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目覚めたら新世界/Novel by 田中M

目覚めたら新世界

54,568 character(s)1 hr 49 mins

座に還りたいアーチャーと、アーチャーの部屋に転がり込んできたランサーの話。
2ページ目は、消すのはもったいなかったランサー視点のおまけです。

※えみご時空のような。凛ちゃんと士郎はイギリスへ。
※ルーンや魔力についての偽造あり
※なんでも許せる方向け
※みんな女々しい

私の好きな仄暗いシチュエーションを詰め込みました。
それでもよければお読みください。

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短い話を積み重ねた話が読みたくて書きました。
水着イベントも楽しみ。

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それは、遠坂凛と衛宮士郎が英国へ旅立った夜のこと。
アーチャー・エミヤの部屋のインターフォンが鳴った。
こんな時間に来客など珍しい。セールスの類だろうか。それとも悪戯か。
ちょうど出かけようとして玄関にいたのもあり、なんとなく扉を開ければ、そこにいたのは想像だにしなかった人物だった。

「よお」

飛び込んできたのは、海のような青色。
突然の来訪者に、エミヤは目を見開いた。

「……ランサー」

ランサーことクー・フーリン。
エミヤと同じく、冬木に召喚されたサーヴァントのひとりだ。
男はいつもの青い礼装ではなく、Tシャツにパンツというラフな服装でそこに立っていた。

「あ、悪い、どこか出かけるところだったのか?」

玄関に置いてある黒い大きめのボストンバックを見て、男が申し訳なさそうな顔をした。
エミヤはさりげなく荷物を背で隠すようにして、男の前に立つ。

「凛から預かった荷物を彼女の家に置きに行こうとしただけだ。急ぎではない。……それより、一体何の用だ?」
「ああ、実は教会にちょっと面倒な客が来るらしくてな。しばらくの間、ここから出ていけと言われてよ」
「はあ」
「だから、その間、ここに泊めてくれねぇか?」
「断る」
「待て待て待て」

容赦なく言い放ち、扉を閉めようとすれば、ランサーは慌てて扉の隙間に体をねじ込ませてきた。
自分の領域に、この男が踏み込もうとしている。
騒めく自分の内を悟らせないよう、エミヤは目の前の男を睨みつけた。

「断ると言った。それに、何故貴様を泊めなくてはいけない」
「いいじゃねぇか。ちょっとの間だけ泊めてくれよ。頼む、1週間だけでいいからさ」
「1週間だと?全然ちょっとの間ではないではないか!」
「ちょっとじゃねぇか。ケチ臭ぇこと言うなよ」
「ケチではない!そもそも貴様は突然過ぎるんだ!もっと常識的に考えて物を言え!」
「俺だって言われたのが突然だったんだよ!」
「開き直るな、たわけ!」
「仕方ねぇだろ!ほら、魚屋に来てくれたら、特別におまけしてやるから。な?」
「ぐっ、こ、断る!賄賂は受け取らん!」
「なら……」

ランサーが何かを言いかけた時、不意に、かちゃり、と隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。
顔を覗かせたのは、そこに住んでいる中年の男だ。男は、じろりとエミヤ達の方を不審そうに見ている。
エミヤは、はたと今の時間を思い出した。
もう夜の11時だ。騒ぐような時間ではない。
ここは遠坂凛の力で借りている賃貸アパートだ。もしも何か騒ぎを起こせば、凛に迷惑がかかる。
エミヤは今にも文句を言いそうな隣人に慌てて頭を下げ、とりあえずこの場をおさめる為、ランサーの腕を引き、部屋に入れようとした。
だが、なぜかランサーが抵抗する。エミヤがいくら引っ張っても、玄関の前から動こうとしない。相手は悔しいかな、エミヤよりも筋力値が高い。力で無理やり男を動かすことはできない。
業を煮やしたエミヤが、小声で怒鳴る。

「おい、入るなら、さっさと入れ!」
「泊めてくれないなら、入らねぇ」
「は?!」

うっかり大声をあげてしまったが、隣人の視線に気付き、エミヤは慌てて口をつぐむ。
その様子を見ながら、ランサーがニヤリと笑った。

「俺をここに置いてくれるなら、大人しく入ってやってもいい」

この男は。
びし、とエミヤの額に青筋が立つ。
だが、ここでこれ以上騒ぐわけにはいかない。隣人の視線が痛いくらいに突き刺さっている。
エミヤはぎりぎりと歯を食いしばりながら、声を絞り出した。

「……住むからには、家事はやってもらうぞ」
「おう、もちろんだ」
「……くそ、1週間だけだからな」

そう言うと、男は一瞬ほっとしたような表情を浮かべた後、じゃあ邪魔するぜ、と機嫌よくエミヤの部屋に入ってきた。
エミヤは隣人に頭を下げてから扉を閉めた。そして、扉に頭を押し付け、俯いたまま深く息を吐いた。
まさか、こんなことになるなんて。
何故、この男はよりにもよって自分の家に来たのか。
いや、おそらく一番あてにしていた衛宮士郎がもういないから、消去法で自分のところに来たのだろう。だが、それでも何故、と言いたくなってしまう。泊まる場所が無いのなら、ビジネスホテルでも泊まればいい。バイトをしているのなら、それくらいの金はあるだろう。なんなら野宿するという手もある。ああ、隣人に見つかる前にそう言ってやればよかった、とエミヤは激しく後悔した。

だが、一度了承してしまった以上、今更それを反故にするわけにもいかない。
エミヤは腹の中のもやもやを吐き出すかのように、再び深く息を吐く。
1週間の辛抱だ。
それに、元々エミヤとランサーの相性は良くない。もしかしたら、この自由奔放な男は、エミヤとの生活に嫌気がさして、1週間保たずに出て行くかもしれない。そうだ、その可能性に期待しよう。
俯いたまま玄関に置いてあるボストンバックをちらりと見る。
これを返すのは、もう少し先になりそうだ。

振り向けば、さっさと靴を脱いで部屋に上がったランサーが、興味深そうにエミヤの部屋を見回している。
人の気持ちも知らないで、能天気な顔をしおって。
ぎろりと睨みつければ、こちらの視線に気づいた男が、何を勘違いしたのか、ニカっと笑って「1週間よろしくな」と言ってきた。
思わず、チッと男に聞こえるくらい大きく舌打ちをすれば、ひでぇなぁ、と男はけらけらと笑い声をあげた。
ひどいのはどっちだ。勝手に人の家に押しかけてきて。強引に上がり込んで。
一体、自分にどうしろと言うのか。
当の本人は、エミヤの葛藤など知らず、結構広いなぁなどと言いながら、呑気に洗面所を覗いている。
その背中で、深い海を思わせる青色がゆらりと揺れた。
自分の部屋に、あの青色がある。
その光景に、エミヤは思わず目を細めた。

こうして、エミヤとランサーのおかしな同居生活が始まったのだ。



家事を積極的にやること。
食事が要らない時は、事前に言うこと。
1週間経ったら出て行くこと。
これらが、エミヤがランサーに提示した同居の条件だった。

とは言ったものの。
エミヤは、狭いベランダで洗濯物を干している男を見て、眉間に皺を寄せた。

「ん?なんか変か?」
「……干す前に皺を伸ばせ、と言ったはずだが」
「これでもちゃんと伸ばしたぜ。あんまり皺は取れなかったけど」
「貸せ」

エミヤは男の手からシャツを奪い取り、襟を引っ張って皺を伸ばす。さらに軽く畳んで、両手で挟むようにして叩き、広げれば、先程よりも皺は取れていた。

「おお、見事なもんだ」
「洗濯機から洗濯物を出した後も、ぐちゃぐちゃにしていただろう。あの時点できちんと畳んでいれば、干すときにもっと皺がなくなる。そうすれば、後からアイロンをかける手間も減るのだ」
「へぇ」

子どものように感心している男に、エミヤは頭を抱えたくなった。
一夜明け、家事をやると意気込んでいる男にとりあえず洗濯を任せてみたが、この状況である。これなら、エミヤがやった方がはるかに早い。
しかもこの男は今日バイトがあると言っていた。このペースだと確実に時間に間に合わない。
仕方がない、と、エミヤは熱心に服の皺を伸ばしている男の横に立ち、籠に入っている洗濯物を取った。
ひとつひとつ皺をのばし、手際よく干していく。
今日は快晴。絶好の洗濯日和だ。
物干し竿にかけられた洗濯ハンガーが、風にゆらりと揺れる。いつもよりも多い衣服が、いやでもエミヤの部屋に誰かがいることを示してくる。

「アーチャー!これはどうだ!」

不意に、男が自慢げに皺を伸ばしたTシャツを見せてきた。
まっすぐに向けられたその目に、エミヤの喉がぐぅ、と鳴る。
動揺をおくびにも出さず、袖のあたりの伸ばし方が足りない、と冷たく返せば、男はそうかぁ、と悔しそうにエミヤから視線を外した。
どくりどくりと騒ぎ立てる胸を、エミヤは拳を握ってごまかす。
こんなことで動揺してどうするのか。
これから自分はこの男と生活するのだ。いちいち揺らいでいてはこっちが保たない。
それに、動揺したところで、何にもならないのに。
気持ちをきりかえるように、エミヤは腹に力を入れ、口を開く。

「それより、のんびり干していていいのか?今日はアルバイトがあるとか言ってなかったか?」
「あっ、やべぇ!今何時だ?」

部屋にかかっている時計を見て、ランサーがにわかに慌て出す。

「残りは私がやっておく。気にせず出かけてくるといい」
「う、すまん、アーチャー!」

男はエミヤに謝った後、部屋の隅に転がっていたボディバッグをひっ掴み、慌ただしく玄関に駆けていった。
鍵を締める為にエミヤもその後ろをついていけば、ばたばたと靴を履いていた男が、ふと動きを止めて振り向いた。

「あ、そうだ、アーチャー。帰ってくるのは夕方になるんだが、何か買ってくるもんはあるか?」

この問いに、エミヤはきょとりと目を瞬かせた。

「いや、買い物なら君のバイト中に済ませておくから、気にすることはない」
「そうか。ちなみに今日の夕飯は?」
「唐揚げでも作ろうと思っている。何かリクエストでもあったかね?」
「いや。楽しみにしてるぜ」

男はニヤリと笑って、扉を開けた。
風の通り道ができたことで、空けっぱなしのベランダの窓から、風が流れ込む。
エミヤの髪を後ろから風が撫でていく。
それとほぼ同時に男の髪が、ふわりと舞った。
海の青が、空の青に溶けていく。
その光景に、エミヤは大きく目を見開いた。

やがて、扉がパタンと閉まり、部屋にいつもの静寂が戻ってくる。
だが、男の姿が消えた後も、エミヤは、しばらくそこから動けなかった。

「……勘弁してくれ」

絞り出すように落とされた言葉は、苛立ちと悔しさが混じった情けないものだった。
さっきの光景が目に焼き付いている。思い出すたび、エミヤの内側がぐちゃぐちゃに掻き回されているような気分になる。腹の奥がひっくり返り、今までの自分とは違う何かが出てきそうになる。
この程度のことで、簡単に揺らいでしまう自分が腹立たしい。
誰もいない部屋で、エミヤはひとり、ぎゅう、と拳を握りしめた。



「何してるんだ?」

突然聞こえてきた男の声に、エミヤの背がびくりと跳ねそうになった。
エミヤは持っていたものをチェストに仕舞い、振り向けば、そこにはランサーが立っていた。
頼んでいた洗面所の掃除を終えたらしく、興味深そうにこちらを見ている。

「……ただの片付けだ」
「ふぅん。さっきのは手紙か?随分とかわいらしい柄だったじゃねぇか。ラブレターか?」
「まぁ、そのようなものだ」

エミヤは茶化すような男の言葉に、素っ気なく返した。

少し前まで、エミヤは女性からよく告白をされていた。
スーパーで見かけたことのある女性から、全く見覚えのない女性まで。年齢も学生らしい10代から30代まで幅広い。
もちろん、相手が例えどんな可愛い女性であっても、サーヴァントである自分が告白に応じるわけにはいかない。エミヤはその都度、丁重に断り、こんな自分に好意を持ってくれたことに対して礼を言った。だが、エミヤがいくら丁寧な対応を心掛けても、女性達は最後にはいつも涙を流した。
エミヤは、決して女性を泣かせたい訳ではない。告白に応じられないのはあくまでこちらの問題で、女性側に非があったわけではない。だから、誤解のないように説明をするのだが、喋れば喋るほど女性達は泣いてしまい、最後には皆その可愛らしい花のような顔を歪めて走り去ってしまうのだ。
その姿を見る度、エミヤの胸に鉛のようなものが溜まっていった。

女性達を不必要に泣かせてしまうことに耐えきれず、何か解決策はないか、とエミヤは恥を忍んで、遠坂凛に相談をしたことがある。
エミヤの話を聞いた遠坂凛は、言いたいことを飲み込んだような表情をした後、薬指に指輪でもつけたら、とため息混じりに言った。薬指の指輪は、既婚者もしくは恋人がいる証だ。確かにそれは告白の抑止力になるかもしれない。
それは良い案だ、とエミヤは凛に礼を言い、早速その足で新都に行き、たまたまやっていたフリーマーケットで安価なシルバーリングをひとつ買った。指輪の内側に海のような深い青色の石が入っており、値段の割に凝った細工をしてある指輪だった。
それ以来、エミヤが一人で出かけるときは、左手の薬指に指輪をはめるようにしている。
その指輪のおかげか、最近では告白されることもなくなった。

エミヤが片付けていたのは、その頃に読んでくれと渡された手紙の束だった。

「渡されたはいいが、それ以来、音沙汰が無くてな。捨てるわけにもいかないだろう」
「あぁ、俺ももらったことあるわ。確かに、置き場に困るよなぁ」

ランサーが腕を組み、同意するように頷く。
それに合わせて、青い髪がさらりと揺れる。
美しい容姿に、人好きのする笑顔。兄貴肌の性質もそこに合わせれば、女性たちが放っておくはずはない。
エミヤはそっと男から目を背け、部屋の隅に置いていたエコバッグを手に取った。

「ん?買い物に行くのか?」
「あぁ、ドラッグストアに。ゴミ袋が切れそうなのを忘れていた」
「俺もいく」

予想外の男の言葉に、エミヤは玄関に向かう足を止め、男を見た。

「今日はバイトが休みだろう。確かに家事は頼んでいるが、こんな些細な買い物にまで付き合う必要はない。私に気にせず、好きに遊んでくるといい」
「おう、勿論そのつもりだ。だから、散歩がてら、お前の買い物に付き合おうと思ってな」

