Post
スポーツとトランスの話になると、しばしば「男の方が身体的に優れているから男女一緒にはできない」ということを言う人がいますが、
スポーツって、単に裸で体の「強さ」や「優等性」を競うようなものではないのですよ。あらゆる「不合理」に見える行動制限を貸し、それをいかに克服して「目的」を達成するかを競うゲームです。
例えば、サッカーの目的は四角い立体にボールを入れること。でもその目的のためにキーパー以外は手を使ってはいけない、オフサイドをしてはいけない、相手に体当たりしてはいけない等、たくさんのルールがあります。
「腕力が強い人が勝つ」スポーツも、ルールで「勝ち」がそう決められているからです。
つまり、スポーツでは何が有利で不利かはルールで決められている、作られたものだということです。バスケットボールだって、ゴールもっと低くすれば、背が低い選手だって活躍できるようになる。バレーボールも然り。
男女の身体差も、ルール設定やスポーツの作り方によって有利不利を変えることが可能です。でも男性身体が「平均的」には有利になるよう設計されているのが近代スポーツ。
だからスポーツで男性が有利だから「身体的に男の方が優れている」と解釈するのは、そう思いたい人のファンタジーだし、差を生み出す構造を見ず、身体の優劣に矮小化する優生思想。
でもそのファンタジーが強いからこそ、スポーツは政治利用される。
典型的な男女の身体には、平均的に見れば違いがあります。
同時に重なりも例外も多くあります(エリート選手なんて基本例外ばかり)。
にも関わらず、男女を全く異なるものとし、有利不利を生み出す構造を変えようとせず、完全な分離によって「女性を守ろう」とすることは、性差別であり、優生思想に繋がります。
歴代ファシスト政権だけでなく、家父長制やレイシズムを基盤とする国家はスポーツに力を入れますし、その力点は、Sports for allではなく、メダル数に置かれます。
トランス排除型の「女子スポーツを守れ」、は家父長制を守れ、と同じです。トランプの大統領令がそれを嫌というほど見せつけています。