エミヤ先輩は観念する
現代パラレルエミヤ先輩と新卒ランサーくん二本目です。
あと三本くらいは続きそうな予感がしています。
気持ちは弓槍ですが、エッチなシーンが描きたくなったらそこだけ分けて書こうと思っているので、みなみなさまがお好きに解釈して最後までお楽しみいただけるようがんばります。
2018/10/24 文章のバージョンアップを行いました。エピソードの変更はありません。
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「だから、こっちの方が効率がいいだろうが!?」
「たわけ! 貴様の作業は減るかもしれないが、他部署の連携部分でコストがかさむかもしれんだろうが! 確認を怠るなと言っている!」
100人以上が業務をしている広い執務室の片隅で、今年新卒入社で入ったクー・フーリン、通称ランサーと、そのメンター役であるエミヤは殺気だっていた。
どちらも身長180cmを超える筋肉質の大男で、そんな二人が怒りの形相でお互いに詰め寄り、眉間に皺を寄せ、額に青筋を浮かべて一触即発の体で睨み合っている様は、周囲に相当な威圧感をまき散らしている。
二人共、かろうじて周囲に気を使っているらしく、やり取りは声を押さえて行われているが、不穏な様子は隠れようがない。
「てめえ、毎日毎日凝りもせずに小言ばっかりちくちくちくちくと…どこの姑だ、コラ」
「君こそエリート外国人の皮をかぶったインテリヤクザを辞めて、いい加減に新卒の自覚を持ってはどうかね。君に同期の友人が出来ないのは、出自のせいではなく、その性分の問題だ」
「てめえ。もういっぺん言ってみろ……!!」
会社の中で争う態度を見せるいうことは、大人気のなさ、協調性にかけることを強調するばかりで、誰の得にもならないばかりか、厳罰の対象になっておかしくない事態だ。しかし
「エミヤ。書類ここに置いておくから」
「ああ、悪い。助かるよ」
エミヤの元にファイルを持ってきた隣の部署の同僚は、二人の喧嘩を気にも止めず、にらみ合っていたエミヤに話しかけて自分の仕事を済ませた。エミヤも眼の前のクー・フーリンがかき消えたかのように、鮮やかな笑顔を同僚に向けた。
ランサーは一万匹の苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめ、ビキビキと音を立てないばかりに額に青筋を浮かべた。
毎日毎日飽きもせずやりあう二人の様子は、すっかりオフィスの日常になっていた。大声を出すわけでもなく、暴れるわけでもない。喧嘩のさなかに真剣に意見交換を行うことで、仕事の精度は上がっている。しかも、毎日やりあっている割に二人は常に一緒にいる。
その様子から、周囲の人間は「これも一つのコミュニケーションであろう」と認識し、険悪な雰囲気を問題視しなくなっていた。
ランサーがが入社し、エミヤの元に配属されてから2ヶ月が経った。季節は雨が多い初夏に差し掛かっていた。
連日の曇り空の合間を縫うように晴れ間を見せた空は、オフィスビルの横を流れる川沿いの桜並木を初夏の明るい日差しで照らしている。
桜の花はすでに散って久しく、新しく芽吹いた緑の葉は光の恩恵を精一杯に受け取っていて、はしゃぐように揺れている。
しかし、木々を見上げるランサーの眉間には深い皺が寄っていた。煙草を口から離すと、ため息混じりの苦々しげな独り言が端正な唇から漏れる。
「くそ…どうしてこうなった…」
二ヶ月前に新卒として入社したばかりのランサーは、本社の役員を務める長兄から日本支社の視察を命じられてこの場所にいる。
入社してすぐ、新卒の自分を腫れ物もしくは取引先の客人として扱う日本支社の人間の中で、メンターのエミヤだけがランサーを普通の新卒として扱った。
メンター制度とは、新入社員のサポート役を比較的年齢の近い先輩社員が担い、仕事を教えたり、悩み相談に乗ったりすることで、職場への適応をサポートする制度だ。エミヤがメンターになったことは、会社にとってもクー・フーリンにとっても幸運なことだった。
エミヤの人間性をいたく気に入ったランサーは、エミヤの事を将来的に自分の腹心にしたいと画策している。にも関わらず、この2ヶ月、計画の進捗は一切見られない。エミヤの信頼度は全く上がらず、むしろ、人間関係は悪化の一途を辿っていると言っていいだろう。
エミヤが自分に穏やかに笑ったのは初日のランチの時くらいではないだろうかと、クー・フーリンは思い返した。
いきなり、毎日喧嘩を始めるようになったわけではない。そこに至るまでには段階があった。
きっかけは、ささいなことだった。エミヤを将来的に自分の元へよこすようにと兄に根回しの連絡をした翌日から、ランサーに対峙するエミヤの眉間には常に、深い皺が寄るようになった。
500円玉を挟んでも落ちないのではないだろうかと、思うほどの深く刻まれた皺をクー・フーリンはまじまじと見返した。
「なあ。何かあったのか?」
「別に。何もないさ」
エミヤは視線を落としている書類から視線を上げず、簡潔に返答した。何もないと言うが、翌日になっても、翌々日になっても眉間の皺が取れることはなかった。
ランサーは心配から何度かエミヤに調子を尋ねてみたものの、エミヤは毎回「変わりない」とそっけなく答えた。
── 何か不機嫌な理由があるのかもしれないが、自分には関係ないのだろう。
そう考えて、しばらくの間ランサーはエミヤの不機嫌を気にしないように努めていた。しかし、エミヤが他のスタッフと話しているのを見るたびに、ある事に気が付いた。
── エミヤが話す時に眉間に皺を寄せているのは、俺と対峙しているときだけだ。俺、何かやったのか?
