ヴィルマフレアの英雄譚   作:Senritsu

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第14話 闘魂断つは氷の剣

 

 日の出の頃に始まった人と獣との戦いは、日が高く昇ってもなお続いていた。

 戦場にはあちこちに息絶えた兵士や人のかたちを留めていない遺体、兵器や武器の残骸が転がっている。血煙が目に見えるようだった。

 濃い血の匂いは周辺に広がり、肉食竜や小動物まで引き寄せかねない程だったが、それにしては一帯は閑散としていた。

 実際、黒蛇の翼竜もそのほとんどが地上から高空に追いやられており、実際に死肉を啄めている個体は少ない。多くの生物を寄せ付けない空間がそこにはあった。

 

 いったい何が起こっているのか、その答えは明白だ。

 地上で繰り広げられている戦いは、黒蛇の翼竜が好む一方的な蹂躙ではない。

 面白くないとでもいう風にやや高度を落として喚いていた一頭が、今、空を突き抜ける雷の束に貫かれて墜ちていった。周りの翼竜たちは必死に羽ばたいて逃げ回る。

 近づくだけで巻き添えを食らいかねない、ただ遠くで傍観することしか叶わない。

 言葉を持つこともないが、彼らもまた、地上の激闘を見守る観測者と言えるのかもしれなかった。

 

 

 

 かの獣の咆哮を聞くのはこれで何度目だろうか。

 びりびりと周辺の空気を歪ませ、これでもかと鼓膜を揺らす。慣れたというよりも、耳が遠くなってきている感覚があった。

 これでも声量は弱まっているのだから恐ろしい。あのとき彼女が黒の獅子の口内にナイフを投げ込み、喉を切り裂いていなかったらどうなっていたことか。

 

 肩で息をして、ヴィルマは汗を拭った。日の上り方からしてまだ戦い始めてから一刻と過ぎていないのだろうが、既にだいぶ身体が重い。

 今生きているということ自体が奇跡的ではあるのだが、それは目的ではない。目的である獣は目の前で吼えていて、これを倒すか退かせない限りは、将来的な死は避けられそうもない。

 対する金の獅子は、未だ揺るぎない暴力を振るっていた。

 休みなく戦い続けて、傷つき、消耗していることは確かだ。確かなはずなのだが、力が弱まる気配だけは全く見えないのはどういうことか。

 きっと、かの獣は命の火が途切れるその瞬間まで全力で戦い続けるのだろう。相対する人は、延々とそれに付いていかなくてはならない。

 金の獅子を交代なしで相手し続けるなど、とても正気の沙汰とは思えなかった。

 

 つまり、ヴィルマと目の前の少女は、今まさに、これまでの常識を覆し続けていることになる。

 少なくともヴィルマの戦いの常識は、その何もかもが崩れ去りつつあった。

 

 金の獅子が跳躍する。その高さはもはや空と言える領域、かの獣自身の背丈よりも何倍も高い。

 前腕に比べれば後脚はやや見劣りするにも関わらず、軽く身構えただけでその跳躍だ。驚きを通り越して呆れてしまう。

 本来は空を飛ぶ竜を無理やり落とすために使われるのだろうその脚力は、今はヴィルマとフレアを叩き潰すためだけに振るわれた。

 

 身に纏った雷を一際迸らせ、自らを巨大な雷弾としてヴィルマたちの元へ高速で落ちてくる。雷の威力も凄まじいが、かの獣自身の質量を伴っているのが何よりの脅威だ。

 ヴィルマは空中で金の獅子が身を屈めるのを目で見て、後は地上のかの獣の影だけに注目して走った。

 見上げ続けていると回避が遅くなる。とにかく足を止めずに真っすぐに走ることがこの攻撃への対処法だ。

 ヴィルマのすぐ背後で地面に激突した雷弾は、まるで落雷のような音を響かせて、その衝撃でヴィルマの足をつんのめらせた。

 次の一歩を大きく踏み出し、半ば手を付きつつも何とか転倒を避ける。

 顔だけ振り返って見てみれば、ヴィルマを狙った金の獅子は、ヴィルマに背を向けるかたちで地面に降り立っていた。

 

