【プロ1年目物語/小久保裕紀編】「プロ野球はダイエーが先頭に立ってリードする」 チームの未来に懸けた己の野球人生
ハワイでは二塁手としてプレー
シーズン前に目標を聞かれると、「打率.270」と口にしていたが、1年目の最終成績は78試合で打率.215、6本塁打、20打点と目標には程遠かった。根本監督は「キャンプから、セカンドの練習もさせていれば、(故障の)湯上谷の抜けたセカンドでもっと、出番が増えていたはず。もったいないことをした」と悔やんだが、その反省は秋に派遣されたハワイ・ウインター・リーグで生きる。内野手が4人しかいないチームで、小久保は二塁手として全試合スタメン起用される。 「日本の若手選手が球団の枠を超えてハワイで50試合やったんですけど、そこでセカンドを守らせてもらったんです。当時のダイエーのレギュラーはサード松永さん、ショート浜名さん、ファースト外国人、外野は秋山さんを筆頭に全部埋まっていた。僕が狙えるのはセカンドしかなかったので、経験のなかったセカンドを50試合守らせてもらったのは大きかったです」(ベースボールマガジン2020年11月号 1989-2004福岡ダイエーホークス王道伝説)
小久保は約二ヶ月間に及んだウインター・リーグで、打率.370をマークして首位打者と打点王、そしてMVPを獲得。現地では翌年からダイエーの監督に就任する王貞治の激励を受け、自チームのカウアイ・エメラルズが優勝マジック1で迎えた、その御前試合で決勝ホームランも放った。大きな自信と手応えを得て帰国した小久保は、翌95年には28本塁打を放ち、パ・リーグ本塁打王に輝くのだ。 王監督は就任後、3年連続Bクラスに低迷するも、球界の寝業師・根本がフロント業務に専念したダイエーは、城島健司(別府大付高)、井口忠仁(青学大)、松中信彦(新日鉄君津)らアマ球界の逸材たちを立て続けに獲得する。チームが勝てない時期、ロッカールームで王采配を批判しているベテラン選手もいたが、西武黄金時代を知る秋山幸二はその輪に加わることはなく、黙々と自分のプレーをし続けた。若手選手たちはそんな秋山を慕い、背番号1の背中を追うようになる。そして、1999年には、彼ら“王チルドレン”を中心にダイエーが初の日本一に輝くのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール