第10話 朝焼けに墨を散らす
雪解けを迎えた街道近辺の地面は、泥のようにぬかるんでいた。
固い地面を選び、石や砂利で舗装された街道をヴィルマはありがたく思った。
これが通っていなければ、重く図体の大きい対竜兵器を長い距離運ぶことはできなかっただろうし、西シュレイドと東シュレイドの交易は今よりも大幅に後退していただろう。
鋼の龍を迎え撃った際には街道から東に出て陣地を展開したが、ヴィルマの今回の遠征では、街道から西へ出てヒンメルン山脈の麓へと向かっていく。
目撃情報のあった黒蛇の翼竜たちは、ヒンメルン山脈を越えてきたと推察されていた。
雲よりも高く峻険なあの峰々を越えることはほぼ不可能と言われているが、それは人に限った話だ。
彼らは翼を持ち、小柄ゆえに小回りが利く。素直に飛び越えたのではなく、人には通れない洞窟や谷などを通ったのではないかと学者たちは話していた。
そうだとしてもこの時期の山越えは過酷なはずで、何が彼らを駆り立てているのか、そこまでは誰もはっきりとした見立てを立てられていない。
何にせよ、彼らがこのまま東に飛んで街道に出てしまえば、相応の被害が出るだろうことは分かっていて、故にこうしてヴィルマが遠征してきているわけだが。
「また、よく分からないことをしているな……」
ヴィルマは空を見上げる。その視線の先、ちょうど人の建物で例えたところの物見櫓の屋根くらいの高さを、彼らはいつも飛んでいたはずなのだが。
今、黒蛇の翼竜の姿は羽虫ほどの大きさにしか見えない。かろうじて翼を羽ばたかせていることが見て分かる程の高さだ。目算、ヴィルマの本拠地であるリーヴェルの城の頂上よりもさらに高くを飛んでいる。
数は多く、優に百を超えている。空を覆い尽くすとまではいかないが、翼を広げると人の背丈は軽く超える大きさの竜が、群れて高空を舞う光景は異様なものがあった。
「あれでは弓矢が届きませんね……大弩の射角を限界まで上げればあるいは届くやもしれませんが」
「そこまではしなくてもいい。あちらが吐いてくる毒液もこの高さでは散ってしまうだろうから、持久戦に持ち込みたいな」
黒蛇の翼竜が有利かと思いきや、お互いに有効打のない、睨み合いの状況だ。
彼らもゆったりと羽ばたき、時折滑空するなどして消耗を抑えているようだが、じきに体力の限界が来る。空を飛んでいる限り、限界が来るのは彼らの方が先だろう。
可能な限り黒蛇の翼竜の群れを地上から追いかけて、疲れ切って降りてきたところを弓矢で仕留める。ヴィルマの提案に表立って反対する者はいなかった。
彼らがこのあと大移動を始めたりなどしたら厄介だが、その場で旋回をしている個体も多く、この場に留まる意思が強いように見える。
もしかしたら、西で我々にさんざんやられたので、山越えしてこちらに逃げてきて、それでも我々がいるものだからうろたえているのかもしれない。兵士の一人がそう言って皆の笑いを取った。
実際、そのような理由であればよいのだが、とヴィルマはまた空を見上げた。
何にせよ、長期戦が想定される。空に幾多の黒い影が舞う中で、前線と櫓の設営を指示し、自分もその作業に加わった。
急造ながら塹壕を掘り、櫓を組み、柵を立てて、篝火を焚きながら夜を明かす。
やがて暗かった地平線が白み始め、人々が眠りから起き出しても、空を飛ぶ翼竜の様子は昨日と変わりなかった。
思っていたよりも持久力がある。畑を荒らす小鳥程度なら、村人総出で何時間も追いかけ回せば疲れて飛べなくなってしまうものだが、小柄でも竜種といったところか。
実はテントだけでなく陣地を立てようと提案したとき、釈然としない表情だった兵士がちらほらといた。実際、各々のつくりは普段より簡素なものになっている。
相手が走竜だったり、都市が近いなら話は別だが、黒蛇の翼竜はほとんど地上に降りないので、地上の設備を充実させる意味が薄い。
むしろ彼らが移動したときに、こちらの動きが鈍くなりかねないというのが、兵士たちの主張だろう。
その主張は概ね正しいのだが、それでも権限を使って部下を動かしたのは、ヴィルマの中で胸騒ぎがするからだった。