 抜刀、身を翻す。耳鳴りと背中の痛みを押し退けて、無理やり体を反転させた。剣術などかなぐり捨てた、遠心力の身を乗せた力任せの剣が弧を描く。

 金の獅子が反応して振り向くよりも僅かに早く、ヴィルマの剣がその後ろ脚を斬った。

 

 ざっと、金色の毛が飛び散る。その毛は宙に舞ってしばらくするとたちまちその色を失い、黒い毛となって風に流されていく。

 血は流れていない。斬ったというより、掠った程度か。あのヴィルマの太刀筋ではいずれにせよ弾かれていただろうことを考えると、ある意味望ましい結果と言えるかもしれない。

 そんな一瞬の考察をも打ち切るように、ヴィルマは身を仰け反らせた。真っ赤に染まった腕が風音を立ててヴィルマの目前を横切っていく。

 いや、少しだけ掠ってしまったようだ。鼻の辺りがかっと熱くなって、何歩か後退って手で鼻の辺りを撫でる。

 深く裂けてしまったのだろう、その手にはべったりと血が付着していた。

 少し擦過しただけ、あるいは風圧だけでこれだ。まともに受ければ冗談抜きで首が飛ぶ。

 鼻が効かなくなった。息もしづらい。咄嗟に目を瞑っていてよかった。もし目をやられていたら、その数秒後に命があったかも怪しかった。

 

 口に鉄の匂いが広がって、鼻から口内へ滴る血で咽ないように気を付ける。

 金の獅子の追撃が一、二回で終わるはずもない。振るわれる拳のその何れもが、次は避けさせるものかという強い意志と殺意を伴っている。

 受け流すとか、躱すとかいう次元ではない。思わず頭を手で覆ってしゃがみこんでしまいたくなる程の殴打の嵐に、震える足に鞭打って逃げ惑うというのが正しい表現だ。

 地面を砕き割りながら殴打を続ける金の獅子に対し、ヴィルマの目前で赤髪の少女が駆けていった。

 ヴィルマと入れ替わるようなかたちであり、ヴィルマを追いかけていた金の獅子の瞳が逸れて彼女を映し出す。

 

 両腕を振り上げて立ち上がり、突貫してきたフレアを圧し潰そうとする。

 踏み止まったところで飛びついて潰すと言わんばかりの構えに対し、フレアはさらに踏み込んでいった。

 直後、猛然と倒れ込んだ金の獅子の肉体は、大地を揺らし、風圧で砂や小石を吹き飛ばす。

 果たしてその攻撃は、かの獣と地表との間にあった空気を押し潰すのみに留まった。

 

 恐らくかの獣の股下に滑り込んだのだろう。獅子の背後からフレアは飛び出してきた。毛の密度の薄い股関節をすれ違い様に切り裂くことも忘れない。

 半ば倒れ込むような体勢からすぐに立ち上がろうとしたフレアだが、金の獅子の後脚がぐっと撓むのを見て再び地面に伏せた。

 大きく後ろに飛び退く金の獅子の動作は、それ自体が飛びかかりと同じ威力を持っている。かの獣にとってはただの移動であったとしても、巻き込まれるわけにはいかない。

 フレアの頭上を金の獅子の体躯が通り過ぎていく。風圧でフレアの赤髪がばさばさと揺れた。

 

 かの獣が一旦飛び退いて距離を取った後には、多彩な行動の派生がある。

 ただ一つ言えるのは、少なくともこの獣は回り込んでかく乱するような真似をしないということだ。

 ブレスも選択肢の一つにあるが、今はかの獣にとっても負担の大きい技となった。先ほど放ったブレスの後に、何度も喀血していたのがその証拠だ。

 フレアから受けた口内の傷は致命傷からは程遠いのだろうが、雷の束を放つことで傷口が開いてしまうのだろう。

 あのブレスを諸刃の剣にしたというだけでも、フレアの功績は大きい。

 

 かくして、かの獣の判断は。ぐっと、その身を弓なりに撓ませた。

 力を溜めている。ヴィルマが警告のために声を発する前に、引き絞られた弦は解き放たれた。狙いは、フレアだ。

 もしこの瞬間に瞬きをしていたなら、それが命取りになっただろう。開けた距離は一足飛びで埋められて、その隆々とした肩から飛び込んで地面に激突する。

 

