フレアは文章を読むということができない。
そもそも、ヴェルドの城壁の外にいる人々の中で、まともに文字が読める人はほとんどいなかった。本が市場に出回ることはなく、読み書きを教える学舎もない。
いくつかの文字の形と貨幣というものの価値さえ分かっていれば、この街では最低限生きていくことができる。
働いて僅かな金を得て、飯を買って食べ、疲れ切った体で眠る。そこに文書というものが入り込む余地はない。
サミは、そんな街の実態を逆手にとって人の社会に入っていったアイルーだった。
アイルー、という言葉も最近になって広まったものだ。最近になってちらほらとその姿を見かけるようになった、辺境から訪れる獣人。
人が集うことで生まれる富に惹かれたか、種族として何らかの思惑があるのか。目的ははっきりとしていないにしろ、その扱いは決して人並みではない。
同時期に現れて各地で盗みを働いているメラルーという別種族と同一視され、卑しい獣人だと迫害される。それが今のアイルーが置かれている現状だった。
サミもまた迫害の対象になり得る。その手から逃れるために、彼女は人の言葉を学ぶという策を講じた。
独りで言語を学ぶには教本が必要になる。どうやってそれを手に入れたのか、どのようにして学んだのか。サミはあまり話そうとしない。
ひとつだけはっきりと言えるのは、サミもまた苦労の多い人生を歩んできたということだ。
結果的にサミは、人とアイルーの両方の言語を流暢に話せるようになっただけでなく、読み書きまで習得した。それらは識字というらしい。
アイルーどころか、人ですらそうそう持ち得ない技能だ。当然、彼女にしかできない仕事が舞い込んでくるようになり、今はこうしてフレアの使用人としての職を得ている。
フレアとサミの間で交わした、あくまで個人的な契約ではあるが。他の連中よりはだいぶ、いやかなりましですにゃ。というサミの言葉に誇張はなさそうだった。
ヴェルドの上層部から伝令でなく依頼書が来たときには、サミがそれを読み上げてフレアに内容を伝えることになっている。
もう何年も続けられていたやり取りだ。けれども、手紙というものを読み上げるのは初めてのことだった。そもそも、手紙という文化がこんな下層の民に届くものとは思ってもいなかった。
しかし、差出人はあのリーヴェルの戦士、フレアが殺したとはっきり告げた、ヴィルマという男だ。国が違えば常識というものも変わってくるのかもしれない。
例え偽装だったとしても、読んでみないことには事が始まらない。幸いと言うべきか、東西シュレイドの言語は同じものが使われている。
文字に若干癖があって読みづらいにゃ、地域差ってやつですかにゃ、とサミは言っていたが、読めないことはないようで、フレアの指示通り初めから手紙を読み始めた。
フレアは、病室の寝具に腰かけてサミの声に耳を傾けた。
『もし、この手紙が奇跡的に正しく届けられていたのなら、それを願い、先に挨拶を記しておく。
初めまして、西の地の君。こちらは短い夏の只中で、慌ただしい日々を皆が送っている。
南の空を見上げれば
さて、これらの文に対して全く身に覚えがないならば、この手紙の先は読まずに破棄していただきたい。これから届くだろう分も、全て。
それらは見知らぬ貴方の不幸を招くかもしれない。遠い地の変人が人違いの便りを寄越している。そう思って燃やすか紙屑にでもしていただけると幸いだ。
気を揉むことはない。そうしておけば、いずれ途切れて忘れられていくだろう』
「……続けて」
「……にゃ」
便箋をめくる。一枚目を短文で締めくくり、残りを余白としているのは、望んだ宛先へ届かなかった場合の対策ということか。
そんなことを、考えてしまう。
『では、前置きはここまでにして本題へと移ろう。
まずは、この手紙が届いてから最も気になっているだろうことを、結論から述べる。
私は、生きている。
危うかったが、生き延びた。
未だ腕はうまく動かせないが、時間が経つにつれてそれも元に戻るだろう』
「───」
フレアは、目を瞑った。
殺せなかった。暗殺は失敗した。言葉通りに受け取るなら、再起不能にすることすら叶わなかった。
わざわざそれを伝えるということが、偽装の可能性を狭めている。遅かれ早かれ無事は知られていたのかもしれないが、こうして自ら内情を明かしに行く理由がない。
一応、この手紙が届いた時点で予感はしていた。であれば、続くのは生きていることに対する疑問だ。
もし立場が逆転していて、フレアがあの棘を腕に突き刺されていたならば、まず助かる見込みはなかった。
それはあの毒の飛竜と相対し、何人もの命が蝕み尽くされていくのを見てきたからこその確信だ。決して例外はない。そのはずなのに。
『命拾いした理由についても先に記しておく。次に殺しに来るときには気を付けるといい。
とは言っても、他ならない君ならば想像はつくのではないだろうか。私の予見が間違っていなければ、だが。
私はあのとき、緋色の剣を取った君の腕が瞬く間に焼けていくのを見た。私の剣も、それと同じだ』
やはり、視られていた。フレアは自らの手の平を見やる。
しかし、二人が持つ剣と、彼が生還したことに何か繋がりがあるのだろうか。
しばらく自分の手を眺めて、はっと顔を上げたとき、サミはフレアの気付きに覆い被せるようにして続きを読んだ。
『見事な一撃だった。仕事柄、人同士の組手や剣術も嗜んではいたが、全く気が付かなかった。
ただ、腕を。それも肘より先を狙ったのが良くなかったな。
棘を突き刺したとき、君は小さな違和感を覚えたのではないだろうか。
見た目は布地を狙ったのに、何か固い板に阻まれているような感触があったはずだ。
あれは私の骨ではない。私の腕そのものだ。
あえて言うなら、氷の剣から逆流した冷気で凍り付いた私の腕だ』
「……」
『互いに元の龍の力が制御できないばかりに難儀な剣を担ぐことになったものだが、今回はそれに助けられた形だ。
本来なら致死量を優に上回る毒が血管を伝って私の全身を駆け巡り、そう時間も置かずに死に至っていたことだろう。
氷の剣は長く担いではいられない。剣を持つ手に血が回らなくなって、やがて凍傷になって手先から腐り落ちてしまう。
代わりに、私も初めてのことで驚いたが、毒の巡りもかなり抑えられていた。
私はあの後も氷の剣をあえて握り、その間にあの毒への対処を図ることができた、という筋書きだ。結果的に腕の切断もせずに済んだのは幸運だった。
それと、これは医術師との間で話していたのだが、あの棘から滴る毒は火で炙ってもまったく弱まらないが、冷やすと凝固して毒性を崩しやすくなるようだ。
この結果から推測するに、この猛毒の棘の主は火山などの極めて熱い地域で生きているか、あるいは自身が強力な炎を扱うかのどちらかだと考えている。
冷やされることを想定していない毒、という解釈が的外れでなければいいが。どうだろうか。
何れにせよ、こちらの組織下で目下同定中のため、次は対策が取られると思っていてもらいたい』
それは、聞いているフレアたちが空恐ろしさを感じる程に冷静な文章だった。
暗殺を仕掛けたフレアに対する怒りを微塵も感じさせない。解毒を済ませるどころか、腕に突き刺さったままになっていた棘を回収したのだろう。毒の分析まで行って、フレアたちですら知らない事実を突きつけてみせた。
書き手だろうヴィルマの推測は当たっている。毒の飛竜は確かに強力な火も駆使してきた。
炎の龍ほどではないが、フレアがこれまでに相対した竜の中でも屈指の火力があったことに間違いはなく、毒でなく炎によって死傷した者も少なくなかった。
流石に、あのとき剣を交えていた僅かな時間の間に、彼の腕の状態を察することまではできなかった。彼もまた同じだ。後になって分かったことが多い。
腹部に突き刺すことは難しかった。当時、彼は礼装を着ていたとはいえ、それ自体が氷の剣を担げるだけの生地の強さを持った装備だ。棘が十分に突き刺さるよりも前に阻まれてしまう。
強いて言うのであれば腿か顔にでも突き刺していれば結果が変わっていたのかもしれないが、それは今考えたところでどうしようもないことだ。
