もし、地獄というものが実在するとするなら。
それはきっと、今この目の前に広がる光景を指すのだろう。
森が焼けていた。火を吐く竜が暴れても燃え広がらない程にたくましい深緑の森が、今や真っ赤な火の海と化していた。
火災の規模に比べて、煙の量は少ない。燻るような燃え方はしていないということだ。炎が吹き上げる風によって雲が作られて雨を降らせているが、それも空中で蒸発してしまう。
何もかもが焼けて辺り一面灰となった地で、ひとりの少女が立って歩いていた。
浅く息をする。その度に煤が肺に入り込んで咳をする。激しい頭痛が酸欠によるものだと知らないまま、幽鬼のようにふらふらと歩いている。
その周囲には、かつて彼女と同じ部隊だった人々がいた。
今はもう、それが誰かを判別することもできない。もはや原形を留めてすらいない、黒焦げになった人形があちこちに転がっている。
死屍累々。そんな光景が、延々と続いている。
土の焼ける匂いに混じって、何か、おかしな臭いが混じっている。生身の人を焼き焦がしたらこんな臭いだったっけな、と、少女は場違いなことを思った。
そう、さっきまでは生きていたのだ。つい数日前まで、言葉を交わしてすらいたのだ。
寄せ集めの部隊だった。固い絆で結ばれた、とか、そういうのは全くなくて、少女自身もよく分からないものではあったが。
頼りにしていると頭を撫でてくれた人がいた。気味が悪いと言いながらも食糧を分けてくれた人がいた。
欲を持て余して寝込みを襲うような人もいた。それを諫めて部屋を分けるべきかと提案してくれる人もいた。いろんな人がいた、はずなのに。
今、傍で倒れている人を持ち上げても、それが誰かなんて全く分からないくらいぐちゃぐちゃになってしまっているだろう。
ああ、と少女は呟いた。今回は、いつにも増して酷い。
向こう側を見れば、まだ生きている人もいる。殺されても、殺されても、次がいる。それが少女を含めた人々の唯一の取柄だった。
粗鉄でできたなまくらな剣を掲げて、愚直に突貫していく。数秒後にその命は尽きるだろう。
……ほら、少女の思った通りだ。一瞬で炎に包まれて、小さな灰の山ができあがる。あれでは遺骨すら残らない。
いっそのこと逃げてしまえばいいのに。とは思わなかった。これだけの火事だ。逃げたところで火に囲まれて死んでしまう。
土を掘ってやり過ごそうにも、その土すらも深くまで燃えている。惨い死に方になることは目に見えている。
逃げる術がもうないから、自棄になって立ち向かっていくのだ。その突撃に希望なんてなかった。むしろ、いっそのこと早く殺してくれと願って向かっているのかもしれなかった。
また一人、また一人と。まるで果実を摘むように命が失われていく。
陽炎がゆらゆらと揺らめいて、その真ん中にかの龍はいた。
名前なんて知らない。そもそも、この山火事が何かの生物によって引き起こされたものだなんて誰も思ってはいなかった。
一対の翼、四本の脚。真っ赤なたてがみに、蒼い瞳。場違いなまでに蒼く、美しい瞳。
ふと、その龍と目が合ったような気がした。そのついでに、また一人死んだ。少女は、拳を握り締めた。
別に、この龍に対して怒っているわけではない、と少女は走りながら考える。かつて人だったモノを跨いで、踏み越えながら走っていく。
いや、少しは恨みというものもあるのかもしれない。かといって憎むことができるほど、少女は周りの人々との関わりを持っていなかった。
それに、最初にこの龍に手を出して、火災をここまで広げさせたのは人の方なのだ。ある意味で自業自得なのだと少女は思っている。
ならば、この胸の内にある強い感情はいったい何なのだろう。自分はいったい何に突き動かされて、他の人と同じように駆けているのだろう。
分からない。少女にはまだ分からなかった。それを言語化できる程の教養なんて身に着けていなかったし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
炎の龍が唸る。その顔には心なしか、疲労が滲んでいるように見えた。
