父の日は先月終わってしまったし、盆は来月だ。
何で突然あの人のことを思い出したのかというと、スーパーの出入り口近くに置かれたわわに短冊を吊り下げた笹を見て、当日は晴れるだろうかとつい夜空を見上げたりなどしてしまったからだった。
おぼろげな記憶。
浴衣で庭を散策した? 蛍を探した?
何をしていたかすらもよく覚えていない。思い出せるのは自分よりも浴衣の着付けが下手だった大人の人のことと、何かキラキラとしたものが訳もわからず嬉しかったということだけ。
あの人の顔を思い出そうと試みて、脳裏に描くまでもなく早々に諦めた。
断片的な会話の内容すら思い返せることだってあるというのに、不思議なことに顔の部分だけが靄がかかったようにどうしても思い出せない。
どんな顔をしていたとか、どんな表情を浮かべていたのかとか。声や温度、姿かたちすらも記憶から遥か遠いくせ、愛されていたという実感だけが奥底の方にドロリと凝っていた。
掬ってみる気にもなれない、澱んで濁りきったそれ。
どんなに些細なこともどんなに大きなことでも、こうやって忘れていってしまうのなら。いっそのことあの人に抱かれでもしていたら、“その時”のことは忘れずにいられたのだろうかなんて思い立ち、そのあまりに下劣で最低な考えを思いついた己の発想に自分で驚く。
は、と思わず乾いた息を吐き出した。
片手で顔を覆い、自身のふとした思い付きに刺激されて止まらなくなってしまった笑いをくつくつと嚙み殺す。
だって笑わずにはいられないだろう?
生前には考えもしなかったゲスな発想であの人を貶めるのも、自分自身はあの人に性愛を抱けないからと、あの人が俺を抱いてくれたら良かったのになどと無意識に考える、身勝手に過ぎる思考回路も。
仮にそんなことがあったとて、どうせこのポンコツな記臆野はその行為も情動をも引っ括めて、すべて忘れていってしまうのだから滑稽と言う他ない。
引きつった笑いが喉に絡んで少し噎せた。
泣けるのならば泣きたい場面だったのかもしれない。そんなものをとうに忘れたこの身は、一筋も眼から塩水をこぼし落としてはくれないけれど。
あの人の名前も、自分が当時あの人のことを呼びかけていた名称も取り戻してはいるけれど、自分自身が覚えていた訳ではないから使用するのは心情的にどうにも憚られた。
親愛を込めて呼び掛ける名もない。
……呼び掛けられる、資格も名も持たない。
上澄みのように純化して、ただただ無色透明になっていった彼女への想いと反比例でもするかのように、あの人に対する想いは降り積もり折り重なって底が見えなくなっていた。赤とも黒ともつかない泥のようなそれは、……ああ、わかってる。今までに数多と屠った人間の血のヘドロだ。
その奥底に愛があったのは覚えている。
もう、見ることも探ることも適わないけれど。
愛でも執着でもいい、この身に何か刻んで欲しかった。
そう思うのは己がもう失ってしまったからで、あの人が与えてくれていた不器用であたたかいそれは、今の俺には綺麗なだけで届かない。……いや、違うか。自分が思い出も理想も汚してしまったから、その分、それ以上に己を傷付けて欲しいだけなのか。
優しくして貰えないから傷付けて欲しいなんて馬鹿げてる。
馬鹿げているけれど忌憚のない己の本心からの願いで、それ故に自身から決して漏らすことなんかできない。愛してくれていたことを忘れてしまいたいから、身体も心も切り刻んでくれ、などと言えるはずがない。
まだ梅雨の明けぬ夜空は薄い雲に覆われていた。この天気では当日の夜織姫と彦星が出会うのは難しいのかもしれない。
夜に星と星とが本当に近付く訳ではないし、単なる気分の問題だけれど。
たとえ何万光年の距離が離れていたとしても、年に一度も会えるのならば充分ではないか。
もう二度と会えぬひととの距離を想い、己の行為が八つ当りや僻みの類であると自覚しつつ。昔話の夫婦に対して、悔し紛れの悪態を吐いた。
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