男はそう言ってニカリと笑い、エミヤを追い抜いて玄関に向かった。
その後ろ姿を、エミヤは呆然と見送る。

男と暮らし始めて、早3日。
この奇妙な共同生活は、想像以上に穏やかなものだった。
朝起きて、朝食を摂り、共に家事をこなして男はバイトに行く。夜もエミヤの作った食事を向かいあって食べ、布団を並べて眠る。まるでそれがずっと前から続いていたことのように、男はエミヤの生活に、するりと入り込んできた。
もっとピリピリした息苦しい共同生活になると思っていたエミヤは、そのことにひどく戸惑った。
早々に嫌気がさして、出て行くと思っていたのに。
エミヤの予想とは裏腹に、男はむしろ日常の些細なやりとりの中で、さっきのように無自覚にエミヤとの距離を詰めてくる。
多分、男に他意はないのだろう。相手がエミヤであっても、そうでなくても、男はこうやって振る舞う筈だ。
わかってはいるが、それでも動揺してしまう自分を、エミヤは密かに嫌悪していた。

「せっかくの休みなのだ。釣りにでも行ったらどうだ?最近行っていないのではないか?」

男は、港でよく釣りをしていた。エミヤもその様子を見たことはあるし、何なら乱入したことだってある。
暇なら自分の側ではなく、そっちに行ったらどうだ、と暗に伝えたつもりだった。

「あー、そういや、最近行ってねぇなぁ。でも、今日はそんな気分じゃねぇし、明日はバイトがあるからなぁ」
「明日も、何も一日中働くわけではないだろう。自分の食糧くらい釣り上げてきたらどうかね?」

エミヤはこの数日で縮められた男との距離を一旦リセットし、冷静になりたかった。
男が扉を開けながら、うーん、と唸る。

「だがなぁ、本当に釣りっていう気分じゃねぇんだよなぁ」
「気持ちの老いは、体の老いに直結する。無理にでも体を動かしたほうがいいんじゃないか?」
「サーヴァントは年とらねぇだろうが。あ、もしかして、お前魚が欲しいのか?だったら、明日魚屋に来いよ。いいの選んでやる」

おまけするって言ってたし、と男が思い出したように付け足した。
確かに男を泊めることになった時に、そんなことを言われたような気がする。

「……確かに、最近魚を食べていないが」
「じゃあ、決まりだな。明日、絶対店に来いよ」

約束だからな。
男はそう言って、機嫌良さげに笑った。



エミヤは目を開けた。
辺りは暗い。かろうじてカーテンの隙間から月明かり漏れているのが見える。おそらく、まだ夜中なのだろう。
エミヤは体を起こすことなく、そのまま暗い天井をぼんやりと眺めた。

サーヴァントに睡眠は必要ない。
だが、エミヤもランサーも魔力を節約する為、夜は寝ることにしていた。
エミヤの隣には、真新しい布団が敷かれている。
これは男が泊まることが決まった次の日、エミヤが急いでホームセンターで買ってきたものだ。ちなみに男が乗り込んできた当日は、当然一人分しか布団はなく、ランサーは持参した寝袋で寝た。
自分は布団で、相手は寝袋というのがどうにも落ち着かなく、男がバイトに行っている間に、エミヤは男用の布団を一式買ってきたのだ。

隣から聞こえるのは、自分のものではない小さな呼吸音。
そろりと音の方に目をやれば、布団の上に青い髪が散らばっているのが見える。
男は、こちらに背を向けて眠っていた。呼吸にたびに、その肩がわずかに動いている。
そこから、ほどかれた青い髪が一房、はらりと白い布団に落ちた。
闇に浮かぶ、絹糸のような艶やかな髪。その一本一本が、淡く光っているようだった。
手を伸ばせば触れるところに、それがある。
エミヤはそろりと布団から手を出し、恐る恐る、指を伸ばした。
エミヤが触れたら、男は気付くだろうか。起こしてしまうだろうか。
さ迷うように、褐色の指が闇を掻き分けていく。
ゆっくり、ゆっくり、その距離が縮まる。
そして、それが青に触れる直前、不意に冷蔵庫が唸り声を上げた。
大きな音ではない。ほんの、ささやかなものだった。男の寝息も安らかなままで、起きる気配はない。
だが、エミヤの動きを止めるには十分だった。

伸ばした手をそっと布団に戻し、エミヤは目を閉じる。
どうしてこうなってしまったのだろう。
胸中で小さく呟き、冷えてしまった手をきつく握りしめた。



「かわいいお嬢さんには、オマケだ」
「え、あ、ありがとうございます!」

キザったらしい声が聞こえ、エミヤは足を止める。
そちらを見れば、袋を持った若い女性が魚屋から出てくるところだった。
女性は頬を赤らめながら、エミヤの横を小走りで通り過ぎる。その女性を追うかのように、魚屋からエプロン姿の男が顔を出した。
赤い目がエミヤを見つける。
男は、ニッとその口の端を上げた。

「お、来たな、アーチャー」

機嫌よく近寄ってきたランサーに、エミヤは腕を組み、呆れるように息を吐く。

「女性と見れば、節操なく口説きおって。もう少し慎みをもって行動したらどうだ」
「なんだよ、妬いてんのか?」

けらけらと笑う男をぎろりと睨みつければ、そんなに怒るなよ、となだめられる。

「つーか、お前には言われたかねぇよ。お前だって、よく女に声をかけてるじゃねぇか」
「勘違いするな。貴様と違って、下心があって声をかけているわけではない」

エミヤはあくまで、困っている人間がいたから、声をかけただけだ。
雨の日に傘を忘れてしまった。停まっていた自転車を倒してしまった。荷物が重くて、袋の底が抜けてしまった。転んだ拍子に足を捻って動けなくなった。突然、ぎっくり腰になってしまった。エミヤが声をかけたのは、そういう女性達だ。そもそも声をかけたのは、女性だけではない。
そう告げれば、ランサーは呆れるように息を吐いた。

「……下心がある方が、幾分か健全だと思うがねぇ」
「どういう意味だ?ランサー」
「別に、なんでもねぇよ」

それより、これ、と男はエミヤにナイロン袋を押し付けてきた。
受け取って中を覗けば、艶々とした大きな鯖が一尾。

「良いの選んでおいてやったぜ。あ、金は払ってあるから気にすんなよ」

夕食、楽しみにしてるぜ。
男はそう言い残し、店の前に並べられた魚を見ていた主婦に声をかけにいった。
その背で揺れるのは青。
男は、女性に魚を勧めながら、また甘い言葉を吐いている。
それをぼんやりと眺めた後、エミヤは唇を引き締め、踵を返した。
揺らいではいけない。何も感じてはいけない。
何も感じてなど、ない。



「おい、アーチャー。皮ごと食べられるブドウだってよ」
「だから、なんだ。何度言っても買わんぞ」

ランサーが今日もまた買い物についてくると言うので、エミヤは男と共に近所のスーパーにいた。
2人の前に並べられているのは、黄緑色の皮が艶々と光るマスカットだ。爽やかな香りとあっさりとした甘さ、そして皮ごと食べられる手軽さが魅力の果物で、最近よくスーパーで見かける。
男はこのマスカット気に入っているらしく、さっきからエミヤにしつこく買うように勧めてくる。

「そのまま食えるなんて楽じゃねぇか」
「知るか。こんな高額なものは買わん。買うなら自分の金で買え。私は要らない」
「えぇ、美味いのに……」

名残惜しそうにマスカットを見ているランサーを置いて、エミヤはさっさと精肉売り場に向かった。
少し歩いた後、ちらりと後ろを見れば、男は納得いかないような顔をしながらも、しぶしぶエミヤの後をついてきていた。
何故黙って言うことを聞くのだろう。エミヤの意見なんて、うるさい、と跳ね除ければいいのに。
男の考えがわからない。それがひどく気持ち悪い。

「今日は煮豚でいいな」

胸の中に溜まる汚泥のようなものを振り切るかのように、エミヤは後ろにいる男に声をかける。
すると、男はぱっと目を輝かせた。

「おう。つーか、いつも作ってもらってばかりだし、たまには俺が作るぜ」
「断る。君に任す方が私の精神衛生上良くない」
「へいへい、そうですか。あ、煮卵も食いたい」
「それはすでに仕込んである」
「さすが」

会話がぽんぽんと穏やかに進む。
男との日々も、何の問題もなく進んでいく。
それが最もおかしなことだと、エミヤはわかっている。
男とはもっと険悪だった筈だ。
顔を見合わせれば罵り合い、喧嘩をし、この生活だって、もっと早くに破綻するはずだった。
それなのに、おかしい。こんなことがあっていいのか。
この男と、クー・フーリンと、こんな普通の友人のように会話しているなど。

確かにエミヤの家に男が転がり込んできた為、家主のエミヤの方が優位な立場ではあるだろう。だが、それにしたって、男はエミヤに友好的すぎる。
元々、気安く懐の深い男だ。状況が状況だから、多少エミヤに譲ってくれていることもあるのかもしれない。そう納得しようとするが、エミヤは突然距離が縮まった男に対して混乱し続けていた。

だが、それもあと2日の辛抱だ。エミヤはそう自分に言い聞かせる。
それが終われば、男はエミヤの部屋から出て行く。男との距離も、すぐに元に戻るはずだ。
だからそれまで、エミヤは気をぬくわけにはいかなかった。気を抜いてしまえば、もしかしたら、この腹の内を男に悟られるかもしれない。
それだけは、エミヤは死んでも嫌だった。

「なあなあ。明後日、お前暇か?」

男の声に、エミヤの意識が現実に引き戻される。

「……まぁ、そうだな。特に用事はないが」
「じゃあさ、その日の夜、ラーメン食いにいかねぇか?」

うまい店を知ってるんだ、と、男は何の屈託もなく、エミヤに笑いかけた。
その柔らかな表情に、エミヤの喉がごくりと鳴る。
与えられるはずのない幸福が、容赦なくエミヤの心に爪を立てた。



ついに1週間が経った。
今日は、ランサーがエミヤの部屋を出て行く日だ。
長かった男との共同生活も、今日で最後。
この後、夕食に男に誘われたラーメン屋に行き、そこで別れればおしまいである。
男との生活が何事もなく終わることに、エミヤはこっそり胸を撫で下ろした。

「俺が買ったものとかは、好きにしてくれていいから」

男はそう言って荷物をまとめている。
布団を始め、男との生活でエミヤの部屋に色々と物が増えた。例えば、テレビの前に置かれたふたつの大きめのクッション。もともと一人用の座布団しかエミヤの部屋になかったが、男が尻が痛いと文句を言いだし、ある時、バイト終わりに勝手に2個も買ってきたのだ。曰く、2個セットの方がお得だったらしい。後は小さな雑貨だ。歯ブラシやコップ。タオル類。髪が長い男の為にブラシも新調した。
まぁ、全部適当にゴミに出せばいい。クッションだけはリサイクルショップに持っていった方がいいだろうか。
そんなことを考えながら玄関で靴を履いていると、後ろから荷物を持ったランサーがやってきた。
その格好は1週間前にエミヤの部屋に転がり込んできたものと同じで、ああ、ついに出て行くんだな、とエミヤはぼんやり思った。

「いやぁ、この1週間、本当に世話になった。今日のラーメンは俺の奢りだ。遠慮なく食ってくれ」

この1週間の生活を思い出すかのように、男がしみじみと言ってきた。
そんな殊勝な姿など見たくない。もっと自分に対して、文句を言って噛み付いてくればいいのに。
相手を怒らせるつもりで、エミヤはわざと嫌味ったらしく口の端を上げた。

「フン、随分と安い礼だな。アルスターの英雄も、時代に合わせて節約志向になったのか?」
「もちろん、ラーメンだけで済ますつもりはねぇよ。マジで世話になったんだ。なんか欲しいものとかあるか?俺がやれるもんだったら用意してやる」

なんでも言え、と男はまっすぐエミヤを見て言ってきた。
その言葉に、エミヤの心がぐらりと揺れる。
エミヤが欲しいもの。
深い海のような青い髪。陶器のような白い肌。とろりと蕩けそうな赤い目。しなやかで美しい体に、そこから繰り出される恐ろしいほどの強さ。冷酷さと気安さを合わせ持つ、エミヤの手の届かない男。

「アーチャー?」

開きかけた口から何か出てくることを期待するかのように、男がこちらを見る。
それだけで、エミヤの心は締め上げられる。
欲しい、など、言えるわけがない。
何もない、と答えようとした瞬間、不意に、エミヤの視界がぐらりと歪んだ。
視界が急速に狭くなる。
体から力が抜け、体勢を保てず、思わずエミヤは膝をつく。

「アーチャー!」

男の焦るような声を聞きながら、エミヤはついにその時がきたことを悟った。
エミヤの体には、もう現界を維持する程度のぎりぎりの魔力しか残されていなかった。
それもそうだ。マスターと契約しているランサーとは違い、エミヤは今、誰とも契約をしていない。
今までは食事や、遠坂凛が寄越してくる宝石に貯められた魔力で、日々の魔力を補っていた。
だが、凛が英国に旅立ってから、それもやめた。この男の前以外では、エミヤは食事も摂っていない。
よりにもよって、こんな時に。
舌打ちをしたつもりだったが、口から出たのは、なんともか細い母音だけだった。
男に不審がられないよう、せめてラーメンを食べに行くまではなんとか凌ぎたい。
エミヤはその一心で、ふらつきそうな足に力を入れ、無理矢理立ち上がった。

「すまない、ちょっとバランスを崩してしまった」

足元はふわふわするが、多分きちんと立ててはいる筈だ。
世界がどこか遠い。目の前にいるはずの男の顔はぼやけ、表情すら判別できない。
だが、それを悟らせないよう、エミヤは平静を装って言葉を紡ぐ。
ここで男にバレるわけにはいかない。そんな醜態を晒したくない。
ぎゅ、と唇を噛み締め、体に力を入れる。
全神経を集中させ、いつも通り動いているように見せかけながら、男よりも先に扉を開けようとした。
伸ばしたその腕を、ぱしり、と、何かに掴まれる。
それがランサーの手だと気付いた瞬間、掴まれているところが、焼けるように熱くなった。

「お前、もしかして魔力足りてないのか?」
「まさか、そんなことはない」

こちらを気にかけるような男の問いかけに、普通に返したつもりだった。声の調子も、いつも通りだったはず。
だが、男は、足りていないんだな、と、確認するように同じ言葉を繰り返してきた。
どうやらエミヤの嘘はあっさり見抜かれてしまったらしい。

男にエミヤの状態が露呈してしまった今、もう外に出かけることは難しいだろう。この男も、倒れるかもしれない男の面倒を見ながらラーメンなんて食べたくはないはずだ。
エミヤに体調は、刻一刻と悪くなっている。
視界も先ほどよりも暗く、狭い。今はなんとか立ってはいるが、気を抜けば、すぐにうずくまってしまうだろう。
せめて最後に2人で食事をしたかった。
子どものような駄々をこねそうになる心を押し殺し、エミヤは潔く諦めることにした。
残念ながら外食は無理そうだ、と男に告げる。行きたいのなら一人で行ってくれ、礼はまた後日でいい、と。
エミヤとしては、せめて男の前で倒れることだけは避けたかった。そんな情けない姿を、男に見られたくはない。

だが、いくら待っても、男の手が一向にエミヤから外れない。
もしかして、うまく声が出ていなかったのだろうか。
エミヤは再度、男にひとりで外食するように言おうと口を開いた。

