見つからない。
ただそれだけのことで、フレアは疲れを感じざるを得なかった。
今日もフレアは城塞都市ヴェルドの図書館に足を運んでいた。
先日まで遠征に行っていて、日にちは空いてしまっているが、回数だけならとうに両手の指で数えられる数を超えている。
この施設の主は資料の収集に余念がないようで、来るたびに何冊か新しい巻物や石板が増えている。加えて年季もあるので、もともとの蔵書もかなり多かった。
それ故に、毎回何かしらの期待を込めてフレアは足を運んでいるのだが、その期待にしっかりと応えてくれる本には未だ巡り合えてはいなかった。
遠い隣国の彼の薦める、物語という分野に限ってはかなり詳しくなれているかもしれない。
国を跨いで連なるヒンメルン山脈にまつわる信仰の本から、市井の民の恋物語に至るまで。
さらには軍に招聘されて家を出たきり帰ってこなかった家族を悼む詩から、恐らく走竜だろう化物の襲撃を凌いだ村の英雄の話に至るまで。
彼が話題に上げていた五匹の竜の話も含めて、多くの物語にフレアは触れて、読み解き、思い出に仕舞っている。
物語もまた、フレアが進んで触れようと思っているもののひとつだ。彼への手紙の話題の種が増えると考えれば、読むことに時間を費やすのは苦にならない。
けれど、それだけではフレアの知りたいことを満たすには足りないようだった。
それは、フレア自身が知りたいことを明確にできていないからかもしれない。
そう思うことは何度もあったものの、ここまで手がかりを掴めないと、どうしても残念な気持ちになってしまう。
故にこうして、本や巻物の置いてある棚の前にフレアは立ち尽くしていた。
粘土や木の匂いが入り混じる薄暗い広間には、ちらほらと人がいるものの、外の通りのような雑多な物音からは隔絶されている。まさに読み書きをする人のための場所だ。
髪色を黒く染め、フードを被り、火傷を隠すために手袋を身に着けたフレアの姿は、一見して俗世を嫌う学者のようだ。
それで声をかけづらい雰囲気になっているのなら、むしろ望むところだった。
蔵書はその多くが盗難対策で鎖繋ぎになっているため、その場の机に広げて読むことになる。フレアはもう随分と長く、この場に留まっているような気がした。
肩が凝っている感じがして、フレアはその場で何度か首を回した。最近になってようやく文字を読むということに慣れてきたが、やはり疲れは溜まってしまう。
自分自身の過去に繋がるような記録や噂。フレアがこの図書館で探し求めているものだ。
そういったものが図書館にないならないで構わないのだが、どうにもそこに違和感のようなものを感じてしまう。
過去の出来事を順番に並べて説明していくものを歴史と呼ぶことを、フレアは別の本から学んでいる。
フレアが探し求めている資料の分類はまさしくそれなのだろうが、それを探そうとすると、まるで突然崖にでも立ってしまったかのように手応えが途絶えてしまう。
国の歴史も分かる範囲ではとても大雑把で簡単な説明しかなく、それよりも前となると絶無と言っていい。竜の存在をほのめかす本の方がまだ見つかるかといった程だ。
知識は受け継がれていくものだと、フレアが読んだある本には書いてあった。だからこそ文字というものは大切なのだと。
その教訓に倣って、技術書などはこの図書館を通じてしっかりと後世へ引き継がれているというのに、こと国や人のこととなると途端に口を閉ざされる。
難儀なものだ。いったいどうしてこのようなことになっているのかすら分からないようでは打つ手がない。
それは本当に蔵書としても『無い』のかもしれないし、あるいは数々の石板のように、市井の民には見せられないからと立ち入り禁止の区画に仕舞われているのかもしれない。
一度ここの管理員の人にでも聞いてみた方がいいのかもしれないが、役人とほぼ同義の彼らにこちらから声をかけるのもなんとなく憚られて、足踏みのままになっていた。
そうして、いろいろな事情を思い浮かべながら本の探索を続けていると、いつの間にか夕の刻の前鐘が遠くから鳴り響くのだ。
本棚の置かれる部屋は窓があまりなく、空模様から時間を察することが難しい。しかしたしかに、天上を見れば西日が差し込んできているように見えた。
今日はそろそろ切り上げ時かな、とフレアは思った。疲れを自覚したら、それに無理を重ねても話が頭に入って来なくなってしまう