運が強い。まるでこの場を切り抜けることが宿命づけられていたかのようだ。
フレアはぎゅっと拳を握り締めた。
「まだ半分くらいしか読めてないですにゃあ……どうしますかにゃ?」
「……続きを」
フレアに請われるまま、サミは続きの文章へと目を通す。ここまで来たなら最後の一文まで付き合うしかない。
まだ、相手の思惑が分かっていない。フレアを混乱させたいだけなのか、同様の文を西シュレイドの要人へ送った上での挑発か。サミはまだ、体毛のざわつく感覚を拭えてはいなかった。
『もちろん、自身の過失に目を背けるつもりもない。人を相手取る軍からしてみれば嘲笑されるほどの失態だったことは十分に認めている。
君に殺されかけたときのような無様な姿はもう見せない。人を相手取る生業の者を城に呼び、直々に指導を受けることにした。あの日の君を殺せるような先見を抱けるまで、自分を鍛える。
もちろん警備も強化する。君はあのとき不思議な衣を纏っていたが、そういった不測の事態にも柔軟に対応できるように皆で知恵を出し合っている。
その点で言えば、君の襲撃はある意味でとても良い教訓になった。皮肉にもならないが。
私は竜を相手取る戦士だ。まだ若輩者だが、十年近くそうしているうちに、人に命を狙われ人の手で殺されるかもしれないという想定がごっそりと抜け落ちてしまっていた。
ただ、これは君に対しても同じことが言えるのではないかと思う。だからこそ、私を殺すためにわざわざ君が出向くことになった。流石に憶測が過ぎるだろうか』
「…………」
『君は強かった。単純な剣の打ち合いで、互いに支援のない状況だったなら、毒など使われずとも私は死んでいたはずだ。
技量の差は明確だった。後から、ひょっとすると君は竜人だったのかもしれないと思ったが、違うのだろうな。彼らは争いを好まないし、あのような命の使い方は竜人には難しい。
一瞬だけ見えた君の顔は、私よりも若く見えた。それであの実力だ。いったいどれだけ濃密な死線を潜ってきたのか、なかなか想像がつかない。
だが、その死線のほとんどが人でなく、竜との戦いで越えてきたものであるだろうことは、予想がつく。
ここまで書けば、私が何を言いたいかも、私が君のことを誰だと思っているかも、言わずとも知れるだろう』
静かに話を聞いていたフレアの目が、そっと伏せられた。
言わずとも知れる。書き手の言う通りだった。フレアは決定的な証拠を彼にだけはっきりと見せてしまっている。他ならない彼だからこそ、確信に至ってしまうだろう剣を抜き放っている。
サミはちらりとフレアの顔を見て、フレアも時折向けられるその視線には気づいているのだろう。何も口を挟まずに手紙を読み進めた。
『私は本国の一部の人々の間で東の英雄と呼ばれている。より多くの資金を得て、仲間の命を守るために、その呼び名を自ら名乗ることも厭わない。
それに対するなら、他ならない君こそが西の英雄───』
途端、青い灯を思わせるフレアの碧眼がふっと翳った。
それと共に、彼女の焼けつくような赤髪が、ちりっと火の粉を発したような。
まるでくすんだ薪のように、静かだけれど、確かな熱を感じる。そんな気配をフレアは纏った。
『───などという呼び名を、君は最も忌避するだろう。だから、あえてそうは言うまい。
祝宴の場でのやり取りだけでそれは察せる。どうやら西シュレイドの竜への対処はこちらとは大きく異なるらしい。
今思えば、当事者だった君に対して酷な問いをしてしまった。知る由もなかったとはいえ、興味が先立って配慮が欠如してしまっていた。
ふざけた手紙のように思われているだろうが、この場を借りて謝罪したい。
君は、勝ち取った者というよりも、生き残った者。前を向いて凱旋したというよりも、失ったものを振り返りながら帰還した。
毒から回復し、この筆を手に取るまでの間に、私はそう思った。あくまで妄想に過ぎないものだが、それでも君を英雄とは言わないでおく』
荒ぶる獣を宥めるような
