【今なぜ台湾で「懐日映画」が大ヒットするのか】
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151202-00094829-toyo-int&p=1
東洋経済オンライン 12月2日(水)8時0分配信
 台湾で今年最も話題を集めた映画の一つが、終戦後に台湾から日本に引き揚げた人々を追ったドキュメンタリー映画「湾生回家」である。
 「湾生(わんせい)」とは、戦前、台湾で生まれ育った日本人のことを指す。映画の日本語タイトルは「故郷-湾生帰郷物語」。ドキュメンタリーとしては、興行収入1億円を超える台湾で異例のヒットとなり、来年には日本でも公開される予定だ。
 この映画は、「回家」という言葉が示すように、湾生たちは日本に帰った後も、忘れようとしても忘れられなかった「台湾=故郷」に、戦後70年を経て、深い感慨とともに戻っていく物語を描く。映画のなかでは、高齢に達した湾生たちが、それぞれの「故郷」で懐かしい人々や景色と再び出会い、台湾への愛惜や戦後の人生を語り尽くすところが見どころだ。
■ 「懐日ブーム」を担うのは20代、30代
 なぜ、湾生たちを取り上げた映画が台湾でヒットしたのか。それは、近年台湾で広がる「懐日(日本を懐かしむ)」ブームと深く関係している。
 台湾には、 1895年から 1945年にかけての日本統治時代の多くの建築物や産業遺跡が残っているが、これらの保存・再活用を通して、「日式」を台湾に残そうという取り組みが各地で活発化しているのだ。
 昨年は日本でも公開された、戦前の日本統治下の台湾から高校野球・嘉義農林チームが日本本土の甲子園に出場し、準優勝する活躍を描いた映画「 KANO」も大ヒットした。台湾には、戦前に日本語教育を受けた人々もいるが、いまの「懐日」ブームを担うのは20代、30代の若者だという点が特に興味深いポイントだ。

 私は映画「湾生回家」を台北市内の映画館で見たのだが、観客の年齢層が意外に若いことに驚かされた。隣に座った20代の女性は、映画の最初から最後まで、涙をハンカチで拭い続けていた。
 「湾生回家」は一カ月以上も上映が続くという、台湾では珍しいロングランとなり、私が見に行った日も平日の午後というのにほぼ満席。11月21日に受賞発表式があった台湾アカデミー賞「金馬奨」でも最優秀ドキュメンタリー作品にノミネートされた。映画と同じタイトルの書籍も5万冊を売り上げ、「湾生」はにわかに台湾で注目される存在になった。
 ドキュメンタリー作品は、実は台湾では根強いマーケットを持っており、しばしばドキュメンタリーがロードショーの映画館で上映され、「湾生回家」のように億超えのヒットとなることもある。台湾の人々が社会問題に対する高い関心を持っている背景もあり、また、優秀な人材がドキュメンタリー界にひしめいていることも関係しているようだ。
 こういった環境が「ドキュメンタリーは単館上映」と相場が決まっている日本といささか違うのは確かだが、いずれにせよ、「湾生回家」は娯楽性とメッセージ性を兼ね備えた優れた作品だと高く評価されている。
■ 戦後70年の節目に、新たに発掘された価値
 湾生とは、どういう人々なのだろうか。
 敗戦によって日本は台湾の領有権を放棄し、中華民国政府は日本人(当時台湾では内地人と呼ばれた)を全員、日本に帰す方針をとった。1949年までに日本人の帰還事業は完了。当時、台湾から引き揚げた日本人は軍民あわせて50万人と言われる。台湾生まれではなくても、台湾で長期にわたって少年期や青年期を過ごした人々も湾生である。
 「湾生回家」の作品の価値は、激動の歴史を歩んだ台湾の近代史のなかで、「台湾から日本に戻ったあとも、台湾を忘れず生きてきた」という湾生の物語を、戦後70年という節目に新たに発掘したところにあるだろう。
 台湾社会のなかで、1945年以降に台湾を去った日本人たちが、これほど台湾を深く懐かしみ、思い続けたことは、これまでほとんど語られなかった話だった。そればかりでなく、むしろ日本人は「台湾を捨てた」と広く受け止められてきた。