その瞬間。
ぐい、と強く手を引かれる。
ぼやけた視界いっぱいに広がるのは、青と赤。
直後、唇に微温いものが触れた。
それが何かを理解するより先に、エミヤは反射的に後ろに逃げようとした。
だが、それを阻むかのように、後頭部を大きな手が押さえつける。
一体、何が起こっている。
エミヤが混乱している間に、ぬるりとした熱いものが、固く閉じていたエミヤの歯列をこじ開けた。
どろりと流れ込んできたのは、神性を帯びた魔力。
そこでようやく、エミヤはランサーに口づけされていることに気付いた。

「んぅ"っ!」

慌ててエミヤは男を突き放そうとした。だが、腕に力が入らない。
逆に無理矢理体を動かしたせいで、なんとか立っていた足から力が抜け、膝が崩折れる。膝をついたエミヤを追うように、男も身を屈める。唇は離れない。顔を背けようと後ろに体を反らすが、男の重みによって、そのままエミヤは仰向けに倒れてしまった。
その上に男がのしかかり、口付けがさらに深くなった。
ぐちゅり、と湿った音が狭い玄関に響く。
絶えず喉に流し込まれるそれは、度の強いアルコールのようだ。
エミヤの喉を、腹を、じりじりと焼き、エミヤの思考を奪っていく。
おかしい。ラーメンを食べに行くはずだったのに、どうして自分はランサーとキスをしているのだろう。
男の舌がエミヤの口腔を貪る。
がち、と歯がぶつかり、飲み込みきれなかった唾液が、だらりと頬を伝って落ちる。
空っぽになりかけていたエミヤの体に、男の魔力がじわじわと染みていく。
自分の体に、自分以外のものが入ってくる。自分の中に、男の魔力が塗り込められていく。
なけなしの理性をかき集め、なんとか男を押し返そうとするが、腕に力は入ってくれない。
男から流し込まれる濃い魔力のせいで、頭にさらに靄がかかる。
だが、それでもこの状況に抗おうと、震える手で懸命に男の体を押し続けた。

どのくらい時間が経ったのだろう。
気が遠くなるほど長く感じたが、もしかしたら1分にも満たなかったかもしれない。
ようやく男の唇が離れた。
だが、離れたのは唇だけで、男の顔は依然近いまま。
ぼやけた視界の向こう。玄関の薄暗い照明の下で、赤い目が静かにエミヤを見下ろしている。
鼻をくっつけたまま、男が囁いた。

「足りないならやるよ。魔力」

男の吐く息が、エミヤの唇に当たる。
目の前の赤が、獣のようにぎらりと輝いたような気がした。
ぞく、とエミヤの腹が疼く。
魔力不足で倒れる自分に、男は呆れると思っていた。面倒に巻き込まれてしまったと鬱陶しそうにしているだろうと。
だが不思議と、男の目に嘲笑や蔑みはない。
もしかしたら、全部エミヤの見た都合のいい幻覚かもしれないが。

「なぁ、アーチャー。足りてねぇんだろ?」

熱い吐息とともに落とされる言葉。
欲に濡れた、しっとりとした雄の声。
聞いたことのない男の声に、エミヤの喉がごくりと鳴る。
いつもだったら、もう少し意地を張れただろう。そんなものいらない、君のような品の良い魔力をもらったら、獣臭くて腹でも下しそうだ、程度の皮肉は言えたかもしれない。
だが、男から流し込まれた神性の魔力によって、エミヤは一種の酩酊状態になっていた。
鋼のような理性が、ぐずぐずに溶けていく。

「アーチャー」

欲しいと言ってくれ。
名前を呼ばれただけなのに、まるで男がそう縋っているような幻覚に襲われる。
隠していた醜い欲がみるみる溢れ出し、エミヤの理性が悲鳴をあげる。
だめだ。このままではいけない。だけど。ああ、足りない。魔力も、何もかも。嫌だ。冷静にならなくては。体が熱い。考えがまとまらない。このままではまずい。どろどろになる。何かが溶けていく。嫌だ。やめてくれ。唇が熱い。喉も、胸も、腹も。何もかもわからなくなっていく。喉が乾く。足りない。もっと欲しい。もっと。もっと。もっと。
口の中で唾液が溢れた。体が熱い。男と触れているところが、灼熱で焼かれているようだ。
欲しい。欲しい。だって、足りない。もうどうしようもなく、エミヤは飢えている。
男の手がエミヤの顔に触れる。頬を包まれ、指で目の下をなぞられる。
触れられたそこが、じわりと熱を持つ。
その熱が、エミヤの理性を焼き切った。

「たりない」

飛び出した声は、ひどく醜いものだった。
ずっと、欲しかった。
エミヤはずっと、この男に触れてみたかった。

「よこせ」

擦れた声で伝える。
わかった、と男は笑いもせずに言った。

そうしてエミヤは、ランサーに抱かれた。



エミヤは、どうしようもない恋をしていた。
自覚した瞬間から絶望し、それを勘違いだと思い込もうとした。
だが、そう思えば思うほど、エミヤの内に巣食った恋は勝手に肥大化し、エミヤを押し潰していく。
どうして。どうして、こんなことになってしまったのか。
エミヤは悩んだ。
憧れはあった。認める。そこは認めよう。だが、それはあくまでテレビの中のヒーローに対して持つものと同じもののはずで、それ以上のものに化けるはずがなかった。
だが、その姿が目に入るたび、声が聞こえるたび、名を呼ばれるたび、エミヤの秘めた想いは男に焦がれ、エミヤを蝕んでいく。
エミヤは、一刻も早く、これをどうにかしたかった。
どうにかしないと、苦しくて苦しくて、おかしくなりそうだった。

だから、遠坂凛が旅立ったあの日、エミヤは決めたのだ。
耐えられないのなら、捨ててしまえばいい。
もう遠坂凛はここにいない。彼女は衛宮士郎と共に、新たな未来に向かって歩き出した。
ならば、もうエミヤがここにいる理由はない。
凛は英国に旅立つ前に、エミヤの為に魔力を貯め込んだ宝石を用意してくれた。凛が長期休みに帰って来るまで現界しておくには十分過ぎる量を、黒のボストンバッグに詰め、エミヤの部屋に置いていった。
消えることにしたエミヤにとって、それは無用の長物だ。
凛が旅立ったあの夜、エミヤはそれを遠坂邸にこっそり戻しにいくつもりだった。
魔力がなくなれば、エミヤは座に還ることができる。そしてまた、抑止力としての機構に戻る。
たった1つの分霊が抱えた想いなど、あっさりと消えてなくなるだろう。
そうして、出かけようとした時、ランサーがエミヤの部屋に来たのだった。


「アーチャー」

暗い部屋の中、カーテンから漏れる月明かりに男の姿がぼやりと浮かんでいる。
赤い目が美しい。宝石のようなそれは、なんだか綺麗な飴玉にも見えた。
舐めたら美味しそうだと思ってしまうくらい、エミヤの頭は今、おかしくなっている。

「なぁ、アーチャー」

男の汗ばんだ大きな手が、エミヤの頬に触れる。
その指が、返事を求めるかのように、唇をなぞる。
らんさー、と掠れた声で呼べば、男は満足げに笑って、そこに唇を落とした。

「アーチャー」

あの男が、蕩ける声で己を呼ぶ。
それだけで腹の奥がきゅうと締まった。
ああ、だめだ。だめだ。
男の赤い目が近づく。解けた男の髪が、エミヤの上にぱらぱらと落ちる。
見ないでくれ。こんな浅ましい姿を、醜いものを、その美しい目に写したくはない。
抵抗しようとするが、手が動かない。
おかしい。おかしい。どうしてエミヤは男に抱かれているのか。
どうして男はエミヤを抱いたのか。
わからない。何もかも、わからない。

男の舌が、頬を這う。
その歯が、エミヤの鼻を柔く噛む。
男の肌が触れる。男の熱が伝わってくる。
理性が、思考が、ぐちゃぐちゃに溶けていく。

ああ。
この男を拒めない自分は、なんと醜いのだろう。

エミヤの目から、涙がはらりと落ちた。



男の言っていたラーメン屋は、新都のオフィス街の少し奥まった場所にあった。
店舗もそこまで広くなく、また着いたのが昼時だった為、店内はそこそこ混み合っていた。
入口で購入した食券を店員に渡し、エミヤとランサーはカウンターに並んで腰かける。
その向こうでは暑そうな湯気の中、黒いTシャツ姿の店員が麺の湯切りをしていた。

「お前ってさ、普段ラーメン屋とか行くの?」
「正直、こうして外で食べるのは久しぶりだ」

答えながら、店員に出されたコップに口をつける。
冷たい水が、空っぽの体の中にするりと染み込んでいった。

「ラーメン、あんまり食わないのか?」
「そういうわけではない。家では作るさ。その方が自分好みに作れるからな」
「へぇ、どんなのが好きなんだ?」
「特にこだわりはないが……、そうだな、野菜がたっぷり入っているものの方が気に入っている」

ふぅん、と男が返事をした時、目の前に頼んでいたラーメンが置かれた。
大きめのチャーシューに、半分に切られた半熟の煮卵。その上にはたっぷりのネギがのせられている。
エミヤの隣で、男が割り箸を割り、麺を啜りだす。エミヤも、少し遅れて食べ始める。
醤油の風味が鼻を抜けていく。麺に絡むスープの味はあっさりとしていて重すぎず、胡椒の刺激もちょうどいい。確かに、これは美味しいラーメンかもしれない。
今のエミヤの気分では、その美味しさを十全に感じることはできなかったが。

「……ちゃんぽんとかの方が良かったか?」

ランサーが、チャーシューを齧りながら言ってくる。
どうやら、さっきの話はまだ終わっていなかったらしい。

「まぁ、確かに、ちゃんぽんは野菜がたくさん入っているな」
「じゃあ、明日、食いに行くか」
「何を?」
「ちゃんぽん」

男の言葉に、エミヤの手が一瞬止まる。

「明日、なんか予定があんのか?」
「……いや、特には。今日も麺類で、明日も麺類かと思っただけだ」
「それもそうだな。じゃあ、明後日かその次か」
「……まぁ、それなら」

いいのだろうか。
自分は、まだ彼とこうして食事をしていても。
エミヤの眉間に、きゅ、と皺が寄る。

「考えたんだが」

男が置いてあったコップを手に取り、水をごくりと飲んだ。
その白い喉の動きを間違っても見ないように、エミヤはそっと目を伏せる。

「俺、1週間お前に世話になっただろ?なんだかんだ飯もほとんど作ってもらったし」
「……別に気にすることではない」
「俺が気にするんだよ。だから、その礼がわりに、しばらく魔力分けてやろうか?」

何を、馬鹿なことを。
エミヤは弾かれたように顔を上げ、おかしな提案をしてきた男を呆然と見た。
男はこちらも見ずに、いつも通り、飄々とした表情でラーメンを食べている。その腹の内は、わからなかった。

「……必要ない。昨日のは偶々だ。もう、あんな失態は晒さない」
「でも、結構昨日はギリギリだったじゃねぇか。一歩間違うと危なかったぞ」
「今後は気を付ける。だから、気にしなくていい」
「万が一があったら、俺の寝覚めが悪いんだよ。俺は別に魔力に困ってねぇし。お前もついでに発散できていいじゃねぇか」

さらりと言われた言葉に、エミヤの体温がカッと上がる。
昨日の痴態を掘り起こされたような気分になり、エミヤは奥歯をぎり、と噛み締めた。

「そっちこそ」

エミヤは、隣の男を馬鹿にするように鼻で笑う。

「そっちこそ、随分と悪食なのだな。こんなむさ苦しい男にまで手を出すとは、光の御子様は余程飢えているとみえる」
「……そうだな。たしかに最近はご無沙汰だったわ」

ざわざわと賑わう店内で、密かに交わされる言葉。
声を落として話している為、周りの人間は会話の内容に気付いていない。
この店にいる誰もが、昨夜、エミヤが隣の男と寝ただなんて、思いもしないだろう。

「だから、それに付き合えと?」
「嫌か?お前も魔力をもらえるし、ついでにスッキリできる。悪い話じゃないだろ」

ちゅる、と男が麺をすすりながら言う。
悪いどころか、おかしな話だ。欲の発散が目的なら、そういう店に行けばいい。アルバイトで稼いだ金もあるだろう。その相手に、わざわざ知り合いのエミヤを選ぶ理由がわからない。
男で後腐れがなく、ちょうどよかったから。昨日の具合が思ったよりも良かったから。それとも、ただ単に付け入りやすかったからだろうか。
いくつもの理由が浮かんでは消える。
男の考えていることが全くわからない。
わからないが、これはおかしい、とエミヤの理性が叫ぶ。
男に抱かれたところで、何になる。
エミヤは消滅したいのだ。魔力をもらってどうする。
それに、男に抱かれても、エミヤの気持ちが成就するわけではない。余計に虚しくなるだけだ。
わかっている。頷けば、エミヤはさらに苦しくなる。
だが、エミヤの想いが体の中で暴れまわる。
昨日、唇に触れた息の熱さが蘇る。
暗闇に浮かぶ白い肌。触れているところから伝わる男の熱。汗の匂い。見下ろす赤色と、エミヤの上に散らばる青色。
どろりと溶けてしまいそうな、男の声。

「どうだ?アーチャー」

男が顔を上げ、エミヤを見る。
その目が、その声が、エミヤの背中を押した。

「そうだな。悪くはない」

そうして、エミヤは地獄に飛び込んでしまった。



久しぶりに女性から告白された。
最近はあの男と一緒にいることが増え、男に説明するのも面倒で、指輪をせずに出かけることが増えていた。やはり、きちんとつけていないと効果がないようだ。
そう反省しながら、エミヤはいつものように告白を断った。
彼女はショックで震える唇になんとか力を入れ、せめてこれだけでも、とエミヤに小さな花束を差し出した。
その花を包むフィルムには、あの男が働く花屋のシールが貼られていた。
エミヤの胸に、ざくり、と爪を立てられたような気がした。



男の履いていた靴が壊れていた。
だが、当の男が気にするそぶりもない為、エミヤは仕方なくランサーを引っ張って新都の靴屋にやってきた。

「別にまだ壊れてないんだが」
「踵がすり減りすぎて、摩擦もなにもなくなっていたではないか」
「そんなことねぇよ。別に穴が空いているわけでもないし、履く分には問題ない」
「うるさい。見ているこっちが気になるんだ」

ぶつくさ言う男を、問答無用で店に放り込む。
ランサーはあっという間に女性店員に囲まれ、店の奥に連れ込まれていった。
その様子を、エミヤは後ろから見送る。

「お連れ様も何かご覧になりますか?」
「私は結構だ。彼に合う靴を頼む」
「かしこまりました」

声をかけてきた店員を素気無く断り、エミヤは店の外に出て男を待つことにした。
それから十数分後。店の壁に寄りかかりながら今日の夕食の献立を考えていると、なんだか疲れた様子の男がふらふらと戻ってきた。
下を見れば、男の靴は真新しいスニーカーに変わっている。
男はエミヤを見つけると、じとりと恨みがましく睨んできた。

