、片や竜を用いて竜を制しようとした者であるため、目指すところがまるで異なっていたのでした。
彼らは先祖に同じ血を分け合う者でありながら、時にぶつかり、殺し合いまでしてみせるほどでしたが、その血に濡れた争いが決着することはついにありませんでした。
この二家のみならず、例えば大侯爵同士の権力争いだとか、兄弟姉妹の確執だとか。
暗殺や毒殺は珍しいことではなく、日々権謀術数が繰り広げられ、それはまるで絡み合いながら共食いをする竜のようでした。
それはいわゆる政治の腐敗と見なされるものでしたが、それでも体制が揺らがずにいたのは、ひとえにその豊かな資源と国力の賜物といえるものでした。
シュレイド王国は、まさに人の栄華を極めた国のひとつでした。
シュレイド以外にも、火の国や密林の国など、様々な国が興っては、疫病や内乱、あるいは竜や龍によって滅んでいく中で、一際輝いた文明と言えるでしょう。
そして、沈むことはないとされた大国の落陽もまた、あるいは人という種そのものの歴史に影響を与えるほどの鮮烈さをもって迎えられることとなります。
シュレイド王国は閉ざされた国であり、人と異なる容姿の竜人族が土地に入り込むことはありませんでした。
それ故に、彼らは竜人に頼ることなく、独力で学問を立ち上げ、継承を重ね、技術を身に着け、そうして竜や龍を量ろうとしていました。
故に、あるとき起こった異変についても、彼らは彼らなりに、備えや解析を懸命に行っていたのでした。
まず、小さな地響きが何度も聞こえるようになりました。
次いで、王都の近郊の森やヒンメルン山脈の麓でぼやや火災が起こるようになりました。
辺境で竜の動向を見張っていた兵士たちは、いつの間にか、その竜たちがすっかりいなくなっていることに気が付きました。
遠方を除いた王国のほぼ全土が厚い雲に覆われ、日照不足によって深刻な飢饉が起こりました。
決して触れてはならないと言い伝えられていた、いくつかの禁足地にいる龍という生物もまた、姿を見せなくなっていました。
立て続けに起こった異常気象に、民は大いに恐れおののきました。
いったい何が原因でこのようなことが起こっているのか分からなかったものですから、対策のしようがなかったのです。
避難をしようとも、西竜洋とヒンメルン山脈に阻まれてしまいます。
むしろ、これらの凶兆は他所の土地から訪れているという噂が広まり、地理的に国土の中心に位置する、王都へと多くの国民が詰め寄せる始末でした。
混乱の中で、王都の人々も、国の要人たちも、民衆に構っている余裕はありません。
『何か』が起こったときのために、あらゆる備えをすることで躍起になりました。
王都の城、すなわちシュレイド城には様々な対竜兵器が配備されました。兵士を総動員し、王都や王城、または辺境の守護に当たらせました。
貴族や王族たちは、この騒ぎに乗ずるものから逃げ出すものまで様々でした。
王都を離れるということは、持っていた権力や財を手放すということであり、それに、王都が最も安全とする見方も多かったので、王城に留まる権力者も多くいました。
国王が民衆の支えとして居座ることを選んだのか、あるいは保身のために居残ったのか、今となっては定かではありません。少なくとも、彼とその肉親もまた城に留まることとなりました。
そうやって一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一月が経ち。
やがて、そのときがやってきました。
そして、過ぎ去る頃には全てが終わっていました。
その日、シュレイド王国は『消えた』のでした。
王都や王城で何があったのかは、実は何も、誰にも分かっていません。
『何か』があって、恐らくは滅んでしまったということだけ、はっきりしています。
立ち込めていた雲が一際暗くなったその夜、シュレイドの王都からの音が途絶えました。
その音とは人の声であり、兵器の筒音であり、あるいは灯火でもあり、そういったものが全て、一切なくなってしまって、あるのはほの暗い赤と静寂だけになりました。
どうしてか、逃げ出した民衆もほとんどいませんでした。かろうじて暗がりから抜け出した幾人かも、酷く錯乱していて話になりませんでした。
