01
目が覚めた瞬間、空気の密度がいつもより柔らかかった。
寝具に残る温度の出所を辿る前に、隣の重さを認識してしまう。人間の体重がマットレスを沈ませる際の圧力分布——これは物理学的に計算可能だが——今はそんなことを考えている場合ではない。
ランサーが寝ていた。
上半身裸。自分も裸。首筋に火傷のような痕。
三秒で結論が出る。——あり得ない。
アーチャーとランサーは、同じ広告代理店で働いている。正確には、アーチャーがクリエイティブ・ディレクター、ランサーがアカウント・プランナーだ。共同プロジェクトで週三回顔を合わせる。
そのたびに衝突する。仕事の進め方、資料の作り方、プレゼンの構成、すべてにおいて意見が対立する。先週も会議室で怒鳴り合って、上司に止められた。
そんな男と、裸で同じベッドに寝ている?
統計的にあり得ない。確率はゼロに近い。いや、ゼロだ。
ベッドの軋みを殺して床に足を下ろす。呼吸の深度を一定に保ったまま、リビングへ。壁の時計は午前七時十五分を指している。スマートフォンの日付を確認する。二〇二五年五月十二日、月曜日。正しい。昨夜は五月十一日、日曜日だった。時系列に矛盾はない。
鏡を見る。
顔は自分だ。だが、表情だけが他人のように柔らかい。睡眠の質に覚えがない。普段のアーチャーは浅い眠りで、夜中に二回は目を覚ます。だが今朝は——一度も起きなかった。身体が、妙にリラックスしている。これは異常だ。
首に、鮮やかな痕。
吸引痕。いわゆるキスマーク。毛細血管が破裂して、皮下出血を起こしている。これは明確に、性的行為の痕跡だ。
何だ。これは。
「……おい」
背後から声。
振り返ると、寝癖のランサーがそこにいて、緩い笑い方をしていた。Tシャツ一枚、下はボクサーパンツ。その格好で、こちらを見ている。
「なんで起きてんだよ」
その口調が——妙に——親しげだ。
現実のランサーは、アーチャーに対してこんな口調を使わない。いつも「エミヤさん」と敬語で、距離を置いた態度だ。それが今、「お前」呼びで、まるで——
「……なんでお前がいる」
その言葉を聞いたランサーが、まるで殴られたみたいな顔をした。理解できない種類の傷つき方だった。眉が下がり、口が僅かに開き、目が——本気で困惑している。
「は? 俺たち一緒に住んでんだろ」
思考が停止した。
止まったまま動かない。
同棲? 誰と? ランサーと?
アーチャーの脳内で、複数の仮説が生成された。
仮説A:記憶喪失
→だが、昨日までの記憶は鮮明だ。プロジェクトの進捗、クライアントとの打ち合わせ、ランサーとの口論。すべて覚えている。
仮説B:夢
→だが、感覚が鮮明すぎる。床の冷たさ、空気の湿度、ランサーの声のトーン。夢でここまで再現できるか?
仮説C:並行世界
→馬鹿げている。量子力学の多世界解釈は理論上の話で、実証されていない。だが——他に説明がつかない。
現実のランサーと自分は、最低の相性だった。仕事の進め方は衝突し、資料は直前でひっくり返され、怒鳴り合いは週に一度。先週も上司に止められたばかりだ。その男と自分が裸で同じベッドに眠り、同じ家に住んでいる?
