みなさん反戦平和を堂々と 自民圧勝で鋳直す「戦争に適合した姿勢」
記者コラム「多事奏論」 編集委員・高橋純子
それはちょうど1カ月前のこと。衆院選の公示日、東京・秋葉原で行われた、高市早苗首相の第一声を聞きに行った。
さすが人気者。たくさんの人出。若い世代や、ひとりで来ている女性も目につく。スマホのカメラを向ける人、日の丸の小旗を振る人も多くいる。ただ、安倍晋三首相の時のような興奮や熱狂のようなものは感じられない。
驚いたのは30分近く、日本の技術はスゴイ系のわりと細かな話を延々とし続けたこと。「○○ではないですかみなさん!」「○○しようではありませんか!」といった、聴衆の拍手や歓声を受けるための「タメ」をまったくつくらない。選挙演説というよりは講演会の風情。聴衆は聴き入っていたようにも見えたし、ぽかんとしていたようにも見えたし、私は早々に飽きたし、あまりの冗長さにいら立ってもいた。首相、演説下手だったんだ……意外。っていうか、私はなぜ首相が演説上手と思い込んでいたのだ? そうか。切り抜き動画の影響だ。これ。
比べるならば参政党代表の演説は巧みで、内容にはまったく共感できないけれど、飽きない。「ここに球投げて!」という聴衆の欲望を理解し、ズドンと投げ込んでくる。聴衆は沸く。そこにはコミュニケーションが確かに存在している。思い返せば小泉純一郎、安倍両元首相ら人気政治家も、聴衆をあおったりくすぐったりすることにはたけていた。
良くも悪くも首相は、ポピュリストあるいは大衆扇動家としての能力がない。言い方を変えれば、あれほど演説下手では、ふわっとした期待は集められても、人びとの納得と同意を獲得し、先導/扇動することはできない。私はそう思う。
でも、だからといって警戒を解くわけにいかないのは、寒風吹きすさぶ中わざわざ集まり、ずっと立っている聴衆のことが、首相には「見えていない」と感じたからだ。ただただ自分が言いたいことを立て板に水でしゃべり続け、一方通行でも平気でいられる首相のありようは、なかなか異様である。独断専横の政治家として花を咲かせる可能性を大いに秘めた人物に圧倒的議席を与えた今回の選挙。もうすぐ春なのに、震える。
首相は今後、スパイ防止法の制定や憲法改正といった「国論を二分する」政策を推進するつもりだろう。ただ、そのこと自体よりも私がより深刻だと考えるのは、選挙結果を受けて、「反戦平和はもう古い」という類いの言説が、首相支持/不支持を問わず猛烈な勢いで噴きだしていることだ。いくらなんでも知的体幹が弱すぎやしないか。
未完の大長編小説「死霊」で知られる作家の埴谷雄高(はにやゆたか)はこう書いた。
「戦争の影の徐々たる浸蝕(しんしょく)は、ひとびとがはじめ持っていた姿勢を次第に崩し、鋳直(いなお)し、果ては、さながらはじめから保ちつづけていたかのごとくに、まったく新たな、戦争に適合した姿勢を確(かた)く固定したものとしてつくりだしてしまう」(「政治をめぐる断想」)
「時代遅れ」「票にならない」という木刀が振り回され、「反戦」「平和」をなんとなく口にしにくい空気がつくられていく。それは新たな、戦争に適合した姿勢とは違うのだろうか?
「私たちが戦争を見放したにせよ、さて、政治が私たちを見放さないかぎり、戦争もまた、支配者の権力維持の手段として依然使用されるのである」(同)
だから堂々と、「反戦」「平和」を言い続けようではありませんかみなさん!
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- 【視点】
以下は2019年に出版した僕の著書の一節である。 「私は12年の総選挙の際、この秋葉原での安倍総理の演説を直にみましたが、千人ほどの熱狂的支援者が集まり、林立する日の丸が街宣車の周りを埋める中で安倍総理が「日教組批判」を気持ちよさげに叫んでいたのをよく覚えています。しかも街頭演説が終わっても殺気立った聴衆の一部は立ち去らず、その場にいたNHKのテレビクルーや記者を取り囲んでつるし上げていました...この演説会に集ったような排他的な大衆の熱狂がこれからの安倍政権を支えていくだろう、これから極右ポピュリズムが台頭するに違いない、と予感してもおかしくない情景でした」。 高市総理の演説風景は、安倍街宣の大衆扇動の場とは全く異なる。だがその分、子ども連れの家族がたくさん集まり、特に女子学生には大人気だった。僕も部活帰りの学生たちが高市総理のポスターを観て「あっ高市さんだ!」と声を掛け合う場に出くわした。 どうも高橋純子記者には「ポピュリズムには興奮と熱狂が伴う」という偏見があるようだ。実際はそうでもない。例えば1950年代のアルゼンチンの大統領ファン・ペロンはポピュリストとして名高い。彼の妻エビータは、貧困層からファーストレディに上り詰めた物語をもち、ポピュリスト的象徴として今も国民から愛されている。エビータは特に扇動家として愛されたわけではない。ポピュリズムの機能は扇動のスタイルではなく、民衆が自らの願いを投影できる象徴性にある。だから高市総理の演説に集まった家族や女子学生が何を願い、何を総理に投影しようとしてるのかを見極める必要がある。この人々の願いや想いをくみ取ることなしに「反戦」「平和」を唱えることに意味があるだろうか。大衆を省みることのない「反戦」「平和」のスローガンこそが、知的体幹を弱らせたのではないだろうか。 しかも国会審議で高市総理は「ママ戦争を止める」というスローガンに共感を示し、「反戦」と「平和」に寄り添う姿勢をみせた。世論は高市総理こそが「反戦」「平和」叶えると感じるのではないだろうか。残念ながら今の護憲派よりも、高市総理の方が大衆の感覚をつかむうえで侮れない能力をもっている。左派やリベラル派は、この「侮れなさ」に真剣に向き合い、知的体幹を鍛えなければならない。そうした努力も尽くさずただ堂々と「言い続ける」だけならば、見向きもされなくなるだろう。
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