【槍弓】安心毛布は妖精さん
現代社畜で不眠症な弓と高級羽毛布団の妖精(??????)槍という謎設定のよくわからない現パロです。弓がめっちゃ仕事明けテンションで頭ふわふわしてるしチョロいし女々しいし槍もちょっと頭ふわふわしてます。書きたいとこだけ書き終わったのでとりあえず放り投げますが不眠症設定をまっっっっっっっっっっっっったくもって活かしてないのでもうなんかパッキンアイスぐらいの気軽さでお楽しみください。槍弓でまだ現パロしか書いてないのはなんかあのそのトテモカキヤスイ……ユルシテ……
//槍弓(広義)のおはなしやら呟き小話やらなんやら吐き出すためのTwitter垢を持ってますのでもし何かありましたら支部のメッセよりこちらに飛ばしていただけた方が反応早いです→twitter/iski777
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ガランガランガランガラン!
目の前で景気良く鳴らされた鈴の音に思わず目を瞠る。「おめでとうございます~~!」と花開いた愛想の良い笑顔は、エミヤに向けられたものだ。たった二時間前に地獄の15連勤を無事乗り越えてきたばかりの耳にはいささか喧しすぎる簡易ベルの音嵐がようやく鳴り止んだ頃、ご住所をお聞きしてもよろしいですか? と宅配便サービスに向けた紫色の用紙が差し出される。そこに来てようやっとエミヤは、自分の置かれた状況を正しく把握した。
精魂末まで搾り取らんとする賽の河原にも似た圧倒的仕事量を、同じく彼岸の淵に立たされた戦友もとい同僚達と共になんとか処理し終えたのは今朝の六時過ぎ。当然ながら仕事場に泊まり詰めであった社畜戦隊の面々は、期日までになんとか敵を倒し終えた達成感と、ともすればそんなちっぽけな喜びなど塗りつぶしてしまえそうなほど身体に降り積もった色濃い疲労感を抱え、それぞれ久方ぶりの家路に着くこととなった。エミヤもまたそれに違わず、戦勝兵というよりは敗残兵と言ったほうが正しく見えるような足取りで一路自宅へと足を進めようとしていたところである。
仕事場から自宅までは電車を一本使えば辿り着ける程度の距離であったのはいいとして、肝心の駅から自宅までの道のりがそこそこ歩かなければならない長さを誇っていたことには、家賃を考えて目を瞑り。どうせ歩かなければならないのなら、普段は通らない道、買い物に赴く時ぐらいしか通ったことのない商店街なんかをくぐって帰ってみるのもいいかもしれない! と、仕事明け特有のナチュラルハイに陥っていた思考が、ただでさえ疲れているはずの身体の悲鳴を無視して見慣れぬ大通りに入ったのも、これまたご愛嬌。
そのふらっと立ち寄った先で休日限定の抽選会なんてやっていたからには、やってやらねば損だろう。と、産まれてこの方時の運にもタイミングにも見放されている男が自分の幸運値を忘れてぐるぐると八角形の運試しに挑んだところ、何の気紛れかはたまた予兆か、二等を示す銀の小玉が転がり出たのだった。
景品が如何なものであるかも確認せずに参加しておいてなかなか上等な賞を引き当ててしまったことに対して、今更ほんのすこしの罪悪感を背筋に昇らせたエミヤであったが、当たってしまったものはどうしようもない。ちらり、と横目で景品一覧を確認してみれば、銀の小玉と引き換えに与えられるのは、普通に買えばおよそ五桁は吹き飛ぶだろうと思わしき高級羽毛布団のセットであった。小さな和室を自室として使い古した煎餅布団を愛用しているエミヤとしてはそこそこ有り難い代物である。
惜しむらくは一年の大半を仕事場で寝泊まりしている筋金入りの社畜なエミヤにとっては、あまり使う機会が訪れなさそうなところだろうか。日本人の平均身長を軽く凌駕しているエミヤでも使いやすそうなサイズに見えるのだが、流石にそれを仕事場に持って行くのは社会人としてアウトだろう。労基法の全てをゴミ箱の底にダンクシュートしたまま働かされ続けている者が社会人の道徳を説くのもおかしな話ではあったが。
絹地の目が冴えるような美しい青を基調として細やかな紋様の刺繍された羽毛布団は、見ているだけでも触り心地の良さげな質感をしている。
それを保管用の厚ビニール越しにふかふかと確かめたエミヤは、そっと宅配便用の用紙をカウンターに突き返した。どうせあまり使えないことが目にみえているものをわざわざ家に運んでもらうのも申し訳無いと思えてしまったのだ。
「この程度なら自分で持って帰れますよ。家もすぐそこですから」
「えっ、でも、流石に大荷物じゃありませんか?」
「はは。この通り、他には特に荷物も持ってませんし」
広げて見せた腕には確かに薄っぺらい鞄が一つ提げられているだけで、他に持つべきものはない。大抵の荷物は会社に置いてきてある。軽快にベルを鳴らしてエミヤの幸運を祝ってくれた年配の男性は一瞬不安そうな顔をしたが、エミヤの体躯が自分よりもだいぶ高くがっしりしているのを見ると、ご本人がそう仰るなら、と他の景品物と共に並べられていたそれをエミヤの腕に持たせてくれた。流石に厚手の布地はかさばってそこそこ重いうえ前も見辛かったが、今のエミヤはなんせ地獄の15連勤を乗り越えてきた歴戦の兵士だ。このまま家に帰るのも特に難しくないことのように思えていた。
実際、それはただ単に己の疲労度が麻痺するほど疲れ切っていたからこそ湧き上がっていた万能感で、ここしばらくエナジードリンク漬けになっていたエミヤの顔色といえば、ほとんど土気色といっても過言ではないほど最悪な代物だったのだが、生憎それを容易く指摘できるほどエミヤの肌は解りやすい色をしていなかった。どこの日サロで焼いたんですか? と時折聞かれる見事な褐色は生まれつきのそれである。それなりに見栄えのする手足の長さと同じく元より色の抜けた短い白髪も相俟ってか、「外国の人ってすごいわねぇ」なんて声が後ろで見ていたギャラリーのご婦人方から飛んできた気もするが、エミヤはどの誤解も解くことなく意気揚々と商店街を後にした。
すぐそこ、だなんて嘯きはしたが、エミヤの自宅であるアパートはここからもう少し歩いた先にある。腕の中に抱きしめた毛布の塊が視界を遮って邪魔なことこの上ないにしろ、まずは歩かなければ家に辿り着けもしない。ぎゅう、と皺の寄るビニール越しの柔らかさを堪能しながら、一歩、また一歩と長めのコンパスを振り回してエミヤは一途に帰路を辿った。
夏から秋に差し掛かる頃の眩い陽射しが、鈍色の目を目蓋越しに灼く。早朝を少し過ぎて、一般家庭は朝食の支度を済ませた頃合いだろうか。どこかの軒先から香ってくる焼き鯖の匂いが、ふとエミヤの鼻先を擽った。思えばここ最近まっとうな人間の食事というものをしていない。料理好きなエミヤは自宅に調理器具のほとんどを取り揃えていたが、近頃は忙しさのあまりそれらを引っ張り出すこともなかった。もっぱら即席十秒チャージなゼリー飲料とカロリーでメイトなもそもそしたブロック体のお世話になりっぱなしであった気がする。
そう思うと無性に食べたい、作りたいメニューが頭の中に浮かんできたので、よーし帰って毛布を家に置いたら食材の買い出しに出かけよう、なんて思っていたエミヤの頭は、気がつけばもふりと柔らかな感触に包まれていた。
どうしてか、自分の顔面が腕の中にかかえていたはずの羽毛布団にダイブしている。地面は靴の裏ではなく側面にぺたりと張り付き、膝から下どころか頭のてっぺんから爪先に至るまでぐったりと力が抜けて微動だにしない。なんとか顔を横に向ければ、電柱が視界の左端から右へ向かって生えている。不思議に思ってそのまま右側へと目だけを動かせば、抜けるような青空が相も変わらずべたりと右側全体に浮かんでいた。なるほど世界が90℃ほどひっくり返ってしまったようだ。違う。エミヤが倒れているのである。
当たり前といえば当たり前であった。むしろここまで倒れないで歩き通せていたのがおかしい。栄養失調、睡眠不足、過度なストレス、エトセトラ、エトセトラ…………今のエミヤの体力をHPゲージで表すなら1残りどころか小数点を切りかねない程度には真っ赤っ赤に染まっていることだろう。そりゃあそんな状態で大荷物抱えたまま徒歩を続ければ路端で倒れもする。
