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次の春までおやすみ/Novel by もあ

次の春までおやすみ

10,775 character(s)21 mins

役所に誤結婚させられたふたりが同棲するはなし

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 年末調整の封筒をポストから引っ張り出した瞬間、指先が先にうんざりした。
 税と保険と社会保障、人生の基礎フレームのくせに、出力先がこの薄いコピー用紙一式という時点で、文明としてどこか間違っている。

 リビングのテーブルに封筒を放り、アーチャーはコーヒーを一口飲んでから開封した。

まずは「給与所得者の扶養控除等(異動)申告書」。名前、住所、マイナンバー。
 見慣れた罫線と、一生仲良くなる気のない数字の列。

 毎年顔を合わせているのに、関係性は「仕事上の知り合い」から一歩も進まないタイプの紙だ。

 問題は、右上の小さな四角だった。

 配偶者氏名──クー・フーリン・L・アルスター。

 指が止まる。思考も止まる。Wi-Fiごと落ちたみたいに、脳内のすべてが一瞬でサスペンドに入った。
 
 まず、「他人の封筒を開けた説」が検討される。却下。住所も氏名も、自分だ。

 次に、「手の込んだ悪ふざけ説」。これも却下。役所がそこまでユーモアを身につけていたら、日本の出生率はもうちょっとマシだろう。

 もう一枚、健康保険被扶養者認定通知。
 呼吸を整えてから開くのは、さすがに学習能力のおかげだ。

 配偶者:クー・フーリン。

 カタカナで、システムにとって処理しやすい形で、アーチャーの知らない結婚が確定していた。

 アーチャーはマグを持ち上げ、冷めたコーヒーを口に含む。

 味はいつも通りだ。豆も挽きも抽出も、自分で決めた通りに再現されている。
 世界で唯一ブレないものがコーヒーだけという事実に、薄く絶望する。

 ──知らないあいだに、ランサーと結婚している。

 胸の奥で、心臓だけが妙に真面目に仕事を始める。
 
 封筒の活字を、何度目か分からない往復でなぞりながら、別の夜が脳裏に割り込んできた。

 二年前の忘年会。
 社内の「お疲れ様ムード」の延長で、たまたま居合わせたメンバーで飲んだ。ランサーもいた。酔っていたが、記憶が飛ぶほどではない。

 終電を逃し、「タクシー代割るか」と口にした先が、深夜も営業しているビジネスホテルだった。
 部屋は一つ。安いウイスキーのミニボトルを二つ。仕事の愚痴と、来年の異動の噂と、将来の話。
 笑いながらキスして、笑いながら服を脱いだ。どこからが冗談で、どこからが本気だったのか、今でも明確には線が引けない。

 翌朝、アーチャーはいつも通り六時半に起きた。
 カーテン越しの薄い光の中、ランサーはまだ眠っていた。呼吸は規則正しく、顔はやたらと無防備で、肩に手を伸ばせばすぐ触れられる距離だった。

 アーチャーは、触らなかった。
 代わりにポットで湯を沸かし、コーヒーを淹れ、スーツに着替えた。

「そろそろ出る。昨日のことは、忘れていい」

 そう告げると、ランサーはしばらく黙ってから、「了解」と笑って返した。
 笑い方だけは、いつも通りではなかった。

 それから、少しずつ疎遠になった。
 飲みに行く頻度は落ち、社内チャットの冗談も減り、業務以外のやり取りは途切れた。

 やっと何も無かったフリが出来るようになった。そんな男の名前が、今、書類上の「配偶者」の欄に並んでいる。

 状況を整理すると、「アーチャー」と「一度だけ身体の関係を持って、それ以降は距離を置いた営業の同僚」のあいだに、役所だけが勝手に婚姻フラグを立てている、という話だ。

 ともかく、最低限の礼儀として犯人に連絡する必要がある。

 スマホを手に取り、メッセージアプリを開く。

 頻度で言えば、上から二十番目くらいに「Lancer」の名前がいる。

 今や久しくなった通話履歴、飲みの誘い、くだらないスタンプ。全部、法的効力ゼロ。
 そこに突然「配偶者」のラベルが貼られるのは、さすがに仕様違反だ。

Archer:
君、役所のシステム上で私と結婚してるぞ

送信してから三秒で既読。仕事が早いのは、こういうときにだけありがたい。

Lancer:
は?