故に、ミラボレアスという物語は、黒龍伝説は、始まりもしないうちに途切れるのです。
それが地震や大雨といった天災によるものなのか、民衆と王族など、人同士の戦争によるものなのか、竜や龍、あるいは疫病、少なくとも生物によって引き起こされたものなのか。
生物に因るものだとして、どうして国の中枢である王都だけが呑まれたのか、突然そこに現れるような真似ができるのか。
ひとつの都市、それも一国の首都が一夜にして陥落するという異常事態の要因なんてものは、学者たちですら皆目見当もつかなかったのです。
分かっているのは、その後のシュレイド王国はすぐに崩壊したということだけ。
シュレイド王国は集権的な国でした。国の運営のために必要な機能も、技術も、知識も、あらゆるものは全て王都に集められていました。
政の一切が行えなくなっただけでなく、国民の数割にも及ぶ人口が消息を絶ち、王位継承権を有する王族もそのほとんどが音沙汰を無くしました。
王都の奪還を試みる者もいましたが、いつの間にか王都には不気味な翼竜を始めとした竜や獣が押し寄せていて、兵を送っても誰も帰ってこない死地と化していました。
王都を中心として、その近辺は誰も近寄れなくなりました。国土は西と東で二分され、行き交うことができなくなりました。
地方に留まっていた人々、あるいは辛くも逃げ延びた人々は、西と東のそれぞれが生き残っているかも知らぬまま、命を繋ぐとこだけを考えるしかありません。
西では、王族ではない地方貴族が突然王になることを宣言しました。混乱の中、先導する者を求めた民衆はその宣言を受け入れて、西シュレイド王国が建てられました。
東では、統率する者が現れることはなく、かつての民族や地方貴族が小国のようになって小競り合いを続け、後世で東シュレイド共和国というかたちにまとまっていきました。
両国の文明は明らかに衰退しました。もはや民に十分に食べさせることすらままならない始末でした。
農耕の技術や、農作物の種や苗。竜と戦うための龍鉱石の精錬方法。火薬の調合や兵器の使い方。王国の歴史と詩。暦や国の運営方法。一国の、文明の全て。
現物はおろか、これらの知識に関わった人までもが軒並み消えてしまい、その喪失による衰退に歯止めをかけることはできませんでした。
東西のシュレイドがそのまま滅びずに踏み止まることができたのは、厄災や竜の侵入が旧王都の周辺に留まっていたからでした。
けれども、それによって、再興した二国は互いの国境に深刻な爆弾を抱えることとなります。
いつ、旧王都から竜たちが押し寄せてくるかも分かりません。生きるためなら故郷を捨てることもやむなしですが、外の大地もまた人の領域ではなく、竜に抗する技術は失われたため、丸腰も同然の流民となってしまいます。
そのときから、シュレイドの地は人々を閉じ込める牢獄と化しました。
東西シュレイドの統治者たちはあまりにも重い決断を迫られました。
命の危険と地続きであるという恐怖は、民衆を恐慌へと陥らせるのに十分な重圧を与えます。旧王都の不気味な状況が噂となって広まるのは時間の問題でした。
このままでは、苦労して立ち上げた新体制はすぐに瓦解してしまいます。ぐずぐずと悩んでいる時間はありませんでした。
そうして、
ミラボレアス、あるいは黒龍伝説はけっして語ってはいけない禁忌となりました。
緘口令を敷くだけであれば、噂として水面下でいくらでも広がろうものでしたが、口にすれば呪われ、旧王都と同じ命運を辿るという恐怖と紐づけたことで、誰もが律義に口を閉ざしました。
旧シュレイド王国に関する図書や歴史書は手当たり次第に焚書されました。ミラボレアスに関わってはいけないという暗黙の了解に繋げてしまえば、実に効率的に事は進みました。
もちろん、口伝や民謡とすることも禁じられました。当代の記憶にのみ留めて、子孫へとそれを伝えないという操作が徹底されました。
シュレイドの地図は書き換えられ、旧王都は歴史的にも地形的にも無かったものにされ、架空の峰と断崖によって禁足地として語り継がれるのみとなりました。
外の大地の調査も打ち切られ、疑似的な鎖国も行われました。