 全てが一秒足らずの出来事だ。狙われていたのがヴィルマだったなら、恐らく避けきれなかった。そもそも反応ができたかどうか怪しい。

 金の獅子も確殺のつもりだっただろう。地面を転がって飛び込みの勢いを殺し、受け身を取って鞠のように跳ねて体勢を立て直す。一撃の重さと動きの軽快さがまるで噛み合っていない。

 明確に削り取られた跡のある地表に、真っ赤な血でもぶちまけられていれば目論見通りだ。金の獅子の溜まりに溜まった鬱憤は、しかし、ここでも晴れることはなかった。

 

 伏せたままだったフレアは再び起き上がった。少しふらつきはしたものの、擦り傷以上の傷は負っていない様子だ。

 そこはどう見ても金の獅子が飛び込んで抉り取った場所なのだが、無事でいる以上、避け切っていることになる。

 人の足に土踏まずがあるように、かの獣と地表との隙間に体と四肢を滑り込ませたということか。

 それをするには、衝突の間際までかの獣を食い入るように見ていなくてはならないはずだが、つまり、それをやってのけたということなのだろう。

 

 ここまで暴れても捉えることができずにいる、それ自体がかの獣にとっては異常なことなのだろう。

 あの矮小な生物の小さな頭を食い千切るつもりで走り、貧弱な骨を粉砕するつもりで腕を振るっている。しかしその結果が伴わない。

 地団駄を踏むように拳で地面を叩く金の獅子に対し、フレアは荒い息をしながら再び身構えた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 やや離れた位置にいるヴィルマでも、フレアがひどく疲れている様子は見て取れる。しかし、それだけ疲労が溜まるのも仕方のないことだった。

 金の獅子がとにかくフレアを狙うのだ。ヴィルマが標的となるのはそのついでとも思えるほどに少なく、割合で言うなら七対三くらいは偏りがある。

 

 戦いの上手さで比較すれば、ヴィルマよりもフレアが強いのは間違いない。ただ、金の獅子は個人というよりも二人の連携に手を焼いている様子だった。

 まずは連携を崩すという観点では、より弱く仕留めやすそうなヴィルマをまずは集中して狙って落とすのが定石だろう。実際、走竜の群れや黒蛇の翼竜だってそうやって獲物を狩っている。

 フレアに執着するその戦い方は、やはりその満ち満ちる闘争の意欲が何よりも優先されているが故か。

 ただ、その偏りのおかげでヴィルマは命拾いしている。フレアが消耗しているのは言うまでもないが、仮に平等に狙われていれば今頃ヴィルマは亡き者になっているかもしれない。

 

 それにしても、こちら側は決め手に欠ける。

 金の獅子の猛攻を掻い潜るうち、ヴィルマはそう思うようになった。

 

 恐らく、これは本当にヴィルマの勘に過ぎないが。

 かの獣の片角をへし折ったあの爆弾くらいの威力をもう一度ぶつけることができれば、かの獣にかなりの深手を負わせられる予感がヴィルマにはあった。

 何度も己に言い聞かせているように、かの獣も相応に追い詰められている。

 何度も血を吐き、時折僅かにふらつく。肉を切らせて骨を断つという戦い方から、こちらの刃を明確に避けたり払ったりすることが多くなっている。

 無尽蔵の体力を持つと錯覚しそうになるのは、今もそうであるように、その赤熱した腕をはじめとした攻撃性だけは維持し続けているからだ。

 その代償として犠牲になっているものが必ずあるはずなのだ。生物の枠に収まる存在である限りは、必ず。

 

 かの獣の体力をここまで削ったのは、ヴィルマとフレアの奮闘ももちろんあるのだろう。

 しかし、それよりも前、ヴィルマの部隊による必死の抵抗も多分に含まれているだろうことは間違いない。

 恐らくだが、ヴィルマが気を失っている間にも、総撤退の命令に従いながらも、壊れかけの大弩を操り、弓矢を射かけ、刀剣や槍で足掻いた兵士たちがいたのだ。

 それらの大半は怒り荒ぶる獅子の拳によって薙ぎ払われたのだとしても、与えた傷は確実に獅子の身体に刻み込まれていった。

 そのときに失われた血が、今のかの獣の足取りを不確かなものにしている。浅いが夥しい数の傷が、その筋肉を膨れ上がらせる度に開いては血を流させている。

 

