第6話 欠け落ちた円環の逸話
クラフタは国を跨いでの運送屋を営むアイルーだ。
東シュレイドから西シュレイドへ、その逆も然り。身軽さを保つことのできる最大限の荷物をポーチに詰めて運ぶ。
行商と道を共にすることもあるが、その身一つで道なき道を駆け回ることも少なくない。
同業者は少なく、その分報酬は多い。少なくとも、奴隷扱いの同族とは比べ物にならない額の金は手にしている。
稼いだ金は専らマタタビの粉末へと消えていく。人がアイルーを従えるために使う一種の薬物だが、クラフタもその虜になった一匹に過ぎない。
アイルーはもともと狩猟採集で日々を生きていて、農耕は得意でない。いや、そもそもの発想がないと言うべきか。クラフタも人の畑というものを初めて見たときには驚いたものだった。
つまり、同族にとってマタタビの栽培などもっての外であり、野生のマタタビを見つければその場ですぐに奪い合いが起こるか独占されるかして消費されきってしまう。
だからこそ、人々の手によるマタタビの安定供給はクラフタが仕事を続ける理由としては十分すぎるものだった。
今日も今日とて、クラフタは荷物を運ぶ。
行き交った人々に蹴とばされないように気を付けながら。ポーチが雨に濡れたり土に汚れたりしないように注意を払いながら。
長い時間をかけてようやく成り立たせた職業だ。人々の側からしてみれば、ようやくその利用価値に気付き始めた、程度のものなのかもしれないが。
荷物の状態が損なわれれば、まして紛失などしようものなら信用など脆くも崩れ去り、泥水をすするような生活に後戻りすることになるだろう。それ以前に命すら危うい。
その道のりも決して楽とは言えない。むしろ危険に塗れている。同業者が少ないのはそのためだ。
アイルーは野性的な直観には優れている。その分社会的な考え方が得意でなく、人々に利用される立場に追い込まれている、という皮肉も併せ持っている。
人の往来はそれなりにある。これは、そこまで不自然なことでもない。
国同士で争っていても、商業は別だからと別の場所で手を握るような生き物だ。余程のことがない限りは細々とでも道が残されるだろう。
二年ほど前、その余程のことが立て続けに二度起こったことがあった。
意志を持って闊歩する吹雪と山火事。国境を繋ぐ道をあれらが飲み込んでいたならば、その後の十年くらいは人の往来ができなくなっていたかもしれない。一度崩された地形を元に戻すには長い月日がかかる。
アイルーのクラフタはそれでも何とかする心意気でいたが、舗装された道がないとどうにもならなくなるような荷物の運び方をしている人々にとっては、気が気ではなかっただろう。
結果としては、古の災いと呼ばれたどちらともが人の手によって行く手を阻まれ、引き返すなり進路を変えるなりして、壊滅的な被害は免れた。
ただ山火事の方は影響が大きかったらしく、西シュレイドの一部では数か月に渡って煤塵が降り注ぎ、心身を病む人や竜が続出したらしい。これでも最悪の事態には程遠いと言えた。
そういう自然の脅威にアイルーは敏感だ。だから一度、人の社会の閉鎖的な身の安全を知ってしまうと抜け出せなくなる。国境を跨ぐような仕事からは手を引くようになってしまう。
つまり、クラフタは変わり種だった。もともとひねくれ者で、マタタビに酔いつつも常に自由でありたい欲求を抱えている。
ハイリスクハイリターン、とどこかの商人が言っていたが、まさに自分はそれなのだ、とクラフタは自負していた。
そして、もうひとつ言えることとして、東西シュレイドの国境付近が敬遠されているのには相応の理由がある。
何か目で見て分かるような、不毛の地だとかそういうことはない。
けれど、差別的な物言いをあえてするならば、感覚が麻痺しているのだ。人に限っては鈍感なだけなのかもしれないが、他の地域から来たアイルーならば分かる。
恐ろしい、という一言では表しきれない、別の言い方をすれば、蠱惑的ですらある。なんとなく怖いはずなのに、惹きつけられるものがある。
