『夢十夜』に対する私的な考察と感想(まじめ版)

皆さま、お目通りが叶い恐悦にございます。

タイトルの通り、『夢十夜』(夏目漱石)を読んだので、その考察と感想を少しばかりしたためさせて頂こうと思った次第です。

以下、既に『夢十夜』をご存じとの前提であらすじなどはなく、スッと考察を書いていってしまうので、気になる方はぜひ原作からお読みください。

青空文庫を利用すると無料で閲覧できますし、Kindleでも読めるのでおススメです。


音声情報のほうが助かるよ、という方は不肖私めが朗読させていただいておりますので、こちらもどうぞ。(※『夢十夜』の朗読は色々な方がしているので、お好きなものを聞いてください。)


それと、『夢十夜』をちょっと堅苦しくなく、面白く読み解いてみようかな、という企画を計画中なので、実現したらそちらも見ていただけたらとても嬉しいです。



【第一夜】


この話では序盤は人と人の物語のような印象を受けますが、物語中盤以降は現実ではありえないものがたびたび登場するため、一文目の「こんな夢を見た。」という点からも現実でない示唆的な物語であることは確実かと思います。


物語に登場する女はこの時代での死ぬと言うと、肺炎などの病死が多いように思えますが、死ぬように見えないということからも病死以外の死であるように考えられます。

もしくは、概念的な死であって、既に死んでいる相手の回想か、既に会話ができないような死の間際の相手に対し、会話ができたのならばという表現にも見えます。


100年の約束については人間にはほぼ到底無理な時間ですが、この物語では「待ち続けた」ということになっています。

100年の間はただ女の言うとおりに空を見上げ、寝食のことにすら言及されないことから人間でない、もしくは長時間待つ、長く感じるほどに待ち遠しくすることの比喩かと思います。


真珠貝は長い時間をかけて真珠を作る、また、星も長い時間をかけて光が人の目に届くものであり、とにかくこの話では時間の経過に重点が置かれているように思えます。


百合というものが女性に対する比喩としてよく使われるものであり、男の傍らで咲いた、そして男が接吻したという点からも、冒頭で亡くなった女性であると考えます。


これらの点から、第一夜は死に別れても、転生して再度出会う、結ばれることを願う物語ではないかと考えます。


【第二夜】

武士や侍が宗教を学び、人によっては傾倒していたという記録はよく残っているように思います。

かといって、悟れなければ侍ではない、というのはやや行き過ぎた決めつけのように感じます。

ただ、この後に分かってくるこの侍の性格や言い分からすると、和尚の言葉はそのままの意味でなく、「悟れるよう精進しろ」という発破くらいなのではないのか、というように思えてきます。


「次の刻までに悟れなければ自刃する。悟ったならば和尚の首をとってやる。」


なかなかの苛烈な侍です。悟りには程遠い執着しかありません。


悟り、全伽(座禅)ということは仏教かと思うのですが、仏教には五戒(宗教によっては八戒や十戒)というものがあります。そこには不殺生戒というものがあります。文字通り殺してはなりませんという決まり事です。破る気満々ですね。


また、悟りのために座禅を組んでいる最中もとにかく悟ってやるという執着、色々なものが気になって仕方のなさ、そして座禅は半眼と言ってあまり目を開かないという作法すら知らないことからも、この侍は教養があまりないのではないかということが予測できます。


これらの事から、第二夜は理解や知識の無さによって無為に命、ひいては重要な何かを損失するという愚かさについての話だろうか、と考えます。


この侍が決めた通りに自刃するかしないかは書かれていませんが、私は自刃するのではないかと思います。
和尚はこの侍が奮起するための態度を理解していたとしても、それを正しく察して行動できるかということは分かっていなかったのではないかという気がします。


【第三夜】

この話では最後に文化五年辰年という明確な年数が記されます。
文化五年は西暦では1808年、その100年後ということは1908年ごろの話と想定します。


その時代であっても、周囲が田んぼであり、すぐ先に森が見えるということは相当な田舎です。ということは街灯があるはずもありません。そして、子供を負ぶっていることからも、光源になるようなものは何一つ持っていないはずです。


そんな中で目が見えないはずの子供が次々と周囲について言い当てていくというのは、ことさらに恐ろしく、少し飛躍しているかもしれませんが、人ならざるものというようにも考えられます。


そもそも100年前に殺したとして、当時どれだけ婚姻や出産が早かろうと、110~120年は生きていることになるわけで、死に際の走馬灯のような夢としてもちょっと無理があります。これは死後の黄泉の世界と考えるほうが自然であるように感じました。


黄泉という想像で読んでいくと、暗く長い道を歩く、自らの罪を思い出して認めるという点からも地獄に落ちているということであり、「背中の子が急に石地蔵のように重くなった」というのも、石を背負うという地獄の刑罰と重ねているのだろうかとも思えました。


杉の木もまっすぐ伸びるという点よりも、根が深いという情念を表しそうな点や、線香に用いられるだとか、葉が針のようなので針山のようだということも考えましたが、ややこじつけが過ぎますね。


【第四夜】


物語において酒を飲んで赤ら顔の老人は福の神として書かれているような印象が強いです。


神様であれば手ぬぐいを蛇にできそうなものですが、手ぬぐいは蛇にはならず、しかし、川の中に入って帰って見つからなかったという点は人ならざる力を持っていそうにも思えます。


なんとなく登場する物事には生と死が象徴としてあるのかな、という雰囲気も漂っています。


生の象徴に読み取れるものは老人がへその奥から来たと言っていることや、手ぬぐいを蛇にするだとか、川(水)も生命の根源として表現されるためそのように読み取れそうです。


反対に死のイメージがついているものとしては、柳、蛇(白蛇だとしたら吉兆ですが、浅黄の手ぬぐいなので違いそうです。)、水から上がってこないあたりですね。


川岸に葦が茂っているという点から、葦原の中つ国(現世)を連想できそうなので、境界的な話なのかな…というのが私の考え至る限界です。

【第五夜】

第三夜、第四夜に比べると、ストレートに理解しやすいような気がしました。


ここで注目したいのが天探女です。
普通ならば「あまのじゃく」は天邪鬼と書くかと思いますが、あえて「天探女」と書かれるならば、古事記にも登場する「アメノサグメ」を指しているように思えます。古事記でのアメノサグメは女神ではありますが、葦原の中つ国に派遣された男神に対して、天の使いであるキジを射ち殺すように唆し、破滅へと導いた逸話が残っています。


そもそも第五夜は神代の頃と書かれており、馬で行かなければならない距離にいる男女の間でなぜか意思が疎通していることからも、どちらも神かそれに近しい存在ではないかと思います。また、馬があえて白いと明文されているので、この馬も神の使いとして登場しているのではないかと思います。


気になる点として、「女も馬も岩の下の深い底に落ちて行ってしまった。」とあるので、これが神代の話と考えると根堅州国(黄泉の国)に落ちたという可能性もありそうです。


男も話の流れでは死んでいるはずなので、死んで結ばれるということもありそうですが、そうではないようなので殊更に遠くへ行ってしまったという比喩なのかとも思えます。


【第六夜】

終盤までそこまで引っ掛かりなく読めるのですが、問題は最後の「運慶が今日まで生きている理由もほぼ分かった。」です。
何を分かったのかが分からないので、がんばって分かろうと思います。


護国寺の山門の仁王はまず明治期には彫られていないので、運慶か見物人のどちらかの時代がずれていることは明確です。語り手である男が明治期の男なので、作品中の時代も明治であると考えたほうが自然な気がします。
つまり、運慶と仁王だけがその時代にあわない古い時代の存在です。


男が運慶を真似て彫刻を彫るもうまくいかず、「明治の木には仁王は埋まってないのだと悟り」とありますが、これは文章通りの意味でなく、明治期にはすでに運慶のように仁王を彫れるものはいないという表現だと思います。


とすると、「運慶が今日まで生きている理由もほぼ分かった」は、実際に運慶が生きているというより、運慶の作品である仁王を見た見物人たちが運慶に思いを馳せて感心しているという解釈のほうが近いのかもしれないです。


そして、運慶の作品を通じて運慶そのものを見ている、作品がある限り作り手も生きている、というように考えたのですがどうなんでしょう。

【第七夜】

語り手と最初に話しかけた男と泣いていた女以外は恐らくほぼ異人で、とにかく語り手が孤独な状況であることが強調されている印象があります。


海や太陽、船あたりは大きく人一人が思うようにはできないものとして表現されていそうなので、運命などの比喩な気がします。


ただ、そういった大きな運命や物事の流れに対する孤立や無理解さも表れているような気もします。


甲板で話しかけてきた異人の話に耳を傾けないという点では学問に関して、サロンでの場面は教養や恋愛事というようにも見えます。


たとえ将来の先行きが分からず、秀でたものがなくとも、生きる上ではただ流されるままであってもよかったという感じでしょうか。


【第八夜】

個人的に第八夜が一番読み解けないです。
夢らしいと言えば夢らしいような突飛もない物事が連続していて、しかもそれらは非現実な形で現れたりするという点が印象的な話です。
また、夢十夜のうち、他の話とのつながりが明確に見られる唯一の話かと思います。


パナマの帽子をかぶった正太郎は第十夜に登場する正太郎でしょうし、一緒にいる女は正太郎をさらった女でしょう。だとするとこの語り手は健さんである可能性もあるように思えます。しかし、これは予測に過ぎないので、この場においてはただの語り手として考えます。


語り手が外を見た際に通りかかるラッパを吹かない豆腐屋や、支度の整っていない芸者。なんとなくどちらも未熟であったり完成していないだとか、そういった不足した状態の表現に見えます。


