このロンブンがすごい 2025
今年も「このロンブンがすごい」を開催します。第2回となる「このロンブンがすごい 2025」。前回はこちら。企画の趣旨を簡単にまとめるなら、2025年に公開された単著未満のテキストを紹介するというものです。単著未満、という点が重要。単著より運動性や時事性、可塑性など重要な要素があるのにあまり目立たない、それらテキストを際立たせたい。
紹介者は様々なジャンルで活躍している方がた。前回は10名でしたが、今回は11名。なんらかの理由で「すごい」「面白い」「シェアしたい」等々と思ったものを紹介してもらいました。対象となるテキストは、言葉・演劇・美術・映像・音楽などなんらかの表現に関わるものが基本ですが、そこから外れたものもOK。単著未満なら、論文・記事・エッセイ・座談会等々なんでもありで、それを総称して「ロンブン」とここでは呼ぶことにしています。
どれも、表現に関わる上で有効なテキストを紹介してもらえたと思っています。長くないし、ウェブで読めるものも多いので、あまりこういった文章を読んだことがない方もこれを手がかりにチャレンジしてみてはいかがでしょうか?
編集の立場から雑感を少し。テーマは①ジャンルの相対化、それに②大文字の政治、です。
いろんな表現ジャンルに携わる方に依頼することを心がけていますが、今回はさらに意識してみたつもりです。結果、よりジャンルが相対化できたのではないでしょうか。論より証拠で、じっさいに11名の「このロンブンがすごい」に当たってみてください。
たとえば言語表現を例にあげると、ここ最近、エッセイや日記、それに現代詩や短歌など短詩形ジャンルの活況が伝えられています。他方、文学でいえば小説を中心に、ここ十数年ほど文芸復興的な空気がありました。ゼロ年代はオワコンのレッテルを貼られていたのにもかかわらず。とりわけ小説が元気だった理由は、上手に当事者問題やアイデンティティ政治を取り込めたからです。それはもちろんとてもよいことですが、他方で見えにくくしたものもあるでしょう。今回はとくにそういった点に配慮してみたつもりです。
また、当事者問題やアイデンティティ政治が小文字の政治だとすると、それは一定の利害関係や共感で組織されるものです(そんな単純に割り切れるものでもありませんが)。いろんな立場の人が関わる大文字の政治――典型的なのは戦争でしょう――は、こと最近の表現ジャンルでは扱われませんが、そういった視点の入ったテキストがいくつか紹介されています。他に、ジャンルの政治もあります。個々のジャンルはどういった政治力学や市場の力学で組織されているのか。そんなところに注目して読んでみるのもよいかもしれません。
ということで、前半はテーマ①を、後半はテーマ②を意識しながら構成しました。が、11名の各論はそれぞれいろんな論点を含んでいるので、編集の意図に囚われず、フリーハンドでお読みください。
さて、編集の私も前回に引き続き、3ロンブンをあげておきましょう。ちなみに私は近代文学が専門です。
①平尾勇貴「引用と編集の詩学――ディレクターがあらわれるとき」(『短歌研究』9・10月号掲載)
②李琴峰「これからの「日本文学」のために――日本文学のクィア表象について」(『小説TRIPPER』秋・冬季号)
③松田祥平「自律しはじめる〈探偵小説〉――ジャンルをめぐる攻防としての「自然主義」言説」(『日本近代文学』第112集、2025年5月)
2025年は主に文学関係のロンブンを対象にした時評(『見たいものしか見たくない時代の文芸コラム』)を担当していました。文芸誌をはじめいろんなジャンルの雑誌や同人誌、研究誌に接していたので、その経験を反映したセレクトになっています。
平尾論は、短歌総合誌『短歌研究』が主催する第一回「短歌研究評論賞」の受賞作(『短歌研究』9・10月号掲載)。昨年12月(第7回)の時評でも紹介しましたが、現代短歌の主体の変容がテーマ。「私」の体験や内面を表現したり、技巧的に言葉を並べたりする従来の主体ではなく、他人の作や自作を引用し編集する主体が短歌の世界に現われていると。「ディレクター」と呼ばれるそういう主体のありようは、そもそも短歌に備わった要素ともいえるでしょう。しかし、コンセプトとして立ち上げることでそのジャンルの問題点が可視化され、関わり方が変わってくるのではないか。平尾は、最近も現代短歌の韻律を、ギミックと競技性から更新してみせる(『短歌研究』1・2月号)など、そのチャレンジ精神から目が離せません。ギミックと競技性といえば、まさにロンブンの特徴でもあるでしょう。
李論も時評で取り上げました。秋季号の前編と冬季号の後編両方とも。昨年の11月(第6回)と今年の1月(第8回)を参照。一言でいうと、作家による現代文学史の記述の試み。李はそれを、クィアというアイデンティティ政治からまとめています。普遍的な文学史の記述が不可能になったといわれて久しいですが、李は当事者(ジェンダーのマイノリティ)の立場から、特定の視点によって文学史を記述することで、これからの文学史の可能性を示してみせたのではないでしょうか。他に、町屋良平も作家の立場から文学史を記述し、披露しています(「小説の死後――(にも書かれる散文のために)――」シリーズ)。昨年10月(第5回)参照。ジャンルの歴史と個人史をないまぜにしながら記述する点で二人は共通しています。こちらでもよかったのですが、町屋文学史は、全メジャー文芸誌に掲載されて(関連座談会を含む)十分目立っているので、李論をあげました。
文学研究からは松田論を。近代文学の研究で手に取る研究誌といえば、『日本近代文学』『昭和文学研究』『日本文学』『國語と國文学』あたりがメインになるでしょうか(『日本文学』と『國語と國文学』は近代以外も含む)。戦前に探偵小説がジャンルとして自立するにあたって「自然主義」というコンセプトがいかに介入したのか、その介入により探偵小説の評価基準がどう変化したのかが分析されています。そのさいに当時の様々な言説が召喚されるのですが、地の文にそのつど差し込まれる引用によって進めていく叙述の中の情報量に圧倒されました。最近は、あまりエンタメ文学と純文学の関係を問う議論が少ないので、その意味でも貴重だと思います。
文学研究では、この他に、渡部麻実「堀辰雄『あひびき』論あるいは〈堀辰雄〉とは何か――AI時代の〈作家〉召還」(『日本女子大学紀要』2025年3月)も面白かった。遠読の数量的な研究と生成研究(改稿の変遷の分析)を重ねあわせて進められる論述は、生成AI後の文学研究のあり方を射程に入れたもので途方もない試みなのですが、最終的に無難な解釈に着地するところが惜しい気がしました。
発見があったテキストとして、棚田茂「手話詩とビジュアルバーナキュラーにみるリズムの考察」(『日本文学』9月号)もあげておきましょう。
大西永昭「ジェンダーはゲーム文学をひらく鍵となりうるか?――遠野遥「浮遊」試論」も候補だったのですが、掲載された『文学をひらく鍵――ジェンダーから読む日本近現代文学』(鼎書房)が出たのが2024年12月25日だったとは! 虚構と現実の複雑な関係を、作中のゲームとプレイヤーとの関係から手際よく分析し、そこにジェンダーのテーマも説得的にからめていく手法には目を見張るものがあります。大西のゲーム文学論はどれもレベルが高く、現代文学のみならずフィクションを考える上で欠かせない存在だと思っています。以上。
さてここで、今回おススメされた36のロンブンを時系列にそって一挙に紹介しておきます。
このロンブンがすごい 2025年版
〇山本浩貴(いぬのせなか座)「フィクションと日記帳──日記(本)から往復書簡、書く宛先をつくること」(『文藝』春季号、1月)
〇来馬哲平「個々人主義者と不向者──Frank O’HaraとJack Spicerの「宣言」を交差的に読む」(『英文学研究 支部統合号』第17巻、1月)
〇石川卓磨「スマホ以後の造形批評:デザイン・テクノロジーとアート クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために 最終回」(『Tokyo Art Beat』連載、1月29・30日更新)
〇小森達郎「アーレント「社会問題」批判の再考に向けて」(『立命館大学人文科学研究所紀要』143号、2025年3月)
〇小田視希「欲望と反省のペルソナ──AV監督・二村ヒトシが体現する「あたらしい男性性」」(京都大学人間・環境学研究科芸術文化講座紀要『芸術文化講座論集』2号、3月3日)
〇安藤陽平「安岡章太郎からみる「第三の新人」」(『 国文論叢』62号、3月)
〇ンジャメナ「侍の思想と百姓の思想──ネット民のための丸山眞男入門」(『LIMiNAL』3月22日)
〇横田祐美子「わたしがエッセイである」(『随風01』3月)
〇成相肇「弥生はどこへ行った?:ハニワと土偶のあいだの人体(あるいは岡本太郎「縄文土器論」が「土器論」でなければならなかった理由について)」(『東京国立近代美術館研究紀要』29号、2025年3月29日)
〇登久希子「リサーチ・ベースド・アートにおいて交換される個人の物語──飯山由貴、ティファニー・チュン、クリスティン・ウォン・ヤップの実践から」(『東京造形大学研究報』26、3月31日)
〇川上優芽「北原白秋『思ひ出』論──詩語としての「柳河語」──」(『國語と國文学』第102巻第4号、4月号)
〇小島なお・竹中優子ほか「歌のなかの言う力、言わない力」(『歌壇』4月号)
〇南田偵一「現代詩をはじめよう 詩の教室・講座の旅景」(『詩あ』創刊号、5月5日)
〇松田祥平「自律しはじめる〈探偵小説〉──ジャンルをめぐる攻防としての「自然主義」言説」(『日本近代文学』第112集、5月号)
〇久永草太「何を言っても許されるのか」(『歌壇』5月号)
〇skiptracing「イメージを聞く ポール・トーマス・アンダーソン『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と見るものの贖罪」(note、5月19日)
〇山﨑修平「井戸川射子論」(『詩と思想』6月号)
〇吉田寛「没入」(『ゲームスタディーズ 遊びから文化と社会を考える』フィルムアート社、6月)
〇Matsuda Matsuo「アイドルソングのアイロニー キャンディーズ・森高・AKB48」(『なるほう堂』7月29日)
〇山本佳奈子「音楽におけるアマチュアリズムの重要性──沖縄の実例と、サイードによるプロ批判から考える」(『ANTENNA』7月30日)
〇紅茶泡海苔「トランスナショナル・オタクカルチャー──『ファウスト』は東アジアでいかに“誤読”されたか」(『週末批評』8月2日)
〇石山ふね「〈Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI〉への私見―わたしは乾にひっくり返ってみてほしい」(note、8月3日)
〇Sarah Lynne Bowman, Kjell Hedgard Hugaas「アナログRPG言説における心理学的安全の哲学」原題:Philosophies of Psychological Safety in Analog Role-Playing Game Discourses(“International Journal of Role-Playing, Issue16”、9月)
〇三宅芳夫「極中道(エキストリーム・センター)とは何か」(酒井隆史+山下雄大編著『エキストリーム・センター』9月)
〇飯塚理恵「アンチエイジングという美容実践──治療をめぐる論争」(谷本奈穂+飯塚理恵編著『きれいはいまもゆれている』9月)
〇鷺沢朱理「《ヘリオガバルスの薔薇》―あるいは、教皇ボニファティウス八世としての私が、「禁書」にすべきと思うほどの― 川野芽生歌集『星の嵌め殺し』書評」(『現代短歌』111号、9月16日)
〇李琴峰「これからの「日本文学」のために──日本文学のクィア表象について」(『小説TRIPPER』秋・冬季号、9月・12月)
〇平尾勇貴「引用と編集の詩学──ディレクターがあらわれるとき」(『短歌研究』9・10月号掲載)
〇永田和宏「物理学者とエッセイの系譜」(『窮理』第28号、10月)
〇岡田ひろみ「「友」や「友だち」という関係性──『源氏物語』の女君に友達はいるか」(『日本文学』74巻10号、10月号)
〇山本浩貴(いぬのせなか座)「ささやかな「本当らしさ」からこの世界そのものの「フィクション」へ──日記/ホラーブームと『恐怖心展』『魔法少女山田』」(『文學界』10月号)
〇山田詠美×松浦理英子「対談 年月が熟成させるもの」(『文藝』2025年冬季号、10月7日)
〇常見陽平「政治に学歴フィルターはいらない 町山智浩の小野田紀美への「偏差値35で学術会議担当?」発言を許すな」(『Yahoo!ニュース』、10月31日)
〇柳澤田実「米国の終末論の現在──ピーター・ティールや福音派はどのような「最後」のために戦っているのか」(『現代思想』11月号)
〇濱口竜介×三宅唱×三浦哲哉「特別鼎談 驚きはいたる所に──『旅と日々』をめぐって」(『かみのたね』12月22日)
〇小笠原鳥類「榎本櫻湖の詩が、いつまでも、いつまでもギラギラしている」(『文學界』2026年1月号、2025年12月刊行)
それではお待たせしました。11名の方がたにおススメしてもらいましょう。最初から順番に読むのもよし、好きな書き手から読むのもよし、気の向くままランダムに読んでみるのもよし、ご自由にお楽しみください。(編集・凡庸の会 中沢忠之)
このロンブンがすごい 2025
※目次から読みたい項目(①~⑪)に飛べます。
①他者や自己を傷つける前に垣根を切り裂く 永瀬恭一
前回、僕は「論文」を拡大解釈した。しかし、では「なんでもあり」なのか、というと違う。辞書『広辞苑』の「論文」の項目を基礎とする、という、超絶アナクロニックな態度をとっている。つまり論文とは「論議する文。理議をろんじきわめる文。論策を記した文。」「研究の業績や結果を書き記した文」であり、ここで示された「論議」とは「問答によって理非を明らかにすること。互いに意見を述べて論じ合うこと。議論。」であった。
これが、見方によっては極めてヌルい戦後民主主義的な価値観であることは承知している(紙の辞書なるものを引いている段階でそうである)。論議などまやかしだ、そういうことが可能な条件に恵まれた人間だけのお遊びじゃないか、という指摘は一面の真理だ。暴力が表面化し、強いやつが勝ち、あるいは勝ったやつが強くて全てを総どりする「現実」の前で論議など特定の範囲の実績作りに過ぎない、つまり、そういう論文自体、勝ち負けゲームの所産でしかない。
じゃあ弱い立場の人間は、一度負けた「敗者」は、病気や悪条件を背負った存在は、ただ黙ってすりつぶされるしかないのか。否だ。人は簡単には死なないし死ねない。吉本隆明は「眼の前の誰かを殺さなければ自分が死ぬしかないとき、自殺するよりも他殺するほうが正しい」と喝破した。以下の文章が、誰の「実績作り」かは、読者にとって関係がない。他者や自己を傷つける前に垣根を切り裂く理議。そういう逃走=闘争路が、僕にいつ必要になるか分からない。その意識の下、以下のテキストは読まれた。
1.石川卓磨「スマホ以後の造形批評:デザイン・テクノロジーとアート クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために 最終回」(Tokyo Art Beat連載、2025年1月29、30日更新)
前回、末尾に簡単に紹介したが、完結したので改めて取り上げる。紹介済みの長谷川新テキストと同じアートメディアの連載なので、正統的な論文とは言えないが、ここで石川は人と事物のインターフェースの関係を、スタインバーグの美術批評からリヒターやラウシェンバーグといった美術家の作品などを取り上げつつ概観する。スマートフォンやデジタルデバイスにおけるユーザーインターフェースに見られるデザインの「罠」と美術のインターフェースに注目し、デザインの優位性に隠れている美術の可能性を分析・記述することに美術批評の意義を置く。
実作を極力多く取り上げるためのあえての迂回であったとしても、本人が書くように冗長であることは否めない。しかし本論の魅力は、むしろその冗長性にある。連載を通じて個々の作品を取り上げるとき、一見無駄に見える記述に、本来の目的である「美術批評の再構築」からはみ出した魅力が、ぽろりとこぼれだすのだ。それぞれの記事にそれらは散見されるが、今回取り上げた最終回では、環境保護団体の絵画へのアタックとリヒターのガラス作品を並置してみる試みなどは興味深い。
個別の作品に多く触れることで読者の思考を喚起するのがこの文章の作戦なのだとしたら僕は見事に「罠」にかかっている。本来の、美術批評の立て直しというテーマは、ごく正直に言えば、圧倒的な「負け戦」が想定される。しかしその負け戦を粛々と進めていく姿勢は次のヒントになり得るかもしれない。石川が実作者として批評を書くのではなく(僕はその立場だが)、実作者であると「同時に」批評家でもある、という困難をあえて選択していることも注目していい。恐らく石川は、単に作品の魅力を引き出す以上のことを考えているはずなのだ。
2.登久希子「リサーチ・ベースド・アートにおいて交換される個人の物語――飯山由貴、ティファニー・チュン、クリスティン・ウォン・ヤップの実践から」(東京造形大学研究報26 2025年3月31日 発行)
現代美術の世界では、前から「リサーチ・ベースド・アート」と呼ばれる作品が増えている。社会的課題に対して当事者に取材し、関係論考などを参照しつつ、インタビュー映像・音声や資料を視覚上「美的」に提出して作品化したものだ。暮沢剛巳は一般に美術を「問題提起型」、デザインを「課題解決型」と切り分けるが、「リサーチ・ベースド・アート」は「問題提起型」現代美術の典型的な形式と言っていい。
僕はこういった作品から距離をとっている立場だけれども、そういった「好き嫌い」の水準ではない、もう少しきちんとした理解をしようとしたとき、登久希子のこのテキストは良質な一歩になるだろう。ここでは飯山由貴、ティファニー・チュン、クリスティン・ウォン・ヤップという三人の作家の具体的な作品を取り上げながら、「リサーチ・ベースド・アート」の問題点や課題にも目配りしつつ、作家たちに共通する「物語り」を取り出して人類学における贈与論と結びつけている。
