四年越しに見た彼女の表情は、しかし、大人びたという表現はそぐわないように思えた。
見た目から推測される年齢からも、身体の成長はするだろうし、実際にその通りに見えたが、表情だけが年月にそぐわないように見えるのが少し不思議だった。
ただ、あのときは毒を撃ち込まれていたし、今は先ほど黒の獅子に投げ飛ばされたために視界が若干霞んでいて、はっきり見えているとは言えないのが実情ではあったが。
彼女はヴィルマをちらっとだけ見て、視線を交わすこともなくすぐに黒の獅子の方を向く。それを見たヴィルマも、呆気に取られていた己を無理やり現実へ引き戻した。
今の数秒間の空白が、己にとってこの戦いの最大の隙と言えるようにしよう。そう自分に言い聞かせ、今一度立ち上がった感触を確かめる。
金色の雷を無理やり引き剥がされた黒の獅子は、ヴィルマたちよりも、自らの力が抜けた要因が気になっているのか、苛ただしげに尻尾の辺りを擦っている。
彼女の斬撃は相当深くまで入ったようだ。それなのに鮮血が噴き出していないのは、彼女の握る炎の剣が、その傷跡を焼き切ってしまったからだろう。
切り傷が一瞬で止血されるというのは一見難点のように思えるが、火傷の治りはふつうの傷よりも遥かに悪い。それは竜や獣であっても恐らく同じだ。
黒の獅子がこちらへの注目を逸らしていることを十分に確認した上で、ヴィルマは駆け付けた彼女に声をかけた。視線は、黒の獅子から外さない。
「君は、一人でここに?」
「ううん、このあと本隊が来る。進むのが遅いから先に来ただけ」
「同じく黒蛇の竜退治か……俺が生きていたこともばれたみたいだな」
「うん。だからどさくさに紛れて殺してこいって」
「それなら、今の黒の獅子を止めなければよかったんじゃないか?」
彼女に阻まれたことで放たれなかったあの拳は、まさに致命の一撃だった。ヴィルマに迎撃も回避も選択させない、十分に死を与え得る機会だっただろうに。
そんなヴィルマの疑問に、彼女は小さく嘆息してから答えた。
「あそこであなたが死んだら、私が困る。あの獣相手に一人でやり合えるとは思えない」
「それは、まあ、たしかにそうだが……」
つまり、ヴィルマを囮として運用したいがためにあえて生き残らせた、ということなのだろうか。
歯切れの悪い返事をしたヴィルマは、後に続けようとする言葉を一度飲み込んだ。
今は詮索をしている時ではない。この場を切り抜ければ、おのずと見えてくるものもあるだろう。
この暴力の嵐を相手に、彼女が命を捨てにきたわけではないことが分かった。であれば、元が殺し合う者同士であっても協力はできるはずだ。
「場所を移したいんだが、できるか?」
「そこの人を巻き込みたくないから?」
「ああ。発煙筒を転がしておくから、まだ動ける兵士がいれば助けに来てくれるかもしれない」
「当てはある?」
「ここから右に何十歩か、残骸が少ない広場に出るはずだ。そっちの方が動きやすい」
「分かった。急ごう」
自らの意思で戦いの場を移せる機会なんて今後は訪れないだろう。選択肢は常に強者が握っていて、力で及ばぬ者はその隙を伺って動くしかない。
ヴィルマたちがそっと駆け出したのを、黒の獅子もまた見ていた。尻尾と臀部を切り裂かれた怒りがふつふつと湧いてきたのか、牙を剥いて地を蹴る。
人の足と獣の足とでは、圧倒的なまでに速さが違う。その差はみるみるうちに縮まっていき、あわや接触か、という直前に二人揃って身を投げ出した。
黒の獅子の腕と指が空を斬る。あれに掴まれようものなら、その腕力で肋骨が砕けるまで鷲掴みにされ、口から噴水のように血を吐く未来が見える。
「ペッ……なんとか辿り着いた……う、ぉっ」
泥まみれで土を吐きながら、しかし、言葉を話す間すらない。
ヴィルマの頭上から降ってきた拳は、掠るだけでもヴィルマの頸椎が軽くへし折れるだろう力を漲らせていた。