自宅まではあと数分。このまま寝ていても家に帰り着くどころか死体と間違われて通報されかねないため、エミヤはなんとか自力で起き上がろうともがいてみたが、傍から見てもその指先はぴくりとも微動だにしていなかった。どうしようか。このままだと通行人の方に多大な恐怖と不安を与えかねない。他の兄弟や仲の良い幼馴染に電話をして助けてもらおうにも、そもそも電話を取り出すほどの余力が残っていないし、こんな姿を見られてしまえば何があったかどうしてこんな有様になっているのかと問い詰められるのは目に見えている。
学生時代、仲の良かった友人に誘われて入社して以来その見事なブラックっぷりに漬けられてからこっち、未だ抜け出せていない理由のうちには、同じく辞め時を完全に失っているその友人や他の同僚達への同情も多大に含められていた。なんやかんやでエミヤが辞めさせられてしまえば、エミヤが率先してこなしていたぶんの仕事が他の人間に等しく降りかかることになる。他の同僚がいかにギリギリのところで人間性を保っているのかよくよく見知っているエミヤは、ここで一人だけ抜け出して楽になるわけにはいかないのだ。たとえその正義感が間違っているものなのだとしても。故に知己へと連絡を取るわけにはいかず、己の近況を知らせるわけにもいかなかった。
まぁそれはそれとして現在進行系で通報もしくは救急コールの危機を迎えているのだが。むしろこのまま天命を全うしそうな勢いで視界は眩み手足は冷たく強張っていく。どうしようか、いやどうしようもないのだからこんなことになっていて、ああ頭が割れそうに痛いこれほんとに中身出てるんじゃないか…………
そうして取り留めのないことをぐるぐると考えながら、ついに気を失うその直前。さらり、と絹糸にも似た柔らかな感触が頬を掠めたような錯覚を最後に、エミヤの意識は闇の底へと呑まれていった。
おはよう世界。おはようわたし。ふるり、と白い睫毛を震わせながら目を開けたエミヤは、そこでようやく己が今の今まで深く眠り込んでいたらしいことを悟った。目を瞑る前の記憶といえば高級羽毛布団を抱えたまま道端で死(の一歩直前)に至ったところでぷっつり途切れている。消毒液の匂いも見知らぬ人の声もなく、目を開けたところで目の前が真っ暗なままであることを考えると、これはもしかしてもしかしなくても本当にエミヤは短い人生を終えてしまったのではなかろうか。それだと死に際がなんとも間抜け過ぎるので正直そこだけでいいからやり直させてほしい。
起き抜けで思考の定まらないまま人間の死の無情さについて考えを巡らせていたエミヤだったが、ふと耳を澄ませてみれば、鼓膜の奥から生きている心臓の脈動が聞こえてくることに気付いた。とく、とく、と一定間隔で刻まれるそれは集中して感じ取ろうとすると少しばかりむず痒く感じる。なんだ、どうにも自分は未だ此岸の淵にしがみついているらしい。辞職届けも仕事の引き継ぎ指示もしないまま死ぬのはあまりに忍びないと思っていたので、自分が無事生きていることに関しては素直に喜ぶことができた。
しかしそれにしても、なんだかとってもあたたかい。自分が横になっているらしいことは辛うじて解るのだが、病院のベッドにしては身体の下に敷かれているらしい敷き布団がやたらふかふかしているし、自分の鼻先からはまったく見知らぬ匂いがする。その匂いが思いの外自分好みで、肺いっぱいに吸い込んでみればゆるゆるとまた目蓋が閉じかねないほど安らいでしまうのはどうしてだろうか。ハンドクリームにしたって無香料のものを好むエミヤは自宅にも所持物にも匂いの目立つものは置いていない。
というかこればかりはちょっと気付きたくなくて無視していたが、明らかにどう考えても自分以外の人間が発する呼吸音が聞こえてくる。それも目の前から。ともすればPCに向かって酷使し続けた目がとうとう潰れでもしたかと思っていたが、これはまさか単純に視認できないほど近くに何かがあるだけではないだろうか。エミヤが鼻先を擦りつけたこれは、もしや人の着ているシャツかなにかの布地で。エミヤが抱き枕よろしく幼子のように手足を纏わりつかせているこれ、いや、この人、は。
正気の二割ほどを取り戻したエミヤは、おそるおそる目の前の人肌温度から顔を離し、そっと上を見上げる。そこには、まるで当然のような存在感を放つ、見知らぬ青髪の男が居座っていた。
いや、居座っていた、などという不敬な表現は失礼にあたるだろう。確かにエミヤは目の前の男性に1mmの見覚えだってなかったが、見れば、同じ布団の中で横たわっている青年を逃すまいとでもするかのごとく腕やら足やらを巻きつけているのは紛れもなく己のほうである。ふかふかと先ほどから圧倒的手触り感を訴えてくる布団は、エミヤが先刻(あるいはもっと前)引き当てたはずの高級羽毛布団だ。そして見渡す景色はどこからどう見ても己の部屋の中だった。
つまりエミヤは、どこがどうなってどういう流れを経たのかはまったくの謎であるとして、自分が引き当てたうにゃらら万円の毛布に包まれながら、無面識の男性一人を抱き枕代わりにして熟睡こいていたのである。これには自称日本人もびっくり。思わず声にならない声をあげて身体を仰け反らせたのも仕方のない話だろう。その身体が揺らされる衝撃で目を醒ましたのか、くぅくぅと健やかな寝息を立ててエミヤの安眠に貢献してくれていたらしい男もふにゃりと目を開ける。そこでエミヤは、その男の白い目蓋から覗いた瞳の色に目を奪われた。
磨き抜かれた紅玉、あるいは煮詰めて冷ました柘榴のジャム。目を閉じている時でさえ目が潰れそうなほど覚めやかな美貌を晒していた男は、目を開けてもなおそれを上回るほど美しい顔立ちをしていた。線が細いというわけではないのだが、高く通った鼻梁、涼やかな目元と形の整った薄い唇はどこか中性的な雰囲気も纏っている。頬骨から顎のラインなどは思わず指で辿りたくなるほど精悍で、痛みや違和感の無さからおそらく生まれつきのものであろうと伺えるきらきらと青い髪は、滑らかな白磁の肌によく映えていた。
つまるところ百人が百人振り返るぐらいの美丈夫、百年に一度お目にかかれるかどうかというほどのイケメンが、どうしてかエミヤと同じ布団に包まっている。その状況があまりに突拍子も無さすぎて状況把握が追いついていないエミヤを尻目に、雄らしく浮き出た喉仏を震わせた青い髪の人(仮)は、くぁ、とひとつ眠たげなあくびを零すと、エミヤがすでに起きていることに気付いたのか、なんでもないような調子で問いかけてきた。
「お前、もう起きて大丈夫なのか?」
「ぇあっ」
「……大丈夫じゃねーみてぇだな。ったく、なんか道端に落ちてると思ったら起こしても起きねぇし、声掛けても『きゅーきゅーしゃはよばないでくれ』としか言わねぇし。家が近かったから良かったけどよー、ぶっ倒れるほど疲れてんだったら素直にタクシーぐらい拾えよ。この時間なら深夜割増にもなってねぇし」
続け様にぽんぽんぶつけられる言葉の数々にすっかり置いてけぼりにされているエミヤの頭はどうにも着いていってくれない。辛うじてこの見知らぬ青年が倒れている自分を見かねて自宅へ連れ帰ってくれたことだけは理解できたため、横たわったままという不躾な体勢ではあるが出来る限り精一杯の謝罪をしたところ、「いーってことよ」と快活に笑い飛ばされただけで、それ以上の追求はなにもされなかった。その鷹揚な態度を見て、無意識に詰めていた息をそっと吐き出す。
しかし、どうしてこの男性はエミヤの家を知っていたのか。倒れているうちに懐から免許証なり何なりを取り出して住所を確認してくれたのか。うわ言ですら他に己の失態が露呈するのを避けたがった男の言を律儀に守り黙って運び込んでくれたのはいいとして、自分よりがたいの良い野郎の抱き枕を大人しく務めてくれるなんて、そんなのは、それは、あまりにお人好しがすぎるのではないか。きっとしがみつかれて寝苦しかったろうに、むさくるしくて仕方がなかっただろうに。
目の前の美麗な人間がそうまで自分に良くしてくれる理由があまりに思い当たらなさすぎて、エミヤはきゅっと眉間に皺を寄せる。そう。偶然にしてはできすぎている。故意にしては悪意がなさすぎる。ただでさえ運に恵まれない自分が、"たまたま"なんてものをそうそう引き当てられるわけもない。そんな運など全てあの抽選会で使い尽くしてしまっただろう。
───そこまで考え、そうして、もしかして。と、エミヤはとある一つの可能性に思い至った。考えてみれば自然な話だ。むしろどうして気づかなかったのか!
