ヴィルマフレアの英雄譚   作:Senritsu

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第12話 手向けるは夢の終点

 

 

 それは、鋼の龍との激戦を乗り越えて、勝利を祝う宴への招待状を書いていた頃のこと。

 暖炉に薪をくべて厳しい寒さを凌ぐ冬のことだった。

 

 槌が鉄を打ち、蒸気が吹き上がる音が響く。石畳を歩くヴィルマの足音はほとんどかき消されていた。

 前線都市リーヴェルの工房。建材から武器、鍋などの日用品まで幅広く扱うが、近ごろはほぼ兵器工場の体を為していた。

 炉の火を絶やさないために、昼夜を問わず数十人もの工員が交代で動いている大規模な工房だが、その中でも群を抜いて長い時間居座り続ける人物がいた。

 

 その人物を尋ねるべく足を運んだヴィルマは、既に工員たちから顔を覚えられていて、次々とかしこまった挨拶をされる。

 それに応えながら歩いていると、やがて辿り着く。黙々と炉の火に向き合っていた老婆は、周りの声で気が付いたのか、ふうっと息を吐きながら顔を上げた。

 

「いらっしゃい、旦那。何か用かい」

「お疲れ、鉄婆さん。大弩の修復の具合を見に来たんだが……」

 

 鉄婆と呼ばれたその老婆は、この工房の長であり、ヴィルマが生まれる前から槌を振るい続ける生粋の職人だった。

 長年、鉄や鋼が打たれる音を耳栓もなしに聞き続けていたので、大分耳が遠くなっている。ヴィルマが大声で、親しみを込めて話しかけると、彼女は鷹揚に頷いた。

 

「数が多い。壊れ具合が酷い。しかしあんたからの納期は短い。何か言い訳はあるかい」

「まったくもって弁明のしようがない。他の工房にも依頼しようかと思ったんだが……」

「ばか言え。こんな突飛な兵器、ふつうの工房の連中に扱えるわけないだろ。人向けの兵器に改造してほしいのかい」

「そんなわけない。そんなわけないから鉄婆に頼むしかないんだよな……本当に無茶な要求だったら遠慮なく言ってくれ」

「ふん。助けてくれとは一言も言ってないだろ」

 

 今、ヴィルマが鉄婆に頼んでいるのは、鋼の龍との戦いで損傷した兵器の修繕だった。

 かの戦いでは、大弩や大楯、兵士たちの武具が、都市内の予備まで含めてほぼ全て投入された。そうすることで平野に三重四重の防衛線を築く、まさに総力戦だった。

 その攻防が最終的に最後の防衛線までもつれ込んだのだから、兵器の損耗具合は推して知るべしといったところだった。

 

 つまり今は、竜に対する手札がほとんど無いという状況だ。手堅く立て直したいところだが、竜や獣は機を待たない。

 もし竜絡みの緊急の任務が国から発出されたとして、兵器無しで出向くのは自殺行為にも等しい。最低限の兵装はどうしても必要になる。

 結果、間違いなく国で唯一だろう、対竜兵器を扱えるこの工房の負荷がかつてなく高まっているのだった。

 

「ただし、鉄材の供給が一時でも途絶えたらその分後ろ倒れるからね。努力で鉄が早く冷えたりはしないんだ」

「分かった。肝に銘じておく」

 

 鉄婆は根っからの職人気質だ。彼女ができないと言ったことはできないし、必要なことだけを言う。

 良くも悪くも融通の利かない彼女に対し、ヴィルマは小さい頃から気を許していた。砕けた口調で話すことのできる数少ない一人だ。

 

「そう言えば、雪山遠征の帰りで渡したあの青い鉱石は何かに使えそうだったか? ええと、燕雀石だったか」

「いいや。ありゃあ使えん。強いて言うならあたしらにゃまだ早い。今の炉と鉄のハンマーじゃあ、あの硬さの鉱石は加工できないね」

「そうか……」

 

 職人に対して雑談は長くは続かない。

 それでも所在無げに、工房での作業に目が行っているふりをしてその場に佇んでいるヴィルマに対し、鉄婆は呆れた風にため息をついた。

 

「鋼の龍の角ならもう剣にできてるよ」

「えっ?」

「えっじゃないよ。さっきの燕雀石の話も、鋼の龍の角と組み合わせて加工できたらって思ってたんだろ。ふん、探りなんて入れずに最初からそうと言えばいいものを」

「ごめん……それで、その剣は近場にあるのか?」

 

 ヴィルマの問いに、鉄婆はまた鼻を鳴らした。

 小さい頃と性根がまるで変わっていない。もったいぶっているようで、自分の興味を抑えられていないではないか。

 この若造が都市の領主だなんて、よくやっていけているものだ。鉄婆は彼に会う度にそう思っている。

 

 若手の工員を二人呼びつけて、工房の隣の倉庫に向かわせた。しばらくすると、人の身の丈ほどに大きく頑丈そうな木箱が二人がかりで運ばれてきた。

 見るからに重そうだ。それに、氷室から運ばれてきた氷のように、薄く冷気を放っている。

 作業台の上に慎重に置かれたそれを、ヴィルマは興味津々といった様子で見つめていた。

 そんな彼の様子をちらと横目に見た鉄婆は、あまり焦らすこともなく木箱の留め具を外し、蓋を開けてその中身を晒した。

 

 一振りの剣が、眠るようにその身を横たえていた。

 工房は炉の熱で汗が噴き出るほどに暑いが、その熱気の中にあっても、ひんやりとした靄が足元に広がる。

 木箱の中には石綿を敷き詰めて保護をしているようだったが、石綿自体が結露して縮んでしまっている。木箱から漂っていた冷気は、その内にあった剣から生じていたのか。

 

「長剣か」

「そうだよ。あんたの希望通りにしたつもりだがね」

「ああ、十分だ。これだけ大きければ竜を叩き斬れるかもしれない」

 

 それに、皆の象徴にもなれる、とヴィルマは付け加えた。

 ただそこにあるだけで存在感を放つ、一目で強大であると分かる魅力的な剣だ。その柄を握ろうと、ヴィルマの手が自然と伸びる。

 その手を、鉄婆の手がぱしりと叩いた。

 

「……?」

「不用意に触ろうとするんじゃないよ。あんたは戦場に落ちた竜の棘に素手で触るのかい」

「いや、何も刀身に触れようとしたわけじゃない。剣の柄を握るくらいはしてもいいだろう?」

 

 困惑気味のヴィルマの声に、鉄婆は答えなかった。その代わりに、おもむろに両手に装着していた加工用の手袋を外す。

 年老いて筋張った手は、ところどころに包帯や布が巻かれていた。素肌が見える部分でも、腫れていたり、血色が悪い部分がある。特に指先は例外なくひどい有様だった。

 鉄婆は熟練の職人だ。彼女の手の大切さは彼女自身が最もよく分かっていて、今までに派手な怪我をしたことなどなかった。

 そんな鉄婆でも油断することがあるのだろうか……。

 自身の思い違いに気が付いたヴィルマは、はっと眉を上げた。

 

「何も考えずに触れるなって、そう言った理由が分かったかい」

「まさか……鉄婆のその手、凍傷なのか」

「そうだよ。この手の有様は全部、その剣を作る過程でできたものさ」

 

 まったくもって腹立たしいね。と鉄婆は木箱の中の剣を見ながら言った。

 

