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ノーベル賞受賞者が辞任、元財務長官も失墜——エプスタインに「汚染」された学術界、日本にも飛び火

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
ニューヨーク・タイムズ紙が、伊藤穰一氏(現千葉工大学長)と政府のプロジェクトとの関係を報じたことが波紋を広げている。写真:ロイター/アフロ

 2026年2月27日、ニューヨーク・タイムズ(NYT)が報じた一本の記事が、日本でも静かな衝撃を与えている。それは性犯罪者の大富豪、ジェフリー・エプスタインと密接な関わりをもっていたMITメディアラボ元所長の伊藤穰一(ジョイ・イトウ)氏が、日本政府の国家プロジェクトに深く関わっている——という内容だ。

ニューヨーク・タイムズ記事

 この記事をきっかけに、伊藤氏とエプスタインの関係を日本のメディアも相次いで取り上げている。

エプスタイン氏と面会の伊藤穰一氏 携わる政府プロジェクト先行き不透明か NYタイムズ報じる(TBSテレビ)

 日本政府も対応を求められている。

エプスタイン文書にデジ庁会議構成員、松本デジ相「コメント控える」(日経新聞)

 これまでエプスタイン・スキャンダルの学術界への影響は、日本では「遠い米国の話」として受け止められがちだった。しかし、伊藤氏が疑惑の中心にいることが報じられたことで、この問題が日本にも大きく関わる問題だということに多くの人たちが気がついたと思う。

 今、世界の名門大学を舞台に、人類史上最大級の学術倫理スキャンダルが進行していると言っても過言ではない状況だ。

 ノーベル賞受賞者が辞任し、元財務長官が教壇を去り、「反権力の旗手」とされた思想家の名まで浮上する——これは学術界が根底から信頼を問い直される事態だ。

 本記事では、エプスタインと学術界がいかに深く関わっていたがを、報道から探ってみたい。

■ きっかけは300万点のファイル公開

 2026年1月30日、米司法省が約300万点にのぼるジェフリー・エプスタイン関連文書を公開した。性的人身売買などで2019年に逮捕・収監中に死亡した富豪投資家エプスタインと、政界・財界・学術界の有力者との関係が、膨大なメールや写真、フライトログで明らかになった。

 今回のファイルが浮き彫りにしたのは、エプスタインが年来にわたって著名な科学者や研究者たちと深く関与していたという事実だ。経済学者のローレンス・サマーズ、言語学者のノーム・チョムスキーら、2008年の有罪判決後もエプスタインと書簡を交わし続けた著名学者の名が、新たに確認された(Scientific American)。

■ 「知の殿堂」ハーバードの深い傷

 学術界でとりわけ問題が深刻なのが、ハーバード大学だ。

 1998年から2008年の間にハーバードが受け取ったエプスタインの寄付は累計910万ドルに達する。その目玉は2003年の650万ドルで、マーティン・ノワック教授が率いる「進化ダイナミクスプログラム(PED)」の設立に充てられた(Jobs AC UK)。

 さらに今回の新文書が明らかにした問題は、資金提供にとどまらない。ハーバード医学部の遺伝学者、ジョージ・チャーチ教授との関係がその典型だ。

 エプスタインとチャーチ氏はバイオテック投資会社を共同設立しており、エプスタインは1,000万ドルの資金提供を提案した上で、チャーチ氏とともに投資先を決定していた(The Boston Globe)。

 2013年にはエプスタインの皮膚細胞サンプルがチャーチ氏の「パーソナル・ゲノム・プロジェクト」の冷蔵庫に保管されており、それを発見した研究員が「登録性犯罪者の血液がここにある」と衝撃を受け、その場で荷物をまとめて退室するという騒動が起きていた。研究室内部でのこの抗議は今回初めて明らかになったものだ(Statnews)。

 チャーチ氏は後に「彼が服役を終えたと考えて、それが判断の誤りだった」と述べ、「ナード的なトンネルビジョン(専門バカ的な視野の狭さ)」という言葉で当時の自身の認識の甘さを認めた。

