少女が自らの拠点に帰り着いたのは、課せられた任務を終えてからひと月と少しが経った頃だった。
行きよりも帰りが大変だろうことは覚悟していた。けれども、想定していないことが多々起こった。人追いの相手は慣れていなかった。
それだけ、あの人物は偉い立場にいたのか。あるいは、西シュレイドの刺客が深く東シュレイドに入り込んだという事実が気に障ったのか。
どちらにせよ、逃亡にはかなりの苦労があった。もう本当に逃げ場がないと、
少女一人では掴まってしまっていたかもしれない。いや、そもそも任務を遂行できなかった。
潜入にも逃亡にも、少女には数人の仲間がついていた。彼女とは違い、暗殺や諜報を生業とする人々だ。
彼らで事を済ませても良かっただろうに。そうしなかったのは、やはり竜という存在を怖れ、それに携わる人々を理解の外に置いているからなのだろうか。
そんな彼らも、山脈を折り返して国境へ辿り着こうかという頃には散り散りになってしまっていた。
相手側の人追いが優秀だったというよりも、道中で肉食竜の群れに目を付けられてしまったことが理由だろう。皮肉にも、それが東シュレイド側の追跡を諦めさせる出来事となったようだったが。
人を殺めることに特化した彼らの暗器は、竜の命を絶つには手間をかけてしまう。その間に群れに囲まれてしまうともう、逃げ出すことは難しい。
双方の国の人々の断末魔が深い森に染みこんでいくようで、少女はただ、自らの身を守りながら走り去ることしかできなかった。
国境となる大河を越えて、追跡を振り切ったことを入念に確認し、その確信を得てからは、身を隠しながらも街道に出て竜車に乗れるくらいにはなった。
これ以上人の気配や視線に気を配らなくてもよくなったことに安心を感じつつも、どことなく辟易とした気持ちになる。その理由も分からないまま、少女は西シュレイドのある都市へと向かう。
国境と垂直に交わる山脈をぐるりと回り道し、一度西の端の方まで行ってから引き返す。東シュレイドの都市リーヴェルと対になるような道を辿る。
深緑の森と、集落や畑が点在する丘陵地帯が延々と続いた先に、小高い台地に聳える城壁が見えた。
周囲の景色から浮きすぎないようにしつつも、人が見れば一目で分かる。夜は篝火が焚かれ、道行く人の目印となる。
西シュレイドで最大規模と言われるその都市は、ヴェルドと呼ばれていた。
少女の拠点と言える街でありながら、彼女はそこをあまり好いてはいなかった。それこそ、あのよく目立つ城壁のせいだ。
近づけは近づくほど、立派な造りをしていることが分かる。人はおろか、竜すらも真正面から打ち崩すのは難しいだろう。
あの壁の内側には、この国の中枢たる西シュレイド王がいる。広大な敷地に荘厳な城を構え、城下町を見下ろしている。
国の首都というだけあって、人や物の行き来も盛んで活気がある。少なくとも、彼女が見てきたリーヴェルよりは繫栄していると言えるのかもしれない。
けれども、その恩恵を受けることができるのは、壁の内側に住む人々だけだ。
少女は、あの壁を許可なく通れる身分の人間ではなかった。
大勢の人がいる城門の手前で竜車を降りて、重い身体に鞭打って歩を進める。
今回は壁の内にいる要人に任務の成果を伝えるという要件がある。公に明かせる内容ではないので、憲兵に事情を言って中に入れてもらわなければならない。
頭巾で顔を隠しながら関所にいる兵士に話しかけると、詰所の裏口を案内された。正式な通行証がないため、特別処置になったようだ。
一連のやり取りで彼女の身分を察したのだろう。話を通した兵士の目にはどこか憐れみの色があった。既に慣れていた少女は、特に思うところもなかった。
報告は、実に手短に進められた。
それなりに大きな仕事を負わされているはずだったのだが、拍子抜けしてしまうほどにあっけない。