ランサーは思い返してみたが、特に心当たりはない。二日ほど検討し、「敬語を使わない事に怒っているのかもしれない」という可能性に思い至ったため、丸一日、敬語で接してみたが不気味なもの、もしくは塵芥(ごみあくた)でも見るような視線を向けられた。
── 敬語使えって言ったのはお前じゃねーのかよ。あまりに理不尽だろうが。この野郎。
ランサーはそれ以来エミヤに敬語で話さないことにしている。
エミヤの表情に関する違和感を除けば、メンターとしての行動は非がない。困ったことがあればプライベートなことでも相談に乗ってくれる程度に親切だ。しかし。
「エミヤ先輩、今日はランチにいきませんか」
「悪いが、今日は都合が悪くてね」
── まただ。
椅子に座るエミヤの隣に立って声をかけたランサーは、自分の方を見ようとしないエミヤを、目を細めて見下ろした。
社内で各人のスケジュールは確認できる。ランサーは今日の昼にエミヤの予定がないことは知っている。しかし、もう何度も、ランサーはエミヤにランチの誘いを断られ続けている。
── 初日にランチに誘ったのはてめーじゃないのかよ。
ランサーはエミヤと仲良くしようと尽力しているのに対し、エミヤはランサーと対峙するときには常に不機嫌で、業務時間を少しでも逸脱すると、即座にガードされる。
その手応えは日増しにクー・フーリンを苛立たせた。初日に期待した分、反動で裏切られたような気分を味わった。
その状態は時間が経過しても、一向に解消せず、ランサーは自然と嫌味ったらしく話すようになり、ランサーの嫌味を敏感に感じ取ったエミヤもまた嫌味を返すようになり、その嫌味がお互いに日増しにエスカレートした結果。今日に至る。
「オレなんにも悪くなくね!?」
「わあ」
ランサーが突然大声を出した事で、通行人が驚いて声をあげた。
「…っと。わりい」
振り返ったランサーの視界に入ったのは、よく見知った姿だった。
「あ、いえ。大丈夫です。クー・フーリンさん」
「なんだ。マシュか」
マシュは手に弁当を持っていた。
── 自分で作っているのか? マシュらしいな。
弁当のサイズは少し大きめに見えたが、黄色と赤のチェックの弁当包みはマシュによく似合って可愛らしいものだと、クー・フーリンは思った。
「今日は天気もいいですし、川べりでお弁当を食べようかと思って、出てきちゃいました」
「ああ。確かに今日は久しぶりに気分がいい天気だもんな。そっか、俺もコンビニで買ってきて外で食おうかな」
「でしたら、一緒にランチはいかがですか?」
「ああ、いいぜ。じゃあそこのベンチで」
ランサーは手をあげて、軽快な足取りで、最寄りのコンビニエンスストアに足を向けた。
── マシュに相談をすれば、エミヤとの関係改善のヒントがもらえるかもしれない。
ランサーがマシュと知り合ったのは、エミヤと仕事をはじめてちょうど1週間が過ぎた頃だった。
「この会社にはロクなスタッフがいねえ。まともなのはあんただけだ」とエミヤに愚痴ったランサーに、信頼できる社員を紹介しようと言い出したのはエミヤだった。
「この会社にも志の正しい人間はたくさんいるさ。ただ、君の周りに寄ってこようとする人間が、少々面倒くさい人種が多いだけだ。また、まともな人間はそういう連中と関わりたくないから自然と遠ざかる。どんなやっかみを受けるかもわからないからね。私は君と相性がよさそうな人間に数人、心当たりがある。今度、紹介してやろう」
ランサーが社内で健全な人間関係を築けるように、エミヤは何人かの社内スタッフとの顔合わせランチを設定した。そのうちの一人にマシュがいた。
「彼女がマシュ。そして彼がリツカ。マシュは去年、新卒入社したスタッフだ」
「よろしくお願いします」
「青い髪も赤い目も、すごくキレイな人だなあ。よろしくね、クー・フーリン」
マシュは丁寧に頭を下げ、リツカという少年はランサーの見た目に率直な感想を述べ、物珍しそうに髪や目をしげしげと見つめた。
「リツカ。気持ちはわかるが、そんなに無遠慮に見つめては失礼だ。それに、彼は今年の新卒だが、君たちより年上だよ。大学院まで履修済みだ」
マシュとリツカは尊敬の眼差しでランサーを見つめた。
エミヤの目論見通り、リツカとマシュはランサーのバックボーンを気にせずに付き合える人間で、ランサーが社内のことを相談できるスタッフの一人になった。
「エミヤ先輩がずっと不機嫌なのですか? それはあまり、見たことがないですね」
コンビニから戻ったクー・フーリンは川べりのベンチに座るマシュの隣に腰を下ろし、エミヤがずっと険しい顔をしている事について、相談した。
話を聞いたマシュは目を丸くした後、視線を彷徨わせ、ためらいがちに返答をした。
「苦手だという人とも、笑顔でお付き合いされる方ですし。誰にでも優しくて、親切なのがエミヤ先輩ですから」
「………。だよなあ」
その事は、ランサーもよく知っている。ランサーはパックのコーヒーを勢いよく吸った。
実際、エミヤはランサー以外の人間に、マシュが言う通りの態度で接している。だからこそ、自分だけがその態度で接してもらえない事に苛立ちが止まらない。
「特定の人にだけなんですか?」
「まあな」
ランサーは自分に対してとは言えず、ぼかした答えを返した。
「その人と何かあったんじゃないでしょうか。もしくはその方がよほどエミヤ先輩にひどい仕打ちをした、とか」
「…………」
ランサーはマシュに少しかまをかけてみることにした。
「いや、実はさ。エミヤ先輩は、ああ見えて、案外好き嫌いで相手によって態度を変えてんじゃねーかと思う時があるんだ。ごくたまーにだけどよ。俺の事もすごい目で睨んで来る時があるし。俺の事も、実はすげー嫌ってんじゃないかって思う時、あるぜ」