■ DNA発見のノーベル賞受賞者・ワトソン氏の写真

 学術界への衝撃という点で見逃せないのが、DNAの二重らせん構造を共同発見しノーベル賞を受賞したジェームズ・ワトソン氏をめぐる新事実だ。

 英テレグラフ紙が今回のファイルから発掘した写真には、ワトソン氏(昨年97歳で死去)がエプスタインのニューヨーク邸宅の応接室で3人の若い女性とともに微笑む姿が映っている。撮影時期は2010年代中盤から後半と見られ、エプスタインが性犯罪で服役した後のことだ(Anadolu Ajansı)。

 ファイルにはエプスタインとワトソン氏に関するメールが数十通含まれており、朝食や夕食の手配に関するものが多い。エプスタインがワトソン氏との会合に備えて遺伝学に関する質問を周囲に準備させていたことも記録されている(Anadolu Ajansı)。

 ワトソン氏自身については犯罪への関与を示す証拠はなく、不正行為の疑惑もない。しかし、エプスタインが優生学的な思想に強い関心を持っていたことはファイルから明らかでエプスタインは後述するチョムスキー氏とのメールで、ワトソン氏の人種差別的な発言に触れ、「ワトソン氏はある一言で社会から追放された。物事をより良くするには、いくつかの不都合な事実を受け入れる必要があるかもしれない」と書いている(TRT World)。

■ 「ジュラシック・パーク」のモデルとなった古生物学者も

 学術界の裾野の広さを示すのが、ジャック・ホーナー氏の名だ。

 モンタナ州立大学の退職教授で古生物学者のホーナー氏は、映画「ジュラシック・パーク」の主人公アラン・グラント博士のモデルとなった人物であり、読者のなかにも聞いたことがある人がいるだろう。今回のエプスタイン・ファイルに450件以上の文書で名前が登場する。2012年にエプスタインのニューメキシコ州の牧場を訪問した後、ホーナー氏は礼状を送りモンタナの恐竜発掘サイトへの招待も行っていた(Inside Higher Ed)。

 エプスタインは古生物学に関心を持ち、ホーナー氏以外にも関係を持った研究者がいるという(CNN日本版)。

■ ノーベル賞受賞者が辞任、元財務長官も教壇去る

 今年2月に入って、学術界での辞任・引責が続いた。

 コロンビア大学ツッカーマン心脳行動研究所の共同ディレクターを務めていた脳神経科学者リチャード・アクセル氏は2025年2月25日、辞任を発表した。2004年のノーベル生理学・医学賞受賞者で、嗅覚受容体の研究で知られる同氏の名はファイル中に600回以上登場し、エプスタインのニューヨーク自邸への訪問や食事会への参加が記録されていた(Local 10MS NOW)。

 アクセル氏は「エプスタインとの関係は深刻な判断の誤りだった」と述べた。コロンビア大学は「法律や大学規則に違反した証拠はない」としながらも、本人が辞任を適切と判断したと説明した(MS NOW)。

 翌26日には、クリントン政権の元財務長官でハーバード大学元学長のローレンス・サマーズ氏が、今学年度末をもって教授職を辞することを発表した。サマーズ氏は2025年11月から休職中で、自身が指導する女性との交際についてエプスタインに相談していたメールが問題視されていた(Local 10BBC日本版)。

 ハーバード大学はサマーズ氏の件を契機に開始した調査を拡大しており、同大学の物理学者リサ・ランドール教授、ジョージ・チャーチ教授、アンドリュー・ストロミンジャー教授ら複数の教員についての調査が進んでいる(Harvard Magazine)。

■ 「反権力の旗手」チョムスキー氏の誤算

 最も象徴的な「失墜」が、ノーム・チョムスキー氏のケースだ。

 MIT名誉教授で、米国外交政策やメディアの権力構造を批判し続けた「良心の声」として世界的に知られるチョムスキー氏。しかし新たに公開されたファイルは、そのチョムスキー氏がエプスタインの深い個人的な友人だったことを暴いた。

 今回のメールはチョムスキー氏が単なる知人ではなく、エプスタインの側近的な相談相手だったことを示す。2019年2月のメールでは、チョムスキー氏がエプスタインの悪評に対処するPR戦略についてアドバイスを送っていた(MS NOW)。