少女は依頼人と直接顔を合わせることすら叶わなかった。その使用人らしき人物と個室で言葉を交わし、ろくな証拠がないことも特に咎められないままに報酬だけが手渡された。
少女には確実に致命の一撃だったと言い切れるだけの自負がある。しかし、相手の首や耳などを持ち寄ってきたわけではないのだ。それを責められもしないのは、どこか不気味ですらあった。
仲間が消息を絶ち、彼女一人で戻ってきたことについても触れられることはなかった。
これについては、いつものことだ。捕虜にでもされていれば都合が良くないだろうことは少女でも想像がつくのに、まるで意図的に話題を避けているのではと感じるほどだった。
急かされるように壁の外へ連行される。表立って貶されるようなことはなかったが、その対応は街そのものが彼女を忌避しているようだった。
僅かに拳を握る。けれども、何もしない、できない。何も彼女には変えられないし、変える術など思いつかない。
この任務だってきっと、街の表通りの明るさに照らされてできた、いくつもの影のひとつに過ぎないのだろう。
国とかいうものが関わっているから、こんなに面倒なんだろうな、と。彼女は小さく独り言ちた。
長旅の疲れに徒労感までも重なって、少女の顔色は悪かった。しかし、それはどちらかと言えば心の方から来る不調だ。
体の方は特に病を患うということもなく、一連の戦いで負った傷も、日が経ったことでそれなりに治りが見えてきていたのだが。
彼女を出迎える側にとっては、そんなこともお構いなしだったようだ。
「にゃ──っ!! フレアさまっ、よくぞご無事でそして診療院送りにゃ!」
「サミ。別に私は……」
「診療院に行こうにゃ!!」
「……うん」
フレア、という名を。少女は自身の名前を久しぶりに聞いたような気がした。実際はそんなはずはないのにそう感じるのは、名を呼んだのが彼女と長い付き合いのアイルーだからか。
正直、適当な場所で泥のように眠ってしまいたかった。が、有無を言わせない勢いで袖を引っ張るアイルーに押し切られて、瞼をこすりながら医術師のもとへ足を運ぶ。
周りの景色は城壁内とは全く異なるものになっていた。
道の舗装はされておらず、土埃が舞っている。家屋のほとんどが簡素で、人は多けれど活気があるというよりかは荒れていて、余裕のなさや貧しさと言ったものが滲み出ていた。
視線を上げれば、自分たちを囲うことのない城壁が見える。世界の違いをあえて見せつけるような存在感を放ち、外にいればいつも視界に入ってくる。
あの城壁は決して自分たちを守らない。人からも、竜からも。ここはそういう国だ。こういう仕組みなのに人が増える。いや、だからこそ人が集うのかもしれない。
フレアたちは、王都ヴェルドの壁の外で暮らしている。
この国の大多数を占めながら、市民にすらなり得ない。階級制度としての最下層に位置する民。
奴隷と、ほとんど同義だ。
診療院には多くの人がいた。城壁内の唯一の良心とも言える医術師が、格安で病や傷を診てくれている。決して潤沢ではないが薬や寝台も用意されている、フレアがよく世話になる施設だ。
そこの医術師とはもう顔見知りになっていて、来院したフレアに気付くや否や、診察室へと運ばれて入院の運びとなった。
いったい自分のことを何だと思っているのか、とフレアは思ったけれど、心当たりがありすぎるので何も言えなかった。フレアには自分の身体に無頓着なきらいがあった。
竜による傷は治りが悪くなることが多く、何度も診療院の人々を走り回らせた実績がフレアにはある。
ただ、今回はそれとは様子が異なる。診る人が診ればすぐに気が付くだろうが、深く聞かれることはなかった。触れないでほしいというフレアのそれとない意思を汲み取ってくれたのかもしれない。
とにかく今は眠ってしまいたいと正直に言うと、少し質の良い寝具を用意してもらえた。ここまで歩いた気力を引き合いにしても、ありがたい対応だった。
久しぶりの柔らかな感触が、ここ数か月で浅くなった眠りを相殺してくれる。