「とてもじゃないが、これは加工しただなんて言えない。戦場から拾い集められた鋼の龍の鱗と角を継ぎ接ぎして、型に嵌めて剣の形に押し込んだだけの代物だ。

 その作業だけで、こんだけの手痛いしっぺ返しをくらっちまった」

「……銘は?」

「銘なんてものは……いや、氷の剣とでもしておけばいいよ。銘をしっかり考えても、それを刀身に彫ろうものならこっちの腕が氷漬けになっちまう」

 

 匙を投げたような物言いの鉄婆だったが、彼女にも職人の矜持がある。

 誰にも触れられない剣になってしまわないように、最低限、剣を背負う者が体温を奪い尽くされないように保護はしているらしかった。

 ただし、剣の核である角にほど近い柄にまで保護を施すことはできなかった。どんなに握りを厚くしても、たちどころに冷気が伝っていってしまう。

 

「癪だがね、欠陥品さ、これは。燕雀石とは比べ物にならない天上の素材だ、あたしたちの手には負えなかった。

 それでも、担ごうと思うかい?」

 

 職人技術の敗北を包み隠さず伝えて、鉄婆はヴィルマの意志を確かめようとする。

 ヴィルマは微笑んで返そうとして、ふと、その表情を消した。

 一瞬だけ押し黙ったヴィルマは、しかし瞬きの間にいつもの好奇心旺盛そうな雰囲気を取り戻し、怖気づくそぶりも見せずに笑ってみせた。

 

「要は使い手が耐えればいいってだけの話だろ。剣の形に収まっただけでも大成功だ。むしろこれだけの曰くつきなら竜にも効くと確信できる」

 

 ヴィルマはそう言って、木箱ごと剣を引き取ることにした。

 使用人の手で丁重に木箱が運ばれていく様を鉄婆は黙って見ていたが、やがて本来の仕事である大弩の修繕に戻る。

 本来は職人のいるその場で試し斬りなどして細かな調整を行うべきだ。

 しかし、あの氷の剣に限ってはそう簡単に触れられる代物でもなく、調整など望むべくもない。

 加えて、あの剣は今後、ヴィルマを含む役人たちの協議にかけられるだろう。あらゆる意味で、普通の剣ではないからだ。

 政治的な運用まで視野に入ってくるのなら、それはもはや工房の手を離れていた。

 

 工房から出るときに、ヴィルマは自らの手を見た。鉄婆ほどではないが、細かな傷だらけで筋張っている。

 あの器用な鉄婆があそこまでの負傷を余儀なくされた剣だ。当然のようにヴィルマにも牙を剥くだろう。

 下手をすれば、剣に己を食われてしまうかもしれない。先ほど、無意識に手を伸ばしかけたように。

 既に傷だらけで深手も多く、明日竜に腕ごと食われても全くおかしくはない身だ。そう身構えることではないかもしれないが。

 

 開いていたその手を握る。そして前を見て石畳の道を歩いた。

 示さなくてはならない。たとえ自らの腕が蝕まれても、使いものにならなくなったとしても。

 竜に打ち負けない剣は存在するということを、この手で証明してみせる。

 

 

 

 それは、赤髪の少女による襲撃を辛くも乗り越え、遠征に出れるまで体力を戻した頃のこと。

 長く続いた降雪がようやく収まり、人々が雪かきに追われる冬の終わりのことだった。

 

 雪に包まれた前線都市リーヴェルの通りに、かん、かんと甲高い音が響き、人々は顔を上げた。ちらほらと、街の門に向けて歩き出す者もいる。

 久々に大きく開放された城門の向こうに、何台もの荷車を毛象に引かせながら歩く集団の姿があった。

 商隊にしては多すぎる人の数に、防寒具にしては物々しい装備。

 荷車には投石器や丸太を削り出した杭が並べられており、まるで戦争にでも赴いていたかのようだ。

 街の人々は誰もがその正体を分かっている。この都市だけが有する軍隊、ヴィルマの率いる対竜兵団が遠征から帰ってきたのだった。

 

 雪の中を長く歩いてきたからか、兵士たちは疲れを顔に滲ませていた。

 しかし、皆が皆沈んだ顔をしているわけではない。街に帰ってきてほっとした表情を浮かべる者や、仲間と談笑し笑みを浮かべている者もいる。

 遠征が失敗に終わったわけではなさそうだ。もしそうなら、先行して街に知らせが来るので、街の人々もある程度は分かってはいたのだが。

 竜に対する備えや素材流通が経済の一翼を担うこの都市では、対竜兵団の遠征の結果次第で景気も変わってくる。

 年に何度かは出動しているため、そこまで珍しいという光景というわけでもないが、それでも通りには毎回多くの人々が集まって出迎えをするのだった。

 

 対竜兵団を率いているのは、この街の統治者も兼任しているヴィルマだ。

 政治の方ではほとんど籍のみ置いているような立場だが、人当たりがよく、龍の剣と噂の長剣を担いでいるという英雄的な側面もあることから、民衆から街の長として受け入れられてきた。

 人々が道端に避けて、一本道ができあがる。通りの人々から手を振られればそれに応え、あとはまっすぐと城の方を見て歩を進める。

 そこへ、一人の女性が駆けこんできた。

 

 隊列が止まり、護衛がさっとヴィルマの前に出る。ヴィルマは、まだ捕らえなくてもいいと手で護衛たちを制止した。

 女性は荒い息を整えようとしている。ヴィルマたちの帰還の鐘の音を聞いて走ってきたのだろう。

 

「ご婦人、どうされた?」

「はあ、はぁ……私、アザリーの、姉です。アザリーはこの遠征に出ていて、せ、戦死したって……」

 

 それを聞いたヴィルマは視線を落とす。

 女性が駆けてきた時点で、ある程度予想はできていた。

 

「皆は先に城へ戻ってくれ。指揮は副指令に任せる」

「分かりました。護衛を二人付けます」

「一人で……いや、分かった。後で戻るから、兵器の片付けと戦利品の整理を頼む」

 

 簡潔に指示を出し、隊列を先に行かせる。

 こういった呼び止めは過去にも何度かあったし、禁止されてもいない。慣れている兵士も多かった。

 道端に移動したヴィルマを、後列の兵士たちが歩いて追い越していく。

 ちらちらと向けられる視線に構うことなく、護衛を後ろに下がらせて、ヴィルマは女性に話しかけた。

 

「失礼。アザリーのお姉さんと言いましたか」

「は、はい。一昨日に訃報が届いて……居ても経ってもいられなくて。急に飛び出してしまってすみません。すみません」

「いえ。お気になさらないでください」

「それで、弟が……アザリーが命を落としたというのは、本当のことなのでしょうか……?」

「……残念ながら」

 

 短いながらはっきりと告げたヴィルマに、女性は声を失い、その表情は徐々に失意の顔を濃くしていった。

 女性が崩れ落ちるなら、それを支えなければならないとヴィルマは思っていた。ヴィルマに縋りつこうとするなら、護衛が止めただろう。護衛を制止することはできない。

 しかし、浅く息をし、俯きながらも、女性は告げられた言葉をなんとか受け止めようとしているようだった。

 それができたのは、必要最低限だけの言葉が綴られた木簡、訃報だけが先に、彼の肉親の元へ届けられていたからなのかもしれなかった。

 