納得のいった顔で幼気に見られがちな目をまるまると見開き、エミヤはしみじみといった風に思い至った結論をそっくりそのまま吐き出す。
「なるほど、きみは……このお布団の妖精さんだったのか」
「んあ?」
「たしかに、布地もとてもきれいな青色をしていると思っていたんだが……髪の毛に顕すとこんなにも美しく見えるものなのだな。すごく、綺麗だ」
「……おお。おう、おん? うーん? ……ありがとな??」
…………エミヤ本人は自覚していなかったが、この時、エミヤの目の下には未だ色濃い隈が我が物顔で居座っており、さらに言えば連勤中の睡眠時間といえば総計しても三時間に足るかどうかといったところであったから、つまるところ大部分の脳細胞が死滅したままのこっぴどい状態であった。普段、いや社畜人生を歩むより前のエミヤ本人が今の発言を聞けば飲んでいる紅茶を鼻から吹き出しかねない程度にはとんちんかんな結論であったが、なにぶん今のエミヤにとってはこれこそまさに世の真実だったのである。
そんな、寝ぼけた幼児が導き出したかのような素っ頓狂すぎる推測を聞いた青い髪の人(仮)は、エミヤの発言を二、三度首を傾げながらゆっくりと噛み砕くと、あっさりそれを肯定してみせた。
「まぁ、そんなもんだ。お前を助けたくって人型を取ってみたんだが、この造形はお気に召したか?」
「ああ、とても」
「おーおーあんがとさん。で、もう起きちまうのか」
「そうだな……私はどれくらい眠っていた?」
「あー、ちょっと待て。オレがお前を運び込んだのがこんぐらいだから……だいたい四時間くらいだな」
「そうか。それだけ死んでいたなら充分だろう、迷惑を掛けたな」
「は?」
「ん?」
先程からやたら疑問符の飛び交う空間になっていることは両者自覚していたものの、青い髪の人改め妖精さん(仮)は、エミヤの発言を聞くや否や、整った柳眉を顰めて怪訝そうな顔をする。
「お前、相当寝てないよな? こんだけで足りてるわけねーだろ、隈だってまだひでぇまんまだってのに」
「ああ、そうか、君には特に説明しておくべきだったな」
「何を」
「私は不眠症なんだ。倒れてから今まで君に介抱されている間は、疲れのあまり昏倒していただけだろう。しかし起きてしまった以上、もう眠れる気がしない。布団の妖精さんである君にとっては聞くに堪えない話かも知れないがね、そういう性分なんだ」
そう。エミヤは今現在勤めている会社に入ってからしばらくもしないうちに、過度のストレスからか不眠症の一種を発病していた。襲い来る眠気は疲労感を呼びはしても意識そのものを遮断するまでには至らず、横になろうがうつ伏せようがそのままの体勢で何時間寝転がっていようが、なかなか眠りに就くことができない。ようやっと眠れたかと思ってもうたた寝レベルの浅さでしか寝ていられず、そうこうしているうちに起きなければならない時間がやってくることを察知した身体が勝手に途中で起きてしまう。入眠困難、中途覚醒、熟眠障害と多くの症状を併発していたエミヤは、以前相談をしにいった心療内科から見事に重度の不眠症判定と強めの入眠剤を貰っていた。その薬はもうとっくに飲み干してしまっていて、また貰いに行こうにも病院へ行く時間すら取れないままずるずるとなんとか身体を誤魔化しながらここまで来てしまっているのが現状だ。
だから、君に頼ろうにも頼れない。申し訳ないが君の本体を正しい意味で使ってやれる時は少ないだろう、と零したエミヤは薄い苦笑いを浮かべていた。せっかく懸賞として引き当てられたにも関わらず、それが己のクオリティの高さを生かせない持ち主であったとなれば失望するに違いない。一度自分が使ってしまっているから中古扱いになってしまうのがどうにも忍びなかったが、このままエミヤのところに置いておくよりもっと大切にきちんと使ってくれそうな人のところへ持ち出してしまったほうが良いのではなかろうか。
そう考えてそっと身体を起こそうとするエミヤの白い頭を、強い力で敷布団の上へと引き戻す掌があった。
「不眠症、ねぇ」
「よ、妖精さん?」
「クー・フーリン。周りからはランサーって呼ばれてる」
「は?」
「オレ……この布団? の名前だよ。あんたは何て呼べばいい」
まさか布団に名前が付いているのかと驚きもしたが、なにせうにゃらら万円はするだろう高級羽毛布団様だ。それも付喪神のような妖精さん(仮)が宿るくらいの代物であるなら名前の一つや二つ付いていてもおかしくはない。その響きが妖精さん(仮)の見た目通り異国の風情が強めであるのは、この布団の製造地が海の外にあるからなのだろうか。
なにはともかくエミヤを布団に包み込む力は思ったよりも強く、かつては確かに趣味と実益を兼ねてそれなりに鍛えていたとはいえ、長い会社勤めで実はすっかり衰えきっているエミヤの今の腕力では到底叶いそうにもない。厚い胸板へぐいぐいと顔を押し付けられるのは少しばかり息苦しかったが、それと同時にどうしてかどうしようもなくほっとする心持ちにさせられた。
「わ、たしは……アーチャーだ。本名は別にあるが、君のように存在のあやふやなものに本名を教えてはいけないのだろう」
「お前なんかすっとぼけてるくせにそういう変なとこは詳しいのな。まぁいいぜ、アーチャー、アーチャーね。よし、お互いの名前も判明したところでもっかい寝るぞ」
「いやだから、私は不眠症で」
「別にマジで寝なくたって目ぇ閉じて転がってるだけでも効果はあんだよ。下手に起きてるよかマシだ。腹減ってんならなんか買ってきてやっから、今はとりあえず黙って寝てろって」
「…………もう夕方になろうとしている頃だが……君は空腹を感じないのか?」
「あーーー……オレも普通に腹減るし眠くなるぜ。でも今はいいんだよ、妖精さんだからな」
「そうか、妖精さんだものな……」
明らかに何かがおかしい会話であることは明白である。しかしそうなる原因を作ったエミヤ本人がそんな破綻しているとしか思えない理由で普通に納得してしまっているものだから、妖精さん(仮)改めランサーは特に何も言わないまま、ただエミヤの背中をゆっくりと上下に擦った。何事かをひどく抱え込んだ様子でいるこの男が、ほんの少しでも息がしやすくなればいい。そんな労りと同情にも似た想いはどうやらうまくエミヤのほうにも届いたようで、ごそごそと身じろぎして居心地のいいポジションを確保したらしい白髪の男は、いつしかぷつりと糸の切れた人形のように深い眠りへと落ちていた。
「……いやぜんっぜん普通に寝れてんじゃねーか????」
すゃ。健やかな吐息を知るのは槍兵の名を冠する羽毛布団の妖精だけである。
そうして、夜。おおよそ二ヶ月振りとなる完全なオフ日の八割を健やかな快眠で潰したエミヤは、抱き枕の腹の虫が盛大に喚き散らす音で完全に起こされることとなった。寝すぎて頭が重たいという稀有な感覚に戸惑いながら枕元にあったはずの目覚まし時計を確認してみれば、先端が少し欠けているお古の短針はゴールデンタイムを通り過ぎ、あと少しで近所のスーパーが閉まる頃合いを差している。
