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晴れの日、雨の日、傘の下/Novel by 田中M

晴れの日、雨の日、傘の下

35,308 character(s)1 hr 10 mins

仲違いしていた幼馴染の槍が、怪我で一時的に目が見えなくなってしまい、その間、正体を隠してお世話する弓の話。
2ページあります。

※現パロです。
※細かいことはスルー推奨。特に怪我については適当です。信用しないでください。
※みんな女々しい。
※無駄に長い。
※なんでも許せる方向け。

それでもよければお読みください。

ーーーーーーーーーーー
気付けば20本も小説をかいていたことに驚きです。
読んでいただき、本当にありがとうございます。

1
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その報せがエミヤにもたらされたのは、大学のテスト期間が終わり、夏休みに入った最初の日曜日。
明るい日差しの下、のびのびとした気持ちで買い物に出かけた、その帰りだった。

今日はバイトもない。夕食に何を作ろうかと頭の中でレシピを検索している時、エミヤがひとり暮らししているアパートの前に、長身の男が立っていることに気付いた。
背中まで伸びる青い髪に、赤い目の男。
それはエミヤにとって、ひどく懐かしい顔だった。

「…もしや、キャスターか?」

恐る恐る声をかけると、彼はこちら気付いて手を挙げた。

「よぉ、アーチャー。久しぶりだな。元気だったか?」

懐かしいあだ名に、エミヤの記憶が過去に引き戻される。
幼い頃、アイルランドからエミヤの実家の近くに移住してきた兄弟がいた。
全員が夏の空のような青い髪と、紅玉のような赤い目を持つ、とても美しい兄弟だった。
彼はそのひとり、長男のキャスターだ。
エミヤがまだ高校生のころ、就職のために都会に出て行き、それ以来会っていなかった。
そんな彼が、どうしてここにいるのだろうか。

「元気だが…。それより、こんなところでどうしたんだ?よく私の家がわかったな」
「お前の親に聞いたんだよ。ちょっと頼みたいことがあってな」
「私にか?」
「ああ。ランサーのことで」

ランサー。
その名で、エミヤの中の苦い記憶が蘇る。
彼ら兄弟の中でエミヤが1番よく遊んでいたのが、次男のランサーだ。エミヤにアーチャーとあだ名をつけたのもこの男だった。
同い年ということもあり、小学校、中学校とそこそこ仲が良かったが、高校で進路が違えて疎遠になった。今では連絡先も知らない。

「…さらに懐かしい名前が出たな。彼がどうかしたのか?」
「あいつ、昨日事故にあっちまってよ。ちょっと怪我したんだ」
「事故だと…?!怪我は大丈夫なのか?!」

ざぁっとエミヤの体温が下がる。
慌てふためくエミヤと対照的に、キャスターは落ち着いていた。

「命に別状はない。昨日は念のため病院に泊まったが、今日から自宅療養だ。だが、ちょっと面倒なことになっちまって、お前の力を借りたいんだ」
「私の?保険関係か、もしくは損害賠償に関することか?どちらにせよ、ただの教育系の学生である私では力になれないと思うが…」

困ったように答えると、違う違うとキャスターは笑った。

「お前さんに期待してるのはそういうことじゃねぇよ。なに、簡単なことだ。明日から5日間、あいつの世話を頼みたいんだ。もちろん礼はする」
「世話だと?」

一体どういうことだと、エミヤは眉をひそめた。


込み入った話になりそうだったので、とりあえずエミヤはキャスターを部屋に通した。
エミヤがひとり暮らししている部屋は、小さな1Rだ。床が畳なのと、築年数の割にキッチンが新しいところが気に入っている。
その中心に置かれているローテーブルの前にキャスターを座らせ、冷たい麦茶を出す。
喉が渇いていたのか、彼はそれを一気に飲んでから、事の経緯を話してくれた。

「あいつ、大学2年になって仲良くなった奴らと旅行に行ってたんだが、乗っていた車にトラックがぶつかってきて事故ったんだと。まぁ、そこにいた奴らは多少怪我を負ったものの全員命に別状もなく、保険関係の手続きも済んで、ランサー本人も至って元気なんだが」

ちょっと面倒なことになっちまって、とキャスターがぼやく。

「面倒なこととは?何か言いがかりでもつけられているのか?」
「いや、そうじゃない。あいつ、割れたガラスで両目ともまぶたをスッパリ切っちまってな。縫ったはいいが、次の土曜日に抜糸するまで、目を開けられなくなっちまったんだ。そんな状態だから、ひとりじゃ生活できねぇんだよ」
「何だって…!」

想像よりも、はるかに重いランサーの怪我に、エミヤは言葉を失った。

「まぁ、眼球は無事だったから失明の心配はない。それが救いだな。本当は俺が面倒みられたら問題ないんだが、さすがに5日も仕事は休めないんだ」
「家族の看護よりも仕事とは。とんだブラック企業だな。転職を勧める」
「まぁ、そう言うな。代わりに定時で帰らせてもらう約束は取り付けた。で、そこでお前に、抜糸までの平日の5日間、ランサーの世話を頼みたいんだ」
「…世話と言われても…」

突然のことに、エミヤは口ごもった。
たしかに、エミヤとランサーは家が近かったこともあり、幼い頃から仲良くしていた。
だが、それも中学までだ。高校が離れて疎遠になり、エミヤが大学進学のために都会に出て、ひとり暮らしをしている今、ほとんど交流はない。
同じく進学で都会に出てきたランサーが、就職のため、先にこちらに来ていたキャスターとふたり暮らしを始めたことも聞いてはいたが、それは本人からではなく、エミヤの親からの情報だ。
同じ都会で暮らしてはいるものの、エミヤはランサーはおろかキャスターにさえ、今日まで会ったことはなかった。

「その、なぜ私なのだ?私は今の彼のことは全くわからない。彼なら大学にたくさん友人がいるのだろう?私ではなく、そちらを頼った方がいいのではないか?」

ランサーのことは確か心配だ。手助け出来ることがあるのなら何でもしたいと思う。
だが、エミヤが関わることを、きっと彼は嫌がるだろう。
彼と昔あった事を思い出し、エミヤは唇を噛み締めた。

「正直言って、あいつの今の友人なんか俺は知らねぇ。安心して任せられそうなのは、お前しかいなかった。それにお前、昔から掃除洗濯炊事完璧だっただろ。ヘルパーにはうってつけじゃねぇか」

なっ、と明るく同意を求めてくるキャスターに、エミヤは申し訳なさそうな顔をした。

「…君がどこまで聞いているかは知らないが、私と彼はもう昔のような仲ではない。私は、彼に合わせる顔がないのだ。それに私に世話されるなぞ、彼が嫌がるだろう」
「その心配なら要らねぇ。なに、顔を合わせなければいいんだろう?」

にまりと笑うキャスターに、エミヤは猛烈に嫌な予感がした。




キャスターの車に揺られること20分。
駅から少し離れた閑静な住宅街の中に、2人の暮らすマンションはあった。
それは10階建の、綺麗な真新しい建物だった。
意外と近場に彼らが住んでいたことに、エミヤは正直驚いた。

つやつやに磨かれた床のエントランスを通り、エレベーターに乗せられ、着いた先は9階だった。
2人で住んでいるだけあり、彼らの部屋は、玄関からしてエミヤの部屋よりもはるかに広かった。

「今帰ったぞー」

キャスターが、中に声をかけながら玄関で靴を脱ぐ。
リビングに続く廊下を歩くキャスターの後ろ姿を眺めながら、エミヤも黙って靴を脱いだ。

あの後、キャスターにあれやこれや言いくるめられ、結局エミヤは彼の世話を引き受けることになった。
それで終わるかと思ったのだが、「じゃあ、今日は顔合わせな」と押し切られ、こうしてランサーがいるという彼らの部屋まで連れてこられたのだ。
自分の流されやすさに、思わずため息が出る。
すると、前にいるキャスターが振り向き、しぃ、と唇に指を当てた。
わかっている、と返事をする代わりに、ひとつ頷きを返す。
ここでエミヤは声を出してはいけない。
なぜなら、ランサーの世話をするのは、あくまでエミヤではないからだ。