Archer:
証拠を送る。笑うな

 書類の写真を三枚。
 紙の上でフルネームが並んでいるのは妙に生々しい。

Lancer:
……笑えねーわ

Lancer:
どっちの仕込みだよこれ
これ放っときゃ直る?

Archer:
行政の「そのうち」は年単位だ
明日、区役所に行く。来い

Lancer:
命令すんなよ、旦那

Archer:
その呼び方を今後二度と使うな

 送信して画面を伏せる。
 部屋の静けさだけが、何も知らない顔でそこにいる。

 生活は何も変わっていない。
 だがシステム上、アーチャーは「既婚」欄にチェックされている。
 この違和感を、笑い飛ばせるほどタフな性格はしていない。さすがに。
 
 少なくとも、相手がクー・フーリンでなければ。


 区役所の冬は、毎年ビニールハウスの失敗作みたいだ。
 
 暖房と人いきれだけが本気を出して、空気だけ膨らんでいる。

 その番号札の機械の前で、ランサーが壁にもたれていた。

 グレーのコートに黒のニット。
 シルエットは緩いのに、その下の厚みは「ちょっと筋トレしてます」では言い訳できない。
 青い髪は後ろでひとつに括られ、耳元のシルバーが、安物の蛍光灯を無駄に高級に見せていた。

 制度が勝手に「既婚」フラグを立てるには、いささか燃費の悪いスペックだ。

 目が合うと、ランサーは顎を少し上げて、口角だけで笑った。

「よ。新婚」

 あまりにも自然な挨拶。アーチャーは一瞬だけ一体どこに新婚が?と考え、すぐに打ち消す。自分だった。

「その挨拶をこの建物の中で続けると、そのうち別の窓口に回されるぞ」

「大丈夫だろ。ここ、“そういう相談”も受け付けてんだろ?」

「私たちのケースは、さすがにマニュアル外だな」

 ランサーは肩をすくめる。
 冗談半分に見せて、半分は本気で様子をうかがっている目だ。

 頭上で、電光掲示板の数字が一つ進む。
 自分たちの番号が呼ばれ、無機質な電子音が、「さあ人生のバグを報告してください」とでも言いたげに鳴いた。

 二人で窓口に並ぶ。

 職員は一瞥しただけで、「あ、面倒なやつ来た」という顔になった。大正解だ。
 さすがプロ、目の死なせ方に無駄がない。

「ええと……こちらが、扶養控除の登録情報ですね。たしかに、配偶者の欄が……」

「私の知らないうちに、そこのそいつと結婚しているんですが。」

 アーチャーが簡潔に状況を要約すると、職員は引きつった笑顔のまま、モニターに向き直った。

「ま、まずはこちらで確認いたしますので……」

 クリック音とスクロール音が、やたら忙しなく続く。
 社会保障という巨大な機械の歯車が、アーチャーとランサーという本来別々の部品を、うっかり同じ溝に挟んで回している光景が、嫌でも頭に浮かんだ。

「……昨年の年末調整の際に、何らかの形でお二人の情報が紐づいてしまった可能性が高いですね」

「“何らかの形”って便利な言い方だな」

 ランサーがぼそっと呟く。
 職員は困ったように笑い、引き出しから別の紙束を取り出した。
 笑顔の角度が、「ここからが本題です」と告げている。ろくでもない意味で。

「ええと……誤登録の可能性が高いので、こちらの“婚姻解消届”をご提出いただければ、戸籍上の婚姻関係は解消できます。ただ──」

「ただ?」

 アーチャーが促すと、職員は申し訳なさそうな声色だけ整えて、続けた。

「現在、お二人とも“既婚者控除”の恩恵を受けていらっしゃる形でして。もし“実態がない婚姻”と判断されますと、過去二年分の控除額を、追ってご返還いただく可能性がございます」

