『超かぐや姫』━━「良さそうな要素」を食い合わせも考えずぶち込んだ「蛇足」
最初PVを見た時「これは面白そうだ」と思った。実際に見た時も「期待したほどには」面白くなかったとは思ったが「駄作」とまでは思わなかった。だが考えていくうちに、これは「良さそうな要素」を食い合わせも考えずぶち込んだ結果まさに(ラストシーンで言われる)「蛇足」ではないかという結論に至った。
「バッドエンド」なんてぶっ飛ばせ?
本作が「バッドエンドを否定している」という前評判を聞き、序盤で「かぐや」が「バッドエンド」を否定するセリフを言った時、私は正直期待した。だが本作で展開される「解決方法」はと言えば、「友情パワー」的な説得力の無いものだ。
※以下ネタバレ
「いろは」の歌がかぐやに届いた事で地球に戻ってくることになった訳だが、心理的以前に物理的に届かないはずの曲が何故かぐやの心を動かしたかと言えば、「父親と途中まで作っていた曲」を「いろはが(それまでの『現実的』姿勢を捨てて)死に物狂いで完成させたから」ぐらいの理由しか思い浮かばない。要するに「真心」「深い友情/愛情」で解決という「友情パワー」的な展開なのだ。更にいろはがロボット義体を作ってかぐやが復活する訳だが、正直ドラえもんニセ最終回的な「あーそれ百万回見たわー」的な展開としか思えなかった。と言うか、ドラえもんと違ってかぐやは元々は人間の姿をしていて、月からの宇宙船(?)で地球に来た時も人の姿を保っていたと思うのだが、それが「機械の体」で復活と言うのは「ハッピーエンド」なのか。更に言ってしまうと、「月からの使者」が来た時「仲間と共に戦う」展開がある訳だが、いろは含めて彼らが何故「かぐやが月から来た」という荒唐無稽な話を信じたのか、そして「月からの使者」が何故バーチャル空間とは言え「戦える存在」として現れたのかが全く分からないのだ。
誤解を避けるため言っておくが、私は「ご都合主義的なハッピーエンド」がダメと言っている訳では無いのだ。むしろ個人的にはハッピーエンドの方が好きだし、そのために多少ご都合主義展開があっても良いと思ってる方だ。『超かぐや姫』も単に「ご都合主義的なハッピーエンド」なだけだったら私は普通に楽しんでいただろう。だが本作は本家「かぐや姫」(竹取物語)をバッドエンドと断じ、「ビターエンド的なめでたしめでたし+スタッフロール」の中断をしてそれを否定するという展開をしておきながら、その回避策がただのご都合主義というチグハグさなのだ。
繰り返すが単に「ご都合主義的なハッピーエンド」なだけならそれはそれで良いのだ。だが「バッドエンド」を明確に否定しておいてやることが「ご都合主義的なハッピーエンド」では肩すかしというものだろう。
さらに言えば、これは単に「本作の欠陥」に留まるものでは無い。そもそも「バッドエンド的な作品」がメジャー作品にも現れ始めたのは、現実があまりに悪くなりすぎて人々が「ハッピーエンド」を素直に信じられなくなったと言うのが大きいだろう。上記記事にも出てくる『進撃の巨人』も「世相を反映している」という評が多かった。
そこで本作はそのような流れに抗い「ハッピーエンド」を目指した……と言いたい所だが、「ハッピーエンドには現実感を感じられない」という所に非現実的なハッピーエンドを捩じ込まれても「いやー、ハッピーエンド良かった。まあ現実ではこんなの無理だけどね」と更なる無力感を引き起こすだけだろう。
「難解」ではなく「混乱を起こす」展開
本作に対し好意的な人でも終盤の展開について「難解」と言う意見が少なくない。これに対し「SF的素養」「理解力」が必要という応答もあるが、それは違う。本作はそもそも混乱を起こす要素を持ってるのだ。
本作は当然のことながら「かぐや姫」をモチーフにしている。「日本の古典と最先端の(Vtuber)文化の融合」が目的の一つなのだろう。「ご都合主義的なハッピーエンド」と同じくそれ自体は良いのだ。だが本作の問題は作中で「かぐや姫」を出してしまってることだ。
恐らく多くの人はこう思っただろう。「この作品世界ではかぐや姫の物語が実際に起きていて、『かぐや』は本物の『かぐや姫』なのだ」、と。しかし終盤ヤチヨ(かぐや)が語る話は八千年前に地球に帰って来たと言うものなのだ。恐らくここが多くの人がつまづいたポイントだろう。かぐや(ヤチヨ)が元々は「竹取物語」の時代に来たという事なら多くの人はすんなりそれを受け入れただろう。だが縄文時代、「帝(天皇)」も布の服を着たおじいさんおばあさんも影も形も無い時代に来たと言うのは単に受け手に齟齬を与えるだけでなく、作中の「かぐや姫」の話はどうやって生まれたのかという疑問を湧き起こす。
本物の「かぐや」と無関係に生まれたという事なら同じ名前なのはおかしいだろう。百歩譲って「かぐや」が八千年の時の中で実は「過去の自分の話」(当時の人間にとっては未来の話)を語っていてそれが形を変え「竹取物語」として結実したという裏設定があったとして、「月からの使者」の姿を正確に絵に残せるほどに言葉だけで伝えることは不可能だろう。百万歩ゆずってそれも可能だったとし、何故それ以外のディティールが「実話」と全く違うのかという別の疑問が出てくる。
要するに、本作は「バッドエンドの否定」「日本の古典と最先端文化の融合」「SF要素」「百合」など「良さげなもの」を整合性も考えずにごっちゃ混ぜにした作品なのである。(本当の)スタッフロールの後のCパートで「蛇足ぅ〜!」というセリフがあるが、本作は「作中で本家『かぐや姫』を出す」「バッドエンドをことさら否定してみせる」などの要素をわざわざ入れたことで作品全体が蛇足になってしまってるのだ。
本作にはこれを象徴している場面がある。本家かぐや姫のあらすじ(竹から生まれた姫がすぐに成長し帝にまで求婚されるが月に帰る)は誰もが知ってるだろう。だがラストの場面はあまり知らない人が実は多いのでは無いだろうか。かぐや姫は月からの使者が来た時最初は別れを惜しむのだが、天の羽衣を着せられると感情を失ってしまうのだ。
天人がいきなりさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫の、これまで翁をいたわしく愛しいと思っていた気持ちがたちまち消えてしまった。羽衣を着たかぐや姫は憂い悩むことがなくなってしまい、そのまま車に乗り、百人ばかりの天人を引き連れて、天に昇ってしまった。
『超かぐや姫』にも羽衣を着せられたかぐやが感情を失ったような表情になるシーンが一応ある。だが「感情を失った」と明確に描かれることはない。「元ネタ」を知らない人の多くはこの場面に気付かなかっただろう。「あれほどいろはが好きだったかぐやがその感情を失ってしまった」となれば、劇的な展開になり盛り上がり間違いなしのハズだが何故それを明確に描かなかったかと言えば、いろはへの愛情すら失ったかぐやがいろはとの再会を目指すという展開ではただでさえご都合主義的展開なのが更に明白になってしまうからだろう。
結局本作は「バッドエンドの克服」など出来ていないのだ。
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いや羽衣を着せられたシーンで明確に目のハイライトが消えてるじゃん 感情を失った以外に解釈のしようがないシーンですしさり気ないシーンだとは口が避けても言えないくらいハッキリ描かれてますよ。 全部台詞で説明されないと理解できないで長文を書いちゃうならアンパンマン見とけば。 前提として…