伸びをする、わけにはいかないので、軽く首を回して肩の凝りをほぐしてから立ち去ろうとする。
そのとき、背後に人の気配がした。
「もし、そちらの方よ」
声は少し遠い。すぐ傍に立たれたならフレアであれば気付くので、忍んでいるわけではないようだ。
フレアに話しかけているのはほぼ間違いないだろう。ここから無視して立ち去ればむしろ怪しまれてしまうので、素直に本を置いて振り返った。
「私ですか」
「うむ。熱心に勉強をしているようだから、気になってしまってね」
フレアはその人の姿を見て、思わず眉を上げた。フレアはあまり背が高くないにもかかわらず、その声はフレアの目線の下で発されていたからだ。
小柄な体に丸く曲がった腰。ほとんど頭巾で隠されているが、耳が長く尖っている。
竜人だ。ヴェルドの街にもいるとは思わなかった。フレアはほとんど見たことのないので、ついじっと見つめてしまった。
「学術院の学生さんかね?」
「……いえ。学術院を目指している、学徒です」
「なるほど。君のような者が学びに来ているのは喜ばしいことだ」
「……あなたは?」
「おお、すまん。儂としたことが自己紹介もしないとは」
老いた竜人はその頭をとんとんと叩くと、少し咳払いをしてから話した。
「儂はアイハル。古龍占い師のアイハルじゃ」
フレアは今度こそ分かりやすく驚いた。古龍占い師。
かつてのフレアであれば聞き覚えのない言葉だっただろうが、学術院に入るための勉強をした今は違う。彼らが国の賢者と呼ばれる人たちであることを、今のフレアは知っていた。
素直に名乗り返しても良いものか。偽名を使うこともフレアは考えたが、彼からはフレアを警戒したり詰問するような気配は感じない。
フレアは自身の直感を信じることにした。それに、彼が賢者なのであれば、この場で聞きたいことがある。
「私は、フレアといいます」
「うむ。もし学術院の学者であればフレア女史と呼ぶところだが、学徒ならばフレア君と呼ばせていただこうか」
物腰柔らかな竜人の翁の話し方は、フレアの声色が少し強張っていることを感じ取ってのものなのだろう。もしくは、彼の元来の雰囲気なのか。
紫色の衣をゆったりと襟に巻き、近眼用か、片眼鏡をかけたその姿は、一見して偉い身分とは思えない。それが逆に竜人族らしいと言えるのかもしれなかった。
「……私、今、あることを調べていて」
「話してみるといい。儂から話しかけたんじゃ。手伝えることであれば手を貸そう。見たところ、文学に興味を持っているようだが」
「物語を読んでいるのには別の理由があります。私が本当に知りたいのは」
これはまたとない機会だ。一生で出会わない人が大半だろう希少な竜人族と話せる場面なんて、今後巡り合えるかも分からない。
故にフレアは迷わなかった。老いた彼にも聞こえるように、はっきりとした声で伝えた。
「この国の歴史と、竜と、十数年前の出来事について知りたいんです」
「……!」
言い切るか否かの間際に、アイハルというその竜人の目がはっと開かれたのをフレアは見た。
彼はフレアに対し、待て、とでもいう風に手のひらを突き出すと、焦った様子で周りに目を向ける。次いで、二人以外の話し声や足音が聞こえないか、耳をそばたてた。
その剣幕にフレアも黙ってアイハルの様子を見守る。しばらくして、周りに誰もいなかったことを確認したらしい彼はふうっと息を吐き、先ほどよりもずっと声を潜めて話し出した。
「君、とんでもない質問をするね。儂の学者人生の中でも、類を見ないような切れ味だ」
「それは、どういうことですか」
「そうだな。そうだろう。信じられないことだが、知らないからこそあそこまではっきりと言及することができたということじゃ。……ついてきなさい」
アイハルは最後に一言だけそう言うと、素早く踵を返してフレアを促す。
フレアは少しばかり逡巡したが、すぐに手荷物をまとめてアイハルへとついていった。彼の指示に従わない選択はなかった。
先ほどの会話を聞いていた者がいなかったか、アイハルは図書館を一通り回って入念に確認した後に、建物の外へ出た。
竜人が滅多にいないこの街で目立たないようにするためか、アイハルもまた外では外套を羽織っていた。フレアと併せてフードの二人組だ。
通りで衛兵に呼び止められなかったのは幸運と言えるだろう。尾行などがないか、フレアはそれとなく気を配っていたが、そういった気配は感じられなかった。