エミヤが倒れたのが朝方で、その後一度目覚めて言葉を交わしたのが夕方。その間とそれから今までを足した時間分何も口にしていないのなら、いかにも活発的な見た目をしているランサーのことだ、いくら妖精さん(仮)だといっても腹ぐらい当たり前に空くだろう。かく言うエミヤも朝から何も食べずに眠り続けていたおかげで胃壁同士が癒着したんじゃないかと思いたくなる程度には空腹を感じている。
しかしそうして腹が空く、という感覚をまともに覚えたのも久々のことだった。溜まりに溜まった疲労はやがて肉体の感覚すらも押し潰してしまう。せめて仕事中に倒れることのないように、と決まった時間になればなんらかの固形物もしくは流動物を流し込むだけの生活とも呼べない過ごし方をしていた身としては、こうして"なにかをたべたい"という欲が湧いてくることにすらちょっとした感動を覚えざるを得なかった。きっと少しはまともに眠ったおかげでこれまで滞っていた身体のSOSサインが一気に露呈してきているのだろう。これは明日にも引きずるかもしれないな、と嫌な予感が頭を過ぎったが、今更どうしようもないことでもあった。
寝付かされた体勢のまま、広い胸板に預けっぱなしとなっていた額をもぞ、と離してそろそろとランサーの様子を伺ってみれば、エミヤを起こす程度には豪快な腹の音を響かせておきながら、当妖精は意外とぐうぐう普通に寝ている。これは起きた時一気に飢餓感が押し寄せてくるパターンだろう。そうまでして自分に突き合わせてしまったことへの罪悪感が込み上げてきて、エミヤは軽く自分を抱き寄せるようにして回されていたランサーの腕を苦心しながら外し、そっと布団の中から脱出した。はやくしなければスーパーの閉店時間に間に合わない。寝落ちた時のよれたスーツ姿のままではあんまりにもあんまりすぎるので流石にもう少しラフなスウェット姿に着替え、エミヤはふらふらごつごつどっすんどっすん、身体のあちこちを狭い部屋のそこかしこにぶつけながら、久方ぶりに仕事以外の理由で家の外へと出ることとなる。
さて、そうしてエミヤがここぞとばかりに諸々買い込んで両腕いっぱいのビニール袋を抱えて帰ってくるころには消えていてもおかしくなかった妖精さん(仮)であるが、エミヤの消極的な予想に反し、髪を結ったまま寝たせいで妙なくせがついてしまっているらしい青髪をでろんと背中に流しながら、ランサーは一人、そこらへ置きっぱなしにしていたミステリー小説を読みながら待ってくれていた。自宅で自分以外の誰かが待っている、という経験は学生時代に全て置いてきていたエミヤは、我が物顔で人の私物を容赦なく暇潰しの道具にしているその姿に感心すら覚えてしまう。なんとも堂にいった寛ぎ方だ。エミヤが帰ってきたことを音で察知したのか、振り返るその横顔すらも整っている。
「おう、おかえり」
「……た、だいま……?」
あまりにその態度が堂々としているので、エミヤは一瞬、自分はずっと前からこの男と一緒に住んでいたのではないかと勘違いしそうになってしまった。しかし忘れるなかれ、彼は羽毛布団の妖精さん(仮)に過ぎず、エミヤはただの社畜である。間違ってもランサーに寄り掛かりすぎてはいけない、と強く首を横に振ったエミヤは、とりあえず買ってきた材料の数々の半分ほどを冷蔵庫に仕舞い、残りの半分をしばらく使っていなかった台所のシンクに並べて置いた。今日一日限りの顕現なのか明日以降も姿を現していてくれるのか
はわからないにしても、ランサーは自分の紛れもない恩人である。自分のためという理由だけではあまり振るうつもりになれなかった料理の腕も、誰かのために作りたいという動機がある今ならしっかり発揮できそうだった。
どうやらエミヤが台所に立つつもりらしい、と察したランサーが後ろから「お前料理できんの」なんて無粋な声を掛けてくる。「そうでなければこんな真似はしないさ」とだけ返して後ろ手に黒いエプロンの止め紐をしゅるりと結んでみせれば、ひゅう、とちょっぴり下品な口笛が鳴った。正味、ランサーの好みが何一つとしてわからない状態で作り始めるのはどうかと思う気持ちもあったのだが、口に合わなければ残してもらって、この時間でもまだ開いているコンビニかどこかにでも食料を調達しに行けばいいだけの話だ。
…………そうならずに済んだのは、エミヤの腕前が鈍っていなかったからか、あるいは偶然ランサーの好みを突いた味付けができていたからか、はたまたランサーが見た目通りの健啖家で好き嫌いなくよく食べる性質だったからか、その全部が重なったからか。ひとえどころか八重はありそうな良き偶然が重なって、エミヤの作った辛子酢味噌和え中華そば、以下諸々の和を基調とした小品達は見事須らく社畜と妖精の腹にすべて収められてしまった。食べきるまでの過程でランサーが目を輝かせた回数はおよそ両手の指を超える。きっと人間の形を取って初めて経験する食事というものに驚いたのだろう。
これうまい、これも、あとこれ、これと、これも! っていうか全部うめぇ! と叫ばれたおかげでどれがランサーの好みなのか具体的に把握することはできなかったが、おおよその傾向は掴み取ることはできた。もし次に作る機会があれば、きっともっと満足させてやれるだろう。
そうゆるゆると零したエミヤに向かって、羽毛布団の妖精さん(仮)はいたくさみしげに、まるで飼い主から捨てられかけている犬のような面でしょんもりと下から見上げてきた。きらめく柘榴の瞳があざといを通り越して目に痛い。元より美しいもの、整ったもの、作り込まれたものといった芸術品や嗜好品の類にとんと弱い趣味をしているエミヤはそれを直視することができず、んぐ、と唸りながら目線を横に逸らす。
「なぁ、アーチャー。次の機会、ってのは"もしも"の話でしかねーの?」
「……君が望むならまた作ろう。具体的に言うと、そうだな。明日の朝は何が食べたい?」
「え、そうだな……んーー……青椒肉絲?」
「朝から重いな!」
「アレだ、妖精にゃやっぱエネルギーが要るんだよ!」
「なるほど」
「おうおう自分で言っといてなんだけどお前ほんと大丈夫か?」
「何がだ?」
「いや、まぁ、あーーやっぱいいや……大丈夫になったら教えてくれ」
「? ああ、わかった」
何に対して了承したのかまるっきり解っていない様子のエミヤに、ランサーはほとほと呆れたような溜息を吐いたが、問題の解答をそのまま示してみせるような真似はしてやらなかった。夕飯跡を片付け終わって早々に風呂の準備をしに行ってしまったエミヤはきっと、根っからの奉仕体質で元からのお人好しだ。それは間違いなく美点であり良点であったが、それと同時にどうしようもない欠点でもある。道に倒れていたのを拾ってやったぐらいでここまで付き合ってしまうランサーも相当面倒見が良いと言われる部類に入るのだろうが、エミヤのそれはこんな短時間の接触だけでも近くで見ていれば簡単に伺えてしまうほど突き抜けていた。
自称、高級羽毛布団の妖精さん(仮)ことランサーは、仕方のない幼子を相手にする時のような面持ちでぽりぽりと後頭部を掻く。結局その日はそのまま二人交代で風呂に入って、同じ布団で夜を明かした。その夜もやはりエミヤは、夢すら見ないほどぐっすりと深く心地よい眠りに就くことができてしまった。
───はたしてエミヤの不眠症は一度の昏倒で治療されていたのか?
