2026年02月24日

GDP統計で探る実質賃金低迷の真犯人

経済研究部   経済調査部長

斎藤 太郎 (さいとう たろう)

研究・専門分野
日本経済、雇用

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1――労働生産性と乖離する実質賃金

春闘賃上げ率が約30年ぶりの高水準となったことを受けて、名目賃金は高い伸びとなっているが、実質賃金は低迷が続いている。最近の実質賃金の減少は主として物価高によるものだが、長期低迷の背景には労働生産性が上がっていないことがあるとされることが多い。

しかし近年、「労働生産性は上昇しているにもかかわらず、それに見合った賃金が支払われていない」との指摘も増えてきた
図1 労働生産性と実質賃金の関係(時間当たり) 過去30年間(1994~2024年)の労働生産性(時間当たり)と実質賃金(時間当たり)の関係を見てみよう。一般的に示されるのは以下のようなグラフだ(図1)。

1994年を起点とした30年間で労働生産性(時間当たり)は42.2%上昇している。しかし、この間の実質賃金(時間当たり)の伸びは1.1%とほとんど増えていない。

実質賃金(時間当たり)=労働生産性(時間当たり)×労働分配率×交易条件で表される。したがって、実質賃金と労働生産性の乖離は労働分配率と交易条件の変化によって説明されるが、その要因の捉え方については見解が分かれている。すなわち、労働分配率の低下を主因として強調する立場と、交易条件の悪化を重視する立場とが存在する。

この問題を読み解く上での落とし穴は、各変数に異なる統計が用いられることが多い点にある。たとえば、実質賃金は毎月勤労統計(厚生労働省)、労働生産性(実質GDP÷労働投入量)はGDP統計(内閣府)の実質GDP、毎月勤労統計(厚生労働省)の労働時間、労働力調査(総務省統計局)の労働者数の組み合わせ、労働分配率は法人企業統計(財務省)、交易条件は企業物価指数(日本銀行)を使うことが一般的だ。これらの統計は調査対象、作成方法などが異なり、必ずしも統計間の整合性が取れているわけではない。このため、実際のデータを上記の式に当てはめると、成り立たないケースが出てくるのだ。

2――GDP統計からみた実質賃金と労働生産性

2――GDP統計からみた実質賃金と労働生産性

このような問題を回避する方法は、上記の式の変数を同一の統計とすることだ。ここで、全ての変数をGDP統計の項目に置き換えてみる。

具体的には、以下とする。

実質賃金=実質雇用者報酬(名目雇用者報酬÷家計消費デフレーター)
労働生産性=実質GDP÷(雇用者数×労働時間)
労働分配率=雇用者報酬÷名目GDP
交易条件=GDPデフレーター÷家計消費デフレーター
図2 労働生産性と実質賃金の関係(時間当たり) これにより変数間の整合性が保たれ、実質賃金(時間当たり)の変動を労働生産性(時間当たり)、労働分配率、交易条件の変化によって正確に要因分解することが可能となる。

GDPベースの実質賃金(時間当たり)と労働生産性(時間当たり)の関係は図2のようになる。過去30年間の労働生産性の上昇率は25.3%、実質賃金の上昇率は13.2%である。実質賃金の上昇率が労働生産性の上昇率を下回っている点は図1と変わらないが、労働生産性の上昇率は図1よりも低く、実質賃金の上昇率は図1よりも高い。この結果、両者の乖離は図1よりも小さくなる。

3――実質賃金(時間当たり)の低迷は交易条件悪化の影響が大きい

3――実質賃金(時間当たり)の低迷は交易条件悪化の影響が大きい

図3 労働分配率の比較(GDP統計vs法人企業統計) GDPベースの乖離が小さいのは、GDP統計の労働分配率、交易条件が一般的に用いられるものと異なった動きをしているためだ。たとえば、法人企業統計の労働分配率は景気循環による振れを伴いつつ基調としては低下傾向が続いているが、GDP統計の労働分配率は横ばい圏で推移している(図3)。法人企業統計の労働分配率は1994年の70.3%から2024年には60.3%と30年間で10%ポイント低下しているが、GDP統計の労働分配率は年によって変動はあるものの1994年が50.5%、2024年が49.5%とほとんど変わっていない。