僕は登の結論に同意はしないけれど(人類学上の「贈与」は、もっと破滅的な暴力や攻撃性を内包するものではないだろうか)、しかし、登の論文自体がある種の「リサーチ・ベースド・アート」に近接している。つまり作家=当事者に取材し、学問的知見と参照関係を作りつつ、一定の「物語り」を紡いでいる。メタ化が一転して当事者化でもあることが垣間見えるのが、この論考の面白いところだ。「リサーチ・ベースド・アート」に批判的な人(いわゆる「食わず嫌い」の人)は、ここを入口にすることを勧める。けっこう「隙」がある、そこから思考が開始できると思う。
3.小田視希 「欲望と反省のペルソナ ──AV監督・二村ヒトシが体現する「あたらしい男性性」」(京都大学人間・環境学研究科芸術文化講座紀要、2025年3月3日発行)
ポルノ映像は現在、ほぼwebによる配信によって代替されている。かつての、VHSビデオテープに収録され郊外のレンタルビデオ店の「のれん」の向こうから貸し出されていたメディアを表象していた「アダルトビデオ」という語は、半ば考古学化した。このことは、逆説的だがアダルトビデオが、学術的対象となる条件を準備しただろうか。小田視希は2023年の「「キモ男」の課される/求めるホモソーシャリティ──画面外の声, 人格テスト, 従属的男性性の承認──」、2024年の「アダルトビデオ監督の描く「真正性」 ──快感、演技、生理的反応──」と、コンスタントにこの領域の研究を京都大学紀要に上げており、そのテーマ設定の秀逸さとあわせて注目に値する。
考古学化した、と書いたが、本論はかなりの程度現代性のある内容である。2000年以降の新自由主義下、能力評価が全面化した社会で男性性の堅固さがゆらいでいくとき、女装する男性など性規範から外れたキャラクターを登場させ、自ら男優としても出演し「多形的な性の様態」を描いた監督・二村ヒトシが、しかしそういった「多様性」を体現するリベラリズムとあわせて、明白に作家主義的な支配力を実現していくことも示している。フェミニズムとの関係、先行研究の紹介、アダルトビデオという媒体が(村西とおるなどの存在を通して)、監督による「作品」という位置を得ていくプロセスの記述など、頁数にふさわしい重厚さを持っている。
そういったアダルトビデオ史を踏まえ、小田は二村ヒトシを「バクシーシ山下の影響を受けた欲望のペルソナ」と「代々木忠の思想を引き継ぐ反省のペルソナ」に分節した。二村ヒトシは「能動性に固執しない性関係」を示していくが、しかしその作品の内実を分析し「あたらしい男性性が顕示する二村の権威」を指摘する結論に至る。
広くアート的視点で見るなら、本論考は「多様」で「自由」でなければならないという現代的規範を踏まえた上で、だれであっても自分の能力を社会化し実績を示し続ける必要のある今「作家」「アーティスト」という立場がこのハードルを超える、一種のマジックポジションであることを考察する好材料になっている。社会道徳から奇妙に免除される「アーティスト」、ジェンダーの自由や才能の発露がいかにも保証されている「クリエイター」が、まさにその背後でどのように権威的になっていくかという事象は、広く映像産業、アート業界で露呈している。
小田視希が京都大学紀要に書いている主題は、広く弱者男性論の射程圏内にあるとみてもいいかもしれない。性はヒトの究極の弱点である、自己の心身を他者=外部へ開かざるを得ないプロセスである。そのプロセスを検討する主題としてポルノグラフィの意義は明らかだし、その研究の蓄積はアダルトビデオの分野に一定あることがわかる。小田の仕事はいずれ単著にまとまるべきとも思う。
おわりに
石川の「スマホ以後の造形批評:デザイン・テクノロジーとアート」を読んで想起されるのは、美術手帖2019年第16回芸術評論募集に佳作として入選した布施琳太郎の「新しい孤独」である。かつての芸術の役割を現在代替しているのはiPhoneである、という書き出しで始まる本論は、デジタルデバイスのインターフェースの神話性からルネサンス・イタリアの画家ギルランダイオを召喚し、様々な「GUI」を通して古代の洞窟壁画にまで接続する。最終局面の論理の飛躍が激しいが、一定の読者を獲得した論考だと思える。改めて読まれてよい。
府中市美術館で開催された「かっこいい油絵 司馬江漢と亜欧堂田善」図録収録の、アド・ステインマン「司馬江漢と亜欧堂田善の銅版画の技法」は、展覧会図録ながら東京美術から書籍として発刊されたものである点を含め、いくつかの理由で今回は外した。だが、江戸期に日本に流入した西欧テクノロジーの展開の一側面をコンパクトにまとめている。美術展図録の論文は、華やかな図版に比べ影に隠れる事が多い。しかしオランダの版画家兼版画技法史研究家という立ち位置から、明治に正式な外国人教師を招いて銅版画技術を導入する前の「日本銅版画派」を紹介した本論は、充実した展示と併せて印象的であった。
昨年、本文で紹介したVECTIONは、今年も刺激的な論考を公開している。「なぜ3ではなく5なのか? 権力分立と希望の幾何学 #3」は、一般的な権力分散のシステムである「三権分立」を、しかしときにそのうちの2プレイヤーが結託し残りの1プレイヤーを従属させる危険があると指摘し、この難点を解消するシステムを構想している。相当程度に難解で複雑ではある。従って、これがこのまま現在の議会制民主主義に実装できるかは疑問だ。しかし、ここまで抽象的な構造が示されると、むしろAI国家にこの構造を持たせて、非人間介在的な政治にしてしまえば、現状よりかなり「まし」な世界が到来するのではとも考えさせる。相変わらず特定一部の読者にしか注目されていないが、改めてVECTIONの試みは広く知られるべきだと思う。
▶永瀬恭一。1969年生まれ。画家。東京造形大学造形学部美術学科卒業。2008年から「組立」開始。 主な個展「記号の森/象徴の森/主題の森」(2024年、殻々工房)「感覚された組織化の倫理」(2021年、M-gallery)、他。主なグループ展「エピクロスの空地」(2017年、東京都美術館セレクショングループ展)他。共著に『成田克彦――「もの派」の残り火と絵画への希求』(2017年、東京造形大学現代造形創造センター)、『20世紀末・日本の美術――それぞれの作家の視点から』(2015年、ART DIVER)、『土瀝青 場所が揺らす映画』(2014年、トポフィル)。
②文学史のこと、あるいは伝統のこと 高山京子
はじめに
私事で恐縮だが、2025年8月25日、学部・大学院の指導教官であった大久保典夫先生が97歳で亡くなった。岩野泡鳴の研究者であり、文芸評論家でもあった先生は、全盛期には『国文学』や『解釈と鑑賞』に毎月のように登場し、昭和文学会を立ち上げるなど、戦後の日本文学の生き字引のような人だった。その先生が目指していたのは、保田與重郎という、批評家と文学史家とを兼ねる存在であった。文学史。顧みられることの少ない文学史。そのおかげか筆者は、文学史が好きであり、伝統につながるような文学作品を愛する。今回はその観点から論文(あるいはそれにつながるか、今後の研究に資すると思われるもの)を選んだ。
①山田詠美×松浦理英子「年月が熟成させるもの」(『文藝』2025年冬季号)
いきなりロンブンではなく対談である。ことばには何かと厳しいこの時代、仕方がないことだとは思うが、文芸誌における対談・鼎談・座談会などのつまらなさといったらほとんど絶句してしまう。当たり障りのない発言に終始し、これでは今後、研究には何の役にも立たないのではないか、と思ってしまう。かつては、対談ひとつにしても、喧嘩の「芸」というものがあったのだが。
しかし、この二人の対談はなかなか読み応えのあるものだった。下手な批評よりよい。特集「山田詠美デビュー40周年 『女流』の矜持、文学の倫理」のなかのひとつで、山田へのインタビューと迷ったのだが、文学史的に見て重要なものであると考え、こちらを選んだ。先に筆者は、「批評家と文学史家とを兼ねる」ということを書いたが、それは言い換えると、過去を知り、未来を見据え、かつ現在の状況を正しく把握しており、何が文学で何がそうでないかを腑分けする、ということなのだ。その点で、この対談はそのすべてを網羅している。「文藝」を舞台に、同誌が火付け役となった「シスターフッド」の概念に懐疑的なのも面白い。
この特集は、2025年10月刊行の山田詠美の『三頭の蝶の道』も念頭に組まれたものであるが、「ある若い女性の作家が『女流』に対して『身の毛もよだつ』と言っていて、それはないだろうって私は思った。女性の作家が女流作家と呼ばれていた時代を私は知ってる。それは決して馬鹿にされるような言葉でもなかったし、女流と呼ばれた人たちがどんなふうに小説と向かい合って格闘してきたか、今の女性の作家たちが立ってる場所はどれだけ女流作家たちが耕してきたものなのか……腹立たしいのと同時に、私自身の中に鮮明に甦るものがあった」という作家の言葉は重い。
筆者は、ある大学で、「国語国文学とジェンダー研究」という授業を担当し、半期15回、女性作家の作品だけを読む、ということをやってきたのだが、ここ数年のジェンダー研究の嵐は想像以上に教育現場に混乱を招いた。学生からは「男性/女性作家の区分自体が古い」という意見もあった。しかし、女性作家やその作品は、はたして、その概念が「古い」と言い切れるほど読まれ、研究され尽くしたのだろうか。このままでは、間違いなくほとんどが埋もれてしまう。そのタイミングでの、山田詠美の新作であり、発言だった。
また、若い作家志望者が書くものについて問われた松浦理英子が「今はセクシュアル・マイノリティを出してくる人が一定数いますね。ただ、十分に思考し探究したのちに書いている感じのあるものは少なくて、昔の『自分探し』の延長に見えるものもありますし、セクシュアル・マイノリティを出せば今風になって当選しやすくなると思ってるんじゃないか」と言っている。「止むに止まれぬ気持ち」で書かれたものをよしとするという二人の古風なことばは、常に新しい世界を開拓しながら、本質的にはアウトサイダーであり続ける、女性作家という「生き物」の宿命を思わざるを得なかった。
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309980881/
②安藤陽平「安岡章太郎からみる『第三の新人』」(『国文論叢』2025年3月)
『国文論叢』は神戸大学文学部国語国文学会から年に一回刊行されている雑誌で、この第62号の「小特集「『第三の新人』再考――『戦中派』の思想と作品」は画期的なものだと思った。星住優太の「小特集に寄せて――『戦中派』としての『第三の新人』――」によれば、2020年3月から戦中派研究会という小さな勉強会や読書会を重ねてきた成果としての特集であるという。ここに記されている通り、「第三の新人」という文学史的な区分は、山本健吉の「第三の新人」(『文學界』1953年1月)によって登場した概念で、それは「第一次戦後派」「第二次戦後派」の後に登場した作家という意味で使われており、曖昧なまま現在に至る。
筆者は、この「第三の新人」の作家たちを、戦後の文学史においてもとりわけ重要だと考えている。そこには大きく分けて二つの理由がある。まず、江藤淳『成熟と喪失――母の崩壊――』(1967年)と、上野千鶴子・小倉千加子・富岡多惠子の『男流文学論』(1992年)という大きな批評作品を生んだこと。ある意味で、後者は前者の批評としても存在している。もうひとつは、彼らによって描かれた「母と息子」の作品がなければ、発展的に、現在まで続く女性作家の手による「母と娘」の関係を描いた作品も生まれなかったのではないか、と思うからだ。
安藤陽平は、安岡章太郎からこの「第三の新人」を論じているが、安岡が(ある意味では、必然的に)担わざるを得なかった役割についての分析は見事である。安藤は「第三の新人」の内実に踏み込んだ論として服部達の「新世代の作家たち」(『近代文学』1954年1月)及び「劣等生・小不具者・そして市民」(『文學界』1955年9月)があるものの、それに基づく先行論は「『日常』にしろ『政治』にしろその指し示す範囲が狭隘ではないか。とりわけ、彼らの文学をいまあらためて検討する場合、『政治』がただちに大文字の政治を指す同時代性を引き受ける必要もないだろう。評価の歴史は踏まえるべきだが、それを相対化しない限り、彼らの文学は『戦後派』と対立する『非政治』的『日常性』の文学という評価から進展しない」と述べる。
また、「第三の新人」においては、代弁者となるような批評家がいなかったことから、安岡がそのような立場をも引き受けざるを得なくなっていく経緯については、「分類を冷めた態度で眺める安岡がいた一方で、それを拠り所とし『代弁』する安岡もまた存在し、分類に対する安岡のありようは揺れていた。なかでも、『第三の新人』批判へのこだわりが後の〈思想〉を導いた点では、安岡における分類の意義は小さくない。『第三の新人』があったから後の安岡もあったといえる部分が確実にある」ことを指摘している。
この特集は、他に金岡直子の「限界と自由と――『差別 その根源を問う』周辺――」が面白い。2025年は、『昭和文学研究』第90集でも「一九九〇年代と文学」という特集が組まれているが、あらためて、文学史と批評とは不可分の関係にあることを痛感した。
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/
③「歌のなかの言う力、言わない力」(『歌壇』2025年4月号)
坂口安吾が「作家論について」(『現代文学』1941年5月)のなかで「僕は小説を書きながら、その悔恨の最大のひとつは、巧みに表現せられた裏側には、常に巧に殺された真実があつた、といふことであつた」と書き記していることは、文学におけるあらゆるジャンルに通底する基本的な問題であり、そこに創作の大きな秘密も隠されているわけであるが、だからこそ、この特集は面白かった。
執筆者は内山晶太・春日いづみ・小島なお・柴田典昭・鈴木加成太・竹中優子・松村正直・山科真白で、それぞれ見開き2ページのエッセイを書いているのであるが、こうした批評性を帯びたエッセイの力というものを、昨今の随筆/エッセイブームとともに考えさせられた。執筆者は、誰もが知るような有名な短歌や自身の歌を実例に出し、テーマに言及する。雑誌の読者層を考えても、難解かつ長文の創作理論を読む根気がある人間というのは限られてくるので、エッセイという形式はやはりよい。批評的なエッセイの充実は、結果的にそのジャンルの裾野を広げるのではないか。
それにしても、歌の伝統というものは恐ろしい。和歌の時代から現在に至るまで、何よりも恐ろしいのはこの歴史の重みである。それは近現代詩の歴史と比べると明瞭になる。『現代詩手帖』2025年7月号の特集は「詩論と実作のあいだ」というもので、内容から察するに、入沢康夫の『詩の構造についての覚え書』がちくま文庫として復刊された(2025年3月)ことを意識して組まれたものであった。しかし、総体的に見て、このジャンルはあまりにも詩論や批評が少なすぎる。そこにそのまま現代詩の不幸があるような気がする。
「歌のなかの言う力、言わない力」に話を戻せば、小島なおは、「欲しがりの詩型」と題して、短歌においては「『言わない力』の方がスタンダードである」とし、その他の歌人もどちらかと言えば「言わない」ことに力点を置いている。思うに、これが、どの文学ジャンルにおいても、プロとアマチュア(この線引き自体がひどく曖昧ではあるが)の差になるのではないか。小島の「そこに立っているだけで自動的に意味や抒情が生まれてしまう装置である短歌は、作者の意図に支配されてしまえばその機能の一部しか稼働できないことになる。言わない力によって意味を増幅させ、言う力によって増幅しすぎる抒情を抑制しながら読者に期待している」という結びは、文学という表現の真髄を言い得て妙だと思う。そして、幅広いジャンルで活躍する竹中優子は、やはり文章が巧かった。題は「質量保存の法則」。https://www.honamisyoten.com/item/kadan202504/
おわりに
この原稿を書くために、自分の専門や興味関心に合わせて、可能な限り、一年分の批評や論文を集中的に読んだが、これが予想以上に面白く、今後、勝手に毎年の恒例行事にしようと決めた。もちろんひとりで。
▶高山京子:1975年生。日本近現代文学研究、詩、批評、エッセイ、ほんの少しだけ短歌。著書に『林芙美子とその時代』(論創社、2005年)、『Reborn』(∞ブックス、2024年)など。最近の論文としては「〈内向の世代〉のなかの三枝和子――敗戦三部作をめぐって――」(『昭和文学研究』第86巻、2023年3月)、「文学教材あるいは作品の「読み」をめぐる可能性について――『山椒魚』『檸檬』『こころ』を例に」(『日本文学』第72巻11号、2023年11月)がある。
③「分かること」と「分からないこと」——2025年の紹介したい詩論三篇 髙村峰生
今回、詩をめぐる「ロンブン」を三つ選んだのは、年末に詩人のシーレ布施さんと企画した『現代詩手帖』12月号(この号では、その年に発表された詩が詩人ごとに一つずつ選ばれている)の読書会の影響が大きい。2024年末に思い立ってオンライン上で行った、ひたすら詩を一つずつ朗読しては考えたこと、感じたことを言い合う読書会は2日間、10時間以上に及ぶものとなった。2025年の暮れは、西宮北口駅近くの公民館で実際に顔を突き合わせて行い、計6人の参加者でざっくばらんな議論を行った。読書会では話し合いを通じて、「分かること」と「分からないこと」の解体と再構築がなされる。つまり、一人で読んで「分からない」と思っていたことでも、話し合いを通じてちょっとずつ「分かっていく」という学習にも似た経験もある一方、一人で読んで「分かる」と思っていたことが、話し合いを通じて「分からなくなる」ということもある。このような光と闇を縫って歩くような「理解」をめぐる移動が起きるのは、読書会の分かりやすい醍醐味である。しかしながら、実際には、一人で「分かる」と思っていたことが他の参加者にも同様に「分かってしまう」ことが判明する場合や、一人で「分からない」と頭を抱えていたことが、話し合いを通じても一向に「分からない」こともある。このように表面的には進展が見られない場合でも、やはり読書会は有意義である。無意識のうちに読者が持っている解釈の共同体的な枠組が、その有効性と限界と共に見えてくるからだ。私たち6人はどの地平を基準にして、詩を——さらには言葉を——「分かる」とか「分からない」などと言っているのだろうか、この問いに私たちは差し戻される。特に「分からなさ」は重要だ。「意味のある分からなさ」と「意味のない分からなさ」の違いを、読み手はしばしば直感する(あるいはその狭間で躊躇する)。
