出雲口伝から語りたい

出雲口伝をベースに古代日本の神々の系譜を掘り下げていこうと思っています。

【スサノオの正体】

スサノオは徐福なのか?

出雲口伝ではスサノオ=徐福(じょふく)=ホアカリ=饒速日(にぎはやひ)であるとしています。

 

徐福は字(あざな)が彦福で別名が徐市(じょふつ)。和国に来てから福の字を好み徐福と変えたそうです。

 

びっくりする内容ですがまず徐福がどのような人間だったのかをみていきたいと思います。

 

徐福はユダヤ人?

 

『出雲王国と天皇』の中で、徐福はユダヤ人ではなかったかという記述があります。

 

徐福は最後に秦に滅ぼされた斉(せい)の王族と言われています。斉は周の軍師であった太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)(姜氏)が打ち建てた国ですが、この呂尚は出自がはっきりしません。斉の王族や秦の始皇帝ユダヤ人の子孫だと言われていたという説があります。元々「大秦」は中国語でローマ帝国を表す言葉なのでありえないこともないのかなと思います。始皇帝は同じユダヤ人の子孫ということで、徐福を信頼したのかもしれません。

 

斉には泰山(たいざん)(山東省)があり、古くから死者の霊が集まる場所とされ泰山信仰がありました。山の上で天を拝んでいたというところはモーセを連想します。

 

泰山の神である泰山府君は天界、地界、人界のみならず、冥界すなわち地獄をも司る、宇宙根源の最高神(太一)として、古来より崇められてきました。

 

この神は日本においては、スサノオ閻魔大王の侍者、牛頭天皇と同義とされています。

 

方士というのは、瞑想、占い、気功、錬丹術、静坐など、霊的な力を得ようとする修行者であったようです。

 

徐福は存在したのか

 

現在、中国では江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮の徐阜村が「徐福」の居た村であり、徐福を先祖とする徐姓一門が名乗り出て、2000年の由緒正しい系図を持つ徐氏一門が現れたことにより徐福は存在したことは間違いないとされています。

 

徐福1回目の渡来

 

『出雲王国と天皇』によると秦の統一の頃に徐福集団が3回、和国に渡来したと考えられるということです。本には以下のことが記述されています。

  • 秦の攻撃を避けて斉国の王族が亡命してきた
  • 土井ヶ浜遺跡(山口県下関市豊北町)の穴門(あなと)国(こく)に上陸したと考えられる
  • その集団の中に徐福がいたことは確かではないが、2回目以降の渡来の行動から一回目の渡航の一員だったと思われる
  • 渡来集団と出雲王国の兵との闘いとなり、攻撃に耐えかねた渡来集団はやがて江蘇省や蘇州へ帰ったようである
  • 「蘇」はイスラエルの「ス」。ユダヤ人の子孫である徐福らが住んだので「蘇」の字が地名になった
  • 徐州にも移住した可能性がある。徐州の「徐」は、斉の王族の徐氏に由来すると言われる

 

1回目の渡来については、中国の書物にも記載がないため、なんともいえないというところでしょうか。土井ヶ浜遺跡で見つかった300体の人骨(体の軸がほぼ東西になるように埋葬し、しかも頭をやや高くし、顔が海岸(中国)の方向へ顔を向けて葬られていた)は渡来系で約紀元前3世紀のものとされていますが、王族とされる徐福がわざわざ危険をおかして海を渡って来たのか?と疑問に思います。ただ土井ヶ浜に大陸から渡来した人々が住んでいたとすると、出雲王国についての話は大陸側に伝わっていて徐福はそれらの情報を元に動いていたのではないかと思います。

 

徐福2回目の渡来

 

史記』、『漢書』、『呉書』、『釈義書』に秦の始皇帝は中国を統一した後B.C.219年に山東省の泰山で封禅の儀(天下統一の業績を報告する儀式)をおこなったのですが、その時方士である徐市(じょふつ)が謁見を求め、海の向こうに仙人がいます。探してくるので、若い男女数千人を集めてください、と始皇帝にお願いし、彼らを引き連れて海を渡って探しに行ったという記述があります。

 

出雲口伝によればこの時たどり着いたのが出雲国であったということです。

 

中国の「千童鎮」(河北省滄州市塩山県南西部)は徐福が衣服や衣料、食料、船などを準備し童達を訓練した場所だと伝えられているということです。(唐の『元和(げんわ)郡県図誌(ぐんけんずし)』)そこには徐福集団の日本渡海を記念して、千童祠が建てられています。

 

河北省ということはここから朝鮮半島を経由して出雲国に渡ったのではないでしょうか。秦に敗れた後、燕・斉・趙から朝鮮半島へ逃亡する民が増加していたようです。

 

また徐福がスサノオであるとすると、『日本書紀』で高天原を追放された後、「スサノオは子のイソタケル新羅の曾尸茂梨(蘇尸茂利)(ソシモリ)に居た。スサノオが言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った」の記述があり、スサノオ朝鮮半島の関連を感じさせます。

 

若い男女数千人を求めたということは、徐福は新しい自分の国を造ろうとしていたような気がします。1回目の渡航出雲国と争いとなったことで、次はそうならないように子供たちを引き連れ自分は危険人物ではないことを装ったのでしょうか。

 

念入りにも徐福は忠実な部下を、到着の一年前に先遣隊として出雲王国に遣わし、8代目八千矛王から上陸許可を得るように命じました。彼らは献上品の青銅器と技術者を連れて行きました。先遣隊はホヒと息子のタケヒナドリでした。ホヒ一行は出雲にそのまま住み、神門臣家に仕えたとのことです。

 

この辺りは『古事記』の中の天照が使いのアメノホヒ大国主の元に遣わしたが三年帰ってこなかった・・・というところに該当するのでしょうか。

 

彼らの献上品は青銅器の打楽器「編鐘(へんしょう)」で、日本書紀には、「武日照(たけひなてる)(タケヒナドリ)命が、天から持ってこられた神宝は、出雲大社の宮に収めている」と書かれていますがこの神宝が「編鐘」で、出雲王国はこれを銅鐸につくり変えて、神宝として使用したとのことです。

 

次の記事では徐福が連れて来た少年少女達について考察します。