馬鹿げている。仕組まれている。だが、ランサーがそんな茶番に協力するはずがない。
はずだった。
「熱か?」
ランサーの手が額に触れた。驚くほど丁寧な温度。指先が、アーチャーの前髪をそっと払う。その仕草が——自然すぎる。まるで、何度も繰り返してきたかのような、慣れた手つきだ。
「触るな」
払いのける。
ランサーが、本当に傷ついた顔をした。
そんな顔、現実では一度も見たことがなかった。現実のランサーは、いつも余裕のある笑顔か、苛立ちを隠さない表情か、どちらかだ。こんな——無防備な——傷つき方は、したことがない。
「なあ……喧嘩、したっけ。昨日」
「知らない」
「知らないって——」
ランサーは眉を寄せるが、すぐにまた笑った。その笑い方が、妙に優しい。
「寝ぼけてんのか。なら、もうちょい寝ろよ」
手首を軽く掴まれる。その力は、争う必要のない種類の力だった。拒めば離してくれるだろうが、拒まなければそのまま導かれる。そういう力加減。
ベッドへ戻される。並んで横になり、腕の中に引き寄せられる。呼吸の音が耳に近い。ランサーの体温が、背中に伝わってくる。
「寝ろって」
低い声が鼓膜を撫でる。
心臓の跳ね方が、知らないリズムを刻む。
これが夢なら精度が高すぎる。幻覚なら温度がありすぎる。ランサーの心臓の音が背中に伝わってくる。
一分間に約六十回。安静時の正常値。彼は、本当にリラックスしている。
考えながら、眠りに落ちた。
02
次に目を開けた時、ランサーはいなかった。
枕元にメモが一枚。
〈先に出る。夜は帰れる。飯、頼む〉
字が——ランサーの字だ。現実で見慣れた、やや雑だが読みやすい筆跡。だが、内容が違う。現実のランサーが、アーチャーに「飯、頼む」などと書くはずがない。
起き上がる。部屋を見渡す。
これは——アーチャーの部屋ではない。
いや、正確には「アーチャーの部屋」だが、「現実のアーチャーの部屋」ではない。家具の配置が違う。本棚の中身が違う。壁に飾られた写真が違う。
写真。
近づいて見る。
アーチャーとランサーが並んで笑っている。背景は海。夏の日差し。二人ともTシャツ姿で、ランサーがアーチャーの肩に腕を回している。
こんな写真、現実には存在しない。
冷蔵庫を開ける。
整然と食材が並んでいる。野菜、肉、卵、牛乳。そして——〈鮭 賞味期限注意〉と几帳面な字で書かれた付箋が貼ってある。この字は、ランサーのものだ。
ホワイトボードがある。
リビングの壁に掛けられたホワイトボード。そこには、二人のスケジュールが書き込まれている。
〈12日(月) A:客先MTG 15:00 / L:代理店訪問〉
〈15日(木) 歯医者 18:30 (A)〉
〈18日(日) 映画 13:00〉
AとL。アーチャーとランサー。
生活が、成立している。
スマートフォンを取り出す。
ロック画面の壁紙が——さっきの写真だ。海辺で笑う二人。
ロックを解除する。パスコードは、現実と同じ。六桁。指が勝手に動いて、入力される。
メッセージアプリを開く。
ランサーとのトーク履歴が、延々と続いている。
〈起きたか? 飯食えよ〉
既読。
〈返事しろ〉
続いて犬のスタンプ。
犬のスタンプ。
現実のランサーがスタンプなど使うわけがない。現実のランサーは、テキストのみ。絵文字すら使わない。それが——ここのランサーは——犬のスタンプを送ってくる。
スクロールする。
昨日のやり取り。
〈今日、早く帰れそう〉(ランサー)
〈了解〉(アーチャー)
〈何食いたい?〉(ランサー)
〈任せる〉(アーチャー)
〈パスタでいい?〉(ランサー)
〈いい〉(アーチャー)
〈OK。楽しみにしてる〉(ランサー)
このやり取りに、記憶がない。