現代詩人が小説にも手を伸ばし、言葉に新鮮な風を吹き込むようになって久しい。それは「分からなさ」を生産的に混入することで、小説なら「分かる」と思われていた理解の枠組を揺り動かすのだろう。本企画の「ロンブン」は学術的な「論文」という一定の作法に基づく記述の枠組を揺るがす言葉として用いられているが、それも「分かること」の多様性である。そのスピリットにのっとり、本稿では記述スタイルの異なる三つの優れた詩論を取り上げ、批評の通路の多彩さを示してみたい。
①来馬哲平「個々人主義者と不向者——Frank O’HaraとJack Spicerの「宣言」を交差的に読む」(『英文学研究 支部統合号』2025年、第17巻、pp. 61-69)
本論文は、フランク・オハラの“Personism: A Manifesto”(1959)とジャック・スパイサーの“The Unvert Manifesto”(1956)という、性格も評価史も大きく異なる二つの「宣言」を交差的に読むことで、両者を対立的にではなく、冷戦期アメリカにおけるクィア詩人としての共通の詩的・政治的実践として再定位する試みである。従来、オハラは日常性・社交性・即時性を特徴とする「日常生活の詩学」の中心人物として評価され、スパイサーは日常の外部や他界的な声に詩を委ねる難解で幻視的な詩人として周縁化されてきた。本稿はこの図式を再検討している。
まずスパイサーの“Unvert Manifesto”は、同性愛者を「倒錯」と病理化する社会や、同化を志向する政治運動双方から距離を取り、「どこにも向かわない(unvert)」否定の言語を戯画的・ナンセンスに反復することで、同一性政治を攪乱する詩的実践として読まれる。否定の連鎖や擬似日記形式は、詩と日常、公と私の境界を崩し、読者との「友情」を組織する。
一方オハラの“Personism”は、電話や手紙のような私的コミュニケーションを詩のモデルとし、特定の個人に宛てることで逆説的に「真の抽象」に近づく詩を構想する。軽妙で即興的な語りの背後には、同性愛嫌悪社会の暴力への切迫感が伏在し、詩と非詩、文学と日常の境界を解体する実験性がある。
最後に本稿は、スパイサーのAfter Lorca (1957) における「忠実さ」を全く無視した自由で意図的な誤訳と、スペイン内戦で亡くなっているはずの同性愛詩人ロルカという死者との「文通」の実践を媒介に、両者が「結合」ではなく「呼応(correspond)」に基づく詩的共同体を志向していたことを示す。オハラとスパイサーは、詩を私的所有や完成された作品から引き剥がし、読者や未来の他者との不安定な親密性へと開く点で、深く結びついていると結論づけられる。
彫琢された言葉により日常とエロスを解体・再整合し、20世紀中葉のニューヨークとサンフランシスコという二つの場を代表した同性愛詩人の関連性を示唆する本論文は、冷戦期におけるクィアの言説領域において宣言されることと囁かれること、公共と私的空間の交錯を鮮やかに描き出している。
②山﨑修平「井戸川射子論」(『詩と思想』2025年6月号、pp. 105-109)
井戸川射子の詩と小説の文章がどのように書かれているのかという一点に絞った、自身も詩と小説を横断する作家による文体論である。冒頭、著者は「詩と小説とは、それぞれかくあるものだという基準」を解除することを提案し、「詩も、ラップも、散文も、韻文も、眼前のテクストをひとまず受け入れて読むということを考えたい」と述べている。日常的な題材を扱いながらしばしば読みづらさを指摘される井戸川の文章が、このような試みに好適な対象であることは言を俟たない。
山﨑は、第一詩集『する、させるのユートピア』所収の詩「川をすくう手」における次の一節を引く。
学校、うん、教室にいるとぽつんと、一つの島に一人ずつがいる気持ちになる。それがきれいな島ならいいけれど。
この箇所における「うん、」に注目する山﨑は次のように考察を展開する。
私はこれを隠された他者の相槌と捉えた。まず、一人称文体の発話者が、「島に一人ずつがいる気持ち」であることを、隠された他者に伝達しようと試みたとき、「学校」という語句から導き出されるように、言語発達が途上な発話者は、「学校」という意味の範囲が広い語句を口にしてしまう。このことに呼応した隠された他者による「学校?」という疑問系[形?(引用者)]がテクスト外に隠されていて、発話者は思い直し、本来伝達したかったであろう語句である「教室」へと言い直すことによってたどり着く。当該テクストにおける相槌の「うん、」は、肯定のみの「うん、」ではなく、隠された他者とのコミュニケーションをはかる上での、感情を共有するための「うん、」と言えるのではないだろうか。(106)
たしかに、「学校、うん、教室」は、あいだの「うん、」を経ることで、空間的な範囲が狭まっている。山﨑はこのようにして、聞き手の存在に影響される一人称の語りを捉えた井戸川の会話文を評価する。この考察をもとにさらに井戸川の詩の「声」の深部に降りていくならば、この隠されたキャッチボールを読み取る読者は、二人のあいだで交わされる言葉だけではなく、そのような言葉が交わされうる二人の近い距離、親密さを読み取るだろう。「ぽつんと」という擬態語や、「島」という孤独の様態を示す比喩は、教室の中で生徒たちが集まっているようで集まっていない、一人ずつの殻に籠っているという、部分と全体、内と外を一挙に見た話者の孤独の感覚を、発話者が聞き手を信頼して伝えていることを示している。「きれいな島ならいいけれど」ということばに内包された不安の感覚は、比喩を通じて世界と向き合う話者の、見えないものへの想像力を示しているだろう。伝えるという情動に駆動された比喩はこのように生きてくる。「うん、」という一言に注目する山﨑の鋭い耳と目は、私たちが詩の余白を読み取ることを助けてくれるのだ。
③小笠原鳥類「榎本櫻湖の詩が、いつまでも、いつまでもギラギラしている」(『文學界』2026年1月号、pp. 142-149)
小笠原鳥類は詩だけでなく、エッセイにおいても独自の文体を持ち、対象を超速度で捉え、余人には思いつかぬものと接続する。ここには、学術論文執筆にあたって避けよとされていることの全てがある。が、それこそが死者との交通を可能にする風通りの良さを作っているのだ。小笠原は、榎本の詩には「驚く言葉がギッシリ詰め込まれてい」るとし、「知らないことが書かれていたら、素直に知らないことだと認めて、少しずつでも確実に、自分がいる場所とは違う場所を読むのだ。怖いことでも、あるのだが。」と、榎本の詩に向かって読者がどのように歩みを進めることが可能なのかを示す(142, 143)。
榎本の第一詩集に収められた「どくだみ健康チャンネル」に現れる「イルカ」や「微生物」は、小笠原に生物図鑑や「NHK教育の科学番組」の記憶を喚起する。同じ詩に現れる「めずらかな南国産の蛾が数えきれないくらい詰まっている」という言葉の「ギラギラ」した感じに触れながら、小笠原の回想/連想は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ』へとおよび、ビートルズと榎本を結んでみせる。
ビートルズのディスクで、ライナーノーツを真面目な研究者が書くことが多いようで、読んで勉強できる。しかし、その冊子に榎本櫻湖のようにギラギラな謎の詩が、ギッシリ細かい字で書かれているとすれば、評論よりも正確にサイケデリックな音楽を語っている(音楽とともに鳴り響いている)。もっと、いろいろな所に、過激な詩が、あってほしい。(145)
このようにメジャーなものとマイナーなものを結ぶ小笠原の文章も、榎本の詩とともに鳴り響いている。この論考でも触れられているように、榎本は「ペンギンはロケットなのだと彼はいう」という、これまたきわめて榎本的な創意の込められた小笠原鳥類論を2015年に書いている。そこで榎本は、小笠原が「旧版のヴェーベルンの全集」CDを売ってしまったことを後悔していると話していたことに触れているのだが、驚くべきことに、榎本が生前企画していて死後に創刊された雑誌『Cygnifiant』の0号に小笠原が寄せた小文「弦楽四重奏のための五つの楽章——交響曲——J・S・バッハの六声フーガ・リチェルカーレの編曲」は、榎本の小笠原論における上記のエピソードに言及しつつ、二〇二四年になってそのCDを「再び買った」と書いていて、そのCDに封入された武田明倫・野中映による動物たちに満ちた前衛詩に他ならない「曲目解説」を引用することで小笠原自身の詩の源泉を明かしてみせる。このヴェーベルンの音楽に合わせて書かれた常軌を逸したライナーノーツが、上で引用した榎本によるビートルズのための架空のライナーノーツという小笠原の発想の元となっていることは疑いの余地がない。
榎本は「ペンギンはロケットなのだと彼はいう」において、小笠原の詩とメシアンの音楽は「ほとんど分かちがたいほどに似通った印象をわたしにあたえる」とし、そのうえで、小笠原の詩の背後にメタファーを読む必要はなく、「想起されるイマージュを従順に堪能すればいい」という。これはまさに、小笠原が榎本の詩を読むやり方において反復されていると言えるだろう。この榎本による小笠原論には「映画、このキラキラ光る星の夥しい鳥たち」という詩をメシアンの《異国の鳥たち》と比較して論じている箇所があるが、小笠原はこの「キラキラ論」に対して、榎本の詩における「ギラギラ」を論じることで10年越しの返歌としているのかもしれない。
タイトルの「いつまでも、いつまでも」という繰り返しは痛切だ。が、本当に榎本櫻湖の晦渋な詩を形容するのに「ギラギラ」といった、たしかに生命力を持つものの、どこか浅はかで商業的な感じもする響きが適切なものであろうか、という躊躇は生じる。「榎本櫻湖の書き方は、文学というジャンルの中で(あるいは世の中で)少数派であるようだ」と小笠原は書く。これはまったくそのとおりだし、真のマイナー詩人としての榎本と共になければ榎本を読んだことにはならない。平準化された「分かること」に挑戦することに詩的な企投があるのだとすれば、榎本の言葉がビートルズのアルバム解説に書き込まれる世界を思い描く小笠原は、榎本とともにメジャーとマイナーを架橋する「ギラギラ」という言葉の新たな定義を世界に贈与しようとしているのだ。
▶髙村峰生(たかむら・みねお)
関西学院大学国際学部教授。イリノイ大学で博士号を取得。近現代の英米文学、比較文学。著書に『触れることのモダニティ』(2017年、以文社)、『接続された身体のメランコリー』(2021年、青土社)。「あらゆる透明な」で第6回仙台短編文学賞大賞受賞。現在はサリンジャーについての単著を執筆中。
④アイデンティティー、アンソロジー、ブックレビュー 瀬戸夏子
前回、同じ企画に参加させていただいて、短歌及び短歌批評の現状について書かせてもらったが、今回も短歌の批評について書きたい。ただ前回は、短歌批評について批評界隈の人はほとんど何も知らないだろうと思い、短歌批評について大前提として知ってほしいと思っていることを書いたが、今回はもうすこし具体的な話をしていきたい。
2025年、歌壇でもっとも話題となったのは間違いなく高島裕の連作「アイデンティティー」であり、もっとも盛り上がったのはこの連作をめぐる倫理についての議論である。
国連を味方につけて強気なり、性と婚姻の紊乱者ども 高島裕
遠つ代の冥きより曳くひとすぢの白光 かけがへなき國體
十二首連作のなかから一首目と十二首目を引用したが、この連作から意味内容を抽出しようとするなら、選択的夫婦別姓や女性の社会進出への反感、性的マイノリティーの人々を尊重する「多様性」への苛立ち、その正反対の価値観への強い希求というあたりになるだろうか。
この連作は雑誌「歌壇」2月号(本阿弥書店)に掲載された。そして同雑誌の5月号に、久永草太の時評「何を言っても許されるのか」が掲載された。この時評はまるまるすべて高島裕の「アイデンティティー」批判である。一本目は議論の口火を切ったこの時評を選びたい。
ここから始まった論争は年を跨いだ2026年現在も続いている。というより短歌の世界で盛り上がった論争が半年程度で終わるはずがない。数年単位で続くことも珍しくない。
紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき 大辻隆弘
高島の歌を読んだときにまず連想したのはこの歌であり、久永の時評を読んだときに思い出したのはこの歌をめぐる長い長い論争のことだった。会田誠の1996年に発表された『紐育空爆之図』を、2001年の9.11同時多発テロの際に想起している歌である。この歌をめぐる論争は長かった。本当に長かった。いつ収束したかも覚えていないくらいに長かった。
短歌批評で異質で異様だと感じるのは、論争期間の長さであり、かつ大きなトピックにはほぼ全員参加型となってしまうような底知れぬ一体感である。思うにこれは、短歌というジャンルが持つ特質に大きく依るものだ。
短歌には歌会という全く滅びそうにない文化がある。各人が歌を提出し、提出された歌について数時間みっちり口頭で批評しあうイベントである。歌壇というのはこの歌会が最大化されたものだと思う。限られた場所で皆が同じことについてひたすら話し合う。歌会のあとの二次会でも。三次会でも。SNSでも。そのあと再会したときにも。いつでも。ずっと短歌の話をしている。良くも悪くも歌人は短歌が好きすぎる。その時間で世界情勢やLGBTQ+についてもう少し深く勉強をしたほうがいい。ある程度は。おそらく。
二本目に挙げようと思うのは石山ふねのnote記事「〈Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI〉への私見―わたしは乾にひっくり返ってみてほしい」だ。
まず〈Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI〉とは何かというと雑誌「現代短歌」2024年5月号(現代短歌社)が組んだ特集企画で、雑誌の編集長である真野少がBR賞(※BR賞については後述する)受賞者である乾遥香に責任編集で企画をやらないかと持ちかけて、乾が実行したアンソロジー企画である。ただしこれには前段があり、2021年9月号に「現代短歌」は〈Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990〉という特集を組み、そしてこの企画は編集長のアンソロジーに対する態度によって炎上している。短歌においてアンソロジーというのは限界まで気を遣おうが100%批判がくる非常に難しい扱いのものであり――これは短歌というものがつねに選ばれるか選ばれないかというプレッシャーに晒されつづけることで作品の強度が上がる文学であることと関連しているだろうが――編集長がこれに対して非常に鈍感だったため起こった炎上だったと考えられる。
よって乾の企画は編集長及び現代短歌社の尻拭いという側面があるのだが――とここまで長々と前提を書いたところで短歌界隈でない読者からすれば「めんどくせぇな」という感想になるのではないかと推察するが、石山の記事が優れているのは、こんな前提など知らなくとも、短歌界隈についての知識がなくともするりと読めてしまうところにある。
筆者がここで挙げるもののうちインターネット上で読めるのは石山のものだけなので、もしこの文章を読んで関心が沸き、挙げられた批評を読んでみようと思った読者がいるとして、最初に読むのはどう考えても石山の記事になるだろう。
Twitterでは議論をしたい。というよりいまのTwitter――まあいやいやXと呼んでもいいが――は気が向いたときに議論に参加することができる何かとして機能させる以外の用途がほとんど見つからない。しかしあくまでTwitterはプラットフォームにすぎないので、議論の材料は他から調達しなければならない。見てもいない映像作品。読んでもいない本。会ったこともない有名人。なんでもいい。ただし見てもいない映像作品や読んでもいない本や会ったこともない有名人を、つまり直接知らないものについて人の言及を集めるにはコツがある。まるで見たことがあるかのように、読んだことがあるかのように、会ったことがあるかのように種々のアカウントの持ち主たちを錯覚させる、情報量が絶妙にコントロールされた最初の言及である。
石山の記事を読めばわかるように、〈Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI〉には対談企画があり、その対談相手は筆者である。しかもアンソロジーは一人一頁なので計四〇頁なのだが、乾と筆者はなんと三八頁にわたって三段組で延々と喋っている。石山記事で引用される乾の失言と判断されそうな発言は、もし対談相手が筆者でなければ存在しなかったであろうものもあり、筆者が責を問われてもおかしくはないと判断する人もいるだろうが(国会答弁のように?)その問題については石山は触れない。それは記事を組み立てるときに余計な情報だと判断したからではないかと思う。ないほうがわかりやすい。そんな巧みな操作が随所に見られて舌を巻く。短歌界隈の知識がなくてもすんなり読めてちょっと言及してみたくなる――インターネット上に存在する=短歌を知らない人にもリーチできるという特性を活かした最適解のような記事で、そのフォルムに感心した。
最後に第6回BR賞で花山周子の選考委員特別賞を受賞した鷺沢朱理「《ヘリオガバルスの薔薇》―あるいは、教皇ボニファティウス八世としての私が、「禁書」にすべきと思うほどの― 川野芽生歌集『星の嵌め殺し』書評」(「現代短歌」No111)を挙げる。
短歌には批評の新人賞がふたつあり、雑誌「短歌研究」主催の短歌研究評論賞と、雑誌「現代短歌」主催のBR賞である。短歌研究評論賞は「現代短歌についての評論」というシンプルなテーマで応募作を募っており、批評の新人賞のあり方としてはプレーンなものだ。
一方、BR賞とはBR=ブックレビュー=書評のことであり、その年に刊行された歌集歌書から任意の一冊を選んで書評するという体裁の応募原稿を募るという形式を採用している。
この時点で疑問を持つ人がいると思う。書評とは、果たして厳密な意味で批評と言えるのだろうか?