旧王都だけでなく、竜や獣という存在への認知も薄れさせることで、気付きや関心、違和感すら覚えさせないようにしました。
王都の人々が軒並み消えたというのも、ある意味では効果的にはたらきました。
地方の集落に住む人々にとっては、支配体制が変わっただけでそこまで固執することもなかったのです。
人の手では決して届かないであろう、厄災と共存しながら生きる術。
その答えは、厄災のそれ自体を忘れ、決してその方向を見ないというものでした。
取り掛かった年月に違いはあれど、東シュレイドと西シュレイドは、互いに連絡を取り合う手段がなかったのにも関わらず、驚くほど似通った回答を出しました。
それはある意味では、彼らは共通の祖国から分離したのだということをはっきりと示していたのです。
旧王都の厄災の後に生まれた二世代目は、旧シュレイド王国のことを朧げにしか知らないままに、次の世代でその断片すら途切れさせるという盟約を課せられました。
三世代目の、当事者が祖父母となる世代では、もはや語るべきでないものが何かすら分からないようになりました。
そうして、当時を知る者が全てこの世を去って代替わりとなったとき、人々の記憶からも、ミラボレアスという伝説は消え去ったのでした。
……西シュレイドと東シュレイド、それぞれの国の体制に下った人々の記憶から、黒龍伝説はかき消されました。
けれど、どのような事象においても、それが種の絶滅などではない限り、遍く同族の全てを巻き込むということは叶わない理想であることが多く。
例外というものは、どの時代、どの出来事においても起こり得ます。
旧王都が沈黙したその日、民衆を含めたほぼ全ての人々が逃げ遅れては巻き込まれていく中で、辛うじて逃げ延びていた人々がいました。
彼らの中でも、誰の助力を乞うでもなく、遠くへ遠くへと逃げていった者たちは、新体制の政府や王室であったとしても観測できない存在となりました。
皮肉にも、そのような逃避行をやり遂げることのできたのは、ミラボレアスという厄災に真っ向から立ち向かった武家の者でした。
初めの蹂躙の後に押し寄せた、竜や獣の群れに対して突破口を開くことができたのは、それらと戦うことができる者に限られたのです。
王族に近しい武家と言えど、生き残りはそう多くはありませんでした。
かろうじて子どもを連れだすことができた程度で、それだけでも多くの仲間が犠牲になりました。
けれども、唯一彼らだけが、逃避行の道中で旧王都を振り返り、その滅びゆく過程と、『何か』を目にすることができていました。
東シュレイドと西シュレイド、それぞれの領地へと逃げ延びていった王家の親族たちは、彼ら独自の黒龍伝説と、シュレイドの性を細々と引き継いでいきました。
そのうちのひとつが、先に語られた竜戦士の一族。しなやかで強靭な肉体を有し、蒼眼赤髪を代々引き継ぐ剣闘士の系譜です。
もうひとつが、竜操術士の一族。柔軟な発想と堅実な戦術をもってして竜と戦う、蒼眼銀髪を代々引き継ぐ指揮官の系譜です。
かつて指針の違いから敵対し、竜という共通の敵を相手にしながら殺し合うことまでしていた二家は、それぞれが別の道へと歩んでいくこととなります。
厄災から国を守るという務めを果たすことができなかった彼らの悔恨は深く、王位を継ぐことのできる身分であってもそれを誇示することはありませんでした。
彼らは辺境のさらに奥地へと踏み入っていき、そのまま国に属さない流浪の民となりました。
人里に下りて交流することはほとんどなく、その存在を知る者もごく少数に限られています。
ミラボレアスを忘れるという国と国民の選択に迎合することなく。
あの日を忘れないことを一族の使命として、細々と黒龍伝説を語り継いでいったのです。
「これが、儂の知っている古シュレイド王国の顛末じゃ」
物語の語り部のように歴史の一部始終を話したアイハルは、これを人に話す日が来るとは思わなかった、と付け加えた。
状況的に当事者以外の者が知るはずのないことをアイハルが知っているのは、彼が竜人族であり、なおかつ古龍占い師であるからだった。
なにしろ、彼らの暮らす秘境に偶然にも迷い込み、その話を聞いたのが百年以上も前なのだ。人族ではとうに寿命を迎えている。