 削ることはできている。巌はもう崩れようとしているはずだ。だからこそ、もう一度の深手が欲しい。

 その一撃が、あまりにも遠い。

 

 今の時点でこちらが持ち得る武器は、炎の剣と氷の剣、そして刃毀れが目立ち始めた鉄製の剣くらいしかない。

 かの竜の得意な領域だろう近接の武器しかないのが、難しさを際立たせている。

 ヴィルマの部隊の兵士が遺した弓矢ならその辺に転がっているかもしれないが、それらはやはりかすり傷にしかならない。

 対竜兵器の大弩ならあるいはといったところだが、それらはほとんど全壊しているし、まだ使えるものが残っていたとして、装填から射出までの間にかの獣に潰されてしまうだろう。

 あるいは、後続しているというフレアの部隊に託すという手もあるが、それまでヴィルマたちが持ちこたえられるかと言えば、それは否だ。

 正直、二人とも全力を出しすぎている。特にフレアは今酸欠で倒れたとしてもなんら不思議ではない。

 

 そこまで考えを巡らせていたヴィルマだったが、ふと、全くそんな場合ではないのに、少しだけ笑ってしまった。

 一刻前、かの獣に対して思っていたことと言えば、死ぬ前に一矢報いる方法くらいのものだった。

 撃退すら考えもしていなかったのに、今は如何にしてかの獣を倒すかについて思考を巡らせている。

 我ながら調子に乗るものだ。その機運は全て、共に戦っている彼女が運んできたものではあるのだが。

 

 かの獣の攻勢は続いている。ヴィルマたちが主導権を握るような場面はただのひとつとしてなく、これからも覆ることはないだろう。

 数歩分の間合いを取ったフレアが肉薄しようとするも、かの獣はその場で勢いよく回転することで彼女を近づけまいとする。

 舞い上がった土埃に身を隠してヴィルマが駆け寄るが、その足音を聞き取ったか、ろくな狙いも定めずに拳を振り上げて二度三度と地面に叩きつける。

 一帯は泥沼というわけでもないのに、拳の半分が地表にめり込み、生々しい音と跡を残して引き抜かれた。

 地面の窪みは転倒や捻挫に繋がるため軽視できない。振るわれる拳そのものの威力からしても、剣の間合いに入るほど近づくことはできなかった。

 

 ヴィルマたちを近寄らせたくない。そんな意図を感じさせる牽制だ。

 これ以上傷を負いたくないという意志表示であれば良いのだが、二人の疲労を感じ取って戦いを長引かせようとしている線もあり得る。後者であればかなり厄介だ。

 

 攻めあぐねるヴィルマとフレアに対し、金の獅子はさらに奇策をもって追い打ちを仕掛けてきた。

 唐突に地面を掴む。いつかの地盤ごと捲り上げて放り投げる攻撃かとヴィルマたちは身構えたが、金の獅子はすぐに腕を持ち上げた。

 その手に握られているのは、強引に砕かれて細かな破片となった岩や小石だ。この時点で何をしてくるか悟り、二人はせめて目を守るべく片腕で顔を覆った。

 これを避けるというのは不可能に近い。金の獅子は赤熱した腕を大きく振りかぶり、力任せにその礫をばらまいた。

 

 土を使った目潰し。対人戦闘でも有効な手だが、尋常でない筋力を有する金の獅子がその手を使えば、恐ろしい攻撃に変貌する。

 礫のひとつひとつが弓矢とほとんど変わらない速度で放たれ、二人の元へ殺到する。衣服を貫き、肉にめり込む。針の筵に全身を押し付けられたようなものだ。

 

 突風を感じたかと思えば、ヴィルマの耳に先と似た痛みが走った。腕も、腹も、脚も立て続けに熱を発し、礫が服を貫通して肌を切り裂いていったことを知覚する。

 痛覚に溺れかけた頭が、逆にすっと冷えていく。一周回ったな、とヴィルマは感じた。

 怪我の種類にもよるが、その程度が度を越したとき、一時だけ痛みを忘れるときがある。ヴィルマがよく知る感覚だった。

 これでも、砂や土が多分に含まれているために威力は下がっているのだろう。

 河原などでこれをやられていたなら、身体に無数の風穴を開けられて死んでいただろうことは想像に難くない。

 