この一帯だけ、森の緑が色濃く深いような、そんな錯覚さえクラフタは抱いていた。
シュレイド地方の真中が、どうしてそのようなことになっているのか。
多くの生き物がその理由を知らないが、両国の首脳陣たちはよくよく分かっているようだ。
国を渡る大掛かりな商売をしている商人の一部にも、噂や与太話に交えて密かに伝えられている。
クラフタもまた、これらの事情に近づいてしまった者の一人だった。
知ろうと思って知ったわけではなかったが、人の使う文字や言葉を学んでしまったばかりに要らぬ知識を得た。おかげで仕事をする間、考えることが増えてしまった。
道中に雨が降ると、木の下や洞窟で雨宿りをすることになる。ポーチを濡らすわけにはいかないからだ。
そうやって足を止めているときは、求められた届け日に間に合うかを逆算し、じりじりと心を焦がす。それだけでは気が滅入ってくるため、クラフタは物思いに更けることを覚えた。
もう何度目になるか、クラフタは自分の身が置かれている状況を考える。回りくどく、この世の中を頭の中で整理するところから始める。
実のところ、西シュレイドの都市と東シュレイドの都市を行き来するのにここまで難儀することはないはずなのだ。
特に、東シュレイドの前線都市リーヴェルと西シュレイドの城塞都市ヴェルドは、直線距離で結べばそう遠くない。何なら、それぞれの自国の辺境にある街よりも明らかに近いまである。
わざわざそんな回り道をせずとも、山の裾野に沿って真っすぐに互いの都市を目指せば、今の十分の一の時間で到着することができるだろう。
けれど、それはしない。できない。地図上でもそれは不可能とされている。
二つの都市の間には
さらに危険な竜が生息しているため近づくことすらできず、陸路となると今のような迂回をするしかない、という、そういう設定になっている。
そう、そういう建前なのだ。
真相は己が掴んでいる、などとはクラフタは思わない。自らの目で確かめたことではないからだ。
それらの内のいくつかには事実が含まれているかもしれないし、全てはクラフタの思い込みということだってあるかもしれない。
けれど、クラフタは自らが幼い頃に同族の集落で聞いた伝承と、仕事の伝手に貴族や商人から聞き及んだ話が頭から離れないでいる。
どうやら西シュレイドと東シュレイドは、太古の昔からそういう在り方だったわけではないらしいのだ。
詳しいことははっきりとは分からないが、元はひとつにまとまっていたのだと。
その説を聞いてクラフタはひとつ、腑に落ちるものがあった。
東西シュレイドを何度も渡り歩いているから分かる。両国の国境はとても曖昧というか、分かりづらいのだ。
一応、
けれどもその河はいくつもの支流を持ち、その内のどれで区切られているのかははっきりしていない。
本来はもっと、それこそ
長い歴史の中で、どうしてあの山脈を無視して国が分かたれているのか、クラフタは不思議でならなかった。
そして、そんな疑問に対する答えもまた、口伝や詩歌の中に見え隠れしていた。
かつて、大きな災いがあった。
先の山火事や吹雪を優に上回るような規模の災厄が、この地域に舞い降りた。
それがいつの出来事だったかは定かではないが、相当に昔であることは確かだ。アイルーも人も、何代も、場合によっては何十代も遡ることになるかもしれない。
その災いの名前は不吉とされていて、知っていても口には出してはいけないことになっている。運命や、鉄を熔かす火に例えられるらしいが、クラフタも積極的に首を突っ込んでいきたいとは思わない。
クラフタにとってはむしろ、その手の話の端々に出てくるシュレイド国という名前が興味深かった。
東、西と区別されない。シュレイド地方をそのまま当てはめたような、今は存在しない国名。単語そのものは聞き飽きる程なのに、はっとさせられる。
きっと、その災いこそがかのシュレイド国を割ったのだ。血を通わせる巨大な生き物を胴の部分から引き千切るようにして。
