新入社員ランサーくんはエミヤ先輩と出会う
現代パラレルサラリーマンパロ。弓と槍が好きすぎて、平和で胸が痛まない世界で、二人が喧嘩しつつも仲良くなっていくところが見たくて描きました。今回は両片思いの出会い編です。
初めての2次創作テキストなので緊張しています。
気持ちは弓槍ですが、エッチなシーンは100年経っても出てこなさそうなので、お好きに解釈してお楽しみください。
4月30日追記
思いのほかたくさんのいいねやコメントをいただけて、恐縮しています。続きますので今後とも暖かく見守っていただけると幸いです。
7月29日追記
後半に連れて普通にエッチなシーン出てきます。すみません。キャプション読み直して自分でびっくりしています。
1から5話は左右決まるような話はありません。
10月02追記
久しぶりに読み直したら文章が拙いどころの話ではなく大幅に加筆修正しました。内容は変更ありません。
読んでくださった皆様の心の広さに感謝しております……
20190323
20190224春コミにて本で発行しました。通販始まっています。
【通販】
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── おそらくこいつも敵だ。
それが、初めてエミヤと対峙したランサーの第一印象だ。
「初めまして、クー・フーリン。今日から君のメンターを務めるエミヤだ。当面、君には同じチームで私の業務を手伝ってもらうことになる」
人の気配が途切れないオフィスの執務室で、ランサーの前に姿勢よく立ち、『エミヤ』と名乗った男は何の感慨も気負いもなく、無表情のまま、低いがよく通る声で淡々と自己紹介をした。
浅黒い肌、丁寧に撫で付けられた白い髪。どう見ても日本人ではないことはわかるが、顔立ちからは国籍がわからない。
北欧出身のランサーも身長は180を超える恵まれた体格だが、エミヤも大概に身長が高い。目線の高さが変わらないランサーは感じないが、たいたいていの人間は威圧感を感じるのではないかと、ランサーは推測した。
── 愛想よくすれば女にもてそうな美丈夫だというのに、この不愛想さはどうだ。それとも、俺が相手だからこんな態度なのか?
判別しかね、ランサーは観察を続けた。
きちんと手入れされたシワのないスーツや、パリッと仕上げられたシャツ、ぴかぴかの靴。それらのディテールからはこの男の几帳面さを感じさせる。
── 几帳面ということは、裏を返せば繊細ということだ。強く出ることができずに、厄介事を押し付けられたというところか。内心は面倒だと思っているから、表情が硬いのかもしれないな。とはいえ、当面はこの男しか足がかりがない。愛想良くしておくに越したことはないか。
顔の造形について、控えめに言ってもモデル並だと評価されている事をよく自覚しているランサーは、とびきり人懐こく、目を細めて笑ってみせた。
「新卒入社のランサーです」
しかし、眼前の男はランサーの笑顔を見て、胡散臭いものでも見るように眉間にしわを寄せた。
── こっちはわざわざ全力で笑顔作ってんだ。少しくらい歩み寄ってもいいだろうに。
そんな心の声はおくびにも出さず、ランサーは挨拶を続けた。
「よろしく。エミヤ先輩。日本の事、教えてくださいね」
ランサーが今日から働く会社は、日本の流通で大きなシェアを誇る、アイルランドに本社を持つ、外資系の商社だ。
ランサーはこの会社に新卒として採用され、先週から勤務を始めたことになっている。しかし、それは表向きの姿で、本来の目的はアイルランド本社の執行役員である兄から依頼された『現地視察』を行うことだ。
「日本という場所は独特な文化がある。そういう目に見えなものは、一緒に働いて理解するのが1番だ」
誰もいない10人用の広い会議室に二人きり。若くして本社役員を務める双子の兄のキャスターは、ランサーに、日本支社への新卒入社を依頼した。
「めんどうくせえなあ。そんなの理解しなくても、現地人でうまくやってんならいいんじゃねーの?数字さえ上がればよ」
ランサーが眉間に皺をよせ、嫌そうに口元を歪めると、キャスターは柔らかく苦笑した。
「そう言うな。面倒くさい頼み事をしていることは重々承知している。代わりにお前が俺に頼みたいことがあるならば、トレードしてやるぞ。なんでもいい」
条件もつけず、交渉すると言い出すくらい、このミッションは兄の中で相当重要であるらしい。頭の中の欲しいものリストに思い巡らせたが、今欲しいものは特におもいつかず、貸しを作っておけばよいと判断し、ランサーは「思いついたら頼むわ」と答えた。
「悪いことばかりじゃないさ。大雑把なお前も、日本人の繊細な気質が身につくかもしれないぞ?禅でも習って落ち着いた人間に生まれ変わってこい」
見た目も中身も自分とそっくりな、決して繊細な気質ではない長兄は片目をつむってにやりと笑った。挑戦的な赤い瞳は、鏡をのぞいてる気分になるほど自分とよく似ているとランサーは思った。