「ふふっ。それはありえませんよ」
マシュが弾けたように肩を揺らして笑った。
「それこそ気のせいですよ。だって、エミヤ先輩はクー・フーリンさんをとても褒めていました。一緒に仕事ができて、楽しいみたいですよ」
「はあ?」
「先週エレベーターでお会いした時に、クー・フーリンさんの事をとても誉めていましたから。すごく仕事ができるし、頼りにできるって。『彼がメンターで私の元に来てくれたのは、とんでもない幸運だよ』と、まるで自分のことのように、誇らしげにおっしゃっていました」
全然似ていないエミヤの真似をするマシュの事を、ランサーは渋い顔で見つめていた。
「いや、マジで?」
「はい。エミヤ先輩がクー・フーリンさんの自慢をするのは、一回どころじゃないですから、間違いありません。
クー・フーリンさんを睨んでいるようにみえたとしたら、目にゴミが入ったとか、西日が眩しかったとか、きっとそういう他愛もない理由だと思います」
「…………」
マシュの言葉にクー・フーリンは黙り込んだ。自分の席の背後に、窓やプロジェクターなど、目に痛い光を放つものがあったかと思考を巡らせたが、そんなものはない。あるのはせいぜい進捗管理をしているホワイトボードくらいだ。
── ホワイトボードが光り輝いているわけでもあるまいに。そんな理由のわけがない。マシュに文句の一つでもこぼしているんじゃないかと、糸口を期待していたんだがな。
まさか褒められていたことを伝えられるとは思っておらず、ランサーは自然と頬が緩みそうになるのを堪え、頬に力を込めて、カフェオレのストローを強く吸った。
「まあ、仕事を褒められたとしても好かれているとは限らないけどな。ランチに誘っても一緒にいってくれねーし」
「ひょっとして、当日に誘っていませんか? エミヤ先輩は、事前に約束しておかないと、ランチに参加されません。大抵、お弁当を持って来られていますから」
「へえ…確かに。言われてみれば、当日にしか誘ったことねーわ」
── 普段は弁当を持ってきているから外食はしないというのも、聞いたことがあった気がする。試してみる価値はあるかもしれない。
都会の濁った川を眺めながら、クー・フーリンは無言のまま、一口でサンドイッチの半分をかじり取り、二口目でサンドイッチを一つ片付けた。袋から取り出されたサンドイッチが、二口で消える様をマシュは目を丸くして見つめていた。
「なんだ?どうした?」
「いえ、あまりにも豪快に食べておられることに、驚いてしまいました。あのよかったらこちらもいかがですか? 実は、少し量が多くて」
マシュはランサーに自分の弁当を差し出した。中には卵焼きやハンバーグ、ブロッコリーなどがみっしりと彩りよく入っている。
「いいのかよ!? まじで! いただきます」
ランサーは顔を輝かせると、卵焼きとブロッコリー、そしてハンバーグを順につまんでは口に放り込んだ。どれもこれも弁当サイズなため、一口で食べることができた。
「………うまい。どれも美味い!!!!」
出汁がよく効いた卵焼きは、一緒に巻かれたネギが互いを引き立ててそれ一つで主役を張れそうな存在感がある。ブロッコリーはごま油と塩とガーリックでナムル風に味付けられていて、お酒のあてにもなりそうだ。
そして最後に食べたハンバーグは、主役を張れそうな卵焼きとブロッコリーを余裕で蹴散らす存在感をもっていた。あふれる肉汁とデミグラスソースが口の中で絶妙なハーモニーを奏でている。
本国に居た時でもそうそう食べた覚えのないリッチな、それでいてどこかで食べたような安心できる味に、ランサーは胃袋を掴まれた気持ちになり、思わず唸った。
「お嬢さん…あんた、只者じゃねえな。リツカがいなかったら、俺の嫁候補にしていたところだ」
「えっ!? あの…」
「マシュ!」
聞き覚えのある声がマシュの名前を呼んだ。二人が声がした方を振り返ると、藤丸リツカが二人の元へ走ってくるところだった。
マシュがリツカの姿を見て、軽く片手をあげる。どうやら二人はもともとここで待ち合わせをしていたらしい。
「なんだ、ランチデートか? いいよなあ」
ランサーは思わず心の声が口からこぼれ、その言葉を聞いたマシュは慌てた。マシュの頬はほんのりと上気している。
「ち、違います! 先輩と私はそういう関係ではっ!」
「まあまあ、そう言うなって。思いっきり否定したらリツカが傷つくぞ?」
「何?俺がどうかしたの?」
リツカの手に持っている近所のカレー屋の袋からは、スパイスのいい香りが漏れている。
ランサーは残ったサンドイッチを口に放り込むと、コンビニのお手拭きで手を拭いながら立ち上がった。
「ごっそさん。マシュ。ごゆっくりお二人さん」
ランサーは二人をベンチに残し、背を向けると、肩越しに片手をひらりと振ってから執務室に戻った。
その日の定時を過ぎた頃、ランサーはエミヤに声をかけた。
「エミヤ先輩、ちょっといいっすか」
「なんだね。今日はもう作業は残っていないはずだろう。帰りたまえ」
エミヤはPCモニターから視線をそらせることなく言葉を返した
── やっぱり、その態度はねーんじゃねーの。エミヤ先輩。
いつもなら口に出している言葉をランサーは飲み込んだ。
「………たまには先輩とランチに行きたいんですけど。いつだったら行けますか」
「ふむ?」
エミヤが顔をあげてランサーを見た。黒フチのPC眼鏡の奥で、瞳が驚いたように見開いている。
「ランチか。少し待ってくれるかね」
エミヤは自分のノートPCを覗き込み、カレンダーを起動した。ランサーが自分のPCからエミヤのスケジュールを確認した時は何の予定もなかったエミヤのカレンダーは、色とりどりの予定で溢れている。
── うん? 誰かのスケジュールも一緒に表示してるのか?一体誰のスケジュールを確認している?