生き物であれば断末魔を上げて、避けられない死を迎えることだろう。けれども、人という生き物の群れはなんとか生き延びて、持ちこたえた。
支配や秩序というものを失い、都市ごとに小国に分かれて小競り合いをするような過程を踏みながら、時間をかけて今の東西シュレイドという二大国ができあがっていったのではないかと、クラフタはそう考えている。
そして、ここからは本当にクラフタの推測の域を出ないが。
その災禍の禍根は、今でも拭いきれずに残っている。根付いてしまったといった方がいいのかもしれない。
恐らくは、あの
両国の地図共に通行できないと明言しているどころか、半ば立ち入り禁止のような雰囲気を醸し出している。
あれは国境などではなく、互いの国の、不可侵領域なのではないだろうか。
災いの爪痕はこうして山を隔てたこちら側にまで及び、この曖昧な国境一帯に薄く広がっている異様な雰囲気の根源となっているのではないか。
クラフタはいつも、この辺で考えることを止めてしまう。何か触れてはいけないものに触れそうになっている感じがして、息を吐いて頭を振り、無理やり思考を振り払う。
どうせ、誰かに話すこともできない。壮大な妄想だと笑われるならまだいい。むしろ全部外れていてほしいとすら思っている。
けれども、もし今の思考の一欠片でも真相に当たっていようものなら、西シュレイド辺りであっさり事故死してしまいそうだ。そんな死に方はクラフタにはごめんだった。
好奇心は我らを殺す。アイルーの間に広く伝わる戒めはクラフタ自身にも当てはまる。
未知に対して迂闊に手を伸ばさず、生き延びるために必要な情報だけを拾って、自らの仕事に集中する。
何度だって自身に言い聞かせるべきだ。このような職で金を稼ぐクラフタには。そのための道具として、クラフタは今の思考を使っている。ちょっとした劇薬のようなものだ。
では、生き延びるために必要な情報とは。これは堂々と考えを巡らすことができるし、積極的に手に入れていかなくてはならない。
例えば、先に東シュレイドの都市リーヴェルで手紙を託された際に、ある老人が零してくれた龍渡りの話は興味深かった。
文字を読めるアイルーは珍しい。加えて本を読み、歴史や政治の事情までも知っている者ともなるとごく一握りだ。その一匹であるクラフタについ口が軽くなってしまったのだろう。
曰く、龍渡りは百年から数百年に一度の頻度で起こり、連綿と続く災いだ。暦にも記されていないが、龍占いと呼ばれる人々の間で今盛んに議論が行われているのだという。
災いの種類は多岐に渡る。干ばつや毒霧、地震や星降りなど、一見して何の繋がりもない天災が立て続けに起こる。
共通しているのは、それらが季節の巡りや地形に関係なく、一定の方角へと向かって移ろっていることであり、この傾向に倣って渡りという名が付けられた。
先の噂や与太話と大差のない新説だが、ここ最近に起こった二つの災いがこの周期と重なっており、俄かに話が盛り上がっている。
一介の労働者であるクラフタからすれば、迷惑千万といったところではある。東西シュレイドのいざこざに加え、国境の不穏、常々の竜への警戒と、既に腹いっぱいだと苦言を呈したい。
けれども、自然に対して文句を言ったところで返ってくるのは山彦か、腹を空かせた竜くらいのものだ。黙って付き合っていくしかない。
この大地では、竜ですら意に介さない大きな力が、それぞれ無関係に、それぞれの目的や仕組みに沿って時間だけを共有して動いている。
人の社会も似たようなものだろう。個体としての力は小さいけれど、これが都市や国家という大きな集合体になると、それ自体が何かの息遣いを宿すようにも感じる。
この同時進行性とでも言うべきものを最も実感している者のひとりが、クラフタなのかもしれなかった。
雨が止めば、再び歩き出す。方角を見定めて、うっかり獣道や竜道に入っていないことを入念に確かめながら。
木々の隙間から顔を覗かせる月や、浮雲の流れていく青空を何度も見上げた。星空や陽射しの元を走った。これらもまた、クラフタの仕事の一側面だ。