商業媒体での書評は書き手自らが取り上げたいと思った本について書くという形式はきわめて少ない。たいてい、その本や著者との相性を編集部が考えた上で適切と考えられる書き手がアサインされる。短歌雑誌も同様である。書評を批評の仕事ととらえることもできるだろうが、そう考えるならばものすごくディフェンス寄りの仕事であり、オフェンシブな姿勢が評価されやすい新人賞とはどう考えても相性が悪い上に、批評としての書評の定義はきわめて曖昧である、というかはっきりいうと存在しない。なので毎年選考座談会を読んでもぐにゃぐにゃしたまま話がすすみぐにゃぐにゃと着地しているなと感じていたが、選考委員が一新された今回も印象は変わらない。
書評とは相性である。対象歌集と書き手の相性が悪ければいい書評にならない。そしてこの賞は新人賞である。つまり書き手がどんな人間かは選考委員側には知らされない。だから判断が難しいのである。第6回は受賞作がなく、選考委員特別賞が三作となった。鷺沢の他は、大松達知選の長谷川麟「裸眼について 川本千栄歌集『裸眼』書評」と添田馨選の淀美佑子「再起動するロスジェネ 吉村実紀恵歌集『バベル』書評」だが、それぞれ「三十代男性である私」や「(同じくロスジェネ世代である)戦友との連帯を取り戻せた」等の記述があり、鷺沢含め特別賞の受賞者全員が文章内である程度の自己開示と自己言及を行っていることは偶然ではないだろう。そうしてくれないと審査しづらいのだろう。鷺沢は、自身を「歌壇の周縁に何年も何年も、ほぼ軟禁状態にされ」ていると嘆き、いっそボニファティウス八世のように最期を「憤死」で迎えたいと望み、ヘリオガバルスになぞらえた川野の歌に猛烈に嫉妬している主体という物語を書評内に設定することで難問をクリアしたように見えた。受賞作に選ばれなかったのが惜しい。
▶瀬戸夏子。1985年生。歌人。『現実のクリストファー・ロビン 瀬戸夏子ノート2009-2017』(書肆子午線)、『はつなつみずうみ分光器 after2000 現代短歌クロニクル』(左右社)、『白手紙紀行』(泥書房)、『をとめよ素晴らしき人生を得よ 女人短歌のレジスタンス』(柏書房)など。
⑤近代詩・現代詩・歌詞 武久真士
2025年で印象に残った論文を3本。ジャンルは問わないとのことであったが、実は書籍ばかり読んでいて論文は専門的なもの以外あまり読んでいないので、結果的に「詩」関係になった。書籍偏重主義者だったかもしれぬと、反省。
①川上優芽「北原白秋『思ひ出』論――詩語としての「柳河語」――」(『國語と國文学』第102巻第4号、2025年4月)
明治末期の詩語をめぐる苦闘およびそれにともなう論争を背景に、北原白秋が『思ひ出』で創出した「柳河語」なる詩語の批評性を明らかにした論文。この論文の面白さを理解していただくためには少し説明がいるのだが、そもそも日本近代詩には詩の言葉としての日本語をめぐる苦悩と葛藤が常につきまとってきたことを強調しておきたい。poemという西洋的な概念を日本語に移すために、多くの詩人がさまざまな工夫を凝らした。日本近代詩とはある意味ですべて翻訳詩であったのである。詩語や言葉をめぐる問題は、日本近代詩が長年戦い続けてきた宿敵であり、最も論点の集中している場所なのだと言っていい。
言文一致の議論の中では従来「辞」(語尾)が中心的な話題となってきたが、明治40年代には「詞」(詩語)の革新もまた大いに問題になっていた。「詞」に関心を寄せる川上は、北原が『思ひ出』で試みた柳河語のローマ字表記に注目する。ローマ字自体がヘボン式や日本式など表記に揺れがあるうえに、ローマ字で書かれた柳河語は「ローマ字の表音性によって意味に遅れ、註釈を要請する」。読者は註釈をたどりながらローマ字の柳河語を理解し、その過程で「柳河語」という独特の位置を有する言葉が日本語の内部に立ち上がってくるのだという。そのようにして国語とは異なる水準に存在することになる「柳河語」は、国語というシステムそのものに対する批評性をも帯びるであろう。
『思ひ出』論と銘打つからには、この「柳河語」を『思ひ出』全体の中に、特にローマ字表記や「柳河語」を用いない詩との関係の中に再度位置づける必要はあるだろうが(他の詩にもさまざまな「詞」への挑戦を見出しうるのではないか?)、それは今後の研究に期待するとしよう。重要なのは川上が詩語を俎上に上げたこと、それ自体である。私たちは日本語で詩をどのように書くかという議論はよく行っているが、そのときの「日本語」とはなにかという議論を閑却しがちだからだ。 あるいは、「日本語」「国語」に目を向けた途端、ポスコロ・カルスタ的な方向へと回収されてしまうという問題もある。もちろん川上の議論にも国民国家批判的な部分は含まれているように見えるが、詩語そのものへの関心を見せている点に、この論考の面白みがある。北原白秋研究者に限らず、近代詩に関心がある人間は得るところの多い論文だ。
②南田偵一「現代詩をはじめよう:詩の教室・講座の旅景」(『詩あ』創刊号、2025年5月)
現代詩を「底上げする」(創刊の辞)ことを目的とした南田貞一による詩誌『詩あ』。2026年1月現在、2号まで発売されている。書店でも買えるようだが、私は文学フリマで入手した。目次にはマーサ・ナカムラや杉本真維子、松下育男などの名前があり、作品・評論・エッセイ・ルポルタージュなど、充実した内容となっている。
「現代詩をはじめよう」は、いわばもうひとつの「創刊の辞」といった趣の文章だ。南田はまず、「現代詩は難しい」という常套句に対し、「詩はわからなくていい」のではないかという仮説を提示する。わからなくても、詩を読んだり書いたりすることは楽しい。そうした楽しさに触れるために南田が提案するのが、詩の教室や詩の講座への参加である。自分の詩を見つめ直し、学び直し、仲間を見つけるための場所が詩の教室だ。では具体的に詩の教室とはどのようなものなのか。ということで「現代詩をはじめよう」のあとには、松下育男やマーサ・ナカムラ、山崎修平、佐藤文香へのインタビューが続いていく。
さて、まず言っておかなくてはならないが、私は「詩はわからなくていい」という意見には賛成しない。仮に「わからない」にしても、どこがどのようにわからなくて、その「わからない」にどのような読書経験の楽しさや豊かさがあるのかがせめて示されなくてはならないと思っている。なぜなら私自身が、詩を読みながら「こいつテキトウに書いてるだけなんじゃあるまいな」という疑いを捨てきることができないし、もしテキトウな作品がまかり通っているのだとすれば、時間やお金をかけて詩に付き合う意味を見出すことが難しくなるからである。
ただし、詩の価値を評定し読者に伝達するのは批評家の仕事であって、すべての読者が詩の読解に尽力せねばならぬというわけではない。まして、これから「現代詩をはじめよう」とする読者に作品との取っ組み合いなど求めなくともいい。南田のこの記事を2025年のベストに挙げたのは、詩の初心者にとって必要だと思われる情報が、ひとつの記事の中に詰まっているからである。この記事は現代の主要な詩誌、詩の出版社、詩のジャンル、詩の教室・講座リストが紹介される、いたれりつくせりの内容となっている。注目すべきはこれらがすこぶる具体的であることで、仮に現代詩に一切触れたことがない読者でも、詩の出版社として有名なのは思潮社であり、詩には行分け詩と散文詩があり、詩は難しいと言われているが東京・大阪・広島などで自分にも参加できそうな講座があるのだな、といった情報を得ることができる。
そこから続く松下育男らへのインタビューもこれまた非常に具体的で、詩の教室がどのようなものかよくわかる。私は読む方専門で書くのはやっていないのだけれども、ちょっと教室に参加して作品を批評してもらおうかと思ったくらいである。読者が記事を読んでそこまでそそられたということは、つまりその記事が優れた記事であったということだ。
最大にして最後の問題は詩の初心者が『詩あ』を買うか?というところに収斂しそうだが、そこは詩に関わる人間が危機感をもって支えていくべき部分だろう。もちろん、私も含めて。
③Matsuda Matsuo「アイドルソングのアイロニー:キャンディーズ・森高・AKB48」(『なるほう堂』、2025年7月29日投稿)
批評や考察、コンテンツのあらすじなどを解説する記事を投稿できるサイト、「なるほう堂」にアップされている論考。ざっくり言えば日本のアイドルソングを対象とした歌詞論で、私は歌詞分析大好物人間であるから、ぜひ挙げておきたかった。
Matsudaの見立てによれば、現代ポップソングの歌詞は限りなく単なるメッセージに近づき、アイロニーを失っている。これは、「現代のポップスの標準的な言葉の働きは、「ケアの名指し」である」と指摘した難波優輝「無責任さと呼びかけ:原口沙輔の空っぽなペルソナ」(『ユリイカ』2025年11月)とも近い認識だろう。MatsudaはMrs.GREEN APPLEやback number、YOASOBIなどの歌詞を列挙したあと「現代のポップソングはアイロニーがアイロニーであることを明示し、聴衆が「誤読」(誤聴?)する可能性をほとんどゼロにしている」と喝破する。筆者はそうした状況を嘆きながら、過去のアイドルソングには「アイロニーの豊かさ」があったのだと回顧し、1970年代~2010年代のアイドルソングを分析していく。
実はこの論考において、なぜアイロニーがなくてはならないのか(=なぜ2020年代ポップソングの歌詞を評価しないのか)、という点に対する強い批判的意識は提示されていない。「歌詞の意味の幅が狭まってきているというのは、本当に残念なことだ」という嘆きが論考のモチベーションらしい。平成の個人ブログ黎明期を思い出させる文体もあいまって、最近の若いもんは……、と言いたいだけなのではないかという批判もできるし、そもそもアイロニーがない文章など存在しないと言うこともできるだろうが、もっと論考の良い面を見ていきたい。
本論の最も優れた点は、各時代を代表する複数の楽曲をクリティカルに分析しながら、それを「アイドルソングのアイロニー」という軸にまとめあげたところである。こうした作業を行うには、まずその時代で分析すべき楽曲はなにかを決められるだけのポップスの知識と、キャンディーズを聞きながらYOASOBIも聞くといった幅広さがなくてはならない。次に、歌詞分析のためのテクスト読解能力が必要だ。そして、各時代の各楽曲を横断する問題点を取り出せるような抽象化・理論化の能力も求められる。私も歌詞の分析をよくやるから分かるのだけれども、こうした手順を踏みつつそれらを1本の論考にまとめあげるのは、見た目以上に大変だし困難だ。
特に面白く読んだのは、キャンディーズ「微笑がえし」の分析だ。同グループのラストシングルである「微笑がえし」は一見すると男女の別れの歌に過ぎないが、歌詞に散りばめられた過去の自作への言及と、「3」という数字に注目することで、「引っ越しを前にしたカップル2人が、今解散しようとしているキャンディーズ3人の姿でもあった」ことに気づくという。こうした読み込みをコード進行や振り付けとも絡めつつ論じるMatsudaは、「おかしくって/涙が出そう」という悲喜入り交じるアイロニーにこの曲の主題を見る。
そこから森高千里を経由してAKB48へとあざやかに論述が進められていくのだが、こうした記事を読んで思い出すのは、欅坂(櫻坂)46の楽曲だ。AKBと同じく秋元康がプロデュースする欅坂だが、「不協和音」(2017)「黒い羊」(2019)などの楽曲には、Matsudaが指摘するような、AKB48の楽曲では「歌詞が”ベタ”にAKBを歌っているようにも聞こえる」ことを聴き手が理解しながらも、楽曲に没入することが「アイロニーの源泉になっている」という構造は見いだせない。とはいえ、アイドルグループとして相当の人気を誇っている。乃木坂の「君の名は希望」(2013)「インフルエンサー」(2017)の、妙に自己言及っぽいところも気になる。実は、やっぱり、2020年代には2020年代のアイロニーがあるんじゃないだろうか。Matsuda氏に続編を期待したい。
最後に少しだけ、取り上げるか迷った論考に触れておきたい。まず『表象』第19号(2025年5月)の坂口周「分離の詩的原理」。短い論考ながら難解な吉増剛造の詩に対してクリアな読解を行っていて、見事だった。また、『文藝』の日記特集(2025年春季号)の山本浩貴(いぬのせなか座)「フィクションと日記帳:日記(本)から往復書簡、書く宛先をつくること」。最近の出版物や文学フリマを見ても日記というジャンルの存在感が日々増しているのを感じるので、山本のような理論的考察が今後ますます行われることが期待される。『文学+』web版に掲載された小峰ひずみの書評「絓、もっとバカになれ!」も出色のおもしろさで、去年読んだ論考の中でも特に印象に残っている。なお、詩については学会誌掲載の論文をもっと取り上げるつもりもあったのだが、2025年の主要学会誌における近代詩関係の論文がすこぶる少なく(『文学』の「詩と言語」特集などはあったが)、悲しかった。
▶武久真士。1995年生まれ。近現代詩研究者。『論潮』『近代体操』同人。主な論考に「一九三〇年代の詩壇における形式論――春山・萩原論争を手がかりに――」(『SAKU』2023・12)、「セカイ創造者保田与重郎――詩・イロニー・日本」(松田樹・赤井浩太編『批評の歩き方』人文書院、2024)、「やわらかな変態――詩的言語とコミュニティ」(『近代体操』2024・11)などがある。note→武久真士|note
⑥エッセイとはなんだろうか 宮崎智之
現在は「令和のエッセイブーム」だと言われている。筆者は2022年から「随筆復興」を掲げ、近代以降、エッセイの系譜が文学史に接続されておらず、文学、言語芸術として低い地位にあまんじていたのではないかと問題提起し、さまざまな文芸誌への寄稿やブックフェアを展開してきた。そういった立場から、2025年に発表された、エッセイについての論考の中から気になったものを紹介していく。
ひとつ目は、横田祐美子「わたしがエッセイである」(『随風01』、書肆imasu、2025年3月)である。『随風』とは昨年春に創刊された随筆/エッセイ専門の文芸誌で、筆者も企画人のひとりを務める。これまで一人称が真実を占有するエッセイの文芸スタイルは、少なくとも近代以降は批評の俎上にのぼることが創作と比べて少なかった。だが、批評がなければ「文」の「芸」が継承されず、また文学史的な位置付けも獲得できないままブームが雲散霧消してしまうのが目に見えているため、筆者の肝煎りで『随風』には批評欄を設けた。横田はバタイユなどを研究する哲学者だ。
横田は、エッセイが書き手の私的領域の開示でしかないという見方に異議を唱える。エッセイほど「わたし」の素性がわからないものはなく、「わたし」は、必ずしも書き手とぴったり合致するとは考えていないからだ。エッセイの「わたし」に自明性はなく、いわく「試みと迂回は、任意のキーワードをとおして見知らぬ自分自身と遭遇するきっかけとなる。その際に思いがけず飛び出してくるのが、書き手にすらコントロールできない「わたし」なのだ」(同)。横田はそのような主体を、「書くという行為のなかで突然前に出てきて歌いはじめるおばけのような「わたし」」(同)と表現する。それはあらかじめ構想していた内容を書き出すといった散文とエッセイは違っており、エッセイの運動に書き手自身が巻き込まれている状態になることを想定する。「むしろ〈エッセイが/書き手に/書かせている〉のであり、〈「わたし」が/書き手に/書かせている〉と表現したほうが適切である」(同)
横田の指摘は非常に示唆的である。もし、「わたし」が書き手と同一ではないととらえるなら、エッセイは私的領域の開示を超えて、さらなる散文芸術の奥行きを持ち得る。また、その「わたし」が書き手にも制御できないものだとすれば、真実を占有する一人称に口を閉ざすことをせずに済み、批評が駆動する。
しかし、筆者はエッセイとは、のっぴきならない交換不可能な実存を背負った一人称が書く文学であると定義している。この世界はひとりの個人には法外な複雑性を有しており、そのなかに自分の杭を打ちつけるからこそ、自身の隠しようのない剥き出しの本性が顕になってくる。隠しても溢れ出てしまうのだ。
一見、筆者と横田の主張は異なるように思えるが、横田はこうも書く。「[…]書かれたエッセイには書き手とは異なる「わたし」の痕跡がトーンとして残る」。つまり、筆者はあくまで書き手がエッセイの主体──身体を有した現在を生きる存在──であると考えていて、横田は必ずしもそう考えていない。横田が書き手の認識を超えたところに「わたし」が現出すると考えているのに対し、筆者はそもそもこの複雑な世界では一人称をそのまま屹立させたとしても、その一人称はしばしば己をとらえ損ねているのだから、完全にはコントロールできない存在だと考えているとの違いがある。そこの差こそあれ、一人称が真実を占有し、外部からの介入を受けない存在ではないといった部分の主張は共通していそうだ。