と問うのならば、その答えは"否"だ。相変わらずエミヤは一人で眠ろうとしてもうまく寝付くことができないし、眠り続けることもできない。しかしランサーと床を共にした夜(意味浅)ばかりは、まるでこれまでの不足を取り戻さんとするが如く泥濘のような安眠の淵底に滑り落ちることができる。これらを鑑みたエミヤは共に寝た夜が五日を数えた頃、それまで自分が使っていた薄っぺらい煎餅布団を押入れの中に仕舞い込んだ。
どうせ一人では寝付けない。ランサーが居ないと眠れないのなら、ランサーまでこの薄く確実に身体を痛める布団の上で寝かせるわけにはいかない。エミヤが仕事場から帰れないでいる日はそのまま、素敵な羽毛布団を独り占めしてくれればいいだけであるし。会社勤めを初めてからの相棒を仕舞い込むのは、なにやら不思議な寂寞感をエミヤのうちへと呼び込んだが、それらもすべてランサーの腕の中で寝息を立て始めることに慣れてしまう頃にはどこかへ溶けて消えてしまった。
高級羽毛布団が当たったのをきっかけにして、青髪の美しい妖精と、同棲している。奇妙な共同生活もどきが始まってから三ヶ月もの時が経ち、同棲などという身も蓋もない言い方ができてしまう状況に陥っていることにエミヤが気付いた頃にはもういろいろと手遅れだった。エミヤの勤務体系は相変わらず、基本、朝方の早い頃に家を出て、夜遅く、下手すれば次の日の朝方帰ってくるという無茶苦茶な代物であったが、そこへランサーというただ一人の存在が加わるだけで、それまでエミヤをすり減らし摩耗させていくだけの毎日だった日常は、あれよあれよと鮮明に色づき始めていた。
まずは何よりも、無事に家へと帰りつけた日にはランサーのおかげでぐっすり眠れるようになったこと。職場では怒涛のカフェイン摂取でそもそも眠くならないようにしているエミヤも、ひとたび腕を広げたランサーの胸元へ潜り込んでしまえば、秒速で夢の底にある眠りの世界の住人となることができる。そして家で人が待っていると思うとどうにも職場に泊まるのに気が引けて、できるだけ家に帰れるようにと仕事のペースや段取りを調整し、自宅で夜を過ごせる日が増えるようにした。また、ランサーがお腹を空かせても何か食べれるものがあるように、と家に居る間は極力手料理を作るようにしたことによって、エミヤ自身もつられてきちんとした食事を摂るようになった。
睡眠と食事、それら最低限人の身体を型取るものがきっちり整えられてきたおかげなのか、最近では以前趣味で行っていた小物の製作や料理レシピの開発なんかにも手を出す余裕が出てきている。自由に使える時間が増えたわけではないにしろ、身体への負担が激減したおかげで仕事のほうに割く余力が増えて、いくらか効率が上がったのだろう。流石に作らせっぱなしってのもなぁ、なんてぼやきながらそこそこ手慣れた手つきでランサーが拵えてくれたお昼の弁当代わりとなるおにぎりは、今や仕事に赴くエミヤにとってエナジードリンクなどとは比べ物にならないほど活力を得られる代物と成り上がっている。
健康という二文字からおおよそ遠くでじたばたしていたかつての姿に比べれば、白い髪や褐色の肌にも艶が戻り、衰え気味であった筋力も再び勢いを取り戻しつつあった。元より童顔気味ではあったが、最近では前髪を上げてオールバックを気取っていなければ大学生かそこらと間違えられてしまう体たらくだ。これについては生まれつきの要素も多分に含まれていたのだろうが、過労やストレスから来る淀んだ空気がいくらかマシになったからこそ余計若く見られるようになったのだろう。
実際のエミヤはもうそろ二十も後半を迎えんとする年頃であったが、実のところ未だ実年齢をぴたりと言い当てられたことはない。ランサーからですら二十歳を少し過ぎた頃だと勘違いされていたくらいだ。エミヤからしてみれば、エネルギッシュでどこからどう見ても十代にしか見えないランサーが、それでも二十歳は一応過ぎていると主張したことのほうが驚きなのだが。
あの羽毛布団が製造されてから二十年と少しなのか、それともランサーという妖精が生まれてからなのかはあえて聞かなかった。そんなことを聞いても特に得るものなどなかったからだ。けれどあえてそれ以上追求しなかったのは、あるいは、もしくは。
「なぁ、お前明日は休みなんだろ。一回ぐらいオレとサシで呑もうぜ」
「……構わないが、私は下戸だぞ。酒豪の君に付き合いきれるとは思えない」
「別にオレと同じペースで呑めたぁ言わねぇよ」
「それならまぁ、ツマミくらいは出してやろう」
「よっしゃ! そう来なくっちゃなぁ。あーあ、うちに帰ったらアーチャーの飯も食えなくなるんだもんなぁ」
そう呟かれる時が来ることを、どう足掻いたって理解してしまえているから、なのかもしれなかった。
ちら、と横目でランサーを見遣ったエミヤに向かって、ランサーは淡く微笑む。
「オレ、そろそろ妖精界に帰ろうと思う」
なるほど、あくまでランサーは羽毛布団の妖精さん(真)であって付喪神とはまた違う存在らしい。帰る場所はエミヤの家ではなく、別にある。そこはきっと彼の生まれ故郷で、いつかぽろりとどこかの会話でランサーが零していた、彼の他の兄弟とも共に暮らしていた場所なのだろう。まったく、そんな大切なものがあるのに今までエミヤの家などでなにを長らくのんびりしていたのか。こんな三十路の白髪男相手によくもまぁ長々と付き合う気になったものだ。
エミヤが隙を見繕ってはランサーの世話を焼こうとするたび、オフクロ体質だのオカン気質だのなんだの散々な言い様をしてくれたが、何かにつけて細々と気を遣ってくれていたのはむしろランサーのほうだ。エミヤはただ、ひょいと現れたとてもうつくしい非実在的存在物に対してぺったりやわく依存していただけに過ぎないというのに。
開けた酒瓶はお世辞にも上等なものであるとは言い難かったが、こんなもん呑み方一つでどうにでもできるんだよ、と宣いながら、ランサーは何本目かの缶を空にする。対するエミヤがまだ片手の指で足りるほどしか呑んでいないにも関わらずガンガン新しいものを空けていくのは、先に言った通り、こちらのペースは気にせず好きに呑めということなのだろう。
その態度に甘えて、時折お酌してやったりしながらも、ランサーが呑んでいるものに比べれば随分と度数の低い果実酒をちびちびと飲み干していく。喉を仄かに焼くアルコールの冷たさは久々に感じるものだった。思えば前に酒を飲んだのはいったいいつの話だっただろうか。酒のツマミになるようなメニューならいくらでも考えつくのに、主役たる酒の呑み方ひとつ上達していない自分の変わらなさに思わず苦みばしった笑いが溢れる。
しかし普段から、いやそもそも顔を突き合わせてまともに喋れる時間があるほうが珍しい程度には寝る時くらいしか側にいなかった二人であったが、酒を交えて話してみれば、これがなかなかゆったりと心地の良い空間が生まれていた。ランサーはその見た目に反して、落ち着いた沈黙の時間も存外好んでいる。酒が入って饒舌になるのはむしろエミヤのほうで、とりとめのない話をしているうちにだんだん何が言いたかったのかわからなくなってしまったエミヤが不思議そうに首を傾げても、ランサーは愉しげに喉を震わせるだけで責めはしなかった。