月単位の時間をかけて、延々と続いた山脈を回り込む。気が付けば折り返しの目的地が近づいている。
丘に登れば遠くからでも見える岩肌のような城壁は、西シュレイドの統治者の住む街、ヴェルドだ。
堅実な見た目とは裏腹に、あの城壁の内と外ではっきりと貧富が分かれていて、何の権利も保証されていない壁外の人々の方が圧倒的に多い。複雑でいくつもの顔を持つ街だ。
クラフタが病的に欲しているマタタビもここで手に入る。壁内では正規の高級品が、壁外では闇市の量産品が。どちらもクラフタを魅了して止まない。混沌としたこの街をクラフタが好む唯一の理由だった。
既に竜の気配は遠のき、広々とした畑や集落から立ち昇る煙、道行く人々も増えて、人の気配が濃くなっていく。
この辺で竜が現れたら大騒ぎになるだろう。彼らの存在を知らない人々もここには数多くいる。
道中、いくつもの街や村に立ち寄って書簡や小包を手渡してきた。
クラフタの客の多くは貴族や大商人など、一定以上の身分を持つ者だ。豪勢な屋敷に上がり込んだことも一度や二度ではない。
それもそのはず、国を跨いでやり取りをするような繋がりなど、その辺の市井の民が築けるはずもないのだ。国境があのような状況である限り、交易以外の交わりは起こり得ないだろう。
その上でアイルーという手段を用いて連絡を取り合う。
人よりも小さくすばしっこくて、足取りを追いにくい。大きい荷物は運べないが、文書ひとつ程度であればもってこいだ。交易商人の密輸取り締まりなどとは違って、アイルーの往来に対する法整備がまだ十分でないことも追い風になっている。
差出人が中身を説明することは滅多にないし、クラフタも知ろうとしない。輸送に秘密を課せられることなど日常茶飯事だった。他人に話せない事情しかないのだろう。
中身が黒かろうと何だろうと、クラフタは淡々と運ぶのみだ。そもそも種族が違うので情も湧かない。
人々の側も、隣国のことが気になりはすれど、すぐ近くにいるアイルーに関心を抱くことなどあまりないだろう。せいぜい、メラルーのように盗みを働きやしないかと疑いの目をかけてくるくらいだ。
ヴェルドは西シュレイドでは最大と言えるほどの都市でありながら、国土の端の方に位置している。かの「地図上では立ち入れない国境」の近くだ。ここまで重厚な城壁を建てたのも、隣国の東シュレイドを意識してのことだろうか。
ともかく、ここでの配達と集荷を終えれば折り返しだ。来た道を引き返し、また東シュレイドへと向かうことになる。
ここでしばらく時間を潰すのもいいだろう。過酷な旅を何か月も続けたのだ。数日間くらい、マタタビに酔う至福の時を味わっても誰にも文句は言われまい。
懐で温まっている金と、それらが魔性の草の束へと変わっていく光景を思い浮かべて、つい口元が緩んでヒゲが下がりそうになる。
妄想を振り払うようにクラフタは首を振った。まだ配達の仕事が残っている。ヴェルドはアイルーへの迫害が強い街だから、油断しないようにしなければ。
そう言えば、またあの変わり種の手紙が最後に残ったな、とクラフタは思った。
ここ一、二年の話だが、ヴェルドへ赴くときには必ずこの手紙が付き添うようになった。また、東シュレイドのリーヴェルへ手紙を受け取りに行く流れもお決まりのようになっている。
正直なところ、クラフタはこの二都市の往復を少し面倒に感じているが、報酬が良いため付き合わざるを得なかった。
差出人は驚くべきことに、かの東シュレイド対竜兵団の指揮官を務めている男だ。
決して嘘偽りではない。なぜなら、クラフタはこのためだけに前線都市リーヴェルの基地へと呼び出され、本人から直々に手紙を受け取っているからだ。
宛先はヴェルドの壁外に住んでいる少女だ。とはいっても彼女は大抵不在にしていて、使用人らしきアイルーが代わりに手紙を受け取ることがほとんどだった。
ヴェルド壁内の身分の高い人々へ宛てたものであるならともかく、壁外の誰とも知れない少女が宛先となると正直困惑が隠せない。