「俺を置いてさっさと逃げやがって。あー、靴決めるだけなのに、なんか倍以上の話を聞かされた気がするぜ」
「まぁ、君のような男を着飾るのは、彼女らも楽しいだろうからな」

他人事だと思いやがって、と男は不満そうに口を尖らせる。

「ついでに、お前も靴を買ったらよかったのに」
「私の靴は壊れていないから必要ない」

それに、どうせ履かなくなるのだ。処分するものは少ない方がいい。

「さて、では帰るか」

沈みそうな思考を切り替えるように、エミヤはわざと少し大きく声を出した。

「あー、じゃあ、ちゃんぽん食いに行こうぜ。約束しただろ」
「そういえば、そんなことも言っていたな。どこか美味いところを知っているのか?」
「あぁ、魚屋の客から聞いたんだ。あと、港の側に安くて美味い焼肉屋があるらしいんだ。今度そっちにも行こうぜ」
「ちゃんぽんの次は焼肉か。君も随分と食道楽になったものだ」
「そうかもしれねぇなぁ」

男は笑って、歩き出した。
エミヤもつられて、足を前に出す。

「俺の知らないもんがここにはあるんだ。せっかく現界したんだし、楽しまなきゃ損だろ」
「まぁ、君の時代に比べたら、技術は随分と進化しているからな。物珍しいものもたくさんあるだろう」
「馬鹿にしてんのか?」
「そういう意味ではない」

正直、この世界を素直に楽しめるのが羨ましいだけだ。
ここにあるものは、エミヤにとってどれもこれも懐かしい。
触れるたびに郷愁が過ぎり、妙に胸が締まる。
取りこぼしていった何かが、この世界には溢れているような気がするのだ。

「じゃあ、今日はちゃんぽんで、焼肉は明日な」
「……外食ばかりではないか」
「なら、明後日」
「……わかった」

引く気のなさそうな男に渋々頷けば、よし、と男は満足そうに笑った。
本当にこれでいいのだろうか。こう答えることは、正しかったのだろうか。
エミヤにはわからない。
男が嬉しそうに笑っている姿だけが、それでもいいと言ってくれているような気がした。



「アーチャー」

荒い息の合間に、名を呼ばれる。
約束した1週間はとうに終わった。だから、男がエミヤの家にいる理由はない。
にも関わらず、男は今までと同じように、エミヤと共に朝起き、家事をこなしてバイトに行き、エミヤの作った食事を食べ、共に眠る。
あの頃と違うのは、男がエミヤを抱くようになったことだけだ。

「アーチャー」

槍を握る手がエミヤに触れる。少しざらついた指先が、エミヤの上をなぞっていく。男の汗が、ぽたりと落ちる。熱い舌が、肌を這う。
エミヤは、それをまるで他人事のように感じていた。
わからない。どうしてこんなことになっているのか。
エミヤはただ消えたかっただけのはずなのに、どうして大人しく男に抱かれているのだろう。
逃げるように視線を外せば、キッチンのカウンターに置かれている花瓶が目に入る。
生けてあるのは、告白してきた女性にもらったものだ。
その包装紙は、帰ってきてすぐに捨ててしまった。なんとなく、男には見られたくなかった。

「アーチャー。何を考えてやがる」

何も、という返事は、そのまま男の唇に飲み込まれた。
喉を通って、男の魔力が腹の中に落ちていく。
エミヤの体が、じわりと熱くなる。

「ただの魔力供給だ。ぐちゃぐちゃ考えんな」

男の手がエミヤの額に触れ、汗でしっとりとした髪を上にかきあげる。
その心地よさに、目が閉じそうになる。
わかっている。わかっているのだ。
こんなもの、なんの意味もない。
男は1週間泊めてもらった礼と、欲の発散の為、エミヤを抱いている。
エミヤは、惚れた男から与えられる情けを拒めずにいる。ただそれだけのこと。

「アーチャー」

男の親指が、何かをねだるようにエミヤの唇をなぞる。
いつかのように、名を呼ぼうとした。
だが、呼んでもいいのだろうか。
こんなおかしな関係になってしまった自分が、彼の名を呼んでもいいのか。
はくり、とエミヤの口から、虚ろな空気が漏れる。

「アーチャー」

わからない。エミヤには、もうわからない。
ただ、今すぐ消えたかった。
この醜い心ごと、男の前から消えてしまいたかった。
はらりと落ちた涙の跡を、男の舌がべろりとなぞった。



「お前、ここは焼肉屋だぞ」
「それがどうした」

男に連れられてやってきた焼肉屋はチェーン店ではなく、個人経営の小さなものだった。
狭い店内には長いテーブルがいくつか置かれ、それぞれの上には七輪がある。
それを挟んで、エミヤとランサーは睨み合っていた。

「焼肉屋っつったら、肉食うところだろ。なんでシシャモ焼いてんだよ」
「メニューにあるのだから、別にいいではないか。何を焼いても私の自由だ」
「シシャモだったら家でも焼けるじゃねぇか」
「ふざけるな。七輪で焼くのは、全然違うのだ」

そんなん知るかよ、と男がぼやく。
小さな七輪の上では、腹がふっくら膨らんだ魚が5尾、その中心を陣取っていた。

「お前、常識ぶってるくせに、たまに変なことするよな」
「失礼な。ポケットに街頭で配っていたティッシュペーパーを入れたまま洗濯した男に言われたくない」
「お前、今朝のことまだ怒ってんのかよ。謝って、ちゃんと洗い直したじゃねぇか」
「フン、謝ればいいというものではない」

別に洗濯の件は、全て男に任せていた自分にも責任がある。そこまで怒っていたわけではない。
ただ、単に食べたくて注文したシシャモのことをしつこく言われ、少し腹が立っただけだ。
エミヤはむすりとした顔をしながら、シシャモをくるりとひっくり返す。

「悪かったって。ほら、俺の肉やるから」

男は、先程焼きあがった肉をこちらに差し出してきた。
甘辛いタレに絡められたそれから、エミヤはぷい、と顔を背ける。

「いらん」
「そんなことで拗ねんなよ」
「拗ねてなどいない」
「本当か?」
「ああ」

くるくるとシシャモをひっくり返していく。少し焼きすぎてしまったのか、そのいくつかは腹の皮が破れて、中からふっくらとした卵が顔を出していた。

「じゃあ、シシャモ一個くれ」
「……君も食べたいのではないか」
「見てたら食いたくなった」

へへ、と笑う男に、エミヤの胸がぎゅう、と締まる。
本当に、この関係に甘えていていいのだろうか。
良いはずはない。それだけはわかっている。
だが、どうしても手放せない。ずっと続かないことがわかっているからこそ、今の関係を壊せない。
なんと自分は情け無いのか。この男のことを思うのなら、一刻も早く突き放し、距離を取るべきなのに。

「やっぱ焼いた魚はいいな。今度、川釣りでもいかねぇか?釣った魚、一緒に焼いて食おうぜ」

迷い続けるエミヤの前に、またひとつ、約束が積み上がった。



ふと、コーヒーの香りが漂ってきて、顔を上げる。
随分ぼんやりと歩いていたらしい。
気付けば、エミヤはランサーがアルバイトをしているカフェの前まで来てしまっていた。
ガラス越しに見える店内では、ギャルソン姿の男が、テーブル席に座っている女性客ににこやかに話しかけていた。
何か相談に乗っているのか、時折真剣な表情浮かべている。
それをぼうっと見ていると、不意に、じわりと腹に不快感が広がった。
吐き気が込み上げる。男に対してではなく、こんなことで揺れてしまう自分に対してだ。
早く立ち去ろうと、足に力を込める。
こんな感情は、正しくない。
これ以上ここにいてはいけない。
早く、早く。余計なものが生まれてしまう前に。

「アーチャー!」

カラン、という低い鐘の音と共に、扉の開く音が後ろから聞こえた。
振り向きたくない。
自分はきっと、おぞましい顔をしている。

「こんなとこにいるなんて珍しいな。散歩か?」
「……凛の家に荷物を置きに行った後、時間が余ったのでね」

静かに息を吐き、余計な表情を削ぎ落としてから、エミヤはゆっくりと振り向いた。
いつもと違う格好の男は、エミヤを見てきょとりと目を瞬かせている。

「嬢ちゃんの家に?なんか向こうから荷物でも届いたのか?」
「いや、行く前に預かっていたのものがあってね。それを戻しに行っただけだ」

持っていったのは、ずっとエミヤの家に置きっぱなしになっていた黒のボストンバッグだ。
中には凛からもらった宝石がたくさん詰まっている。
本当はもっと早くに持って行く予定だったが、なんだかんだで遅くなってしまった。

「ふぅん。なぁ、ちょっと寄ってかねぇか?コーヒーくらい奢るぜ」

そう男は、にこやかに笑いかけてきた。
ちらりとガラス越しに店内に目をやれば、さっきまで男と話していた女性客がこちらを見ていることに気付いた。
もしかしたら、エミヤが店の前を通ったことで、男との話を中断してしまったのだろうか。
そんな彼女に対して、素直に悪かったと思えない自分に、ほんの少し嫌気がさす。
その罪悪感からか、エミヤは男の誘いに首を横に振った。

「いや、今日は遠慮しておこう。さっき缶コーヒーを飲んでしまってね。腹が膨れているのだ」
「あー、そっか。じゃあ、また今度な」

男は残念そうに眉を下げた。本当にそう思っているかのような表情に、エミヤの心がぐらりと揺れる。
本当にこの男は、ひどい男だ。
ぎゅ、と唇を噛み締め、エミヤは男に背を向けた。

「……今日夕食は君のリクエストの親子丼だ。さっさと帰ってくるがいい」
「あ、ああ!楽しみにしてるぜ」

また後でな、という男の声を背に、エミヤは歩き出す。
エミヤの後頭部に、ガラス越し見ていた女性の視線が、ちりちりと突き刺さっている気がした。



「そういや、この部屋にカレンダーは無いんだな」

はたきでホコリを落としていた男が、不意にポツリと呟いた。

「ないと不便じゃねぇか?」
「まぁ、特に覚えきれないほどの予定があるわけではないし、無くて困ったこともないからな」

考えたこともなかった、とエミヤは掃除機のコードを伸ばしながら答えた。

「俺は不便なんだが」
「それこそ知るか」

コンセントを差し込み、スイッチを入れる。騒がしい音を立てて、掃除機がゴミを吸い込み出した。
部屋の隅から丁寧にかけていく。掃除は嫌いじゃない。やれば必ず終わる。やった分だけ成果が出る。こんなにわかりやすいことはない。
ふと顔を上げれば、男が口をパクパク動かして何か言ってることに気付いた。
掃除機の電源を消す。

「何か言ったか?」
「だから!バイト先にカレンダー余ってるから、持ってきていいかって言ったんだよ」

思わぬ提案に、エミヤは目を瞬かせた。

「別に構わないが……」
「じゃあ、明日もらってくるわ。なんか好きな絵とかあるか?あんまり選べねぇが、せっかくだから、お前が好きなの持ってきてやるよ」
「そんなこと言われても、日付さえわかればいい。まぁ、強いて言うなら、卓上よりも壁掛けの方がいいな。日めくりは手間がかかるから避けてもらいたい。あと、君が使うなら、予定を書き込むスペースが広い方が使いやすいだろう。ああ、それと猫さんの写真ものが万が一残っていたら引き取ろう。もったいないからな」

思いついたことを言えば、男は呆気に取られたような顔をした後、ふきだすように笑った。

「何がおかしい」
「いや、しっかり要望言うあたりがお前らしいなと思ってな」

じゃあ、明日持ってくるわ、と男ははたきでチェストの上のホコリを落としながら言った。
エミヤは首をわずかに傾げた後、再び掃除機の電源を入れる。
男が何をそんなに笑っているのかわからなかった。
だが、機嫌の良さそうな男を見るのは、なんとなく悪い気はしなかった。


その次の日、ランサーが約束通り、猫の写真のついたカレンダーを持ち帰ってきた。
意気揚々とそれを壁に貼り、早速何かを書き込んでいる。

「何を書いているんだ?」
「川釣りの日だよ。この日に行こうぜ。どうせ暇だろ」
「私だって、いつも暇なわけではない」
「この日は忙しいのか?」
「……忙しくはない」
「じゃあ、この日に行こうぜ。約束な」

約束。

「……そうだな」

頷いた後、ほんの少し後悔した。



恋心というのは、どうしてこんなに、ままならないのか。
ふと目覚めた深夜。
体を起こすことも怠く、いつかのように、ぼんやりと天井を眺める。
すぐ隣から、ランサーの小さな寝息が聞こえてくる。
体全体に広がる男の魔力。それを自覚しただけで体温が上がった気がして、エミヤは思わず舌打ちをした。

「……起きたのか?」

唐突に聞こえた男の声に、思わず体が跳ねそうになる。
首だけで横を見ると、男の赤い目が眠そうにこちらを見ていた。

「……すまない、起こしてしまったか?」
「別に、かまわねぇよ」

ふあ、と男は大きく欠伸をしてから、エミヤの方に体を向けた。

「眠れねぇなら、もう一回ヤるか?」
「馬鹿なことを言ってないで、さっさと寝ろ」
「別に俺らは寝なくても平気じゃねぇか」
「私は寝たい。だから、これ以上無駄話をするつもりはない」
「へいへい。わかったよ。おやすみ」

するりと白い腕が伸びてきて、ぐい、とエミヤの体を抱き込んだ。
男との距離が近まる。エミヤの顔のすぐ横に、こちらを向いている男の顔がある。
エミヤの首筋に、男の息が当たる。
その瞬間、エミヤの体温が跳ね上がった。
こんなことにも、驚くほど動揺してしまう自分が情け無い。
今にも張り裂けそうになっているエミヤの心臓とは違い、隣から聞こえてくるのは、穏やかな呼吸音だ。
慌てふためいているのは自分だけ。
その現実が、静かにエミヤを突き刺した

ふと頭を過ぎるのは今日の昼間のこと。
エミヤは、また女性から告白された。
いつも通り告白を断り、感謝の言葉を告げ、最後にエミヤは謝った。
君の想いに応えることはできない、本当に申し訳ない、と。
女性は気にしないでください、と笑った。振られるのはわかっていたのですが、どうしても伝えておきたくなったんです、と申し訳なさそうに言った。その目は、今にも涙が溢れそうなほど潤んでいた。
それでも気丈に振る舞おうとしていた彼女の表情を思い出すだけで、エミヤの心が、がりがりと抉られた。

ああ、本当にままならない。
男の腕の中で、エミヤは嘆いた。
エミヤだって、無闇矢鱈に女性を傷付けたいわけではない。それなのに、エミヤは傷付けることしかできない。
どうしたらよかったのか。いっそ、あの男ではなく、想いを寄せてくれる女性に恋ができたらよかったのか。
それとも、エミヤがさっさと消えていれば、彼女達を不必要に傷付けることは。