「だったらお前が行けばいいだろう」
ランサーは面白くもなさそうに返事を返したが、役員の長兄の立場ではそれが難しいことも、現地視察をするなら、侮られるくらいが丁度よく、新卒という肩書きを持つランサーにうってつけの役割だということもわかっている。自分が兄の立場でもそうするだろうと、ランサーはこの役割を引き受けた。
──しかしキャスター。アテは見事にはずれたぞ。
ランサーはどう見ても日本人ではない浅黒い肌の上司を見て、『日本の心など身につくわけもないな』と心の中で薄く笑った。この会社が自分を蚊帳の外へ置こうとしていることは、すでに重々思い知っている。入社して一週間で、ランサーはすでに社内の異端児だ。
先々週に行われた内定者の説明会で、ランサーは初めて異文化の洗礼を受けた。
200人規模の新入社員向けの説明会は、大きなホールを借りて行われた。さしあたり同期の連中とコミュニケーションをとっておけばいいだろうと、軽い気持ちで会場に到着し、ランサーは驚いた。
資料のどこにもそんな記載がなかったにも関わらず、新卒は全員スーツ姿で来場していた。髪も一様に黒い。コピー&ペーストで増やされたような200人余りの新卒社員の中で、生まれつきのものとは言え、青い髪、赤い目のランサーが適当なチェックシャツの上に薄手のモッズコートを羽織った姿はあからさまに浮いた。
あまり物事に動じない自信があるランサーでも、酷い自分の場違い感に端正な頬を引きつらせた。
── これは一旦、帰宅したほうがマシじゃねーか。いくらなんでも悪目立ちが過ぎる。
ランサーが逡巡していると、指導員らしい黒いスーツの男が近寄ってきた。つまみだされるかもしれないと慌て、事情を説明しようと口を開きかけたランサーの目の前で、どうみても自分より10歳以上年上であろうハゲかかった痩せたメガネの男は、その頭頂部を見せつけないばかりにランサーに深々と頭を下げた。
「これはこれは。クー・フーリン、ランサー様! お兄様にはいつもお世話になっておりまして…」
舞台の上で喋る練習でもしているのかと突っ込みたくなるほどの男の張った声は、会場中によく通り、辺りはシンと静まりかえった。
他の新卒たちがランサーと男のやり取りに意識を研ぎ澄ませて居ることが、気配でわかる。のっけから酷い悪目立ちだ。これでは上手に混ざって視察どころか、同期の友だちを作ることすら難しくなるだろう。
『……こんのやろお。何が繊細だ。これがこの国のやりかたかよ。上等だこらあああああああ!!』
口を横一文字に結び、ランサーは喉元まででかかった絶叫を溜飲した。
痩せたメガネの男は、会場で一番ラフな格好をしたランサーが、ただの新卒でないことを辺りに知らしめるように丁重に特別に扱い続け、ランサーは周りから頭一つ浮き上がったような状態で、新卒説明会に参加することになった。
それからも、ランサーは常に特別扱いされ続けた。一週間後の入社式では、ランサーの元には脂の乗った中高年の連中がひっきりなしに挨拶に来た。
入社式の後の一週間は新人研修期間となっていたが、その間も200人の同期新卒の中で、ランサーは常に普通の新卒として扱われなかった。
上司や指導者にあたる肩書を持つ連中からはちやほやされ、行く先々でアイルランド本社の役員の弟であると紹介され続け、当然のように、同期入社の仲間からは一歩引かれた。
たまりかねて、普通に扱ってもらえないかと交渉してみたが、『いやいや、お兄様にもそう言われてはいますが、そんなのできるわけありません』と笑顔で一蹴された。笑顔だが、目が笑っていない事に気がついた。
── 自分は完全に本社役員のスパイくらいの扱いをされている。少なくとも、自分をただの新卒だと扱う人間はここにはいない。
説明会からの1週間の研修を経て、兄がなぜ、この国へ自分を寄こしたのか、得心がいった。
腸は煮えくり返っているが、これくらいのことで兄の力を借りて圧力をかけることもしゃくだった。それは自分が無能だと兄のキャスターに報告することに他ならない。
今日からは通常業務に慣れるよう、配属される予定の部署で研修が行われる予定だったが、そんな日ですら、案内された執務室の自席に到着してすぐ、役職高そうなよいスーツを着こなした数人の男がランサーに挨拶に来た。アジア人の年齢はわかりにくいとは言え、恐らく全員40~50歳はいっているだろう。
部長、室長クラスの人間に頭を下げられる新卒など、いるわけがない。ワンフロアに数百人は入る執務室でそんな事をされたら、目立つことこの上ない。遠巻きだが視線がこちらに集まっていることがわかる。
── 異端、異分子、排他的。
『日本という場所は独特な文化があってだな』と言ったキャスターの顔が、ランサーの頭をよぎる。
── 思えば、キャスターとうり二つなのも、まずかったかもしれない。
ランサーは苦々しく思ったが、本社のホームページにアクセスすれば、役員の写真は、誰でも見ることができる。兄とそっくりなランサーの素性を隠すことはそもそも難しい事だった。