リビングに続く扉が、がちゃりと開けられる。
広々としたリビングには、ソファやテーブルセットが綺麗に置かれていた。
端に置かれた大きなテレビには、最近流行りのドラマが映っている。
その前に置かれたソファに、寝そべる男がひとり。
キャスターと同じ長い髪をひとつにまとめ、目には白い包帯が巻かれている。
その彼の風貌を、エミヤは忘れたことはなかった。
記憶よりも身長が伸び、体つきもしっかりした気がする。
あの包帯の下には、意志の強い、赤い美しい目があるのだろう。

ああ、ランサーだ。
不意に込み上げてきた懐かしさを飲み込み、エミヤは音を立てないようにぎゅっと唇に力を込めた。

「いろいろやってたら遅くなっちまった。なんかあったか?」
「いんや、何も。見えないこと以外は問題ねぇよ」

ぶすりとふてくされたような声。
久しぶりに聞いた彼の声だ。
ランサーはエミヤがいることなど知らずに、キャスターに話しかける。

「つーか、ヘルパー見つけるって本気なのか?俺は別にひとりで構わねぇが」
「俺が構うんだよ。心配すんな、ちゃんと見つけてきたから」

な、とキャスターがこちらを見てきて、困ったエミヤはとりあえず頷いた。

「は?まじで?」
「おう、今も俺の横にいるぜ」
「まじで?!」

ランサーが慌てて跳ね起き、ソファの背にしがみつく。

「おい、連れて来てんなら言えよ、キャスター!今、見えねぇんだから!」
「悪い悪い。じゃあ挨拶させるわ」

キャスターは怒鳴るランサーを適当にあしらい、エミヤにちらりと目配せした。
エミヤは頷き、手に持っていたスマホでアプリを起動する。そこに文字を入力して、再生ボタンをタップした。

『はじめまして。1週間、よろしくお願いします』

部屋に響く機械的な男の声に、ランサーは頬を引攣らせた。

「おい、キャスター。からかってんのか、てめぇ」
「違う違う。こいつは俺の会社の後輩なんだが、お前が目を開けられないように、こいつも1週間、声出せねぇんだよ」
「は?どういうことだよ」

ランサーが訝しげに眉をひそめる。

「なんか喉の手術を受けたばかりなんだと。で、そんな奴に仕事させるわけにはいかねぇだろ。仕事にもならねぇし。だが、こいつは働きたいってゴネてよ。なら、お前の世話でもさせとこうかって」
「はぁ?!」

喉を手術して声が出せない会社の後輩。
それが、キャスターの考えたエミヤの設定だった。
戸惑うランサーにキャスターがたたみかける。

「こいつは頭の回転も早いし、掃除も料理の腕も申し分ない。ふつうにヘルパー申し込むと大抵女が来るが、それより同性の方がお前だって気が楽だろ。それに俺のお墨付きだから信頼はできる。素晴らしい。win-winじゃねぇか」
「それは俺にとってというより、お前にとってだろうが」

ランサーは呆れるようにため息を吐いた。

「仕事で使えねぇ奴を俺のところに振ってくんじゃねぇよ」
「なに言ってんだよ。こいつの飯を5日間食い続けられるんだぞ。俺がその役目代わりたいくらいだわ」
『…一応、夕食はキャスターの分も一緒に作るつもりだが』

アプリに入力して機械に話させると、キャスターは目を輝かせてエミヤを見た。
その表情に、ふとキャスターは昔からエミヤの作る料理を気に入ってくれていたことを思い出した。

「まじで?!5日と言わず、ずっと家にいてくれてもいいんだぞ」
「てめぇ!それ、てめぇがこいつの飯食いたいだけだろ!」

ランサーが吠えると、キャスターは悪い悪い、とけらけら笑った。

「いいじゃねぇか。俺だって、こいつの飯食うのは久しぶりなんだよ」
「…そんなにうまいのか?」

少しランサーが興味を持ったように身を乗り出してきた。
キャスターがにまりを笑って頷く。

「あぁ、アーチャーの飯くらい美味いぞ」

その名を出した瞬間、ランサーの雰囲気が明らかに変わった。
目が隠されているから分かりにくいが、ぴり、と彼のまわりの空気が張り詰めた。
突然の変化に、エミヤはうろたえた。
やはり彼は、まだエミヤのことを怒っているのだ。
そんな険悪な様子を意にも介さず、キャスターが青い顔をしているエミヤに明るく話しかける。

「あぁ、悪い、お前は知らないよな。アーチャーっつうのは俺らの幼馴染で」
「キャスター」

ランサーの固い声がキャスターを遮る。

「そいつの説明はしなくていい。…わかった。明日から飯とかはそいつに頼めばいいんだろ?」

よろしくな、とランサーは乱暴に言い放ち、話は終わりだと言うように、ソファに再び寝転んだ。
困惑しながらキャスターに目を向けると、彼は大げさに肩をすくめた。
本当に、明日から自分が彼の世話をしてもいいのだろうか。
不安で揺れるエミヤの肩をキャスターが軽く叩き、持っているスマホを指差した。
エミヤは戸惑いながら、もう一度慣れない手つきでアプリを操作する。
『よろしくお願いします』という機械の声が、広い部屋に響いた。




次の日は、夏らしい快晴だった。
昨日、ランサーの世話をすることが決まってから、エミヤはバイト先に連絡して5日間休みをもらった。今は夏休みで、他にシフトに入れる大学生が何人もいたため、エミヤの希望はすんなりと通った。

朝から来て欲しい、とキャスターに言われていたため、エミヤは早めに朝食を食べてから、家を出た。
調べてみると、彼らの家には歩いて1時間くらいで行けることがわかったので、運動がてら徒歩で通うことにした。
朝なら、暑さもそこまで厳しくない。

とことこと歩きながら、エミヤはぼんやりとランサーのことを考える。
彼とは、高校入学直前で疎遠になった。昨日会ったのは、実に4、5年ぶりだった。
エミヤも彼も大学2年になった。
正直、今更、彼とどう話していいのかわからない。前の自分が、いったい彼とどう話していたのかすら、よく覚えていない。
覚えているのは、自分が彼にどうしようもないほど惚れていたということだけだった。


エミヤとランサーは出会ってから徐々に仲良くなり、小学校に上がる頃には、親友といってもいいほどの関係になった。
2人はよく喧嘩もしたが、それは本当にいがみ合っていたからではなく、本音でぶつかり合っていたからだ。逆にエミヤには、そこまで素顔を晒け出せる存在はランサーしかいなかった。
この頃から、エミヤにとって、ランサーはすでに特別な存在だったのだ。

エミヤが己の恋心に気付いたのは小学校6年生の頃。
その頃から、ランサーが女子と仲良く話していると、異様に気になるようになった。
なんの話をしているのだろう。どうしてそんなに楽しそうに笑っているのだろう。
彼と親しげに話せる女子が、羨ましくて仕方がなかった。

そしてある時ふと気付く。自分が彼に友情以上の感情を持っていることに。
男が男を好きになる。その先のない想いにエミヤは絶望した。
だが、そんなエミヤに光を見せたのも、またランサーだった。

それはある日の放課後。
ランサーの家で、2人で並んでテレビを見ていたときのこと。
とある区で同性愛者の婚姻が認められるようになった、というニュースが流れてきた。
ランサーの恋心を自覚していたエミヤは、ほんの好奇心で彼に、同性愛について偏見はないのか、と尋ねてみた。
彼は少し考えた後、あんまり、と答えた。

『まぁ、俺の生まれた国は、ここよりもオープンだったしな』
『そうなのか』
『ああ。好きになってしまえば、男も女も関係ねぇよ。俺だって、もしかしたら男に惚れることもあるかもしれないし』