「あ、あ……アザリーは帰ってきたのでしょうか」

「遺体は見つかっています。右腕と足の一部が失われてしまっていますが」

「ということは、やはり竜に襲われて……?」

「戦って、亡くなりました」

 

 嘘だ。

 けれども、事実だ。

 

 女性の言葉をあえて言い換えて告げたヴィルマに、焦点の定まっていなかった女性の瞳が初めてヴィルマの目を見る。

 

「辛いかもしれないが、聞きますか」

「…………き、聞きます。聞かせてください」

「……我々は、北の漁村に現れた血吸い鮫を追い払う任務に出ていました。

 冬の海は流氷が流れ着く。そこを根城にする彼らと渡り合うには、我々から流氷の上に乗らなければなりません」

 

 ヴィルマの遠征部隊は基本、百人から数百人程度で編成される。

 都市に残る予備軍や、各地の辺境へ常駐任務に出ている人数を含めると、ヴィルマの所有する軍隊はさらに大きいが、ひとつの作戦で動員する兵士の数はその規模だ。

 あまりに人の数が少ないと竜たちに蹴散らされて終わるが、人の数が多すぎても、今度は身動きが取りづらくなって竜たちに翻弄されてしまう。

 いつも辺境に赴くが故に補給が難しいという問題もあり、ヴィルマは部隊の人数をある程度絞る運用をしていた。

 また、百人という部隊規模はヴィルマにとって大きな意義を有している。──兵士一人ひとりの名前や動向、性格や背景まで頭に入れることができるからだ。

 

「結論から言えば、アザリーは流氷の下に潜んでいた血吸い鮫の頭目に襲撃され、海の中に引きずり込まれて、そのときの怪我と低体温で亡くなりました。

 何とか海からは引き上げられたが、間に合わなかった」

「そんな……まさか凍え死ぬなんて、アザリー……」

「彼と同じ班で行動を共にしていた兵士が言っていました。

 巨大な血吸い鮫が突然現れてアザリーに噛みついたとき、アザリーは仲間の腕や服を掴んで助かろうとすることもできた。

 もしそうしていたら、自分もまた海に落ちてそのまま死んでいただろうと」

「…………」

「けれどもアザリーはそうはせず、むしろ咄嗟に仲間を手で押して氷上に押し留め、ここに敵がいることを本隊に伝えてくれと叫んだ。

 海上でも、装備していた刀剣で必死に抵抗して、その血飛沫が後続の目印になった。

 彼があそこまでの酷い怪我を負っているのは、あの恐ろしい大口から何度も外に出ようと足掻いたからだと。

 実際、私の元へ届いた第一報、敵発見の知らせは彼からもたらされたものでした。

 あの場で先遣隊が全滅していたら、間違いなく被害はさらに大きくなっていたでしょう」

 

 彼女が望んだこととはいえ、このような話は気休めにもならないだろうとヴィルマは思った。

 どのような過程であれ、彼はもう死んでいるのだ。この語りは生身の彼でなく、彼の死を飾り立てているだけに過ぎない。

 

「これは戦って死んだと言えるのか否か、人によって見方は違うでしょう。先遣隊を遠くまで調査に行かせた私にも責任はある。

 彼の死の評価は、私がこの場で下していいものではない。

 しかし、単なる事実としてあなたにはっきりと言えるのは、彼は間違いなく、極寒の海に潜む脅威から我々を守ったのだということです。

 彼に直接礼を言えなかったことが、私自身、残念でなりません。救出がもう少しでも早ければ、せめて遺言くらいは聞けたのだが……」

「……わかりました。もう、大丈夫です」

 

 途中から声を落としていたヴィルマの言葉は、女性の一言で締めくくられた。

 女性は途中から涙を流していた。春が近いとはいえ、吐く息が瞬く間に白く染まる寒さの中で、頬を伝う涙がうっすらと凍っていく。

 

「ヴィルマ様、いえ、領主様。引止めしてしまってごめんなさい。罪状があれば従います」

「いえ。罪には該当しません。あなたは通りを歩く人をしばらく引き留めただけだ。そうでしょう?」

「……ふふ」

 

 無理をして笑っている。目元が腫れてやつれているのは、訃報が届いた数日前から今まで憔悴した日々を送っていたからかもしれない。

 この人は強いな、とヴィルマは思った。

 

「他ならない領主様が、亡くなったアザリーのことをこんなに悔やんでいる。それを知れてよかった」

「こちらこそ。もし同じく悲しみに暮れているご家族がいらっしゃれば、すまないが、今のことを教えてやってください」

「はい。分かりました。領主様」

 

 そう言って女性は頭を下げて、フードで顔を隠しながら立ち去っていった。

 ヴィルマは少しの間そこに佇んでいたが、やがて背後にいる護衛に声をかける。

 

「よし、行こうか。今からなら隊列の最後尾に追いつけるかもしれない」

「はっ」

 

 護衛は特に何も言及せずにヴィルマに付き従っていく。

 今のやり取りに思うところがないわけでもないのだろうが、それこそ、このような状況に慣れきってしまっているのが彼らだった。

 ヴィルマもまた、自身の心があまり波風立たずに今の会話をやり過ごしたことを自覚している。

 一つひとつの死を深く悲しむこともできなくはないのだろうが、一度に多くの方向を見据えることはできないから。

 身内の死を悲しむ者がいる。怪我の痛みを堪えて歩く者がいる。戦果を上げて喜ぶ者がいる。仲間とただ談笑している者がいる。

 

 様々な人の心が死なずに生きていること、それそのものに意味を見出すヴィルマがいる。

 リーヴェルの人々の活力が、都市を守らず、辺境に出向き、藪蛇のように竜をつつくばかりの対竜兵団を支えている。

 それがどんなに得難いことであるか、誰よりもよく知っているからだ。

 

 

 

 それは、赤髪の少女に一方的に送っていて、その返事が来て文通が始まるより前の頃。

 雪解け水でぬかるんでいた地面がようやく乾き、都市間の人々の往来が盛んになる、夏の初めのことだった。

 

 だだっぴろい会議場の一席にヴィルマは座っていた。劇場のように、低い位置の中心から同心円状、階段状に高くなっていき、中心を囲むように人々が座っている。

 ヴィルマの本拠地であるリーヴェルは、このような大型の劇場も会議場も持ち合わせていない。せいぜい城の広間で宴を開くことができる程度だ。

 リーヴェルよりも規模の大きい、東シュレイド共和国の中でも三本指には入るだろう大都市。ヴィルマは国からの要請を受け、そこに足を運んでいた。

 会議場には、各都市の領主や貴族、議員が集まっている。持ち得る権力としては、ヴィルマと並ぶかそれ以上といった面々だ。

 周辺は厳戒態勢が敷かれ、物々しい雰囲気を醸し出していた。

 

 年に一度開かれる、東シュレイドという国の舵取りのための会議。

 ヴィルマはもちろんのこと、付添いに書記のアズバーと副司令官を連れて、リーヴェルからの参加者としては万全の構えだ。

 しかし、会議が始まる前からある程度予想はできていたが、ヴィルマたちは周囲から厳しい目を向けられていた。

 

「前線都市リーヴェルから報告されている予算だが、これは何かの冗談か? 老若男女、全ての市民が軍隊に入っていたとしても、軍事費はここまで膨れ上がらないはずだ」

「負債はこれ以上増えないように足掻いているようだが、それも国からの補助金が増えたからだろう。リーヴェル市民の負担がそのまま東シュレイド国民の負担に置き換わっただけではないか」