もう警戒の必要はないんだと何度か自分に言い聞かせてから、フレアはようやく眠気に身を任せた。
目覚めはついうとうととしてしまう。
ぼうっとしつつも、ここに至るまでの経緯を思い返し、しっかりと記憶が地続きになっていることを自覚して、ふうっと息を吐く。そう、今は跳ね起きる必要はない。
しばらくして、自分の服が着せ替えられていることに気が付いた。体中のざらりとした感触もなくなっているように感じる。
身じろぎをすると、その気配を察したのだろう、足元の辺りから声が聞こえてきた。
「申し訳にゃいですけれど、体を拭かせてもらったにゃ。服も同じく、にゃ」
「ありがとう。……おはよう、サミ」
「おはようございますにゃ、フレアさま。リンゴをもらったから食べましょうにゃ。でもその前に口をゆすいでくださいにゃ。たぶん土の味しかしにゃいですにゃよ」
「……ん」
フレアの寝ているベッドの周りをとてとてと歩く、白い毛並みのアイルーがフレアの世話係だった。
フレアさまの体は軽いから、にゃーでも体を拭けて良いにゃ。まあ、それはそれで心配ですけれどにゃ……などと呟きながら、小さな手で器用に刃物を扱ってリンゴの皮を剝いている。
どうやら、丸一日近く時間は眠っていたようだ。腰や肩の辺りが少し傷む。しかし、鉛のように重かった体は、気怠いくらいにまでは持ち直していた。
ゆっくりと上体を起こす。リンゴはすりおろしまでされていて、病気じゃないんだから、とは口にしつつも、じんわりとした食感にほっとさせられる。
「お仕事はうまく行きましたかにゃ?」
「たぶん。あれは生き延びられないと思う」
「フレアさまがそこまで言うのでしたら、確実でしょうにゃあ」
何の前置きもなく物騒な話題が始まるが、フレアもアイルーのサミも気にする様子はない。無自覚ながら、この手の話題に慣れきってしまっていた。
他に人がいれば口にはしないが、個室をあてがってもらっているし、別に機密を守れとも言われていない。その点で言えば気楽なのかもしれないが。
「今回ばかりは生きて帰れないと思っていましたにゃ。でも、いつだってフレアさまは戻ってくるにゃね」
「今回も運が良かっただけ。他の人たちは死んだ……と思う。帰ってこれたのは、私だけだった」
「あらら……奇しくもこの前と同じですかにゃー。案外この街が嫌になって逃げただけかもしれにゃいにゃよ。フレアさまもそうしたいならお手伝いしますけどにゃ」
サミは少し変わった性格をしていた。フレアを主として仕えていて、他の人はどうでもよさそうな言動をしつつも、フレアに過度に依存しているようでもない。
取って付けたような「さま」がフレアにはむず痒く、何度か外すように言っているのだが、今のところ聞き入れられる様子はなかった。
「フレアさまが留守の間、これといった事件はなかったですにゃ。運がよかったにゃあ」
「……そう」
「ま、何か事件が起こったってどうしようもないですにゃ。こないだの火の龍と毒の飛竜、止めの霞の災いで使い捨てる人すらいなくなってしまいましたにゃ。数を揃えるのにはもう少し時間がかかりますにゃ」
まったく、人は虫みたいに増えるわけじゃにゃいんだから、そう簡単に補充が効かないってことを思い知るといいにゃ、と。
相変わらず殺伐としたことを言うサミだが、フレアもその意見には概ね同意している。ただ、命令を出す側の人──恐らくは西シュレイド王室──はきっと気にも留めないだろう。
夥しい数の死者を出した炎の龍の撃退作戦は、人のみならず、周辺の地域一帯に甚大な被害をもたらした。
炎の龍の怒りは凄まじく、かつ天災となってかたちを伴う。山ひとつ分でも全く足りない。西シュレイドの地図が書き換えられてしまうほどの大規模な火災が、様々な禍根を残していった。
その中でも特に深刻だったものが、異様なまでに狂暴化した毒の飛竜の出現だった。