表向きそうとは伝えず、慣例に沿ってだとか、他の竜が乱入してくるかもしれないからなどの理由を取り繕った。
実際には、こうして陣地を敷くことも、大弩のような対竜兵器をわざわざ運んできたこともその胸騒ぎから来るものだ。外れることを、願うばかりだが。
かれこれ一年近くに渡り、黒蛇の翼竜の群れとの戦いは続いてきたが、彼らの動きや特徴から推察される生態に反し、乱入者の気配もない単純なぶつかり合いになることが多かった。
今は少し様子が異なるけども、結局は同じような展開になるはずだ、と。これは、現場で実際にやり合っているからこそ抱いてしまう感覚なのだろう。
ただ、ヴィルマと共に鍛え、鋼の龍すら退けた部隊に落ち着きはあれど慢心はない。
作戦が実行に移されれば、次は負傷者を出さないように、毒を浴びないように、と、気を引き締めて弓を担ぐはずだ。
もし乱入者が出ても、今の布陣であればある程度は応戦できる。臆病も度が過ぎると却って良くない。兵士たちの実力を過小評価していることになるからだ。
ヴィルマは背に担いだ氷の剣の、その柄から漂う冷気にそっと触れた。
「報告! 西の方角、黒き蛇の竜の群れの辺りに……人型の獣の姿、あり」
平穏を破いたのは、そんな、報告者自身がその内容を疑うような、物見櫓からの報せだった。
「遠見の筒でもはっきり見えんな」
「四つん這いの人のように見えないか? 少なくとも竜ではないだろ」
「たしかにそうだが、あんな場所に人がいると思うか? 俺たちの部隊の誰かだったら笑えんが、あんな所にまで偵察に出たなんて話は聞いてないぞ」
「あの竜の群れの真下だからな、空の高いところにいるとはいえ、危なすぎる。一応狼煙を上げてみるか?」
「いや……いや、まて」
もともと当番で櫓にいた一人と、その彼から呼び止められて登ってきた一人の兵士は、交互に遠見の筒を覗いていた。
しかし、目視で目を凝らしていた兵士が怪訝そうな呟きを零したので、どうした、とだけ聞く。自身もまた、同じような懸念に至った気がしたからだ。
「あれ、やたらと大きくないか」
「……ああ、見誤っただけかもしれんと思っていたが、あれは……」
「人なんかじゃない。しかも、こっちに歩いてきてるぞ!」
「……本部に報告を走らせよう。まだ間に合うはずだ」
その後、緊急事態を報せる鐘が鳴り響き、武器の手入れや食料調達の準備をしていた兵士たちは驚いて各々の持ち場へと走った。
空を見渡しても、黒蛇の翼竜たちが地上付近に降りてくる様子はない。であれば、乱入か。
他の竜より小さいとはいえ、あの数が空を舞っている中に乗り込んでくる者はそうそういないだろうに、と首を傾げる兵士も多かった。
間もなくヴィルマが本部から顔を出した。この部隊の指揮官である彼は、見張りから遠見の筒を借りて報告のあった方角を見る。
それは、疎らに草木の生える平原にぽつんと佇んでいた。
人型といえばその通りで、竜のようにはとても見えず、これまで何度もやり合った大猪とも異なる体つきをしている。
一度、冬の遠征で北の地からやってきたらしい白い雪猿と相対したことがあったが、あれに近い姿だ。こちらの体色は真っ黒だが。心なしか他の竜よりも地味に見える。
しかし、何よりも目を引くのは頭部から左右に生えている角だった。
今、見えているのはヴィルマだけかもしれないが、見る者をぞっとさせるような迫力がある。
腕を交互に前へと出して歩んでいる。ヴィルマたちのいる方に向けてまっすぐと。こちらを既に認識できていて、敵対を前提とするような歩き方だった。
仲間はいないようだ。いつかの白い雪猿は何匹かで群れを組んでいたが、その気配はない。
大きさは、人とは比べ物にならないが、飛竜と比べると小さいかもしれない。大猪より一回り大きく、火の怪鳥と同じくらいの図体をしている。
大きければ強い。多少の例外はあるものの、概ねどの竜や獣にも当てはまる経験則だ。
ただ、その経験則に当てはめるには、かの獣の振る舞いはあまりにも堂々としたものだった。
「打って出ますか?」
「いや、せっかく陣を構えたのだから、ここは迎え撃とう。初めての相手だから様子見もしておきたい」