「っ!」

突然、肩に鋭い痛みが走る。
噛み付いているそれをふり解こうと腕を振り上げれば、それはすんなりと離れていった。

「……寝るんじゃなかったのか、ランサー」

じろりと睨みつければ、悪い悪い、と男は言った。

「美味そうで、思わず噛み付いちまった」
「……夕飯が足りなかったのかね?」

嫌味をたっぷりと込めて、エミヤは溜め息を吐く。
男の奇行のせいで、何を考えていたのかすっかり忘れてしまった。
そう文句を言えば、すまん、と軽く謝ってきた。

「フン。私は寝る」
「あぁ、おやすみ、アーチャー」

また明日、と蕩けるような声で言われ、エミヤは再び舌打ちしそうになった。



ざく。ざく。ざく。ざく。
夕食に使うキャベツを刻みながら、ふと思う。
例えば、今、この包丁で霊核を壊せば、エミヤは座に還ることができる。
市販品の包丁では、サーヴァントの体を傷付けるのは難しいかもしれない。だが、魔術で強化したらどうだろう。
致命傷までいかなくても、それなりに損傷を与えることはできるかもしれない。
そこから魔力が漏れ出せば、エミヤは消えることができる。
男が部屋に帰ってくるよりも前に。

ざく。ざく。ざく。ざ。
ああ、でも。
エミヤのすぐ横には、衣をつけられ、揚げる準備が整った豚肉が皿の上で待っている。
トンカツと山盛りのキャベツが食べたい。
朝、あの男はそう言ってバイトに出ていった。

「……作る、と、約束してしまったからな」

ぼそりと呟き、エミヤはキャベツの千切りを作る作業に戻る。
ざく。ざく。ざく。ざく。
自分は一体、何に言い訳をしているのだろう。
さっさと消えればいいのに、なんだかんだと理由をつけて、座に還ることを先延ばししている。
ざく。ざく。ざく。ざく。
野菜が切られる音だけが、小さなキッチンに響く。
自分がどうしたいのか、もう、よくわからなかった。



「ずっと、好きだったんです」

今にも消え入りそうな声で、そう告げられる。
買い物をしにスーパーに行く途中に、どこかで見たことのある女性に呼び止められ、人通りの少ない路地に誘われ、そう告げられた。
エミヤの目線の少し下にいる女性は、怯えるように身を縮こませている。
その心情が、今ならほんの少し、わかるような気がした。

「ありがとう。だが、すまない」

そう答えると、彼女の表情がぐにゃりと歪んだ。
ぐっと何かを堪えるように唇を引き締め、わかっていましたから、と小さな声で答えた。

その弱々しい姿に思わず手を差し伸べたくなるのを、エミヤはぐっと堪える。
どうして彼女は自分なんかを好きになってしまったのだろう。
どうして自分は、彼女を好きになれなかったのだろう。
どうして自分は、あの男を。

その時、彼女からふわりとコーヒーの香りが漂ってきた。
そこでふと、彼女が、いつかあの男の働くカフェの中からエミヤを見ていた女性だということに気付いた。



「ランサー。いつまでそうしているのだ」
「うっせぇなぁ。わかってるよ」

窓の外を恨みがましく睨んでいるランサーに、エミヤは声をかける。

「川釣りを楽しみにしていたのはわかるが、この天気で川に近付くのは危ない。まぁ、私達は大丈夫だろうが、私達の姿を見た一般市民が、つられて川に近付く可能性もある」
「わかってるって言ってるだろ。だから大人しく行くのをやめたじゃねぇか」

ふてくされた顔で、男が呟く。
ガラス窓には、激しい雨が大きな音を立てて打ち付けている。
外の木々は強風に煽られ、ばさばさと悲鳴を上げていた。
テレビの情報によると、今日は急速に発達した低気圧の影響で、一日中ひどい雨風になるそうだ。
先程、この街の一時間当たりの降水量が過去最高を更新したらしい。川釣りなど、論外である。

「今週はそこまでバイトを入れてないのだろう?なら、川釣りも別に今日じゃなくてもいいではないか。川が逃げるわけではない」
「でも」

ぼそぼそと男が何か呟いた。
その声は普段より小さく、エミヤの耳に届く前に、窓に打ちつける雨の音でかき消されてしまった。

「なんだって?」
「なんでもない。なんでもねぇよ」

男はそう言い捨て、また窓の外を眺め出した。
そんなに釣りがしたかったのだろうか。
というか、どうして男と釣りに行くという話になったのだったか。
確か、そもそもの話の発端は焼き魚だったはず。
ならば、この男に焼き魚を食べさせれば、男の気分も少しは上を向くかもしれない。
仕方がない、とエミヤはエコバッグを手に取った。

「おい。どこに行く気だ?」

即座に男の鋭い声が飛んできた。

「今日の夕食の買い物だ」
「こんな雨の中にか?」
「どこかの誰かがの機嫌が、魚を食わないと良くならなそうなのでね」

そう言えば、男は少し驚いたように目を開いた。

「……別に俺が食いたかったわけじゃねぇ」
「そこまで落ち込んでおいて、今更、意地を張るな。それに私も魚が食べたくなった」

そう言って玄関に向かって足を踏み出せば、男が慌てて追ってきた。

「待て、俺も行く」
「君も来るのか?雨風がひどいから、家で待っていても構わんぞ」
「……俺のわがままで、お前だけひとり買いに行かせるわけにはいかねぇだろ」
「気にしなくてもいいのだが」
「俺が気にする」

そうか、と言うと、男は、おう、と答えた。
狭い玄関で2人で靴を履く。忘れずに傘を持ち、エミヤは扉を開けた。
その瞬間、猛烈な雨と風が2人に襲いかかった。
エミヤの住む部屋は2階だが、外階段の為、玄関の向こうは遮る物のない外だ。
一応、屋根と落下防止の手すりはあるが、風が吹きこめば何の意味もなくなる。
ほんの一瞬で、エミヤとランサーは、びしょ濡れになってしまった。
濡れ鼠になった2人は、無言でお互いの姿を見る。
そして思わず、笑ってしまった。


「本当にひどい雨だな!こんな日に店はやっているのか?」
「わっかんねー!おい、俺の新しい靴、ぐちゃぐちゃなんだが!」
「馬鹿か!普通の靴できたのか?!」
「テメェもだろ!長靴なんか持ってねーよ!」
「魚屋で履いてなかったか?!」
「あれは店のだ!俺の私物じゃねぇよ!」

雨音でかき消されないように、大声で話し合う。
足元はぐちゃぐちゃ。傘をさす意味もないほどの雨がエミヤ達を襲う。
服はどんどん水が染みて重くなっていき、体に張り付いて気持ち悪い。
でも、エミヤとランサーは笑っていた。

「こうなったら意地でも魚を買って帰ってやる……!」
「ははっ、そうだな!ついでに帰ったら風呂入ろうぜ!」
「別に霊体化すればいいだろう!」
「情緒がねぇなぁ、お前は!」

男がけらけらと笑う。
その顔は心底楽しそうに見えた。
エミヤも、今日は不思議と気分が良かった。
ずぶ濡れになって、どうでもよくなっているからかもしれない。

「なぁ、アーチャー!」
「なんだ?!」
「川釣り!次は行こうな!」

一瞬、言葉に空白が生まれる。

「……あぁ、そうだな」
「約束だぞ!」
「ああ!」

だから多分、こんな無責任な約束をしてしまったのだろう。



「お前、指輪とかしてたのか」

1人で買い物に行った帰り道でのこと。
たまたまバイト終わりの男と鉢合わせ、一緒に家に向かっている時に、突然男がそんなことを言った。
男の視線は、エミヤの左手の薬指に注がれている。

「あぁ、前にたまたま新都で見つけて、気に入ったものでね」

最近また女性から告白されることも増え、なんとなく御守りがわりに指輪をつけていたのだ。
ちなみに男といる時は説明が面倒で、いつも外していた。だから、男にとってはエミヤが指輪をしているのが珍しかったのだろう。

「見てもいいか?」
「構わないが……」

指から抜き取って渡せば、男は人差し指と親指でそれを摘み、空ににかざすように眺めた。
興味があるのだろうか。彼はイヤリングはしているが、指輪の類は身につけていない。槍を持つときに障りになるからかもしれない。
なんとなく彼の指に合いそうな指輪を想像していると、ふと彼が口を開いた。

「でも、なんで薬指につけていたんだ?」

その問いに、エミヤはぎくりとした。
女性からの告白避け、というのは、なんとなく恥ずかしく、男に言うのは少し憚られた。
なんと言うべきか。
何か上手い理由はないかと、エミヤは必死に考えた。

「……この指輪を買った時に、言われたのだ」
「なんて?」
「……左手の薬指が、指輪が1番綺麗に映えると。どうせなら、指輪が美しく見える指につけたほうがいいだろう?」

悩んだ末、エミヤは人にそう言われたことにした。
それに、ずっと昔にテレビで見たワイドショーで、薬指に指輪を付けていた女優が、恋人ができたのですか、とインタビューされた時、この指が1番指輪が綺麗に見えるので、と答えて濁していた。
だから、情報としては嘘ではないはずだ。

「それは買った店の店員に言われたのか?」
「ああ」

実際は店舗ではなく、フリーマーケットだが。
心の中で、言い訳をするかのように小さく付け加える。

「ふぅん」

男はつまらなそうに呟き、手の中で指輪を弄った。
正直に言った方がよかったのだろうか。だが、男に言うのはなんとなく恥ずかしい。
どう答えたらよかったのだろうかと頭を悩ませていた時、不意に小さな金属音がした。
何かと思って見れば、男の手のひらの上で指輪が真っ二つに割れていた。

「すまん、壊しちまった」

あっけらかんと言い放つ男に、エミヤの目が点になった。

「……は?」
「すまん」

指輪だったものが、男の手の上で力なく横たわっている。
その内側からころりと溢れ落ちた青い宝石を目にした時、エミヤはひどく動揺し、声を荒げた。

「……し、信じられない、この馬鹿力が!どうやったらこんな風に壊れるのだ!わざとなのか?!」
「悪い悪い、こんな脆いとは思わなかったんだよ」

エミヤは、わなわなと体を震わせる。
確かにフリーマーケットで適当に買ったものではあったが、それなりにエミヤは気に入っていた。愛着もあった。それが今、男の手のひらの上で、ただの残骸に変わっている。
指輪から外れた青い宝石が、不安げにエミヤを見上げている。
せめてそれだけでも回収しようと、エミヤは手を伸ばした。
だが、まるでそれを阻止するかのように、男が手のひらを握る。エミヤの視界から、青が消える。
お前が触れていいものでない。
そう言われたような気がして、なんだか無性に悲しくなった。

「悪かった、アーチャー」

不意に、男の真面目な声が聞こえた。珍しい、そんな声も出せたのか、と言う元気は、あまりなかった。

「……壊れてしまったものは仕方がない。次から気をつけろ」

そう言えば、男の眉が少し下がった。
そもそも壊したのはそっちだろう。なぜ今更そんな落ち込んだ顔をするのだ。

「アーチャー」
「なんだ?」
「代わりにはならんかもしれんが、俺に指輪を贈らせてくれ」

男の赤い目が、真っ直ぐにエミヤを見る。
つまりは弁償ということだろうか。
だが、そこまでしてもらわなくても構わない。
大した値段のものではなかったし、いくらでも投影で作ることはできる。
そう伝えたが、男は納得していないようだった。
変なところで律儀な男である。壊した本人のくせに。
だが、そうした方が男もすっきりするのだろう。それならば、断る理由もない。
じゃあ頼む、と言えば、男はもう一度、本当に悪かった、と沈んだ声で言った。



「別に構わないのだが」
「俺が気にするんだよ」

エミヤはランサーに引きずられるように、とあるビルの前に来ていた。
そこは最近できた商業施設で、中にはメンズファッションの店がたくさん入っているらしい。
事の発端は今日の午前中。
ランサーが洗濯したエミヤのシャツの皺を伸ばそうと引っ張った時、力が入ってしまったのか、うっかり破いてしまったのだ。
シャツはだいぶ古くなっていたから、そもそも寿命だったのだろう。だからエミヤは気にするなと言ったのだが、男は納得しなかった。
多分、指輪を壊したことも引きずっていたのだろう。
弁償すると言って聞かず、こうしてエミヤを外に引っ張りだしたのだ。

「俺が適当に買ってきてもいいが、お前、アロハシャツとか嫌だろ」
「なぜアロハシャツ一択なのだ。いくら男性ファッションの種類は少ないとはいえ、もっと選択肢はあるだろう」

ぶつぶつ文句を言いながら、エミヤは男と共にビルの中に入る。
できたばかりの建物はどこもかしこも新しく、きらびやかで、思わずきょろきょろと眺めてしまった。だが、すぐに自分はひとりではないことを思い出し、慌てて取り繕った。

「……なかなか賑わっているようだな」
「まぁ、最近できたばかりだしなぁ。上の階にはレストランとかあるらしいから、ついでに食べて帰ろうぜ」

男は呑気にそんなことを言うが、この周りの人出を見る限り、食事時にはそこに人が溢れることは嫌でも想像できた。

「どうせ混むだろう。ならばさっさと服を選んで、帰って食事にしたほうがいい」
「えー、せっかく来たんだから、なんか食って帰ろうぜ」

不満そうに男が口を尖らす。

「ならば一人で食え。私は帰る」
「ちぇっ、つまんねぇの」

退屈そうな男の声に、わずかにエミヤの視線が下がる。

「……飲み物くらいなら、付き合ってもいいが」

思わずそんなことを言えば、男が一瞬虚をつかれたように目を開いた。
そして、安堵するかのようにふわりと笑う。
その表情だけで、エミヤの胸がきゅう、と締まった。
ああ、頼むからそんな顔をしないでくれ。本当に嬉しがっているような、そんな顔は。
多分、他意はないのだろう。
わかっている。わかっていても、エミヤの気持ちが追いつかない。
自分はなんだかんだ言い訳をしながら、男の側にいられる時間をいたずらに引き延ばしているだけにすぎない。
手に入ってしまった、この親しい友人のような関係を、まやかしだとわかっていても手放せないだけ。
さっさとエミヤがいなくなってしまえば、この男も解放されるのに。

「じゃあ、コーヒースタンドがあるらしいから、服選んだら、そこ行こうぜ!」
「わ、わかったから、引っ張るな!」

きっとこの男は、新しい商業施設にはしゃいでいるのだけだ。
そうでなければ、エミヤの手を引っ張って、駆け出す理由がない。
男の合わせるようになんとか足を動かしながら、そっと男の顔を盗み見る。
青い髪が照明に照らされ、ふわりと揺れる。その澄んだ目は、ずっと遠くを見ている。
それは、とても綺麗な生き物だった。