そう言って冗談めかして笑う彼に、エミヤは少しだけ安心した。
自分が一方的に思いを寄せたとしても、それだけで彼は自分のことを嫌ったりはしない。
幼いエミヤは、そう無条件に信じてしまった。
そんなことは、エミヤの都合のいい妄想でしかなかったのに。




ヘルパーまがいの仕事は、想像以上に大変だった。
出勤するキャスターと入れ替わるようにして彼らの家に入り、朝食の片付けをする。朝食はキャスターが用意してくれるので、そこまでやらなくていいと事前に言われていた。片付けが終われば洗濯物を干して、部屋を掃除する。
その次は昼食の用意。食事は彼が手づかみでも食べやすいようにと、具沢山のクラブサンドにしてみた。
あとは、なんだかんだ動き回ろうとするランサーを押しとどめつつ、彼が少しでも生活しやすいように部屋を整え、洗濯物を取り込んでたたみ、夕食の用意をしたところで、エミヤの仕事はひとまず終わりだ。
入浴や包帯の替えなどは、キャスターが帰ってきてからやるそうだ。
そのキャスターの帰宅を待って、入れ替わるようにして家を出る。
ようやく1日が終わった、とエミヤは扉を背にして、深い息を吐いた。

正直、彼と2人きりでどうしたらいいのかと悩んでいたが、彼はこちらのことを全く気にしていないようだった。
完全にヘルパーだと割り切ったようで、尋ねることには最低限答えてくれるが、それ以外はエミヤのことは無いものとして扱った。
その扱いに救われた部分もあったが、ほんの少しだけ、寂しさを感じた。



2日目も夏らしい快晴だった。
やるべきことがわかってきたせいか、昨日よりも少し余裕を持って動くことができたと思う。
そして改めて彼ときちんと言葉を交わしたのは、その日の昼食の時だった。

昼食は、牛丼とほうれん草のお浸し、それに持ちやすいようにマグカップに入れた味噌汁にした。
昨日は、手で食べられるものの方がいいのかと試行錯誤していたが、本人から、どこに何があるのかいってくれれば、メニューは手掴みじゃなくていい、と言われたので、それに従った。
彼の手を引いて料理の並べられたテーブルに案内し、料理の説明をする。

『右手側にお浸し、左手側にどんぶりがあります。味噌汁はこれです』

音声とともに彼の手を取り、マグカップに触れさせると、彼はわかった、と答えてくれた。
彼に箸を渡し、補助をしやすいよう、エミヤは彼の隣の席に腰を下ろす。そして、2人並んで手を合わせた。
ゆっくり皿を確認するように食べ始めた彼だったが、牛丼を一口食べた時、僅かに動きを止めた。
それを見て、エミヤがアプリに文字を入力する。

『なにか、味がおかしかったですか?』
「そうじゃねぇ。…いや、キャスターの言う通り、あんた美味い飯作るな、と思ってな」
『ありがとうございます』

彼から思わぬ褒め言葉に、戸惑いながらも言葉を返す。

「レストランでバイトとかしてたのか?」
『一応バイトもしていますが、もともと料理は趣味でしていたので』
「へぇ、そうなのか」
『強いて言うなら、高校からひとり暮らししていたからでしょうか』

とはいえ、実家にいた頃からそれなりに料理はしていたので、ひとり暮らししていたから料理が上手くなった、というわけではない。だが、そこで鍛えられたのは間違いないないだろう。
そういえば、まだ実家にいた頃、学校が早く終わった時は、おやつ代わりに、よくランサーに簡単な料理を作って振る舞っていた。山盛りの焼きそばとか、たくさんのおにぎりとか、今日のようなどんぶりとか。
あの頃はいくら食べてもお腹が空いていたものだ、と懐かしい思い出に、エミヤの頬が自然と緩んだ。

「ふぅん、高校からひとり暮らししてたのか?」
『はい』
「それって結構珍しいだろ。なんでだ?」

問われて、一瞬言葉が詰まる。
声が漏れないように、ぐっと唇に力を込め、エミヤはアプリに言葉を打ち込んだ。

『運動系の部活を中学からやっていて、それが強い高校に行きたかったので』
「へぇ、そこまでして行きたいもんなのか?」

彼からの問いの意味が分からず、アプリに文字を打ち込んでいた指が止まる。
それが伝わったのか、彼が悪ぃ、と小さく謝った。

「馬鹿にしたわけじゃない。俺の知り合いでも、高校からひとり暮らししてた奴がいたから、なんで近くの高校に行かなかったのか不思議でよ」

それは、エミヤのことだろうか。それとも、別の友人の話だろうか。
しかし、それを今のエミヤは彼に問えない。

『…アメフトなど、その競技の部活がある高校自体が珍しい場合もありますし、私のように、強豪校にどうしても行きたい生徒もいるでしょう』
「まぁ、そうだろうけど」

彼は不満そうに口を歪めた。

「…なんでもねぇ。つまんねぇ話して悪かった」
『いえ、こんなに話しかけてもらえたのは初めてだったので嬉しいです。お気になさらずに』

そう答えると、彼は少し虚をつかれたように、エミヤのほうを向いた。

『なにか?』
「いや、あんたがどんな顔してるのか見えないせいもあるんだけど、正直あんたのことがよくわかんなくてよ」

まぁ、それはそうだろう、とエミヤは思う。
ただでさえ表情が見えないのに、声も機械音に変えているから実態が掴みにくいのだろう。

『すみません。たしかに不安ですよね。聞いていただければ、答えられる範囲で答えますが』
「え、じゃあ、男だよな?」
『男です』
「だよな。手とか触った感じそうだった。歳は?」
『今年で20歳になりました』
「同い年じゃねぇか!なんで敬語なんだよ」
『一応、雇われているので…』
「んなもん気にすんな!タメ口でいい!」
『しかし…』
「その敬語、堅っ苦しいんだよ。すげぇ壁を感じる。少しくらい気を抜いてくれた方が、俺としても楽なんだが、だめか?」

眉を下げ、ねだるように言われ、エミヤの心がぐらつく。
少し悩んだ後、結局エミヤは了承する返事をアプリに入力した。

『…わかった。じゃあ、これで』
「おう、その方がいい」

満足げに笑うランサーに、胸がどきりと跳ねる。
あぁ、彼はこういう人間だった。
誰にでも気さくで、人のことをよく見て気遣ってくれる、優しい人だった。
だからこそ、エミヤは恋に落ちたのだ。

「そういや、今更だが名前を聞いてなかったわ。なんて呼べばいい?」
『今まで通り、ヘルパーでいい』
「そんなわけにはいかねぇよ。あ、言ったと思うけど、俺はランサーだ。よろしくな」
『こちらこそ』
「で、あんたをなんと呼べばいいんだ?」

その問いにエミヤは困ってしまった。
本名もアーチャーというあだ名もランサーは知っているから、その2つは名乗れない。
声を出さずに、どうしたものかと悩んでいると、ランサーの眉が再びへにゃりと下がった。

「…もしかして、あんまり言いたくないのか?」

申し訳なさそうな様子のランサーに、エミヤの良心が痛む。
苦肉の策として、エミヤはキャスターのせいにすることにした。

『すまない。実は、この仕事を受ける条件に、君に名乗らないようキャスターから言われている』
「そうなのか?」
『ああ、だから名乗れない』

キャスターには、後でそうランサーに言ったと連絡しておこう。
きっと彼なら、うまい具合に話を合わせてくれるはずだ。
人のせいにしてしまった罪悪感に襲われているエミヤとは反対に、ランサーはどこか納得したように頷いた。