── 俺が会社になじまずに退職することになっても、会社上層部は痛くも痒くも同情すら湧くことはないだろう。むしろ、早く本社に帰って欲しいと思っているはずだ。
日本支社がランサーの事をどう扱おうとしているかは、十分に理解したつもりで、腹を括っていた。だから、他の新卒と同じようにランサーにもメンターがつくと言われた時は少々意外に感じた。
メンター制度とは、新入社員のサポート役を比較的年齢の近い先輩社員が担い、仕事を教えたり、悩み相談に乗ったりすることで、職場への適応をサポートする制度だ。
── いや。俺にまともなメンターが付くわけがないか。何を目的に、どんな人物が寄越されるというのか。面白いねえ。
これはビジネスで、友達を作りに来たわけではない。ランサーはこの逆境をゲームとして楽しむことにした。
── すげー年上のメンターが付くとか、ありえるよな。あと、営業系のおべんちゃらが上手いやつ、太鼓持ち系。もしくは御目付ができる人間。気が弱くて嫌な役目を押し付けられるやつや、そそうがあったらすぐに首がきれるリストラ候補生ってのもあるかもしれない。ああ、俺を使って出世を企む腹の黒いヤツもありえるな。
しかし、どんなやつが来るかと身構え、様々なシミュレーションをしていたランサーに自己紹介したメンターのエミヤは、想像していたどんな嫌なやつとも少し違っていた。
「君も社会人になったのだから、敬語は正しく使いたまえ。日本では敬語ができなければビジネスが成り立たない」
その日、挨拶を交わした直後から、エミヤに敬語の使い方を注意されるたびに、ランサーは「スミマセーン」と適当なカタコトで笑顔で返事をした。とりあえずアホの振りでもしていれば、そのうち油断するだろうと考えた。
── どうせ新卒に丁寧に仕事を教えるつもりはないだろう。油断させて、弱みでも握るか。
しかし、予想に反して、言葉がわからないふりをするランサーを捕まえては、時に紙に英語で説明を付け加えながらエミヤはランサーに向かい合ってゆっくりと丁寧な指導を繰り返した。
「何回言えばわかる。離席する時は、必ずノートPCを閉じるように。この会社では常識だ。セキュリティ意識を持て」
「文房具を買いに行きたい?こちらにある。自由に使い給え。何、会社の備品だ。心配はいらんよ」
「喫煙所?ああ、この建物は全館禁煙だ。1番近い喫煙所は会社前のコンビニの横だな。しかし、社員証は外していきたまえ。それに煙草もほどほどにな。百害あって一理なしだ」
── 小言が多い。一言多いが、親切だよな? まるで普通に指導されている気分になる。こいつ、なんだ? いったい何を企んでいる?
エミヤはランサーに必要以上に気を使っていないように見えた。几帳面で繊細な人物かと思えば、几帳面なだけで繊細なわけでもないようだ。
エミヤの指導は決して質が悪くない。論理的でフラットな判断軸を持っていて、決断が速い。自分の業務に対して真摯に向き合っているし、そのために必要な作業を、言葉が不自由なフリをするランサーにも、理解できるよう準備して仕事が出来るようにする。初めてだからと丁寧に教えはするが、決して接待的な仕事の振り方ではない。誰でもできる雑用を押し付けるわけでもない。
エミヤはランサーとの受け答えのたびに、質問の内容や仕方を少しずつ変え、ランサーの思考レベルを丁寧に推し量ろうとし、それはエミヤがランサーという人間を理解しようと努めているように、ランサーには見てとれた。
── 至極、まっとうだ。それに、指導者としてやっていることのレベルも高い。
欠点をあげるとすれば、小言が多いことと、時々、馬鹿にしたような表情で嫌味を言いだすことだが、嫌味を言うときほどおせっかいが過ぎるほど親切だ。
── 行動と言動が一致しねえ。そのせいで、真意が読みにくくて、少々面倒くさい奴だが、悪くはない。
ランサーはエミヤに対する所感を変更した。この会社に来て、初めてごく普通に新人として扱われ、ランサーは自分が新卒入社したことを初めて実感した。
── いや、こんなことくらいで、俺が油断するわけにはいかないだろう。日本支社において、俺は間違いなく異物だ。俺をほだすためにやっているのならこいつもなかなか大したタマだ。だが、ほだしたいなら小言はいらねえんじゃねえかな。
どんな酷いヤツが来るかと身構えていただけに、ランサーはすっかり肩透かしを食らった気分だった。午前中はエミヤの一挙手一投足に何か裏があるのではないかと疑問を抱いては、結論づける判断材料がなく、もやもやとした時間が過ぎた。
「一緒に、ランチに行かないか」
昼時が近づいてくると、エミヤは突然、気さくな雰囲気を醸し出してランサーに声をかけた。「ランチ」と呟き、ランサーは目を瞬いた。
研修中、同期はみんなランサーを遠巻きにしており、一緒にランチに行けるような雰囲気はなかった。かといって、一人でいると研修担当のハゲた中高年が虎視眈々とランサーをランチに誘おうとしているのが、ぞっとしなかった。