だが、ログには残っている。つまり——「ここのアーチャー」は、確かに存在していた。そして、ランサーと同棲していた。
ここのランサーは、違う。
現実のランサーとは、別人だ。いや、別人ではない。同じ顔、同じ声、同じ筆跡。だが——関係性が違う。
これはパラレルワールドか、量子的な跳躍か。
判断はつかない。だが、ただ一点だけ明瞭だった。
——この世界のランサーは、自分を愛している。
03
どうすべきか。選択肢は三つ。
A:現実に戻る方法を探す
B:この世界に適応する
C:ランサーに真実を告げる
Aは——方法が不明だ。どうやって「現実」に戻るのか。そもそも、これが「現実ではない」という証拠すらない。もしかしたら、現実の方が夢で、ここが本当の現実なのかもしれない。
Cは——リスクが高すぎる。「君は私の知ってるランサーじゃない」と言ったら、どう反応するか。混乱するか、怒るか、悲しむか。どれも、望ましくない。
残るはB。
この世界に適応する。「ここのアーチャー」として振る舞う。ランサーと同棲している恋人として、生活を続ける。
それが——おそらく——最も安全な選択だ。
だが、問題がある。
「ここのアーチャー」がどう生きていたのか、分からない。ランサーとの関係は? 仕事は? 日常のルーティンは? すべてが不明だ。
手がかりは——このアパート、スマートフォンのログ、そしてランサーの反応。
少しずつ、照合していくしかない。
アーチャーは、リビングのソファに座って、スマートフォンを操作した。
メッセージアプリ。ランサーとの過去のやり取りを遡る。
三ヶ月前。
〈今日も遅くなる。先に寝てていいよ〉(ランサー)
〈了解。無理するな〉(アーチャー)
〈ありがと。愛してる〉(ランサー)
〈……私も〉(アーチャー)
六ヶ月前。
〈引越し、疲れた〉(ランサー)
〈お疲れ。ビール買ってきた〉(アーチャー)
〈最高。お前最高〉(ランサー)
一年前。
〈同棲、する?〉(ランサー)
〈……考えさせてくれ〉(アーチャー)
〈ああ。急がないから〉(ランサー)
〈決めた。する〉(アーチャー)
〈マジで?〉(ランサー)
〈ああ〉(アーチャー)
〈やった。嬉しい〉(ランサー)
ログを見る限り——二人は、約一年前から同棲している
それ以前は、恋人として交際していた。
では、いつから恋人になったのか。
さらに遡る。
二年前。
〈なあ、俺たち付き合ってるって認識でいい?〉(ランサー)
〈……いいと思う〉(アーチャー)
〈よし。じゃあ正式に。付き合おう〉(ランサー)
〈……ああ〉(アーチャー)
三年前。
〈今日、飲みに行かない?〉(ランサー)
〈仕事がある〉(アーチャー)
〈じゃあ今度〉(ランサー)
やり取りが、徐々に親しくなっていく様子が見て取れる。最初は仕事の連絡。次第にプライベートな誘い。そして——告白。
つまり、この世界では——
アーチャーとランサーは、三年前に出会い、徐々に親しくなり、二年前に恋人となり、一年前に同棲を始めた。
現実とは、まったく違う。
現実では、二人は常に衝突していた。プロジェクトの初日から、意見が対立した。以来、関係は悪化する一方だ。
だが、この世界では、二人は、恋人だ。
スマートフォンを置く。深呼吸。状況を整理する。
1. ここは並行世界である(仮説)
1. この世界では、アーチャーとランサーは恋人である
1. 現実に戻る方法は不明
1. 当面は、この世界に適応する必要がある
結論:「ここのアーチャー」として振る舞う。
だが——問題は——「ここのアーチャー」がどう振る舞っていたのか、まだ完全には把握できていない点だ。
ランサーが帰ってきたとき、どう接すればいい?