 ランサーの顔から、目に見えて血の気が引いた。

「二年分ってさ……ボーナス一個飛ぶくらい、行くよな?」

「条件によっては、そういったケースもございますね」

 つまり、数百万相当だ。職員の口調には罪悪感が滲んでいるが、システムそのものには欠片もない。

 帳簿の世界では、「うっかり結婚」にもきっちり値札がつく。
 ロマンスの死骸を数字で固めたのが税制だ。

「逆に、“実態がある”と判断された場合には、そのまま婚姻継続という形で処理されます」

「その“実態”ってのは、どこを見ればいい?」

 ランサーが眉をひそめる。
 職員は、待ってましたと言わんばかりに、別の紙を前に滑らせた。

「簡単に申しますと、一定期間の同居と、生活実態に関するアンケートをご提出いただきましてですね……」

 言い終わる前に、ランサーが固まる。
 アーチャーも、心の中だけで同じ動きをした。

 職員は、二人の顔色を見なかったことにして、マニュアルの行間にしがみつきながら説明を続ける。

「一ヶ月程度、ご一緒にお住まいいただき、こちらのアンケートにご回答を……その結果をもって、“実態の有無”を総合的に判断いたします」

 ……要するに、「一回暮らしてから考えろ」ということだ。

 お見合いより乱暴で、マッチングアプリより真面目で、恋愛より書類ベース。
 時代の進化の方向性を間違え続けた末路、という感じがする。

「区役所、公費で同棲プラン売り始めたのか?」

 ランサーが呆れとも笑いともつかない声を出す。

「制度の柔軟性も、とうとうそこまで来たか」

「そ、そういう意図では決して……!」

 職員は全力で首を振る。

 だが文章を削っていけば、「同居してみてから判断してください」でだいたい合っている。

 制度のくせに、やり口だけは恋愛バラエティ番組だ。

「……一ヶ月、同居すればいいんだな」

 アーチャーが確認すると、職員は明らかに安堵して頷いた。

「はい、“婚姻実態確認”という位置づけになりますので」

 横で、ランサーが小さく笑う。
 笑いの温度は軽いが、その奥で、何かを決めかねている音がした。
 ……とはいえ、どこかで誰かが支払う必要のある金だ。

 それを自分の合理性にのせるなら、選択肢はあまり多くない。

「一ヶ月。どこで暮らすか決めよう」

 あえて職員の前で言うと、ランサーが横目でこちらを見た。
 目の色だけが、さっきよりほんの少し真面目だ。

「お前んとこ、だろ」

「どうしてそう思う」

「お前の部屋、絶対きれいだし。オレんとこ片付けるより、お前んとこに転がり込んだ方がコスパいい」

「……合理的な判断ではあるな」

「ほら見ろよ。やっぱお前、旦那向いてんじゃねーか」

 婚姻解消届と、「婚姻実態確認アンケート」の束を受け取って、二人で窓口から離れる。

 紙の端が指に食い込む感覚だけが、この顛末のコストを正直に物語っていた。

 ビニールハウスみたいなぬるい空気の中で、世界は相変わらず自分たちに興味はない。

 そのくせ、システム上ではしっかり「既婚」と「同居予定」のチェックが入っている。

 ──年末調整の一マス塗り間違えただけで、人生のレイアウトまで勝手に組み替えてくるあたり、
 この国の事務処理は、やはり攻撃力だけは異様に高い。

 翌日の夜、インターホンが二回鳴って、少し間をおいてから三回鳴った。

 このリズムで鳴らしてくるのは、配達員ではなく、間違いなくアーチャーの人生に突然発生したバグ配偶者の方だろう。

 アーチャーはマグをシンクに置き、玄関までの数歩で頭の中を一度リセットした。