ランサーは昼になるとさっさと一人で抜け出し、適当に周辺の屋台やコンビニで食べ物を買って、川べりのベンチで食べていた。
川沿いに植えられた桜並木は満開で、あまりに美しかった。それを見上げながら
「なぜ、俺はここにいるんだろうな…」と柄にもなくため息交じりに呟いたりしていた。
── エミヤはどういうつもりで自分を昼飯に誘っているのだろう。
着席しているランサーの横にたつエミヤをまっすぐ見上げ、ランサーは目を細め、探るように尋ねた。
「日本では休憩時間まで上司に縛られるのか?こういうのってあれか…?日本人らしいウェットな付き合いってやつ…文化デスか?」
うっかりまた敬語が消し飛びかけて、取り繕ってはみたが上手くいかなかった。
「私に敬語で話せとは言わないが、敬語ができないなら身につけた方がいいな。君は」
エミヤはため息まじりに言うと、小脇に抱えていた大量の印刷物をどさりとランサーに手渡した。
「ん? 何かのカタログ……じゃない。メニュー表? チラシ? しかもこんなにたくさんの」
「君の言うウェットな付き合いというのはよくわからないがね。君は会社の周辺にどんな飲食店があるかまだよく知らないだろう? 昼時の飲食店はひどく混むと聞くし、戻りが遅くなっても私と一緒ならば誰かに何か言われる事もないだろうと、多少気を使ったつもりだったのだが……」
迷惑なら、無理強いはしない。とエミヤは大真面目な表情のまま、少し眉を下げた。ランサーはその表情から、悪意も敵意も読み取ることはできなかった。
「『ひどく混むと聞くし』って、エミヤ先輩は普段、外食していないのか」
「ああ。普段は弁当があるからな」
ランサーはエミヤの左手にちらりと視線を走らせた。
── なるほど。指輪はしていないが、結婚しているのか。
年齢は20代後半から30歳くらいに見え、結婚していてもなんら不思議はない。『よく見ると男前だしな』とランサーは納得した。エミヤはランサーに気を遣うように、言葉を続けた。
「今日は君が来るから、一緒に食べに行くほうがいいかと思い、徒歩圏内の店のチラシを集めておいた。外食が好みでないことも考慮し、弁当屋のチラシも入っている。オレンジの付箋から後ろがそれだ。弁当は席で食べても構わないが、社食スペースで飲食することもできる。ああ」
エミヤは何かを思いついたような表情をした後、「ひょっとして、同期の連中とすでに約束が入っていたりするのだろうか? それなら遠慮なく行ってきたまえ」と言ってにっこりと笑った。
ランサーは「どんな嫌味だよそれは」という言葉を飲み込み、代わりに「でもこのチラシの量は多すぎねーすか」と尋ねた。
数センチあるチラシの束は、一時間くらいは読み込めそうなボリュームがあり、よく見るとHPを印刷したものも混ざっている。
── たとえこれが嫌がらせだとしても、手間暇かかっていることを評価したいくらいだ。
ランサーが半笑いでエミヤを見上げると、エミヤはさもありなんといった表情で、自慢げに説明をはじめた。
「君は外国の人だと聞いていたから、宗教上の理由で食べられないものがあるかもしれないし、日本の食事も口にあわないかもしれないと思ってね。多国籍かつ、飲食店評価サイトで評判のよいものを厳選して用意したつもりだ。チラシは全て君にやろう。そうそう。青い付箋のついているものは、クーポンがついていて割引がきく。初任給までにもし懐が寂しくなった時などに使えばいい」
ランサーは説明をはじめたエミヤを「もういい」と言って手で制し、うつむいた。
「………?」
── クーポン? 俺に弁当屋の割引きチケットを勧めて来るこいつは一体なんだ? 俺が本社役員の弟だと知らないのか? いや、そんなわけはないだろう。あれだけ目立っていたし、知らないわけがない。そもそも、メンターには俺の情報が渡されているはずだ。
うつむいていたランサーが眉間に皺を寄せてゆっくりと顔をあげ、しげしげとエミヤの顔を見ると、エミヤもまた眉間に皺を寄せて、不審そうにランサーを見返した。
「何かね。急に睨まれるようなことはしていないつもりだが。何か気に触ったのかね」
「……いや。そうじゃないけどよ……」
ランサーはため息を一つついて立ち上がった。
── 何が起こっているのか知るために、コミュニケーションは必要だ。ただでさえ社内で孤立しているのに、これ以上自分でこじらせるわけにはいかない。
「先輩のご厚意に甘えて、一緒にランチさせていただきます……」
かろうじて笑顔で答えたランサーに、エミヤもまた、にっこりと笑顔を作った。
「そうか。では外にでる支度をしよう」
エミヤはそう言って踵を返し、席から財布を取り出すと、ランサーに先んじてエレベーターホールへ歩き出した。
「………」
── 完璧な営業スマイルだな。でも、一瞬だけ、本気で喜んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