お互い口の中に物を含めば、会話が途切れ、ある程度の静寂を経た後に再びどちらかがぽつぽつと喋りだす。好きなものもよくいく場所も、思考の方向性も、自分への認識も、その全てがすばらしくかち合わず、意見が合致するほうが稀なほどだったが、それでもその違いですらお互い「らしい」と密かに笑い合えた。
きっともっとちゃんとした出会い方をしていたならこうはならなかっただろう。二人揃って鼻持ちならないと嫌い合って、何かにつけては噛み付き合うような犬猿の仲になるか、それともそもそも関わりを持とうとしないか。自らの不摂生が呼び込んだ素っ頓狂な出会いは、しかしともすれば素直さを失いがちな二人の潤滑剤となって、安寧の時間を齎し続けていた。眠れぬ社畜と毛布の妖精。そんな歪な距離感が、どうにもやりやすかったのである。
けれど。と、ランサーはぬるくなったビールの缶を傾けながら、まるで独り言のように呟く。
「オレ、ほんとは人間なんだぜ」
その声音は常のランサーに似合わず、どこか少し頼りなかった。明かしてはいけない秘密を明かしてしまったような、そんな。そんなランサーの独白を聞いたエミヤが取るべき反応は決まりきっていたのだが、今日はうっかり、どうしてか呑みすぎてしまったようで。鞣し革の肌を解りづらくも酒気で朱く染め上げながら、エミヤはゆるゆると息を吐きながら口の端を釣り上げる。
「しってるさ」
その答えにやや目を丸くしたランサーは、それならもう、と自分が被っていた妖精の仮面を投げ捨ててしまうことに決めたようで、先程より少し乱雑にビール缶を傾け、その中身を空にした。
「……やっぱなぁ。そりゃ流石にどんだけすっとぼけた野郎でも三ヶ月ありゃ気付くわな」
「ふふ、最初の一ヶ月ほどは本気で信じていたぞ」
「長くねぇ???」
「君があんまり格好いいのがいけないんだ。まるで芸術作品の中からそのまま飛び出してきたような顔をしておいて現実の人間だなんて、笑わせるな」
「褒めてくれてるはずのになんか貶されてる気がすんだよなぁ」
口を開けて笑う、その薄い唇の合間から覗く白い歯列の中でも一際目立つ鋭い犬歯が部屋の灯りを受けてちかりと光る。そんな造形をしているから現実感が薄いのだ。それはエミヤの一方的な言いがかりであることなど重々承知のうえだったが、本気で一ヶ月間妖精だと信じ込めてしまうくらいにはよくできた、よくできすぎた男だった。基本的に身内以外の他人を己のパーソナルスペースに踏み込ませないエミヤが、初めて相手を認識するよりも先に距離を詰めることを許した他人だ。
己は己として確固たるものを持ちつつも、相手の意思を阻害しない。その在り方は大元の器が大きく広く完成されていなければできない芸当だろう。ランサーの心のうちには、いたく冷静な天秤がある。その振り子が自分の側へ落ちたのを感じ取った時、エミヤがぶっきらぼうな能面の内心でどれほどの喜びを覚えたのか、きっとランサーは知りもしないだろう。教えないようにしていたから。気づかないようにしていたから。
ランサーがどうしてこれまで自分から言い出さなかったのか、だなんてそんなものはエミヤとて見透かしている。二人が出会うきっかけとなったあの時、エミヤは本気でランサーを妖精だと信じ込むぐらいにはずたぼろに追い詰められていて、現実と虚構の境界線がいたく曖昧になっていた。顔色の変化がそう見えないはずの肌色さえ軽く凌駕してしまうほどの隈、やつれきった頬と衰えた手足、どこを見ているのかもわからない胡乱げな目線。到底そのまま放り出せるような雰囲気ではなかったはずだ。そこからまさか安眠枕扱いされるとはランサー自身思ってもいなかったろうが、とかくエミヤがある程度快復して『見知らぬ男が家に居る』状況を不審に思える程度の認識力が戻ってくるまでは、ふわふわとした妄言に付き合ってやろう、と。そんなところだろう。
だから今、エミヤがどこからどう見てもまともな思考と健康を取り戻しつつある今を待ってから、"うちに帰る"と言い出したのだ。何度も言うがあまりにお人好しすぎる。自分の体調一つ管理できない社会人の男一人、早々に見切って放って置いてもバチは当たらないだろうに。
実際、エミヤはランサーの予想よりも遥かに早い段階で己が置かれた状態を正しく理解していた。つまりそこでエミヤが言い出していれば、ランサーがこれほど長々とエミヤなどに付き合わされる道理もなかったはずなのだ。そうしなかったのは、そうできなかったのは。なんでもない、求めたがりなエミヤの、ただのくだらない我儘によるものだ。彼を手放し難かったエミヤが、返さなければならないものを帰したくないと駄々をこねていただけのこと。しかしそれも今日で終わりだ。ランサーが"帰る"と言ったからには、エミヤにそれを引き止める権利などありはしない。
いつもに比べて遥かに聞き取りづらい舌っ足らずな口調で懺悔を吐きながら、エミヤはほにゃほにゃとローテーブルに上体ごと崩れ落ちる。もはや激しく回る酔いのせいでまともに目を開けていられないほどだったが、ランサーの射抜くような瞳を今だけは見つめたくなかった。
「わたしはべつに、きみが人間だろうが妖精さんだろうが、どちらでもかまわなかったんだ」
「あ?」
「ただ、きみのうでの中でねむるのが、わすれたくないぐらい心地よくて……こんなみじめなおとこを、みすてないでくれて、ありがとう」
いつの間にかランサーの酒を呷る手が止まっていることには気付かなかった。くたくたに茹でられて力の抜けた軟体動物よろしくローテーブルに懐いたエミヤの声は、次第に笑っているんだか泣いているんだか、あやふやに揺れてか細くなっていく。
「でも、きみがもしほんとうに妖精さんだったなら、わたしがねむれるようになってからもずっと、そばにいてくれた、かもしれないのにな」
「っアーチャー」
「ふふ、すまない。きみはただのお人好しなだけなのに……こんどから気をつけるといい。下手なにんげんをむやみに助けると、こうやって、めんどうなものに好かれてしまうぞ…………」
そこまで言い終えるのが、エミヤの限界だった。行き倒れた人間を助け、家に運び、それからの生活を改善できるよう尽くしてくれたランサーには一つだって罪などありはしない。罰せられるべきはその優しさに甘えていつまでもずるずると振り回し続けた己のほうだ。彼の優しさを見事に勘違いして、今まで一度も抱いた覚えのない、純情とは到底言い難い、恋情とも正直言いたくない、ひどく醜い執着を覚えてしまったエミヤこそ、何よりも罪深い道化だろう。
それでも、男同士であるとか、己は彼に本名のひとつも明かしていないのだとか、そういったことも全てひっくるめて尚どうにも消せない熱のかたまりが、いつの間にか眠れないでいたエミヤの夢の中をぎゅうぎゅうに埋め尽くしてしまっていた。笑えない話だ。幼馴染の女性からはさんざっぱら『大切に想える人を作りなさい』とせっつかれていたのに、やっとそんなひとができたと思えば、ただただ一方的な迷惑を掛けるだけの関わりしか持てなかっただなんて。