通りを抜けて、路地裏へと入り、何度かそれを繰り返す。城塞都市ヴェルドは王城を中心にして同心円状に街や通りが広がるため、曲がり角や小さな道も多い。
ずいぶんと歩かされている。既に日も暮れてきていて、帰りはだいぶ遅くなりそうだ。
土地勘もないので、道に迷ってしまうかもしれない、などと、今の状況とは見当違いなことを考えながら、フレアはアイハルの後を追っていた。
やがて行き付いたのは、木々が林立する雑木林のような区画だ。
街の中にこういった自然があることにフレアは驚いた。わざわざ人の手で植林したのか、街路樹の規模を越えて、ちょっとした森のようになっている。
そこは壁内の人々にとっての憩いの地となっているのだろう。散歩をしたり石段に座ったりしている人の姿を垣間見ながらも、アイハルは黙々と進んでいく。
雑木林の中の小道は何度も枝分かれし、時折現れる石畳が足跡を追わせにくくする。限られた空間に作られた迷路のような構造だ。
手練れた足取りで小道を歩んでいたアイハルは、やがてようやく足を止めた。フレアが顔を上げると、そこだけは木々が途切れて、小さな丸太小屋が建っていた。
「儂の仕事部屋にようこそ。とはいっても、ほとんど空けてしまっているがね」
「……」
アイハルは小屋の扉を開けると、部屋の中へフレアを招き入れた。
フレアが中へ入ると、埃っぽさと紙、そして香のような匂いが漂ってきた。所狭しと物が置かれて、人が三人も入ればもういっぱいだろう。
家具や什器は竜人の体格に合わせてか、少し小さめになっている。背の低いフレアは特に問題ないが、それこそヴィルマなどは居心地が悪いかもしれない。
「急なことで驚いただろう。よく何も言わずに付いてきてくれたね。飲み物を用意するから待っていなさい」
アイハルはそう言って、暖炉に火を入れ始めた。
それなりに歩いていたはずなのに、息が上がっている様子はない。この部屋はあまり使ってないと言っていたし、彼もまた外に出て探索に勤しむような人なのかもしれない。
やがて差し出されたのは、熱い茶だった。先にアイハルが少し飲んで、問題ないことを示してからフレアに渡す。
その仕草はたしかに、西シュレイドの王族や貴族と交流があることを示していた。
「それでは、改めて自己紹介をしようか。さっきは手短なままに済ませてしまっていたから。
儂の名はアイハル。古龍占い師じゃ。古龍占い師のことは知っているかね?」
「はい」
「ほう。君のような学徒が儂の職業を知っているというのは、かなり珍しいことなんだが、どういう経緯で知ったのか教えてくれないかね」
「……」
自分の本当の身分を明かすべきか、フレアは黙って少しの間考え、判断を下した。
「あなたたちの占いで、炎の龍と戦いました」
少し遠まわしだが、明かそう。恐らく隠し通せるものではない。
古龍占い師とフレアでは、あまりにも接点が多すぎる。
「炎の龍……それはもしや、六、七年前のあの焦土の決戦かね」
「はい」
「なんと、君は軍人だったのか! それも、あの戦いの生き残りとは」
ひとしきり驚いたアイハルは、あのとき、炎の龍の出現を占ったのは儂なのだ、と明かした。
偶然の繋がりではあったものの、その事実はフレアを驚かせはしなかった。
古龍占い師、すなわち竜人はあまりに希少だ。アイハルから職を聞かされた時点で、そういうこともあるかもしれないとフレアは思っていた。
「あの戦いで前線に出ていた兵士たちはほとんどが命を落としたと聞いたが、君は後方支援を担当していたのかな」
「いえ、前線に出て、あの龍とも直に戦っています」
実際のところは、あの熱気を前に手も足も出ず、最後に僅かに抗っただけだが。
今でもフレアは、あのときの消し炭になりそうなほどの熱波と、夥しい数の兵士の亡骸が積み上がる光景を思い出すことができる。
「フレア……そうか、フレアという名だったな。まさか君がそうなのか? 赤髪の女だったと聞いていたんだが」
そこまでの話は城壁の内側でも出回っているのか。いや、彼だから知り得ているような噂話なのかもしれない。
変装のために髪を黒く染めていることをフレアは思い出した。フードは既に脱いでいるが、髪色で繋がらなかったのだろう。
フレアは自分の指につばをつけて、髪をひとつまみして指の腹で何度か擦ってみせた。