 多量出血の怖れがある。すぐに包帯などで止血したいところだが、片手間ですらそんな暇をかの獣が与えてくれるはずもない。

 目を覆っていた腕を外す。今の攻撃は、金の獅子の側に負担がほとんどない。追撃はすぐに来る。

 それに、はったりでも平気なふりをしなければ、学習したかの獅子がこの目潰しを連発してくるかもしれない。そうなれば詰みだ。

 

 自身の怪我よりも先に、ヴィルマはフレアの方を見た。

 彼女は金の獅子のブレスを封じた際、至近距離でその雷を受けているため、既にかなり装備が痛んでいる。

 それに、西シュレイドの軍の防具はお世辞にも質が高いとは言えないようで、この戦いの中でも着々と破れや断線が進んでるようだった。

 そんな状態で今の攻撃を浴びればどうなるか。──やはりだ。

 

 フレアの怪我の程度はヴィルマよりも重かった。血塗れと言っても過言ではない。

 その装備は最早防具の体を為していなかった。武器を留める帯と、少しばかり厚く編まれた急所の部位を除いては、そのほとんどが破けてしまっている。

 いくつかの礫はその肌を食い破り、生々しく突き刺さっている。この戦いで初めて、彼女は自らの意思に依らず膝を付いていた。

 かの獣が少し工夫を凝らすだけで、あの赤い腕は必殺の飛び道具にもなり得る。

 こちらは油断もミスもしていないのにここまで削られる。今に至っても力の差は圧倒的だった。

 

 フレアも目や耳は守ったようだが、身体が追いついてこないようだ。これまでならすぐにその場から離れるが、未だ動き出せないでいる。

 それを見逃す獣ではない。やはり金の獅子は、彼女を倒すことを何よりも優先して動いていた。

 

 前腕に力を籠める。後脚を屈めて力を溜める。肩から背にかけて迸る雷が、黄金の毛を介して腕へと伝い、殺意や気迫がかたちを成すかのように纏わりついた。

 吼える。これがかの獣の繰り出せる全力だ。その眼は最後までフレアから目を逸らさず、金の獅子は跳躍した。

 今度は下手な小細工も入れない。かの獣の最大の信頼は結局、その巨腕以外になかった。

 叩きつける。血が湯立つほどに熱く、鋼のように硬く、その源泉である雷をも纏った腕を、直下の地面へ。

 避ける暇は与えない。その場で跳んで両手を叩きつけるのみ。

 最早、肉片すらも残すものか。

 

 ──地面に蹲るフレアと空から降ってくる金の獅子との間に、ヴィルマが滑り込んだ。

 

 突き飛ばす、抱え込む。刹那の後にそれは地表に激突した。

 

「が……ッ!」

 

 雷に打たれたかのような。

 全身をつんざくような衝撃が走り、吹き飛ばされたヴィルマは悲鳴を上げた。

 

「ぁ、かッ……」

 

 ごろごろと地面を転がる。声が出ない。痛みは飛んでしまっているが、背中が抉り取られてしまったかのような浮遊感を覚える。

 視界が明滅する。高音の耳鳴りが響いている。重い痺れが全身へと広がっていき、しばらく動くことすらできなかった。

 今のは間一髪で避けたと言えるのか。そうであると信じたい。首もまともに動かないので確認ができない。

 直接あの腕に触れたわけでもないのにこの威力か。もはや爆弾と相違ないではないか。

 思考すらままならない中で、気絶だけはするものかとヴィルマは必死に意識を繋いでいた。

 

 この攻撃は流石の金の獅子にも負担がかかるようで、地面にめり込んだ腕を持ち上げるのに苦労している様子だった。

 しかし、かの獣の視線は変わらずこちらへ向けられている。寸前に割り込んできたヴィルマに対する怒りを滾らせて、腕を引きずってでもこちらへ歩んできそうな勢いだ。

 自分の意思に応じない身体にヴィルマが焦りを抱いていたその時、唐突にヴィルマの開いた口に何かが突っ込まれた。

 

 これは、自分ではない誰かの指。フレアだ。そうだ、フレアは無事なのか。

 感触を探ると、彼女はまだヴィルマの腕の中にいた。抱え込まれたままで何かをしていたようだ。

 少なくとも先の大技から彼女を庇うことはできたらしい。それに安堵するより先に、フレアが声を発した。

 

「サミがくれた竜人族の薬。噛んで、飲み込んで。すぐに動けるようになる」

 

 ヴィルマの口から指を引き抜いたフレアの指示に素直に従う。口の中に置かれた丸薬を噛み潰し、味など気にせずに飲み込んだ。

 フレアがヴィルマの腰に手を回す。ヴィルマの氷の剣が落とされてないか、触れて確かめたようだ。

 幸運にも、肩から提げた頑丈な革帯は千切れ飛んではいなかった。それ以外の、装備の背中部分は雷によって焼け焦げてしまったようだが、肉が削げ落ちていないなら幸運の範囲内だろう。

 氷の剣とヴィルマの無事を同時に確かめたフレアは、ヴィルマの胸元で再び呟いた。

 

「決めよう。もう持たない」

「……ああ」

 

 フレアがヴィルマのもとで立ち上がる。そのままヴィルマの手を取って引っ張り上げた。

 起こされたところで再び崩れ落ちるかと思われたヴィルマだが、足取りは覚束ないながらもそのまま立ち上がることができた。

 痛覚は遠く、感覚は鈍く、身体の内が熱を持った感じがする。治癒というより気付けの類だろうが、よく効いている。少なくとも今はこれで良いのだ。

 

 おかげで、今、振るわれた金の獅子の拳から逃れることができた。

 人の胴より遥かに太い腕が、先ほどまで二人が横たわっていた地面を砕く。

 ヴィルマは氷の剣を手に取った。柄から逆流する冷気は、感覚の鈍っている今では少しばかり苦痛が減じているように思える。

 目視はしていないものの、フレアも同様に炎の剣を手に取っただろう。

 きっと今後、二人の側か、金の獅子か、どちらかが倒れるまでもう手放すことはない。

 

 

 

 疲労はすぐに訪れた。やはりフレアを庇ったあのときの傷が響いているようだ。ヴィルマの背中は今、ひどい有様になっているのだろう。

 もともと無理をしていた身体だ。目の前の獣のように誤魔化すことはできず、怪我の類は忍耐したところでそう長く持ちこたえられるものでもない。

 限界を引き延ばすような真似は極力避けたい。喉が張り付くような渇きと痛みを覚えながら、ヴィルマは目の前の金の獅子を見た。

 

 いや、その金色は。その雷は、今まさに黒へと変じつつある。

 まだ瀕死というわけではない。その力は完全に失われるには至っておらず、以前として強靭な拳を振るい続けている。

 ただ、あの異常なまでの筋肉の硬化や身に纏う雷は決して無制限ではなかったのだ。そうでなければ、そもそも黒の獅子の状態を持つ理由がないから。

 長年竜と戦い続けたヴィルマとフレアは、その点の見解は一致していた。

 だからこそ、その燃え滾る怒りが続く限り存分に暴れさせ、自然にあの状態が解けるまで待ったのだ。

 金の獅子が自らの意思で、あるいは意図せずとも生物の限界として己の雷を手放すとき、しばらくはどうやっても雷を扱えなくなるはずだ。

 その瞬間を、狙う。

 

 金の獅子は己の身体を掻きむしっていた。ヴィルマとフレアを亡き者にしていないのに、自らの雷が解けることが許せないのだろう。

 しかし、既に相当の無茶をして長引かせていたであろう金色は、抗いようもなく波を引くように引いていった。

 今思えば、この戦場にフレアが駆け付けて戦いが本格化してから今に至るまで、延々とかの獣は雷を纏っていた。恐らく、ヴィルマが気絶していた時間よりも長い。

 

 これほどまでに長く争い続けた経験が、ひょっとするとかの獣にはないのかもしれない。それは、かの獣があまりに強すぎるが故に。

 白い息を吐きながら、ヴィルマは嗤った。

 もしそうならば、ひとつの戦いを長引かせるという点でのみ、こちらの方が経験豊富ということか。

 何せ、鋼の龍との決戦では、今この場に転がっている対竜兵器の十倍近い数を動員して、半日に渡って延々と争い続けたのだから。

 