 李登輝との対談で知られる司馬遼太郎著「台湾紀行」では、司馬遼太郎が、台湾である老婦人から「日本は台湾を二度捨てた」と詰め寄られ、答えに窮したところが描かれている。私自身、台湾で暮らしている間に、何度か高齢の方々にそう言われ、心のなかに罪悪感が残った記憶がある。
 二度捨てた、というのは、1945年と、1972年のことだ。前者は日本の敗戦による台湾の放棄、後者は日華断交である。前者も後者も、日本にとっては、かなりの部分、自力ではどうしようもないものだった。
 前者については降伏の条件として台湾放棄を約束させられた。後者もまた、日本の国益のため、世界の潮流に乗り遅れないよう、やむを得ない判断だったと、いまからすれば言うこともできるだろう。しかし、台湾にとってみれば「捨てる」という言葉で言いたくなる気持ちも理解できる。
■ 歴史のなかで忘却された、湾生たちの「人間の歴史」
 終戦当時、台湾にいた日本人のなかにもいろいろな考え方があっただろうが、「台湾を離れたくない」という気持ちでありながら、国家が定めた運命によって無理矢理台湾から引き離された人々がいたことは、この作品を見れば十分に伝わってくる。
 こうした人間レベルの関係は、戦後の日台関係のなかで政治的に隠されてきた部分がある。台湾では国民党の「中国化教育」によって日本への思いは「皇民意識」として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。
 その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの「人間の歴史」までが忘却され、軽視されてきたのである。
 しかし、台湾では近年、「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、その分、台湾へ向ける人々の郷土愛が盛んに強調されるようになっている。「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンは、もはや独立志向が強い民進党支持者だけでなく、国民党の候補者も語らなければ選挙に勝てない状態だ。その意味では、この湾生回家のヒットは「日本人も愛した台湾」という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう。

 記憶は環境によって育てられる面はある。台湾における日本時代への懐かしみは、国民党の苛烈な統治弾圧が強化したものであろう。
 日本での湾生たちの台湾思慕も、敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはずだ。戦前の台湾の経済水準は、日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができた。日本に戻った「湾生」たちが台湾での生活をより一層懐かしんだことは疑いようがない。
 だが、やはり重要な問題は、人間にとってのアイデンティティは、必ずしも教育やイデオロギーだけで決まるものではなく、個々人が抱いている実体験によってしか本当の意味で形成されないということだと思う。
■ 他人に語れない「台湾の私」を抱えて生活してきた

 映画のなかの印象深いセリフに「(湾生たちが育った台湾東部の)花蓮のあの自然、景色をそのまま日本に持って帰りたい」という言葉がある。彼らには、そんな気持ちにさせられる景色は花蓮以外に存在しないだろう。そこに経済的豊かさがあろうがなかろうが、国籍が日本であろうが中華民国であろうが、それはひとりの人間にとって絶対的な体験なのである。
 映画で湾生たちは、口々に「私の故郷は台湾」と語っていた。そして、戦後の日本でずっと他人に語れない「台湾の私」を抱え込んで生活してきた。その感覚を映画の主人公のひとりである老婦人は「自分がいつも異邦人のような気持ちだった」と明かしている。
 「湾生回家」は、そうした湾生たちの思いを、いまを生きる台湾の人々に「懐日」というトレンドのなかで、より深く理解させ、共感を得られたからこそ、ここまでの大ヒットになったに違いない。

野嶋 剛
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今の日本はにわか「台湾ブーム」と言いましょうか、東日本大震災で台湾の存在がクローズアップされ、反日国家・南朝鮮への嫌韓との対照として「親日の国・台湾」がよく取り上げられるようになりました。
今まで台湾が「どこにあるのか」も知らない人の方が多かった日本での台湾認知度の向上はとても嬉しいものがあります。
ただ、台湾の「日本時代」への捉え方を「ブーム」と呼ぶのはいささか単純過ぎると思いました。

この記事を書いた方は台湾や支那、香港に留学されかなりの知識のある方のようですが、多々突っ込ませていただきたい部分があったので長文書きます。

>近年台湾で広がる「懐日(日本を懐かしむ)」ブームと深く関係
>いまの「懐日」ブームを担うのは20代、30代の若者だという点が特に興味深いポイント

    ↑
ブーム」という言葉にはものすごい違和感があります。
ブームという一過性のものではない、台湾という国の歴史の一部に「日本」が存在し、台湾人が台湾の歴史を知る上で決して外せない歴史の「一要素」となっているからなんですよね。
だから、日本統治時代の建物だけでなく、オランダ、スペイン、清の時代の建物なども大切に保存が進んでいますから。別に「日本」だけが特別じゃありません。すべて「台湾の歴史」なんです。