ランサーは少しばかり首を傾げた後、エミヤの背中を追従した。
ランサーとエミヤは肩をならべ、川沿いの道を歩き、飲食店が並ぶ大通りへ向かった。外はよく晴れて、風が心地いい穏やかな春の日和だ。
先週の研修中には満開だった川沿いの桜の木に花の姿はすでになく、青く茂った葉の合間にかすかな白い点を残すだけになっている。
「何が食べたい? 苦手なものはないのかね」とエミヤに尋ねられ、ランサーが「なんでもいい」と返事を返すと、エミヤはこの店はどうかと洋食屋のチラシをランサーに見せた。
「へえ。ハンバーグ。別にいいぜ」
「それならよかった。まだそんなに知られてはいない最近できたばかりの店だがね。店主は六本木の有名なイタリア料理屋で働いていた人物で、何かしらの工夫が凝らされたハンバーグが出てくるのではないかと期待しているんだ」
「へー……」
気のない返事をしながら、ランサーは横目で嬉しそうに話すエミヤを観察していた。『初見の印象より気のいい男なのかもしれないな』と思い始めていた。
エミヤが案内した店は表通りから一本奥にはいった路地裏にあり、看板がなければ民家と見紛うばかりの小さな個人店だった。行列ができるほどには混み合ってはおらず、ほとんど待ち時間なく、二人がけのテーブルに通された。
店内は北欧系のテキスタイルとインテリアで統一されており、ナチュラルテイストで可愛らしい雰囲気のせいか、店内にいる他の客は女性ばかりだ。
身長180cmを超えるスーツ姿の二人組は店内で嫌でも目立ち、ランサーは居心地悪そうに肩をすくめた。エミヤを見ると、真剣にメニューを吟味していて、周りの視線には気がついていないようだ。
ランサーは写真を見た直感で本日のオススメセットを選び、エミヤはうんちくを垂れて味の想定を述べ、定番のメニューから選んだ。
注文を終えると、エミヤはランサーに話しかけた。
「そういえば、君のことはなんと呼べばいい?」
姿勢がいいのは相変わらずだが、エミヤは会社に居る時より、若干リラックスしているように見えるなと、ランサーは思った。
「好きに呼べばいいけど」
顎に手をあて、エミヤは目を閉じ、うーむと口を開けずに唸った。
「社内の人間は君の事をもっぱら『クー・フーリン』と呼んでいるようだが、それは君のフルネームだろう? 日本人的にはフルネームが呼びやすいのだろうが、失礼ではないかと気にしていたのだよ。私としては、『クー』が呼びやすいと思うのだが、いきなり下の名前を呼ぶのも躊躇われる。かといって日本人のように「くん」や「さん」をつけるのも違和感があってね」
「じゃあ、ランサーでいいぜ」
「ランサー?」
「俺は双子の兄がいる。二人とも『クー・フーリン』だから、周りはみんな『ランサー』と『キャスター』って呼び分けてんだ」
「面白いな。でも、いきなりあだ名で呼ぶのも、私にはハードルが高い。仲良くなったらそう呼ばせていただくよ。好きに呼んでいいのなら、当面は『クー』と呼ばせてもらおうか」
困ったように笑い、エミヤは「でも、ランサーというあだ名は君によく似合っている」と言葉を続けた。
「日本には『一番槍』という言葉があってね。現代においては最初に手柄を上げた人の事を言うのだが、なんとなくエリートの君に相応しいあだ名だと思うよ」
『エリートの君』という言葉を聞いてランサーは微かにその身を硬直させた。
「おまたせいたしました。四種のチーズとトマトのハンバーグと、半熟卵のハンバーグでございます」
明るい店員の声にエミヤは愛想よく笑顔を浮かべ、皿を受け取った。
── なんだ。そうやって愛想よく笑えるんじゃないか。
心で毒づくランサーの目の前に、エミヤが料理の皿とカトラリーをきちんとに並べた。
「さあどうぞ。初日だし、今日の昼代は私持ちで構わない。遠慮なく食べ給え。クー」
「………」
手を広げ、食事を促すエミヤが何をそんなに誇っているのか皆目わからないが、この食事を楽しみにしていたことだけは理解できた。
── そうか、この男は感情を素直に出すのが下手なのか。下らない不器用さだな。
ランサーはそう思ったが、不快ではなかった。
三種のチーズとトマトソースがかかっているハンバーグがランサーの前に、デミグラスソースがかかっていて、その上に半熟の目玉焼きが乗っているハンバーグがエミヤの前に置かれている。どちらも空腹に的確なボディーブローを食らわせるよい香りを漂わせている。
ランサーは唾液を飲み込むとカトラリーを手に取った。
ハンバーグをナイフとフォークで適当に切り分けて、チーズとトマトを絡めて口に放り込むと、最初はふわりとした食感が、そして染み出す芳醇な肉汁が口の中に広がり、甘みと肉の香りが鼻に抜ける。
思わず顔をあげてエミヤを見ると、エミヤもまた目を見開いてランサーの顔を見ていた。
「……………うめえ」
「………うむ」
二人は自分のハンバーグを誉め合い、その言葉に互いに煽られて少しばかりトレードし、どちらも美味いと絶賛しながら全てをすっかりきれいに平らげた。