「まるで底のない穴のようだ。ただの一都市に少なくない資源が放り込まれ、何も返ってくることなく失われていく。恐ろしいことだが」

「……前線都市リーヴェル代表、ヴィルマ殿、何か意見はあるかね」

 

 ほとんど袋叩きのような有様だが、会議場の中央に立つ議長はその無数の矛を間引くことなくヴィルマへと渡す。

 ヴィルマは静かにその場から立ち上がった。あんな態度だが、議長はまだ話の分かる人物だ。今までの批判はヴィルマでも一通り捌けると踏んで、話を振ったのだろう。

 そうでなければ、これまでのリーヴェルへの資金援助など、議会を通っていたはずもないのだ。

 その場で軽く一礼し、口を開く。

 

「議員の皆さんもご存じかと存じますが、一昨年は鋼の龍の迎撃作戦が行われました。

 人的被害はある程度抑えられたものの、かの龍の生み出す嵐と風の砲弾により、わが軍の保有する対竜兵器は壊滅的な被害を受けました。

 今回計上している損失は、そのほとんどが対竜兵器の修理、または再生産のための費用となります」

「君等は淡々と経緯を述べるしかないのかもしれんが……それで損失が軽くなるわけではない。せめて、今後の展望はないのか?」

「対竜兵器や道具の改良は年々進んでおり、これまで撃退が限界だった竜の討伐や、捨て置くしかなかった素材の回収ができるようになってきています。

 我々の課題として長年指摘されてきた、投資の対価を提示できる日も近づいているものと考えます」

 

「商業連盟代表殿、今のヴィルマ殿の見解についてどう思う? 対竜兵団が回収した素材の扱いは、リーヴェルまたは君たちに任せられていると聞くが」

「そうだな……リーヴェル代表殿の展望がその通りになるなら何とも言えないが、少なくとも今のままだと商流に乗せるのは厳しいってのが正直なところだな。

 竜の素材が優秀ってのは認める。走竜ってやつの皮から作った鞄は頑丈で、石を詰め込んだって底が抜けねえって評判で、商人の間でも人気がある。

 けどな、如何せん数が足りねぇ。せいぜいが荷車ひとつ分、それより少ないことのが多いし、何の素材かは連中が遠征から戻って来ないと分からないときた。

 これじゃあどっちかっていうと商いよりも博打のそれだ。物はいいんだろうが加工ができなかったり、活かす先が見つからずに埃を被っている素材も少なくないからな……。

 持て余した素材は学術院殿に格安で投げてるってのが実情なんだが、連中は喜んでるみたいだぜ。その辺にいるから話を聞いてみろよ」

 

「が、学術院代表です。商業連盟代表殿の仰る通り、対竜兵団が持ち帰ってきた竜や獣の素材の一部はこちらで引き取っています。

 特に錬金術師や古龍占い師に重宝されており、ヴィルマ殿の活動は我々としては歓迎したいところです。しかし、資金面となると……」

「……課題はまだ山積みのようだな」

 

 やはり、一筋縄ではいかないか。

 ヴィルマはふと、会議場の外の詰所に預けている氷の剣のことを思った。

 今話題に上がった竜の素材と比べてもなお、一線を画すような鋼の龍の素材。

 その角を芯に据えた氷の剣を引き抜き、実際にヴィルマの腕が霜を生やして凍り付く様を目にすれば、様々な議論をすっ飛ばしてしまえるのではないか、と。

 圧倒的な力は、いつの時代も、どのような状況でも、それそのものが唯一無二の価値であることを示すことができるから。

 

 しかし、やはり、それは現実からの逃避に他ならない。

 この場で剣を引き抜こうものなら、それがどのような理由であれ、瞬く間に衛兵に叩き出され、この会議に参画する資格は二度と得られないだろう。

 そうでなくとも、力を誇示して周りを従わせる行為は有効ではあるものの、他の手の検討もせずに短絡的にその方法に走ると、大抵どこかで綻びが生じるものだ。

 暗殺という形で自らの命を脅かされる経験は、あの一件でもうこりごりだった。

 

 ヴィルマとも面識のある大商人と筆頭書士が席に着き、代わりに別の貴族が立ち上がった。こちらは見慣れない顔だ。

 

「そも、対竜兵器とかいう代物はそこまで金がかかるものなのかね? 

 資金の獲得や成果物の資源化が厳しいのであれば、出費を抑えることも検討しなければなるまい。

 それらを遠征に運び出すのにも難儀しているようだし、持って行っても壊れるのなら、いっそそれらに頼らない作戦を練れば良いではないか」

 

「……我々としても、対竜兵器に頼らない戦い方は模索していますが、人的被害がその分大きくなってしまうというのが実情です。

 我が国の正式軍の装備、兵器は他国にも引けを取らないものと考えます。しかし、竜を倒しきるにはどうしても一手足りないのです。

 弱いとか、脆いという話ではなく、単純に土俵が違っているのです。

 もし刀剣のみで戦うならば、人を相手取る剣を、過剰なまでに重く、太く。そうしてようやく彼らの鱗を裂くことができます。

 それらは当然、人が振るうのにも難儀する代物ですから、動きは鈍く、疲れやすくなります。結果として、負傷者が目に見えて増えました。

 この矛盾の解決も我々対竜兵団の課題ではありますが、現状ではこれ以上、対竜兵器の動員数は減らせないというのが回答になります」

 

 質問を投げかけた貴族は、恐らく初めてこの議会に出席したのだろう。

 共和制を掲げていながら貴族を称する者がいるように、東シュレイドという大国の政治もまた、目まぐるしく変革を続けている。

 過去に何度も話したことのある説明を、既視感と共にヴィルマは繰り返した。

 ただ、ヴィルマの話を聞く貴族が眉を顰めているのを見て、面目を潰してしまったか、と若干の危うさを感じた。

 

「その言葉、どこまでが真実なのかは視察の余地があるのではないかね。今の説明は、あくまでも貴殿と、貴殿の保有する軍隊の主観だろう」

「……その通りです」

「私の領地でも、竜が出たという話があった。そのときには、集落の住民が自力で追い払ったそうだ。彼らは戦の指南も受けていないというのに、貴殿等は──」

「──どこで竜が出たのですか」

「……私の領地と言ったはずだが」

「失礼。あなたの治める地域を教えていただけますか。それと、もし聞いていれば、竜の見た目も。

 副指令、地図を出してくれ。アズバー、別紙に記録を頼む」

 

 話の途中で急に態度を変えてきたヴィルマに対し、その貴族は僅かにたじろいだ。

 会議場にもざわめきが広がるが、進行の権限を有する議長はやはり何も言わない。

 問う側と答える側が逆転する。あるいは会議の内容そのものよりも真剣な様子のヴィルマは、いくつかの質問を投げかけた。

 それに貴族が答えると、ヴィルマたちは身内で声を抑えて言葉を交わす。

 

「……やはり、ヒンメルン山脈の西、内地にも走竜が生息していると見るしかなさそうだな。はぐれ者がここまで来るとは考えにくい」

「事実確認と、もし本当だった場合は偵察に出たいですが、あの険しい山をどこまで登れるのやら、検討も尽きませんな。信仰的な理由でも入山が制限されるやもしれません」

「その辺は交渉してみよう。内地の話となると、他人事ではいられないはずだ。……大変失礼。少々無視できかねる話題でしたので」

「……やはりおかしな連中だ」

 