ランサーは目を細めてみたが、それが誰の予定なのかは確認できなかった。
「火曜なら、空いているようだ」
「おお……」
ランサーは思わず感嘆の声をあげた。こんな他愛もないことで、本当に約束が取り付けられるとは、全く思っていなかった。椅子にもたれていたランサーは身を起こし、自分のPCを開き、スケジュールを立ち上げた。
「じゃあ! 火曜のスケジュール、押さえておいていいか?」
「ああ。頼むよ。スケジュールが入っていたら、他の用事をねじ込まれる可能性が減る」
「12時からだと店が混むかな。時間、ずらしたほうがいいか?」
「いや、12時からにしておいてくれ。その後予定がある。混み合うのを避けるなら、当日は会社を10分前に出よう」
エミヤは自分のスケジュールを見ながら返事をした。ランサーのPCから見るエミヤのスケジュールは火曜の予定は朝に一件、夕方に一件MTGが入っているだけだった。
── やはり、エミヤは誰かの予定を確認して、返事をしている。
ランサーは予定を入れた後、『一回きり』に設定しようとしたところで、手を止めた。カレンダーの機能で、入力するスケジュールは『一回きり』『毎日』『毎週』『毎月』が設定できる。
「…なあ、エミヤ先輩。毎週火曜に設定しておいてもいいか?」
「別にかまわないが」
エミヤは怪訝な顔でランサーを見た。
── かまわないが、と言いつつその不服そうな眉間の皺はなんだ。
またもや文句を言いたくなる気持ちをぐっと飲み込み、ランサーは『毎週』でランチを設定した。エミヤは登録内容が自分のカレンダーに反映されたのを確認し、クビをかしげた。「毎週、私とランチに行っても仕方がないのでは? そんなに話すことがあるのかね。何かの苦情ならランチではなく、その辺の会議室で話を聞くが」
「うるせえ。ランチに誘っているだけだろ。なんだそれ。いらねーわその気遣い。俺はお前と楽しく飯が食いたいだけなの。いい加減に察しろよ」
ついにイライラとした気持ちが言葉の端々に漏れてしまったことに、言った直後に気が付き、ランサーはしまったと言う顔をした後、恐る恐るエミヤの様子を伺った。
「なぜ…」
ランサーの予想に反し、エミヤは怒ってはいなかった。ただ、『愕然』という形容が相応しい面持ちでランサーを見つめて固まっている。
ランサーはその反応にもまた、無性に苛立ちを覚え、『こいつぶん殴りてえ』と心の底から思った。しかし、爪が手のひらに食い込むほど拳を握り込んで耐えた。
── ようやくまともに話ができそうな、関係を変えられそうな道が開けた。この機会をみすみす逃すわけにはいかない。
ランサーはひとつ深呼吸して心を落ち着け、そしてカレンダーを見直した。今日はまだ木曜だと言うのに、すでに来週が待ち遠しく感じ、口元が緩んだ。
「じゃあ、来週楽しみにしてるんで! お先に失礼しまっす」
ランサーは鼻歌混じりに帰り支度をし、スキップでも始めそうな軽快な足取りで、一つくくりにした長く青い髪を揺らして帰っていく。エミヤはそれを青い顔で見送った。
「……。一体何を企んでいるのだろうか。不気味な………」
エミヤはしばらく固まったのちに、深くため息を漏らした。
エミヤはランサーが日々、エミヤの神経を逆撫ですることに腐心していることにはとっくに気がついていた。気が付かないわけがないほどに、ランサーはエミヤに対して苛立っている。だから、『楽しく食事がしたい』などと言われて、手放しで喜べるわけはなかった。エミヤはそこまで楽観的な人間ではない。
「………まあ、何かあったとしても、最悪、退職すればいいだけの話だ。命がとられるわけでもないのだから、心配するだけ無駄だろう」
エミヤは椅子に浅く腰をかけ、脱力したように背もたれに大きく体重をかけて天井を見上げた。
エミヤはランサーをとても入っている。自分にはない奔放さも、賢さも、眩しいばかりに魅力的で、陶器のような白い肌に映える宝石のような紅い瞳がくるくると表情を変える様は、目が離せず、時折見惚れそうになる自分を律している。
── ランサーは恐らく私を嫌っているが、仕事の上ではきちんとエミヤを上司として頼ってくれる。個人的な相談も、時にはしてくれる辺り、人間性はともかくも何かの信頼に足るとは思われているのだろう。それだけで身に余る光栄だ。
そう思いはするものの、時折、ランサーが切れるような視線で苛立ちをを叩きつけてくる度に、エミヤは神経がすり減る思いをしている。
── 神様など信じてもいないが、つまらない正義感で周りを出し抜いて彼を傍に置くという幸運を手に入れたことを断罪されているようだ。いや、彼は断罪しているのかもしれない。
一緒にいるだけで、心が乱れる。それを日々押し隠して、理想のメンターに徹している。少なくともエミヤはそのつもりだった。