無理もないかもしれないと少女は淡い共感を覚える。最初こそ怒りに身を任せて暴れ回っていたが、それももう数時間前の話だ。
この龍はもう何人の人を殺しただろう。千だろうか、万だろうか。数えきれないくらい、ということだけは分かる。
自分の意識の外で勝手に死ぬのならまだいい。人々が歩くだけで知らず知らず踏み潰している虫がいるように。それを考え出すときりがない。
今回はそれとは違う。明確な意志を持って、殺そうとして殺しているのだ。
かつて、一時にここまで多くの命を奪ったことがこの龍にはあるのだろうか。こんな愚かな歯向かい方をするのは、たぶん人くらいのものだ。
さぞ気味が悪いだろう。際限がないのかというくらい、延々と、得体のしれない生き物の断末魔を聴き続ける。後味はとても悪そうだ。
龍の吐く炎からはもはや作業じみた単調さを感じた。それだけで簡単に何十人も死んでいったのだから無理もない。集団で盾を構えたところで、その盾が融け落ちて自らに降りかかるだけだったというのに。
眼を動かし、その炎を掻い潜る。背中に激しい痛みが走って、装備越しに焼けている感じがした。別にいいのだ。これから全身そうなるのだから。
焔の吐息を突破してきた少女に対して、炎の龍は僅かに驚いたように眦を上げると、翼を軽くはためかせた。
灰が巻き上げられるが、その中にうっすらと赤い粉のようなものが混じる。ちりちり、という細かな音も聞き取れた。
数瞬後に起こることを察して、少女は身を仰け反らせてその場から飛び退く。それとほぼ同時に、がちっという歯を噛むような音がした。
その目の前で、何もないはずの空気が連鎖的に爆発を起こす。人々が苦労して作る火薬の爆弾を軽く超える威力だ。
辛くも余波を受けるだけで済んだ。飛んできた灰が目に入って痛かったが、それだけだったことが幸運だ。
この攻撃を凌ぐことができたのも、その前に炎の龍を取り囲んで牽制しようとしていた人々が木端微塵になったのを見てきたからだ。
ただ、誰かの犠牲で得た学びだなんて絶対に言うもんかと少女は思う。彼らの死に意味を見出すことなんてしたくなかった。
爆発による土煙が晴れて、未だ少女が立ち続けているのを見て、炎の龍はようやく少し目の色を変えた。
少なくとも、少女が死ぬために突撃してきたわけではないことを悟ったようだ。
前脚で引っ掻く。もう何人もその手で引き裂いただろうに、鋭利な爪はまだ鈍ることを知らないし、肉が爪の隙間に詰まっても、たちまち焼け落ちてしまうのだろう。
両脚で駆ける。その脚で蹴り飛ばされれば、人の身体はまず曲がってはいけない方向に曲がる。ただ、それは別に他の竜だろうと変わりはないか。
尻尾で薙ぎ払う。それだけを見ればいいのではなく、尻尾の周りに先ほどの塵が舞っていることに気付けなければ、その数秒後には爆発に巻き込まれて即死する。
もう何もかもが人の死に結び付いていて、その全てが焼けているというのに、龍の全身から死の匂いが漂ってくるようだった。
ああ、熱い。嫌になる熱さだ。
焚火で暖を取るにしても、その火の中に直接手を突っ込むような真似をする人はいないだろう。そんな例えしかできなさそうな熱さだ。
装備が燻り始めているのを感じる。既に顔は焼け爛れていて目を開くのも億劫だけれど、装備まで焼けてくるのは嫌だなと少女は思った。裸で戦うなんて正気の沙汰じゃない。
こんなことになっている理由は、かの龍の近くにいるから。ただそれだけ。炎の龍はその名の通り、全身に火を纏って近寄る者を炙り続ける。
もう人という生き物を殺すことにかけては完璧と言ってもいい。私たちが立ち向かっていい存在ではなかったのだろうな、と少女はしみじみと思う。
隙らしい隙も見当たらず、動けるだけ動いてみたけれど、笑ってしまうくらい生き残れる見込みがない。
投げやりになって雑に特攻していく人の気持ちも分かる気がした。今、まさに自分がそうして剣を抜いているのだから。
少女の視点から離れて、第三者の視点から見れば、彼女は炎の龍を相手に凄まじい立ち回りをしていたのだが、当の本人の気分は何も波立ってはいなかった。何かの感情を薪にして動く何かでしかないと考えていた。
いつしか、炎の龍の瞳から憐れみのようなものが感じられたような気がして、少女は苦笑いを浮かべた。
もしその感覚が合っていたとしたなら、この龍も災難なものだ。こんな人如き、何の想いも抱く必要はないだろうに。
そんな皮肉とは裏腹に、想いはより強くなっていく。せめて一撃は見舞ってやるという想いが。たぶん自分は、怒っているみたいだけれど、と少女は内心で他人事のように首を傾げた。
もう残された時間は少ない。本当に装備に火が付いてしまう。
というよりも、この剣が溶けてしまうのではなかろうか。流石に素手で殴っても相手は痛くも痒くもないだろうし、それをすればこの腕はすぐに炭と化して崩れ落ちるだろう。
だからもう、とりあえず。喉が焼けるので息を止めて、噛みついてくるのを寸前で避けて肉薄して。
えいっ、と。なまくらの剣をかの龍の角にぶつけてみせた。少女の身の丈よりも大きい、王冠のようにも見える角だった。
当然、斬れない。少女としてはそれなりの力を込めたつもりだったけれど、少しも食い込むことなく弾かれる。
それはそうだろうな、と納得し、隙を晒したことで殺されるだろう自分の姿が思い浮かんで、少しだけ身を強張らせた。そのときだった。
ぴし、という、何かが割れたような音が響いた。
少女は自分の剣が砕けたのだと思った。熱にやられて脆くなっていただろうから。しかし、剣の方は少しへこんで曲がっただけで折れている様子はない。
その後に、炎の龍の方を見て。
その巨体が雷に打たれたかのように仰け反っていくのと、剣を当てたところの角が、罅割れて砕けていく様を目にした。
「え?」
そんな少女の素の声と、ごとん、と角の欠片が地面に落ちる生々しい音が重なった。
少女は困惑する。いったい何が起こったのか。
自分がそんな、重い一撃を当てたなんて思ってもいない。理屈としてもおかしい、もしそうなら自分の剣は根元から折れているはずだ。
そう言えば、と少女は思い返す。今更になって思い出したけれど、この戦地へと向かわされる前に、部隊の全員に向けて指示が出てきた。たしか、頭だけを狙えとか、そんな内容だった。
その指示を守れた人は果たして何人いただろうか。十人に一人よりももっと少ないだろう。大部分は何もできずに死んでいったはずだ。
ただ、運よく攻撃を当てることができた人が、あの指示に律義に従っていたとするなら。
その傷が重ねられて、既に罅は広がっていて、今の攻撃が止めになったということになる……のだろうか。
俄かには信じがたい。あれほどの存在を前に、そんなことはありえないはずだけれど、少女はそれくらいしか思いつかなかった。
十数秒、少女は剣を振り下ろした格好のままで呆然としていた。
そして、炎の龍が起き上がるのを見て、我に返る。
そうだ。龍はまだ角が折れただけで死んではいないのだ。むしろ人への怒りを取り戻させてしまったかもしれない。そうなってしまえば、やはり少女が死ぬ未来に変わりはないだろう。
ゆっくりと起き上がった龍は、彼もまた痛みよりも驚愕の方が上回っているようだった。
呻き声にも聞こえるような唸り声をあげて、眩暈を振り払うように首を振り、そして、ちらりと少女に一瞥をよこした。
翼を広げる。その大翼は未だ健在で、けれど、これまでのような翼で熱風を叩きつける仕草とは違う。
かの龍は地上を見なかった──空を、見ていた。
少女の口から再び「え?」という戸惑いの声が漏れ出た。
そんな彼女を無視して、炎の龍は何度か羽ばたいてから一気に空高く飛び立つ。
尋常でない数の人の命を奪い、その分だけ駆け回っていただろうに、その疲れとはまた別と言わんばかりの飛び方だった。
あっという間に人の手には届かない域まで舞い上がり、遠く山の麓まで達している火の海と戦場を見渡す。しばらくしてその身を翻し、もう振り返ることはなかった。
あ。と、少女はまた場違いなことを思う。