次に紹介するのは、永田和宏「物理学者とエッセイの系譜」(『窮理』第28号、窮理舎、2025年10月)である。永田は冒頭で、寺田寅彦、その弟子である中谷宇吉郎、坪井忠二、中谷に師事した樋口敬二、直接の師弟関係はないが、湯川秀樹、朝永振一郎というふたりのノーベル物理学賞の受賞者もエッセイ集を残しているとして科学随筆の系譜を紹介、「科学を生業としている研究者たちが、とりわけ物理という「モノの理」を追求しようとしている研究者たちが、自分の専門外の〈文筆における活動〉を当然のように行ってきたこと、それも単なる余技としてではなく、文筆家としての十分な技量を発揮しての活動であったことは特筆されるべきことであろう」と記す。
寺田寅彦は満員の市電を嫌って、「電車の混雑について」という、電車の混雑を数学的に考察したエッセイを書いた。中谷宇吉郎は、雪の結晶の研究で知られ、さらに、「立春の卵」といった、なぜ卵が立つのかについて〈物理学的な〉に説明したエッセイも書いている。
「「そんなことをやって何の意味がある? 何の得がある?」などと考える人間は、たぶんサイエンスには向いていない。少なくとも基礎研究者としては、やっていけないだろう。ここにあるのは、〈おもしろがる精神〉である」、「エッセイは、論文ではなく、自分が気に留めたこと、ふと気づいたこと、ちょっと考えたり感じたりしたこと、そんな日常の些細のことに題材を得ることが多い。普段、人が気にも留めないような些細なことに眼をとめ、それを〈おもしろがる精神〉からしか、エッセイというのは生まれないと、私は思っている」(以上、同)との指摘は、科学随筆だけではなく、エッセイ全般に当てはまる指摘であろう。科学の根本にある〈おもしろがる精神〉がある種のエッセイイズムとつながっているところことが面白い。日常の些細なことに敏感でなければ、エッセイは書けないのだった。
繰り返すが、つまり科学者、とりわけ物理学者にとっては、エッセイは「余技」なのではないのである。重要な着想の源なのだ。そうした物理学にとっても、文芸としてのエッセイにとっても重要な科学随筆の歴史、系譜を受け継いで刊行されている「窮理」(編集・発行人 伊崎修通)に、さらに注目が集まってほしい。
最後に紹介するのは、山本浩貴「フィクションと日記帳――日記(本)から往復書簡、書く宛先をつくること」(『文藝』2025年春季号。大幅加筆して収められた『フィクションと日記帳――私らは何を書き、読み、引き継いでいるのか?』、2025年11月、いぬのせなか座、を参照)である。池田亀鑑は1926年『国文教育』に寄せた「自照文学の歴史的考察」において、日記・随筆・紀行・消息・試論等」を含む文学類型を「自照文学」(「自照」の語のとおり、自分自身を照らすことで、自己における真実を探究し、個性を発揮する文学)と定義した。
山本は、昨今の日記ブームに触れ、日記は書き手、読み手の双方に負担の少ない形式だとする。「日付」を冠せば、その日にあった出来事などを記述すれば成立する文芸だからだ。「日付さえ上に冠されていれば、その日を過ごした私は生きている限り確かに存在していたのだから、それを思い出して、そのことについて書けばいい。あるいはたった一言「たいへんだった」と書くのでも、日付はそれを立派な日記(という表現)として成立させてくれる」(同)としている。
興味深いのは日記を「[…]言語表現とその「手前側の生」とのあいだの紐付きをめぐる最もシンプルかつ最小のモデル」(同)ととらえていることだ。文章を書くことは、ある日付の、ある時間に即興的に行われているものであるはずだと山本は考える。そして、文章はある幾つもの入り組んだ地層となり、つまり「文章とは、それぞれの背後に日付を抱えた、日記のレイアウトである」(同)と主張している。これはエッセイや詩歌、小説なども含めた文章全般の制作プロセスにも当てはまるという。
「つまり文章とは、そのどれもが常に「その日の私が書いた」日記の《がしゃんがしゃんとくっつけ》られたレイアウトとしてあるということ。また同時に、特定の日付を冠した日記に関しても、想起や思考を通じていくつもの時空間を独自に招き寄せ引き受けてしまえる人間という生き物──そこに宿る私──が表現する限り、そこには膨大な日数が重ねられうる。つまり私そのものもまた、日記のレイアウトとしてあるということ」(同)との考えは、筆者がこれまで展開してきたエッセイ論と共鳴する部分がある。筆者との微細な差異を述べると、日付の集積である日記が私そのものであり、人間という存在に宿る私が時空間を招き寄せレイアウト、表現していくものが日記やエッセイであると山本が考えているのに対し、筆者は時間という揺るがし難いひとりの個人にとっては法外な存在に、私が接する、または介入することにより、自身の隠しようのない剥き出しの本性が顕になってくると考えていることだろうか。いずれにしても山本の論考は刺激的で、大きな示唆を含んでいる。現代の日記、エッセイブームと接続して考えている点も、同じ態度を取っていた筆者にとって心強く、また参考になる点が多かった。
今回、紹介した三つの論考のうち横田、山本の論考は「わたし」もしくは「私」について考えているという意味で、根底に流れる問題意識の水脈が共通していると言える。2020年からのコロナ禍を経て、自己に向き合う自照の精神が表現者の間で前傾化してきた。また、インターネット上でnoteに書いたり、自主制作本が文学フリマで出品されたり独立書店などで取り扱われたりするといったことが当たり前になり表現の場や幅が広がっている今、自己をどのように開示し、読み物としてどのように成立させるのか、もしくは開示された自己をどのように読み、「令和のエッセイ(日記)ブーム」と呼ばれるシーンを文学史的に位置付けるのかが問われてきている。エッセイ、日記論は、非常にアクチュアルで、広い射程で論じることができる問題である。今回、紹介した論者以外にも興味を示し、論を展開する者はいるが、ジャンルの発展のため、さらに活発に論じられるようになってほしいと、心から願う次第である。
▶宮崎智之。文芸評論家、エッセイスト。1982年東京生まれ。著書に『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』(ちくま文庫)、『モヤモヤの日々』(晶文社)など。近刊に編著『精選日本随筆選集 孤独』、『精選日本随筆選集 歓喜』(ちくま文庫)、山本莉会との共著『文豪と犬と猫 偏愛で読み解く日本文学』(アプレミディ)。文學界「新人小説月評」(2024年)。「随風」企画人。X(旧Twitter):@miyazakid
⑦ボンクラ、異邦人、生活者──「週末批評」管理人が選ぶ3本 てらまっと
昨年12月に出展した文学フリマで、面識のない男性に声をかけられた。てらまっとくんは10年前はかなりアレだったけど最近はがんばってるね、というようなことを言われ、びっくりして、あっ、はい、おかげさまで!みたいな、よくわからない返事をした記憶がある。
昨年あたりから、インディー批評サイトの管理人という名目で原稿を依頼してもらえることが増えた。ネットではこれまで名前も経歴も開示しないでやってきたから、傍目にはアニメばっかり観て、たまにブログで変な文章を書いている、得体の知れないやつに見えていたようだ。それはその通りなのだが、2022年に「週末批評」を立ち上げて以来、なぜかわたし個人のレピュテーションまで改善された気がする。
やっぱりちゃんとした(?)肩書があると、安心してもらえるのかもしれない。実際にちゃんとしているのは、サイトに寄稿してくれた方々の文章とか、デザイナーのオガワさんがつくってくれたロゴとかであって、別にわたし自身がちゃんとしてるわけじゃないんだけど……。往年のインターネットの匿名性に救われてきた人間としては、ちょっと複雑な気持ちだ。
とはいえ「立場が人をつくる」という言い方もある。そんなわけで昨年に続いて今年も、印象に残ったオンラインの「ロンブン」を3本セレクトさせてもらった。それぞれ全然ちがうタイプの文章だが、個人的な問題意識が分有されている(以下敬称略)。
ボンクラの思想:ンジャメナの丸山眞男論
ひとつめは、ンジャメナ「侍の思想と百姓の思想──ネット民のための丸山眞男入門」(LIMiNAL、2025年3月22日)。2025年を代表するロンブンといわれて、真っ先に思い浮かべたのがこの丸山眞男論だ。日本の政治思想家として名高い、けれどいまや「終わった思想家」でもある丸山を、冷笑的な「ネット民」に向けて解説するというもの。昨年もnoteで話題になった記事はいくつもあったが、わたしが読んだかぎり、ンジャメナの丸山論よりエキサイティングなものは見当たらなかった。
超エリートの一高生ながら、当時としては低俗な映画に熱中し、警官に殴られて泣き、進路すら自分で決められない「文系のボンクラ」。そんな丸山の前半生を、著者はネット民とよく似た「弱い人間」として、愛嬌たっぷりに描き出す。そこから、後年の丸山がどんな政治思想をつくり上げていったのかを、マルクス主義や小林秀雄との対決を通じて整理したのがこのテクストだ。
ボンクラだった丸山が、無責任な現状追認にも過激な暴力革命にもよらず、民主主義の可能性を追求できたのはなぜか。著者の考えでは、それはこの思想家が映画ばかり観ていたからだ。映画鑑賞のおかげで丸山は、民主主義や人権といった近代の擬制(フィクション)を頭から信じ込むのではなく、かといってフェイクだと切り捨てるのでもなく、それがあくまでフィクションであることを知りつつ半身で信じる「半信半疑の姿勢」に踏みとどまることができた。著者はそこに、現代のネット民の冷笑的な態度に通じるものを見出していく。
「自覚なき冷笑にとどまるのでもなく、冷笑することをやめて過激化するのでもなく、自分の冷笑を近代精神につながるポジティブなものだと言い張ること。冷笑的な自分に誇りをもつこと」。これは丸山眞男の思想というより、SNSで日々アニメや映画を論評し、ときに論争や炎上も辞さないンジャメナ自身の信念だろう。つまりこのロンブンは、たんに丸山の思想をわかりやすく解説するだけでなく、最近なにかと旗色の悪い「冷笑」を政治思想的に擁護しようとする、著者の実存をかけたマニフェストでもあるわけだ。
丸山の解釈や冷笑の評価をめぐっては異論もあるかもしれない。それよりもわたしが感銘を受けたのは、まだ20代の著者の優れた文章力だ。パソコンやスマホで読むにはどう考えても長すぎる2万5000字超のテクストを、一気に読ませる、または読みたいと思わせるだけの高度な文章術が、とくに冒頭の「はじめに」には凝縮されている。高名な思想家として教科書にも載る丸山眞男の、15歳の頃の「かなりしょうもない」日記の一部を引っ張ってきて、ネット民なら誰もが共感できそうなボンクラとしての丸山像を提示するくだりだ。冒頭にパンチの利いたエピソードを置いて読者を「釣る」のは文章構成の基本だが、丸山にとっては黒歴史みたいな文章を選び出すセンスと、その前提となる参考資料の読み込み、そしてそれを軽妙に読みくだす手さばきは見事と言うほかない。本稿の気の抜けた冒頭部分と比べてみてほしい。
ネット上に日々大量のテクストがアップロードされ、読む人より書く人のほうが多いといわれるくらい文章が飽和した現在、冒頭パンチの威力はますます高まっている。ある程度ネームバリューのある書き手や、アカデミズムなどの相互参照型コミュニティを別にすれば、最初の数行、または数段落で、読まれるか読まれないかが事実上決まってしまう(と信じられている)からだ。そのため多くのウェブサイトが、記事のタイトルを工夫し、サムネイルを目立たせ、冒頭に要約やリード文をつけ、アルゴリズムにへつらい、なんとか読んでもらおうと苦心惨憺している。もちろん文章の評価基準はいろいろだから、たんにバズればいいってものじゃないけど、もし「ネット民」に届けたいのであれば、ンジャメナの技術から学べることは少なくない。
掲載サイトにも触れておこう。このテクストは、週末批評にも寄稿してくれている気鋭の批評家・壱村健太主宰の「LIMiNAL」に掲載されたもの。もともとンジャメナは自身のnoteで漫画評や映画評なども書いていて、こちらもやはりアジェンダ設定の巧みさ(丸山論と同様「AではなくBでもなくC」パターンが十八番)から、インディー批評界隈の一部では話題になっていた。そんな彼に声をかけて丸山眞男論を書かせたこと、そしてタヌキへの暴言を真摯に謝罪したことは、SNSで挑発的な投稿と下ネタを繰り返しては凍結されていたサイト主宰者への信頼をかなりの程度回復させたにちがいない……と思っていたら、壱村本人の水村美苗論のオチがひどすぎてまた暴落した(とても面白かったけど)。こうやって人の、そしてチャドの首都(ンジャメナ)のレピュテーションは変動していくのだろう。
異邦人の祈り:紅茶泡海苔のトランスナショナル文化論
ふたつめに取り上げるのは、紅茶泡海苔「トランスナショナル・オタクカルチャー──『ファウスト』は東アジアでいかに“誤読”されたか」(週末批評、2025年8月2日)。手前味噌で恐縮だが、昨年に続いて、わたしが管理人をしている週末批評からも1本選ばせてもらった。他の論考と迷ったけれど、昨今の東アジア情勢に鑑みてもこれしかない、というのが率直な理由だ。このテクストは、2025年の文学フリマ東京で頒布された評論同人誌『東アジアのなかでの「ファウスト系」──華文世界とオタクカルチャーのトランスナショナルティ』所収の巻頭言を改題して転載したもの。収録論考の紹介が半分ほどを占めるため、必ずしもまとまったロンブンというわけではないが、むしろそれゆえに著者の意気込みがよく伝わってくる。
同誌編集長を務める紅茶泡海苔(コウチャアワノリ)は中国出身の批評家。京都の大学院に留学してアニメーション史を研究し、博士号を取得したあとは就職のため中国に戻っているようだ。日本のオタク文化はもちろん、現代思想や批評理論にも造詣が深い俊英で、中国のSNSアカウントでは数万人のフォロワーを擁している。日本の文芸批評を翻訳・紹介する中国の批評団体「屋頂現視研」の初期メンバーでもあるという。この団体のウェブサイトでは、週末批評の記事も何本か翻訳されている。
そんな著者が編んだのは、文字通り国民国家(ネーション・ステート)の枠組みを超えた、東アジアの「トランスナショナル」なオタク文化実践を取り上げた評論集だ。近年話題の『ブルーアーカイブ』をはじめとする中韓資本のオタク向けソーシャルゲームには、奈須きのこ、西尾維新、舞城王太郎といった日本のライトノベル作家たちからの色濃い影響が見られる。彼らはみな、ゼロ年代日本の伝説的な文芸誌『ファウスト』に参加していた作家たちだ。著者は2000年代から10年代にかけて、香港や台湾、中国本土でいかに『ファウスト』が受容され、誤読や変奏を通じて独自の文化実践を生み出してきたかを、自身を含む各地の研究者や作家、経営者、翻訳監修者の論考をつないで、星座のように浮かび上がらせていく。
文芸誌の創刊、既存制度への乗り入れ、翻訳、海賊版……といった現地の文化実践の数々は、たとえばKADOKAWAに代表される文化産業の「グローバル戦略」には還元できないし、かといってそれに対する「ローカルな抵抗」というよくある図式にも収まりきらない。そこには「もっと複雑で、もっと切実な回路があった」と著者は言う。それはグローバルな資本とローカルな文脈がときにせめぎ合い、ときに手を結び、さまざまな制度的制約とオタクたちの欲望を巻き込みながら、接続と分断、解体と再編をダイナミックに繰り返す「中間的な場」としての集積回路だ。
だからトランスナショナリティとは、著者に言わせれば、たんに国境を越えてIPやコンテンツが流通することではない。そうではなくて「制度的な承認や正規の流通に回収されながらも、そこからはみ出す形で独自の受容と抵抗が生じ、それらが互いに『響き合ってしまう』ような、いわば『誤配的』なもの」こそを、著者はトランスナショナルと形容する。その具体的な実践のバリエーションについては、本稿で紹介した巻頭言に加えて、ぜひ『東アジアのなかでの「ファウスト系」』本誌(電子版)収録の各論考を読んでみてほしい。
わたしが紅茶泡海苔の文章からいつも感じるのは、ある種の切実さだ。エモさ、と言ってもいいかもしれない。インターネットが普及したとはいえ、2000年代の中国本土で日本のオタク文化に触れ、そこから本格的に批評・研究の道へと進むまでには、本邦とは比べものにならないほどの困難があったにちがいない。ネットで著者と知り合ってすぐのころ、たしかこんなふうに言っていたのを覚えている。「オタク文化を論じた『ゼロ年代批評』に大きな影響を受けて日本に来てみたら、そんなものはとっくに滅びていた」と。当時のわたしは笑い話として受け止めてしまったけれど(ごめん)、巻頭言の後半には、時間的・空間的なズレとともに生きるほかなかった「文化的異邦人」としての著者の孤独と、またそれゆえの誇りと希望とが、美しくエモーショナルな筆致で記されている。