交易条件についても、企業物価指数(輸出入物価指数)から算出された指数に比べてGDP統計の交易条件は悪化幅が小さい。
図4 時間当たり賃金を押し下げているのは交易条件の悪化 一般的に用いられる統計に比べて、GDP統計の労働分配率や交易条件は低下幅が小さいことから、実質賃金(時間当たり)の上昇率は労働生産性(時間当たり)の上昇率に近くなっている。

過去30年間の時間当たり実質賃金(時間当たり)の変動を要因分解すると、労働生産性(時間当たり)の上昇が22.5%押し上げている一方、労働分配率の低下が▲1.7%、交易条件の悪化が▲8.5%の押し下げ要因となっている(図4)。

4――実質賃金(一人当たり)の低迷は労働時間減少の影響が大きい

4――実質賃金(一人当たり)の低迷は労働時間減少の影響が大きい

図5 一人当たり賃金を低下させているのは労働時間の減少 前述したとおり、GDPベースの時間当たり実質賃金は過去30年間で13.2%伸びている。ただし、筆者がより深刻だと考えているのは、時間当たり実質賃金に労働時間を掛け合わせた一人当たりの実質賃金がGDPベースでみても長期にわたり低迷していることである。

一人当たりの実質賃金は過去30年間で▲1.5%と全く伸びていない。これは、労働生産性(時間当たり)の上昇が主として労働時間の削減によってもたらされているためである。一人当たり実質賃金の低下に最も大きく寄与しているのは、労働時間の減少で▲13.9%と、交易条件悪化の影響を上回る大きさとなっている(図5)。

5――付加価値の拡大を伴った生産性向上が重要

5――付加価値の拡大を伴った生産性向上が重要

もちろん、GDP統計だけを使った分析にも問題はある。たとえば、実質賃金は雇用者報酬を用いたが、雇用者報酬には賃金・俸給以外に雇主の社会負担が含まれる。また、実質GDPには雇用者以外の個人事業主が生み出した付加価値も含まれる。

それでも、異なる統計を組み合わせた場合に生じる整合性の問題と比べれば、GDP統計に基づく分析は、実質賃金の変動要因を一貫した枠組みで捉えられるという大きな利点を持つ。少なくとも、労働生産性、労働分配率、交易条件のどの要因が実質賃金の押し上げ、あるいは押し下げに寄与してきたのかを定量的に整理する上では、有効なアプローチと言えるだろう。
 
GDP統計を用いた実質賃金低迷に対する筆者の解釈は以下のとおりである。

過去30年間、労働生産性(時間当たり)、実質賃金(時間当たり)ともに一定程度伸びているが、交易条件の悪化に伴う海外への所得流出によって実質賃金(時間当たり)の伸びが抑制されている。GDP統計から判断する限り、労働分配率の低下による賃金の押し下げは小さい。さらに、労働生産性(時間当たり)の上昇が付加価値(実質GDP)の拡大ではなく、主として労働時間の削減によってもたらされているため、一人当たり実質賃金は全く伸びていない。労働生産性(時間当たり)が向上したとしても、一人当たり実質賃金が伸びなければ、個人消費が増えず、経済成長率も高まらない。

働き方改革による長時間労働の是正は重要だが、それが付加価値の拡大を伴わない形で進めば、結果として一人当たり賃金を押し下げかねない。就業調整の解消などによって労働時間の減少に歯止めをかけ、付加価値の増大を伴う形で労働生産性を高めていくことが、日本経済が長期停滞から脱するための鍵となろう。

本資料記載のデータは各種の情報源から入手・加工したものであり、その正確性と完全性を保証するものではありません。
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(2026年02月24日「基礎研レター」)

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