 駆ける。もう駆け引きは終わった。こちらが倒れる前に、力を振り絞れるうちに、走るのだ。

 途中でフレアが合流した。かの獣の正面から、二人して愚直なまでに真っすぐ走る。互いの手には、氷の長剣と、炎の短剣が握られている。

 

 当然、黒の獅子は迎え撃つことを選んだ。ここで迎撃を選ばないのはもはや己ではないのだとでもいう風に。

 雷を纏えなくなったとしても、以前として人ひとりを殺すには十分すぎる力を持っている。

 これまでに軽く数百回は振るわれただろうその拳が、ヴィルマたちを屠るべく力を籠める。

 ヴィルマたちは剣で受ける構えのようだ。もしくは、その刃で拳ごと斬るつもりか。

 

 黒の獅子は賢く、人の使う道具というものを感覚的に理解しつつあった。二人の扱うその剣は確かに数少ない脅威足り得るが、どちらもこの腕で受けることができる。

 特にヴィルマの剣とは一度打ち合っているし、実際に手で握りもした。もう驚くこともない。

 雷なぞ纏わずとも、十分に受けきれる。いくらかの肉はくれてやってもいい。

 代わりに今度こそ、今度こそ、その唯一とでも言うべき切札を封じた上で殺すのだ。強き者の蹂躙を、蹂躙のままに終えるのだ。

 

 獅子の拳が襲い掛かる。氷の剣が振り下ろされ、炎の剣が突き出される。

 瞬きの後、それらは激しくぶつかり合う────はずだった。

 

 ばんっ、と、炸裂音がその場に響き渡った。

 これまでの戦いでは発されたことのない音だった。それと同時に、爆弾ほどではないものの、小規模な爆発が黒の獅子の拳の先で弾ける。

 かの獣は反射的に手を引いた。対竜兵団と交戦していたときに受けた爆弾の爆発が脳裏によぎったのだろう。

 もし、咄嗟の反応を捻じ曲げて強引に拳を突き出していたなら、その後の展開は大きく変わっていたかもしれない。

 

 どつ、と。

 

 二本足で立ち上がり、殴りかかる体勢で僅かに身を逸らしていた黒の獅子が、その体制のままびくりとその身を震わせた。

 幾多の竜と戦ってきたであろう黒の獅子にとって、最も狙われにくく、それ故に最も守りの弱い部位。

 漆黒の毛が最も薄い腹に、これまでほとんど振るわれることなく、切れ味を保っていた氷の剣が深々と突き刺さっていた。

 

 明らかな深手だ。けれど、黒の獅子は氷の剣と、それを突き刺したヴィルマを見ることはしなかった。

 かの獣は頭上を見ている。ソレに対処しなければいけないことは分かっているが、今、己の腹に氷の剣が突き刺さった衝撃で、動きが緩慢になる。

 今、炎の剣を逆手に持って飛びかかってくるフレアに対処しなければならないのに──。

 

「ああああぁぁッ!!」

 

 氷の剣と炎の剣を強く打ち合わせることで起こる爆発。いつかのヴィルマとフレアを吹き飛ばした剣戟。

 黒の獅子どころか、二人以外の誰も知らない特異な反応の爆風を受け、フレアの身体は宙に舞う。

 

 そして、渾身の力を込めて。

 かの獣の爛々と光る眼を、炎の剣で切り裂いた。

 

 炎の軌跡が弧を描く。振り抜かれても血飛沫は舞わない。

 落下したフレアはごろごろと地面を転がった。無茶をした反動か、すぐに起き上がることができず、苦しそうに息をしながら黒の獅子を睨む。

 黒の獅子は、まるで時が止まったかのように、両腕を振り上げた体勢のまま微動だにしなかった。

 

 黒の獅子の腹に突き刺さっていた氷の剣をヴィルマが引き抜く。

 氷と霜に上塗りされたその傷からは、やはりすぐに血は噴き出ず、しかし、かの獣の体温で少しずつ溶け始めたことで、徐々に決壊していく堰のように血を流し始めた。

 剣を引き抜いたヴィルマが二歩、三歩と後退ったところで、ようやくかの獣の手足が動き始める。

 