流浪の彼らもまた人族なので、あれから既に三代か五代くらいの代替わりが進んでいるだろう。彼らの近況はアイハルにも分からない。
「いくらシュレイドの国土が海洋と山脈に囲まれた天然の要塞であったとしても、何百年もの間、目立って竜が入ってこないというのは、偶然で片づけられるものではないのだよ。
旧王都に触れてはならないモノがあるということを、竜や獣もまた人以上によく感じ取っているということじゃな」
アイハルは静かにそう語った。
あくまで推測だ、けれど、古龍占い師としての長年の研究と直感がそう告げていた。
アイハルがこうして人の社会に入っていくようになったきっかけも、あの流浪の一族との邂逅があったからだ。
古龍占い師は人族が定めた役職ではない。竜人族の生き方のひとつ、とでも言うべき習性であり、一人でも生きていける彼にとって人の社会との関わりは不要だった。
それでも、あの秘境で聞いた歴史にアイハルは衝撃を受けたのだ。竜人族の間ではまず起こり得ない、複雑かつ情動的な物語は、アイハルの人への興味を掻き立てた。
今、目の前には蒼眼赤髪の人族の女性がいる。少女というにはもう大人びているが、子どものような純粋さも残しているように感じられる。
アイハルですら、対面すればどうすることもできない炎の龍や黒の獅子を退けた人物だ。彼女は偶然だと言うが、そもそも彼らと戦って五体満足で戻ってきているという時点で尋常ではない。
これであの一族との繋がりがないというのは、まずありえないだろうとアイハルは思う。東シュレイドのある人物のように、何かしらに導かれてここまで来たのだ。
ただ、彼女がここにいて、かつ国の対竜軍の一員として任務を受けているということは、あの一族の掟に何かしらの変化があったということだ。そうでなければ、彼女は今もあの辺境の奥地でひっそりと暮らしていたはず。
その推察の手がかり、いや、答えとでも言うべきものは、これまでの話を聞いてきた彼女の、フレアの表情に表れているようだった。
耳鳴りがする。
目の前で話す竜人の翁の言葉は聞き取れてはいるものの、その言葉は泥のようにフレアの頭の中に入っていき、理解をひどく緩慢なものにしていた。
アイハルが心配そうな顔をしている。きっと自分の顔色が悪いのだろうとフレアは思った。血の気が引く感じが続いていて、呼吸はやたらと浅かった。
思い出した。少しずつではあるものの、記憶の蓋が罅割れ、中から思い出が漏れ出した。
「私は……シュレイドの血を引いている」
誰に聞かせるでもなく、フレアはそう呟いた。
王位継承権を持つと、アイハルはそう言っていた。その通りだ。同じような話をフレアはかつて聞いたことがある。あれは乳母からだったか、あるいは、母からだったか。
フレアがまだ幼かったころ、誰かからある詩を聞いたのだ。どうしてか恐ろしくて聞くことを拒んでいたフレアを、これは一族の定めだからと諭す人がいた。
思い出に施された封が破れていく。喪っていたのではなく、封じていた。記憶を閉ざしたのは、他ならない自分自身だ。
耳鳴りが酷くなる。それは強い緊張と焦燥から来るもののように思われたが、何かが違う。
「────」と、思い出が何かを謡う。その声は少しずつ鮮明になっていく。思い出したくないと別の自分が訴えかけるような気がしたが、もう留まることはない。
そうだ、これは記憶の中から響く声だ。思わず口ずさまずにはいられない、フレアの記憶に焼き付いた詩だ。
「キョダイリュウノ、ゼツメイニヨリ……」
「……それは」
フレアを心配そうに見ていたアイハルが眉を上げた。聞き覚えのある詩だったのか。
フレアはこの詩を諳んじることができる。けれど、とてもそのような気分にはなれなかった。
丸太小屋の壁の隙間から光が差し込んでいる。夜はとうに明けて、朝から昼になりつつあった。
半日近くこの小屋で話をしていたことになる。とても長い語り合いであり、とても短い時間に感じられるようでもあった。
語られた内容を考えると、たったの半日とは思えないほどの密度と量だ。今の記憶の奔流を抜きにしても、軽く眩暈を感じかねない程の歴史だったというのに。
「……長居してごめんなさい。今日は帰ります」