「では、持ち場の対竜兵器はそのまま装填に移らせます。……まるで人の軍を相手にしているようですな」
「……ああ、たしかに」
指示に従って動く兵士たちを脇目に、砲兵部隊の隊長の言葉に対しヴィルマは頷きを返す。
陣地を作って迎え撃つことも、こちらから打って出て野戦に持ち込むことも多々あったが、ここまではっきりと、面と面とで向かい合う構図はヴィルマにも初めてのことだった。
人の軍隊同士が戦いを始めるときの緊張感とはこのようなものなのかもしれない。こちらが相手をするのはたった一体の獣だけという違いはあるが。
国の内部には多々いる、竜や獣のことを全く知らない貴族たちからしてみれば、一体の獣狩りにどれだけの手間をかけているのかと一笑に付すところかもしれない。
かの獣はいよいよ近づいてきて、兵士たちも目視でその風貌を確認できるようになった。
そのねじれた双角といかつい腕に怯む者は多かったが、やはり、飛竜などと比べると一回り小さいことがひとつの安心材料になっているのか、腰を抜かしたり逃げ出したりする者はいなかった。
ここは街道から近い。黒蛇の翼竜の件がどうなろうと、あの獣は対処せざるを得ないことに変わりがないのなら、あえてここで片を付けようと腹をくくっている様子だ。
黒蛇の翼竜が便乗してきたらかなり厄介だが、現状ではその素振りは見せていない。両者の争いに巻き込まれたくないのかもしれないとヴィルマは思った。
いや、むしろあの竜たちはこれを見越して高く飛んで地上の様子を伺っているのかもしれない。死肉や食べ残しが彼らの餌ならば、あるいは。
「黒の獅子、止まりました」
部下の報告でヴィルマは思考を戻した。黒の獅子は暫定の名付けだ。
ヒンメルン山脈の峰々からやって来てここまで歩んできたかの獣は、対竜兵団の陣からやや遠くのところで足を止めた。
大弩の射程からはやや遠い。竜との戦いに正式な火蓋や合図というものはなく、ヴィルマのような上官の指示を待たずとも、各々の判断で先制攻撃をしてもよい、と伝えてあるが、もう少し引き付けたいといったところか。
意図せず睨み合いの構図となり、兵士たちは今一度だけかの獅子を俯瞰的に眺める時間ができる。
日の出と朝焼けは東から、陣を敷く人々の背後の空が、向き合う黒い獅子の正面の空が焼けている。
西のヒンメルン山脈は雲が出ていて、無数の黒蛇の翼竜が空高く飛んでいる。雲と山の稜線は既に日に照らされていた。
黒い獅子の背後に黒蛇の翼竜が舞い、それらが赤く染まる構図は、朝焼けながら、その不穏さを感嘆に裏返してしまうほどに絵になった。
その絵が、巨大な岩盤によって塗り潰されるまでは。
「…………は?」
黒い獅子はまず、おもむろに地面を掴んだ。
両腕の筋肉が膨れ上がり、たちまち不気味な音を立てて地表が罅割れていって。
かの獣が初めて張り上げた咆哮と共に、大地を捲りあげるようにして立ち上がる。
いや、大地を捲りあげるようにして、ではない。捲りあげて立ち上がった、だ。
両手で支えられたその岩盤の大きさは、黒の獅子自身の背丈を優に超えて、飛竜がその翼を広げて届くかどうか────。
伏せろ、と我に返ったヴィルマが声を張り上げるよりも先に、その巨岩は宙を舞った。
目の前の出来事が信じられず、圧倒されていた人々の瞳に、放物線を描く岩盤が映った。
前線を優に飛び越えて、ヴィルマの目の前、仮設拠点の門にそれがぶち当たり、轟音を立てて門が吹き飛ぶまでの、数秒間。
何も反応ができなかった門兵が、崩れ落ちる柱や丸太に圧し潰されて、一瞬でその姿が見えなくなるまで。
ヴィルマたちは、声もなくその光景を見ていることしかできなかった。
先手は、黒い獅子が取った。
戦いの火蓋、などとはとても言えない、暴力による破壊が始まった。
作中設定解説
【黒蛇の翼竜】
後世ではガブラスと呼ばれる蛇竜種。
身体に対する翼の割合が大きく、飛行能力に優れる。黒光りする滑らかな皮が特徴。
作中ではその見た目から翼竜と呼ばれているが、後の時代に翼竜と呼ばれるメルノスやラフィノスとは別種であるとされている。
また、古龍種という分類が定義され、それに伴う目撃情報が寄せられ、不吉の象徴という認識が広まるのも遠い未来の話である。