わたし自身、いろいろな理由で家や教室に居場所がなく、ずっと疎外感に苦しめられてきた。あのときオタク文化にハマらなければ、そして匿名で始めたブログやツイッターでいまの友人たちに出会えなければ、どうなっていたかわからない。だから、巻頭言のラストが祈りにも似た言葉で締めくくられていることに、わたしは深く共感してしまう。ここには異邦人から異邦人へと宛てられた挨拶がある。さらけ出された傷がある。「東アジアの連帯」なんて大げさなことを言うつもりはない。ただ、教室/社会の喧騒から逃れて隅っこにいたあなたとわたしを、時間的にも空間的にも遠く隔てながら、たしかにつないでいたものがあったということ。紅茶泡海苔のテクストには、そんな「わたしたち」への小さな希望が縫い込まれている。
生活者のプライド:山本佳奈子のアマチュア音楽論
最後に紹介するのは、山本佳奈子「音楽におけるアマチュアリズムの重要性──沖縄の実例と、サイードによるプロ批判から考える」(ANTENNA、2025年7月30日)。音楽のことはさっぱりわからないんだけど、Xでたまたまリポストされてきたものを読んだところ、わたし自身の関心とかなり重なる部分があった。昨年取り上げた磯部涼の『ルックバック』評とも響き合う内容だ。
タイトルの通り、このロンブンは「アマチュアリズム」という観点から沖縄の音楽実践を考察したもの。アルバイトを含め、いまもむかしも兼業で音楽活動をしている人なんてざらにいるし、音楽以外でもそうだろう。聴衆もそんなことは十分わかっているが、とはいえ著者が指摘するように「プロかアマかと問われたら、プロであることにわずかに軍配を上げる人が多い」。一般的に専業で食っていくことが、創作や表現の質を担保するものとみなされているからだ。だからこそ著者も、沖縄では有名な民謡歌手がコンビニでバイトしていると語ったことへの驚きから、この文章を始めている。
そのうえで著者は、いくつかの具体例を引きながら、プロとしてやることの価値に疑問を投げかける。専業音楽家として生きるためには、自分の音楽実践を相応の金銭と交換しなければいけない。市場経済のなかで、たくさんの人たちに購入・消費してもらえる商品としての音楽をコンスタントに制作し、演奏し続けなければいけない。そのためにはコストパフォーマンスが大事になるし、余計なノイズ(たとえば政治性)を排除することも必要になる。AIの利用も一般化しつつあるにちがいない。それはつまり、音楽家自身の「生活者」としてのリアリティを消し去るということだ。
これに対して、あえて兼業を選んだ「日曜音楽家」は、むしろ一介の生活者であることを重視する。かつて沖縄の音楽を広く世界に発信しようと考えていた著者は、同地の音楽家たちがあまり乗り気でないことに困惑し、後年になって気づいたという。「彼らにとって音楽とは、週末に仲間たちと自分たちの地域で楽しむ生活の一部なのだ」と。コスパを度外視して注ぎ込まれたこだわりが、そして「技術をしのぎ情念をすらしのぐもの」としての生活者の感覚が、彼らの音楽には息づいている。権威や市場におもねらず、自らの「愛好精神と抑えがたい興味」に突き動かされて、インディペンデントに活動する音楽家たち。その姿は、エドワード・サイードが自らの理想とした「アマチュアリズム」そのものだ。
著者の山本もまた、中国をはじめアジア各地の音楽やアート、カルチャーを伝えるウェブマガジン「Offshore(オフショア)」を2011年に立ち上げ、10年にわたってひとりで編集・執筆・運営してきたという。2022年からはサイトの更新を停止し、紙の文芸誌『オフショア』の発行に舵を切っている。低く見られがちな「日曜音楽家」を擁護する著者の姿勢は、彼女自身の実践に深く根差しているにちがいない。
わたしが「週末批評」をつくったのは、ちょうど著者がウェブから紙に移行した2022年のこと。いわば10年後輩にあたるわけだが、それでもわが意を得たりという感じで、いちいち頷きながら読んでしまった。週末批評のトップページには、マルクスが来るべき社会を語る有名な一節を引いている。「私たちは狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」。これは山本が紹介する音楽家たちの、そしてサイードのアマチュアリズムとも重なり合う。そもそもサイトの名称自体、批評や思想が「週末の趣味」になってしまったという東浩紀のアイロニーを逆手にとって、仕事のあとに楽しみながら批評することを掲げたものだ(命名は倉津拓也)。
その一方で、アマチュアリズムを実践することの難しさも日々実感している。いまのネット環境では、気がつくと「何者かになりたい」「ちやほやされたい」といった欲求に引きずられて、サイード的なアマチュアではなくたんなるプロのなりそこない、いわば「ワナビー」へと変えられてしまう。いいねやPVの数で一喜一憂し、市場の代わりに「界隈」の狭い人間関係に足を取られ、嫉妬や忖度が横行する。文化産業は専業クリエイターの神話化に拍車をかけ、そのあげく、黒子のバスケ脅迫事件や京都アニメーション放火殺傷事件が起こる。事件を題材にクリエイターを悲劇の英雄に仕立て上げる『ルックバック』がいかにグロテスクか、というのは昨年書いた通りだ。山本が紙媒体にシフトしたのも、もしかしたらそういう理由があったのかもしれない。
真にアマチュアであること、自分のやりたいようにやることは、相応の対価と引き換えに一定の仕事をこなすよりも、ある意味でずっと難しい。本稿の冒頭で肩書についてダラダラ書いたのは、そんなことを考えていたからだった。
実のところ、メジャーかインディーか、専業か兼業かという対立には、もうあまり意味がないのかもしれない。それよりも、いわゆる「テクノ封建制」のクラウド領主(プラットフォーマー)とクラウド農奴(ユーザー)の軸で考えるほうが、たぶん現状に即している。ウェブサイトに関していえば、最近は大手まで広告だらけになるか、もしくは有料会員しか読めないものが増えて、個人のブログやnoteのほうが開かれていると感じることも多い。けれどそれは、たとえばnoteの利用規約(エロ禁止とか)に縛られることでもある。どちらが自立していて、どちらが依存しているのか。いっそAIが市場を焼き尽くして、みんな週末に兼業でやる世界になればいいのにとも思うが、そう簡単にはいかないようだ。
これといって結論があるわけじゃない。だけどわたしも、昨年から批評サイト管理人に加えてもうひとつ肩書を名乗ることにしている。「日曜批評家」だ。
▶てらまっと。日曜批評家。2012年に共同で「週末思想研究会(週末研)」を結成し《花見2.0》《立川コンテンツ・テ□リズム》《福井原発観光計画》などを実施。日々の労働の合間にアニメ批評などを執筆する傍ら、2022年にごくごくインディーな批評サイト《週末批評》を立ち上げ、サイト管理人として各種の批評・評論の募集および編集を行う。低志会メンバー。週末批評=https://worldend-critic.com/
⑧現代日本映画批評のシーンを求めて 伊藤基晴
①skiptracing「イメージを聞く ポール・トーマス・アンダーソン『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と見るものの贖罪」
筆者は映画の脚本を手伝ったり小説を書いたりしているが、基本的にはnoteに映画評を書いている者でアカデミシャンではない。二十歳頃にドゥルーズの『シネマ』や蓮實重彥に触れた一方、八〇年代以降の研究の主流「フィルムスタディーズ(注1)」――社会的実践としての作品・映画史研究――が性に合わず、それでも映画ばかり見てきた。正当な学術論文の評価は手に余るが、独断と偏見、同時代性、文学批評への接続の三点から映画をめぐる国内言説に現状の地図を描くよう三本を取り上げる。
一本目。北海道大学博士課程の映画研究者三浦光彦、堅田諒と英米文学研究者朴舜起の三人からなるユニットの共同執筆で(注2)、2007年のアメリカ映画、ポール・トーマス・アンダーソン監督『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の作品分析。作品が観客に押し付ける「本物とはなにか」という物語を疑い、これを克服するためにH.W.という聴覚障害者の役と彼に本来聞こえないはずの音の描写に注目し、「半身の分析者」という独特の観客論を展開する。筆者は彼らの公開Discordサーバーに参加しているが、二ヶ月かけて互いの原稿を公開で意見し、一ヶ月で原稿を仕上げる計三ヶ月の試行では、一本の映画について多様な視座が共有されて大変贅沢な交流会が開かれている。これを含む三人による四本の原稿(注3)は、真っ当なテクスト批評でありつつ、東浩紀、千葉雅也、平倉圭といった同時代の批評家への目配せをし、共同執筆という実験性が相まって、専門性と風通しの良さを備えた大変示唆に富むものだ。とはいえこれは、一五年以上前のアメリカ映画についての話である。同時代の日本映画はどうか。
②特別鼎談 濱口竜介×三宅唱×三浦哲哉「驚きはいたる所に──『旅と日々』をめぐって」
二本目。フィルムアート社の「かみのたね」より映画監督の三宅唱・濱口竜介、映画研究者・三浦哲哉、今年同社から『演出を探して 映画の勉強会』を上梓した三人による鼎談記事の第5弾(注4)で、三宅の『旅と日々』を扱う。不調の脚本家が旅を通じて創作意欲を養うという筋書きに基づき、モチーフの意味や表象に関する映画の「読み」について三宅本人がロケハンや撮影の裏話を披露して答え合わせする。単に映画作りの内幕を暴くのではなく、脚本の構想や観客の読みという映画についての思考と、撮影・編集の現場での映画における実践とに引き裂かれて、劇映画の本質が炙り出される。作品が国際的な評価を受けると同時に自身、古今の名作の批評も書く濱口、三宅といった作家は同時代の国内映画の僥倖に違いない。この座組みこそ今の日本の映画批評の最前線ではあるが、同時に作家本人の公式見解が、批評とジャーナリズムの先端である不健全さも指摘したい(注5)。
2018年、濱口『寝ても覚めても』、三宅『君の鳥はうたえる』の公開時、同時代の監督らの活躍を指して蓮實重彥が「日本映画第三の黄金期(注6)」なる文句を口にした。実際にこの十年、アカデミー賞や世界三大映画祭で日本人の大賞受賞が相次いだが成果は芸術映画に限らず、新海誠『君の名は』、庵野秀明『シン・ゴジラ』のヒットから、コロナ禍を経て昨年2025年の『鬼滅の刃 無限城編』、『国宝』まで国内で歴史的な興行成績の快挙が相次いだ(注7)。2024年に日本で公開された邦画は680本(注8)で、これは第二の黄金期にあたる50年代よりも多くの映画が劇場公開されたことになる。質、量、儲けすべて伴って一見、賑わっているように見えるが、それほど状況は芳しくない。製作本数が増えたのは、2000年代以降、デジタルカメラ・デジタル上映の普及による製作・公開が容易になり、配給システムの変化や製作委員会方式の導入に伴ってビジネスの参入障壁が下がって小規模作品が増えたことに起因する(注9)。本数こそ多いが作品間の格差が大きいのではないか(注10)。
少しアメリカ映画について寄り道する。映画・音楽ジャーナリスト宇野維正は『ハリウッド映画の終焉』(2023年、集英社新書)で、#MeToo運動に端を発するキャンセルカルチャーの流行、コロナ禍、配信メディアの隆盛で再編を迫られたハリウッドの事情をまとめている。私見だが、skiptracingですでに批評の対象および候補に挙がる計10本(注11)はいずれもが2010年に前後するアメリカ映画だ。筆者は彼らと同世代だが、2001年の9.11テロとコロンバイン高校銃撃事件以降、沈鬱なテロリズムの蔓延で失速したアメリカ映画がリアリズムへ舵を切り(注12)、2007年ごろに中規模映画の爛熟期を迎えたことから、彼らの興味がそこに向いていると推測する。この頃、確かに芸術性・社会性・知名度のバランスという点で、近年最も批評しやすいアメリカ映画が溢れた。宇野が描くのは、この時代の土壌の崩壊である。
「ハリウッド映画の終焉」とは何か。ある意味、宇野の洞察は蓮實重彥『ハリウッド映画史講義:翳りの歴史のために』(1993年、筑摩書房)の現代版だ。蓮實は、赤狩りとテレビの隆盛、スタジオシステムの崩壊を契機に、映画製作が大作映画中心となり、大量生産のためのスタジオシステムが崩壊した状況を「ハリウッドの崩壊」と論じている。これがハリウッド大作ではなくジャンル映画の喪失であるという点で、宇野のハリウッド終焉と重なる。作品制作の生態系破壊は中規模の喪失と大作・自主制作への二極化を意味する。これは映画に限った話ではない。
NYインディペンデント界隈でサフディ兄弟や福永壮志の撮影監督として活躍するショーン・プライス・ウィリアムズは、投資の回収を期待しない「奇特なお金持ち」または、欧州のような助成金が潤沢な環境で小規模作家が活動する現状を語る一方、大企業の大作映画が劇場をおさえているせいで小規模映画が上映機会を逸し、大作映画は配信と同時公開されるために映画館から客足も減っている現状を嘆く(注13)。助成金とパトロンによって小規模映画の本数だけが増え、宣伝や視聴環境において大作映画との格差が広がる状況は、日本にもあてはまる。
③山本浩貴(いぬのせなか座)「ささやかな「本当らしさ」からこの世界そのものの「フィクション」へ」(『文學界』2025年10月号、のちに『フィクションと日記帳』所収)
終焉後のハリウッドで、マーベル、ピクサー、スターウォーズなどの巨大商材を抱えたディズニーのような企業にとって映画は、テーマパーク・配信・グッズ販売として展開するIP事業の一端にすぎない。今後、日本でこれを担うトップランナーは東宝ではなくソニーのようだ(注14)。1970-80年代に一つの原作を多角展開して売り出す映画と出版の掛け合わせ「メディアミックス」を角川が展開したが、2024年10月に角川の筆頭株主となり、ゲーム・アニメ・音楽との横断的なメディア展開でIP戦略を謳うソニーは、『鬼滅の刃』を手がけた子会社アニプレックスとその子会社MYRIAGON STUDIOの製作で早速『国宝』をヒットさせた(注15)。
三本目。山本浩貴(いぬのせなか座)による「TXQ FICTION」シリーズのドラマ『魔法少女山田』と連動企画『恐怖心展』の作品評であるが、両作をその到達点として文芸における日記ブームと近年のホラーブームについて状況論を展開している。おそらく日本映画で現状、唯一機能しているジャンルがホラーだろう。ブームは90年代の「Jホラー」に端を発する。その後の展開について、山本は本稿注7で「令和のホラーブーム」について、ネット発のテクストメディアに始まり書籍・配信・怪談イベント・テレビ番組・映画と連鎖的に発展したここ数年の実態を詳述している。
これはIP産業の陰画である。大作映画がキャラクター商材に紐づいたメディアの横断を展開する裏で、自主制作発から草の根的にメディアを横断するシーンが登場したのだ。状況の新規性こそ興味深いが、小説にせよ映画にせよ作品単体のフィクションは力を失い、社会的現実が裏にあることを仄めかして購買意欲を煽るリアリティショウ的なコンテンツの活況を喜ぶのはさもしい。
山本は日記とモキュメンタリーホラーの類似性を「客観的検証を経ない「本当らしさ」と「パーソナリティ」の結託のもと手軽に情動と思考を触発させるコンテンツ」とし、危うさを指摘するが、彼による現実性克服の賭け金は、個人の内面にある。『恐怖心展』は恐怖そのものを対象とするのではなく、なにかに恐怖を感じる人の多様性であり、山本は、彼の批評が一貫してそうであるように、現実を異化する治外法権的な原理の場として多様な「恐怖心」を孕む個人の「内面」について言及する。これを梃子に、連動企画『魔法少女山田』のレビューでは、日記やモキュメンタリーホラーのような「本当らしさ」を重ねていくことで出来上がるレイアウトの中の嘘っぽさを作品制作の可能性として論じている。これだけ現実らしきものが氾濫する中で、それを打ち破るフィクションが今もなお可能だとする山本の議論は感動的でさえある。世の中には自分が本当であることを主張する嘘に溢れているが、自らが嘘であることを晒して本物が成り立つのは芸術の中だけだ。
山本の結論はこれを詩に喩えるが、筆者は非常に映画的なフィクション性でもあると思う。実写映像を編集して出来上がるフィクションの意義は、リアリティではなく、編集故に生じる違和感の中にこそ宿る。現実世界を読むためではなく、それ自体自律した美学のためにフィクションの意義はある。映画とは何か。芸術であり、娯楽であり、テクノロジーであり、産業でありそのどれか一つとは言いがたいが、なによりもまず過去のメディアである。記録された過去であるだけでなく、時代遅れのメディアである。その意義が自律し、一層その存在感を発揮するための論を筆者は今後も待つ。