 気味の悪いものを見るような目で、その貴族はヴィルマたちを見つめていた。

 議会での心証を悪くすることは望ましいことではないのだが、経済的な問題を抱えているリーヴェルはなおのこと槍玉にあげられやすい。

 

 最も厄介な点はやはり、今しがたの問答にも如実にそれが表れているが、人々があまりに竜について知らなさすぎることだった。

 それこそ本当に、近年まで、この国がヒンメルン山脈の向こうの世界にまで興味を広げたことでようやく、認知され始めた存在が竜だったのだ。もとよりその存在を知っていたという者は、ごく少数に限られていた。

 庶民には未だに、おとぎ話の存在として竜の存在を信じない者も多い。あるいは吹雪や山火事、洪水といった自然の脅威の化身、精霊というような見方をしている者もいる。

 ヴィルマたちからすれば、それは傍に立っている隣人がまるで見えていないかのような、正気を疑う程の危うさを感じるのだが、それが現実なのだった。

 

 実際、人々の生活圏と竜は不思議なくらいに接点を持たない。

 今、東シュレイド共和国の領土のどこにも竜はいない。人が立ち入らない広大な森も、山や谷だってあるのに、竜と名の付く生き物は見る影もない。

 人の群れなど簡単に蹴散らしてしまえるだろう竜がまるで、この東シュレイドという領域そのものを避けているかのようだった。隣国の西シュレイドも同様だ。

 それこそ、最近になるまで、東西シュレイドを繋ぐ街道にすら竜の気配はなかった。空を隅々まで見渡しても、地平線の向こうに至るまで、空を飛ぶ竜の姿など皆無だったという。

 

 歴史上からも竜の存在はほとんど読み取れない。忘れた頃に、伝承の切れ端から竜を示唆するような記述が見つかる程度だ。

 歴史という学問自体がこの国で禁じられていなければ、もっと掘り下げることもできただろう。

 しかし、その禁を解くことができるはずのこの議会でも、半ば暗黙の了解と化していて、慣習に対する疑問すら言い出せない始末だった。

 

 ヴィルマがこの会議やリーヴェルへの招待を通じて認知を訴えかけ、時に剥製や素材を持ち寄って見せることで、ようやく竜の存在がヴィルマの妄言でないことが周知され始めている。

 それでも、ヴィルマの影響力はこの会議場の内に留まっていて、初めて会議に参加するような者は、やはり竜について何も知らないのだった。

 そして、予定調和じみた竜に対する知識の無さは、時として思いもよらない発想を生む。

 

「貴殿からの提案は有効とは言い難く、我々の提案も受け入れられない。議論を平行線に持ち込んで、うやむやにして流すことで、皆の賛同が得られるとは思わないことだ」

「……我々も資金の問題は深刻に捉えています。次の年には鋼の龍から受けた損害を全て取り戻すことと、商業連盟の方々へ、より安定した竜素材の提供を行うことを約束いたします」

「苦し紛れな返しだ。──そうだ、いい考えがある。素材を売るよりよほど稼げるやり方が」

「……何でしょう」

「竜を倒すのではなく、捕縛して市場に流せばよいではないか。

 飼い慣らせば労働力として使えるかもしれんし、飛竜とかいうやつは私も興味があるぞ。

 愛玩用に金を出してやってもいい。闘技場に放って戦士と戦わせてもおもしろいかもしれんな──」

 

 そんなことをすれば、国は内側から簡単に崩壊する。

 竜を知らない人々が見上げる空に、大翼を広げて飛竜が舞う。そんな光景がヴィルマの脳裏に描かれ、軽い眩暈を覚えた。

 そもそも、人同士の戦争であっても、敵軍の兵士を殺さずに生け捕りにすることはより難しいとされている。相手が竜であってもそれは同じだというのに。

 流石に悪意を感じなくもない提案だが、もし本心からそう思って言っているのなら。

 それは、自身の庭で兎狩りをする以外に武器を握ったことがないと宣言しているようなものなのだが。

 

 別の意味でヴィルマが返答に窮していると、その貴族は先ほどの仕返しとばかりにさらに畳み掛けようとし、そこで議長がようやく一声を上げた。

 

「話が逸れてきているようだ。長引く議論には投票で決を採るのが通例だが、ヴィルマ氏、それで良いかね」

「……承知しました」

 

 ヴィルマはようやく席に着く。

 そう長い時間立っていたわけではないが、どっと疲れを感じた。人々の無理解を目の当たりにするのにも、そろそろ慣れてきたつもりなのだが。

 

 ヴィルマは最悪、自分自身の解任と左遷、対竜兵団の解体、この二つさえ防げれば、まだ取り返しがつくと考えている。国からの支援が打ち切られても相当に苦しいが、まだ負けではない。

 翻せば、対竜兵団と自身の立場が守られるのなら、こういった議会で問題児扱いされ、尊厳を蔑ろにするような言葉を吐かれ続けても、限界までヴィルマは耐えるだろう。

 

 対竜兵団を存続させる。前線都市リーヴェルの代表と、対竜兵団の指揮官であり続ける。

 自身の有する権力に全力でしがみ付いてみせる。

 そうしなければならない理由が、今のヴィルマにはあるからだ。

 

 断絶されていた人と竜、互いの関係の持ち方について。集団と個とで殺し合うしかない現状と、未だ見えることのない将来について。

 ヴィルマが生涯をかけて探っていきたいと思い続けている、()()()()()()()

 それを見定めるまでは、まだ。

 

 

 

「…………──マどの、ヴィルマ殿っ!!」

 

 はっ、と。

 泥沼から引きずり出されるような目覚めの感覚と共に、自身の名を呼ぶ声が聞こえた。

 

「起きた……! 聞こえますか、聞こえてますかっ! 聞こえているなら返事を!」

「ぅ、ぁ……ごほっ、こほっ……聞こえ、ている」

 

 声は生きている。音も拾えているようだ。

 視界はまだ焦点が合わずぼやけているが、少なくとも、声をかけてきた兵士が血塗れであることは見て取ることができた。

 状況把握に思考を割くよりも先に、自身の身体の状態を確かめる。

 脚は……持ち上がる。腕も動かせる。手を開いて、握って力を籠めることもできた。頭も、ひどく重かったり痛かったりはしていない。

 痛みは、全身にある。ある特定の部位が痛いというよりも、全身の肌と筋肉がひりつくような痛みを発している。

 この手の痛みが残っているということは、全身を何かに叩かれて、その拍子に意識を持っていかれたな、と。

 ここまでに半秒。気絶の中でもましなほうだと判断を下す。

 残りの半秒で瞳を動かし、起き上がっても問題がないかを見て、肘をついて上体を起こした。

 ぐらっと視界が揺れる、が、持ち直した。ここで倒れるなら本格的にまずかった。

 

「ヴィルマ殿!?」

「大丈夫だ! それより状況を教えてほしい」

「はっ! ヴィルマ殿は金の獅子の体当たりを受けて意識を失い、現在地下の救護所におります! 既に総員撤退の命を受けて各自退避を続けておりますが、金の獅子の追撃を振り切れておりません!」

「分かった。俺は外へ出るから、他の者の手当てを進めてくれ」

「本当に大丈夫でありますか……!?」

「大丈夫だ。一人で立ち上がれる。もう身分どうこうの段階は過ぎた。総撤退時の心構えに沿って、怪我の重さと助かる見込みで判断を頼む!」

 

 ようやく意識が途切れる前後が繋がり、状況が呑み込めてきた。自身も気が動転する一歩手前か、と思いながらヴィルマは塹壕の中を走る。

 兵士が報告する通り、外は喚声と怒号、そして破壊の音が絶えず響いていた。塹壕の中は地獄のようだ。逃げ遅れたか、通路に倒れ伏す兵士をヴィルマは何度も踏み越えた。

 塹壕を出た瞬間、かの獣に目を付けられるかもしれないことは分かっている。だからヴィルマは走り、救護所があった場所から最低の限距離を取って、迷わずにその身を地上に出した。

 

 これまでにヴィルマが生きてきた中で、最も凄惨な光景が広がっていた。

 

 人同士が殺し合う戦争と、竜と人々との戦いでは、人の死ぬ数は同じでも、その有様は大きく異なるとされている。

 竜が肉食で人を食らおうとしている場合には、かなり残虐な光景も覚悟しなくてはならないが、今、目の前に広がっている光景はそれとは違う。

 ある意味、人同士の戦争の方が近いかもしれない。あの獣は人を食わないのだ。

 だが、それはあまりにも一方的すぎた。

 

 木っ端微塵に砕けた大楯。立て直そうとした形跡の見られる大弩に、べったりと張り付いた血痕。

 千切れた片腕から血を流し、瀕死のみみずのように蠢く弓兵。木の板によりかかって項垂れる兵士と、なんとかその肩を抱いて責務を果たそうとする衛生兵。

 一人の盾兵が、よろめきながら立ち上がった。何とか注意を引き付けるべく、小盾を構える。元々が黒い蛇の竜の掃討だったために支給してきた、毒液から身を守るためのもの。

 

 金色の暴風が、その盾兵を飲み込んだ。

 バンッ、と、聞こえていいはずのない、鉄塊をぶつけたような音がして、その盾は一撃で砕け散って宙を舞う。

 振り抜かれた拳は、それは肉と皮が詰まっているはずなのに、焼入れした鉄のように赤熱化していた。

 大きく仰け反り何度も後退った盾兵は、そのまま崩れ落ちた。だらりとぶら下がったその腕は、もはや今後、使いものにならないだろう。もはや人が受け止められる膂力ではなかった。

 

 その頭上へ、巌の如く力の込められた握り拳が振り下ろされた。

 あっと声を上げる間もない。全てはもう遅かった。

 飛び散った鮮血は、その兵士が即死しただろうことを表していた。その腕にぶちまけられた返り血が、腕の熱にあてられてしゅうしゅうと湯気を出していた。

 久しく感じることのなかった、言葉を失う感覚をヴィルマは覚えた。それは軍の指揮官としては大きな隙と言えるもので、その間にも戦況は目まぐるしく動いていく。

 

 盾兵の命が奪われてから数秒後、眩い光が金の獅子の目の前で弾けた。

 近年になって開発が進んでいる道具、閃光癇癪玉だ。絶命する瞬間に強烈な閃光を発する昆虫を用いたもので、生物に踏み潰されるか、火薬と併用することで炸裂する。

 光の強さにかなりのむらがあるものの、竜や獣の目をくらませることができる道具だ。緊急時、命の危険が差し迫ったときの離脱手段として多くの兵士が所持していた。

 今の状況は十分に模範的と言える。盾兵が止めの一撃を受ける前に、と考える者はいるだろうが、あの至近距離だ。結末を変えることはできなかっただろう。

 

 故にその閃光癇癪玉は、盾兵でなく自身や仲間を守るためのもの。

 数人の弓兵がその場に留まって矢を射かけ、その後方で助け出されたらしい負傷兵が周りの力を借りながら戦線離脱しようとしていた。

 

 閃光に晒された金の獅子は両腕で顔面を覆う。放たれた矢はその腕に当たり、金属質な音と共に、当たり前のように弾かれた。

 大弩ではないにしろ、先ほどまでかの獣の腹部や臀部に突き立つことができていた矢だ。もはやあの赤く染まった腕は、常軌を逸した何かへ変貌を遂げている。

 弾かれた矢が地面に転がって、次の矢が放たれるよりも前に、金の獅子は大した目測もつけずに矢が放たれた方に向かって大口を広げた。

 放たれたのは、雷を束ねて一直線に放たれる光線だ。その衝撃波だけで地表の土がめくれ上がる。光線はどこまでも伸びて、人であれば何十歩とかかる距離を塗り潰していた。

 ヴィルマたちが見る他の竜の吐息とは比べ物にならない。もはやそれは、実体を持った巨大な光の剣だ。目がくらんで狙いが定まらずとも、薙ぎ払うだけで十分すぎる殲滅力を誇っている。

 

 地面を砕き、空を貫き、手当たり次第に放たれるブレスが、地面に伏せていた弓兵の一人を捉えた。

 戦況を俯瞰しているヴィルマに、弓兵の悲鳴は届かない。あのブレスに身を焼かれる感覚は、ヴィルマでさえも想像もできなかった。

 ブレスに飲み込まれたのは一瞬。反射的に転がって上半身は余波を受けるだけで済んだようだが、腰から下、片足は完全に持っていかれていた。

 余波を受けるだけでも、その弓兵の装備は砕けている。目や耳まで焼かれてしまったかもしれない。極度の痛みが彼をのたうち回らせ、ブレスで削られた地面の窪みへ転がり落ちる。

 ブレスを何とか凌いだ仲間が救助に入った。もはや、歩けない者の数が歩ける者を上回っている。手に持っていた弓矢は仲間を助けるために放り投げるしかなかった。

 

 そこへ、金の獅子が迫り来る。目くらましからの復帰が早い。

 恐らくは、総員撤退の指令が出されてから今までの間に、ヴィルマが気を失っている間に何度も使われていたのだろう。強烈な閃光も、慣れればすぐに立て直すようになる。

 救助をしている兵士は、脚を失った仲間を起き上がらせるために必死で、金の獅子に気が付いていない。いや、構っている余裕がないだけか。助け出すと決めた時点で腹をくくっていたのだろう。

 数秒後、そこには新しい肉塊が二つできあがっているだろう。真っ赤な血溜まりと共に。

 

 ヴィルマは、手に持っていた角笛を吹き鳴らした。

 

 金の獅子が振り返る。視認した。ヴィルマは角笛を放り投げた。

 ヴィルマはただ茫然と立ち尽くして兵士たちの死を見ていたわけではない。戦況を見ながらも、倒壊した櫓から角笛を拾い出し、半ば埋もれた武器庫から氷の剣を持ち出して背中に担いでいた。

 冷静さを失っている自覚はあった。

 総員撤退は、もはや組織立っての作戦が維持できなくなったために、散り散りになって自分一人でも生き残って逃げろという最後の命令だ。

 誰かが襲われているのなら、それを囮にしてでも逃げなくてはならない。ましてヴィルマは兵団の指揮官だ。生き残って、この惨状の責任を取らなくてはならない立場だ。

 目の前の命を見捨てられなかったとか、一矢報いたかったとか、そのようなきれいごとで取り繕っても、ヴィルマがここで命を落とすことは、指揮官としての責任を放置していることになる。

 他ならないヴィルマが、最もよく分かっている。ヴィルマはそのために冷酷な判断ができる人間だ。

 

「くそ……っ!」

 

 心の底からの悪態がヴィルマの口から零れ出た。

 向かってくる金の獅子の、さらにその向こうの光景を睨みつけながら。

 

 曇天の下で、黒い死神たちが舞い降りる。

 戦線離脱しようとする兵士たちの頭上に、黒蛇の翼竜の群れが次々と襲い掛かっていた。

 

 ヴィルマの予想していた通りだ。黒蛇の翼竜は強大な存在による蹂躙の現場こそを主食としている。

 彼らはこの獣の後を追ってヒンメルン山脈を越えてきたのだ。金の獅子の比類なき強さに惹かれ、そのおこぼれに預かるために。

 高空を舞っていたのは、金の獅子の暴力に巻き込まれないようにするためか。

 もしかすると、あえて目立つことで周囲の生物をおびき寄せる目的もあったのかもしれない。であれば、ヴィルマたちはまんまと誘い込まれたことになる。

 

 今や、彼らは一斉に低空まで降りてきて、地に倒れ伏した兵士の亡骸を啄み、逃げ遅れたり、負傷者に肩を貸している兵士の背中を追いかけて、盛んに毒液を吐きかけている。

 通常の任務であれば問題なく対処できる彼らの毒液も、今は致命的な追い打ちと化している。既に消耗している兵士には尚更だ。

 だからと言って彼らの相手をしていれば、その分だけ足が止まる。そうこうしているうちにかの獣がやってくるのだ。

 躍起になって追い払おうとしていた黒蛇の翼竜たちが突然その場から飛び去ったとき、金の獅子の拳は既に目前に迫っている。

 

 詰みだ。進むも退くも光明が見えてこない。

 総員撤退が遅々として進んでいなかったのはこのためだ。

 この戦いが始まったときから、退路は既に閉ざされてしまっていた。

 

 故にヴィルマは己の剣を手に取った。

 口をついて出た悪態は、考え得る限り一番の悪手を打たざるを得なくなった、自分自身に向けられたものだ。

 

 剣の柄から染み入って、腕の血流を極度に鈍らせる。そのまま心臓まで凍り付くような錯覚をも抱かせる、冷気の侵食。氷の剣を握る感触は久しぶりだった。

 しかし、感慨に浸っている間はない。金の獅子はヴィルマの目前にまで迫っていた。

 その凶悪な顔面を叩き斬ってやる。葛藤や後悔をかなぐり捨て、渾身の気合を込めて、振り被った氷の剣で上段斬りを放った。

 

 先に大楯を殴り飛ばしたときのように、疾走する勢いのままにヴィルマを殴りつけようとしていたのだろう。金の獅子もまた拳を振り被っていた。

 しかし、目の前に立つ矮小な生物が、何やら尋常でない気配を放つ棒きれで迎え撃とうとしていることに気が付き、咄嗟に両腕で顔を覆った。

 回避することもできただろうにそうしなかったのは、ヴィルマの攻撃を防ぎつつ、そのまま体当たりして打ち飛ばそうとする算段からか。

 お互いにもう止まることはできない。肥大化し赤熱した金の獅子の腕に、周囲の熱を奪い去る風を纏った刀身が叩きつけられた。

 

 ぎん、という耳障りな音が響く。金属が弾かれる音。

 仰け反るかに思われたヴィルマは、しかし刀身が滑って体勢を崩し、金の獅子とすれ違うようにして地面に倒れた。

 あまりの衝撃に腕が痺れる。剣を取り零しそうになったが、氷の剣は握力が失われた程度では手放すことはできない。剣の冷気がヴィルマの手をがっちりと掴んでいる。

 それよりもヴィルマは、氷の剣でも弾かれたという結果を重く見ていた。

 貫通力のある弓矢でも弾かれていた時点で、人ひとりが振るう刃が通るはずもないことは分かってはいたものの、この剣であれば、という期待があったことは否定できない。

 

 ただ、その剣が特異であるということだけは、この獣にもしっかりと伝わったようだ。

 突進の勢いのまま地面に突っ込んで盛大に地表を抉った金の獅子は、起き上がるや否や、ヴィルマ本人ではなく、ヴィルマの握る氷の剣に飛びついた。

 

「なっ……!」

 

 金の獅子の拳が刀身をむんずと掴む。

 ヴィルマから氷の剣を奪い取り、己の手でへし折ってしまおうという算段か。

 そういった行動に出るということは、この剣が危険であると認めたということだ。であれば、尚更手放すわけにはいかない。

 ヴィルマは痺れの残る両腕にできる限りの力を込めて、金の獅子に抗った。

 

 肉の赤色が剥き出しになったかのようなその腕は、熱いほどの熱を放ち、さらにばちばちと雷のようなものを纏っている。

 至近距離で見れば、突然黒から金へ変貌した体毛は、その毛の一本一本が逆立ち、その憤怒に呼応するように光を迸らせていた。

 金の獅子の腕は人の胴よりも遥かに太く、はち切れんばかりの密度を持っている。その膂力は圧倒的で、ヴィルマは剣を持ったまま軽々と片手で持ち上げられた。

 

 しぶといが、あとは適当に振り回しでもすれば剥がれるだろう。殺意の籠った瞳でそう語る金の獅子だが、しかし、すぐに己の手の異常に気が付いた。

 刀身を握る拳から湯気が出ている。いや、違う。冷気だ。金の獅子の腕で熱せられた空気が、氷の剣の冷気に当てられ、尋常でない結露を起こしている。

 滾る腕によって気付くのが遅れた。見れば、拳の内から冷気と共に霜がじわじわと広がり、熱を奪われた指の感触が徐々に鈍くなっていく。

 反射的に、金の獅子は握っていた氷の剣を放り投げた。

 

「うっ、ぐ……!」

 

 当然、必死に剣の柄を握っていたヴィルマも共に宙を舞った。

 あんなに無造作な仕草で、こうも軽々と人を投げ飛ばすのか。人の足で軽く数十歩ほど吹き飛んだヴィルマは、その場でどうにか受け身を取った。

 周囲には櫓の残骸が四散している。落下地点が平らな地面で幸いだった。この剣に自身の身体が触れないように受け身を取らなければ、刀身が頭にでも当たろうものなら容易に自滅してしまう。

 すぐに立ち上がれるのは奇跡にも等しい。一度は意識を奪われているのに、後に引きずるような傷はほとんどなくこうして動けている。

 せめて、黒蛇の翼竜に襲われている兵士たちの生存率を少しでも上げてやりたい。

 氷の剣のおぞましい感触を自らの意志で抑えつけ、まともに振るうことができる戦士は、この部隊ではヴィルマしかいないのだ。

 

 金の獅子はしばらく己の手を地面に叩きつけたり、拳を握っては開いたりと霜の感触を追い払うことに執心していた。

 やがてヴィルマのいる方を向き、牙を剥き出しにして唸る。標的は完全にヴィルマに切り替わったようだ。

 ヴィルマもまた、身構える。本能は狂ったように警鐘を鳴らし続け、向き合い続けようとすると吐きそうになってくるが、目を逸らすわけにはいかない。

 先ほどは腕を組んで突進してきた。今度はどうだ。同じく突っ込んでくるか、今度こそ殴りかかってくるか、ブレスということもある。何にせよ、ヴィルマ自身も即座に反応しなければ────。

 

 がら、と。背後の瓦礫が崩れる音がした。

 次いで、黒蛇の翼竜の喚声と人々の悲鳴、風や火事も重なった喧騒の中で、消え入りそうなほどに掠れきった声がヴィルマの耳に届いた。

 

「ヴィル、マ、さ……?」

 

 自然と、声のする方へ視線が向く。

 ヴィルマの背後に折り重なった拠点の残骸。その瓦礫の下から、血塗れの若い兵士が一人、顔と手だけを覗かせていた。

 息を呑む。それは、この戦いでの最初の犠牲者と思われていた兵士だった。

 誰もが想像すらできなかった、岩盤を捲りあげての投擲。あえなく一撃で崩れ落ちた砦の門と、逃げる間もなく倒壊に巻き込まれた門兵。

 生きていたのだ。無数の瓦礫の下敷きになって、血塗れになる程の重傷を負いながら、それでも何とか這い出ようともがき続けていた。

 そして、もう体力も尽きようかという頃に、ようやく外の景色を見ることが叶って。

 目の前に、自らの兵団の指揮官が立ったのだ。

 

 ヴィルマが背後の青年に視線を寄越していた時間は、一秒にも満たない。

 しかしその僅かな間、明らかに金の獅子への注目は途切れていて、それはこの駆け引きにおいて致命的な隙となった。

 ヴィルマが再び正面を見たときには、金の獅子は既に地を蹴って、たったの一足でヴィルマの目前に迫り、力の漲った巨腕を振り被っていた。

 

 時間が引き延ばされる感覚とはこれか、とヴィルマは思った。

 物事の流れはゆっくりと感じられるが、絶望的なまでに身体が付いてこない。ここからヴィルマの取れる行動はあまりにも限られている。

 背後の門兵は、何が起こっているか全く分かっていないだろう。あの怪我では視覚や聴覚がどこまで保たれているかも怪しい。

 それでいて、かの獣が知ってか知らずか、あの破壊的な拳が振るわれれば、確実に巻き込まれるであろう位置に彼はいる。

 もはやヴィルマが干渉できる域にはなく、その頭蓋が砕かれるか、再び瓦礫に埋もれるか。どちらにせよ、命を落とす未来は確定してしまった。

 では、己は。ヴィルマは、どうする。

 

「────ちっ」

 

 どうにもならない。舌打ちするくらいしかできない。

 門兵の手を取ることも、氷の剣で迎え撃つことも、この刹那の間には間に合わないということだけ、分かる。

 

 気を失っている間に見ていた記憶の断片が、なぜか今になって脳裏に蘇ってくる。

 

 竜や獣から目を逸らさず向き合っているのが前線都市リーヴェルだけで、他の都市や人々は現実をおとぎ話として認識していると知ったとき、この状況を変えたいとヴィルマは強く思った。

 ヒンメルン山脈という自然の防壁の内で繫栄すれば良いと考え、外の世界を決して見ないという選択は、竜や獣と人とのあらゆる可能性を閉ざしていることと同じだから。

 能動的に干渉し、試行錯誤し、どうしても相容れないと判断して閉じ籠る選択をしたなら納得できるが、それすらしていないなら、それは棲み分けとは呼べない。まだ分からないではないか、と。

 

 積極的に遠征に出た。開拓と領土の拡大を後押しした。竜に対する備えの重要さを説き続けた。世界は広く、おとぎ話は現実のものなのだと訴えかけた。

 認知は遅々として進まなかった。聞き入れてもらっても、今度は藪蛇だと批判された。下手に干渉することで彼らの怒りを買い、今の情勢を崩す可能性については、ヴィルマ自身も認めなくてはいけなかった。

 ましてや、竜のみならず古の龍すらいるのだ。人が挑もうとすること自体がおこがましいという主張があれば、ヴィルマはそれを否定しない。

 

 けれど、それは。人々が自然に喰われる側として、最初から諦める理由にはならない。

 歴史を封じられ、何も知らないヴィルマを含む人々は手を伸ばしてもいいはずだ、と、証明したかったのだ。

 

 その終点がここならば、黙って受け入れるしかないのだろうか。

 破壊の申し子のような獣が逆に証明する。外の世界で自然に歯向かえばどうなるか、他ならないヴィルマに現実を叩きつけている。

 あるいは、自身の夢は馬鹿げていたとヴィルマが認め、身の程というものを弁えると誓えば、瞬きの後に訪れるであろう死からも逃れれらるのだろうか。

 

 そんなわけがない。絶対に認めてなるものか。

 子どもの駄々と大差ない意地だ。ヴィルマの根のところはやはり幼い。

 ヴィルマは金の獅子の爛々とした瞳から目を逸らさず、俯瞰してその拳の軌道を読むことに全力を注ぐ。

 

 半身だけでも逸らせないか、致命傷を避けることはできないか。

 背後にいる門兵は死ぬだろう。そのことが一生の心残りになるとしても、むしろ、彼を囮にするくらいの罪を被れ。

 

 ああ、自分があと僅かでも潔い人間であれば。

 命尽きるまで自分だけが助かろうとした指揮官などと、後世に伝えられるような決断はしなかっただろうに。

 

 刹那、空気が裂けた。

 

「……?」

 

 火花のような余韻と、揺らめいて消えていく炎だけが、その空間に何かが駆け抜けたことを示していた。

 一瞬のうちにヴィルマの胴と門兵の頭をぶち抜いていただろう拳がやってこない。

 それどころか、急に力が抜けたように獅子はその場で膝を付く。赤熱化していた腕も、雷が溢れ出ていた体毛も、波が引くようにその色を失い、もとの黒色へと戻っていく。

 金の獅子が、再び黒の獅子へと立ち返った。

 

 膝を付いてなお、よろめきかけた黒の獅子は、前腕で地面を叩き横跳びして距離を取った。

 そうすることでヴィルマはようやく、今の一閃が目の前に立つ人物の放った斬撃であることに気が付いた。

 金の獅子に気取られることなく疾駆し、その背後を取り、斬撃を入れた。それだけでも十分に信じがたいことだ。

 

 けれど、ヴィルマが目の前の光景を現実のものとして受け止められるようになるには、もう数秒の時間が必要かもしれない。

 剣を振り抜いたことで脱げたのであろう頭巾から、真っ赤な髪と青い瞳が覗く。

 

「君は……どうして」

「……西シュレイド王室からの命令で」

 

 いつかに見た姿よりも少し背が伸びて、しかし顔に刻まれた火傷の痕と、淡々とした口調は変わらない。

 

「あなたを、殺しに来た」

 

 その手には、燃え盛る炎の短剣が握られていた。

 






作中設定解説

【血吸い鮫/人呑み鮫】
後世ではスクアギル、ザボアザギルと呼ばれる両生種。
寒冷地の海や浅瀬に生息しており、流氷と共に移動してくることがある。
血吸いと名のつく通り、幼体は襲った獲物の血を吸う習性がある。成長度合いによっては人の身程の大きさでも吸血行動を取ってくるため、非常に危険。
成体は人の身を優に超すほどの大きさになるほか、伸縮性のある腹部の皮を一気に膨らませ、瞬く間に体積を増大させることがある。
これらの習性から、見た目に関する証言が人によってばらばらで、()()()()という言葉が先行するきっかけとなった。
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