「メンター期間は一年だが。果たして最後まで私に担えるのだろうか。サブメンターも考えた方がいいのかもしれないな」
エミヤは目を細めるとぽつりと呟き、まぶたを閉じると、再び微かなため息をついた。
会社という場所は肩書が付くほどに孤独になると言う。『だから、信頼できる人間を探せ』と彼の兄、キャスターはよく言った。
日本に来たばかりのランサーは肩書がないにも関わらず、排他される孤独の中。自分の信念に従う信頼できるエミヤと会った。
昔、映画で見たサムライの如き人間がまだこの場所に居るのだと知り、この国の事が好きになる程度にはエミヤを気に入っている。それは自覚していた。
── いや、自分で思うより、この男が気に入っているのかもしれない。
約束を取り付けた翌日の金曜日、空は曇っていたが、『エミヤが実は、俺を嫌っていないかもしれない』という手応えは、ランサーの心を晴らしていた。
「………ううむ」
「どうしたエミヤ先輩」
昼休みもほど近い頃、エミヤの唸り声にランサーは顔をあげた。
「社内チャットで面倒くさい案件が飛んできてね…少々出かけなければならないようだ。もう12時を回っているし、昼は外で食べることになる。どうしたものかな」
「何か手伝える事があるならば、やっておくけど?」
その申し出に、エミヤは数秒の間じっとランサーを神妙な顔で見た後、カバンから何かを取り出した。
「君はお昼まだだろう。よかったらこれを食べないか」
ランサーはおずおずと控えめに差し出された黄色地にオレンジと赤のチェックの弁当包みに見覚えがあった。
── 先日マシュが持っていた弁当包みとそっくりだ。いや、同じやつだ。
ランサーは頭を殴られたような鈍い衝撃を受けた。
── え? あれ? マシュと付き合ってんの? エミヤ先輩って結婚してるんじゃなかったっけ。あれ? 結婚してるわけじゃなくて単に、マシュに弁当を作らせているのか?いや、でもあのお嬢さんはリツカにベタ惚れのはずだったのでは、なんでこいつが、これを…………?
混乱して言葉は出てこなかったが、ランサーの胃袋は弁当の味を覚えていた。差し出された弁当を黙って受け取り、なんとか「いただくぜ」と声を出した。
エミヤは「そうか」と答え、安堵したように柔らかく、少し笑った。
「ただの家庭料理ばかりで、大したものではないのだが、捨ててしまうのは忍びなくてね。この季節は湿度も気温も高めだから、夜まで置いておくのも危ないし。無理に食べる必要はないが、もし口に合うものがあれば、食べてくれると嬉しいよ。無理に食べきらなくても、残ったら捨ててくれてかまわない」
「捨てねーよ。この弁当美味いだろ。この間マシュに少しもらったんだ」
「………。そうか」
短く答え、目をそむけたエミヤはどう見ても照れているか喜んでいる。『マシュの弁当だってこと知ってんだぞ』とかまをかけたつもりが、否定もせずに照れるエミヤを見て、ランサーははひどくのろけられた気持ちになり、鼻白んだ。
エミヤが席から去るのを見送り、姿が見えなくなるのを確認してから、ランサーは弁当箱を開けた。
美味しそうな香りと共に、期待通り、丁寧に隙間なく盛り付けられた弁当が現れた。
品数といい、細やかな詰め方といい間違いなく、先日のマシュが食べていた弁当と同じものだ。
よく見れば下の方は細かくバランで仕切られているし、煮物などはきちんとシリコンカップに入っている。味が移らないようにという配慮がされている。ここまで手の込んだ弁当を捨ててしまうのは忍びないというのは、当然だろうとランサーは納得した。
── とはいえ、彼女の弁当を褒められただけで、あの鉄面皮があんなに喜ぶもんなんだなあ……
いつぞやに引き出しに仕舞っておいた、コンビニでもらった箸を取り出し、ランサーは手を合わせて「いただきます」と呟いた。
さっそく、てらてらと光るサバを口に運ぶ。皮のパリッとした食感の後、白身の柔らかな感触。そして魚の風味を損なわない甘辛い味付けは否が応でもご飯を進ませた。
「うめえ……塩サバの照り焼きか?」
今回のだし巻きはゴマが一緒に焼かれていて、香ばしい。付け合せの野菜はほうれん草のおかか和え、れんこんの入ったきんぴらごぼう。そして豚肉の生姜焼きと、どれもこれも冷めていても味がしっかりついていて、美味しい。
── この間、もらった弁当は洋食だった。今回は和食か。がらりとレパートリーを変えてなお、このクオリティを保てるとは。やはりマシュは只者じゃねえな。
ランサーは感嘆を込めて、低く唸った。
「あーこんな美味い飯作れる彼女がいるんじゃ、のろけちまってもしょうがねえよなあ。俺も胃袋穿たれるわ。あー。俺もこんな弁当作ってくれる彼女ほしーわ」
── マシュは独身のはずだから、エミヤは結婚していないのか。独身なら本国に連れ帰るハードルが下がる気もする。しかし。マシュという彼女がいるという事実が何気にショックだ……