見なければよかった。
自分の汚らわしさが浮き彫りになったようで、エミヤはそっと目を伏せた。



男が壊した指輪の弁償の為、新しい指輪を買ってきた。
だが。

「……入らないのだが」

男の買ってきた、何の装飾もないシンプルすぎるリング。
それは少し小さかったのか、エミヤの指の節で引っかかり、それ以上入らない。

「そんなことないだろ。貸せよ」
「いっ、痛い痛い痛い!無理矢理押し込むな!この馬鹿力が!」
「悪い悪い。でも、ほら入っただろ?」

男の言うように、一番太い関節の部分さえ過ぎれば、あとはするりと下まで入った。
白金色に光るリングが、男の手でエミヤの左手の薬指におさまる。
似合うじゃねぇか、と男は笑った。

まるで恋人に贈るようなそれに、なんだかエミヤは泣きたくなった。



薄暗い部屋で、ぼんやりとエミヤは男を見上げる。
少し汗ばんだ白い肌は、いつもよりも扇情的だ。
気だるそうに長い髪を掻きあげる男に、エミヤの腹が浅ましく締まったような気がした。

「アーチャー」

男の声が、どろりと闇に溶ける。男の手が、エミヤの頬に触れる。
唇に熱が落ちてきて、エミヤはそっと目を閉じる。
湿った音を響かせながら、男の舌がエミヤの口に入ってきた。
ただただ、男と舌を絡ませ続ける。

今日、エミヤは自分を抱こうとする男に、その必要はない、と言った。
魔力は自分で何とかする。泊めた礼の分なら、もう十分にもらっている。気にするのであれば、血でも唾液でも適当に提供してくれたらいい。欲の発散も、それを商売にしているところに頼めばいいし、君ならば一夜限りの相手も簡単に見つかるだろう。君が、そこまで面倒を見る必要はない。
そう伝えたのだが、男は頑なに了承しなかった。
言えば言うほど男はだんだんと不機嫌になっていき、そのまま強引に抱かれてしまった。

一体どうしたのだろうか、とエミヤは思う。
まさか、自分の体をそこまで気に入ったとでも言うのだろうか。
確かに男の体は女とは違い、柔らかくもいい匂いもしないが、その男でしか味わえない快感に病みつきになり、抜け出せなくなってしまう者もいるらしい。自分の体も、その類のものだったのだろうか。
だとしたら、エミヤは心だけではなく、体まで浅ましかったらしい。
自嘲で唇が歪んだ。

「アーチャー」

口付けが終わり、男の顔が離れていく。
青い髪が垂れ下がり、まるで檻のようにエミヤを囲む。
その美しい絹糸がエミヤの首に絡まり、そのまま息を止めてくれたらいいのに。
だが、そんな面倒を男にかけるわけにはいかない。
自分の始末は、自分でつけなければ。

「俺に飽いたか?」

不意に落とされた男の言葉に、エミヤはわずかに目を開く。
そんなこと、天命に誓って有り得ない。
男への想いは、今もエミヤをぎりぎりと締めあげる。
男を見るたび、男と言葉を交わすたび、体を重ねるたび、エミヤはその温もりに押し潰されそうになる。
男へ抱いてしまった想いが大きすぎたせいだ。それを生み出したはずのエミヤ自身が耐えられなかった。
だから、エミヤは消えることを望んだのに。

「さあな」

飽きた、と言えば、この男は誇りを傷付けられたと躍起になる可能性もある。だから、正面から否定はできなかった。
でも、この答えでよかったのだろうか。
エミヤは何が正しい選択なのか、もうよくわからなかった。
ただ、好きになっただけだった。よくあるただの片思いだ。それが、どうしてこんなぐちゃぐちゃとした醜いものに変わってしまったのだろう。
好きになってしまったのだから仕方がない、と開き直れるだけの強さがあれば違ったのか。それとも、うじうじと悩む前に、さっさと自分の喉笛を掻っ切れていれば、この男もエミヤに付き合わせずに済んだのだろうか。

エミヤの答えに、男はきつく眉を潜め、再びエミヤの唇に噛み付いてきた。
差し込まれた男の舌の熱さに、エミヤはそっと目を閉じた。



「そういえば、川釣りは行かないのか」

風呂上がりのゆったりとした時間。
髪をタオルで拭きながら、お気に入りのクッションに腰掛け、テレビを見ている男に声をかける。
男とはじめに約束をした日からだいぶ経った。
結局その当日は雨で行けなかったのだが、いくら日が過ぎても、男から新たな日が提案されることはなかった。

「あぁ、そのうちな」

男がテレビから目を離さずに答える。

「なんだ、興味が失せたのか」
「そんな訳じゃねぇよ。ただ」

そこで、男は黙ってしまった。
なんとなく思いつめた雰囲気のある男に、エミヤは眉をひそめる。
少し前、カレンダーに上機嫌で予定を書き込んでいた男の姿が蘇る。
あれだけ楽しみにしていたのに、何か障りがあったのだろうか。
ただ、いつも飄々としている男のそんな表情は珍しかった。テレビに視線を向けてはいるものの、多分見てはいない。何かを必死に考えているようだった。

エミヤは無言で冷蔵庫に近付き、真ん中の引き出しをがらりと開けた。
溢れ出した冷気が、ひやりとエミヤの手を冷やす。
そこにあった箱を掴んで男に近寄り、その首筋に押し当てた。

「冷たっ!なんだよ!」
「アイスだ」

エミヤが持っていたのは青い箱で、表面には牛の絵が描かれていた。小さなミルクの棒アイスの詰め合わせだ。10本入り198円。今日はスーパーでアイスが安かったので、思わず買ってしまったのだ。

「ミルク味しか無いがね。食べるか?」
「……食う」

バリバリと箱を開け、そのうちの2本を引っ張り出し、ひとつを男に差し出す。
エミヤは箱を冷凍庫に戻した後、白いアイスを包んだでいるナイロンを剥がしてゴミ箱に捨て、男の隣にクッションを持ってきて、腰を下ろした。
とろりと溶けるアイスクリームが、風呂上がりの火照った体をほんの少し冷やしてくれた。

「うまいな」
「あぁ。風呂上がりに食べるアイスは格別だろう」

2人でテレビの前に並び、アイスクリームを舐める。
サーヴァントとは思えない、なんと平和な光景だろう。まるで、ただの学生のようだ。
なんとなく自分たちの学生服姿を様子を想像して、エミヤは思わず口の端を上げた。

「何、笑ってんだ?」
「いや、なんでもない」
「何だよ。気になる」
「大したことではない。並んでアイスを食べるなど、まるで学生のようだと思っただけだ」
「学生ねぇ」

ぺろり、と男がアイスを舐める。赤い舌が白く染まっているのが、ちらりと見えた。

「あれ、毎日朝から学校行かなきゃいけないんだろ?面倒くさそうだなぁ」
「基本的にはそうだな。大学とかならば自分でカリキュラムを組むこともできるが」

言いながら、学生生活を送る男を思い浮かべる。
多分、高校生だろうが、大学生だろうが、この男はとんでもなくモテるだろう。その気高さや美しさ、男らしさで人を惹きつけ、学校中の人気者になっていそうだ。
きっと自分は、そんな男に。

そこまで考えて、エミヤはアイスに噛み付いた。
場所や立場が変わろうとも、多分、自分はこの男に恋をしてしまうのだろう。
もしかしたら、過去の現界でも、自分は同じように不埒な想いを抱いてしまっていたのかもしれない。
なんとなく、そんな気がした。

そのエミヤが焦がれてどうしようもない男は今、エミヤの隣で風呂上がりの格好のまま、棒アイスを咥えている。
手を伸ばせば触れる距離に、男はいる。

「ランサー」

エミヤの声に、男がこちらを見る。

「ん?なんだ?アーチャー」

呼びかければ、応えてくれる。耳障りのいい落ち着いた声が、静かにエミヤに届く。
思わず、エミヤは目を細めた。
愛しい男がこんな近くにいて、声をかければこちらを見てくれる。手を伸ばせば、触れることもできる。
もしかしたら、自分は今、おそろしく幸福なのかもしれない。
初めてエミヤはそう思った。

「アーチャー?」
「……口の周りが凄いことになっているぞ」

ぶわりと湧き上がる何かを誤魔化すように、エミヤは素っ気なくティッシュの箱を取り、男に渡す。
受け取った男はエミヤの顔を見て、ふき出すように笑った。

「お前も付いてるぞ」
「そんなわけないだろう」
「いやいや、髭みたいになってるって」
「嘘をつけ」
「嘘じゃねぇよ」

ほら、ここ、と男がアイスで差したのと、エミヤがティッシュを取ろうとしたタイミングが運悪く重なり、べちゃり、と間抜けな音を立てて、エミヤの頬にランサーの持っていたアイスがぶつかった。

「あ」

褐色の肌に、不自然な白い線ができる。
エミヤの額に、ぴしりと青筋が立った。

「貴様、わざとだろう!」
「いや、悪ぃ!偶然だって、偶然!」
「食べ物で遊ぶとか何事か!いらないのなら、こうしてくれる!」
「遊んでねぇよ!あ!てめぇ、今俺のアイス食ったな!」
「ふん、食べ物でふざけた罰だ」
「ふざけんな!食った分返してもらうぞ!」
「ちょっ、あー!私はそんなに食べていない!食い過ぎだ!」
「てめっ、また俺の食いやがったな!」

そっちが食べた分の方が多かったと、くだらないことをぎゃんぎゃんと喚きながら、さして大きくもない棒アイスを互いに齧り合う。1箱10本入りで198円、1本あたり約20円。こんなことで怒鳴りあうなど、安い喧嘩だと思う。
だけれども。

「ははっ」

なんだかエミヤは楽しかった。
こんなくだらないことで笑いあえるまでに近づいた距離が、どうしようもなく愛おしかった。
ああ、もしかしたら今が『いちばん』なのかもしれない。
これから先、これ以上のものを感じることはないだろう。
それくらい、エミヤの胸は不思議な充足感で満たされていた。

突然笑い出したエミヤに、ランサーは驚いたように目を丸くした。
その隙に、エミヤはアイスを持っている男の手を掴み、残っていた溶けかけのアイスをばくりと全て食べた。
一瞬の間の後、男が、ああっ、と悲鳴を上げる。

「隙を見せるからだ、馬鹿者」

ニヤリと笑ってやれば、ランサーがきょとりとした後、その美しい顔に奇妙な表情を浮かべた。
さっきまでの怒鳴り合いの名残か、頬は赤く紅潮し、何か言うために開かれた口は、結局意味のある言葉を吐き出さずに、そのまま閉じられた。
悔しげにも、恥ずかしげにも見える男の器用な表情に、エミヤはもう一度声を上げて笑った。



今日も告白された。
最近はどうしたのだろう。エミヤはまた、頻繁に女性に告白されるようになった。
薬指には男からもらった指輪がはまっている。あの日無理矢理入れたせいか、外れなくなってしまったのだ。それを言い訳に、ずっと指輪はエミヤの薬指にある。
指輪があるのに、あまりに告白されるので、何かの呪いでも自分にかかっているのかと、こっそり柳洞寺にいるキャスターに相談しに行ったが、そんな気配はないと言われた。

エミヤに告白してきた女性は、皆控えめで、聡明そうな女性ばかりだった。
今日告白してくれた女性もそうだった。エミヤが断った後も、震える手を自分で握り、覚悟はできていたので大丈夫です、と気丈に笑顔を作った。

「わかっていたんです。でも、せっかく生まれた気持ちなんだから、吐き出してやってもいいんじゃないか、と言ってくれる人がいて、それで、つい自分の気持ちを伝えたくなってしまったんです」

そう眉を下げて笑う彼女の目からは、今にも涙が溢れてしまいそうだった。

「そうか……。まぁ、友人と盛り上がってしまうこともあるだろう」

なんとなくそうフォローすれば、彼女は、友人ではない、と首を横に振って否定した。
どうやら、よく行く店の店員が彼女の話を親身になって聞いてくれたらしく、そこで背中を押されたそうだ。

「本当に綺麗でかっこいい人だったんです。この人が言うなら、伝えてもいいのかもしれない。そんなことを思ってしまいました。その人のせいにするつもりはありません。全部私が選んだことです。私が、そんな素敵な人に応援されて、勝手に舞い上がってしまったんです」

綺麗な青い髪の店員さんでした。
静かな彼女の言葉に、エミヤは目を見開いた。



「何が目的だ」

夕食中、テーブルに並べられた料理から顔を上げずに問う。
少しの沈黙の後、テーブルの向かいに座る男は、よく気付いたな、と言った。
エミヤの家にあるダイニングテーブルは小さな正方形型で、そこまで広いものではない。今までもここで男と食事をしてきた。だが、すぐ向かいに座っている男がこんなに遠くに思えたのは、これが初めてだった。

「質問の答えになっていない。今日の女性だけではないな。最近私に告白してきたのは、貴様に囃し立てられなかったら告白をしようと思わないような大人しい女性達ばかりだった。どうして、彼女達を不必要に傷付けさせる必要があった」

どうして、自分に彼女達を振らせたのか。
エミヤは箸を置き、男を睨みつけた。
生姜焼きを頬張っていた男が、ゆっくりと顔を上げる。

「だって、お前、座に還ろうとしていただろ」

男の目は、ゆったりとした湖の水面のように静かにだった。

「嬢ちゃんがいなくなった今、何かお前を繋ぎ止めるモンが必要だ。恋仲になる女でもいれば、お前も考えも改めるかと期待していたが、俺が薦めた女、全員振りやがって」
「当たり前だ。好きでもない女性と付き合うつもりはない。それに、サーヴァントの身で女性と付き合っても、最終的には悲しませるだけだ」
「だから、そんなクソ真面目なお前でもグラつきそうな、美人で控えめで健気なお嬢ちゃんを選んでやっただろ」

その言い草に、無性に腹が立った。
この男は知らないのだ。告白する彼女達が、どのくらいの勇気を振り絞ってエミヤの前に立ったか。差し出した想いを受け取られないことが、どれだけ辛いか。いくら想っても、自分の想いが相手に届かないことが、どれだけ悲しいか。
気付けば、エミヤは椅子を蹴り倒して立ち上がり、怒鳴っていた。

「そんなくだらないことに他人を巻き込むな!そもそも、私が座に還ろうとも貴様には関係ないだろう!なぜ、こんなことをした!」

それは腹の底から出た、エミヤの疑問だった。
他人を巻き込んでまで、この男は一体何がしたかったのか。
エミヤの怒号を静かに受け止めたランサーが、ゆっくりと口を開く。

「それは」

開いた口が、一旦迷うように閉じられる。
何か期待していたわけじゃない。下心があったわけじゃない。ただ、純粋な疑問だった。
男の口が再び開いた。

「……嬢ちゃんに頼まれてたんだよ。お前が座に還りそうだから、見ておいてくれって」
「凛に……?」

ああ、と男は頷いた。
凛が旅立つ前日、彼女はランサーを呼び出し、エミヤの監視を頼んだそうだ。
自分がいなくなれば、もしかしたらエミヤは座に還ってしまうかもしれない。だから、その様子を見ていてほしいと。
その瞬間、エミヤはようやく今までの男の行動に得心がいった。
男が妙にエミヤの近くいたのも、魔力をくれると言ったのも、全部、エミヤを座に還らせないようにする為だったのだ。