現地の開拓者たちはたしか、雌火竜だとか陸の女王だとか言っていたが。アレはもはや、龍と同じような災害の具現化だとフレアは思った。
火災によって住処を追われたのだろう。そういう生き物は他にも大勢いて、生き残るために争って、争い続けてあのような姿になってしまった。
一月近くも降り注いで陽の光を遮った煤煙も、かの竜を狂わせた要因のひとつだったのかもしれない。
炎の龍が立ち去った後、かろうじて生き残った人々と共に帰途に就いている最中に新たな命令が下ったときには、流石に耳を疑った。
追加の人員も出すから、と。またしても竜と出会ったことすらない人々が集められているのを見たとき、ああ、これは正気で言っているのだ、と悟った。
フレアのような場慣れしている人が彼らを従えなければ、彼らの無駄死にはほぼ間違いない。そんな残酷さを突きつけられているような気がした。
そしてフレアは、指揮官の役をするにはあまりにも不向きだった。自分が最前線に出て死なずにいること以外、何も取柄などなかった。
またしても、人の側はほどんど壊滅した。炎の龍の撃退作戦で奇跡的に生き残った人も、何人かはここで力尽きてしまった。
フレアも僅かながら気化した毒を吸ってしまい、途端に身体が仰け反るほどの激痛と硬直に見舞われて、その激烈さを思い知った。
草木すら枯らして毒沼と化した森で、かの竜の棘を直接その身に受けて生還できた者はいなかった。その場に優秀な医術師がいたとしても対処できたかどうか。
結局、暴れるだけ暴れられて、尻尾の一部を千切った時点で飛び去られ、後を追うことができなくなった。一応撃退には成功したことにはなっているが、実態はそんなものだ。
二度の死地を経て、心身ともに疲れ果てて。やっとの思いでヴェルドに帰って来てみれば、更に立て続けに報せが寄せられる。
フレアたちとは別動隊で、人知れず霞に沈んだ辺境の集落に赴いて、その痕跡を手に入れるという任務が下されていたこと。その任務でも、やはり多数の死人が出たこと。
炎の龍が残していった角の欠片が、延々と高熱を発して焼け続ける凄まじい素材であったこと。その角の欠片を削って作られた剣が、フレアへの報酬として渡されるということ。
そして、手渡されたばかりのその剣を携えて、遠く東シュレイドの前線都市リーヴェルまで赴くという任務が下されていたこと。
その標的が、吹雪をもたらす鋼の龍を退けたという青年だということ。
最低限の休息だけが与えられて、フレアはすぐに交易用の竜車に乗り込んだ。もはや、まともに物事を考える時間すらなかった。
「…………」
「フレアさま、元気がありませんかにゃ?」
「……ううん」
その言葉に偽りはない。ただ、考え事をすることはあまり得意ではなくて、それなのに否応なく考えさせられてしまうことが短い間にたくさん起こったから、言葉に詰まってしまうのだ。
あの炎の龍の出来事から、全てが繋がっていたのだろうか。毒の飛竜や霞の災いも、全てが仕組まれたことであるかのような気がしてくる。
霞の災いの被災地で回収された鱗や皮。それらを編み込んで作られた衣装は、こちらが驚くような不思議な性質を見せた。
あの宴会の場においても、簡単なものではあったが、来場者に対して所有物の検査があった。フレアはこれに対して、特に兵士の買収などもすることなく切り抜けている。
存在感を消す、というよりも、人が何かに気付く力そのものを歪めてしまう、という表し方が合っているように思う。まやかしのようなものか。
着ている方のフレアにも影響を及ぼす代物で、リーヴェルに辿り着くまでの道中は、あれを着てまともに歩けるようになるまでの訓練に置き換えられていたと言っていい。
毒の飛竜の棘もそうだ。生物が扱う毒というものは鮮度があるものが多く、日を置くと腐って使いものにならなくなることがままある。