 ファイルはさらに、チョムスキー氏夫妻がエプスタインのプライベートジェットで移動し、ニューヨークとパリの物件での宿泊を受け入れたことも記録している。妻のヴァレリア氏がエプスタインへの手紙で「あなたは私たちの最高の友人です」と書き、チョムスキー氏自身も「深く誠実で永遠の友情を」と結んでいた(World Socialist Web Site)。

 ヴァレリア氏は2026年2月に「深刻な判断の誤り」を認める声明を発表した。エプスタインが自身を「キャンセルカルチャーの被害者」として提示する操作的な語りを信じてしまったと説明している(NBC News)。

 権力を批判することを生業とした知識人が、権力と腐敗の象徴的人物の「友人」だったという事実は、多くの支持者に深い幻滅を与えた。

■ 日本との接点——伊藤穰一氏と国家プロジェクト

 このエプスタイン・スキャンダルと日本の接点が、今回のNYT報道で鮮明になった。

 MITメディアラボ元所長の伊藤穰一氏とエプスタインが交わしたメールは4,000通を超える。エプスタインのプライベートアイランドへの頻繁な訪問も記録されており、「スラッシュファンド口座に50万ドルが入ったという通知を受けました。ありがとうございます!」という2014年のメールも含まれていた。

 2019年にMITを辞した伊藤氏は日本に戻り、千葉工業大学の学長に就任。さらに2024年には、AI・ロボット工学に特化した東京の研究拠点を目指す国家プロジェクト「グローバル・スタートアップ・キャンパス構想(GSC)」の事実上の主導者に任命された。この任命には甘利明氏が関わっていたという。

 600億円超の公的資金が投じられるこの構想に対して、MIT、ハーバード、カーネギーメロン、慶應義塾大学がいずれも「伊藤氏が関わるなら協力できない」と距離を置いた。カーネギーメロン大学の学部長は「ジョイが関わるいかなるプロジェクトにも参加しない」と明言した。

 こうした状況を日本政府はどう受け止め、どのような対応をするのか。

■ アカデミアはなぜ止められなかったのか

 これほど広範な「汚染」はなぜ生じたのか。

 科学史家のナオミ・オレスケスはScientific American誌への寄稿で「エプスタイン問題は研究の健全性を脅かす、より大きな問題を浮き彫りにした。個人が自分の気に入った研究分野を金で支援できるという構造が、研究の独立性を損なう」と指摘した(Scientific American)。

 エプスタイン問題を報じるScientific American誌自身も、科学諮問委員会の過去・現在のメンバーのうち少なくとも5名——リサ・ランドール、ジョージ・チャーチ、ダニー・ヒリス、マーティン・ノワック、ローレンス・クラウス——がエプスタインとの接点を持っていたことが確認されている。誰も犯罪への関与では訴追されていないが、その広がりは学術界とエプスタインのネットワークが深く絡み合っていたことを示す(Scientific American)。こうした自らの問題点を報じることは評価したい。

 エプスタインの手法はシンプルかつ巧妙だった。豪華な夕食会への招待、プライベートジェットでの移動、カリブ海の私有島への「知的な友人として」の誘い。「科学のパトロン」という自己演出を徹底することで、研究者たちは彼の犯罪歴よりも「次の資金源」あるいは「刺激的な対話の相手」としての側面を優先した。2008年に有罪判決を受けた後も多くの接触が続いたことは、組織的・個人的な倫理判断の麻痺を示している。

■ 学術界の信頼回復には長い時間がかかる

 今なお、新たな名前が次々と浮上している。辞任・引責は続き、大学による内部調査も相次いでいる。

 エプスタインはすでに死亡している。しかし彼が体現した「資金と人脈と名声で倫理を超越しようとする論理」は、学術界(アカデミア)という場に確かに存在し続けた。そしてその証拠が今、300万点のファイルとなって公開されている。

 ノーベル賞受賞者の辞任も、元財務長官の失墜も、「良心の声」として尊敬されてきた思想家の誤算も、すべてはその論理が生んだ必然的な帰結だといえるだろう。

 学術界の信頼回復には、長い時間がかかるだろう。まず必要なのは、「なぜ止められなかったのか」という問いへの正直な答えだ。それなくして、再発防止も倫理の再構築もあり得ない。

 記事執筆にはClaudeをアシストに用いた。

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ありがとうございます。
病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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