「あー、あんたはあいつのお気に入りっぽかったからなぁ。そういうことなら、しょうがねぇか」

想像以上にあっさりと引き下がられ、逆にエミヤが驚いた。

『…納得してもらえたのか?』
「あぁ、あいつ、会社でどんな外面してるか知らねぇが、結構独占欲強いんだよ。お気に入りを俺に知られたくねぇんだろ」

忌々しいという感じで吐き捨てる様を、エミヤはポカンと眺める。
なんというか、知り合いの意外な一面を知ってしまった感覚だ。

「ま、あいつにも迷惑かけてるし、ここは聞かないでおいてやるか」
『すまない。助かる』
「気にすんな」

そう言って、彼は再び食事に戻った。
機械越しとはいえ、彼と普通に会話ができたことに、エミヤの胸には不思議な高揚感が広がっていた。
またこうして彼と話せる日が来るなんて。人生、なにがあるかわからないな、と、思いながら、エミヤも己の食事に集中しようとした時、不意に彼が口を開いた。

「…キャスターがお前を気にいる理由は、なんとなくわかる」
『そうなのか?』

彼はこくりと頷いた。

「あぁ、なんとなくだがな。雰囲気とか、作る料理の味付けが、俺らの幼馴染と似てんだよ」

どくり、とエミヤの心臓が跳ねる。
大丈夫だ、まだ、バレていないはずだ。
震える手で、アプリに文字を入力する。

『幼馴染とは女性か?』
「いや、男だ」

おそらく、それはエミヤのことだろう。
どくりどくりと心臓が激しく鳴り出す。

『その彼は、どんな人なんだ?』

尋ねると、彼が口元を歪めるように笑った。

「めんどくさい奴だったぜ。あいつも外面は良かったが、俺には言葉もキツくて、よく喧嘩した」
『そうなのか』

自分は何を期待していたのか。褒められるとでも思っていたのか。
聞いたことを後悔し始めたエミヤに、彼が追い打ちをかける。

「ああ。…本当に、ひどい男だった」

その言葉は、暖まりかけたエミヤの心を、容赦無く抉っていった。





3日目は少し雲が多かった。
それでも昼間の夏の日差しはきつく、冷房を入れていなければ暑さでへばりそうなほどだった。

昨日言葉を交わしたせいか、今日は朝からランサーによく話しかけられた。
多少は彼もエミヤの存在に慣れたのかもしれない。
今日の空模様や、テレビに映っているもののことを聞かれ、エミヤはそれにひとつひとつ丁寧に答えていった。

洗濯と掃除がひと段落し、そろそろ昼食の準備でもしようかという時、ふと彼の髪が目に入った。
いつもはひとつにまとめられてる髪が、今日は結ばれずに背中に散らばっている。
その様子が珍しく、エミヤは思わず尋ねてしまった。

『今日は髪を結ばないのか?』
「ん?あぁ、今日寝坊しちまってな。髪留めがどこにあるか、わかんなくなっちまった」

いつもはキャスターに髪留めを持ってきてもらっていたのだが、寝坊したせいで、そんなことを聞く余裕がなく、寝ぼけ眼で朝食を食べている間に、キャスターがばたばたと出勤していってしまったらしい。
どうりでさっき洗面所に入った時に、彼がいつも使っている髪留めが置き去りにされていると思った。
その話を聞いたエミヤの胸に、ふっと小さな欲が生まれる。

『髪留めなら、さっき洗面所にあった。とって来よう』
「本当か?助かる」
『その、それで、もし嫌じゃなければだが』
「ん?」
『…私が髪を結ってもいいだろうか?』

彼の美しい青い髪。
幼い頃はよく戯れに結わせてもらっていたが、成長するにつれ、その髪に触れることはできなくなった。
最後に触れたのは、一体いつのことだっただろう。

『実は、人の髪を結うのが結構好きなんだ。昔は妹の髪を結わせてもらっていたが、年頃になってからはできなくてね。君の綺麗な髪を見て、ふとそのことを思い出したんだ』

妹どうこうというのは真っ赤な嘘だ。エミヤには歳の離れた弟しかいない。
もしよければだが、とさらにアプリに打ち込もうとすると、その前に彼が、へぇ、そうなのか、と頷いた。

「別に構わねぇぜ。年頃の妹じゃなくて、むさい男でよければ、だが」

快く引き受けられ、エミヤの表情が、ぱぁ、と明るくなる。

『本当にいいのか?』
「別にそれくらい、いいぞ。俺も助かるし」

ほれ、とランサーが髪を差し出すそぶりをみせるので、エミヤは慌てて洗面所に行き、ブラシと髪留めを持ってきた。
その時のドタドタとした足音が彼の耳にも届いていたのだろう。
急いで戻ってきたエミヤを、彼はおかしそうに笑った。

「ははっ!そんな焦らなくても逃げねぇよ」
『す、すまない…』
「別にいーぜ。なんだ、お前。意外と子どもっぽいところもあんのな。なんか安心した」

にっと彼の口元が上がる。

ものすごく不謹慎かもしれないが、今、彼の視力が奪われていてよかった、とエミヤは思った。
きっと自分の顔は、言い訳できないくらい真っ赤になっているだろう。

ソファに座る彼の後ろに回り、するりとその髪に触れる。
指の間を通って落ちていく髪は滑らかで、あの頃のものと変わっていないように思えた。
両手が塞がっていてはアプリに文字を入力できないので、もったいないが急いで手を動かす。
ブラシで髪をとき、ひとつにまとめ、彼の銀色の髪留めで留めてやる。
ぱちん、という音が部屋に響くと、彼の手が確かめるように結ばれた髪に触れる。

「お、うまいな」
『突っ張るところや痛いところなどないだろうか?』
「いんや、大丈夫。もっと触らなくていいのか?」

にやにやと口だけで意地悪そうに笑う彼に、エミヤの顔がカッと赤くなる。

『もう満足だ。ありがとう』

平静を装いながら文字を打ち込むが、エミヤが真っ赤になっているのをわかっていると言わんばかりに、彼はけらけらと笑った。

「こんなものでよければ、いくらでも。それにしてもお前、妹がいるのか」
『ああ』

本当は弟なのだが。その弟は、今も地元で家族と暮らしている。

「妹、かわいいか?」
『まぁ』

弟は腹立たしいだけだがな、と胸中で返す。

「ふーん、俺の兄弟は男だけだからなぁ」

彼は4人兄弟だ。兄のキャスター、三男のオルタ、末っ子のプロト。
エミヤも実家にいた頃は、一緒に遊んだこともあった。
オルタとプロトは確か今、高校生と中学生くらいだろう。

「なぁ、妹とお前、似てるのか?」
『どうだろうか。歳も離れているし、性別も違うからな』

ちなみに弟は腹立たしいくらいにエミヤに似ている。
エミヤの答えに、彼がぼそりと呟いた。

「俺のところは、みんなそっくりだからなぁ」

その言い方が、ほんの少し気になった。
だが、再び彼にテレビの説明を求められ、結局その話はそこで終わってしまった。





4日目は、曇り空だった。
手に買い物袋とビニール傘を下げ、慣れてきた道を歩く。
見上げれば、今にも雨が降り出しそうな空がある。
こんな天気の日に思い出すのは、彼に失恋した時のことだった。


あれは中学3年の夏だったと思う。
彼が後輩の男子に告白されたという噂が広がったのだ。
その真意を確かめようと、学校帰りに彼の家に遊びに行った。
窓の外では、今日のような灰色の雲が、今にも雨を降らせようとしていた。

『本当だぜ』

TVゲームをしながら世間話を装って尋ねると、彼はあっさりと認めた。

『付き合うのか?』
『保留中』

さらりと返された答えに、エミヤの頭は真っ白になった。
彼は断っていないのだ。もしかしたら、その後輩と付き合う可能性すらある。
困惑するエミヤに、彼は画面を見たまま話し続けた。

『答えはわかっているが、それでも一晩は考えてくれって言われたんだ』
『…答えを先延ばしにして、それになんの意味があるんだ?』
『そんなの相手の勝手だろ』
『どうするんだ?』
『さぁな。それはお前に言うべきことじゃない』