しばらくすると黒色の染髪料が少しずつ解れ、一部分だけだが地毛の赤色が露わになる。
今まで半信半疑といった様子のアイハルだったが、それでようやく合点がいったようだった。
「なんとも奇特な縁もあったものじゃ。戦場や辺境の地でならともかく、よもや図書館で相まみえるとは。
つまり君は、二年前の黒の獅子との戦にも立ち会っているのかね」
「知っているんですか?」
「うむ。儂ら古龍占い師に東西の垣根はそうそうないからの。その様子では、やはりやり合ったことがあるのか。
あの龍は占うのが極めて難しいモノでな、後手後手に回ってしまって、東シュレイドの兵士たちを災難な目に遭わせてしまった」
そんなアイハルの話を、フレアは不思議に思いながら聞いていた。
フレア自身の交友関係がほとんどないということもあるが、特に竜の話については、ヴィルマ以外の誰も進んで話をしてくることなどなかった。
こうして兵士や戦士でない者が、それも、国の内情に詳しそうな人物が竜や龍の話をするのは、その道理が通っているものであったとしても、なかなか想像しがたいものだった。
「いやはや、龍と渡り合う女性とはいったいどのような出で立ちかと考えていたが、外見は市井の婦人と変わらんではないか……。
もし、よければだが、炎の龍や黒の獅子との戦いについて、話してみてくれないかね。
儂らは遥か空の向こうで強大な生き物たちの気配を占うばかりで、この目で直に見ることは全く叶わんのだ」
「それなら、私のことを国の人たちに秘密にしてくれますか」
「無論だとも、何かしら事情があるのは間違いない。安心しなさい。儂ら竜人はたしかに多くを知っているのかもしれないが、おかげで政にはほとんど立ち入れぬからの」
そう言うアイハルにフレアは頷き返し、かつての戦いについて思い出しながら話をした。
昔であれば、当事者であるにもかかわらず、二言三言くらいしか話せなかったかもしれない。使える言葉の数がとても少ないので、頭に思い浮かべることの欠片ほども伝えられなかった。
しかし今は、思った以上にたくさんのことを、時間をかけて話した。
フレア自身、そのことを意外に思った。それはきっと、手紙というものを自分で書くことによって、伝えるべきことを自分で考えるようになったから身についた話術だったが、フレアは無自覚なままだった。
フレアが話している間、アイハルは真剣な表情で耳を傾け、時おり質問も交えながら、すらすらと筆で内容を書き留めていた。
龍の出現を何月も前から言い当てるという予言者のような人が、ひとりの戦士に過ぎないフレアの話を真剣に聞くというのは、なんとも不思議なことのように思えた。
一通りを話し終える頃には、既に日は沈み、夜空の星がはっきり見えるようになっていた。
この対話はとても長いものになる。話の途中でそう悟ったフレアは、既に次の日に帰る算段を立てていた。サミが心配するかもしれないが、一日程度であればよくあることだ。
「ありがとう。今の君の話で、儂はたくさんの学びを得ることができた」
「どういたし……まして?」
私の話なんかがあなたのような人の役に立つのか。
フレアが正直に思ったことを話すと、アイハルは朗らかに笑ってみせた。
「儂なぞはしがない学者に過ぎぬよ。この大地が今に至るまでにかけてきた年月からすれば、人も竜人も些細な違いにしかならん。
儂ができるのはせいぜい、国に助言をして、学びの道を目指す者を図書館に迎え入れるようにした程度じゃ」
アイハルはそう言って目配せをした。思いがけないところで合点がいった。
図書館の入館基準を緩くしたのはアイハルだったのだ。この様子だと、城門の検問所の立ち入り基準にも何かしらの影響を与えたのかもしれない。
学徒という元来の身分に左右されない立場とはいえ、学術院に入ったわけでもない者を例外的に壁内に入れるというのは、サミが疑問を抱くほどに寛容なものだった。
それらが目の前の老人の手引きだとしたなら納得がいく。アイハルの俗世離れした柔和な雰囲気からは、西シュレイドの強烈な差別意識に染まらない意思が感じられた。
「ありがとう、ございます。私のような人を、図書館へ迎え入れてくれて」
「はは、これは恩着せがましかったな。むしろ礼を言うべきは、貴重な話を聞くことのできた儂の方だというのに」
好奇心に従うがままに話をどんどん脇道に逸らしていくのは儂の悪い癖だ、とアイハルは頭を掻いた。