目に見えて曇っていたフレアの表情と、火の粉を散らすような雰囲気が、少しずつ鎮まっていく。
代わりに、僅かだが動揺するような色が混じっている。瞳の揺れ具合からそれを感じ取れる。もしかすると、彼の妄言とやらはかなり的を射ていたのかもしれない。
何と言うべきか、このヴィルマという男、妙に文章の間合いの取り方がいい。サミはそう思った。
フレアは気付いていないかもしれないが、半分会話のようなやり取りになっている。まるで今この場にヴィルマがいるかのようだ。
ひとつひとつの読み上げの区切りはサミがつけているので、それも理由のひとつなのかもしれない。しかし、どちらかと言えば文章に誘導されている感覚がサミにはあった。
暗殺の前の祝宴で少しだけ互いに話す機会があったとフレアは言っていたが、そこから彼女と話す際の感覚というものを探ったのかもしれない。
『私の剣は、呪われているとは言わずとも、なかなかに因果な剣だ。
まともな剣でもひとたび打ち合えば、凍えるような冷気と共に刀身を蝕んで砕かせる。騎士の誇りを砕く剣だ。
しかし、竜に対する抑止力、人に対する求心力としては大いに役立つ。それ故に、あえて私はこの剣を担いでいる。
君が手に持っていた短剣では恐らく防ぎきれなかっただろう。私は本気で君を叩き斬るつもりだったからな。せめて相討つ覚悟だった。
私がこの剣を使って最初で最後に斬る相手は人になるのか、などと思いを馳せたりもした。
しかし、そんな予感を全て覆して、今に至る。
君は死んでいないだろう。私も死ななかった。いつかは前線に復帰する。
弾かれないはずの剣は弾かれた。恐らくは唯一無二、君だけが持つ炎の龍の剣だからこそ。
私は、君という人物に興味を持った』
うわ、変な人にゃ、こいつ。
というのが、サミの率直な感想だった。
変質者などこの街では掃いて捨てるほどにいる。遠征中に襲われそうになったとフレアが話したことも一度や二度ではない。
ただ、これは方向性が違うというか。ある意味かなり厄介な人に目を付けられたんじゃないかにゃ、とサミは思わざるを得なかった。
仮にも組織の指揮を執る人物で、しかも病み上がりだろうに。時間と労力を割いて届くかも分からない手紙を寄越してきた。
このヴェルドの中でならともかく、隣国の、さらに遠方の都市からとなると規模感が全く異なってくる。
密書なのだろうが、どうしてこんな用途に使うのか。暇、なのだろうか。
呆れや困惑が浮かぶばかりでサミは唸ってしまったが、対するフレアの反応は薄い。
聞いていないわけではないのだろうが、何かサミとは別のことを考えているのかもしれない。
特に止められることもなく、ようやく手紙もあと少しのところまで来たので、サミは仕方なく読み切ってしまうことにした。
『私の暗殺に君を仕向けた理由は先に推察したが、それくらいしか思いつかないというのが正直なところだ。
そもそもなぜ、共和制である東シュレイドの中でも重鎮とは決して言えない私が狙われたのか、という疑問があるが、これでは話が迷宮入りしかねない。
少なくとも私は明らかに油断していたのだし、人殺しを雇った方が確実だったように思う。
しかし、真相は君にすら知らされていないのかもしれないな』
「……」
『この手紙は君にしか送っていない。その点に関しては安心してほしい。
まかり間違って君を動かした人物にまで届かないことを祈るばかりだ。君が処罰されることを私は望んではいない。私の暗殺を画策した者には二言三言あるけれども。
だが、私が思っていたよりも遥かに西シュレイドは混沌としているようだ。私はそれについても興味を抱いている。
君に対する君の国の扱いも不思議なものだ。一応、君は大罪人に相当するからな。私が指示を出さずとも、既に周りが動いている。
君という存在は秘匿されているわけではないようだ。けれども、成果は少なかった。
国内の人物であれば、半月もせずとも見つけ出され身の回りのことも全て曝け出されるそうだが。一月をかけてようやく名前とざっくりとした居所が掴めた、という程度だ。