間一髪で避けられた拳はそのまま地面に叩きつけられ、重々しい振動と共に、地表に膝が埋まるほどの深さの跡を残す。
息が詰まる。走った後の息継ぎすらままならない。次が来たら苦しいが、見逃されはしないだろう。
とにかく視線を外さないことだ。ヴィルマが振り返ろうとしたところで、再び彼女が動いた。
小柄な身長を活かし、ヴィルマと黒の獅子の間をすり抜けるようにして剣を振るう。
黒の獅子の腕に吸い込まれていった刃は、かつてのように弾かれることなく黒い毛皮を切り裂いた。
あの、もとが筋肉だったとは思えない鋼のような硬度は、やはり金色の雷に紐づいていたのか、と再確認する。
そして、今回は炎の軌跡が描かれなかったことに気付き、彼女の持つ剣を見た。
炎の剣ではない。標準的な鉄製の剣だ。よく鍛えられていて切れ味も申し分ないようだが、黒の獅子の厚い毛皮を一撃で突破するには至らない。
その証拠に、黒の獅子の腕からの流血はほとんどなかった。じわりと毛に染み込む程度だ。
僅かに動きを止めた黒の獅子は、しかし、纏わりつく小蠅を追い払うように無茶苦茶に腕を振るい始めた。
巻き込まれて、軽くあの腕が振れるだけでも大怪我に繋がりかねない。二人して何とか抜け出して、ようやく、一息だけをついた。
「あなたも、ふつうの剣を持って」
「え?」
「今持っている剣、氷の剣でしょ。腕が凍るっていう、あの。早く手を離した方がいい」
黒の獅子が吼える。今度は目の前のもの全てを薙ぎ払っていくような殴打の連続を繰り出してきた。
ヴィルマは取り急ぎ、彼女の回避の仕方を真似ることにした。ヴィルマには、こんなにも長い時間、敵からの標的であり続けた経験がほとんどなかった。
対して、彼女はヴィルマに声をかける余裕すらある。彼女の指摘を受けて、ヴィルマは己の腕から感覚がなくなりかけていることに気が付いた。
氷の剣の柄から伝う霜は、既に肘まで達していた。凍傷はもう間違いない。このまま握り続けていれば、指から腐り落ちていくだろう。
もともと、そこまで長く握り続けることを想定されていないのだ。一太刀入れたらすぐに鞘に戻し、しばらく手を休めるのが本来の使い方だ。
彼女もそれを分かっての指摘だったのだろうが、ヴィルマは迷いを抱えていた。
「だが、これでなければ……ッ、まともに攻撃が通らない!」
黒の獅子の猛攻は続く。ただでさえ遮蔽物の少ない広場に走ってきたのだ。建築物や塹壕を隠れ蓑にすることもできず、その身一つでかの獅子の攻撃から逃れ続けるしかない。
舌を噛まないように声を発することだけで精いっぱいだった。呻きにも近しいヴィルマの言葉は、ともすれば黒の獅子が暴れる音にかき消されそうになる。
「分かってる。でも、無茶をするのは今じゃない!」
「今でなくてどうするんだ!? たとえ俺の腕が潰れようと、兵団の皆と君が逃げる時間を稼がなければ……!」
「さっき、私ひとりじゃ太刀打ちできないって言った。あなたの腕がダメになったら、この獣は倒せなくなる!」
「倒す……!? もう対竜兵器は使えない。俺たちの兵団は撤退しているんだ! 君のいる部隊が来るまで持ちこたえろと!?」
「違う。なんで……」
掴まれそうになって、それを避ける。角に串刺しにされそうになって、体を捻る。地面の振動に、手をついて耐える。斬撃を与え、少しでも傷を与える。
黒の獅子の雄叫びに負けないように声を張り上げていたヴィルマたちは、しかし、かの獣が距離と取ったことで並んで身構えた。
「なんで、他の人がいないと、この獣が倒せないってことになるの?」
「それは──待て。君は……俺と君の二人でアレを倒そうと考えてるのか……?」
「何かおかしい? 切り抜けるには、それしかないと思う」
「そう、だが……」
それは、可能なのだろうか?