フレア自身も、そういえばそうだったと思ってしまうほど、先ほどまでの話は白熱していたようだ。
しかし、おかげでフレアとアイハルの間にあった初対面の壁はだいぶ取り払われたように思えた。主だって壁を築いていたのはフレアの方ではあったが。
そういう意味では、これは悪くない前置きだろう。より腰を据えてこれからの話ができるなら、これまでの過程の話は無駄にはならない。
「それでは早速だが、君はこの国で歴史そのものが禁忌として扱われていることを知っているかね?」
「……いえ」
「そうか。学術院の勉強をする中で、気付かなかったのは意外と言うべきか、いや、試験項目にも入ってこない以上、実はあり得ることなのかもしれぬな」
君をここまで連れてきた理由がそれだよ、とアイハルは続けた。
もし、図書館でのフレアの話を市井の人々に聞かれたら、衛兵にそれを伝えられて、たちまち捕まってしまうそうだ。
実際には、フレアもなんとなく知っていたことではあった。試験の勉強をしているときにサミからそれらしきことを聞いていたのだ。
ただ、その禁じの程度がここまで深刻であるとは思っていなかった。
フレアがサミに自身の目的について話していないので、サミも詳しくは話さなかったのだろう。それに、サミは獣人族なのでこの辺の事情には詳しくないかもしれない。
「たとえこの国で歴史を紐解くことの重大さを知らなかったのだとしても、そのために勉学に励んで図書館へ入る身分を得るというのは相当なことだ。
よければ、どうしてそこまでの志を持ったのか教えてくれないかね」
「私は……」
核心を突く問いに、フレアは僅かに言葉を詰まらせた。
いや、今更迷うことはない。自分の名や職分を明かした以上、この人を手掛かりに知りたいことへ近づくと決めたのだ。
「私は、自分がどうして今の状況にいるのかを知りたいんです」
フレアはアイハルに、ここに至るまでの経緯を語った。
物心つくより前のことを、ほとんど忘れてしまっていること。今の名前すら本来のものか分からないこと。
西シュレイド王室の無茶な依頼が絶えないこと。それに忠実に従い続ける自分のこと。
昔の自分について知るために、図書館で調べ物をしていたこと。けれども、肝心の歴史に全く辿り着けず、途方に暮れていたこと。
なるべく多くのことをフレアは話したが、唯一、ヴィルマの暗殺任務と、その彼と文通をしていることについては話さなかった。
ヴィルマは一応、異国の要人だ。彼は気にしないかもしれないが、自分から話すことはなるべく避けた方がいいだろう。
アイハルは始めの方は相槌を打ちながらフレアの話を聞いていたが、途中からは眉を顰め、さきほどよりも深刻そうな表情をしていた。
それでも話を遮ることをしなかったのは、単純にフレアの話に合わせてのものか、彼の中で何かしらの懸念があったのか。
フレアには初対面のアイハルの内心など推し量れるものではなく、そのまま話し終えるまでアイハルに気を遣うことはしなかった。
口が疲れている感じがする。先ほどの龍の話に引き続き、一時の間にこんなにたくさん話したのは初めてのことだったかもしれない。
ふと口に含んだ茶は既に冷めきってしまっていた。いつの間にか夜は更けている。
「赤い髪に青い瞳、そしてフレアという名前……。なるほど、そういうわけか。今ここに至ってようやく気付くとは、儂も耄碌したものよ」
アイハルは深くため息をつき、フレアの顔をじっと見た。彼はフレアよりも背が低いため、見上げるようなかたちになる。
対してフレアは、アイハルの呟きに全くと言っていいほど心当たりがなく、首を傾げるしかなかった。
けれど、少なくとも、何らかの手応えがあったことは間違いなさそうだ。むしろ、ここまでの反応をされるとは思っていなかった。
「フレア君。君に歴史がどうこうと説くことは止めにしよう。
明確に伏せているのは国なのだろうが、君が疑問を抱いてしまった以上、事実を知る権利が君にはある。そう儂は思うのじゃ。
今でなくとも、いずれ知ることにはなっていたはず。そうならば、今ここで明かすのが最も穏便なようにも思えるしの」
「私は……私に、なにかそこまでのものが?」
「ああ。
アイハルは今、フレアには権利があるといった。つまり、知らないままでいることもできるということだ。