※注釈の(注1)~(注15)は、伊藤基晴のnote「イトウモ」にて公開しています。
▶伊藤 基晴(いとう・もとはる)
1990生まれ。映画批評、小説、脚本。小説「猫を読む」でゲンロンSF新人賞東浩紀賞。批評誌エクリヲ、キネマ旬報、「ジャン=リュック・ゴダール(フィルムメーカーズ)」などに編集・批評掲載。映画『君の忘れ方』(脚本参加)が2025年公開。
⑨没入せよ、と現代文明は言う——信仰、LARP、immersion 渡辺健一郎
柳澤田実「米国の終末論の現在 ピーター・ティールや福音派はどのような「最後」のために戦っているのか」(『現代思想』11月号、青土社)
ピーター・ティールはPayPalの創業者・投資家で、兆単位の資産を持つ。彼はしかしここ数年、終末論とイノベーション(技術革新)とをかけあわせた思想を展開し、大衆からも大きな支持を集めている。テック系右派がキリスト教の信仰を強く表明し、トランプ支持に結びついている——といった話はしばしば聞こえてきていたが、その内実や思想的背景の一端がよく分かるのが柳澤田実のティール論。
冒頭でアトランタの新たなスタイルの教会、「2819Church」が紹介されている。YouTubeの登録者数127万人とあるが、2026年1月現在は154万。急成長がうかがえる。ほとんどライブ会場のような教会で、高バイブスの礼拝音楽がかけられたり、パーカーを着た牧師が感情込めまくりで福音書の説教をしていたりする(私からすれば演技過剰だが!)。なるほど心身の高揚がそのまま信仰につながるだろうことは想像に難くない。柳澤はこの教会による野外洗礼イベントに参加したようだ。「青空の下、五つの大きな円形のプールに順番に洗礼志願者が入り、生バンドが奏でる礼拝音楽に合わせ水に身を沈める」。説教や典礼の方法にドラスティックな変化はあるが、アメリカ全土で「信仰復興」が起きている。
こうしたある種の信仰ブームの一端を担っているのがティールである。彼は大学で学んだルネ・ジラールの思想をもとに自身のイノベーション思想を堅固なものにした。ひとの抱く欲望は、他者の欲望の模倣でしかないという「欲望の三角形」の袋小路(競争原理)から抜け出して、まだだれも見知らぬ価値を創造し、独占せよ。それだけが地獄から抜け出す唯一の道だ——『ゼロ・トゥ・ワン』という著作のタイトルが示すようなこの思想は、これだけならまだ突飛にはみえない。
が、彼はここ数年で終末思想の色を前面に押し出すようになった。核戦争や致命的な環境破壊といった最悪の終末(ハルマゲドン)は回避しなければならない。しかし最晩年のジラールが危惧していたように、平和と安全を大きく標榜することで世界を停滞させる(アンチキリスト)のでも供儀は苛烈化するだろう。救済の名目でかかげられた正義がまた別の誰かを犠牲にする暴力システムの悪循環も断ち切らねばならない。かくして、第三の道をいく技術革新が必要、というわけだ。
ティールは積極的にトランプ支持を表明したわけではない。しかし文明が停滞するくらいならハンマーでたたき割った方が幾分マシだということだろう。彼を扇動者として批判するのは容易いが、しかしその真剣さを侮ってはならない。第三の道を思想的、実践的に追究するティールの姿勢に共鳴するひとが多くても不思議はない。カリスマと目される人物はつねに、私利私欲から(少なくとも表面上は)超出し、大儀に猛進するものである。
柳澤の仕事はどれも注目すべきだが、ジラールが大きな柱となる本論文は、ミメーシス(模倣≒演技)論を中心テーマとする私にとっては二重にどストライク。引用されていたジラールの未邦訳著作“Battling to The End” の存在はほとんどノーマークだった。ティールのように、ジラールに依拠しながら創造性を語るのは無理筋だろうと思っていたのだが、ジラール最晩年の思想に読み解くヒントがあるのかもしれない(注1)。ティールの進む未来に抗うためにも、その理路はくみ取っておく必要がある。
ちなみに。私が柳澤田実を知ったのは、ターニャ・M・ラーマン『リアル・メイキング』(慶応大学出版会、2024)の訳者としてであった。「信仰は作られる」と論じた本は数あれど、本書の説得力は随一。描出されているのは、人間あるいは人間社会が、様々な訓練や想像や演技を通じて、神を「現実」のものとしていくその過程。挙げられる事例や研究のすべてが興味深い。神話の現実味を担保するケニングという手法(2章)、BGM+聖書の朗読をiPodで聞き続けると神的体験の力が増大するという実験(3章)、タイの仏教徒には金縛りが多いといった、「神的体験」の地域差の比較検討(5章)などなど。
重要なことだが、ラーマンも柳澤も、信仰心を単なる嘘偽りとして退けるのではない。信仰と現実とが不可分であるというまさにそのことを問題にしている。これは寸分違わず演劇の問題だ。演劇史をひもとけば、それが信仰と現実との関係再編の歴史であることがすぐ分かる。そして演劇研究とは、自らの内/外で更新され続ける現実感と、その中で演じる(演じてしまう)私たちの生への、直接的な論究である(注2)。以下に挙げる論文も、このことに関わる。
Sarah Lynne Bowman, Kjell Hedgard Hugaas「アナログRPG言説における心理学的安全の哲学」原題:Philosophies of Psychological Safety in Analog Role-Playing Game Discourses“International Journal of Role-Playing, Issue16”(2025年9月)
日本語でRPGといえば、まずもってドラゴンクエストなどテレビゲームのことが想起されるだろう。が、もともとはキャラクターを実際に演じる、「Dungeon & Dragons」などのアナログのものを意味する。なかでも近年では北欧由来のLive Action Role-playing(以下、LARP)が存在感を増してきた。といっても日本では馴染み薄いだろうが、Disney+配信のマーベル・ドラマ『ホークアイ』2話にも登場している。実際に甲冑などを着て役に扮し、生身の身体で戦うひとたちの様子が(ネタっぽく)描かれていた。決してメジャーな趣味ではないが、しかし知名度自体は高い。次第に市民権を得てきているという背景も含め、文化的なポジションは日本でいうコスプレに近いかもしれない。
2008年から不定期刊行されているInternational Journal of Role-Playing (以下、IJRP)でも、頻繁にLARPが話題にされる。テーマは多岐にわたるが、心理的な安全性をいかに確保するかといった内容が多い。何故か。LARPイベントがあまりに本気だからだ。有名どころではドイツの「ConQuest of Mythodea」、イギリスの「Empire」など。いずれも数千人規模で定期開催されている。前者は4泊5日、後者も3泊4日と長期間、役になったまま寝食しなければならない。ときには敵方やモンスターの群れ(これも特殊メイクで人間が演じる)の夜襲もあるので気は抜けない。しかし戦闘フェーズはLARPのごく一部であり、食料や道具を調達するための大がかりな街も用意されている。商人や情報屋としてのみ活動する参加者も少なくなく、外交を専門とする政治屋の職などもあったりする。LARP内の世界には、実際の生活がある。これは比喩でも誇張でもない。大きな戦闘前には回復薬などの相場は上がるし、金銭が枯渇したら物乞いや窃盗などもしなければならない!
数日別の人物としてすごすのだから、精神の変調があっても無理はない。そのため、心(身)の安全管理がLARPをめぐる議論の中でも最重要課題の一つとなっているのだ。2025年刊行のIJRP 16号のテーマは「同意」。それまでプレイヤー間のある種の信頼で成り立っていたコミュニティが、新規参入者の増大によって様々なバランスを崩すというのはよくある話。なるほどLARPのようなディープなゲームでリスクを回避するためには、様々なレベル(プレイヤー間、運営とプレイヤーの間など)での同意が必要だろう。
ここで重要なのがBleedという現象。「滲出」、とでも訳せばいいだろうか。演じているキャラクターの立場や性格などが、現実のプレイヤーに影響を及ぼしてしまうことを意味する。政略結婚させられた初対面の相手に恋心を抱いてしまうとか、ゲーム内の敗北が尾を引いてしばらく無能感にさいなまれるとか、そういった事例はもはや日常茶飯事。したがって、ゲーム内で行われる「同意」は一筋縄ではいかない。役割を内面化した一兵卒が、上官の命令に「同意以外の選択肢はない」と思ってしまっているかもしれないのだから。
さらに難しいのは、あらゆるリスクを回避したのでは面白くない点である。この規模なので、事前に設定されたルールを逸脱する状況も当然出てくる。困ったらゲームマスターを呼ぶという選択肢もなくはないが、逐一そんなことをしていれば没入感は失われてしまうため、基本的には禁じ手。どのように面白さとリスク回避とのバランスをとっていくか、そのための「同意」の技術やシステム設計が問われている。
滲出による自己変容もまた、魅惑的。そうでなければ、そもそもLARPの流行はなかっただろう。選出したボウマンとフガースの論文は、LARPにおける心理的安全性を主題としながら、しかし防衛に傾きすぎない慎重かつ軽やかな足取りで、さまざまな議論を紹介している。
演劇研究は2000年以上、滲出的な現象につねに睨みをきかせ続けてきた。そしてそれが単に現実を侵食するバグではないということを繰り返し伝えてきた。演技は、虚構領域にとどまるコントローラブルな営為ではなない。それは良くも悪くも統制的な自己を超え出る衝動になりえるのであり、そうして現実を駆動してさえいる。したがってIJRPで扱われているのはあらゆる「世界」に共通の問題である。人生を楽しむこと以上にリスク管理に注意が払われている現代(アンチキリスト!)において、LARPとLARP研究は参考になるところが多いだろう。虚構に生き、生かされる人間の現実が記されている。
吉田寛「没入」(『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ 遊びから文化と社会を考える』フィルムアート社、2025年6月)
没入というワードはVRなどの新メディアや、デジタルゲームの研究などでよく登場するようになった。いかに作品の臨場感を演出するか。そのとき物語はどのように作用するか、そこに危険性はないか、云々。吉田寛「没入」は6ページと短いものだが、日本語で読める没入論案内としては現状のベスト。参考文献にも必読書が並んでいるが、とりわけジャネット・H・マレー『ホロデッキ上のハムレット』(邦題:『デジタル・ストーリーテリング』)は外せない。『ゲームスタディーズ』第3部に吉田によるブックガイドもあるので、あわせて是非。
ほとんど所信表明のようになるが、私が見据えているのはまさにこの、没入。ただし没入とひとくちにいっても、それがなにを意味するかについては曖昧さが残る。本没入記事にはimmersionと英語が併記されているが、絵画における没入論の古典、マイケル・フリードのディドロ論『没入と演劇性』で論じられるのはabsorption。先述の『リアル・メイキング』第三章でもabsorptionが主題にされていた。
両没入に厳密な区別は今のところなく、混用されることも多いため、整理のための手がかりを一つ。冒頭、柳澤論文から「水に身を沈める」洗礼イベントの引用をした。洗礼は水をかけるだけのもの(affusion)と、身体を完全に水中に沈めるもの(immersion)とがあり、後者はしばしば浸礼と訳される。ヨーロッパに比べて、アメリカでは浸礼を採用している割合がかなり高い。信仰において「体感」が重視されているということだろうか。対してabsorptionには、自分が芸術体験や神的世界に溶け出していく、といったようなニュアンスが強い。
いずれにせよ没入を考えるならば、その対である現実を同時に顧慮せねばならない。宗教的な没入は、没入している当人たちからすれば現実以外の何ものでもない。アメリカの信仰復興、LARPやイマーシブ系の体験型コンテンツ、あるいは近年の(もはや下火との話も聞くが)キャンプの流行なども、オルタナティブな現実の渇望のように見える。没入論を通じた現実の問いなおしは、喫緊の課題。
ちなみにかの名探偵・津田も「1の世界/2の世界」という語で、虚実とその混濁に言及していた。ただし彼においては「見られているはずだ」という意識をも含みこみつつ、しかしときに歯止めの利かない流れにただ身を委ねるような、高度な演技が体現されている。津田が優れた俳優であるがゆえのさらに複雑な滲出構造を指摘しうるが、ひとまずこの辺で。
演技は危険だ。プラトン以来つねに言われてきたことだ。しかし演技なくして生きることはできない。LARP論や没入論という新たな道具が、演劇論にどれだけのインパクトをもたらすか見定めつつ、改めて虚実の境界との間合いをはかりたい。
(注1)なお、ミメーシスそれ自体の創造性を謳ったのが「このロンブンがすごい2024」で何度か言及したラクー=ラバルトである。彼は“Typographie” でジラールを正面から論難し、ジラールも再反論している(「ジラールとのインタビュー」『ミメーシスの文学と人類学』法政大学出版局、1985)。詳細はまたどこかで。
(注2)『リアル・メイキング』の訳者解説で柳澤は、ラーマンの主張を信仰=「真面目なごっこ遊び」だとしているが、同書で「ごっこ遊び(make-believe)」という語が使われることはほぼない。信仰は単に「真面目な遊び(A serious play)」だと言われている。たしかにラーマンはplay(遊び、演技)をほとんどmake-believeと同義で用いているが、演劇人としては両者の関係についてもう少し検討したい。ケンダル・ウォルトンの“Mimesis as make-believe”(邦訳:『フィクションとは何か』田村均訳、名古屋大学出版会、2016)などともあわせて考えるべき問題だろう。
▶渡辺健一郎。俳優・批評家。1987年生。「演劇教育の時代」で第65回群像新人評論賞受賞。著書に『自由が上演される』(2022年、講談社)。現在は1歳の子供を育てながら扶養の範囲内で非常勤講師などを務める。
⑩常見陽平の町山智浩批判から出発して 荒木優太
常見陽平「政治に学歴フィルターはいらない 町山智浩の小野田紀美への「偏差値35で学術会議担当?」発言を許すな」(Yahoo!ニュース、一〇月三一日)
高市早苗首相が誕生し、大きな波紋が広がっている。安倍晋三内閣を引き継ぐ右翼的方向もさることながら、女性初の首相であることも、フェミニストは高市を歓迎すべきか否かといった論点となって久しい。常見の町山批判もひとまずその派生として読むことができる。
新内閣の経済安全保障担当を任じられ、やはり右翼的発言が際立つ小野田紀美が二〇二六年一〇月に特殊法人化する予定の学術会議について答弁した。評論家の町山智浩がそのニュースに触れながら「偏差値35で学術会議担当?」とTwitterでコメント。常見はその発言の背後にある女性差別と学歴差別の交差をえぐる。いわく、国民は多様であり、多様のなかには「低学歴」の女性も含まれている、だから「低学歴」の女性政治家が登場することは民主主義にとって相対的には悦ばしいことだ。
二つ指摘したい。一つ目は、常見の立論が図らずもインターセクショナリティのそれに接近しているということだ。ブラックフェミニズム運動のなかで錬磨されてきたインターセクショナリティは、女性×黒人のように交差点的に重なる複合的な差別を考えるための視点として理解されてきたが、今日、その着眼点は性別や人種のカテゴリーを超え、障害、世代、宗教などに多岐にわたっている。常見の批判の矛先は、女の子には学歴なんて必要ないでしょ(=花嫁修行のほうが大事)に典型的な、女性×学歴の交差性にしぼられている。
ただし、そのこと自体さして重要ではない。肝心なのは、図らずも、の方である。常見がインターセクショナリティを強い武器として使おうとしたとは思えない。あるマイノリティの苦境(ここでは女性)を考えるなかで、たまたま別のマイノリティの苦境(低学歴)との連絡を発見したにすぎないのだろう。それはそうだ。しかし、ここから翻って教えられるのは、インターセクショナリティはかなりありふれた日常的事実であり、もっといえば、探そうとすればいくらでも見つかる恣意的な産物であるということだ。金剛石ではなく砂鉄である。常見の批判文はその凡庸な事実を改めて教えてくれる。私見によれば「弱者男性」論もこの技術の応用だと考えるが(強者性のヴェールに隠された弱者がいる!)、男性すらマイノリティであるならば、だいたいの人間がなにかしらのマイノリティであるに決まっている。どいつもこいつもマイノリティ……で?