ただ、日本時代が一番近く、かつ現代の台湾の姿を決定付けた時代だから、たった50年の歴史でも重みがある。
だからブームではなく、今後台湾の歴史を振り返る度に必ず振り返る部分、それが「台湾における日本時代」という「台湾史」そのもの。
湾生は、日本人でありながら台湾人と「台湾を共有」できる存在であり、かつて皆同じ「台湾生まれの日本人」だった過去があるから特別に理解し合える部分があると私は考えます。

>台湾アカデミー賞「金馬奨」でも最優秀ドキュメンタリー作品にノミネート
    ↑
台湾人にどんなに人気があり指示されても、それが台湾の歴史であっても、「日本」が関わると決して受賞はできない。ただノミネートはして台湾人のご機嫌を取る、なんともセコい映画奨なんですよね・・・

>台湾の人々が社会問題に対する高い関心を持っている背景
    ↑
日本人は戦後「愛国心」を持たせない教育で「国家」という枠組みを嫌悪もしくは関心を持たないようにGHQと日教組によって教育されてきましたから。戦後戦争を知らない日本人世代には台湾人がなぜここまで政治や社会に関心を寄せるのかは理解しがたいでしょう。

そこには「族群」闘争があり、政治と族群が切っても切れない関係になっているからというのもありますね。
単純に族群を考えると、本省人も外省人も「漢族」であり、後は台湾原住民の各グループということいなるのでしょうが、この「漢族」グループが厄介なわけで。今はそういったかつての枠組みを越えた「台湾人」になろうとする若い世代にとって、歴史の再確認として日本時代の情報は不可欠です。

日本時代に生まれて戦後の中華民国のあまりの民度の低さに呆然とし、「民度の高い人間が民度の低い人間に統治される屈辱」を味わった世代は、どうしても外省人を受け入れられない人もいる。そんな外省人によって自分たちは「日本の奴隷教育を受けた売国奴」のレッテルを貼られ、日本時代のことは何も話せなくなった時期があり、「歴史の断絶」が台湾にはありました。台湾での歴史は無視され、支那本土の歴史のみが自分たちの歴史であると強要された時代。
その台湾歴史の断絶を利用して外省人は徹底して日本を「悪」とし、日本「占領」時代に台湾は徹底的に搾取されボロボロにされたと教育されてしまった世代が続きます。
そして現代はそういった各族群の「偏見」から解き放たれ、客観的な「台湾としての歴史」が求められ、教育され始めてきた。
しかし国民党政権が返り咲いたことにより、再び「歴史の歪曲」が始まろうとしている。
そんな中、台湾生まれの「日本人」が、戦後70年経っても生まれ故郷としての台湾を思い続けている、変わらず台湾を愛し続けていた。それが台湾人には知られていなかった「歴史の一部」として共感を得たのではないでしょうか。まあこればっかりは当の台湾人に直接聞かないと真相は不明ですね。
 
>日本人は「台湾を捨てた」と広く受け止められてきた。
>司馬遼太郎が、台湾である老婦人から「日本は台湾を二度捨てた」と詰め寄られ
>二度捨てた、というのは、1945年と、1972年のことだ。前者は日本の敗戦による台湾の放棄、後者は日華断交

    ↑
よく聞くフレーズではありますが、実際には「日本が捨てた」のではなく、敗戦によりアメリカから無理やり放棄させられた後、中華民国が接収・占領しに来た際に、台湾人がアメリカに日本のままでいたいと請願することなく両手を挙げて「祖国復帰」を喜んだ=「台湾人が日本を捨てたんです。

これは、映画で取り上げられている「湾生」やこの筆者が台湾で出会った日本語世代のご老人の親世代がしたことで、子供である人たちにとっては「捨てられた」という思いの方が強いとは言えますが、事実は異なります。