食後のコーヒーを待つ間に、話を切り出したのはランサーだった。
「なあ、あんたさあ。なんで俺のメンターなんてやってるわけ?」
「どういう意味かね? メンターは私の業務のうちだが。そういう事が聞きたいわけではなさそうだ」
返答を返しながら、エミヤは灰皿をランサーの前に移動させた。どうやら吸ってもいいということらしい。ランサーはありがたく煙草を取り出すと火をつけた。
日本では最近たばこに煩いと聞いていたので、ランサーは煙の出ない電子タバコを持ち歩いている。
「俺の素性は聞いているだろう」
「もちろん。だが引き受けるも何もないだろう。私はただの平社員で、会社の言うことには逆らえないさ。……という理由でも納得しなさそうだな、君は」
腕を組んで半目でエミヤを見据えるランサーの表情を見て、エミヤは薄く笑った。
「すでに知っているからこその追及なのか? 確かに、君のメンターについては私が立候補したも同然だからな」
「ふむ。何が目的だ?」
ニヤリと不敵な笑顔を浮かべ身を乗り出し、ランサーはまるで凶暴な獣のように目を細めてエミヤを見据えた。
── せっかく話ができそうな奴に会ったんだ。
日本支社の中で、自分の足掛かりを築けそうな人物を探していたランサーは、この機会をみすみす逃す気はなかった。今はとにかく一人でも味方が必要で、どんな意図でランサーのメンターになったとしても、なんとか懐柔できないか試みるつもりでいた。
エミヤはそのランサーの様子を見て、怪訝な顔をした。
「目的? 目的とはなんだ」
「俺のメンターを引き受けた、あんたのミッションを教えろ。会社の命令で話せないってのはナシだ。あんたの会社の上層部より、俺のバックの方が力が強いことはわかってんだろう。俺と取引した方が賢いぜ?」
「ああ。そういうことか」
ウェイターが置いていったコーヒーにミルクを入れながら、エミヤは頷いた。そしておかしそうにふっと笑いを零した。
「なんだ? 何がおかしい」
苛立たし気にランサーは尋ねた。
「何。エリートとはそういうものかもしれないが。君は少々自意識過剰ではないかと思ってね」
「………おい。俺はそんなに気が長くねえ。交渉を有利に進めようと思ってのその態度なら。逆効果だ。改めろ」
「はは。随分と怖いものだな。本社の役員様の手先と陰口をたたかれるだけの理由はあるようだ。しかし、お門違いだ。私にはその手の交渉は通じない」
「なんだと……?」
ランサーはさらに目を細め、エミヤを刺すように睨みつけた。
── 彼の視線だけで、ビリビリと空気に緊張感が満ちるようだ。恐ろしい新卒もいたものだ。
エミヤは睨まれた事で、自分の首筋にうっすら汗が浮かぶのを感じながら、ひとつ深く呼吸をして平静を装うと、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。そうして自分のペースを取り戻し、まっすぐにランサーを見た。
「そんな目で睨まれても、私は君に望むことや交渉する内容など、何一つ持ち合わせていない。私はただ君に、普通の新卒教育をしたくて、メンターを引き受けた」
「…………しんそつ、きょういく…?」
言葉の意味はわかるが、質問と内容が噛み合っていない。虚をつかれたランサーは思わず聞き返した。
「君のメンター担当を決めるにあたっては、社内でいろいろとあったんだ」とエミヤは一つため息を付いた。
「普通、本人に話す内容ではないがね。話さないと納得しないだろう、君は」
そんな前置きをした上で、エミヤは淡々とした調子の低い声で、事情を話しはじめた。
本社役員の兄弟が新卒で入ってくるという話は、日本支社の中で一月以上も前から、大きな話題になっていた。
『本社役員の兄弟』の存在は、日本支社の会社のヒエラルキーを脅かすかもしれない因子だ。出世に勤しむ人たちは目の色を変え、お金持ちの美男子ということで、一部の女性も目の色を変えた。
玉の輿を狙う女性、上司を左遷したくて画策している中間管理職、一気にキャリアアップを狙う連中、かつてキャリア競争に敗北し今は閑職から復帰する手段を虎視眈々と狙う連中etc……。社内の大なり小なりの欲に忠実な人たちが、こぞってクー・フーリンのメンターをやりたがった。
メンターという役割は難しい。
自分の普段の業務をこなしながら、新卒のメンタルケアを行うことはそれなりに負担が大きく、喜んで引き受ける人間は少ない。しかし、ランサーが配属される部署に限っては、配属される新卒6人の人数の二倍以上のメンター候補が集まり、会議室で行われた誰がどの新卒を担当するかの話し合いは、ランサーのクー・フーリンのメンターを誰がやるかで、紛糾を極めた。
その様子は会議の進行を務める人事課長、間桐慎二すらドン引きさせた。
── これはもうどうにもならないだろう。みんな我欲のために必死になっている。話し合いで円満な解決などありえない。とりまとめ担当の自分が決めるのがよい解決方法だろうと思うが、どう決着をつけたとしても禍根は残るだろう。見知らぬ外人の為に、自分に火の粉がふりかかるのはゴメンだ。