かの竜の毒もその例に漏れず、効力は落ちていたのかもしれない。けれども、試験体として捕らえた小動物はその針が掠っただけで死に至った。
同格の竜を倒すためには、それくらいの劇毒でなければいけないのかもしれない。しかし、植物すら枯らしていたあの毒はやはり過剰なのではないか。そして、人を殺すのにこれ以上に適した道具もそうそうないだろう。
フレアに命令を下した者が、そのときあったモノと人を上手く使っただけだと言うのなら、それ以上は何も言い返せない。実際、毒の飛竜や霞の災いでは人々や集落に被害が出ていたという理由もある。
けれども、何か順序が逆になっているような感覚をフレアは拭えなかった。
あのヴィルマという青年を殺すために、この国の幾多の人々を使い捨てた、のだとしたら。
そもそも、暗殺を計画するに至った理由をフレアは知らない。
仲が良いとは言えずとも表立って争ってもいない、均衡を保つ二国でこんなことをするのは相当なことだと、それはフレアでも分かる。
あの青年が証言でもしない限り、誰かを特定するような証拠は残していないはずだ。だからこちら側が知らぬ存ぜぬを貫き通せばいいのかもしれないが、それでも疑いの目は深まっただろう。
フレアは、あまりそのことを考えたくはなかった。本来は最も深く考えるべきことだったとしても、何と言い表すべきか、竜に相対するときとは質の異なる空恐ろしさを感じていた。
そして、もうひとつ、何故か忘れることができずに心の中で燻り続けているものがある。
フレアは自分の左腕を見た。今でも、あの剣戟の感触が余韻となって響いているような、そんな感じがした。
不思議な感じのする人だった。もう、この手で殺してしまったけれど。
最初は、祝宴なんて皮肉なことをする人だと思った。フレアたちの境遇を彼の側にも当てはめて、どれだけの人の死の上にこの催しは成り立っているのだろうと、そんなことを思ったりもした。
けれど、違ったのだ。フレアと彼の状況は全く違った。死者数は十八人と答えてみせたときの彼の表情には、諦念など一切浮かんではいなかった。
もっとやりようはあった。まだ人死には少なくできたと、そんな悔しさが滲み出ているようだった。
あの後も密かに彼の話を聞いていたが、組織としてはフレアのそれと似ていても、下地がだいぶ違うことが分かった。
東シュレイドは冬がとても厳しく、人の数がそもそも多くない。使い捨てられるだけの人がいないから、道具や兵器に頼り、なるべく死傷者が出ないような作戦を取っている。
ただ、その分ひとつひとつの作戦に金がかかることが悩みのようだった。フレアたちとはまるで真逆だ。初めにそれなりの額の金を群衆に渡して、後は勝手に特攻させる西シュレイドのやり方とは、相反している。
そもそも、あの場でフレアを見つけ出せた時点でかなり勘の鋭い人なのだろうと思った。
本当に、誰からも話しかけられず、注目を受けることもなく、そのまま宴の終わりを待っているだけでよかったはずだった。しかし、彼は目敏くフレアを見つけて話しかけてきた。
フレアは驚いて少し返答に戸惑ってしまったのだが、あまり不信感は抱かれなかったらしい。警戒感が薄いと言えばその通りなのかもしれないが、仕方のないことのように思う。
フレアと同じような生業で似たような感性があるのなら、たぶん無意識に思い込んでしまうのだ。
自分はいつか竜に殺されるのだろう、と。翻せば、人に殺されるという未来が思いつかなくなる。そんなこと、考える余裕がないのだ。フレアはそこに付け込んで、彼を襲った。
「フレアさま……人を殺めるのはこれっきりにした方が良さそうだにゃ。たぶん、向いてないんだと思うにゃ」
「そう、かも」
まあ、命令されれば選択の余地はないのだが。少なくとも、人を相手取るのは向いていないというサミの言葉には頷きざるを得なかった。
竜を殺すのとは違う。いや、竜の命を奪うまでいったこともそうそうないが、人に限ってはあまりやりたくない、と、フレアの中で珍しく拒むような気持ちが芽生えていた。