手がかりは——メッセージのログと、部屋の様子と——そして、ランサー自身の反応。
観察するしかない。
04
夜。ドアの開く音がした。
「ただいま」
ランサーの声。
アーチャーは、キッチンに立っていた。パスタを茹でている。冷蔵庫にあった食材を使って、ペペロンチーノを作っている。
「……おかえり」
返事をする。
ランサーが、キッチンに入ってきた。スーツ姿。ネクタイが少し緩んでいる。顔に、見たことのない疲れ方をしていた。だが、目の形は柔らかい。
「作ってくれたのか」
「ああ」
「今日は早いじゃん。いつもギリギリなのに」
いつもギリギリ——つまり、「ここのアーチャー」は、普段ギリギリに帰宅して、食事を作るのもギリギリだったらしい。
「……たまには」
「助かる。腹減った」
ランサーは、ジャケットを脱いで、椅子に掛けた。それからシャツの袖を捲り上げる。その仕草が——妙に——自然だ。まるで、何度も繰り返してきたルーティンのような。
シャワーの音。
十分後、ランサーがリビングに戻ってきた。Tシャツとスウェットパンツ。髪が濡れている。
テーブルにつくランサー。パスタを噛む音。
「美味い。……いつもよりちゃんとしてる」
そんな顔をするのか。そんな声を持っていたのか。
現実のランサーは——いつも——余裕のある笑顔か、苛立った表情か、どちらかだ。こんな——リラックスした——穏やかな顔は、見たことがない。
食事中の沈黙は、不思議と静かで、重くなかった。
現実では、二人が同じ部屋にいるだけで空気が張り詰める。お互いに何か言いたいことがあるが、言えば喧嘩になる。だから、黙っている。そういう、緊張した沈黙。
だが、ここでは違う。
ただ、静かに、一緒に食事をしている。それだけで、空間が満たされている。
「なあ、お前……今日、距離感おかしくねぇ?」
ランサーの目が、こちらを射抜くように見ている。
アーチャーの背筋が、僅かに冷えた。
バレたか。
いや、バレたというより——違和感を持たれた。当然だ。中身が入れ替わっているのだから。
「……何かあったのか」
「別に」
「嘘つけ」
手が伸びる。指が自分の手を掴む。
拒む理由を探すが、ここで拒むのは「ここの自分」の文脈に反する。「ここのアーチャー」なら、こういうとき手を握り返すはずだ。
だから、握り返した。ランサーの手が、温かい。
「疲れてるだけだ」
「そっか」
それ以上追わずに、ただ手を包み込む。
「無理すんなよ」
優しさの重さは、刃物みたいだった。
胸の奥が、妙に痛む。これは——罪悪感に近い感覚だ。
ランサーは、「ここのアーチャー」に優しくしている。だが、今ここにいるのは「現実のアーチャー」だ。つまり——ランサーは、間違った相手に優しくしている。
それが——たまらなく——申し訳なかった。
05
一週間が経った。
適応の速度は、統計的にありえないレベルだった。朝はランサーと起きて、夜は一緒に食べて、寝る。ルーティンとしては単純だが——問題は、それが心地よかったことだ。
現実のアーチャーは一人暮らしだ。朝も夜も一人。孤独を「効率的」と呼んで、十年以上やってきた。
だが、ここでは違う。
三日目の夜、ランサーがコンビニの袋を提げて帰ってきた。中身はカップ麺、エナジードリンク、そして——アイス。
アーチャーの好物だ。
いや、正確には「現実のアーチャー」の好物だ。「ここのアーチャー」の好みかどうかは分からない。だが、ランサーは何も言わずに冷凍庫に入れた。
「お前、これ好きだろ」
その一言だけ。
偶然か。それとも「ここのアーチャー」も同じ好みなのか。
どちらにせよ——胸の奥が、妙に温かくなった。
五日目の夜、ランサーは疲れ切った顔で帰ってきた。スーツのまま、ソファに倒れ込む。シャワーも浴びず、そのまま眠った。
アーチャーは、リネン庫から毛布を取り出して、ランサーにかけた。
その瞬間——手が止まった。
何をしている。自分は。
これは「ここのアーチャー」の役割ではないのか?「現実のアーチャー」は、ランサーに毛布をかけるような——優しい人間では、なかったはずだ。
だが、手は動いていた。毛布をランサーの肩まで引き上げる。寝息が、規則正しい。
そして——気づいた。
優しくしたかった。この男に。
七日目の朝、ランサーがコーヒーを淹れながら言った。
「なあ、お前、最近よく笑うな」
アーチャーは、手を止めた。
「……笑ってるか?」
「ああ。昨日も、俺がシャツのボタン間違えたとき、笑ってただろ」
記憶を辿る。確かに、笑った。ランサーがシャツの一番上と二番目のボタンを逆にはめていて——そのズレ方が、妙に可愛かった。
可愛い?
ランサーを、可愛いと思った?