それはそうなのだ。これはあくまで、彼と彼に告白してきたという後輩の問題で、そこにエミヤは口出しすべきではない。
わかっている。わかってはいるが、エミヤはどうしても気になって仕方がなかった。
女子ならば少しは諦めがつく。それはエミヤが想像していた未来のひとつだ。いずれそういう日が来ることは覚悟はしていた。
だが、同じ男となれば話は別だ。
そいつでいいのなら、自分だっていいのではないのか。
エミヤの中で名も知らぬ後輩への嫉妬が燃え上がる。
その炎はエミヤから冷静な思考を奪っていった。

『随分とお優しいことだ』

エミヤの口元が歪む。
何を言おうとしているのか、エミヤ自身もよくわかっていなかった。
ただ、羨ましい、と言う気持ちで、エミヤの頭はいっぱいだった。

『いやはや羨ましい。私も君に告白したら、そんなふうに優しくしてもらえるのかね?』
『は?なんの冗談だよ、気持ち悪ぃ』

燃え上がった炎が、一瞬で凍りつく。
エミヤの体も硬直した。
彼はエミヤの知らない後輩の想いには真摯に向き合ってくれるのに、エミヤの好意は『気持ち悪い』とはっきり言った。
お前からの好意は、気持ち悪いと。

ぐらりとエミヤの視界が歪む。
自分は一体何を勘違いしていたのだろう。
エミヤは、彼にたとえ自分の想いがバレたとしても、彼に嫌われないと無条件で思い込んでいた。
だがしかし、現実の彼はエミヤの想いを気持ち悪いと拒否した。
これは、男だから、女だから、という話ではない。
エミヤだから、自分だから、彼は気持ち悪いと言ったのだ。

そう気付いた瞬間、エミヤの心は砕け散った。
その胸の痛みを誤魔化すように何か言おうと口を開くが、エミヤの携帯の呼び出し音がそれを遮る。
電話に出ると、それは仕事に出ている母親からで、雨が降ってきたから洗濯物を中に入れてほしい、というものだった。
窓の外をみると、いつからだろう、ぱらぱらと雨が降っていた。
彼に事情を説明して、部屋を出る。
彼が珍しく玄関まで見送ってくれ、また遊ぼうと言ってきた。
そういえば彼とゲームの途中だったことを思い出す。
ああ、と返事をして、エミヤは扉を閉めた。

外に出ると、雨はますます酷くなってきた。
カバンの中に折り畳み傘があるのはわかっている。
だけれども、どうしてもそれを開く気にはなれなかった。

全部流れてくれないだろうか。
自分の醜い嫉妬も、彼が気持ち悪いと言ったことも、彼への想いも。
全部全部、流れ出てしまえばいいのに。
ひどい雨のせいで、気付けばエミヤの頬も、びしょ濡れになっていた。

その日、エミヤは、ここから離れた遠くの高校に進学することを決めた。



「今日は割と涼しいな」
『ああ、どうやら雨が降るらしいからな』

昼食の片付けをしながら、彼に答える。
彼はふぅん、と鼻を鳴らし、顔を窓の方に向けた。
その時、不意に聞き慣れない電子音が部屋に響いた。

「あ、俺のスマホだ。そういや、ずっと放っておいたわ」

キャスターからの連絡だろうか。
音の出所を探っていると、それはテレビ台の上に置かれていた。

『とりあえず見つけたが…』

着信音は未だ鳴り響いている。
表示されている名字は、エミヤの知らない名前だ。
ただ、それが女性ということだけはわかった。

「誰からだ?」

彼から尋ねられ、表示されてる名前を伝えると、彼はああ、と頷いた。

「一緒に旅行行った奴だわ。出るから貸してくれ」

彼が手を差し出してきたので、通話状態にして持たせてやる。

「お疲れさん。そっちの怪我の具合はどうだ?…おお、そっか、ひどくなくてよかったなぁ」

和やかに話す彼の声を聞いているのが気まずく、エミヤはそっとリビングを出た。
リビングと廊下にを繋ぐ扉を閉めてしまえば、彼の声は聞こえても、話す内容まではわからない。廊下で立ち尽くしながら、ぼんやりと電話の相手は彼女だろうか、と思った。

エミヤは彼と違う高校に行ったから詳しいことは知らないが、高校で彼はとてもよくモテたらしい。恋人も数人できたようで、その噂を家族から聞くたびに、エミヤの心は締め付けられた。
もちろん、エミヤは己の恋が叶うと思っていたわけではない。
だが、それでも自分の想い人が誰とも知らない女性を愛していることを想像するだけで、嫉妬で吐きそうになった。
何が女だったら我慢できる、だ。そんなものは嘘だった。
結局、自分は彼が誰かものになるのが、どうしようもなく嫌なのだ。
彼の恋の噂話を聞くたびに、どうして自分では駄目なのだと、ぶつけようのない衝動を、何度も己の胸の中で殺した。
それでも、エミヤの彼への想いは消えることなく、今でもこうして燻り続けている。

「おーい、終わったぞ」

彼の声に意識が戻される。
余計なことを考えてはいけない。
今は、彼の手助けをすることだけに集中しないと。

扉を開け、部屋に戻ると、彼がこちらに向かって手を振ってくれた。
彼の目には真っ白い包帯が巻かれている。
見えていないからこそ、相手がエミヤだとわかっていないからこそ、彼はこうして優しく笑顔を向けてくれるのだ。
そのことを、きちんと自覚しておかなければいけないのに。

「終わったぜ。別に部屋から出なくても良かったのに」
『話を聞かれるのは嫌かと思って。それに、恋人からの電話かと…』

なのに、彼に聞かずにはいられなかった。
聞いたところで、どうせ傷つくだけなのに。
そんなエミヤをランサーは笑い飛ばした。

「違う違う、一緒に旅行行ったメンツの中では俺が1番重傷だったから、気になって連絡してきたんだと。見舞いに来るっつーから、断ってたんだ」

その発言に、正直エミヤはホッとした。

『そうなのか、てっきり恋人かと…』
「違ぇって。お前も、女と一緒にいればデキてるって思うタイプか?」
『そういうわけじゃない。だが、君は美しいし、恋人がいるのが自然かと思ったんだ』
「まぁ、女にモテねぇっつったら嘘になるが、今はいねぇよ」
『そうなのか。君なら、相手に困ることはないだろうに』
「女なら誰でもいい訳じゃねぇよ。いくらモテても、そういうのは本命に振り向いてもらえなきゃ意味はねぇだろ」

その言葉に、どくりと心臓が跳ねる。
もうやめておけ、これ以上は聞かないほうがいい。
わかっているのに、エミヤの指は止まらない。

『いるのか?本命が』

そう尋ねると、彼は一瞬止まった後、ゆるりと笑った。

「あぁ、高校からずっとな。俺の片想いだ」

高校時代。エミヤがそばにいなかった頃の話だ。
その相手を思い出しているのだろう。愛しそうに彼が笑う。
ああ、ほら、聞かなければよかったのに。
エミヤの体から熱がすっと抜け落ちた気がした。
指だけが勝手に彼に質問を打っていく。

『…意外だな。百戦錬磨かと思っていた』
「そんなわけねぇだろ!ずっと俺は負け越してんだ」
『君ほどの男を夢中にさせるなど、きっと相手も素敵な人なのだろうな』
「…そうだな」

思い出すように、また彼が笑う。

「…俺にとっては、かけがえのない奴だった」

ちょっとお前に雰囲気似てるかもな、と彼がおどけて言う。
そんなもの嬉しくない、と返せるはずもなく、そうか、という機械の声だけが部屋に響いた。


予報通り夕方から雨が降り出し、彼の家から帰るときには風も強くなっていた。
風と雨の音を聞いたランサーは心配そうにし、帰ってきたキャスターは車で送ると言ってくれたが、ひとりになりたい気分だったので断った。

一歩出た外は、まるでエミヤの荒れ狂う胸の内を表すような、ひどい天気だった。
風に煽られた雨が、容赦なく体に当たる。
今にも壊れそうなビニール傘を握りしめ、エミヤは暗い夜の道をひとり歩いた。