 黒の獅子の片方の手は、ヴィルマに貫かれた腹へ。もう片方の手は、その顔面に当てられた。

 斬撃の直前、反射的に閉じられた瞼は、その厚い皮膚により竜の鱗や炎から目を守る。

 けれど、龍の発する炎は。使用者の腕すら焼き焦がす灰燼の剣による斬撃まで、防ぎきることはできなかったようだ。

 フレアの斬撃は黒の獅子の両眼と、それを仕舞う頭蓋までも、一文字に焼き切っていた。

 

 四つ足になる。その場で何度もよろめく。痛手を負ったことによる怒りは、点火することなく霧散していった。

 呻き声をあげ、黒の獅子はあてもなく歩き出した。腹の傷を庇って、足を引きずりながら、この戦場から離れようとする。

 人が歩くほどの速さでゆらゆらと歩く黒の獅子の目の前に、ヴィルマが立った。

 

 ヴィルマの手には氷の剣が握られている。その腕はかつてと同じように霜で覆われている。

 ヴィルマの足音に黒の獅子は気付いていただろうが、最早、片腕を振り払うことすら、かの獣はできなかった。

 ヴィルマの兵士たちがどんなに手を尽くしても届かず、フレアですら一瞬触れるだけで精一杯だったかの獣の頭部が、無防備にヴィルマの頭上に晒されている。

 

 ヴィルマは氷の剣を振り被った。

 

 既に罅割れていた片角が、重い音を立てて地面に転がった。

 

 

 

 氷の剣の柄から手を離すのは、やはり難儀する作業だった。

 先ほどと同じように、痛覚以外の感覚と握力がほとんど失われた手から剣を引き剥がしていく。皮膚は氷に癒着していて、掌の皮はほとんど捲れてしまったかもしれない。

 氷の剣の刀身は血に汚れることがなかった。返り血を浴びたところで、その全てを凍て付かせて膜のように剥がれ落ちていくのだろう。

 

 フレアの元へと歩く。ふらふらと、気を抜くとそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

 フレアは寝転んだ体勢のまま、ただ息をしていた。精魂尽き果てたという様子だ。手放された炎の剣が、ちりちりと火花を発していた。

 ヴィルマはフレアの傍に膝を付き、手を伸ばした。

 

「立てるか?」

「うん。……あれはもう死んだ?」

「ああ。もう息はしてない」

 

 フレアが伸ばした手を取る。そのまま、フレアの身を起こした。

 自分で起きれなくはなかったのだろうが、それすら億劫なのだろう。素直にヴィルマの手を取って起こしてもらったフレアはしかし、二人ともそのまま手を離さなかった。

 

「冷たい」「温かいな」

 

 ほとんど無意識に零れ出た言葉だったのだろう。ヴィルマとフレアは互いの腕を見る。

 互いの手の様相とその温度は、あまりにも対照的だった。一方は赤黒く、炭と見紛う程に灼けていて、一方は青白く、氷像と見紛う程に凍てついている。

 あまりに痛々しい有様に、思わず両手を重ね合わせた。

 この焼け焦げた手が熱を与えられるなら、この凍り付いた手が熱を奪えるのなら、醜いこの手を差し出す意味があるのかもしれないと思った。

 

「ありがとう」

 

 フレアが顔を上げると、ヴィルマが俯いているのが見えた。僅かに震えている肩が、彼が何かを堪えていることを物語っていた。

 感じ取れるか否かという程の弱々しい力でフレアの手を握る。今、ヴィルマが込められる力はそれが全てだった。

 はっ、はっ、と。息を整えるフレアの呼吸の音が、激闘の余韻として沈黙を埋めている。

 

「ありがとう。本当にありがとう。君のおかげで、俺は……」

「…………」

 

 ヴィルマの言葉にフレアは何も返さず、ゆっくりと辺りの景色を見渡した。

 ほとんどの兵士が退避を終えただろう戦場には、兵器の残骸と逃げ遅れた兵士の遺体が散乱していた。

 空中で喚いていた黒い蛇の竜はいつの間にかその数を減らし、数匹だけが未だ高空を舞っている。

 きっと、この人はこれからが大変なんだろうな、とフレアは思った。仲間の一人ひとりを大切にする人だがら。

 

 風が吹く。傷跡が染みる。窪みと罅割れだらけの広場に、二人だけがいる。

 彼は今、どのような気持ちでフレアに言葉をかけているのだろう。

 

 かすかな力で握られた手を、それよりも少しだけ強く握り返した。

 

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