彼女の言わんとすることは、人という種が持てる兵器や数の利といった武器をかなぐり捨てて、その身一つで化物を討ち取れということだ。
ヴィルマも兵団を率いる身であるため、軍学や戦術を一通り学んできている。その教えのどこにも、竜や獣を一人二人で相手取れるとは書いていない。それが成り立ってしまうなら、あらゆる戦術は根底から瓦解してしまう。
ヴィルマの常識的には、ありえないことを彼女は話している。ヴィルマが考えもしなかった手段を、彼女は思い描き、ヴィルマに示している。
あの状況に追い込まれた時点で、捨て身になるしかないような考え方をしたのも、組織でなければ竜には立ち向かえないという思想が根底にあったからだ。
距離を取っていた黒の獅子は、こちらを誘い出そうとしていたようだ。この膂力に加えて知恵もはたらくなど厄介極まりない。
しかし、周りを巻き込まないためにも、ヴィルマたちはその場で動かず身構える。その様を見て、黒の獅子は唸り声をあげて突進してきた。
腕を前に出すのではなく、角を振り上げるような仕草。爆弾により片割れを失い、歪さを増したあの角は、幾多の兵士を打ち据え、貫いてきたのだろう。
避けようとする直前に、付け加えるように彼女が呟くのを、ヴィルマはかろうじて聞き取った。
「あなたは、あんなにも生きようとしてたのに」
「──それは」
「あなたの手紙を読んで、私はここに来た」
互いに左右逆の方向へ、横っ飛びして突進を避ける。
黒の獅子は彼女の方を狙い、軌道を変えて執拗に追いかけたが、身を屈めて半ば四足で走った彼女は、何とかその場を潜り抜けた。
彼女の短い言葉には、数々の言外の意思が込められている。そのことだけは、分かった。
彼女は彼女のやりたいようにやる。ヴィルマの命を奪うはずだった一撃を切り裂き、今、必死に走り回っているように。
それは、ヴィルマがどれだけ仲間を失っていようが、圧倒的な力に打ちのめされていようが、関係なくだ。
あとは、彼女の提案にヴィルマが乗るかどうか。
先に暗殺されかけたときもそうだったが、彼女は──フレアは、本人の意志に因るものかは分からないが、ヴィルマの人生を量るような選択を強いてくる。
「────十秒だ! 十秒引き付けてくれ!」
ヴィルマの声に対し、フレアからの返答はなかった。状況的にそれどころではないというのが正しいが。
しかし、ヴィルマの動きによって彼女の動きが明らかに変わった。回避一等辺だった足を突然逆に踏切り、剣を抜いて黒の獅子に肉薄していく。
「……づっ、ぐ……!」
長く握り続けた氷の剣を離すのは至難の業だ。
黒の獅子に刀身を鷲掴みにされ、そのまま放り投げられても剣を手放さないでいられたのは、剣の柄の方がヴィルマの手を離さなかったから。
厚い氷で押し固められた手を無理やり引き剥がそうとしているような、感覚を失った腕に渾身の力を込めて、ゆっくりと指を動かしていく。
歯を食いしばり、唸り声をあげて、ただ剣を離すという動作に何秒もかけて、ようやくその束縛から逃れたとき。
その掌からは、細かな膜状の氷と霜がはらはらと零れ落ちていった。
しばらくすると襲ってくるであろう凍傷の痛みと痒みを覚悟して、こわごわと拳を握っては開く。頬に手を当てれば、ほぼ氷も同然の冷たさが伝ってきた。
腰に提げた鉄製の片手剣は、まだ何とか握れる。しばらくはまともに振るえないだろうが、牽制くらいはできるだろう。
氷の剣を握っていた今、その片手剣はあまりに細く頼りなさげに感じたが、それこそ、力に溺れていた証拠と言えるのかもしれない。
ここまでに十秒。しっかりと彼女に任せてしまった。
「すまない! 遅くなった!」