彼に好きな人がいた。
忘れられない人がいた。
彼と離れてもう5年。
中学の時は恋人がいなかった彼も、その間で大人になった。きっと忘れられない恋をしたのだろう。
エミヤが逃げている間に、彼はそんな恋をした。ただそれだけのこと。

こんな日が来ることはわかっていた。
その筈なのに、エミヤの心は傷ついた。悲しかった。
失恋などとうの昔にしたと思っていたのに、自分はまだ彼に失恋していない気分でいたのか。
自分の呑気な頭に反吐がでる。

さらに強い風が吹いて、傘がしなる。
この傘も、もう駄目かもしれない。せめて家まで持ってくれたらいいが。
ひどい現実から目をそらすように、ぼんやりと思い出すのは、彼にエミヤの進路がバレた日のことだった。


それは、卒業式の前日だった。
高校から地元を離れてひとり暮らしすることを、エミヤは家族と教師以外、誰にも話していなかった。もちろんランサーにもだ。
このまま入学まで隠し通そうとしていたのだが、うっかりエミヤの親がランサーの親に話したらしく、そこから彼に伝わってしまった。
目を吊り上げてエミヤの部屋に乗り込んできたランサーに、エミヤはとても驚いたのを覚えている。
たが、どうして何も言わなかった、と問われた時、エミヤの心はすっと冷めた。

『別に、言う必要はないだろう』

エミヤの言葉に、彼は顔をしかめた。

『てめぇ…!本気でそれ言ってんのか?!』
『弓道の強い高校に行きたかったんだ。それにいちいち君の許可が必要なのか?』
『許可とかじゃねぇだろ!ただ、言ってくれても良かっただろうが!』
『言ったところで、私の気持ちは変わらない』
『それでも…!』

ぎゅ、とランサーが唇を噛み締めた。

『ひとこと言って欲しかったと思うのは、俺のわがままなのか?!』

わがままではない。
幼馴染なら、友人なら、少しでも交流を持った者同士なら、それは礼儀として当然のことだ。
だが、エミヤの心はまだ幼かった。
そんなことはわかっていても、一刻も早く彼から離れたかった。
自分は、彼に嫌悪感を持たれる感情を持ってしまっているのだ。
彼にバレて嫌われる前に、どうしても逃げたかった。
なにより、望みもないのに彼を好きでいるのが辛かった。
その気持ちを忘れるためにも、これ以上彼のそばにいたくなかった。
ただそれだけだ。

『…すまない』

謝罪の言葉を口にしたエミヤに、ランサーは舌打ちをした。

『謝ってほしいわけじゃねぇよ!てめぇ、俺が今日聞かなかったら黙って行ってただろ!俺に、何も言わずに!』
『すまない』
『謝るんじゃねぇ!謝るくらいなら、ひとこと言ってくれればよかったんだ!別にお前が決めたことなら止めやしねぇよ!ただ、ただ』

ぐしゃり、とランサーの顔が歪む。

『俺は、お前から直接聞きたかった。それで、よかったのに』

声が湿っている気がした。
だがそれは、エミヤの都合のいい妄想だったかもしれない。

『…すまない』

再度謝ったエミヤに、彼はぎり、と歯を噛み締めた。

『…もういい。てめぇにとって、俺はその程度だったってことだろ』

違う、そうじゃない、と言えたら、どんなによかっただろう。

『…すまない』

謝り続けるエミヤに、彼は苛立たしげに舌打ちをして背を向けた。

『お前、最低だな』

そう言い捨てて、彼は部屋を出て行った。
残されたエミヤはもう一度小さく、すまない、と呟いた。

次の日の卒業式。
彼はエミヤと一切視線を合わせず、言葉も交わさなかった。
それ以降、彼が事故で怪我するまで、エミヤは彼と会っていない。






とうとう5日目。彼の家に行く最後の日だ。
今日は、昨日とうってかわり、夏らしい晴天である。

彼は朝から少しそわそわしているようだった。
それもそうだろう。明日の土曜日、やっと彼の目の包帯が取られるのだ。
いつもの生活に戻れるのが楽しみなのだろう。

「なぁ」
『なんだ?』
「何かお前に礼をしたいんだが」

夜。まもなくキャスターが帰ってくる、という頃。
彼からの突然の申し出に、エミヤはきょとんとしてしまった。

『礼ならキャスターから受け取るから大丈夫だ。こちらこそ、無理を言って仕事をさせてもらっているのだから』

そういう設定で、エミヤはここにいる。
その答えに、ランサーは不満そうに頬を膨らませた。

「んなことはわかってる。ただ、世話になったし、何か返したいんだよ」
『そんな気を遣わなくても…』
「んな、遠慮すんなよ!なんか欲しいものとかあるか?」
『今は特に…』
「なんでもいいぞ、俺に買えるものだったら言ってくれ」

機嫌良く聞いてくるランサーに、エミヤはどうしたものかと頭を悩ませた。
ここで何もいらないとゴネれば、きっと彼は意地になって何かをエミヤに贈ろうとするだろう。
そうなるくらいならば、何か適当なものを言っておいたほうが、後腐れがなくていいのかもしれない。

『では、傘を』
「傘?」
『ああ、本当になんでもいい。昨日の雨風で傘が壊れてしまってね』
「ほらぁ!だから、キャスターに送ってもらえって言ったじゃねぇか!」

風邪引かなかったか、と心配してくる彼に、大丈夫だ、と返す。

『だから、雨をしのげるものを貰えると嬉しい』
「任せとけ!すげぇ良いやつ選んでやるから」
『いや、ビニール傘代わりだから、安価なもので大丈夫だ』
「いいって、いいって、気にすんな!」

こちらが気にするのだが、と言いそうになるのを、すんでのところで飲み込む。
そういえば、彼から贈り物をもらったことはなかったような気がする。
幼稚園や小学生の頃は、クリスマスのプレゼント交換とかはしていた気もするが、それも曖昧だ。
そうか、彼からの贈り物か。
その事実に、エミヤの心にふわりと嬉しさが湧き上がった。
この5日間、久しぶりに彼と過ごした。
彼が、今もなお想いを寄せる人がいることもわかった。
エミヤの望みはもう叶わない。
ならば、最後にプレゼントをもらって、それで終いにするのもいいのかもしれない、とふと思った。
ああ、そうだ。きっと、そうしたほうがいいのだ。
望みのない初恋など、もういい加減捨ててしまったほうがいい。
ずるずると、自分はここまで彼への思いを引きずってしまった。
でも、それもいい加減終わりにしなければ。終わらせなければ。
自分にためにも、彼のためにも。

「おーい、帰ったぞー」

遠くで、キャスターが帰ってきた声がした。

『では、ランサー。5日間世話になった』
「世話になったのは俺の方だろうが。もう行くのか?」
『ああ。夕食のことを、いくつかキャスターに説明したら』
「そうか。お前は結構あっさりしてんな」

ランサーが、どことなく名残惜しそうに漏らす。
この5日間で、ランサーに気に入ってもらったのは鈍いエミヤでもわかった。
そのことに後ろ髪を引かれつつも、エミヤは荷物をまとめて立ち上がる。
すると、ランサーがせめて見送ると言い出したので、彼の手を支えながら、共に玄関に向かうことにした。

「おぉ、仲良く出迎えとはありがたいな」

キャスターがニヤニヤしながら言ってくるのを無視し、手早く冷蔵庫に入っている夕食のメニューについて説明する。
レンジで温めるもののこと、余ったら冷蔵保存しておくこと、常備食をいくつか作ったから明日以降に食べること。
キャスターが頷くのを確認してから、エミヤはキャスターにランサーの手を預けて玄関におり、靴を履く。

「もう行くのか?」
『ああ、そういう約束だからな』

ランサーがいる手前、キャスターの前でもアプリを通して話す。

「そうか。なら礼については、また今度連絡するわ」
『ああ、よろしく頼む。ではな』

がちゃりと玄関の扉を開け、改めて2人を振り向く。
よく似た2人を眺めていると、ふと、一時期、ランサーはキャスターと似ていると言われることを嫌がっていたな、ということを思い出した。
そんなことを考えていると、ランサーが急に思わぬことを言い出した。