リツカとマシュがくっつくと思っていたランサーは、相手がエミヤだったということがショックなのか、この美味しい飯をエミヤが独り占めできることがショックなのか、ダメージの根源がどこから来るのかよくわからないまま、切なげな顔でもりもりと弁当を食べ進めた。
けだるく始まった、週明けの月曜日は、雲の隙間から薄い晴れ間が覗いていた。月曜に一番最初にする仕事は、金曜の記憶を取り戻すことだ。
PCの画面と向かい合い、オフィスチャットについている機能で自分のタスクを確認していたエミヤは、リアルタイムで自分に新しいタスクが追加された事に気が付いた。点灯したのはランサーとの個人チャットだ。
「……?」
開いてみると、『明日はランチ』と記載されたタスクが火曜の12時〆で追加されている。どうやら、忘れるなというリマインドのつもりらしい。
── かわいい事をするじゃないか。まるで、本当にランチを楽しみにしているようだ。
エミヤの口元が緩み、自然と笑みがこぼれた。
不思議な事にランチの約束をしてから、ランサーに嫌味や悪意をぶつけられることがなくなった。原因がなければ喧嘩も始まらず、名物となっていた連日の険悪なやり取りはすっかりなくなっていた。
エミヤは、ランサーと同じ手順で、ランサーのチャットにタスクを追加した。
『昼に食べたいものを選んでおく』という説明をタスクに入力し、あたりをつけておいた4つの店のURLのリンクを貼る。
── ランサーにどういった心境の変化があったのか想像もつかないが、あれほど私に苛立っていたランサーは、週が明けても気分が変わることなく、ランチを楽しみにしているようだ。
エミヤは喜びで胸の奥がじわりと温かくなるのを感じ、知らずうちに目元は緩み、口元に笑みが浮かんでいた。
ふと視線を感じて隣に座るランサーを見ると、目を丸くしたランサーがエミヤを見ていた。
無垢な宝石のような赤い瞳は全てを見透かしてしまいそうで、エミヤは内心焦り、心を隠そうとした。平静を務め、先輩然とした態度を出そうとし、ぎこちなくランサーをねめつけた。
「何か用かね」
「用かね て。お前さん。なんでまた眉間に……。あー」
「……眉間?」
そう言ってエミヤはますます眉間の皺を深めた。
「いや、なんもねーわ」
そう言ってランサーは自分のPCにくるりと向き直り、仕事の続きを始めた。エミヤから見ると、ランサーは何かしら浮足立って見えた。
その態度に釈然としないものの、追及するほどの事ではないと判断し、エミヤも自分のPCに向き直った。
エミヤは自分あてのチャットに新しくメッセージが届いている事に気が付いた。また隣の男かと思ったが、間桐課長からだと気が付き、顔を曇らせた。
── どうせまたあの件だろう。……どうある状態が、一番正しいのだろうか。
メッセージを開き、内容を確認したが、ここ一か月、毎日のように問われていることと変わりはない。
── そろそろ、結論を出さなくてはならない。
エミヤは少しの間目を伏せて考えた後、誰にも気づかれない、小さな小さなため息を漏らし、マウスでバツ印を押下してウィンドウを閉じた。
ランチの約束をした火曜日がついに訪れた。朝から傘をさすかどうか迷うくらいの小雨が降っていたが、ランサーは「これくらいなら平気だろ」と呟き、傘を持たずに家を出た。彼の足取りはいたって軽い。
昼前には雨は上がり、エミヤがピックアップした店から、ランサーが鶏料理をメインとする店を選び、二人は揃ってランチに出かけた。
川べりの道を並んで歩くクー・フーリンが楽しそうに振る舞うため、エミヤは何度も緩みかける目元を意識して引き締めた。
店は信号を一つ超えた大通りの道を、さらに一本曲がった先にあった。わかりにくい場所にあるにもかかわらず、ほとんど席は埋まっている。
夜には居酒屋をやっているため、壁には木の板に書かれた単品メニューがずらりと並んでいる。
ランチメニューから、ランサーは親子丼を、エミヤはチキン南蛮を注文した。
揚げられた鳥も、それをくるむ南蛮の皮も柔らかく、たっぷりの出汁を吸っている。甘辛いチキン南蛮を満足げにほおばりながら、エミヤは「ひとつ尋ねたいことがある」と話を切り出した。
「どうして、突然私をランチに誘ったんだ?」
「何、急に。食事に誘うのに、そんな大層な理由はいらないだろう。俺は、エミヤ先輩ともっと話がしたかったんだよ」
「私と話しても得るものはないよ。君ほど学歴があるわけでもないし。私が教えられるのはせいぜい日本の一般常識程度さ」
うまいうまいと言いながら上機嫌で親子丼を口に運んでいたランサーは、箸を止めずに眉を顰めてエミヤを見た。
「変な事を言うなあ。エミヤ先輩は学歴が高い人を選んで、ランチに誘うのか?」
「いや、そういうわけではないがね」
「俺は、エミヤ先輩が好きだよ」
「は……?」