初めての標的が彼だったというのもまた、大きな理由なのかもしれない。
今でも、彼の片腕に毒の棘を突き刺したときの感覚は思い出せる。やけに生々しい記憶だった。
そして、その後に一度だけ交わされた打ち合いは、剣が擦れ合う音を響かせる前に、互いにとって想定外過ぎる反応を起こした。
フレアの左手に響き続ける余韻は、きっとそこから来ている。
鋼の龍の迎撃戦による死者数の少なさを知ったとき、もしかしたらその龍は炎の龍に比べると弱かったのかもしれない、ともフレアは考えていた。
しかし、その推測が外れていることはもう疑いようがない。そうでなければ、フレアが炎の剣を抜き放った時点で計画は台無しと言えるような結末を迎えていたはずだった。
炎の龍の角を削り出したあの剣──今も手元に置かれている──は常軌を逸している。
切れ味が良いとは決して言えない。その刀身をまともに研げる石がないからだ。剣の形も歪んでいる。あれを融かして形を整えるといったような加工が一切できなかったからだ。
それでも、あの剣が鉄製の剣と打ち合うようなことがあれば、まったく理不尽な結果が待ち受けているだろう。──鉄の剣の方が溶断されるという結末を。
恐ろしい剣だと皆が恐れ、特殊な鉱石でできた鞘に納められ、半ば封印のような扱いを受けていた。
けれど、あの氷の剣だけは違った。溶断という剣としての敗北を真っ向から拒んで、挙句大爆発を起こして弾き返してみせた。
そもそも、フレアの正体が分かってしまうので余程のことがない限りは使わないつもりだったのに、咄嗟に剣を抜かせたあの青年の執念も凄まじいものだったが。
あのとき、フレアが顔を隠すために被っていた薄布が吹き飛んで、初めてフレアと彼は互いの顔をはっきりと見た。爆発の耳鳴りで周りの音が入ってこない中で、一瞬の空白があった。
それまでは、薄布越しでははっきりと見えなかった。既に腕に毒棘が突き刺さり、凄まじい痛みに襲われているだろうに、その青色の瞳は確とフレアを見つめていた。
手に持つ氷の剣の色を映したかのような銀髪に、フレアと同じ色の瞳。しかし、まるで底の見えない湖か厚い氷のような印象を与えてくる、フレアとは質の違う碧眼だった。
それよりも、それまでフレアに向けていた敵意とはっきりとした殺意が、驚きに彩られて霧散していくように感じられたのが、フレアは忘れられずにいる。
あのとき、彼はいったい何を思ったのだろうか。窓から飛び降りて逃げるフレアに対して、何か言葉をかけようとしていたようだったが、聞き取る余裕はなかった。
彼は、殺してもよい人だったのだろうか。
フレアは目を瞑って首を振った。やはり、人殺しはもうやりたくない。普段は考えないことを考えないといけないから、余計に疲れる。より命の危険があったとしても、生きるか死ぬかの竜の相手をしていた方がよっぽど気が楽だ。
彼が亡くなった後の氷の剣の行く先だとか、組織への影響だとか、そういうことがぐるぐると頭を巡る。本当に、らしくもないとフレアは自分に言い聞かせる。
多少強引かもしれないけれど、竜と同じだ。同じ命あるものだ。
フレアは今までにもたくさんの命を奪ってきた。たくさんの命を見捨ててきた。そういう生業で生きていき、いつかは自分が死ぬ側になる。それだけの話だ。
フレアが黙って考え事をしている間、サミもまた黙って雑事をしていた。
どうやら難しいことを考えているようだから話しかけると混乱させるかにゃ、程度の配慮だったが、そういう気配りが、サミが傍にいることをフレアが許している理由のひとつなのかもしれなかった。
さて、リンゴだけでは足りないでしょうし、麦粥でも作りますかにゃ、とサミが部屋の外へと出ようとしたちょうどそのとき、こんこんと扉が叩かれた。
「にゃ? 誰ですかにゃ看護士さんですにゃ?」