近刊の佐藤文香+千田有紀監編訳『インターセクショナリティ基本論文集』(慶應義塾大学出版会)は、トランスジェンダー包摂型フェミニストから千田がトランスジェンダー差別者認定されたことで一部界隈で不買運動の対象となっていた魔書であるが、たとえば混乱的概念使用を整理するホリー・ローフォード=スミス&ケイト・フェラン「インターセクショナリティの形而上学再考」が、フェミニズムは必ずしもインターセクショナルであらねばならないわけではないと結論づけていること(#あらゆる差別に反対しません!?)には、今後真剣な応答がなされるべきだと信じる。
もう一つ、常見の批判文には「反映」的政治家観が前提となっていることを確認したい。常見によれば、国会議員は国民の代表者であらねばならず、国民の多様性に合わせて議員もまた多様でなければならない。だからこそ、人気取りにもみえる芸能人やスポーツ選手の政治進出も多様性確保の一事のために歓迎されるべきだ。しかしながら、このような政治観には、不問の前提がある。
吉田徹は『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)のなかで政治的「代表」には伝統的に二つの解釈が拮抗してきたという。第一は、ルソーを筆頭とするような「反映」的(responsive)解釈で、被選挙民との類似や近接性に重きがおかれ、彼らの手足となって働くことを期待される。対して、バークのような「責任」的(responsible)解釈では、政治家は特定の、ではなく、すべての国民の代表とみなされ、説明責任を果たす代わりに自律的な行動が認められる。「何かのためにあること」が前者ならば、後者は「何かのために行動すること」だ。常見の文章はバーク的解釈を切り捨てることでその面目を保っている。
だから駄目だといいたいわけではない。ルソーもいいし反映もいい。ただ、この反エリート主義がアイデンティティ政治と結託しながら、インターセクショナリティ概念のように細分化の隘路に入るかもしれないことには改めて注意をうながしておきたい。女性にとって女性政治家が誕生することが大事ならば、トランスジェンダーにとってトランスジェンダー政治家こそ待望せねばならない、ということはつまり……。数年前、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフ、さらには彼らの翻訳をつとめていた山本圭の仕事とともに「左派ポピュリズム」が注目された一時期があったが、あそこから我々は一歩も前に踏み出してない、どころか、もしかしたら退歩しているのかもしれないと疑わねばならない。今年は山本太郎が議員活動を停止した年である。
三宅芳夫「極中道(エキストリーム・センター)とは何か」、酒井隆史+山下雄大編著『エキストリーム・センター』(以文社、九月)所収
文字配分を間違えたので、以下駆け足で。
左翼はチームみらいを歓迎しない。外の人からみると、こういう評価傾向は奇妙にうつるかもしれない。大きくみれば似たもの同士ともいえるからだ。本インタビューは、今日よくみられる左翼的狭量を理解するために役立つ。
「極中道」(extreme centre)とは、右でも左でもないとか、批判ばっかじゃなくてもっと生産的な対話を、とか、中立を気取りながらもそのじつ絶対に体制側やファシズムにおもねろうとする極端派(エキストリーム)をいう。もともと、フランスの歴史学者であるピエール・セルナが『極中道あるいはフランスの毒 一七八九-二〇一九』のなかでフランス革命以降の政治状況を整理するために案出した概念らしい。左右対立が激化し、左に傾きかけると決まって「極中道」がバランサーとして出張ってくる、なのに右のときはスルー、ずるいずるい、隠れ右翼め!……というわけだ。
要するに、自分たちと立場を同じくしない左派や保守はだいたい「極中道」に分類される――実際三宅によれば、東浩紀も、東と一緒に本をだした脱構築研究会も、しまいには『中央公論』も「極中道」である――。様々な政治的立場なるものがそもそも存在しないかのようだ。
いったいぜんたいそこまで先鋭化してなにがしたいのか。私は、ちょっとでもブレちゃうと右翼にカウントしちゃうぞ、という脅迫であると受け取った。根本的に戦略をミスってる。そんな脅しが効くのは一部のインテリ業界だけで、参政党躍進のこの時代、だいたいの人間が、アッじゃあ右翼でいいです、ってなるに決まっている。市井の人々の素朴な右翼っぽさを忘れてはならない。
人がどんなふうにして他人の不安や恐怖につけこみ支配しようとするのか、我々はその方法について学ぶことができる。自分と同じでない人と出会うと癇癪を起こすのは左翼に限った話ではない。怒るのは仕方ない。でも、その感情に赤の他人が流されてはいけない。お前はお前で、俺は俺だ。この原理原則を貫くためにも、「極中道」使用にみられる高度な政治的技術を理解しておくのは決して無駄ではない。
ちなみに、英米圏では「フーコーと新自由主義の共犯関係」の研究が進んでいるらしい。すべての人間が新自由主義者になるまであとちょっとかも。わくわく。
飯塚理恵「アンチエイジングという美容実践――治療をめぐる論争」、谷本奈穂+飯塚理恵編著『きれいはいまもゆれている』(晃洋書房、九月)所収
これを読んでいるあなたは、三〇代後半で、顔には若い頃にはなかったシミができて、それをコンプレックスに思っている……と仮定してみよう。
朝起きて洗面台の鏡にうつる自分の醜い顔をみるたびに溜息をつく。昔は綺麗だった、というわけじゃないけれど、もっと違うことに悩めていた。才能とか、出会いとか、人間関係とか。でも、いまの私は頬の黒ずみでいっぱいになっている。黒ずみが私になっている。しかも、ここから先は坂道を転がるように、黒ずみはどんどん大きくなっていって、万が一にも小さくなるなんてことはありえない。絶望。かつて鼻で笑っていた湘南美容クリニックの予約受付ページを昨日ブクマに登録したのはここだけの秘密。
でも、本当はレーザーにだってノレない。なにか自然に反している感じがするから。薬物を使ってずるしたスポーツ選手みたいに顔面にチートしてるみたい。でも、美容オタクの友達は、そんなの全然気にすることないって言う。レーザーは、マイナスになったものをナシにして元の状態に戻すことなんだからって。いまレーザーを使う人は、お医者さんの免許をもっているんだから、病気を治すのと同じなんだからって。あいつと話していると、たしかにそうかも、と思う自分もいる。
もしレーザーするのが病院に行くのと同じで、将来的に保険適用なんかもされるようになって、大多数がつるつるの肌を手に入れるようになったら、シミのある人がいまよりもずっと変な人だって見られるのかも。生きるのに困ったりするわけじゃないのに。気が乗らないのは、いまレーザーしたら、彼らがずっと肩身の狭くなる世界に一票入れているのと同じだから。病気でないものを病気にすることに加担している気がするから。なにより、やりたいからやってるんじゃなくて、やれって言われてるからやらなきゃいけない感が、なんかムカつく。
老いることって、そんなに悪いことだっけ? 顔のシミはなにも応えてくれない。でも、飯塚理恵なら応えてくれる……かも??
▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『文芸時評傑作選~炎上の炎に焼かれてアチチの巻~』(在野研究社)、編著に『プロレタリア文学セレクション』(平凡社ライブラリー)などがある。
⑪ダイアモンドのとがり針 西村紗知
昨年から引き続き、本企画「このロンブンがすごい」に参加させてもらうこととなった。
テーマとしては去年とさほど代わり映えがない。昨年の私のセレクトを覚えている人はいないと思うので振り返ると、「物の自律性」にちなんだ三選だった。コミュニケーションやイメージの次元を相対化し、あるいは批判的に振りほどくことで、「物」とか「素材」といった具体的な「対象」とのかかわり合いを展開する内容のものを選んだつもりだ。去年と違うのは、「対象」が近代以前のものが多いことである。関心が歴史哲学的な事柄へと移り変わっていっているのを自分では感じている。
歴史哲学的な事柄へ、というのは、時代の古い事柄をいかに扱うかという問題意識であるよりも、古い事柄を扱うことを通じ、書く主体の時代に対する意識が、今現在という時代に対する意識も含めてどう変容していって、それとともに対象のほうがどのように現在性を獲得していくのか……といった具合である。反時代的であるとはどういうことか、という問題意識と言い換えてもよい気がする。反時代性が時代遅れであることと一線を画すのは、その主体がうっかり、別の時代意識も内包してしまって、時代精神に関して主体が宙吊りになったような、そういう場合のことだと思う(それに加えて、今も昔も変わらないと言って、普遍主義的な立場を取ることもできないような)。
言うなれば今年は、書く主体が時代精神に関して宙吊りになるということについて考えるきっかけを与えてくれた三選である。以下に私が触れる論文で、書く主体は、ある特定の概念の孤立状態(平安期の「友だち」概念)、ステレオタイプ化以前の姿(岡本太郎が無視せざるを得なかった弥生土偶)、無名状態(「ダイアモンドのとがり針」という比喩とともに、フランス革命に動員されていった貧民層)が一旦恢復した地点に、居ることだろう。その地点は特定の時代にあるとも限らず、いつ訪れるかわからないものではないかと思う。言葉が生まれる前に、ステレオタイプが成立する前に、私達は後戻りすることができない。
●「書かれていない」から「ではない」へ、介入する次元をテクストから現実へと移行していく主体
・岡田ひろみ「「友」や「友だち」という関係性 : 『源氏物語』の女君に友達はいるか」、『日本文学』74巻10号、 2025年10月、pp.2-12。
『源氏物語』の藤裏葉巻にある、紫の上と明石の君が初めて対面する場面に触れて、彼女らの関係を考察する。筆者は、平安中期頃の他の作品における「友」「友だち」の用例をいくつか分析することを通じ、紫の上と明石の君が当時「友だち」と言われていたところの関係になれないと結論付ける。
筆者は、現代の「友だち」概念をテクストに当てはめることを避けつつ記述を進める。筆者によると、『源氏物語』の他に『平中物語』『大和物語』にも、「物語にいわゆる女の友情(親しい友としての間柄の心の交流)が語られることはない」のだという。用例がそもそも少ないというのは興味深い。『源氏物語』以外にも、男性同士、主従関係、夫婦仲についての用例が『うつほ物語』や『伊勢物語』から数々引いてある。
私が興味深く思ったのは、この文章の論述の進め方、つまりは導入と結論の変わらなさである。
結論にはこのような文がある。「以上のように、「友」や「友だち」という関係性や交流の様子を辿った上で冒頭にみた藤裏葉巻にかえると、紫の上と明石の君が友達には決してなれないことがよくわかる。(……)ずっと「めざまし」という思いを抱き続けていた明石の君のことは、「友」や「友だち」という言葉で結ぶことはできないし、友情を交わす関係にはなり得ない」。彼女らが友だちになれない理由として、「めざまし」という言葉の存在が挙げられている。実のところ、「めざまし」の訳出を巡る話題は本論文の最初のほうにあり、これは誉め言葉のほうではなく貶し言葉で取るのが妥当だと筆者は判断している。「めざまし」という言葉が結局のところ重要な論拠のひとつであるというなら、途中紹介された、「友だち」の用例はさほど最後の結論に影響を及ぼしていないように見える。
現代語でもってテクストへ感情移入してはならないという立場を筆者はとるが、結果的に、今も昔も変わらない、「友だち」という概念の取り扱いの難しさがここにはある。どこまでいっても個別具体的で、私的で、その内実は正否判定の対象とならない。かといって、完全な自己申告のもとで成立してしまう、というわけでもない。そういう難しさだ。
概念の内実が最後に明らかになった、というより、書く主体の位置が移動したのではないかと思う。つまり、「(そうは)書かれていない」から「(そう)ではない」へと。「友だち」の用例との比較検討という作業を終えたのちに、テクストの向こう側、リアルな人々の行き交う次元へと論文を書いている主体が移行していったかのように見える。
むしろ、「(そう)ではない」と言い切ることへの誘惑、つまりはテクストの向こう側へ誘惑されることなくして、「書かれていない」という事実が、私たちにありありと現前することはないのだろう。「(二人を友だちとして読み取る判断材料が)書かれていない」という事実だけでは、それは客観的な事象として物の数に入ることはなく、ただ何人にも気付かれない箇所として見過ごされるだけに過ぎない。
●「存在しない」かの扱いを受けるもの、その等閑視の来歴を探ると、現代の思考様式が見えてくる
・成相肇「弥生はどこへ行った?:ハニワと土偶のあいだの人体(あるいは岡本太郎「縄文土器論」が「土器論」でなければならなかった理由について)」、『東京国立近代美術館研究紀要』29号、2025年3月、pp.18-25。
他方こちらは、誘惑を訂正することで、「(そうは)書かれていない」現実の次元に人々を引き戻そうとする仕事である。
一昨年、東京国立近代美術館にて開催された展覧会「ハニワと土偶の近代」。企画者の一人であり同館の主任研究員による研究ノートだ。
タイトルからもわかる通り、岡本太郎の『縄文土器論』への批判が展開されている。『縄文土器論』は、弥生時代の考古物が抜け落ちた歴史認識によって書かれているのだという。岡本の論考が掲載された『みづゑ』1952年2月号に使用されている写真が、縄文ではなく弥生時代のものという指摘が本論文にはあり、それだけで面白い。出土例が少なく研究も途上段階にあるという「弥生土偶」は、言説に掬い取られる機会を逸して、そうこうするうちに、「逞しい縄文」と「優美な弥生」といったわかりやすい二項対立に基づいたステレオタイプは強化される一方なのだと、この論文を読んで説得された。
考古物を巡って視線の奪い合いが発生しているのを、垣間見る心地になる。「何故その逞しく漲ぎる生命感が突然に絶えて、次代の弥生式から埴輪を通って流れる、平板な、所謂「日本式」伝統と交替してしまったのであろうか」という、本論文で引用されている岡本の文章からしてすでに、実際の考古物がどうであるかという次元を離れて、「日本式」伝統なるものへの敵対心に満ちた目配せが感じられる。ブルジョワ的な(?)、大人しげで封建的な(?)視線でもって「物」は歪められていて、私たちの視線もまた実は歪められているのだ……というような。そうやって主張する知性だって「物」を歪めている視線のひとつに違いないのに、不思議とそれは批判されない。
考古物を対象とするとき、カテゴリーが違うと担当する専門知も異なるのだという。「土器は工芸品として、土偶は彫刻として語るというそれまでの慣例(美術家や美術評論家は基本的に土偶を扱ってきた)をやぶり、土器も土偶も「空間性」の観点のもとに一括して語るというこの論の要点を、「土器論」という設定はうまく代理している」と筆者は指摘している。岡本の『縄文土器論』は、分業を包括する側面もあったのだろう。どれだけ意図的かはわからないが、(古色蒼然とした大学知という)専門知の自己反省を促す知性の、走りのような感じに見える(最近ではよくある、人文系出版物のベストセラーの型だろう)。反抗的な知性は新しくも正しくも見えるが、例外を犠牲にしてこそ成り立っている。こういう教訓を汲み取るべきだろうか。
主観的に組み立てられた伝統主義的な人文知は、科学的かつ実証的な、日付を大事にする批判的言説と衝突する。衝突することで両者のやっていることが明瞭になって、対象の側が自由になっていくのであればそれは生産的だろう。今日では、その衝突をどちらが養分として物にできるか(支持者や買い手を増やせるか)、という戦いに終わる気もするが。
●「書かれていない」ものについて書いた途端に始まる破滅
小森達郎「アーレント「社会問題」批判の再考に向けて」『立命館大学人文科学研究所紀要』 143号、2025年3月、pp.45-71。
「書かれていない」か「存在しない」かは、生身の人間に関わると当然すぐさま政治の話になる。
ハンナ・アーレントは『革命について』(1963年)で、「今日、政治的手段によって人類を貧困から解放しようとすること以上に時代遅れなものはないし、それ以上に無益で危険なことはないといえよう」と書き、多く批判を呼んだのだという。アーレントは、「貧困からの解放」に反対しているわけではない。フランス革命のことに触れ、ロベスピエールが徳の恐怖政治を行うに至った帰結を振り返り、「社会問題を政治的手段で解決しようとする試みはいずれもテロルterrorを導き、ひるがえってそのテロルこそ革命を破滅に追いやる」と述べている。本論文では、アーレントの「社会問題」批判の含意を探り、人々の「連帯」に基づいた、テロルの暴力に至らないような、「社会問題」を政治化する別の可能性について考察する。
アーレントは、19世紀の歴史家であるアクトン卿の『フランス革命講義』から引用している。ヴェルサイユ宮殿に行進してゆく女性たちを、アクトン卿は「自分が共有もせず理解もしていなかった動機に、何人も抗することのできないダイアモンドのとがり針の助けthe aid of a diamond point that nothing could withstandを与えたのである」と描写した。革命を主導する人々は、自分たちとは身分や立場の違う、貧困に喘ぐ人々の様子に慄きつつ「ダイアモンドのとがり針」という比喩を与えて彼らを迎え入れたのだった、と。やがて、革命を主導する人々と実際に圧制の影響を被る人々、つまりは貧困層と富裕層との「紐帯」がないことに気が付き、この分断を乗り越えるためにロベスピエールは「徳」を、実態としては貧困層に対する「同情」を「紐帯」にしようとする。だが「ロベスピエールは「愛国心は心の問題である」と宣言し、「公的検閲public inspection」を通じて、革命家たちに各人の「内奥の動機」を不断に開示するよう求めた」。それは「偽善にたいする闘い」であり、社会問題そのものとはかかわりのない「支配者たちの自己粛清」となった。筆者がまとめる、アーレントによる「社会問題」批判はおおよそこのようなものだ。
では、どうすればよかったのか。後半はA・ギュンドゥなど後続の論者によるアーレントの解釈に沿って続く。貧困層を解放の目的ではなく、解放云々の話の前提にすら入っていない、と見做すことをせねばならなかった、という。「アーレントが主張しているのは、こうした生存に関わる諸権利とは「政治」が実現するべき「目的」そのものではなく、「政治」の前提条件となる「前政治的な諸権利」、つまり「政府や政治権力がそれに触れたり侵害する権利をもちえない前政治的な諸権利(prepolitical rights)」として理解するべきだということである」。それで筆者は、「「連帯」に基づいた「社会問題」の「政治化」の方途を探究するべく、「前政治的な諸権利」の意味内容について理解を深めるとともに、それら諸権利の保証を「共通の関心」として「連帯」を起動させうる論理をアーレントの議論に内在しつつ析出すること、これが今後の課題である」と締め括る。
さて、政治の不手際でもたらされたのであっても、「社会問題」に政治が介入してはならないという、極めて理不尽だが、身に覚えのある現実がここにはある。この原稿を書いている今日まで選挙期間だったので、「前政治的な諸権利」にいろいろな人間が様々に手を付けているのを眺めることができた。今更、「前政治的な諸権利」を重要だと言ったところで、人々を生活実感型保守道徳に今一度押し込み直すことにしかならないのではないかと思う。物質的なリソースには限りがあるのだと思えば、「前政治的な諸権利」を「共通の関心」にしても、人々はただただ排外主義に流れ込んでいくだけな気がする。
私は、「ダイアモンドのとがり針」と書いてしまった、その主体の正直さに賭けてみたほうがまだマシだと思う。「ダイアモンドのとがり針」とはもう二度と呼ぶまい、という抑圧的な教訓は、自分の生きる現実に新たなる概念が、新たなる存在が付け加わることを拒む、自己保存に過ぎない。「ダイアモンドのとがり針」が自分自身の力で人間に戻っていく、この理不尽かつ力動的な発展をいかに起動させて、ここに社会を委ねることができるのか。市民社会も議会政治もなし崩しになるかもしれない(というよりすでにそうだろう)可能性を前にして、今の「政治」的理念を手放すことができるのか。「連帯」の可能性は、そこからしか始まらないと私は思う。
▶西村紗知。1990年鳥取県生まれ。批評対象は主に音楽。東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻(ピアノ)卒業。東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻(美学)修了。単著に『女は見えない』(筑摩書房、2023年)、論考に「椎名林檎における母性の問題」(『すばる』2021 年 2 月号/第 4 回すばるクリティーク賞)、「お笑いの批評的方法論あるいはニッポンの社長について」(『文學界』2022年1月号)、「いしいひさいちについて」(『すばる』2024年8月号)など。ちえうみPLUSにて「新しい典礼」を隔月連載中。https://chieumiplus.com/tags/atarashiitenrei
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