驚くほどあっさりと糸口は見つかるし、口止めや操作がなされている様子も見受けられない。
しかし、何と言うべきか、誰も君のことを特別視していないものだから、却って情報が錯綜する有様だったらしい。
君はもしかすると、市井の民なのだろうか。
要職に就いているわけでも、組織を率いるでもない。一兵士と変わらない身分の、どこにでもいる一人、なのだろうか。君ほどの者が。
俄かには信じがたいが、それならば、君をほぼ単身でリーヴェルへ送り込んだことにもある程度の道理が通る。
それに、別の見方をすれば都合がいい。君がその立場なら、この手紙のやり取りもさして注目されないだろう』
再びサミは唸った。変な人という印象は変わらないが、勘はかなり鋭い。
得られた情報は少なかったと書いてありつつも、フレアの現状をかなり的確に言い当てている。
もしかすると、彼はフレアに対して的確な評価を下している数少ない人物、ということになってしまうのだろうか。
壁内の人々はフレアの有用性には気づいているだろう。世に二つとない炎の剣を預けていることからもそれは分かる。けれども、せいぜい生還率の高い駒程度にしか思われていない。恐らくは根幹の認識が異なっている。
フレアの周りの人々は、彼女のことを不気味がっている。どんな任務に赴いても、必ず戻ってくるからだ。それを英雄と持て囃すような世間の土壌はここにはない。
彼女のありのままを見ているのはサミくらいのもので、ここ数年変わることもなく、これからも変わらないだろうと思っていた。
そんな彼女のことを、たった一度殺し合っただけの男が見出そうとしている。見出している。
『ふむ、結局現状の報告と謎解きだけで締めることになってしまった。面白みのない手紙になってしまったことを申し訳なく思う。
次はもう少し趣のある手紙を書こう。恐らく君は、人と竜の狭間に立つ当事者でありながら、多くのことを知らずにいる。私もその例に漏れないが。
返事はしなくても構わない。自分でもどうかとは思うのだが、自然と筆が進んで送りつけているだけなのだ。仕事ではなく、酔狂で書くとはこういうことなのかもしれない。
届け人はクラフタという名のアイルーのはずだ。手紙を送るのを止めてほしければ、彼にそう伝えてくれ。
ただ、せっかくの縁だ。二国間の対竜の戦士が繋がっているという状況は私としては好ましいし面白いと感じているので、読むことだけでも続けてもらえると嬉しく思う。
それでは、また季節が移ろう頃に。早くともその間隔だ。
これだけの距離を駆けて私を殺しに来た、君の執念は凄まじいものだな』
「……終わり?」
「終わりにゃ。にゃ~長かったにゃ。舌が回らなくなるにゃあ……」
サミはぱさっと机の上に便箋を置くと、ぴちゃぴちゃとコップの水を飲んだ。
普段、こんなに話し続けることもそうそうない。黙って本を読むよりも数段疲れる。
フレアはベッドから下りて、何枚にも綴られた手紙を手に取った。
そこに並ぶ文章に目を落とし、青い瞳がゆらゆらと文字を映すが、やがて小さく嘆息した。
「読めない」
「書き方に訛りがありますからにゃあ。独特の筆記体というか……普段見慣れている文字でもそうは見えなかったりするにゃ。それにしてもフレアさま、特に動じることなく最後まで聞いてましたにゃね」
「話してることの半分くらいしか分からなかったから。文章を書ける人は難しい言葉を使う」
「にゃ~……」
言われてみればそうだ。サミの耳がしゅんと垂れた。
普段は、フレアにも分かるように指令書などの内容をかみ砕いて伝えていたのだ。
今回はただの読み上げだったので、汲み取ることのできない言葉も多かっただろう。彼女が黙っていたのは、話の筋道を把握するのに精いっぱいだったからなのかもしれない。
書き手の彼はこのことを分かっていたのだろうか。いや、そこまで考えが及んでいたらもっと言葉を選んでいたはずだ。
教養があり、周りもそうである人はこの辺りを見落としやすい。話し言葉ならともかく、文字というものは万人に通用する道具ではないのだ。
フレアの代わりにそんな文句を返事として書いて突き返してしまいたいとサミは思ったが、この手紙の処遇はフレアの手に委ねられている。サミはあくまで彼女の使用人なのだ。
「どうしますかにゃ。一方的に送り付けられたけれど、内壁の人たちに送ったらまずいことになりそうだし、送り返すにももう届け人はいなくなってるでしょうし、地味に扱いが面倒ですにゃ……」
「ああ、それなら気にしなくてもいい」
フレアのあっさりとした返事に、にゃ? とサミは顔を上げた。
その眼前に、真っ赤な火が閃いた。
「にゃぁ……」
声をかける間もない。
フレアはいつの間にか、手紙を持っていない方の手であの炎の剣を握っていた。決して人に盗られてはいけないからと、常に持ち歩いている。
握りは最小限で、見境のない炎が腕まで食らいつかないように。軽く、しかし手早く、その剣で手紙を切り裂いた。
音もなく、部屋全体が一時だけ明るくなって。フレアが何をしたかは、サミ以外誰も気が付かなかっただろう。
フレアが剣を鞘にそっと戻したときには、手紙はそれを入れた封筒まで含めて、細かな塵になって跡形もなくなっていた。
紙に火が付いて燃える、という過程すらなかった。たった一振りで、そこに文書があったという事実はサミとフレアしか知り得ないものになった。
「ええと、フレアさま、何か気に障ることでもありましたかにゃ。それともヴィルマ氏のことが嫌いにゃ?」
「いや。後に残したらまずいってことは分かってたから、そうしただけ」
淡々とフレアは答えるが、サミの顔が引きつっているのを見て少し戸惑うような仕草を見せる。何か悪いことをした? とでもいう風に。
サミは現実逃避気味に、これを書き手のヴィルマ氏が見たら唖然としそうだにゃあ、なんてことを考えていた。
証拠隠滅として手紙を燃やす、という選択肢はあった。ただ、手紙を読み上げたその場で、何の躊躇いもなく斬って捨てられるとは思わなかったし、彼も思うまい。
「脈なしだにゃ。全く響いても届いてもいないにゃ。変なことは止めて生き残れたことを喜ぶだけにしとくといいにゃ」
「何を言っているの?」
「独り言にゃー」
フレアには伝わらないことを自覚しつつ、はぐらかしながら床と机に落ちた塵を箒でかき集める。
手紙が来たときにはどうなることやらと不安もあったが、たしかに、こうしてしまえば日常に元通りだ。変に気を揉むこともなくフレアの家を守る仕事に専念できる。
フレアは未だに何かを考えているようだが、それも日が経てば落ち着くはずだ。
もしまた手紙が届いたとしても、同じような対処をするだけだ。フレアが不在のときに保管しておくかどうかは、また後で聞いておけばいい。
フレアさまの怪我も今回は軽いようですし、診療所から家に戻れたら奮発して何か料理を作りましょうかにゃ、などと。サミはたくましく思考を切り替えつつあった。
そうして、ヴィルマの暗殺任務に伴う出来事には一応の区切りがつけらた。
流れるようにして月日は過ぎて、ふたつの龍の噂もとっくに過去のものとなり。
フレアとサミの予想通り、フレアに暇など与えられず過酷な任務が次々と課せられて、ヴェルドになかなか戻れないという日常が繰り返される。
ただ、そんな彼女の数少ない日課として。非日常に身を置く彼女の数少ない日常のひとつに。
数か月おきに届く、ヴィルマからの手紙を聞くことが付け加えられた。
作中設定解説
【東シュレイドと西シュレイドの比較】
気候:東シュレイドは大部分が亜寒帯、西シュレイドは温帯に位置する。
面積:東シュレイドの方が広いとされているが、詳細は定かでない。東シュレイドでは東部、西シュレイドでは南部がそれぞれ辺境開拓地域となっている。
人口:西シュレイドの方が多い。気候の影響が大きいとされている。
言語:同一。何らかの背景があるようだが……。
貨幣:同一。一般的にゼニーと呼ばれている。
経済:物的な豊かさは東シュレイドが劣る。生産人口の差が出ているようだ。
政治:東シュレイドは共和制、西シュレイドは王政を敷いている。この違いが両国の隔たりを生んでいるとされる。