不意に喉が震え出す。喉だけじゃない。エミヤの体全体が、小刻みに震えていた。
それが怒りだけのせいだったか、わからない。
どうして。どうして自分はこんなの動揺しているのか。
わからない。わかりたくもない。
混乱するエミヤの口が勝手に開いていく。
これ以上聞かないほうがいいのはわかっている。それなのに、止まらない。

「凛に頼まれたから、私の様子を見る為に、この家に来たのか?」
「っ、アーチャー」
「いいから答えろ、ランサー。凛に頼まれたから、私の側にいたのか?」

有無を言わせないエミヤの言葉に、男が諦めたように、ゆっくりと口を開く。

「……ああ」

男の返事に、ぱきり、とエミヤの心が砕かれた。
エミヤを外食に誘ったのも、共に家事をしたのも、買い物にでかけたのも、川釣りに誘行こうと言ってくれたのも、くだらないことで笑いあったのも、エミヤを抱いたのも。どれもこれも全部、エミヤを座に還らせないようにする為で。
今までの男の行動は、凛との約束を忠実に守っていただけ。そこに男の意思はない。
もちろん、エミヤに何か特別な感情を抱いていたからでもない。
その瞬間、自分が無意識に男に何かを期待していたことに気付き、エミヤは死にたくなった。

「なんだ、そうだったか」

荒れ狂う心とは裏腹に、口から出た声は、驚くほどいつも通りだった。



「今日はバイトに行かないのか?」
「ああ」

珍しくずっと家にいる男に、エミヤは声をかけた。
外は晴天。気温も、ちょうどいい。
出かけるには最適な日である。

「暇なら、どこかに遊びに行ってはどうだ?それこそ、釣りにでも」

男はエミヤの言葉を遮るように、行かねぇ、と呟いて、ごろりとテレビの前に横になった。
長い髪が、ぱさりと床に落ちる。

「……別に今まで通り、四六時中見ている必要などないだろう」

念のためそう言ってみるが、男からの返事はない。
実際、この男は自分の監視の為にここにいたとはいえ、ちょくちょくアルバイトなどで外出していたのだ。今更まじめに監視しようと心を入れ替えたのだろうか。それとも、昨日のことで、エミヤが自暴自棄になって消えると疑っているのだろうか。
だとしたら、見当違いもいい所だ。
エミヤは男を説得するのを諦め、キッチンに向かった。

「今日の昼食にうどんでも作ろうと思うが、温かいものと冷たいもの、どちらがいい?」
「……冷たいやつ」

ボソリとした声が返ってくる。
全く、この男は一体なにに落ちこんでいるのか。
落ち込みたいのはこちらの方だというのに。
昨日、エミヤはこの男の真意を知った。
この2人での生活は、全部男が凛との約束を守るためにしていることだと聞かされた。
それでも、エミヤは今日もいつも通りの生活を送っていた。
あの後もふつうに風呂に入り、男の隣に布団を敷いて眠った。朝もいつものように起きて、共に食事も摂った。
何もかも、いつも通りだ。さすがに魔力供給はしなかったが。

「アーチャー」
「なんだ?」

不意に呼びかけられ、男を見るが、しばらく待っても男はこちらを背にしたまま何も言わない。
一体何なのか。苛々して、嫌味のひとつでもぶつけてやろうとした時、男がガバリと体を起こした。
赤い目が、久しぶりにこちらを見る。
それが、迷うように一瞬揺らいだ。

「……あー、やっぱり温かい方でもいいか?」

うどん、と言う男に、エミヤは溜め息を吐く。

「……了解した。珍しく優柔不断だな。体調でも悪いのか?」
「そういうわけじゃねぇよ」
「なら、いいが」

明らかに戸惑うような空気を出す男に背を向け、エミヤは冷蔵庫から食材を取り出す。
多分、男はエミヤがいつも通りなのを訝しんでいるのだろう。
だが、さすがに次の日に当てつけのように消えるほど、エミヤは馬鹿ではない。

早く消えたい。
早く、早く、早く、早く。
その為に、ちゃんと機会を窺わなくては。
エミヤは静かに、その決意を固めていた。



「じゃあ、出かけてくる」
「わかったから、さっさと行け」

玄関でこのやり取りをしてから、数分が経った。
出て行くと言いながらも、男はじとりとエミヤを睨んでいる。
どうやらマスターから急な呼び出しが入ってしまったらしく、どうしても出かけなくてはならなくなったそうだ。

「いいから行け。いつまでグズグズしているつもりだ」
「すぐに行く。なぁ、アーチャー」
「なんだ」

男の目が探るようにエミヤを見る。
正直エミヤは、この目が苦手だった。
溜め息を吐き、エミヤは眉間に指を当てる。

「……今日の夕飯は何がいい?」
「は?」
「いいから答えろ」
「……餃子」
「明日バイトは?」
「……ある」
「じゃあ、ニンニクの抜いたものを作っておく」

そう言うと、ランサーの表情がほんの少し安堵するように和らいだ。
男は、よくエミヤに夕食をリクエストしてきた。はじめは随分と食い意地が張っているのだなと思っていたが、今ならわかる。あれは、約束でエミヤを縛っていたのだ。
果たさなくてはいけない約束があるうちは、エミヤが消えることはない。そう思われているのだろう。
だから今、エミヤは男に夕飯を提案した。夕食までは消えない、と暗に示したのだ。
なんと自分はこの男に甘いのだろう。

「本当だな?」
「ああ」

エミヤが頷いたのを見て、男はすぐに帰る、と言い残し、ようやく玄関から出て行った。
ひとり残されたエミヤは深く息を吐く。

日に日に男の監視が強くなっている気がする。
多分、それだけエミヤの行動を警戒しているのだろう。
エミヤとしては、凛との約束が発覚した後も、いつも通り過ごしているつもりだ。だが、あれだけ男が警戒するということは、おそらく表情か態度からエミヤの目論見が漏れているのだろう。
だからと言って、エミヤも消えるのを今更やめるつもりはない。

いっそ、もうここで首を切るか。
なんとなくそんなことを考え、左手に剣を投影しようとした時、突然扉が激しく叩かれた。
エミヤの体がびくりと跳ねる。
慌てて扉を開ければ、傘を忘れた、と先程出て行ったばかりの男があっけらかんと立っていた。
偶然にしては恐ろしい。
男が再び出て行った後、なんとなく気になって部屋中を探してみたが、監視カメラの類やルーン魔術の痕跡は見つからなかった。
考えすぎか、とエミヤは胸を撫で下ろし、このチャンスを逃さない為に準備を始めた。



エミヤが選んだのは、郊外にある、人気のない山林だった。
とは言っても、中に入りすぎれば、アインツベルンが張っている結界に引っかかってしまう。
だからその手前にあって、人も滅多に通らないこの場所にした。

深い緑の下で、エミヤの手の中から一本の剣が生まれ、光の粒になって消えていく。
本当は宝具でも放つか、一息に首をかっ切ろうと思っていたのだが、木々の隙間から差し込む穏やかな日差しに、なんとなくそんな気分にならず、だらだらと魔力を消費して、静かに消える道を選んだ。

本当はもっと早くここに来る予定だったが、餃子作りのせいで、思ったよりも時間がかかってしまった。
作った餃子のうち、焼いたものはラップをしてダイニングテーブルの上に、焼く前のものは冷凍庫に入れてきた。そっちの方は明日以降、好きな時に焼いて食べればいい。焼き方の簡単なメモも置いてきた。餃子にあうような卵とキクラゲの中華スープも作ってある。これは温めればすぐに食べることが出来るだろう。米も、男が帰ってくる時間に合わせて炊き上がるように炊飯器を予約しておいた。あとは、男が食べられるような常備菜もいくつか作って、冷蔵庫に入れてある。
これで準備は万端だ。
餃子ではなくカレーとかだったら、もう少し早く動けたのに、と、エミヤは最後まで思い通りにならなかった男に、溜め息を吐いた。

初めから、こうすればよかったのだ。
次々と投影されては、地面に落ちて消えていく剣を眺めながら、エミヤは考える。
結局、自分はランサーの目があるから、などと言い訳しながら、現状に甘え続けていただけだった。近付いていく男との距離が心地良く、そこに浸ってしまった。
だから、無関係の女性達を巻き込んでしまったのは、全部エミヤの弱さのせいだ。もっと早くにエミヤが決断していたなら、彼女達も余計な傷を負わなかっただろう。ランサーも、彼女達をけしかけたという罪悪感を抱かなかったし、エミヤに魔力を与える為に、わざわざ体を重ねる必要もなかった。
あの男は凛との約束を守る為に、自分の体を差し出していたのだ。そう考えると、なんと健気な男なのだろう。頼んだ凛だって、まさかそこまで男がするとは思っていなかっただろうに。
ランサーの為にも、女性達の為にも、エミヤはもっと早く消えるべきだったのだ。

ぽろぽろと剣が生まれては地面に落ち、消えていく。
念のため、凛宛に手紙を遺した。今までの礼と、全部エミヤの優柔不断さが招いたことなのだから、あの男を決して責めてくれるな、とだけ書いた。
テーブルの上にでも置いておけば、なんだかんだ面倒見のいいあの男が、凛に渡してくれるだろう。中を見るなんて野暮は、きっとしないはずだ。

剣が地面に落ちるたび、体がどんどん軽くなっていく気がする。
そして、ついに、あの日のように、エミヤの目の前がくらりと霞んだ。
立っていられなくなり、エミヤはその場に座り込む。
それでもエミヤは、剣を投影するのを止めなかった。

早く消えてしまいたい。
彼女達を傷つけてしまった自分も、あの男の態度に甘えてしまった自分も、男の言葉に傷付いてしまった自分も、全部無かったことにしてしまいたい。

『凛に頼まれたから、私の側にいたのか?』
『……ああ』

なんのことはない。あの男は約束を守っただけ。
その為に体まで張ったのだ。よほど凛との約束を守りたかったのだろう。
何を自分は期待していたのか。馬鹿馬鹿しい。
本当に愚かだ、と小さくエミヤは笑った。

ふと、指先が光の粒子となり、解けていっていることに気付く。
魔力が減り、いよいよ実体化しているのが難しくなってきたのだろう。
もう限界が近い。
エミヤの視界にうつるのは、消えていく己の手と、男からもらった指輪だった。
ああ、きっと今なら、この指輪も外れるかもしれない。
そうでなくとも、指が完全に消えてしまえば、物体である指輪はエミヤの体を通り抜け、地面に落ちてしまうだろう。
そしてエミヤが消えた後も、ここに取り残される。
それは、なんだかひどく、もったいない気がした。

この指輪は、偶然とは言え、唯一男からもらった物だった。
気持ちはもらえなかった。だからせめて、これだけでもエミヤは持っていたかった。
座にまで持っていくことは不可能でも、消えるぎりぎりまで、少しでも長くエミヤの側に置いておきたかった。
残っている指の根元を使って、なんとか指輪を外す。
抜け落ちるように取れたそれを、消えかけの手のひらに乗せ、エミヤは己の口に放り込んだ。
硬い異物が、痛みと共に喉を通る。
ああ、なんと女々しいことだろう。
こんなことしても、あの男は手に入らない。
この指輪も、結局はここに置いていくことしかできないのに。
でも、せめて、消える最後の一瞬まで、エミヤは持っていたかった。触れていたかった。
ただ、それだけだった。

きっと、こんな平和な現界など、もうこの先ありはしないだろう。
敵であるあの男と仲良く笑い合うだなんて、随分と呑気なことをしてしまった。挙げ句の果てに、恋をしてしまうなど。
こんな記憶を座に持ち帰っても、本体のエミヤは、ありえない記録だと、首をかしげるだろう。
なんだこれは、この分霊は一体何をしているのか、と。
その様子を想像すると、なんとなく笑えてきた。

ああ、意識が遠くなる。
自分が何を考えているのか、もうよくわからない。
木々の隙間から漏れる光が、だんだんと弱くなっていく。
そろそろ夜になるのか。それとも、エミヤの目が見えなくなってきているだけなのか。
霞む頭にぼんやりと浮かんだのは、あの青色だ。
次に会うのは、きっと敵だろう。
それでいい。それくらいが、ちょうどいい。
でなければ、今みたいに、エミヤは愚かな勘違いをしてしまうだろう。
消えそうな意識の中、果たしていなかった約束をひとつ思い出す。

川釣りは、ちょっと行ってみたかったなぁ。

そう呟いたはずなのに、もう、声は出なかった。













「嘘つきめ」











ざく。ざく。ざく。
音が聞こえる。
前にキャベツの千切りを作った時も、似たような音がしたのを思い出す。
これはなんだろう。自分は一体、どうなったのだろう。

エミヤはゆっくりと目を開ける。
見えたのは、白い肌。そして、ひとつに結ばれた青い髪だ。
反射的に体を起こそうとしたが、不思議なことに全く力が入らない。いくら力を込めても、だらりとぶら下がった指先が、ぴくりと動いた程度だった。

エミヤは、唯一動く目で周囲を見た。
どうやら、まだ林の中にいるようだ。
ただ、あたりはすっかり暗くなっており、木々の隙間から見える藍色の空に、白い星がいくつか光っている。
聞こえていた、ざく、ざく、という音は、地面に積もった落ち葉を、男の足が踏みしめる音だったようだ。
その音に合わせて、男に背負われているエミヤの体も上下にゆっくりと揺れている。

どうやら自分は失敗してしまったらしい。
男の背中に体重を預けた状態で、エミヤは自身の状態を悟った。
今のエミヤの体には、男の魔力が染み渡っている。おそらく、エミヤが意識を失った後、完全に消える前に男に発見され、何らかの方法で魔力を与えられたのだろう。

やっと消えられると思ったのに。
みっともなく生きながらえてしまったことに、エミヤは静かに絶望した。

「……おろしてくれないか?」
「断る」

男からの返答は、素っ気ないものだった。
ならば、と霊体化を試みたが、何かの力が働いているのか、上手くできなかった。

「あれだけ魔力を失くしてたんだ。俺から渡せるだけ魔力は渡したが、それでもぎりぎりだった。あと数日は、まともに動けないと思え」

霊体化ができないのも、それが原因なのだろうか。
エミヤの位置から、男の表情は見えない。確かに男の言う通り、指一本しか動かせないこの状態では、逃げても、すぐに捕まってしまうだろう。