間桐課長は内心冷や汗をかき、うんざりした面持ちで争いを眺めていた。
進捗がない無為な話し合いでも時間は過ぎていく。その流れは、予定していた会議の終盤15分前まで続き、それまで腕を組んでじっと様子を眺めていたエミヤが、バンと机をたたいて立ち上がった事で、終焉を迎えた。
突然の物音に一瞬静かになった会議室の中で、エミヤが静かに吼えた。
「たわけ……! 素性はともかく、彼は他の新卒社員と同じ社会人一年目だぞ!! 社会人一年目の少年に何を背負わせるつもりだ貴様らは!!」
普段から物静かで、人から頼まれることを何一つ断らないエミヤが声を荒げるという珍事を目にし、その場の全員が驚きで目を見開いて固まり、会議室はしんと静まり返った。
様子を諦観していた課長の間桐慎二はこれ幸いと手を打って立ち上がった。
「よし。じゃあ、クー・フーリンのメンターはエミヤにしてもらおう」
「いや、しかし課長……!」
間桐課長は詰め寄るメンター候補の一人を見下したように笑った。
「クー・フーリンは生まれも育ちも日本じゃない、生まれた時からのエリートだ。どんなわがままな人間かわかったもんじゃないんだぜ? 今、立候補している諸君は、どれだけ彼の文化について熟知している? 言っておくけど、メンターとしての仕事が失敗した場合、閑職行きか、最悪クビだってありえるよ? その覚悟をもって、彼のメンターになりたいと、この醜悪な争いを繰り広げているんだろうね」
会議に集まっていたメンター候補の面々は目を伏せた。
間桐課長はエミヤに近づくと、エミヤの胸を『トン』とひとつ手の甲で叩いた。
「いいかい。この会社に採用された君たちは日本のエリートだ。その点、エミヤはエリートでもなんでもない、運良く縁故でここにいる高卒男だ。こいつなら何かあって、会社から消えても大きな損失ではない。俺は君たちの上司として、会社のためにエミヤにやってもらうのが最適だと判断する。
そもそも、そのために俺がエミヤをメンター候補に入れたんだ。話し合いが有意義なら考慮してもよかったが、この有様だ。仕方がないじゃあないか」
クー・フーリンのメンターが決まった後は話が早く、30分の延長で片がついた。会議室から出て行こうとするエミヤの目の前を歩いていた間桐課長はエミヤを振り返り、嫌らしい笑顔を浮かべてこう言った。
「貸し1だエミヤ。お前の願いを聞いてやったんだ。せいぜい上手くやれよ」
── エミヤはバカだから、クー・フーリンを体よく利用しようなんて思いもしないだろう。恨まれるのも妬まれるのもエミヤで、僕じゃあない。上手く片がついたものだ。
間桐課長はエミヤに背を向けて、にんまりとほくそ笑んだ。
一通りの話を済ませると、「そういうわけで」とエミヤは締めくくりの言葉を述べた。
「君がどんな状態を期待していたかはわからないが、私はあくまで君を普通の新卒社員として扱う。私はそのために君のメンターになったんだ」
ランサーはタバコを吸う事も忘れ、ぽかんとした表情でエミヤを見ていた。
── そんな理由があるか? こいつはオレの出自を知った上で、オレが当たり前の新卒に扱われない事にキレたのか。何のためだ?
実際のところランサー自身はある程度のことは覚悟して日本支社に来ている。ガチガチのコネ入社だし、妬みも嫉みも羨望も集まる。自分だってそんな奴が来たらちょっかいくらいはかけたくなるだろう。持っているものが多いと、取られるものも多い。その程度の特別扱いは税金のようなものだと考えていた。
「なんでだ? そんなことを頑張っても、誰の得にもならんだろう。あんただって、高みの見物を決め込んでいれば、上司に嫌味を言われることもなかっただろうに」
「あー……」
エミヤは気まずそうに目をそらし、天を仰いだ。
「私が、嫌だったんだ」
「なぜ?」
エミヤはランサーをちらりと見た。その瞳は決して追及を止める気はない強い意志が見て取れ、隠し事をすることは難しいとエミヤは判断した。
エミヤは眉間にしわを寄せ、口元に手を当てて、目をそらした。そして口の中でもごもごと言葉を紡いだ。
「……私は君のように育ちはよくない。学歴もない。しかし、周囲から普通に扱われない辛さについては理解しているつもりだ。強いて言うなら、君を当たり前に扱わない周りの連中に耐えられなかった。言うならば、私のエゴだ」
「エゴ」
ランサーはエミヤの言葉を繰り返した。
── それはエゴじゃなくて優しさと呼ぶものじゃないのか。
エゴとは、我儘だ。自分の思い通りにしたいという、強い意志だ。確かに、エミヤは思い通りにしたのだろうが、それは決してエミヤ自身に利益が還元される質のものではない。
ランサーは赤い瞳を瞬かせ、「それをエゴと言うのか」と、つぶやいた。
── あらかじめ用意された大量のチラシも小言も、文房具も、相手が俺か否かにかかわらず、新卒相手にこいつがやるべきことだと判断して行っていることだ。それをエゴだと一緒くたに卑下するのか。こいつは。