 「同僚」でも「飲み仲間」でもなく、書類上だけ格上げされた関係性に、適切な呼び名はまだない。

「よ、仮住まいの夫だ」
 
 ドアを開けると、キャリーケースと紙袋を抱えたランサーが立っていた。

「“仮”の字面に安心感を覚えるあたり、自覚があるな」

「じゃ本妻って呼んでやろうか?」

「それはもっと違う」

「細けえな。ほら、入るぞ」
 
 コートの襟には外気の冷たさ、手つきには慣れていない引っ越しのぎこちなさ。奇妙な光景だ。

 靴を脱ぐランサーを横目に、アーチャーは改めて自分の部屋を見る。

 白とグレーで固めた1LDK。余計な物はなく、生活感はギリギリ生存確認ができる程度。

 今日まで「一人で死ぬための快適な箱」として最適化してきた空間だ。
 今日からここが「新婚家庭(制度上)」になる。人類史のどこにも載っていない冗談だ。

「……ホテルかよ」

ランサーが、素直な感想を漏らした。

「掃除しやすいだけだ」

「いや、“人が住んでる”って感じしねえんだよな。遺品整理来たみてえ」

「縁起でもない例えをやめろ」

「まあオレのもの入れりゃそれなりに“人の住んでる家”になんだろ」

 言いながら、紙袋からカップ麺とパンと得体の知れないジャンクフードを取り出してキッチンカウンターに並べていく。

 アーチャーの冷蔵庫の中身(卵、野菜、肉、調味料)とは、精神衛生の方向性が根本から違うラインナップだ。

「炭水化物に偏りすぎだな」

「うるせーよ。お前がちゃんとした飯作るんだろ?」

「いつそう決まった」

「キッチン見りゃ分かる。ここ、料理できる奴の台所じゃねえか」

 シンクは空、調理器具は一通り揃い、調味料は用が足りる程度に並んでいる。

 どう見ても「コンビニと電子レンジだけで生きてきた男」のキッチンではない。生活の誠実さは排水溝の清潔さに出ている。

「なあアーチャー」

「何だ」

「オレさ、わりと本気で今、“嫁入り失敗してねえか”って不安なんだけど」

「安心しろ。私も似たようなことを考えている」

「お前がそれ言うなよ」

 口では文句を言いながら、ランサーはキャリーを所定の位置に押し込んだ。
 ジャケットを椅子に掛け、ネクタイを外してソファに放る。

 数秒で、部屋の景色が変わる。
 他人の生活が紛れ込んだ跡が、視界のあちこちに増えていく。

 定規で引いたみたいに整えてきた線が、わずかに揺らぐ。

 アーチャーはため息をひとつ飲み込んでから、キッチンに立った。

「とりあえず食事だ」

「お、ゴハンだってよ。さすが優良物件」

「勘違いするな。これは実態確認の一環だ」

「はいはい。“婚姻実態:飯が出る”っと」

 鍋が鳴り、油が弾き、ニンニクとタマネギの匂いが部屋に広がる。

 いつもなら、作って、食べて、片付けて、それで終わるルーティンだ。

 今日は、テーブルの向かいにもう一人、箸を持つ人間がいる。

「いただきまーす」

ランサーが箸を持ち、ひと口食べて、露骨に目を見開いた。

「おい。結婚するわ」

「している」

「じゃ続行するわ」

「アンケートに書く項目ではないな」

「書きてえけどな。“婚姻実態:メシがうまいので継続希望”」

 アーチャーは肩をすくめ、代わりにビールの栓を抜いた。

 婚姻継続の理由としては安すぎるし、人間としてはまあまあ妥当だ。
 

 一ヶ月の同居生活は、劇的な事件もなく淡々と進んだ。

 朝はカップが二つ。
 洗濯物は二人分。

 ランサーのジャケットがソファの背に定位置を確保し、ソファのクッションは「座り癖」という新しい物理法則を覚えた。

 仕事の愚痴は一人分では処理に困る量なので、二人でまわすと適正値に落ち着く。