呑みすぎた酒が胃袋から神経を蝕んで、とろとろと冷えた眠りの淵へエミヤの意識を追い込んでいく。こんな姿がランサーへ見せる最後の有様になるのは勘弁願いたかったが、そう思ったところで酒の回った身体は思い通りになど動いてくれなかった。
すやり。伏せられた白い睫毛を濡らす雫が一滴、滑らかな頬を伝い落ちていったのを知らぬのは弓兵の名を冠する卑怯者ばかりである。
じんじんと重たい目蓋、頭蓋の内側から硬いものを叩きつけられているような痛みは確実に二日酔いのそれだろう。自分の状態をいたって冷静に判断したエミヤは、涼やかな朝、肌触りの良い布団の中で、たった独り目を醒ました。成人男性一人分ほどのスペースが空いたままになっているエミヤの隣には温もりのひとつもなく、部屋の中を見回しても真夏の青空を連想させる名残香はどこにも残っていない。好き勝手に飲み散らかしたままだったはずのビールやチューハイ類の空き缶が綺麗さっぱり消えているのは、今朝がちょうどゴミ収集の日に当てはまっているからだろう。どうも後片付けは全部済ませていってくれたらしい。
それは喜んで然るべき清らかさの顕れであったが、どうせ飛び立つのなら派手に濁していってくれればよかったのに、なんて勝手なことを考えてしまう。ランサーがよく履いていたハイカットのお洒落なスニーカーは玄関から消え、あるのはすっかり使い古されてくたびれきったエミヤの革靴と、滅多に使わない兄のお下がりのサンダルだけだ。
解っている。わかっている。もう愛想を尽かされたのだ、という事実はきちんと直視できている。だからこそエミヤが今からやるべきことと言えば、与えられた三ヶ月の幸福な時間をしっかり心のアルバムに収め忘れないようにしておいて、普通の日常に戻るための努力をする、たったそれだけしかない。澄み切った森の狭間、燦々と降り注ぐ陽光、あるいはどこまでも吹き通るなだらかな草原を連想させるランサーの匂いが無い状態で眠れるように、今のうちから慣れていかなければ。だってもう彼はいないのだから。これでまた眠れなくなってしまったとあれば、ランサーが尽力してくれた三ヶ月をまるまる無駄にしてしまうことになる。それだけは避けなければならなかった。
安眠に有効なのは、アロマと、保温グッズと、あとなんだったか。寝る前のデジタル光は極力見ないようにして、空調を整えて…………
くるくるとこんな時ばかりよく回る頭の中身はそのまま、滲む視界はどれだけ擦っても晴れてくれない。この歳の成人男性が無言で泣きじゃくっている構図がどれだけ奇怪で見苦しいものかは自分自身よくよく判っていたが、それでもどうせ誰も見ていないんだから今ぐらいは見逃してほしかった。まだきっと、昨夜の酒が抜け切れていないのだろう。だからこんなにもセンチメンタルな気分になっているのだ、たぶん。
全てを二日酔いのせいにしてしまえば、いやに涙腺の緩みが早い。もう歳だろうか。涙腺の硬さが年齢とどう比例するのかエミヤは詳しく知らなかったが、若い頃のエミヤであればこんなことぐらいで泣いたりしなかった、と思いたい。誰だって自分の全盛期についてはある程度の夢を見ていたいものだ。
ぼろぼろ、ほろほろ。流れ続ける涙があまりに鬱陶しくて、エミヤはとうとういちいち拭うのを止めにした。パジャマ代わりに着ている黒いシャツの裾がもうべしょべしょになってしまっている。これも後で洗濯に回さないといけない。ああそうだ、確か洗剤はともかく柔軟剤の方がもう切れかけていたから、そろそろ買いに行かなければならないだろう。他に何か切れかけているものはあっただろうか。そこらへんの具合については、ランサーが知らせてくれていたから、
──────ガチャッ。
鍵の外れる音。ノブの回る音。蝶番を軋ませながら玄関のドアが独りでに開き、分厚い鉄の扉を引いて、夏色の空が飛び込んでくる。
瞬間、男の手にしていたビニール袋がどさりと床に落ちた。転げた袋からころころと中身が飛び出していく。覗いたパッケージは、ちょうどエミヤが買いに行こうとしていた柔軟剤のそれだった。
「アーチャー!? おまっ、なん、ど、おいどうした!!? うわっお前絶対擦ったなめちゃくちゃ腫れちまってんぞこのたわけ!」
「な、え、」
「あーあー、泣くな泣くな、起きたら居なくてびっくりしたか? 悪かった、お前が寝てる間にいろいろ買ってきてやろうとしただけだって」
「なん…………ラン、サー?」
「おう、なんだよ」
「どうしてここに……?」
きみは家に帰ったのでは。そう言外に滲ませながら未だ潤みの取れない目を見開かせながら見上げると、ランサーはすこしバツの悪そうな顔をして、あー、その、と何事かを言い難そうに口を濁した。
「だから……アレだ。オレだってただの親切心だけで、自分よりデカい男の掛け布団やってたわけじゃねぇってこった」
合わない視線はどこか中空を気まずげにうろうろと漂っている。そう言われれば確かに些かランサーの善性ばかりを注目して、彼が何を目的にしていたのかはあまり重要視していなかった。そんなことにすらも気づけなかった自分の盲目っぷりにほとほと呆れながら、エミヤは承知したとばかりにに一つ頷いて、手繰り寄せた仕事用の鞄の中から自分の財布を取り出す。その手首を勢い良く掴んで押し止めたのは、ぎょっとした顔でエミヤの顔を見つめるランサーの力強い掌であった。
「いやいやいやなんでこの流れで財布出すんだよ」
「……? 君の言う通り、私は君に迷惑料すら出していなかった。これまで君に作ってもらった昼食代も加算するとして、どれくらいが妥当なのかは君が決めてくれて構わないが」
「待て、なぁアーチャー、待てって。オレが今までお前と一緒に居たのは金目当てだって、マジでそう思ってんのか?」
ぎり、と力強く握りしめられる手首が痛みに軋む。エミヤの腕を掴んでいるランサーの声音はどこか冷えていて、得体の知れない怖気を感じさせた。しかしエミヤからしてみれば、逆にそうでなければどうして自分なぞとこんなにも長い間共に居てくれたのか、その理由が全く見えない。エミヤがランサーに好意を寄せる道理はあっても、その逆は無いはずだ。そう結論付けたエミヤが力強く語ってみせれば、ランサーはへなへなと脱力しながら俯いて頭を抱えた。このたわけが、だとか朴念仁の極みか、だとかなんとか聞こえてきたような気もするものの、なにぶ小声であるせいでなんと言っているのかわからない。
しかしある程度ぼやくと自分の中での整理が済んだのか、ランサーは掴んだエミヤの手首を引き寄せて、自らの胸にエミヤの掌をそっと宛てがった。少し厚い皮膚と服の布地を透かして、生きている人間の鼓動がとくん、とくん、と規則正しく伝わってくる。心なしかその脈動が少し速いような気がしてエミヤがランサーの顔を見遣れば、世紀の美丈夫たる青髪の青年は、その頬から耳にかけてをほんのりと朱に染めたまま、じ、っとエミヤの双眸を覗き込んでいた。
「なぁ、オレはさ。お前の事、前から知ってたんだ。オレが朝早く出なきゃならない時よく使う電車に、いつもアーチャーが乗ってたから。遠目から見てもすっげー疲れてるし、その癖自分独りでなんとかなりますって顔してて、いつ声掛けてやろうかって、ずっと考えてたんだ」
「……あの電車に、君も……?」