声を張り上げて地を蹴る。剣と拳による熾烈な攻防の中へと踏み込んでいく。
ここから先は、ヴィルマの知らない領域だ。
たった二人の人間と、あまりにも短い時間で百人の人間を屠った化物との戦いが始まった。
フレアに殺されかけたあの日から、ヴィルマは内密に対人戦闘の訓練を重ねていた。
国の守護を担う騎士や軍に依頼し、剣の打ち合いを重ね、切札である氷の剣の有効な使い方も模索してきた。
そのため、兵団を指揮する立場ではありつつも、戦闘技術は以前よりも向上していると自負していたのだが。
フレアという戦士を前にすると、そんな自信は見る影もなく萎れていってしまう。
それこそ、竜や獣を相手取ったときの彼女は、ヴィルマも初めて見るものではあったが、もはや次元が違う。
そのいずれの動きもが人という生物の範疇を超えないものだ。果てしない実戦経験から形作られたのであろう、対竜専用の立ち回りだと読み取れてしまうが故に。
フレアが、数ある兵士の一人という立場でありながら、単身で竜を相手取る場面がほとんどであり。
彼女こそが西シュレイド王国の対竜兵器と言って差し支えない、ということまで、頷きざるを得なかった。
「後ろに飛び退いてくる。蹴られるから一旦引いて!」
「ああ!」
「私を見てる。背中が空くはず。相手をするから斬って!」
「……ッ、分かった!」
目まぐるしく指示が飛ぶ。いつ息継ぎをしているんだ、と疑問を抱きながら、ヴィルマはフレアの指示に従っていた。
鎧袖一触を体現する黒の獅子の攻撃を躱していく。黒の獅子は何も適当に相手しているわけではない。羽虫のごときそれを早く捕まえて、地面に叩きつけてやりたいはずだ。
拳を突き出せば後退し、頭突きを見舞えば潜り込み、両手で叩けばその腕に細い手を突いてひらりと飛び越える。黒の獅子の鼻息がどんどんと荒くなっていく。
あんな動きはふつうできない。正面に立っただけで腰が抜けそうになる程の圧だ。委縮して、身体が強張るのが当たり前のはずで、ヴィルマを含む対竜兵団の動きがそうだった。
あの獣と一対一でやり合うという恐ろしい光景を傍目に見ながら、ヴィルマはその背後を取る。
目まぐるしく動く肉体に刃を当てること自体が至難の業だ。しかし、やらなくてはならない。ヴィルマは一気に踏み込んだ。
両手で鉄の剣を握り、振り抜く。フレアが最初に炎の剣で刻んだ火傷の痕の、指三本分ほど上に刀身が当たる。
当然、刃は厚い毛皮に阻まれる。木こりであればへたくそだと笑われるだろう。しかし、なりふり構ってはいられない。
黒の獅子は即座に反応した。振り向く動作に付いてくる腕は肘打ちや裏拳と同義だ。フレアのように受け流す技術を持たないヴィルマは大きく避けるしかない。
木に食いこんだ斧のようにつかえた刀身を引き抜き、すぐに飛び退く。あと一秒でも手間取っていたら、剣を手放すことになっていただろう。
大丈夫だ。ヴィルマを前にするということは、フレアに背後を取られるということ。
正真正銘の化物である黒の獅子も、背後に目が付いていたり、同時に二人を相手取れるほどに直感に優れているわけではない。
黒の獅子の瞼がひくついた。フレアが斬ったのだ。ヴィルマのようには外さない。
今度こそ鮮血が吹き出る。大弩の矢が当たったとき以来だ。ますますフレアが対竜兵器じみてきている。段階を重ねているとはいえ、大弩と同じ火力を彼女が出していること自体が尋常ではない。
みち、と、黒の獅子の箍が外れる音がした。こうも分かりやすいのか、とヴィルマは思った。恐らく、全身の筋肉が容積を増した音だ。
黒の獅子から金の獅子へ。フレアが小さく息を呑むのが見えた。そういった反応を見せるのも頷ける。