 一人で抱え込むには毒が強すぎる話も、二人で割るとちょうどいい濃度になる。

 二人の生活に飛び込んできた例のアンケートの質問は、やたらプライベートに踏み込んでくる癖に、生活の核心はまったく見えていないものだった。

「収入の管理は共同ですか?別々ですか?」

「どう見る?」

「お前が光熱費と食費持ってんじゃん」

「君は酒と家賃とゴミ出し担当だ」

「役所に“割り勘(概念)”って項目作ってやれよ」

 そんな調子で丸をつけ、余白にツッコミを書き込みたくなる衝動を必死に抑える。

 「寝室は同じですか?」の問いには、ペン先が一瞬だけ宙に浮いた。

「……別だ」

「“一応”つけとけよ、“一応別”」

「その一語で余計な想像をされるだろう」

「もう十分されてんだろ、“実態あり”って判断されてんだから」

 紙の質問と、こっちの実感が、珍しく同じ方向を向きかけているのが腹立たしい。

 夜、ランサーが酔って帰ってきた日だけが、少し色の違う時間になった。

 ドアが二度鳴って、少し間を置いてもう一度鳴った。

 このリズムを鳴らすのは、宅配ではなくランサーだ。アーチャーはマグを置き、玄関を開ける。

「ただいま」

 ランサーの頬は少し赤い。酔ってはいるが、意識ははっきりしている。

「飲み会か」

「まあな。“結婚してるって本当?”って聞かれたわ」

「笑って合わせたか?」

「まあ」

 ランサーがコートを脱いで部屋に上がる。靴も乱れず置くあたり、酔っても生活習慣は崩さない。

「……アーチャー」

 唐突に名前を呼ばれた。振り向くと、ランサーがこちらを見ている。

「覚えてるか? 二年前」

 記憶が、酒より鋭利に、蘇る。

 忘年会。店を出て、終電逃して、酔った勢いで乗ったタクシー。
 瓶のウイスキー。ベッド。笑った。触れ合った。

 翌朝、いつも通りコーヒーを淹れた自分と、寝息を立てていたランサー。
 「忘れていい」と言ってしまった。

「覚えてる」

「オレもだ。……あの朝からずっと、どっかで気になってた」

「合理的ではなかったな」

「おう。でも今もだ」

 ランサーは少し歩いて、アーチャーの正面に立った。あのときと同じだ、また、帰る電車はない。

「キスしていい?」
 
 真正面からの圧があるのに、声は驚くほど優しい。

 アーチャーは一拍だけ目を閉じた。

「酔ってる」

「酔ってても聞くくらいには……まだマトモだ」

「断ったほうが合理的だな」

「で?」

 そこまで言われてしまえば、理屈など薄っぺらい。

「合理性がすべてなら、私は今もこの部屋に一人でいる」

 言った瞬間、ランサーの顔に何かが浮かんだ。怒りでも喜びでもない。安堵でもなく、たぶんそれら全部を凝縮した何か。

 近づいて、触れて、息のままにキスが落ちる。
 触れて、離れる。唇の余熱だけが残る。

「後悔は?」

「するにはまだ足りない」

「なら続けるか?」

「好きにしろ」

 ランサーは笑って、今度は風呂へ向かう。

 残されたアーチャーは、ようやくソファに腰を下ろし、天井を見た。

 制度が要求した「実態」は、とっくにクリアしている。

 問題は、こっちの心境の方だ。

 ここまで来て「誤登録でした」は、さすがにシステム側が無礼な話だろう。
 


 
 ランサーとの生活も、1ヶ月が過ぎようとしていた。
 
 封筒を持ち上げた時点で、アーチャーは内容を察していた。行政というのは、紙質で不幸を伝えるセンスだけは一流だ。

「婚姻実態確認結果のお知らせ」

 ──タイトルだけで嫌な汗が出る。案の定、“実態あり”の判定で、“解消届を提出するかどうかは当事者の判断に委ねる”ときた。