ここに来たのも半日前のことなのに、と思えなくもなかったが、急に告げられる理不尽な任務然り、かつての手紙然り、急な出来事には慣れている。
「教えてください。私の過去について、思い当たることを」
もし、またヴィルマを殺しに行くことになったときに、別の任務で死にそうになったときに。自分で振り返って、判断ができるように。
自分の中での納得を求めて、フレアはここまでやってきたのだ。
「相分かった。ではまず、君の出自を明らかにしよう。……君は、黒龍伝説を知っているかね」
「こくりゅう? 黒い龍という意味ですか」
「そうだ。伝説の名を、ミラボレアスという。古くは運命や戦い、災いといった概念を指す言葉だ。龍という名がついてはいるが、実態は何らかの現象とされておる」
このことは決して誰にも言ってはいけないよ、と、アイハルは念を押した。
フレアは誰かに言いふらせるほどの人脈を持ち合わせてはいない。そこに関しては問題ないだろうが、フレアは今、それどころではない違和感に襲われていた。
ミラボレアス。初めて聞く言葉だ。初めて聞く言葉であるはずだ。図書館の本や巻物で読んだ覚えもない。
だというのに、どうしてかざわざわと鳥肌が立つ。まるでその言葉が身体に染み込むかのように、肌や胸の内が冷える。
それは、炎の龍や金の獅子といったような、圧倒的な存在から睨みつけられたときの恐怖に似ていた。
手袋に覆われた腕を、無意識に擦っていることに気付いたのだろう。アイハルは見込んだ通りとでもいう風に頷いた。
「君であれば、聞き覚えがあるはずなんじゃ。表面的には忘れていても、深層の部分でしっかりと覚えているだろうと思う」
「これは、私の……」
「そう、君が幼いときに聞いたであろう物語だ。そして、東西シュレイドがもっとも忘れたい過去であり、歴史を封じるに至った元凶だとも」
本や巻物はすべて焼かれた。石板は砕かれ、遺跡は打ち壊され、口伝すら厳しく取り締まられた。
アイハルが語る国の取り組みは執念すら感じるものであり、彼がそれを知っているのは、ひとえに竜人であるからなのだろう。今に至り、一般の人々でそれを知る者はほぼ絶無だ。
そんな伝承を、アイハルは半ば確信を持って、フレアは知っているはずだと語った。そしてフレアは、知らないはずなのに知っているような反応を返している。
フレアが考え得る限り、市民が知らないことを知れる立場というのはひとつしかない。
「私は、西シュレイドの王室と関係が……?」
「あるにはあるのだろうな。申し訳ないが、そこの詳細は分からなんだ。
儂が語れることは、君が生まれるよりずっと前の、君の根源に関わるところの話じゃ。君の記憶については、そこから付随して思い出せるように君自身が取り組むしかないだろう」
軽く動悸がする。フレアは擦っていた腕をぐっと掴んだ。
こういうとき、かつてのフレアは、誰の手や裾を握っていたのだろう。今、誰にも頼ることのできないフレアは、本当は誰と共にこの話に臨みたかったのだろう。
どうしてか、いつかの戦場での、ヴィルマの顔が思い出された。
「正直なところ、人に疎い儂から見ても、今の君と西シュレイド王室との直接的な繋がりなぞ、ごくごく浅いものだ。因縁は深いかもしれんがな。
言ってしまえば、今の王室、王族は歴史の簒奪者であり、君の一族は歴史の証人足り得る。君たちに限っては黒龍伝説を絶やさないだろうからね」
「……教えてくれませんか。あなたからみた私は、何者なのか」
「ああ、いいとも」
「フレア君、君は、今は無き古シュレイド王国の王族の末裔であり、王位継承権保持者だ。
東西シュレイドの間に佇むシュレイド城が、一夜にして焼け落ちていく様を見ながら逃げ延びた一族のひとつ。
赤い髪に青い瞳、焚書によって絶えた伝承に語られていた亡命者。
その子孫が、恐らくは君だ」
作中設定解説
【竜人族】
人間(人族)とは異なる種族の人。獣人族(アイルーやテトルー)とは区別されている。
人間より遥かに大きな背丈の者もいれば、大人の腰ほどの背丈の者もいる。その他、様々な身体的特徴を有する。
また、一部もしくは全部が長命であり、それ故に人間とは価値観や文化が異なっている部分がある。
人間との交流は長らく限定的で、人間社会に溶け込むような事例は最近になってからのことである。
逆に人間と関わりを持つ竜人は、その特性を活かして学者や村長などの要職に就くことが多い。