アーチャーの思考回路が、一瞬停止した。
「別に、おかしくはないけど」
ランサーは笑う。
「いいことだよ。お前、笑うと——」
言葉が途切れる。ランサーが、少しだけ照れたような顔をした。
「——可愛いから」
心臓が、一拍飛んだ。
可愛い。
現実のランサーが、アーチャーに対してそんな言葉を使うことは、絶対にない。物理的に不可能だ。二人の関係性において、「可愛い」という語彙は存在しない。
だが、ここでは存在する。
そして——もっと問題なのは——その言葉が、嬉しかったことだ。
これは——まずい。
アーチャーは自覚し始めていた。「ここのランサー」に、情が移っている。いや、情が移っているというより——好きになっている。
優しくて、穏やかで、自分を愛している相手を——好きにならない方が、おかしい。人間の感情システムは、そういう風に設計されている。進化心理学的に正しい反応だ。
だが——これは——間違っている。
アーチャーは「ここのアーチャー」ではない。侵入者だ。ランサーが愛しているのは「ここのアーチャー」であって、「現実のアーチャー」ではない。
つまり——この関係は偽物だ。
論理的には、完璧に正しい。
だが、感情は、論理を無視した。
ランサーの笑顔を見るたび、胸が温かくなる。ランサーの声を聞くたび、安心する。ランサーの隣で眠るたび、幸福を感じる。
これは——偽物の感情なのか?
いや、違う。
感情は——本物だ。「ここのランサー」に対する感情は、確かに本物だ。脳内のドーパミン受容体は、嘘をつかない。
では——「現実のランサー」に対しては?
アーチャーは、考えた。
現実のランサーと、ここのランサー。顔も声も同じ。DNA配列も同一のはずだ。だが——関係性が違う。
現実では、二人は敵対している。だから、ランサーの「敵対的な面」しか見えない。認知バイアスの典型例だ。
だが、ここでは、二人は恋人だ。だから、ランサーの「優しい面」が見える。
つまり——
現実のランサーも、この面を持っているのではないか?
ただ、アーチャーに対して見せていないだけで。あるいは、アーチャーが見ようとしていなかっただけで。
そして、もしかしたら、アーチャーも、ランサーに対して「敵対的な面」しか見せていないのではないか?
この仮説が正しければ——
現実でも、二人は——もっと違う関係になれるのではないか?
その可能性に、アーチャーは気づき始めていた。
06
そして夜は、ランサーが触れてくる。
最初は拒んだ。
「疲れてる」と言って、断った。ランサーは「そっか」と言って、それ以上求めなかった。
だが、二日目も断ると、ランサーが心配し始めた。
「体調悪い?病院行く?」
「大丈夫だ」
「でも——」
「本当に大丈夫だ」
三日目、ランサーが言った。
「……俺、何かした?」
「してない」
「でも、最近お前、俺に触られるの嫌がるだろ」
その指摘が、正確すぎて、アーチャーは何も言えなかった。
確かに、避けていた。ランサーが触れようとすると、理由をつけて逃げていた。だがそれは「ここのアーチャー」ではないからだ。ランサーが触れているのは「ここのアーチャーの身体」であって、「現実のアーチャーの身体」ではない。
だから受け入れるのは間違っている——という論理を、アーチャーは自分に言い聞かせていた。
だが、その論理は、もう機能しなかった。
「……嫌じゃない」
アーチャーは、正直に言った。
「嫌じゃない。ただ——」
言葉が、出てこない。どう説明すればいい?