特に最初は「恐らく壁外で知名度はそれなりにあるはず」という情報しか与えられなかったため、この無数の貧困層がひしめく壁外で人探しから始める羽目になった。よく途中で放り出さなかったものだとクラフタは思う。
何度か同じ配達をする度に、その少女が西シュレイドの対竜戦士として戦っている身であることが分かった。どうやらかなり強いらしいが、有名というよりも気味悪がられている、という印象を受けた。
どちらも竜と戦う立場である点で共通点がある。いや、それ以外では結びつきを見出せないと言った方が正しいか。
どこかで合同作戦でもしていたのだろうか、とクラフタは考えていたが、それ以上は考えることを止めていた。
そして、この配達依頼の違和感の極めつけともいえるものが、少女の側からの返事の手紙がないことだった。
クラフタの配達は双方向が基本だ。小包を渡せば別の品を託され、書簡を渡せば返信を任される。一方通行の案件もあるにはあるが、そういう場合は一回きりだったりすることが多い。
しかし、この手紙に限っては例外だ。もう数回は同じことを繰り返しているが、少女の側から、その使用人のアイルーから返事のひとつも貰った試しがない。
一応クラフタの側にも責任と自負があるため、確実に送り届け、そしてしっかり受け取られていることを依頼人に報告している。
リーヴェルの依頼人はその報告で十分なようで、よくやったとクラフタを労い、クラフタが西シュレイドに言っている間に次の手紙を書いてしまうのだろう。また厚めの手紙を前金と共に託される、ということが続いていた。
他人事には首を突っ込まない主義のクラフタだが、流石にこれには困惑を隠せなかった。
一時期は少女の方が東シュレイドの密偵か何かで、リーヴェルの依頼人はこの手紙を通じて命令を出しているのか、などと考えたりもした。
しかし、それをするなら宛先は間違いなく城壁内の誰かになるはずだ。
壁外は壁外で、個人を特定されづらくできるなどの恩恵はあるだろうが、西シュレイドの内情を探るなどの目的に対しては重すぎる制約がある。ヴェルドの格差社会を舐めてはいけない。
そうでないなら、あまり考えたくないことではあったが。
ただ単に差出人が変人なだけで、少女は付きまとわれているようなものだとか、そういう落ちだったりするのだろうか。
ある組織の指揮官、実質的な都市の統治者ともなれば、何かしら常人にはない感性や信念を持ち合わせていてもおかしくはない。若いなら尚更だ。
その熱意が遠い異国の少女に送られている。例え返事が無くとも熱心に、めげることなく繰り返して。一方的に手紙が送り届けられ続けている。
なんだか急に、少女のことを気の毒に思い始めたクラフタだった。
まあ、何にせよ手紙は受け取られている。その気になれば突き返したり目の前で破いたりすることすらできるはずだが、それをしないのは何らかの意図があってのことだろう。
手紙の差出人と受取人のことはともかく、クラフタはむしろ少女の使用人のアイルーのことが気にかかっている。
種族が同じということもあるが、彼女もまた変わったアイルーのようだった。主たる少女を深く親愛しているのか、不在がちな彼女の家をしっかり守っているようだった。
暮らしぶりは周りと比べるとかなりましな方のようだったが、壁内に住む人々の家とは及ぶべくもない。外面を良くしても盗人や強盗に狙われるだけだとかの要因もあるのだろう。
少女のような功績のあげ方では決して城壁の内側に囲い入れようとはしない。ヴェルドの思想が透けて見えるようだった、そこまで徹底しているからこそ、これだけの繁栄を遂げたとも言えるのかもしれないが。
仕事の都合上、差出人と受取人の名前は知っている。けれど、そのアイルーの名前をクラフタは未だに知らなかったし、特に尋ねることもしなかった。
向こうも同じくだ。渦中にいるのはあくまで主や依頼人たる彼らであって、自分たちは間接的に関わっているだけに過ぎない。配達人と代理受取人、それ以上になることはないのだ。