よほど驚いたのか。エミヤが口に運ぼうとしていたチキン南蛮は、彼が左手に持っていた茶碗の白飯の上にぼとりと落ちた。
ランサーはその様子を見て口を尖らせた。
「いや、そんなに驚かなくてもよくないか? 俺は初日のランチ、楽しかったし、あんたの事気に入ったんだけど。飯くらい、一緒に食いたいと思ってもいいだろう」
「あ、ああ…まあ。そうだな………」
エミヤは額に手の甲を当てて、目を伏せた。
ランサーはその様子から視線をそらさず、エミヤの次の言葉を待った。たっぷり1分は過ぎてから、ようやくエミヤは視線をそらせたまま低い声で「気を悪くしないでくれ」と絞り出すように呟いた。
「実は、私はその。君に嫌われているものだと思っていたのでね。少々、驚いた」
「なんでだよ。日々、頼りにしてたつもりだけどよ」
「連日、君は私に突っかかって来ていたじゃないか。何が君をそんなに怒らせたのかはわからないが、君はよく私に怒っていただろう?」
「それは……」
『お前がいつだって、俺を見て嫌そうな顔をするから』という言葉を、ランサーは飲み込んだ。今だってエミヤの眉間には深いしわが刻まれている。この眉間の皺が、嫌なものに相対した時や、悪意を持っている時に刻まれるものでない事を、今は理解している。
照れ隠しなのか、格好をつけているのか、細かい事はわからないが、わかりにくいこの男の何かのポーズだと言うことに、ランサーはランチの話をしている時に気が付いた。
── おそらく、エミヤは無意識だ。
だから、当たり障りのない理由をつけることにした。
「それは、エミヤ先輩の気のせいだろ」
「ええ……」とエミヤはさらに眉間に皺を寄せて、本当に嫌そうな声を出した。
「君は自由きままに振る舞うようなそぶりを見せるが、存外に周囲を見て最適解の動きを選択する。だから、私の事が嫌いだとしても、メンターとしての私を立てるために尽力しているのではないかと思っていたんだ」
エミヤが自分の性分を的確に見抜いていることに、バツの悪さを感じたランサーは、照れ隠しも相まって悪態が口をついで出た。
「嫌われてるって思ってたのは、むしろこっちだわ。この2か月で俺が何度あんたをランチに誘っては振られ続けたと思ってんだ。いい加減傷つくわ」
「それは、そうだな。君の言う通りだ。反省するよ」
眉をさげ、神妙な面持で答えた姿は生真面目なエミヤらしく、ランサーはようやくエミヤと打ち解けたと思え、口元が緩んだ。しかし、エミヤの次の言葉を聞いて、すぐにその笑みは消えた。
「君のメンターを下りることが決まるもっと前に、気が付けばよかった」
昼時に上がった雨は午後からまたしとしと降りだし、窓の外を見るたび、ランサーを滅入らせた。
ランサーはその日の午後の仕事を上の空で過ごした。心に大きな虚が空いたようで、手足の感覚を失くしているような気分だった。しかし、頭は手足に仕事を片付ける指令を送り続けることができるし、手足は傀儡のように動く。
── 心がどれほどに空虚でも、仕事はできるものだな。
ランサーは自分の事なのに可笑しさがこみ上げた。
仕事がひと段落したタイミングで、昼飯時の会話を思い出し、ランサーはこれからの身の振り方を考えていた。
食事の途中からは二人共無言になった。会社への帰り道は小雨が降り出していたため、エミヤは念のためと持ってきていた傘を広げ、ランサーにも入るように促した。大きな男が二人で入るには傘は小さく、二人は寄り添って歩いたが、はみ出した肩を小雨が濡らした。
道中に、エミヤは経緯を話した。
「間桐課長から、君と私がいがみ合っていることを心配し、相性が悪いのなら配置替えを行うべきではないかと、打診されていたんだ。
君は本社から来ているエリートだし、間桐課長がメンターをやるのが最適だと言われると、私としては断りづらい側面もあるのだが、ずっと断ってきたんだ。メンターが途中で交代するのは、いいことではないからね。しかし、間桐課長は諦めずに、ずっと交代要請を出してきていたんだよ。
私は最近特に君に嫌われていると勘違いをしていたこともあって、どうなるのがベストなのかと随分と悩んでずっと回答を保留にしていたんだ。
しかし、今日ついに、業を煮やした間桐課長から今週中に辞令を出すと連絡が来た。メンターは役職でもないのだから辞令も何もないと思うが、彼なりに君の事を思って、必死なのだろう」
間桐課長はクー・フーリンも幾度か言葉をかわしたことくらいはある。「そんなわけはないだろう」と心で呟いた。
── あれは自分の事しか考えない性質だぞ。
声には出さず、ランサーは黙ってエミヤの話を聞いていた。
「そんな顔をするな。連日、君の事を気にして、隙間の時間を見つけては私を呼びつけて報告させるくらいには、間桐課長は君を気にかけていたんだよ」
── エミヤがしょっちゅう誰かのスケジュールを見て、いちいち気をもんでいたのはそれだったのか。