客観的に様々な文献を読めばおのずとわかることですが、日本人にはいつも自分が加害者、被統治者である台湾人は被害者であったという概念が強すぎてそう考えるのも無理はありませんが事実は違います。

「日華断交」は近代における国家外交として当時では当然だったと言えるでしょう。別に捨てるも何もありません。
日本が国連に残れと助言したことを聞き入れずに自分の面子だけで脱退した蒋介石の愚かさを非難すべきです。

>国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの「人間の歴史」までが忘却され、軽視されてきた
    ↑
意味不明・・・
国民がいるから、国家がある。国家の領有が変化すれば、国民の国も変わる。別次元で語るものではないと思いますが。。
そして「湾生」の場合は移民でなく、日本「国内」の移住者です。ただ、その国内が戦後海外になってしまい、退去を強いられて元の場所に戻らざるをえなかった。しかも自分の意志とは関係なく全財産のほとんどを残して、ということでしょう。
「湾生」の歴史は別に忘却されていません。戦後、自身の湾生の歴史を自費出版などで書籍化している方もいらっしゃいますし、台湾に戦後国交回復して往来ができるようになって何度も訪れている人が大勢いらっしゃる。単に日本では朝鮮半島ほど大きく取り上げられないだけであって、そういった交流は昔から続いているんです。
台湾に一時的に駐在していた内地人の方が楽しそうに台湾での思い出を話してもいますし、誰も忘れていないし、虐げられているわけでもない。ただ、国家という枠組みで見るとそう感じるのか?

>敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはず
     ↑
引揚者が受けた差別的視線とはどのようなものなのか言及されていないので何ともですが、そこまで言うならしっかり例を上げるべきでしたね。
差別というよりは、そもそも台湾に移住を決めた人の多くは「スネに傷持つ」人たちであり、貧しさから、借金苦で、一攫千金を夢見て、食いぶちがなくて、などの理由で日本各地からやって来たそうです。
内地を捨てた人たちという目で戦後見られたのかどうかはわかりませんが、何かはあったのかもしれませんね。

台湾は日本の地方都市と比べて全体的に遥かに近代化していたことは事実ですから、かつての地元に帰って衝撃を受けても無理はなかったかもしれません。
しかし全財産を持って移住した台湾で、そこで長年築き上げてきた全財産を今度はほとんど持ち出すことができずに内地に強制的に帰された後の苦労は並大抵ではなかったことは、湾生の書籍を読むと痛いほどわかります。

>「(湾生たちが育った台湾東部の)花蓮のあの自然、景色をそのまま日本に持って帰りたい」
     ↑
この言葉の「重み」が、この記事では全く伝わってこないんですよ。

私はまだこの映画を見ていないので映画の感想は述べられませんが、東台湾で生まれ育った「湾生」は、西台湾の「湾生」とは比べ物にならないくらいの苦労を親の代でしている。だから土地への愛着が全くその比ではない。正に命がけの移住、そして荒地や山地の開拓が待ち受けていたんですから。
「自然」といえば聞こえがいいですが、その自然が牙をむいていた時代に親は移民している。ようやくまともに暮らせるようになったのは十何年も後の話です。多くの移住者が命を失いました。そして東台湾は西台湾では考えられないほど内地人=日本人、台湾原住民、漢族が協力して作り上げ生きた土地だから、特別なのです。

東台湾の台湾原住民の子孫が日本時代をどう捉えているか、最近出版された本で興味深いものがあったので別途ご紹介したいと思います。『セデック・バレ』で老年のモーナ・ルダオを演じた林慶台牧師の書籍です。現在カリフールでも販売されていて20%オフで購入できてお得です。興味のある方は是非!(正式な日本語訳が欲しいくらいです)

>「湾生回家」は、そうした湾生たちの思いを、いまを生きる台湾の人々に「懐日」というトレンドのなかで、より深く理解させ、共感を得られたからこそ、ここまでの大ヒットになったに違いない
     ↑
トレンド=流行という軽い言葉で表現されるようなものでは無いと私は思うので、これにも物凄く違和感を感じます。
台湾人は日本統治時代が始まった際、祖国である清国に全財産(土地などは処分して金に換えることができた)を持って帰ることが許されていました。しかし、先祖代々が苦労して開拓した土地(西台湾~一部は原住民から騙して奪った平地もある)を放棄することができず、やむを得ず台湾に残った人々が大勢いた、それが本省人と現在呼ばれる人たちです。
しかし、「開拓した土地」を自分の土地と言うのなら、日本人は東台湾を「日本の領土」と呼ぶことができるくらいの貢献をしているんです。そういった思いが、おそらくこの映画には詰まっていたのではないでしょうか。
見てないから深くは言及できませんけど。

