司馬遼太郎は「なんとおろかな国にうまれたことか」と…絶筆『この国のかたち』に込めた真意を磯田道史が読み解く【没後30年】
司馬遼太郎が文藝春秋に連載した随筆『この国のかたち』。没後30年を迎えた今、歴史学者の磯田道史氏が、その魅力を語った。 【写真】この記事の写真を見る(2枚) ◆◆◆
「司馬遼太郎の絶筆」の裏テーマ
司馬遼太郎さんの『この国のかたち』は、この国に大きく響いた随筆です。大蔵省を財務省に変えた省庁再編時も時の首相が「この国のかたち」を変えるといい、野党もその首相の不信任案で「21世紀の『この国のかたち』という言葉とは裏腹に」と批判しました。もともとこの連載は「文藝春秋」の「巻頭随筆」で1986年3月号から96年4月号まで10年に亘って書かれたものです。司馬さんは96年の2月9日に第121回の原稿を書き終えた後に吐血し、3日後に72歳で急逝されたので、『この国のかたち』が絶筆です。 司馬さんはこの連載で、日本はどのような国なのかを様々なテーマで探っています。信長・秀吉・家康から神道や朱子学、仏教、統帥権までテーマは多彩ですが、裏には一貫したテーマがあります。敗戦時に司馬さんは嘆きました。そして、こう決意しました。この国を再び誤らせないためにこの国を調べて書こう、と。『この国のかたち』第1巻の「あとがき」に次のように書かれています。 終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。 (むかしは、そうではなかったのではないか) と、おもったりした。むかしというのは、鎌倉のころやら、室町、戦国のころのことである。 やがて、ごくあたらしい江戸期や明治時代のことなども考えた。いくら考えても、昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭(か)けものにして賭場(とば)にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようにはおもえなかった。 ほどなく復員し、戦後の社会のなかで塵(ちり)にまみれてすごすうち、思い立って三十代で小説を書いた。 当初は、自分自身の娯(たの)しみとして書いたものの、そのうち調べ物をして書くようになったのは、右にふれた疑問を自分自身で明かしたかったのである。 いわば、二十二歳の自分への手紙を書き送るようにして書いた。
【関連記事】
- 「5隻や10隻うしなっても…」東郷平八郎は“捨て身”の覚悟を決めていた 『坂の上の雲』の“名シーン”敵前大回頭の裏事情《日露戦争の謎を解く》
- 歴史的ベストセラー『坂の上の雲』の魅力 東郷平八郎の実像、日露戦争の戦艦と兵器、司馬遼太郎のロシア観…
- 「おう、また当たった!」敵艦に弾が命中すると子どものように喜んだ…司馬遼太郎が描かなかった“人間くさい”東郷平八郎《坂の上の雲》
- 「人類史上例を見ない大変化を、庶民の眼から見ると…」宮本輝と磯田道史が語り合った“幕末・明治”という時代《初の歴史小説に挑戦》
- 「誰かが隠してる!」大塩平八郎の乱、大正の米騒動でも繰り返された“コメ不足と陰謀論”の関係【磯田道史×門井慶喜】