ただ、仕事として互いに二言三言話したりすることはあって、そのときに彼女が人の言語を話せるだけでなく、読み書きまでできて、ちょっとした読書家であることを知った。
正直に言えば、かなり驚いた。相手の方もまた、クラフタが人の言語を習得していることに驚いているようだった。
ヴェルドの壁外に至っては人々にすら普及していない。アイルーともなればその数はぐっと限られてくることだろう。
クラフタは自身の生業としてどうしても教養を身に着ける必要があったからで、特段誇ることでもない。
しかしヴェルド壁外のこの環境下で、かつアイルーである彼女が教養を身に着けているとなると話は変わってくる。
あくまでクラフタの見立てだが、彼女ほどの才があるならアイルーであれども城壁内で仕事を得て暮らすことだってできるはずだ。アイルーだからこそできる役回りがあるのは、クラフタ自身が証明している。
それでもなお壁外に留まり、迫害を受けながらも主の元で仕え続けている。
恐らく彼女なりの思惑があるのだろう。それは自由を求めたクラフタとは方向性を違えるものだが、あえて選択をしているのだ、ということだけは汲み取れた。
そして今日もまた、主の帰りを待つ家の戸を叩いたクラフタを出迎える。人用に設計された戸はアイルーには少々開けづらい。そのちぐはぐさに少し空しさを覚えた。
「こんにちは。お届け物です」
「こんにちはにゃ。いつもお疲れさまですにゃー。半年ぶりくらいですかにゃ。いつものお手紙ですかにゃ?」
「ええ。東シュレイドのリーヴェルから。代金は既に貰ってますので」
「こりないものですにゃあ……。分かりましたにゃ。悪いですけれど今日もフレアさまは不在でしてにゃ……代理で受け取っておきますにゃ」
「……それでは、たしかにお届けしましたんで」
手紙を渡したクラフタは、そのまま身を翻す。
これまでに差出人について問われることは何度かあった。特に口止めもされていなかったため包み隠さず話したが、それももう粗方伝えきってしまった。そうなるともう、特に話すこともない。
しかし、そんなクラフタの背後から、「にゃ、ちょっとお待ちくださいにゃ!」と声がかかった。
「どうしました? ……ああ、受け取り拒否ですか。それなら着払いでいいですよ」
「そのうちそうなるだろうにゃってこっちも考えていたにゃ。けれど、別件なのですにゃ。ある手紙をリーヴェルまで届けてほしいのですにゃ。前金もお支払いしますにゃ」
彼女はそう言って戸の傍の棚から小さな封筒を取り出すと、丁寧な仕草でクラフタの手にそれを乗せた。
どことなく手作り感のある質素な封筒だが、中身を守るだけの頑丈さはありそうだ。宛先は───東シュレイド。リーヴェルの対竜兵団団長のヴィルマさん。
「……ニャ?」
つい、素の声が出てしまった。
「あ、ニャって言ったにゃ」
「……聞かなかったことにしていただければ」
「いやーあなたもアイルーなのにゃねー。とにかく、その宛先の通りにゃ。こんなことになるなんて思いもしませんでしたけれどにゃ。フレアさまなりに何か思うところがあったみたいにゃね」
普段は気だるげに半目になっているクラフタの目が僅かに見開かれた。
続いて彼女の方を見ると、人がするような仕草で肩をすくめて斜め上に視線を向ける。
「返事は別にいいってフレアさまは仰っていましたけれどにゃ。まあそうはならないでしょうにゃね」
ただの気まぐれで、もうこれっきりかもしれないということを伝えてほしい、と彼女はクラフタへ伝言を付け加え、続けざまにそっとため息をついた。
「さて、これからどうなることやら、にゃ」
作中設定解説
【ヒンメルン山脈】
東シュレイド北端から西シュレイド南端にかけて、二国に渡り聳え立つ山脈。人々からは「空へ限りなく近い山」と呼ばれている。
シュレイド地方の気候にも大きな影響を及ぼしており、東シュレイドからこの山脈を越えると温帯となる。
北西部に広がる西竜洋と並び、モンスターの進出を阻む天然の防壁のようになっており、シュレイド地方の人々の繁栄、および歴史に深く関わっている。