あの方向は、かの龍が進んできた道のりとは少し方向がずれている。人々が集う都市からは逸れていく方向だ。
つまり、かの災いを退けろという、偉い人の本来の目的は達成されたということだろうか。
彼からしても、もうしばらくは人なんて見たくもないだろう。嫌気が差したとでも言いたげな立ち去り方のようにも見えたから。
そう考えると、彼らを追い返す手段は何も、戦いを仕掛けて打ち勝つだけとは限らないのかもしれない、などと。
「……え?」
少女の口から三度続けて零れ出たその言葉は、自らの頬を伝う雫に気付いたことによるものだった。
どうして、と少女は戸惑う。なぜここで自分は泣くのか。いや、実のところずっと涙を流していて、それがかの龍の熱気で蒸発していただけだったのかもしれない。そうだとしても、だ。
痛いから泣いているのだろうか。確かに、素肌を晒して焼け爛れた頬はすごく染みているけれど。
生き残れたから泣いているのだろうか。生き物の本能として。それはまあ、生き残ることはかなり諦めてはいたけれど。
仲間の死が辛いから泣いているのだろうか。それで泣くことができるほどに自分はできた人だっただろうか。悲しいことではあるかもしれないけれど。
それでも、少女の涙は止まらなかった。
思い出したように強い喉の渇きが来て、もう少しで破けそうな革袋の水を飲み干した。蒸発してすっからかんになっていると思ったけれど、栓をしていたおかげで熱湯と化すだけで済んでいた。
涙も拭い取って口に運ぶ。山火事による雨はもうすぐ晴れる。焦土と化したこの地で、水は何よりも貴重になるだろう。
ようやく考えることに頭を使えるようになってきて、胸の内から湧き上がって涙となって出てきているこの気持ちは、おかしい、であることに気が付いた。
可笑しい、ではなく、変だ、の意味合いだ。今のこの状況の全てが受け入れ難くて、少女は泣いているのだった。まるで駄々っ子のように。
だって、これだけの人が死ぬ理由がない。こうでもしなければもっとたくさんの人が死んでいたかもしれないなんていう理屈では納得できない。
今この場に延々と続いている光景を見ても、そう言えるのであれば、少女はそれにこそ大きな怒りを覚えるかもしれない。
死ぬにしても、もっとましな結末があるはずだ。こんな、無造作にくべられた薪のような死に方なんて。いや、薪ですら手際よくくべて暖を取るという役目を見出すこともできるから、それにも劣るというのか。
炎の龍の方もきっとうんざりしていた。命のぶつかり合いなどという大義名分なんて全くなくて、ただ人の命を湯水のように使って、炎の龍の尊厳を傷つけただけだった。
そう、少女は尊厳というものを知っていた。その意味を教えてもらっていた。少女の境遇から理解に至ることはできないはずのものを、切々と教えてくれた存在がいた。
ここには、そんな理想から真逆に位置するような景色が広がっている。人も、竜も、この大地も痛めつけるだけ痛めつけて、後には炭と灰しか残っていない。
尊厳なんてどこにもない、自分も含めて、ただただ惨めでしかない。
生き残りは何人いるのだろうか。この報告を受けて彼らの上に立つ者は何を思うのだろうか。
規模が規模だから、慰め程度の検死や遺品整理は行われるだろうか。少女と関わりのあった人の痕跡を見つけることはできるだろうか。
死んでいった彼らに何ができるとは言うまいが。
したくもない憐れみを覚える以外に、何を感じろというのだろうか。
焼け爛れていた空が晴れる。雲の向こうには虚ろなまでに青い空が広がっている。炎の龍が飛び去ったことによって、少しずつ火の手が収まっていく。
垣間見える青空を見たくなくて、少女は足元に視線を寄越した。未だ熱を発し続けているかの龍の角の欠片と共に、無数に広がる死体の中心に佇んでいた。
その手には粗鉄の剣が握られたまま。強く強く、うっ血するほどに固く拳を握り締めて。
社会にも世界にも疎い、しかし、この時代というものを誰よりも実感している少女は。
この世界でどうして、人という生き物が生きていけているのか、それだけを考えていた。