「あんた」
「なんだね」
エミヤは横を向いたまま、視線だけをランサーに戻した。
「……本当に。本当に馬鹿だなあ。あんた」
── ただの、いい人じゃないか。そんなの。
ランサーは肩の力が抜け、心の底から屈託なく笑った。
エミヤの人の良さも、そのことに気が付かずに身構えていた自分も余りにもばかばかしくて、笑わずにいられなかった。
── 日本に来てから、誰かといて心から笑ったのは初めてだ。馬鹿だ。馬鹿だと思ったけれどその信念は嫌いじゃない。
突然、ランサーに『馬鹿』と言われたエミヤは、一瞬目を丸くしたあと、口を横一文字に結び、眉間に眉を寄せてみるみると赤くなった。
馬鹿だと言ったことに怒ったのかと、ランサーは『やばい』という顔をした。
エミヤは何かいいかけ、口を開きかけたが、何も言わず口を横一文字に結びなおし、もう一度視線をそらし、咳払いをひとつしたあと、平静を繕うとランサーを正面から睨んだ。
「ともかくだ。私は君がどんな出自の人間であろうと、贔屓はしない。普通の新卒と同じようにしか扱わないから覚悟するように」
「いや、それでかまわないけどよ。俺もその方がありがたいし」
「ならば敬語を使う努力をしたまえ…!」
エミヤは額に指をつき、ため息をついた。ランサーは敬礼するように指を揃え、その手を額に当て、新卒年相応と言った無邪気な笑顔を浮かべた。
「いや、自分、日本の文化に慣れてないんで! しょうがないっす。これから気をつけマース! エミヤ先輩!」
「……貴様。実は日本語ぺらぺらだな…!?」
「そんなことないデース。ごちそうさまっス! エミヤ先輩!」
そう言ってランサーはにっこりと笑い、エミヤは苦々しく奥歯を噛み締めたした。
その日の夜。ランサーは自室に帰ると、日本にきてから初めて兄にSkypeで連絡を取った。
「よう、ランサー。久しぶりじゃないか。よほどひどい目にあっているんじゃないかと心配していたんだぜ?」
画面は繋いでいなくても、電話の声を聴いただけで、兄のにやりとした口元の笑みが目に浮かぶようで、ランサーはつられて笑った。
「よく言うぜ。そんなの折り込み済みだろうに」
「まあ、そうさね。ところでわざわざ連絡してきたってことは、何か報告か、頼み事があるんだろう?」
「ああ。オレが日本に行く代わりに、なんでも頼み事を聞いてくれるって言ってたよな?」
「覚えていたか。面倒くさい仕事を押し付けちまったことは悪いと思ってるからな。いいぜ。何が欲しいんだ」
「今の会社で、欲しいやつがいるんだけど。そいつを俺にくれないか?」
「…………」
「おいどうした?もしもーし」
イヤホンが沈黙し、ランサーあ回線がどうかしたかと首を傾げた。その耳元で、はああああとため息が聞こえた。
「社内不倫とかは、やめてくれよ……」
「はあ!? ちげーよ! 信用ねーなおい。そうじゃなくてさ。将来的に俺の部下にしたいスタッフがいるんだよ。上手くやっとくから、最後には俺にくれない?」
「へえ。そんなにか? まあ、わかった。そいつが会社に居る限りは手を回すことを約束するよ」
「よし。日本支社の把握には、もう少し時間かかりそうだから、進捗があったらまた連絡するわ」
Skypeを切った後、ランサーはにんまり笑うと「待ってろよ。エミヤ先輩」と呟きSkypeの切れたスマートフォンの画面に一つ、口づけをした。
ランサーが兄とSkypeで連絡を取り合っていたその頃。会社近くの1LDKのマンション自室で、エミヤはテーブルの上に作った夕飯を並べ終えたところだった。
普段、晩酌をする習慣がないエミヤの手元には、珍しく買って帰った500mlの缶ビールが三本も並ぶ。
その一本を開けると、食事に手を付ける前に喉を鳴らして半分くらい一気に飲み干し、缶を机に置いたエミヤは大きく息をつくと、呻くように呟いた。
「あんな美形が存在するのか…!!!」
── 舐めていた。ランサーが入社前からあんなに噂になるのは、彼の出自だけでなく、あの外見にもあったのだと言う事に気が付くべきだった。
午前中は相好を崩さないようにするために必死で口の端を引き締めた。見惚れないように自分を戒めていたため、ずっと眉間にしわが寄っていたことだろう。
特にランチの時間は、凶暴な獣を思わせる眼差しで敵意をぶつけられた直後に、打って変わった優しい笑顔を見せられて心臓を穿たれた心地だった。いや、すでに穿たれて取り返しがつかない致命傷を負っているのかもしれない。
今夜は眠れそうにないことを見越して、酒を買い込んで帰って来る程度には、エミヤは浮かれている事を自覚している。
── これから毎日、あの顔がすぐとなりにある生活が待っている。振り向くたびに気がそれて仕事の効率が下がるのではないかと心配だ。
突然降ってわいた幸運に、どちらかというと、ツイてない人生のエミヤは、その幸せを享受しきれずに苦悩に満ちた大きなため息をつき、残ったビールを飲み干すと二本目に手を伸ばした。