荒々しい雷を身に纏い、黄金の毛を逆立たせる様は、見る者の心を奪うものがある。
そのまま後ろに飛び退いた黒の獅子の口元からは雷が迸っている。その様を見るなり反射的に動いた己の身体をヴィルマは褒めた。
半ば飛び込むようにして、少女の肩を押す。
「
ヴィルマの声を遮って、雷の束が空気を焼いていく。
楯を構えようが、地面に伏せようと無駄だ。あれに触れてしまった時点で、防具だろうが四肢だろうが、命さえも消し飛んでしまう。
フレアと共にごろごろと地面を転がり、追従してくる雷の束に恐れおののき、地面に手を突いてさらに走る。
どんなに無様だろうと構わない。ヴィルマは逃げることに必死だったが、フレアは違ったようだ。
目を見開き、四つ足の方が速いのではという勢いで金の獅子の方へ肉薄していく。
金の獅子はこのブレスに自信を持っているようだった。実際、何人もの兵士をその雷で葬り去ってきたのだろう。薙ぎ払えば、自身が暴れるよりも何倍も広い領域が更地と化す。
怒りによって増幅された雷を存分に吐き出し、息継ぎをするために出力を少しずつ絞っていき、溜まっていた鬱憤が少しは晴れたかと呼気を紛らせた。
フレアの掌ほどの小さな白刃が、金の獅子の目と鼻の先で踊った。
跳躍。暗殺用の短剣を手に取り、その眼を狙って刃を走らせる。
金の獅子は目覚ましい反応を見せた。途切れる寸前だった口元の雷が再燃する。
かつてのヴィルマとの打ち合いのように、暴発気味にブレスが弾け、フレアの身体が紙のように舞った。
「フレアッ!!」
金の獅子の悲鳴が聞こえると共に、ヴィルマが滑り込む。フレアは軽いだろうが、受け身も取らずに地面に激突すれば無事では済まない。
ここしばらくヴィルマは地に膝や尻をつくばかりだ。背中に背負った氷の剣の鞘ががりがりと地面を引っ掻き、間一髪、その手元にフレアの身体が収まった。
「くっ、つぅ……」
「大丈夫か?」
「……うん」
目が焼かれたり鼓膜が破けたりしていないか、本人も不安に駆られていたようだったが、運よくどちらも無事だったようだ。
ただ、体の怪我は酷い。あの一瞬で雷が彼女を焼いたようで、衣はところどころ破け、表皮も黒ずんでいる。あれを連続して浴び続ければ文字通り塵と化すため、これでもまだましな方なのか。
「立てるか?」
「うん」
酷だが、支障がないならすぐに立たせる必要がある。今までの間、ヴィルマはほとんどフレアを見ずに金の獅子の動向を窺っていた。
ただ、今の隙だらけのヴィルマたちに対して追撃が来ない時点で、金の獅子の状況もある程度は察することができる。
くぐもった声、口元を手で覆う仕草、その手からぼたぼたと流れ出る血。
尻尾を斬られたときと違って脱力しているわけではないようだが、状態としては遥かに深刻であることが見て取れる。
ヴィルマからははっきりと見えなかったが、一体何が起こったのか。その疑問には、ヴィルマの腕を借りつつ立ち上がったフレアが答えてくれた。
「眼は守ってきたから、代わりにあの口の中にナイフを投げた。でも、ほとんど自滅だと思う」
腰に提げたポーチから乾燥した草の葉を取り出し、患部に擦りつけると共に、無造作に口に入れる。兵団や軍隊でも広く使われている薬草だろう。
彼女もまた、金の獅子を見ていた。
彼女が手に持っていた短刀は、咄嗟の判断でかの獣の口内に投げ入れられた。
あの筋力と鋭い牙であれば、普通であれば短刀程度余裕で噛み砕けるのだろうが、ブレスを放とうとしていた直前だったのが悪かったようだ。
彼女のことだ。鋭い投擲は金の獅子の喉奥を貫き、一時だけでも息を詰まらせたのだろう。人であれば即死だ。