「君が触れているのは、君の知ってる私じゃない」とでも言うのか? そんなこと言えば、混乱するだけだ。
「……ただ?」
ランサーが、こちらを見ている。その目が、真剣だ。
「……何も」
「何もじゃないだろ」
ランサーは、アーチャーの手を取った。
「なあ、ちゃんと話してくれよ。俺、何かしたなら謝るから」
その言葉が、胸に刺さった。
ランサーは——何も悪くない。悪いのは、アーチャーだ。勝手に迷っている。勝手に罪悪感を抱いている。
そして、気づいた。
罪悪感を抱いているということは、つまり、受け入れたいと思っている。
ランサーに触れられたい。ランサーに抱かれたい。ランサーと——
「……嫌じゃない」
アーチャーは、もう一度言った。
「君に触れられるの、嫌じゃない」
ランサーの目が、僅かに見開かれた。
「じゃあ——」
「……いい」
アーチャーは、観念した。
「……触れて」
その言葉が、どれほど重いか。
これは——「ここのアーチャー」としてではなく——「現実のアーチャー」としての——選択だ。
ランサーが、ゆっくりとアーチャーに近づいた。手が、アーチャーの頬に触れる。その温度が——驚くほど——優しい。
「……本当にいいのか」
「いい」
ランサーは、アーチャーの唇に自分の唇を重ねた。
キスは——最初は——ためらいがちだった。まるで、壊れ物を扱うような慎重さ。だが、アーチャーが応えると、深くなった。
ベッドに倒れ込む。ランサーが上になり、アーチャーが下になる。シャツのボタンが外される。一つ、また一つ。その指先が、アーチャーの鎖骨に触れる。
肌に、ランサーの手が触れる。
その瞬間——アーチャーの呼吸が、止まった。
温度が、ある。重さが、ある。圧力が、ある。
現実では想像したこともなかった。ランサーとこんなふうに。この男の手が、自分の身体を——こんなふうに——辿るなんて。
ランサーの手が、アーチャーの身体を丁寧に辿る。まるで地図を読むように、すべての場所を確認していく。肋骨の隙間。腰骨のライン。太腿の内側。
その手つきが——慣れている。
当然だ。「ここのアーチャー」の身体を、何度も触れてきたのだから。どこに触れれば反応するか、知っている。どこが敏感か、知っている。
だが——今触れられているのは——「現実のアーチャー」だ。
その事実が——妙に——興奮を増幅させた。
ランサーの指が、アーチャーの首筋を撫でる。そこに唇が触れる。吸引される感覚。毛細血管が破裂する、微細な痛み。
これが——朝、鏡で見た痕の——正体だ。
ランサーが、アーチャーの耳元で囁く。
「好きだ」
その言葉が——心臓の近くで——響いた。
鼓動が、速くなる。一分間に約百回。運動時の心拍数だ。だが、今は動いていない。ただこの男に触れられているだけで心臓が、こんなに跳ねる。
「……私も」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「私も、好きだ」
嘘ではなかった。
本当に——好きだった。「ここのランサー」が。
そして——もしかしたら——「現実のランサー」も。
ランサーの手が、さらに深く侵入してくる。シーツが、肌に貼りつく。汗の温度。呼吸の乱れ。ランサーの体重が、アーチャーの上に覆いかぶさる。
重い。
だが——心地いい。
この重さが——今——確かに——ここにある。
それが——たまらなく——愛おしかった。
07
行為の後、二人は並んで横になっていた。
ランサーの腕が、アーチャーの肩を抱いている。その重さが——まだ——残っている。シーツに染み込んだ汗が、冷えていく。気温二十二度。湿度五十五パーセント。快適な範囲だ。
だが、アーチャーの身体は、まだ熱い。
「……なあ」
ランサーが言った。
「やっぱり、今日のお前、いつもと違う」
「……そうか」
「ああ。いつもより——なんていうか——素直だった」
その指摘が、正確すぎる。
確かに、素直だった。拒まなかった。受け入れた。そして——応えた。
「ここのアーチャー」ならどう反応するのか、もう気にしなかった。「現実のアーチャー」として、ランサーを受け入れた。
「……悪いか」
「悪くない。むしろ、嬉しい」
ランサーは、アーチャーの額にキスをした。その唇が、柔らかい。
「お前、たまにすげえ素直になるよな」
「……たまに?」
「ああ。普段は——なんていうか——距離置いてる感じするけど、たまにすげえ近くなる」
その言葉が、妙に引っかかった。
「ここのアーチャー」も——距離を置いていたのか?