「それは……いや、今は何も言うまい。君も整理する時間が必要だろう。城壁の検問所まで送るから、フードを被りなさい」
「いえ……いえ。よろしくお願いします」
フレアはアイハルの申し出を咄嗟に断ろうとして、止めた。
今の自分は深く物事を考えていられるような状態にない。このまま帰途に就けば、今いる森ですら簡単には抜けられないかもしれなかった。
アイハルもまた、フレアの状態を察してはいながらも、この小屋に留まって休むように提案することはしなかった。
初対面である彼女がこの小屋で落ち着いて考え事をするのは難しいだろうし、何より、アイハルが近くにいればまたいろいろと話したくなってしまうかもしれない。
多少無理にでもフレアの家には戻るべきだし、サミへの説明も必要だった。
アイハルに連れられ、通りと路地裏を足早に歩く間も、フレアの頭の中では記憶が湧き出してはぐるぐると渦巻いていた。
考えることを止めようとしても、抑えが効かない。いっそのこと眠ってしまいたかったが、そうしたら今度は夢となって湧き出し続けるのだろう。
自らが望んで招き、それが叶った形とはいえ、ここまでの衝撃を自身に与えるとはフレアも思ってはいなかった。
いや、もしかしたら、封じ込めていたものがここまで大きかったからこそ、それを抱えたままでいるのが苦しくて、その蓋を開けることを無意識に切望したのかもしれない。
アイハルが道案内できるのは検問所までだ。そこまでの過程も、怪しまれこそすれ、呼び止められることはなかった。
壁内から壁外へ出る分には、特に検査が行われることはない。フレアもそこまでにはなんとか動悸を抑えて、表向きの平穏を取り戻していた。
「今日明日くらいまではゆっくり休みなさい。今は落ち着かずとも、時間が経てば少しずつでも冷静に考えられるようになるじゃろう」
「はい。……また、来てもいいですか」
「いいとも。また図書館かあの小屋を尋ねてくると良い。留守にしていることも多いかもしれんが、儂も君から聞きたいことがあるのでな」
今回はあまりに突然の出来事だった。次はしっかりと時間を作り、相応の覚悟を決めてから話し合いに臨むべきだ。
互いに疲れてはいたものの、その合意だけはしっかり取って、フレアは一人、検問所へと向かっていく。
そのとき、遠くで爆発音のような音が響き渡った。
「!?」
「む……雷か? そのような雲は見えないが……」
フレアは弾かれたかのように振り返り、アイハルもまた眉を顰めて辺りを見渡す。
派手な音だったからか、道行く人も一斉に足を止めて音がした方向を見ていた。ざわめきが通りと検問所に広がっていく。
その数秒後、今度は金板を一斉に打ち鳴らしたかのような耳障りな響きが伝ってくる。ここではかなり弱まっていたが、出所は凄まじいだろう。
アイハルがはっとしたときには、フレアは既に駆け出していた。
平和ぼけとはかくも感覚を鈍らせるものかと、アイハルは苦い顔をした。最初の音が届いた時点で、フレアは察しがついていたのだ。
既に彼女はアイハルの声が届く距離にいない。装備を取りに行くか、あるいは直接向かうのか。少なくとも、アイハルは助言すらかけてやれなかった。
また炸裂音が伝ってくる。民衆の戸惑いが不安の色に変わりだした。
あと数分もすれば、今いる検問所の辺りは人の波に吞まれるだろう。そうなる前に、アイハルは急いで歩き出す。
「なんということじゃ……。彼女は本当に、運命の申し子とでも言うつもりか……?」
思わず独り言ちる。古龍占い師として様々な理外の力を目にしてきた彼を以てしても、仰天では済まされない程の機の重なりだ。
観測しなくては。古龍占い師として、人と関わる竜人族として。
これは歴史の転換点足り得る。それは人の、西シュレイド王国の歴史のみならず、このシュレイド地方の自然環境そのものの歴史だ。
フレアは、その渦の中心に立つ人物なのかもしれない。
その日、一頭の竜が西シュレイド王国の首都、ヴェルドを襲撃した。
何十年、何百年振りどころではなく、建国以降一切起こったことのなかった事態に、城塞都市ヴェルドは大混乱に陥ることになる。
火花が散って、火蓋は切られた。
竜を知らないシュレイドの民の、積み重ねてきた歴史の清算が始まった。