ナチスを見習った大政翼賛会
第二章日米開戦
国内の政治・経済・社会体制と外交政策の「革新」を求める動きは、昭和初期からくすぶり続けてきたが、四〇年に入って本格化する。近衛側近の有馬頼寧、風見章らは「近衛新党」を目指し、近衛は六月二十四日、「枢密院議長を拝辞し、新体制の確立のために微力を捧げたい」との声明を発表した。
陸軍も、近衛の新体制運動に期待した。ドイツ躍進の根源はナチスの一党独裁体制にあると考え、日本もナチスのような一国一党体制を敷き、日本に国家総動員体制を確立する必要がある、と考えたのである。
国内の政治・経済・社会体制と外交政策の「革新」を求める動きは、昭和初期からくすぶり続けてきたが、四〇年に入って本格化する。近衛側近の有馬頼寧(ありまよりやす)、風見章らは「近衛新党」を目指し、近衛は六月二十四日、「枢密院(すうみついん)議長を拝辞し、新体制の確立のために微力を捧(ささ)げたい」との声明を発表した。
陸軍も、近衛の新体制運動に期待した。ドイツ躍進の根源はナチスの一党独裁体制にあると考え、日本もナチスのような一国一党体制を敷き、日本に国家総動員体制を確立する必要がある、と考えたのである。
社会大衆党がまず解党して新体制運動に加わり、政友会、民政党など既成政党も次々に解散した。近衛首相を総裁とする大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が発足したのは、一九四〇年(昭和十五年)十月のことだった。
外務官僚も「皇道外交」推進を唱えた。革新派のリーダーで、イタリア大使を務めた白鳥敏夫(しらとりとしお)は、ドイツの快進撃が始まる前の三九年(昭和十四年)暮れ、「ベルサイユ体制に不満なる日・独・伊・ソの四大国が、直ちに結束して現状維持国と対等の地位に立つ」ことを説いた(「欧州の新情勢と日本の立場」『中央公論』三九年十二月号)。
特に満州事変後に入省した若手外務官僚たちは、白鳥を熱烈に支持した。牛場信彦(戦後、駐米大使)ら若手グループは、白鳥の外相就任を訴える連判状をつくるなどした。
国民も近衛の再登場を熱狂的に歓迎した。新聞各紙も「バスに乗り遅れるな」とばかり、新体制運動を支持し、三国同盟の締結を促した。読売新聞は、近衛内閣に「従来の半自由主義的な中途半端な考え方や方法では駄目だ」と注文をつけた。三国同盟が締結された当日の朝日新聞は、「いまぞ成れり“歴史の誓” めぐる酒盃(しゅはい)、万歳の怒涛(どとう)」と書いた。
内閣総辞職に追い込まれた米内は当時、知人あての手紙に「魔性の歴史というものは人々の脳裡(のうり)に幾千となく蜃気楼(しんきろう)を現わし……時代政治屋に狂態の踊りを踊らせる」と書いた。「時代政治屋」とは、近衛や松岡らを指していたのである。