日本人が開拓した土地を「奪い」、その上でのうのうと生きて搾取しまくった外省人と、その外省人の手先となった一部本省人が、私は大嫌いです。

日本が開拓した土地が無残な扱いを受けたり、きちんと活用されていなかったり誤解を受けるような扱いをされていると無償に腹が立ちます。そして先人たちの苦労を思うと涙が出てきます。

しかし、今は台湾ですから。
台湾人のすることを黙ってみているしかありません。余計なおせっかいはしません。お金を寄付して「神社」を再建する日本人もいて素晴らしいですが、人それぞれの思いがあるので否定はしません。
日本人がかつて作ったものでも、それは台湾のものであって今は日本のものではない。わかっていても台湾人が台湾のものだと認め台湾人自身で立て直さなければ、大切にしょうと思わなければ意味がないと思うのです。自分自身で自分の国を見つめ愛さなければ意味が無いでしょう。破壊したければ破壊すればいい。でも、それでは国の歴史を紡いでいく事はできないことを自分たちが学ぶべきなんです。

東台湾に移住した内地人がどれほどの苦労をして開拓していったのか、花蓮や太魯閣、台東がどれほど厳しい環境だったかを少しご紹介します。(前にも書いて重複している部分もあり)

知られざる東台湾湾生が綴るもう1つの台湾史より
“(オランダ、スペイン、鄭時代、清国)こららの外来政権は、日本時代を除きその何れもが統治の重点を西部と北部に置き、難治の東部は施政の外におき放任していた。そもそも中国大陸から入植した者は中央山脈が暴風雨の来襲を遮ってくれる西部を選び、厳しい自然条件の東部には移住しなかった。
 そんな東台湾にも、1800年前後から進取の気性に富む一部の者が入植し始めた。いわゆる第2移住である。しかし難を冒して入植しても行政の恩恵を受けられず、お互いが支えあって生きるより外なかった。その結果、台湾が日本の領土になった頃でさえ、全島312万人のうち東部には5万人足らずの人口しか住んでいなかった。”p10

昭和47年、日本と中華民国の国交が断絶された。(中略)しかし、国交が断絶されてもそれをカバーをするかの如く全島的に台湾の会や同窓会が発足し、日台親善と交友の場は一層深まるようになった。”P18

“東台湾の開発を長いあいだ妨げていたものは地理的事情と治安問題に加え、風土病なかんずくマラリアの暴威だった。当時マラリアは死亡率の高い恐ろしい病気だった。(中略)蚊が媒介だから蚊帳を吊って防いでいたが、夏は耐えきれない程の暑さだった。病に罹るとガタガタ震え、40度の高熱となり3,4日悪寒と高熱を繰り返し、赤血球が破壊され体力が衰え労働に耐えられなくなる。当時花蓮港には製氷所がなく、基隆から1貫目(3.75キログラム)80銭で取り寄せるので、氷代が高く、折角の貯金を使い果たし、内地に帰るものがでるという悲惨な状態だった。この高価な氷代は梅野清太が大正11年電気会社の付帯事業として利益を度外視して製氷事業を起こし、1貫目20銭で供給するようになって多くの人に喜ばれた。特効薬はキニーネで、政府は無料で配布していたが、連続服用すると内臓を冒し黒い小便が出る黒水病になり、脾臓、肝臓が膨れ死亡率60%と手におえない病気で、内地から移住してきた人たちを最も悩ませたのはこの恐ろしいマラリアだった。”p202

“マラリアのほかにチフス赤痢などもあったが、その1つにツツガムシ病があった。ツツガムシ病は鼠族の耳などに寄生する微生物の「赤虫」によって感染する。「赤虫」は赤い色をしていて種類が多く、この小さなダニが湿地や草叢にひそみ、皮膚の柔らかい所に食い込み、40度以上も発熱を起こし、命を危うくする。
 ツツガムシの研究で忘れてはならないのが羽鳥重郎医学博士である。大正3年のタロコ大討伐にバラトン方面警察隊の総督府防疫医官として従軍し、ツツガムシによる兵士の死亡が多かったことから、除隊後も花蓮港に留まり、生涯をかけてツツガムシの研究に取り組み、多くの命を救って、住民に「ツツガムシ博士」「風土病の救世主」とよばれ、感謝された。”p203~204