 丸投げの極みだ。いっそ好感が持てる。

「で、どうするつもりだ?」

 ランサーが、封筒の端を軽く指で叩く。その音だけが、場を湿らせていた。

「誤登録だ。元に戻すのが妥当だろう」

 アーチャーが言うと、ランサーが鼻で笑った。

「──妥当ね。お前らしい」

「否定はしない」

「けどな、“払えるもんは払って、さっさと縁切る”のが正論ってんなら、俺はとっくにやってんだよ」

 ランサーの声は淡白だ。感情をぶつけるでもなく、ただ、事実のように。

「控除の返済も、生命保険の受取人の変更も──書類だけなら翌日には済む。オレの稼ぎじゃ余裕だしな」

 ……それは、たしかに余裕だろう。
 ランサーは数字を扱う男だ。数字に裏打ちされた自信は、もはや武装だ。

 だから、「選んだ」という言葉に重みがある。

「なのにわざわざお前の部屋に転がり込んで──」

 ランサーが肩をすくめる。

「洗剤の銘柄覚えて、コーヒーカップ並べて、生活に手ェ突っ込んで。……合理じゃねえだろ」

「……」

「だからいいんだよ。オレは選んだ。ちゃんとな」

 アーチャーは返せなかった。
 “選ぶ”という動詞は、自分の辞書では扱いにくい類いのものだったから。

「お前も選べ。ああいう夜を一度忘れて、今を“誤登録”で片付ける気なら──」

 ランサーは、封筒を静かに返す。

「それこそ、オレは納得できねえ」

 言ったあと、彼は表情を崩さなかった。が、軽く顎を引いた姿勢が、静かな挑発のように見えた。

「明日、役所に行く」

 アーチャーの声は静かだ。

「……最終的には、どちらかの署名が必要だ」

 ランサーは短く息を吐いた。

「そうかよ。じゃあ、こっちも付き合ってやる。選んだ身だ、途中で降りる気はねえからな」

 背を向け、静かに歩き出す。その音が完全に消えるまで、アーチャーは封筒の角だけを見つめていた。

 合理では処理しきれない重さが、そこだけ残っていた。
 

 区役所の空調は、いつも過剰だ。
 寒いフロアを暖める気があるというより、「生暖かい不快さで客を黙らせる」方向に振り切れている。

 番号札を握りながら、アーチャーは扉の向こうで待つランサーの横顔を盗み見る。

 なぜか緊張していない。やけに落ち着いている。

 ──2年前の夜、よく笑うやつだった。
 ──この1ヶ月、帰宅の気配や風呂の音で、生活がずれていくのが妙に心地よかった。

 そんな感覚は、婚姻届とは何の関係もない。
 だけど論理では解釈できない「生活実態」は、すでに二人の間に確かに成立していた。

 平日の午前九時半。
 「困った案件扱い」の視線を浮かべる職員の前で、二人分の書類が揃う。

「実態ありとして、婚姻継続可能です」

 職員の声は、業務モードの無味無臭。
 だがその一言で、過去1ヶ月のすべてが制度の根拠になった。

「……継続でも、解消でも、ご判断はご自由に」

 自由という言葉が、これほど不自由に響く瞬間があるだろうか。

 解消届は白い。
 まだ誰の手垢もない。だが紙の上には途方にない「なかったことにする力」が詰まっていた。

 アーチャーはそれを見つめながら、自分の意志を確かめる。

 忘れていい、と思っていた。
 一度だけなら、仕事の延長で済ませていいはずだった。

 ──タクシーを割り勘して、ビジネスホテルのシーツに体温を落とすまでは。

 忘れていい、と思っていた。
 うっかりの誤登録なら、制度の反乱に付き合うだけでいいと思っていた。

 ──湯気の向こうで、誰かが「ただいま」と言うまでは。