「絶対気付いてなかったろ。それはいいんだよ、別に。でもしばらくお前の姿を見なくなって、おいおいまさか入院とかしてねーよな? とか思ってたら、なんでか道に落ちてんだもんよ……マジで心臓止まるかと思ったっつーの」
「…………それは、すまなかった」
「おう、もうぶっ倒れんなよ。じゃなくて、流石に見て見ぬフリなんざできなかったからとりあえず助けて、わりいけど勝手に免許証見させてもらって、タクシー呼んで。お前の家に運んで、運転手サンに頼んで乗せてもらってた毛布もついでに持ってきて……」
そこから続いたのは、エミヤ視点からではない、ランサー視点から観た一連の流れだ。曰く、気絶している人間をほっぽって帰る訳にもいかなかったため、エミヤが起きるまでは側で看ていようと思ったのだが、その前日ランサー自身夜更かししていたせいでひどく眠く、どうせなら、ということで新しい布団を引っ張り出して二人気ままに転がったのだという。そうしてエミヤの寝顔を見守っているうちにいつしか自分も寝落ちてしまい、あの初邂逅へと繋がったのだと。
エミヤがあまりに萎びていたため心配で、せめて意識がはっきりするまでは側に居ようと思っていたところ、まさかの妖精認定を受けて思わず話を合わせてしまったのだというところまで説明されてしまえば、とうに正気を取り戻しているエミヤとしてはひたすら申し訳が立たなかった。自分より年下の青年にいったいなんという重荷を背負わせているのか。
しかし、ランサーは別段エミヤを詰るつもりもないのだという。問題は、ランサーが本当に伝えたいのはこの先にあるのだと。
「……オレが寝る前、アーチャーがオレにしがみついてきた時から思っていたが。外に居る時はあんなに硬い面被って平気そうな顔してたのに、オレの腕の中で寝てる時は、そんなの嘘っぱちだってくらいやわやわに解けきってて……オレは、それが可愛くて仕方なくなっちまったんだよ」
「……かわ……?」
「お前自身がどう思ってようと、オレにはお前が可愛く想える。愛おしい、って言い換えりゃ解りやすいか? 最初は馬鹿みてぇに独りで無理してるところも自分の世界に浸ってるみたいでいけ好かなかったが、そうやってずっと見てたら、お前がわざわざ他のモンまで背負い込んでる理由なんて見えてくる。そこに関しちゃやっぱ馬鹿だと思ってるけどな」
「っやかましい、それは今関係無いだろう」
「おう、関係無い。お前の欠点もお前らしくて好きだぜ、って話はまた今度だ」
また今度そんな話をされなければならないのか? 眉を顰めたエミヤを無視して、ランサーは朗々と話を続ける。
「だから、オレはな……お前がもういっそ独りでなんて眠れなくなっちまえばいいと思いながら、今まで寝付かせてきたんだよ。そうすりゃ、お前がオレのことを黒歴史扱いしようがどうしようが、少なくとも忘れられない存在にはなるだろ?」
「なん……なんて厄介なものを植え込んでくれたんだ……!」
「わーかってる、我ながら回りくどいことしちまったな。でも、そうやってお前の中にオレの存在を刻み込んだ後で、ちゃんとした人間のオレとして口説きに掛かるつもりだったんだって。そしたら結構頑固で融通利かないお前でも、無視はできねぇだろうと思ったから」
ランサーは快活で明るく、活発で陽気な男だが、その実は案外冷静で人の本質を視る力に長けている。故に、ただの正攻法ではエミヤが逃げを打つだけだということを察していたのだろう。だから先に、エミヤが逃げたくても逃げられない状態になってから、改めて追い詰めるつもりだった、と。聞いてみればなんとも酷い話である。その策略へ見事にドハマリして、今現在、みっともない泣き顔を晒さざるを得ない状況にさせられているエミヤにはそれを糾弾する資格など無いのかもしれなかったが。
それでも、ほんの少し恨めしげな面持ちになってしまったのがランサーにも見えたのだろう。エミヤの手首を捕まえている手とは逆側の指先が、再び溢れようとしていた塩辛い雫をエミヤの目尻からさらりと拭い去る。見つめ合う表情は自信満々というより、どこか不安げで、ランサーの中で絶えず物事を計り続けているはずの天秤が荒れ狂っている様子が垣間見えた。それでも、白磁の頬を一層朱色に染めながら、ランサーは真摯な声音で一直線に囁いてくる。
「なぁ、別に妖精でもお人好しでもねぇ、言っちまえばただの不法侵入者に違いないんだが……アーチャー、お前が、エミヤが好きだ。また、オレの懐で眠ってくれないか」
もしかすれば拒絶されるかもしれない。その可能性を捨てられずにいるランサーの心許ない様は、エミヤの頑なな硝子の心の中で疼く暖かな熱の在処へ、何より確かな分け火を灯した。どうして今更、エミヤがランサーの言を振り払えると思えるのだろう? ランサー無しでは眠れぬ身体に躾けたのはどこの誰だと思っているのか!
土壇場で足の踏み出し方に迷っているらしい若人を、年上のエミヤはそっと柔らかく微笑みながら自分の方へと引き寄せた。ぽすん、とランサーの肩口に埋まった白い頭がぐりぐりと甘えるように縋り付く。
「……言っただろう。私は、君が妖精さんだろうが人間だろうが、どうでもいいんだ」
「…………」
「君こそ、こんな、君が居なければ、夜もまともに過ごせなくなってしまった私を…………どうか、側に置いてはくれないか」
邪魔になったら押し入れの中にでもしまっておいてくれ。照れ隠しにそう付け足した言葉を言い終える前に、エミヤはぎゅう、と肺が押し潰されそうな勢いでランサーの腕の中に閉じ込められていた。腕力の差を考えない抱擁は息苦しくて仕方がなかったが、ランサーの愛で窒息するのならそれも悪くないのかもしれない。ところでどうしてエミヤの本名を知っているのか、と聞けば、途端にちょっとばかし力が弱まって、うろうろとおぼつかない赤い視線が取り落とした財布からはみ出ているエミヤの免許証のほうへと向けられるのだから、エミヤは自分の真名を知らぬ間に把握されていたことについては不問にしてやることにした。どの道個人情報の全てをあけっぴろげにしたまま三ヶ月も共に居たのだから、どんな情報を得られていたとしてもそれはエミヤの管理不足だ。
現役大学生であり、だいたいの単位は余裕で取り終えているためもはや自由時間のほうが長いのだというランサーは、近々ついに就職するのだという。そうなればこうして自由に逢える時間も減るだろうとエミヤはほんの少し浮ついていた心をしぼませたのだが、ランサーのほうは、といえば、「まぁ楽しみにしてろ」と言って歯を見せながらにやりと笑うだけだった。それにどこか薄ら寒い悪寒を覚えながらも、エミヤはとろりと目蓋を落とす。それにしたところでまぁねむい。とてもねむい。もはや今となってはランサーそのものがライナスならぬ"エミヤの毛布"なのだ。一見した印象より遥かに逞しい細身の身体に擦りついていると、意図していない眠気がふつふつと湧き上がってくる。
「……躾けすぎってのも問題かね、こりゃ」
そう呟くランサーが行き場の無くした両手をエミヤの背中で所在なさ気にしていることなど、エミヤの知ったことではない。くぁ、とひとつ、穏やかな欠伸を最後に、不眠症だったはずの男はあえやかな眠りの底へと落ちていった。