“筆者は子供の頃、波が荒くて入れん港、米がまずくて食われん港、住めば都よ帰れん港と言っているのを聞いていたが、この言葉のなかに昔の花蓮港のイメージがよく表現されている。波の荒いのは花蓮港地方だけでなく、台東に至るまでの太平洋沿岸は全て深海となって続き、新港を除いて天然の良港はなかった。だから波浪の高い日には船の乗客は花蓮港の土を目の前にしながら上陸できないことがあり、皮肉って一たび入ると帰れん港と冗談を言う人もいた。また米がまずく九州からきた人の訛りで「食われん港」ともう1つ皮肉っていたが、たしかにそれが東台湾の実態だ。しかし、そんな悪条件の数々を克服して、ついには安住楽土の理想郷の住めば都よ帰れん港」に作りあげたのである。”p206

“内地からきて、熱暑の続く南国に腰を下ろした人たちは当初、飲料水もなく甘蔗だけの収入では生活できず、農民が米を買わなければならないという惨めな状態で、貯金どころではなかった。その上、七脚川暴動の直後で、山麓地帯ではタイヤル族がアイ勇線を越え侵入してくることがあり、突然警報が鳴ると、一斉に鍬を捨てて叢の中に潜り込む。すると突然毒蛇に咬みつかれたり、さらに、マラリアを媒介するアノフェレスに刺され、追い払っても、小さなツツガムシが体の柔い皮膚に侵入してくる。日々この4つの危険につきまとわれ、文字どおり死と隣り合わせの開墾だった。
 もう1つは、台風の恐怖である。東部は台風銀座といわれ、フィリピンから毎年台風が北上し、一夜にして家屋、農作物が目茶苦茶にされる。大正元年9月の如きは、移民後3年たって折角建設した240戸のトタン屋根が吹き飛ばされた。家財道具や内地から持ってきた薬衣類も全てが豪雨にさらされ、着のみ着のままの姿になるという大きな損害を受けた。この時倒壊しなかったのは僅か3戸だけという記録が残っている。台風の後は赤痢伝染病が流行し、死亡者が続出し、中には医師に手を握ってもらえぬまま息をひきとった者もおり、まるで生き地獄のようだったと記録されている。また倒壊した穴蔵のような中で、塩も味噌醤油も切れ、栄養不良となって夜盲症になる人が増えた。そのみじめさは豊田、林田を始め、東台湾の移民村は同じ経験をした。
 それでも移民は歯を食いしばって堪え忍び生き抜いた。こうして農民たちが孜々として努力した結果、農村の起訴が確立”p225

“花蓮港とは名のみで、港の設備は何もなく艀が横づけされ、大きなうねりに乗ってそれに飛び移るのである。(中略)総督府から簡単な移民用の家が与えられたが、土地は未開墾の原野で人の背丈もあるコワチンの密生林を切り倒し、石塊の多い河原ヘドロ状の湿地帯を耕すわけで、その荒々しさに度肝を抜かれて帰国した人もいたほどであった。熱帯、亜熱帯の自然の厳しさは内地の比ではなかった。母は当時のことを「焼けつくような太陽の下で、粗食に耐え、歯をくいしばって『一鍬一鍬、今日一坪、明日一坪』と粘り強く頑張ったものよ』としみじみ話をしてくれた。毎朝4時、暗いうちに起きて星がまたたく夜まで働いた。”p236~237

“上陸するには非常な危険を伴い、その光景は花蓮港名物の1つになっていた。まず母船から直接上陸できる施設がないので数百メートル沖に停泊させ、艀にたよっていた。母船から艀舟に乗り移るときが危険で、2,3人ずつ飛び移るのであるが、大きな波のうねりをコントロール出来ず、タイミングと目測を誤ると海に落ち、鱶の餌食となってしまうのである。”p269

長くなったので、とりあえずここまで。




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