「はい。ええと、フレアさん宛に手紙が届きまして。この院まで持ってきてくださったので、お渡しに来ました」
「手紙? にゃあ……まあ、ありがとうにゃ。受け取りますにゃ」
サミは不思議そうに首を傾げたが、ベッドで座っているフレアもまたきょとんとした顔をしていた。続けて、少し顔を曇らせる。
手紙と聞くと慣れないように感じるが、それは新しい任務の指令書なのではないだろうか。恐らくはこの都市の城壁の内側にいる偉い人からの。むしろそれしか思い当たらない。
診療院にいる人にそれらの区別はつかないだろう。だから手紙と言ったのだ。サミもフレアと同じことを思ったらしく、作り笑顔で手紙を受け取って扉を閉めた後に盛大なしかめっ面をする。
「人使いが荒すぎないかにゃ……?」
「いよいよ私も使い捨てられる側、なのかも」
「そんなことにゃいって言いたいですけど、なんかそんな感じがしてきましたにゃあ……」
呆れや諦め、さまざまな感情を飲み込んで先の暗い軽口を交わす。
手渡された封筒はやや風変わりな装丁が施されていた。雪と
「あれ、宛先が書いてあるにゃね。名前だけですけれどにゃ。よくこれで届いたにゃね。しかもなんというか、手が込んでるにゃ」
「……私たちの事情を知っている人が、他の人に知られたらいけない指令書を、手紙に隠して届けに来てくれた、とか」
「…………にゃ~、見なかったことにしたいにゃあ。自分ごとなのによくそんな暗いことが言えますにゃね……」
「とにかく、確認してみるしかない。開けて読んでみて」
フレアの指示を受けて、サミは半ばいやいやと言った風に蝋封を切った。
「にゃ。……にゃ?」
サミが戸惑いの声を上げる。封筒の中には幾重にも重ねられた便箋が入っていた。これまでの指令書はとても簡潔で一枚で済ませられているものも多かったのに、これら全てに文字が綴られているとするなら相当な文字数になる。
フレアとサミは顔を見合わせた。もしかして、本当にこれ手紙なのではないですかにゃ? いや、全然身に覚えがないけれど。と、そんな視線のやり取りが交わされる。
とりあえず文章は置いておいて、サミは便箋の右上と左下に目を通した。すると、特に隠されるでもなく、あっさりと送り主らしき名前が書かれているのを見つけた。
これで結局、西シュレイド王国政府とか書かれてるおちじゃないかにゃ、と最後まで疑いを捨てずにその文字を読んだサミの体が、固まった。
「……サミ?」
まさか、西シュレイド王直々の文だったりするのか。
フレアが恐る恐る話しかけるが、サミは黙ったままで、間をおいてフレアがもう一度呼びかけようとしたそのときに、ようやく口を開いた。
「フレアさま。つかぬ事を聞きますけれどにゃ、先の暗殺任務の目的地と標的の名前を言ってもらってもいいですかにゃ」
「え、と。街の名前がリーヴェルで、あの人の名前は……ヴィルマだったと思う」
「にゃあ、やっぱり記憶違いじゃあないにゃ。それで、暗殺はうまくいったのですよにゃ?」
「うん。ちゃんと腕に毒の飛竜の棘を突き刺したから……」
サミの体毛がざわついている。かなり動揺している証拠だ。
ここまで来るとフレアにもなんとなく察しがついて、しかし、信じられないという想いの方が強かった。
そんな、まさか。ありえない。
しかし、フレアがそれを声に出すよりも先に、サミが決定的な言葉を呟いた。
「どうして今になって、殺したはずのヴィルマ氏が送り主の手紙が、フレアさまの元に届くのにゃ……?」
作中設定解説
【毒の飛竜】
後世ではリオレイアと呼ばれる飛竜種。
その中でも、過剰な生存競争や環境変化に晒されて狂暴かつ攻撃的になった特殊個体をヌシリオレイアという。紫毒姫リオレイアとも。
類似の特殊個体は他の種にも存在するが、リオレイアの場合は保有する毒が変質し強烈になる傾向にある。
作中ではそもそもリオレイアという種がはっきりと定義されていないため、特殊個体との区別はなされていない。