「つーか、キャスター。そいつ送っていけよ」

突然の提案に、キャスターとエミヤが目を合わせる。
少し妙な間が空いてしまい、ランサーがいぶかしむように眉を寄せた。

「…なんで黙るんだよ」
「…別に、送ってもいいが…」
『…いや、ランサーをひとりにするわけにはいかないだろう』
「だよなぁ」

2人で頷いていると、ランサーがいらついたように、キャスターの手を振り払った。

「ぅおっ、急に何すんだよ!」
「俺のことは気にせず、男ならさっさとそいつ送ってこい!」
「はぁ?!」

ぐい、と無理矢理押されたキャスターが玄関から飛び出してくる。
それを避けつつ、驚きに目を瞬かせていると、何かに気付いたキャスターが、はぁ、と溜め息を吐いた。

「何を勘違いしてんだか、馬鹿が」

意味がわからず、疑問符を浮かべていると、気にするなというようにキャスターが手を振った。

「わかった。でも、下までな。すぐ戻るから、お前はそこで待っとけ」
「おう」

キャスターがそう答えると、ランサーが満足したように頷いた。
何が何だかわからないエミヤを追い抜き、キャスターが先に行く。
とにかく最後の挨拶をしようと、アプリに文字を打ち込んだ。

『では、ランサー。息災で』
「なんでそんな今生の別れみたいに言うんだよ。キャスターの部下なら、また会う機会もあるだろ。礼も渡したいし。またな」

にかっと笑いかけられ、心が熱くなる。

ああ、ランサー。
この短い間だけでも君に会えてよかった。
久しぶりに、君と普通の友人のように話せて嬉しかった。
じわりとこみ上げてくるものをごくりと飲み込んで、エミヤは扉を閉めた。


「5日間、ありがとな」

下りるエレベータの中で、キャスターが言った。

「いや、大したことはしていない。それに」
「それに?」
「…こちらこそ、久しぶりに彼と話せてよかった」

そのエミヤの言葉に、キャスターがちらりとこちらを見た。

「アーチャーとして、あいつに会わなくていいのか?」
「いい。会ったところで、彼も不快なだけだろう」

なにせ自分はひどい男らしいから、と胸中で自嘲する。
がたん、とエレベーターが揺れ、1階に到着した。
ゆっくりと扉が開く。

「明日、たぶん15時くらいには、あいつの治療が全て終わって、家に戻れると思う」
「そうか」
「家に来ねぇか?快気祝いでもしようかと思うんだが」
「行かない。もう、その頃には彼の目は見えているのだろう?ならば、行かない方がいい」
「あいつのことはいい。お前はどうしたいんだ?」

問われて、一瞬止まる。
元気になった彼の姿は見たいに決まっている。
だが、そこに自分がいては、彼の気分が盛り下がるだけだ。
未だに嫌われているのは十分にわかっている。彼のためにも近付かない方がいい。
エミヤも、これ以上彼に嫌われたくない。これ以上、傷付きたくない。

「私はどうもしない。君に言われたから、彼の世話をした。それだけだ」
「…そうか」

キャスターはどこか呆れたように息を吐いた。
マンションのエントランスを出て、後ろを振り向く。
この5日間通い詰めた建物がそこにあった。
これで、再び彼との縁が切れるのだ。

「…彼に、ひとつだけ伝言をお願いしていいか?」
「ああ」
「どうか幸せに、と」
「わかった」

キャスターが頷くのを確認して、エミヤはゆるりと笑った。
彼に軽く頭を下げ、エミヤは家に向かって歩き出す。

「あいつと何があったのか知らねぇが、いい加減仲直りしろよ」

その背に、キャスターから言葉がぶつけられる。
それに答えることが出来ず、エミヤは唇を噛み締め、聞こえないふりをした。
キャスターのため息が聞こえたような気がした。

この5日間、傷ついたこともたくさんあった。
だが、彼と再び会えたのは嬉しかった。また友人のように話せたことも。
夢は終わり、明日からはいつも通り。
彼のいない日常に、エミヤは帰るのだ。




それから1週間、エミヤはバイトに明け暮れた。
いつもやっているレストランのバイトの合間に、設営やティッシュ配りなどの短期バイトを詰め込み、エミヤは朝から晩まで、ただひらすら働き続けた。
そうでもしていないと、エミヤの頭は勝手に彼のことを考えてしまう。

あの時、あんなことを言わなければ。
彼から逃げ出したりしなければ。
もっと別の未来が待っていたのかもしれないのに。

あの5日間で、どうやら寝ていた恋が完全に目覚めてしまったらしい。
こんなことを今更考えても、どうしようもないことはわかっている。
だから、余計なことを考える隙間もないようエミヤは無心で働き続け、その結果、体調を崩して倒れてしまった。



『お前、風邪引いてんのか?』

寝込んでいる時に偶然連絡をくれたのは、キャスターだった。
どうやらランサーが世話してくれた礼の品を渡したいらしく、そのことを相談するために電話をくれたのだ。
エミヤの掠れた声に異変を感じたキャスターは、すぐにエミヤの体調不良を見抜いた。

『お前が夏風邪とは珍しいな。ちゃんと食べてんのか?薬飲んだのか?』
「…ああ」
『はい、嘘。なんか持っていくわ。欲しいものとかあるか?』
「…ぐっ。…では、ゼリーの類があれば助かる。ドアのところにでもかけておいてくれ」
『面白い冗談だな。この前の礼に、みっちり看病してやるから覚悟してろ。1時間で行く』

通話が切れ、エミヤは力尽きたように、スマホを持つ手を床に投げ出した。
確かに、買い出しに行こうと思っていた矢先に倒れたものだから、今、家には何もない。
キャスターからの電話は、正直助かった。

布団に寝転がってぼんやりと天井を眺めているうちに、ふわりと意識が遠のいてきた。
もしかしたら熱が上がってきているのかもしれない。
キャスターは1時間くらいで来ると言っていた。
ならば、少しでも寝ていたほうがいいのかもしれない。

ああ、背中の汗が気持ち悪い。
そこでエミヤの意識が途切れた。




「大丈夫か?アーチャー」

ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界に青い髪が垂れ下がっているのが見えた。
寝ている自分を覗き込むように、誰かが頭の横に膝をついている。

「お前、いくら男の一人暮らしでも鍵はきちんと締めておけよ。危ねぇだろうが」

がさりと音がする。
見ると、彼の足元にはスーパーの袋が転がっていた。
そこでエミヤはようやく、キャスターが来ると言っていたことを思い出した。
さっきより熱が上がっているのだろう。体がうまく動かない。
口を開けるが、掠れた音が出るだけで声もきちんと出ない。

「喉乾いてるのか?何か飲むか?」

スポーツ飲料のペットボトルを差し出され、エミヤはこくりと頷いた。
待ってろ、と彼がエミヤの上体を起こし、飲みやすいように支えてくれた。
丁寧に蓋が開けられたペットボトルを受け取り、それを一口飲む。
乾ききっていた喉が、少し潤った。

「すまない、キャスター」

酷く掠れた醜い声が飛び出す。
その声に、自分を支える彼も少し驚いたようだった。
彼は目を見開いた後、ゆるりと笑った。

「気にすんな。何か食べたか?いちおうゼリーやレトルトのおかゆも持ってきたが」
「…いまは、だいじょうぶだ。すこし、ねたい」
「わかった。じゃあ氷まくら用意してやるから、ちょっと待ってろ」