だとしたら——「ここのアーチャー」も——何か抱えていたのかもしれない。この世界でも、アーチャーは、完璧には適応していなかったのかもしれない。
「……お前は、それでいいのか」
「いいよ。お前はお前だから」
ランサーの声が——驚くほど——優しい。
「距離置いてても、たまに近くなるお前が好きだ」
その言葉が、胸の奥を温めた。
アーチャーは、ランサーの腕の中で、目を閉じた。ランサーの心臓の音が、耳に届く。一分間に約六十五回。安静時よりやや速い。まだ、興奮が残っているのだろう。
このまま——ずっと——ここにいたい。
そう思った。
08
一週間が、二週間になった。
ある朝、アーチャーが目を覚ますと、ランサーがすでに起きていた。キッチンで何か作っている音がする。
リビングに行くと、テーブルに朝食が並んでいた。トースト、目玉焼き、サラダ、コーヒー。シンプルだが、丁寧に作られている。
「起きたか」
ランサーが笑う。
「たまには俺が作ろうと思って」
「……ありがとう」
二人で食べる。
コーヒーが、美味い。豆の挽き方が、ちょうどいい。ランサーは、料理が上手いのか。それとも、「ここのアーチャー」の好みを知っているだけなのか。
どちらにせよ——この時間が——心地よかった。
休日は、一緒に出かけた。映画を見た。買い物をした。ただ公園を歩いた。
そして夜は——抱き合った。
もう、罪悪感はなかった。
これは——偽物ではない。
「ここのランサー」と「現実のアーチャー」の——本物の関係だ。
そして——気づいた。
自分は、ずっとランサーが好きだった。
現実のランサーを。
ただ、喧嘩ばかりで、認める余地がなかっただけだ。敵対している相手を好きになるなんて、馬鹿げている——そう思って、感情を押し殺していた。
だが、ここで初めて——その感情が、輪郭を得た。
ランサーの笑顔。ランサーの声。ランサーの優しさ。ランサーのすべてが——好きだ。
そして——もしかしたら——現実に戻ったとき——
現実のランサーとも、違う関係になれるかもしれない。
その希望が、アーチャーの中で膨らんでいった。
09
二週間目の夜。
アーチャーは、いつものようにベッドに入った。ランサーの隣に横になり、腕の中に収まる。この位置が——もう——自然だった。
「おやすみ」
「ああ。おやすみ」
ランサーの声が、遠くなる。
眠りに落ちる。
そして——目を覚ました。
空気が、違う。温度が、薄い。隣を見る。
ランサーがいない。
心臓が、跳ねた。起き上がる。部屋を見渡す。
ランサーの服がない。靴がない。歯ブラシがない。
クローゼットを開ける。ランサーの服が——すべて——消えていた。
リビングに行く。
写真が——消えていた。海辺で笑う二人の写真。壁に飾られていたはずの写真が——ない。
ホワイトボードを見る。
二人のスケジュールが書かれていたはずのホワイトボードが——何も書かれていない。真っ白だ。
冷蔵庫を開ける。
食材が——減っている。ランサーが好きだったビールが——ない。
スマートフォンを取り出す。
ロック画面の壁紙が——変わっていた。海辺の写真ではなく、デフォルトの風景写真だ。
メッセージアプリを開く。
ランサーとのトーク履歴が——ない。いや、ある。だが——内容が違う。
〈今日の資料、送っといた〉(ランサー)
〈了解〉(アーチャー)
仕事の連絡だけだ。
プライベートなやり取りが——すべて——消えていた。
世界が、元に戻った。
膝が、床についた。呼吸が、潰れたみたいになった。
戻りたくなかった。あの世界の——ランサーの隣にいたかった。
愛されていたかった。愛したかった。
だが——もう——遅い。現実に——戻ってしまった。
スマートフォンが鳴った。会社からだ。
「エミヤさん、今日の会議、十時からですよ。遅刻しないでくださいね」
冷たい現実が、アーチャーを呼び戻す。
10
オフィス。
アーチャーは、いつもの席に座っていた。ランサーは——向かいの席にいた。
いつもの顔。いつもの態度。