「……やはり、はじめに霊核を壊すべきだったか」
「ああ、それだったら俺は間に合わなかっただろうな」
「そうか。次はそうしよう」
「次なんかあるわけねぇだろ」

男がひどく苛立ったような口調で言った。

「くそが。なんで消えようとすんだよ。嬢ちゃんだって寂しがるだろ。お前に告白した奴らだって、みんなお前を好いてんのに」

それは本当にありがたいとは思う。
でも、それでも、エミヤは消えてしまいたいと思ったのだ。

「どうしてだよ、アーチャー。どうして」

男がぽろり、と落としたのは、心底途方にくれているような声だった。
それもそうだろう。エミヤがこの調子では、ランサーは凛との約束は守れない。
だからこそ、エミヤは一刻も早く男の前から消えるべきだったのだ。この男に、余計な傷を残さない為に。
落ち込んでいる男に申し訳なく、エミヤはそっと口を開いた。

「凛には君は精一杯やってくれたことは伝えておく。一切の非はなかったと。それで十分だろう」
「十分なわけねぇだろうが。お前、本当にふざけてんのか。あんな手紙、渡される身になってみろ。あれだけじゃ、何にもわからねぇよ」

男の言葉にエミヤは目を瞬かせた。
つまり、彼は凛宛の手紙を見たのだろうか。
てっきり見ないと思っていないのに。正直、意外だった。

「他人宛の手紙を読むとは、ケルトの英雄は随分とマナーが良いようだな」
「うるせぇ。お前が消えたんだから、手がかりになりそうなもの全部見るに決まってんだろ」

憎々しげに男が吐き捨てる。

「なぁ、もっと書き残すことなかったのかよ」
「……労いの言葉が足りなかっただろうか」
「そうじゃねぇだろ!」

乱暴な言葉と共に、男の足がぴたりと止まる。

「なんかもっとあるだろ!こうしたかったとか、ああしたかったとか、遺書ならもっとそういうこと書けよ。そうしたら俺だって、お前の望むことがわかったかもしれないのに」
「別に遺書のつもりで書いていない。それに」

わかったから、どうだと言うのだ。
溢れた言葉は、想像以上に冷めきっていた。

「わかったところで、貴様にはどうしようもない」
「……もしかしたら、叶えられるかもしれねぇだろ」

悔しげな男の言葉に、エミヤはそっと目を伏せる。
それは無理なんだ、ランサー。
声を出さずに、エミヤは呟く。
エミヤの望みは、すでに叶えられている。
ずっと憧れていた男に近付くことができた。共に食事をし、買い物に出かけ、くだらないことで笑い合い、まるで友人のように言葉を交わした。
体も重ねられたのだ。
これ以上、エミヤは何を望めばいいのかわからない。

「私の望みは叶っている」

この男に近付きたかった。この男に触れたかった。さらさらと揺れる青い髪。あの感触を知りたかった。
目の前にある青色に、そっと頬を寄せる。
今のエミヤは、それを知っている。

「だから、もう十分なのだ」

頬に触れる男の髪の感触に浸りながら落とした言葉は、そのまま静かに夜に漂った。
胸いっぱいに広がる充足感。触れている腹から伝わる男の熱。匂い。
知ることなどできないと思っていたそれは、今ここにある。
エミヤはもう十分に満たされている。

「なぁ、ランサー」

男の足は立ち止まったまま、ぴくりとも動かない。
きっと側から見れば、なんと間抜けな光景だろう。大の男をおんぶした男が、森の中で立ち止まっているなど。

「君は、なかなかに情が深い。だから、凛との約束の為に、自分の身まで差し出してくれたのだろう。だが、そろそろ自分を大事にした方がいい。君がこれ以上犠牲になることはない……、っ!」

突然足に走った痛みに、エミヤの言葉が止まる。
ランサーがエミヤの足を掴んでいる手に、思いっきり力を入れたのだ。
まるで、逃がさないと言うかのように。

「黙れ、弓兵」

ようやく聞こえた男の声は、地獄の底から這い出てきたような低いものだった。なにかを堪えるように、男の喉がぐるぐると鳴っている。
もしかしたら、見くびられたと怒っているのかもしれない。
でも、エミヤは言わなくてはいけない。
エミヤは男の指が足に食い込む痛みに耐えながら、必死に言葉を紡いだ。

「これ以上、私に関わる必要はない。私をここに捨てていけ。君はよくやった。私も感謝している。凛にもそう伝える。だからもう」
「黙れと言っている!」

男から巻き上がった怒気が風となり、ざあっ、と周囲の木々を揺らす。
激怒している男とは裏腹に、エミヤの心は悲しみで溢れていた。
ああ、もっと早く自分が決断していたら、こんなにも男を惑わせることもなかったのに。
その申し訳なさから、エミヤは口をつぐんだ。
いっそ怒り狂って、自分を殺してくれないだろうか。でも、男の手にかかるなど、それはそれでこの身に余る栄誉だろう。自分にはきっと、野垂れ死ぬ方が似合っている。

「帰るぞ」
「ランサー」
「お前は、俺と帰るんだ。あの部屋に」

そう言って、男が再び歩き出す。
あの部屋。エミヤが借りている小さな部屋。何もない部屋だったが、男が転がり込んできて、共に過ごすようになって、物がだいぶ増えた。クッションも、布団も、予定がたくさん書き込まれたカレンダーも。男と過ごした夢のような時間が急速に蘇り、エミヤの喉が小さく鳴った。
ああ、駄目だ。あの家に帰ったら、自分はまた流されてしまうかもしれない。男とまたくだらない話をして、食事をして、買い物をして、体を重ねて。エミヤはまた男に面倒をかけてしまう。浅ましく、その立場に甘えてしまう。今に、縋ってしまう。
その自分の醜さに、エミヤは恐怖した。

「ランサー、頼む、おろしてくれ」

体は動かない。男の背から、無理矢理おりることもできない。霊体化も不可能。だから、エミヤは恥も外聞もか殴り捨てて、みっともなく懇願することしかできなかった。

「嫌だ、ランサー。私は戻らない。戻りたくない。頼む、ここに捨てていってくれ」
「ふざけるな。誰が捨てるか。首に縄つけてでも連れて帰ってやる」
「ランサー、私を連れ帰っても、君に何の利もない。食事か?今日の餃子は冷凍してあるし、いくつか常備菜も作っておいた。しばらくはそれで保つだろう。その間に自分で料理を覚えるか、料理上手な女性でも捕まえるといい。それに君に連れて行かれた店はどれもこれも美味しかった。その嗅覚があるのなら、いつでも美味い食事にありつける筈だ」
「……」
「ダッチワイフにしても、もっと性能の良いものは沢山ある。そもそも、君は見目がいいんだ。一夜の相手に困ることもないだろう。だから、ランサー。私をここで捨てていけ。凛と約束を守りたい気持ちもわかるが、これ以上君が面倒を背負い込む必要はない」

いくら言葉を投げかけても、男からの返事はない。男の手が緩まる気配も。
どうしたら男はエミヤを捨ててくれるのか。
エミヤの中の焦りが増していく。
早くしないと。このままでは本当に連れ戻されてしまう。
嫌だ、もう嫌だ。これ以上醜い自分を晒したくない。こんな自分を見せたくない。
焦りから、男への説得の言葉も、だんだんと子どもじみたものに変わっていく。
頼む、すまない、嫌だ、帰りたくない、戻りたくない、ランサー、ランサー、ランサー。
聞き分けのない子どものように言葉を繰り返すが、男の足は止まらない。それどころか、エミヤが呼びかけるたび、どんどん歩くスピードが上がっていく。

「ランサー」

どうか、どうか。
早く見捨ててくれ。こんなもの、捨てていってくれ。
お願いだ、ランサー。
ランサー。

「あーーーーーーーーーーーっ!俺だって嫌だ!この馬鹿野郎が!」

何度目かの呼びかけで男が足を止め、ついに限界というように大声を張り上げた。
嫌なら捨ててくれたらいい。エミヤだって、嫌がる男の側にはいたくない。それができないというのなら、何か呪いの類でも凛にかけられたのだろうか。
エミヤにはわからない。だから、もう一度、ランサー、と男の名を呼んだ。呼ぼうとした。
だが、その声も、男の慟哭に掻き消される。

「俺だって、お前の望みなら叶えてやりてぇよ!お前の好きにさせてやりたいと思う!好きにさせるべきだと思っていた!でも、それは、それだけは駄目だ。お前が消えるのだけは」

はくり、と男が喘ぐように声を出す。

「嫌だ。俺だって嫌なんだ、アーチャー。お前が消えるのは嫌だ。嬢ちゃんとの約束云々じゃなく、俺が嫌なんだ。だって」

まだ川釣りに行ってない、と男は言った。

「他にも行きたいところはあるし、今日の餃子だって、お前と食ってねぇ。風呂上がりに食うアイスもうまかったし、雨の中、買い物行くのも悪くなかった。お前と、あんな風にはしゃぐのは嫌いじゃなかった」

エミヤは呆然として、男の声に耳を傾ける。

「嫌だ。消えるな、アーチャー。俺と一緒に帰ってくれ。俺はまだお前といたい。足りない。全然足りないんだ、アーチャー。これは俺のエゴだ。わかっている。お前が消えたいのに、それを無理に留めているのは、ただのエゴだ。初めは、俺もお前の好きにさせるつもりだった。お前の邪魔をするつもりなどなかった。嬢ちゃんだってそうだ。俺にお前を見ていてくれ、とは言ったが、座に還るのを止めてくれとは言わなかった。お前を無理矢理留めるつもりはない、ただ消える前にどういう風に過ごしていたのかを知りたくて、嬢ちゃんは俺にお前の様子を見ていてくれと頼んできたんだ」

英国に旅立った少女の顔が頭に浮かぶ。
ああ、やはり彼女にはお見通しだったのか。
それでもエミヤの意思を尊重しようとしてくれた彼女の優しさに、心の中で感謝する。
ならば、一体どうして、男は体を差し出してまで、エミヤをここに留めようとしたのだろう。それこそ、遠坂凛との約束の反古になるのに。

「あの日、俺が教会を追い出されたのは偶々だった。嬢ちゃんに見ててくれって言われたし、ちょうどいいや、とお前の家に上がり込んだ。……お前との生活は、正直、悪くなかった。飯もうまかったし、小言もそんなに気にならなかった。お前との買い物も、意外と楽しかった。お前がいなくなるのは惜しいとは思ったけど、お前がそうしたいのなら仕方ないと思っていた。だから、最後に美味いラーメンを一緒に食べて、それで大人しく見送ってやるつもりだったんだ。でも、お前、よりにもよって、その直前で倒れやがって」

男の言葉が、だんだんと苦しげなものになってくる。まるで何かを悔いているようだった。

「それまで俺は、嬢ちゃんからお前が座に還るかもしれないと言われても、どこか半信半疑だった。でも、魔力がなくなりかけてるお前を見て、本当にこいつは消える気なんだと思った。そう思ったら、頭の中が真っ白になった。まだ駄目だ。だって、まだラーメンを食べていない。あのラーメン、めちゃくちゃ旨かったから、絶対お前に食べさせてやりたかった。俺はあの1週間、お前に世話になりっぱなしだった。俺があれだけお前に美味いもの食わせてもらったのに、俺はお前に何も返せていない。やられっぱなしは癪だし、俺だって、ひとつくらいお前に何かをしてやりたかった。だから、消える前に、どうしてもあのラーメンを食って欲しかった。本当に、ただの礼のつもりだった。それさえできれば、俺はそれでよかったんだ」

だから、魔力をお前にやった、と男は言った。

「魔力供給も、あの一回きりにするつもりだった。でも、あの後、食べに行ったラーメン屋で、お前はあまり美味そうにしてなかったから、ラーメンじゃなくて違うものにしようと思った。どうせだったら、お前が美味いと満足してくれるものがいい。だから、それを食べさせるまでは、なんとかしてお前を引き止めておく必要があった。魔力をやるって言ったのも、店に来た女達を煽って告白させたのも、お前がここにいる時間を少しでも引き伸ばしたかったからだ。お前は女に甘いし、あんな健気な告白をされたら、お前も気が変わって、座に還るのをやめるかと思った。そうすれば、俺はその間、お前と過ごすことができる。他人を巻き込むのは良心が痛んだが、俺はどんな手を使ってでも、お前といる時間を伸ばしたかった。嬢ちゃんとの約束を無視していることはわかっていた。だが、あと少しだけだから、と、俺はお前を引き止め続けた。はじめは、ただの意地だと思っていた。お前が美味いって言うものをどうしても食べさせたくて、でも、それがなかなか叶わなくて、意地になっていると。だが、違った。違ったんだ、アーチャー」

何が、と男に問うた。
だが、出た声は思った以上に小さくて、男に届いているかはわからない。

「気付いたのは、あの雨の日の後だ。そもそもあの川釣りの目的は、お前に美味い魚を食べさせることだった。ちゃんぽんは思ったより普通だったし、焼肉に行ってもお前は肉じゃなくて魚を食べてたから、だったら、釣った新鮮な魚をその場で焼いて食べた方が美味いと思って、川釣りに誘ったんだ。あの日は雨で行けなかったが、その後も行こうと思えば、いくらでもチャンスはあった。でも行ったら、俺はお前を引き止める理由がなくなる。俺はお前が消えるのを、黙って見ていなくてはいけない。そう思ったら、もう駄目だった。確かに、お前に美味いものを食べさせるという目的は達成される。でも、まだ足りなかった。他にも美味いものは沢山ある。この前服を買いに行ったビルの上のレストランも、まだ行ってない。お前と行ってないところが、まだたくさんあるんだ。だから、俺はまだお前を座に還したくない。還せない。まだ足りないんだ。飯だけじゃない。やりたいことも、話したいこともたくさんある。どんなくだらないことでもいい。なんでもいいから、もっとお前と話していたい。もっともっと、お前のそばにいたい。だって、好きなんだ、アーチャー」

この男は何を言っているのだろう。
言葉は聞こえてくるが、意味が理解できない。
もしかしたら魔力不足で、幻聴を聞いているのかもしれない。
ああ、その可能性はありそうだ。人間でも、酸素不足になると幻覚を見るという。きっと今エミヤが聞いているのも、その類のものだろう。
でなければ、男がこんなことを言うはずがない。

「指輪だって、あんな形じゃなくて、本当はちゃんと渡したかった。でも、俺が告白しようもんなら、お前は驚いて、それが引き金になって座に還るかもしれない。そう思うと何も言えなかった。抱くのだって、魔力供給だなんて言わずに、ただお前を愛したかった。愛していると言って、お前に触れたかった」

ああ、なんと幸せな幻聴なのだろう。
今この瞬間にエミヤは消えてしまいたいと思った。
男に愛されている幻を抱いて、眠ってしまいたい。
そんな思いを胸に、エミヤはそっと目を閉じた。
休息を必要としていた体は、あっという間にエミヤを眠りの底に引きずり込む。

「ずっと、お前が好きだった。もっと側にいたかった。愛しているんだ、アーチャー」

だから、この世界からいなくならないでくれ。

愛しい男の声を遠くに聞きながら、エミヤは甘やかな夢に浸る。
最後に見えたのは、男の美しい青色だった。




おわり

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消すにはもったいなかった、蛇足感たっぷりの短いランサー視点→

Comments

  •  ぱ
    November 24, 2025
  • かきピー
    August 13, 2025
  • March 22, 2022
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