 見慣れた部屋に他人のジャケットが掛けられ、勝手に増えた缶ビールが冷蔵庫を占拠し、鞄の音や寝息と、生活のリズムが合っていく。

 ──合理性のほうが、先にひび割れた。

「……選べよ。どっちでもいい」

 ランサーが静かに尋ねる。
 口調には余裕があるのに、目が全く笑っていないという矛盾。
 
 それが、アーチャーにはまともに刺さる。

 こいつはもう選んでいる。とっくに腹を括った声だ。

 ──じゃあ、自分は?

 合理的に見れば、解消が正しい。
 人生を戻すという行為に、責められる筋合いはない。

「いや」

 アーチャーは一度だけ息を止め、紙を裏返した。

「解消届は、出さない」

 ──出した瞬間、二年前の朝と同じ後悔を、今度は一生分やる自信があった。

 職員の声は淡々と進む。「では、このまま継続の手続きで——」

 その声を聞きながら、アーチャーは封筒を閉じた手の感覚を認識する。

 意外と、軽かった。
 選んだ未来のほうが、ずっと重かったのだ。

 横に立つランサーは驚かない。ただ、深く息を吐いた。

 たぶんそれは、息というより、「確認」だったのだろう。

 お前も選んだ、という報告と、もう問答は要らないという宣言だ。

 職員は、完全に空気になりきっていた。

 区役所を出ると、冬の空気がまっとうな温度で出迎えた。
 さっきまで肺の奥をじわじわ蒸らしていた暖房より、よほど人道的だ。

 階段を並んで降りる。
 書類は軽い。決めてしまった後のほうが、いつだって荷物は減る。

 横を歩くランサーの肩が、さっきまでより半歩だけ近い。
 二年前のホテルの白いシーツと、そこから先の沈黙。
 この一ヶ月の、マグカップが二つに増えた朝。
 全部まとめて「誤登録」のゴミ箱に放り込むには、もう手が動かなかった。

「……やっと選んだな」

 不意に落ちた声は、責めでも賞賛でもなく、単なる確認だった。

「ああ」

 それだけ答える。
 それ以上の言葉は、どれも余計に聞こえた。

 ランサーの指が伸びてくる。
 拒む間も与えず、当たり前のように手を絡める。

 区役所の窓口でも、解消届の上でも、二年前の朝でもできたはずの「拒否」を、ここでもしない。
 合理性より先に、生活が選んでしまった結果だ。

 ランサーは前を向いたまま、小さく笑った。

「二年かけて逃げ回って、決める時は一秒だもんな。手間の割にシンプルだわ」

「コストと効果が釣り合っていれば問題ない」

「なら、悪くねえ投資だろ」

 そう言って、止まらない。
 駄目を押すでも、念を押すでもなく、「決まったこと」として歩き出す速度だ。

 信号待ちで足が止まる。
 ふと振り向いたランサーと目が合った瞬間、彼はごく自然な動きで身を屈めた。

 額が触れ、唇が一度だけ重なる。

 誰に見せるでもない、ごく短い確認作業。
 それでも、ハンコよりよほど実感のある承認だった。

「……ベッドの名義だけ、あとで相談な。共有にしてくれ」

「それは役所ではなく、私の裁量だ」

「知ってる。だからお願いしてる」

 青い髪越しに見える冬空は、少しだけ色が薄い。
 カレンダーより先に、生活の方が季節を変えていく。

 年末調整の一マスから始まったバグは、
 ようやく、「自分で選んだ続き」という名前に書き換えられた。

Comments

  • わんわんお
    November 30, 2025
  • メヒカリ

    書いてくださりありがとうございます。無事に心臓が喜びで死にました。

    November 19, 2025
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