彼はエミヤを優しく布団に戻し、足元に置いてあった袋から買ったばかりの氷まくらを取り出した。

「それも…、かってきたのか…?」
「だって、お前の家にあるかわかんねぇもん」
「…あとで…、かいとる…」
「いいよ、やる」

彼は長い髪を鬱陶しそうにかきあげ、氷まくらにタオルを巻き、エミヤの頭の下に敷いてくれた。

「気持ちいいか?」
「…あぁ、すごくたすかる」

その心地よい冷たさに朦朧としたまま答えると、彼は満足そうに笑った。

「ゆっくり寝ろ、アーチャー。起きたら、なんか飯作ってやるから」
「…だいじょうぶだ、きみは、かえってくれていい。ランサーもいるだろう。わたし、ひとりで」
「置いていくわけねぇだろ。馬鹿野郎」

投げ出されたエミヤの手を、彼がぎゅっと握りしめた。
突然のことに少し驚く。
どうしたのだろう。そんなに自分は今、ひどい状態なのだろうか。

「…お前には世話になったんだ。せめて少しくらい返させてくれよ」

それはランサーのことだろうか。
しかし、エミヤの意識は溶ける一歩手前の状態で、それ以上頭は働かなかった。
だが、来てくれたことに対して礼を言わねばと、必死に口を動かす。

「たすかった、ありがとう、キャスター」

伝えると、手がさらにキツく握られた。
本当に何があったのだろう。
だがそれを問う前に、エミヤの意識はふわりと溶けた。



懐かしい夢を見た。
あれは確か、彼から逃げて違う高校に通っていた時のことだ。
高校2年の夏頃、エミヤの通う高校の陸上部と、彼の高校の陸上部が合同練習することになったのだ。
陸上部の友人からその話を聞いた時、エミヤは無意識にその日時を尋ねていた。
それは次の土曜日で、その日はエミヤが所属する弓道部でも活動があった。
エミヤはあれ以来、ランサーと会っていない。
携帯もあの直後、運悪く壊してしまって、新しい番号を連絡しようにも彼の番号もわからなくなってしまった。

もしかしたら、彼に会えるかもしれない。
彼に嫌われたくなくて、彼を忘れるために距離を取ったはずなのに、エミヤは無性に、彼に会いたいと思った。

そして迎えた土曜日だったが、そういう日に限って顧問に呼ばれたり、後輩が練習をつけてくれと言ってきたり、滅多に練習に来ない同級生が顔を出したりで、エミヤはてんやわんやだった。
途中、何度も抜け出そうとしたが、その度に呼び止められ、中途半端に開けた弓道場の扉を何度も閉めた。
そうして気付けば夕方になっており、帰る頃にはとっくに陸上部の合同練習も終わっていた。
結局、この日は彼と会えずじまいだった。
人気のないグラウンドを、物悲しい気持ちで眺めていたのを覚えている。

今でも、たまに想像する。
もしもあの時、無理にでも彼に会いに行っていたら、今と何かが変わっていたのだろうか。
彼に会って、あの日のことを謝って、また友達に戻れていたら。
もしかしたら、今でも彼と笑い合うことができたのかもしれない。
そんな後悔があるから、こうして自分は、何度もあの時の夢を見るのだろうか。

ふと気付けば自分は高校生に戻っていて、弓道場で立ち尽くしていた。
これは夢だ。
せめて夢の中くらい、好きに動いてもいいだろうか。
全てを放り出して、彼に会いに行ってもいいだろうか。
その思いに突き動かされるように、エミヤは弓道場から飛び出した。

袴姿のまま、裸足でグラウンドを駆けていく。
テニス部、野球部、サッカー部。
様々な運動部が、走っているエミヤをきょとんと見てくる。
それらの横をすり抜け、陸上部の練習場所に駆け込むと、そこには大勢の生徒。
その中にひとり、こちらに背を向けて立つ、青い髪の男がいた。
エミヤはその背に手を伸ばした。

ランサー。

声なき声で彼を呼ぶ。
伸ばした指が触れる直前、彼が振り向く。
青い髪が翻る。
逆光で彼の顔がよく見えない。
彼の口がゆっくりと動いた。

『お前、最低だな』




「おい、しっかりしろ、アーチャー!」

切羽詰まった声で呼ばれ、ばちりと目が開いた。
あたりは真っ暗だ。周りがよく見えない。
ただ、手を握られている感覚がする。

「きゃすたー…?」

確か彼が来ていたはずだ。
がさがさとした声で呼びかけると、握られていた手に力を込められた。

「…ここにいる。うなされていたから、起こしちまった」

悪い、と小さく謝られる。
だんだん目が慣れてきて、ぼんやりと人影が暗闇に浮かび上がる。
彼はエミヤが寝る前と同じように、頭の横に膝をつき、エミヤの左手を握ったまま、こちらを覗き込んでいた。
今はいったい何時なのだろう。
まさか、こんな時間まで彼に世話をさせてしまったのだろうか。

「水、飲むか?枕、ぬるくなっちまっただろ?それも替えてやるからな」

優しく尋ねてくる声。
ああ、面倒をかけてしまっている。
申し訳なさと情けなさで、エミヤの目にじわりと涙が滲んだ。

自分はいつも自分のことばかりで、迷惑をかけてばかりだ。
キャスターには今まさに面倒をかけているし、ランサーには昔から迷惑をかけっぱなしだ。
勝手に好きになって、勝手に期待して勝手に振られて、勝手に苛立って、一人で逃げた。
彼の気持ちなど気遣う余裕もなかった。
本当に、自分はなんと身勝手で、最低な男なのだろう。

「…わたしは、さいていだな」

呟いた言葉に、彼が弾かれるように顔を上げたのがわかった。
こう言うと、きっと大人なキャスターは気遣ってくれるに決まっている。
また余計な面倒をかけてしまった、と、エミヤは熱と眠気で朦朧とする頭で自嘲した。

「違う。お前は、最低なんかじゃない」

聞こえてきたのは、彼にしては珍しく、弱っているような声だった。
ゆるりと彼がいる方に目を向ける。
俯いているせいで、その顔はよく見えなかった。

「最低なんかじゃない。ただの優しいやつだ。優しいやつなんだ。あんな馬鹿の暴言なんか忘れろよ。頼むから、忘れてくれ」

アーチャー、と闇夜に湿った声が響く。

「悪かった。俺が悪かったんだ。アーチャー。俺が救いようのないほど馬鹿で、餓鬼だったんだ。もっと早く俺が気付いていたら、気付けていたら」

きゃすたー、と震える声で呼びかける。
だが、男の耳には届いていないようだった。

「…忘れてくれよ。あんな昔のこと。いつまでも囚われてんなよ。最低な男だと、そんなこと本当に思ってるわけないだろうが。最低なのは、俺の方だ」

まるで懺悔のような彼の言葉が降ってくる。

「アーチャー、早く元気になってくれ。言いたいことがたくさんあるんだ。謝りたいことも。お前に贈りたい物もある。すげぇ、かっこいい傘見つけたんだ。きっとお前も気にいる。多少の雨風なんかには負けない、立派なヤツなんだ」

どうして傘の話をキャスターが知っているのか。
ランサーが話したのだろうか。
眠気が戻ってきたのか、だんだんとエミヤの頭にもやがかかってくる。

「だから、今は余計なこと考えずに眠ってくれ。眠るんだ、アーチャー。お前は最低じゃない。夢でそんなこと言ってくるやつがいたら、たとえ俺でも、俺がぶん殴ってやる。だから今は、ゆっくり眠れ」

彼がさらに俯き、長い髪がエミヤの頬にかかる。

「お前は最低なんかじゃない。俺のかけがえのない、たったひとりなんだ。アーチャー」

エミヤの手に、彼が顔をすり寄せる。
その時カーテンの隙間から差し込んだ月の光で、彼の顔がはっきりと浮かび上がった。

(…きみは)

しかし、何かを言う前に、エミヤの意識は再び眠りに落とされる。
その隣で手を握る男の瞼の上には、うっすらと何かで切ったような傷跡が残っていた。


Comments

  • 笔记本
    Feb 12th
  • あき海苔巻き
    July 29, 2025
  • 小枝くん

    ε=(。・д・。)フー……………✨最高(´°̥̥̥ω°̥̥̥`)涙

    July 12, 2025
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