「よう」
「ああ」
「今日の資料。できてんだろ」
「できてる」
ルーティンの会話。
だが——アーチャーの内部構造だけが——違っていた。
ランサーを見る。
あの世界のランサーと、同じ顔だ。同じ声だ。
だが——違う。
こちらを見る目に、優しさがない。こちらに向けられる言葉に、愛がない。
当然だ。
ここでは、二人は恋人ではない。ただの同僚だ。しかも、衝突ばかりしている。
アーチャーの胸が、締め付けられた。
会議が始まった。
プロジェクトの進捗報告。アーチャーが資料を提示する。ランサーが意見を言う。
「ここ、もうちょっと具体例があった方がいいんじゃないか」
「具体例を入れると、ページ数が増えすぎる」
「でも、これじゃクライアントに伝わらないだろ」
「伝わる。十分だ」
「いや、不十分だって」
また、衝突だ。いつものパターン。
だが——今日は——アーチャーが、先に折れた。
「……分かった。具体例を追加する」
ランサーが、驚いた顔をした。
「……マジで?」
「ああ」
「お前が折れるとか、珍しいな」
その言葉は、皮肉ではなく、純粋な驚きだった。
会議が終わった後、ランサーがアーチャーに声をかけた。
「なあ、エミヤさん。今日、なんかあった?」
「……別に」
「いや、絶対何かあっただろ。お前、いつもなら絶対折れないのに」
その指摘が、正確すぎる。
確かに、いつもなら折れない。自分の意見を曲げない。それがアーチャーだった。
だが——今は——
「……別に。ただ、お前の意見も一理あると思っただけだ」
「そっか」
ランサーは、少しだけ笑った。
「まあ、助かるよ。いつも喧嘩ばっかだったしな」
その言葉が、妙に優しく聞こえた。
そして——アーチャーは——決めた。
昼休み。
アーチャーは立ち上がり、ランサーに声を掛けた。
「……飯、行かないか」
ランサーが、露骨に驚いた。
「は?お前と?」
「俺と」
「……冗談だろ」
「冗談じゃない。話したいことがある」
沈黙。ランサーが、こちらをまっすぐに見る。
「……まあ、いいけど」
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
11
二人は、オフィスビルの近くのカフェに入った。
窓際の席に座る。アーチャーがコーヒーを、ランサーがサンドイッチとコーヒーを注文する。
「で、何の話?」
ランサーが訊いた。アーチャーは、少しだけ躊躇した。
何と言えばいい?
「実は、並行世界に行ってきて、そこで君と恋人だった」とでも言うのか?そんなこと言えば、頭がおかしいと思われる。
だが——言わなければ——何も始まらない。
「……君のこと、嫌いじゃない」
その言葉が、やっとのことで出た。
ランサーが、目を見開く。
「……は?」
「嫌いじゃない。むしろ——」
言葉が、詰まる。
「むしろ?」
「……好きだ」
その告白が、どれほど唐突か。
ランサーは、完全に固まった。
「……お前、マジで言ってんの?」
「マジだ」
「でも、俺たちいつも喧嘩ばっかじゃん」
「それは——分かってる」
アーチャーは続けた。
「だが、喧嘩するのは、君のことを無視できないからだ」
ランサーが、黙った。
「もし本当にどうでもいい相手なら、喧嘩もしない。適当に流す。だが、君とは——そうできない」
アーチャーは、ランサーの目を見た。
「君の意見が気になる。君の反応が気になる。君が——気になる」
沈黙。
長い、沈黙。
そして——ランサーが——笑った。
「……お前、本当に変なこと言うな」
「変か」
「変だよ。でも——」
ランサーは、アーチャーを見た。
「嫌いじゃない」
その言葉が、アーチャーの胸を温めた。
「……じゃあ」
「飯、また行こうぜ。今度は喧嘩なしで」
「……ああ」
アーチャーは、頷いた。
あの世界みたいには——いかないかもしれない。
同じ形には——ならないかもしれない。
それでも——ここから——始められる。
アーチャーには、その確信だけが残った。
そして——それで——十分だった。