結果としてあの雷の制御が効かなくなり、弾けたブレスは口内を焼いた。べったりとした血と共に、牙が抜けて零れ落ちる。
短刀も誤って飲み込んでしまったのだろう。息をしずらそうにえずく様がその証拠だ。
ヴィルマはただ驚いていた。あの化物が追い詰められているように見えるのが不思議でならない。
この感覚は鋼の龍と相対しているときも感じたが、今、それを成したのはたった一人の戦士だ。それが何よりも信じ難かった。
「追撃を入れよう」
フレアが問題なく立てていることを確かめてから、ヴィルマはフレアに声をかけ、駆け出した。頷いたフレアも後を追う。
この好機を逃す手はない。気を急いては痛い目を見るため観察に徹していたが、もう十分に待った。
二人が迫ってきていることに金の獅子は気付いているようだったが、未だにその場から動けずにいた。ぐらりと大きくよろめく様は、尻尾を切ったときすらも見せなかった。
氷の剣の抜き時かと考える。できれば畳み掛けてしまいたい。今、一番の火力を出すにはそれしかないだろう。
ようやく血が巡り始めた指先を再び凍らせるのは酷なことだが、と、ヴィルマが氷の剣の柄に手を伸ばしたとき、金の獅子の両腕が強く地面を叩いた。
どん、と、周辺の地表に触れていた物たちが僅かに宙に浮く。その場で小さな地震を起こしたようなものだ。ヴィルマたちの足も強引に止められる。
金の獅子が古の龍ならば、それはその比類なき膂力か、どこからか溢れ出てくる黄金の雷のどちらかだろうと考えていた。
しかし、その何れもが果てしない闘争本能と際限のない怒りによってもたらされたものであるとすれば、龍としての本質はそこにあるのかもしれない。
口からの流血は続いている。これまでに負った傷が塞がったわけでもない。しかし、もはや己さえも顧みず、金の獅子は咆哮と共に両腕で天を掻きむしった。
腕の筋肉が限界を超えて膨張する。筋繊維が表皮を圧迫し、金色から赤く染め上げていく。体液はすぐに揮発して湯気となり、背の雷が伝って火花のように散る。
これだ。この状態の金の獅子がヴィルマの部隊を壊滅に追い込んだのだ。
つまり、これからが本番ということ。本当の正念場は今、ここから始まる。
「どうしてこんな化物と正面切って戦ってるんだ? 罠、不意討ち、遠方からの一方的な射撃が定石じゃないのか」
「それができる相手だと思う?」
「……一周回ってってことだな」
膝の震えは隠せそうにない。腹の底から湧き上がってくる恐怖をごまかすためにヴィルマは軽口を叩いたが、あっさりとフレアに返されてしまった。その淡々とした返答が、むしろ落ち着きを取り戻してくれる。
ふっとフレアが息を吐いた。手持ちの剣は刃毀れしたり取り落としたりと、ずいぶんと少なくなっている。
それ故か、最初の一撃を除けば初めて、フレアは炎の剣を手に取った。
指で柄に触れて、反射的に放しそうになり、それを無理やりにでも掴む。
炎を直に掴んでいるようなものなのだろう。手袋をしたところでほとんど意味は成さない。彼女の腕が刺青のように黒ずんでいるのはそのためだ。
ヴィルマも同様に、氷の剣を手に取った。氷の塊に手を突っ込むような痛みに慣れる日が来ることはないのだろう。ただ、痛いことそのものに慣れることはできる。
「これでも様子見。後ですぐに仕舞って」
「分かってる」
まだ金の獅子の体力は尽きない。けれど、かの獣から流れる血が有限の命を指し示しているようで、湧き上がる興奮が早鐘を打たせる。
こういうときこそ視野が広がり、冷静になるのがヴィルマだ。懐疑的だった心はもう覚悟を決めた。後はどちらかが死ぬまで戦うのみだ。
炎の剣が熾り、氷の剣が覚める。雷の獣が拳を握る。
激闘が幕を開けた。