その後の床屋の「さあ、頭もだが、どうだろう、ものになるだろうか」に対する答えがないことや、粟餅屋の音だけで姿が見えないこと、そして数え終わらない札についても同様の表現に見えてきます。


反対に、白い男の袖の下に自転車の輪と人力の梶棒が見えますが、それがすぐに見えなくなったというのは、推進力のある進むもの、操作しうるものの象徴だとすると、それらが得られないということになるでしょうか。


最後に登場する金魚売りが動かなかったということは、金魚が売れなかったためと思いますが、金魚はそのままですでに成長している(完成している)生き物とすると、完成した状態のものは世に広まっておらず、未完で不足した状態のものであふれている、のような感じですかね…。


【第九夜】

物語ですが、記録のように細かく母の百度参りの様子が語られています。
第三者視点として語られていますが、これは当時子供であった語り手にはその時の記憶がなかったという表現ではないかと思います。


冒頭で戦争に赴いたように読める父が勝手口から出ていったという点なんですが、なぜ玄関から出て行かなかったんでしょうね。ちょっと知識が足りておらず、こういった文化や習わしがあったのかは分かりませんが、月のない暗い夜に勝手口から、というのがとても後ろ暗さのあるような旅立ちに思えてしまいます。元より戻る気が無いだとか…。あまり希望的なものを感じ取れない気がします。


母に何度となく「御父様は」と聞かれた子供は「あっち」と答えます。この辺りは親子の何気ないやり取りとも思えますが、教えてもいない「あっち」という単語を言うようになるのは結構不思議ですね。


後々神社が出てくることも考えると、7歳までは子供は神のものであるという昔の考えから、啓示的な意味を含んでいるというのも可能性としては0ではない…片手ほどの%での可能性で…。


私は夢十夜の中では第九夜が一番好きです。結末の突き放すような無慈悲さが、あまりにも現実で刺さります。


【第十夜】

至極善良な正直者と言われている正太郎は、水菓子屋で何も買いもせずに品評していたり、女を眺めるのが好きだとか、なんとなく皮肉っぽい表現に読めますね。
その後に「元来の暇人」だとか、「いくら正太郎といえど暢気すぎる」だとか、至極善良というよりも、至極暢気で軽薄無知な青年という印象が強いです。


この話は崖に行ってからがかなり難解です。飛び込めというのは度胸であったり、挑戦をしろという比喩のように思えるので、迫ってくる豚はそれを推し進めようとする困難とかですかね。


正太郎が豚を叩き落とすということから、正太郎にとってはマイナスな事柄で、それらを受け止めずにはねのけている…。そして最終的にはそれらから逃れられず、積み重なった困難の上に倒れる。そしてもう助からない、という感じですかね…。


最後に健さんがパナマの帽子を欲しがったのがいまいち謎です。パナマの帽子が紳士の正装として着用されていたという点で、冒頭で好男子とされていた正太郎は、その後の振る舞いで好男子(紳士)足りえなくなったので、健さんが好男子(紳士)としての役割を得るという比喩ですかね?


【最後に】

夢十夜という十編からなる物語は、いずれも短く読みやすいのですが、それぞれがどういった意味なのか、と考え始めるとかなり難しいなというのが正直な感想です。


比喩的に書かれているものをはじめ、当時の文化的スキーマとして登場していることもあるでしょうし、そもそも夢なのであえて突飛もなくという可能性すらあります。


それらを読み手がどう読み解くのも自由だとは思うのですが、どうせ考えるのであればできる限り書き手の意図を理解して近しい真実を知りたい、というのも読み手の心理だと思います。


詳しい誰かが発表している「夢十夜って実はこういう話ですよ!」という発表があるともちろん助かるのですが、私個人の考えでは「もしかしてこうかな?こういう逸話との繋がりがあるかも。」などとあることないこと、持っている知識の引き出しを開けたり閉めたり散らかしている時間が好きなので、今回こんな風に色々と考えてみた次第です。


作品を摂取するという行為のうち、文章を読むというのは映像を見るよりもかなり能動的で、正直かなり疲れます。近現代の文学と言っても、かなり新しいものでない限りは文体や固有名詞すら私たちの感覚から遠く、読みづらさも強いです。


なので、私程度の行動で他者に何の影響が…とも思いつつ、「きっかけにして読みました。」という言葉を頂けると一層嬉しかったです。自分が「こういう楽しみ方をしたら、指の先ぶんくらいはとっつきやすくなるかもな~」な企画をまたしたいですね。


ちなみに私は自分の考察では納得がいかないので、ちょっとデジタルライブラリ的なところで論文を読んで「ハァ~…なるほど!」というスッキリ感を得に行こうと思います。






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『夢十夜』に対する私的な考察と感想(まじめ版)|杜莎 かのめ
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