ランサーは聞き取れないほどに小さく舌打ちをした。
本社の組織づくりの方針は縦割りになっていて、日本支社もそれに倣っている。部署は分断されがちだから、エミヤが誰かを気にしているのなら、直属の上司に振り回されている可能性が一番高い。
ランサーは気が付けなかった自分のまぬけさに苛立ちを覚えた。
「俺、そいつの事、最高に嫌いな予感しかしねえ」
「会社で働くというのはそういうことだよ、クー。色んな人がいるんだ。好きな人とだけ、仕事ができるわけじゃない」
諦めたように寂しそうに笑うエミヤに、その時は何も言えなかった。しかし、到底納得はできていない。
── 自分がどう在りたいか。欲しいものは何か。そのために何を取捨選択するのか。
ランサーは眼の前の簡単な仕事を片付けながら、頭の片隅で次の行動を考えていた。
定時を過ぎて仕事がひと段落き、ランサーは椅子をくるりと回して隣の席のエミヤに向き直った。
「エミヤ先輩。話があるんですけど。相談に乗ってもらってもいいですか」
エミヤは手を止めて、珍しく丁寧に話すランサーに顔を向けた。
「かまわないが。どんな用事だね」
「苦情」
エミヤは目を丸くした後、目じりを下げた。
「ああ、聞くとも。まだ私は君のメンターだからね。それは私の仕事だよ」
そう返したエミヤは、どこかぎこちなく見えた。『まだ』メンターだから、という言葉に、クー・フーリンは少しだけ目を細めた。
「話をするために適当な会議室を押さえておいた。まあ、定時過ぎてるからどこも空いてるんだけどさ。誰かに入ってこられるのも嫌だし」
「この場所で話すのはだめなのかね?」
立ち上がったクー・フーリンは無表情にエミヤを見下ろした。
「ここで話していて、また喧嘩してると思われるのも嫌なんで」
「確かにそれもそうだな」
エミヤは頷くとゆっくりと立ち上がり、クー・フーリンに促されるままに会議室へ向かった。
社内会議室より、来客用の会議室の方が防音がしっかりしていることを知っているのか、ランサーは来客用の会議室の中では1番小さい、4人用の会議室へエミヤを連れて入った。
── 少々気まずい。しかし最後まで、メンターらしくあろう。
部屋の入り口に足を踏み入れ、エミヤは決意した。静かに息を吐くと後ろ手に会議室の重いドアを閉めた。
オフィス外壁にそって設置されている来客会議室はどの部屋も大きな窓があり、冬木の街並みがよく見える。しかし、今は定時を回ってすでに日が暮れているため、暗い窓には室内の蛍光灯が照り返し、かろうじて少し離れた場所に立つ高いビルの窓の小さな明かりが微かに瞬くばかりだ。
先に入ったランサーは奥の席につき、続いてエミヤが手前の席に座った。ランサーは机に肘をついて身を乗り出し、エミヤを真っ直ぐに見据えると、真面目な面持ちで「要件なんだけど」と話を切り出した。赤い瞳に意思の光が強く灯った。
「頼みがある。俺は、あんたにメンターを降りてほしくない。あんたが、俺のメンターのままでいるように、俺に力を貸してくれるか、聞きたい」
エミヤは少し息を飲み、ため息混じりに目を伏せた。
「それは、会社の方針で…」
「もう一度聞く」と言ってランサーはエミヤの言葉を遮った。
「俺はあんたの気持ちが聞きたい。あんたは、俺のメンターを降りたいのか」
エミヤは少しばかり顔を伏せ、上目遣いにランサーを見た。
赤い瞳がじっとエミヤを見据えている。全てを見透かすような澄んだ視線から目をそらすことができず、エミヤは目をつむった。
そうして、努めて感情を殺した声で言った。
「降りたい降りたくないじゃなく、降りるべきなんだ」
エミヤは顔をあげ、眉間に皺をよせて、苦しそうに言葉を続けた。
「私はね。エゴで君のメンターを引き受けた事を、後悔していたんだよ。君にはもっとふさわしいメンターがいると思う。もちろん、引き受けた当初は君にとって最善の選択だと思って引き受けた。けれど、もっとふさわしい人が現れた時には、この役目を渡すべきだと、そう思っている」
「………」
エミヤの言葉にクー・フーリンは目を細めたが、何も喋らなかった。断罪されているような気分になったエミヤは、言い訳を探すように言葉を続けた。
「亡くなった養父と付き合いがあった家の娘がこの会社にいる。その人に、君の事は頼んである。信用ができる人物だし、肩書もある。だから君が今より状況が悪くならない事は保証できる。安心してくれ」
「答えになってねえよ。俺は、あんたが俺のメンターを降りたいのかどうかを聞いている」
「………」
エミヤは言葉を返さなかった。黙り込んだエミヤを見て、ランサーは詰るような口調を改めることにした。押しつけがましくならないように、なるべく感情が見えない、抑揚のない声で言葉を続けた。
「……仕事上の最適化や配置換えなら、会社の方針というのもわかる。でも、メンターは違うだろう。メンタルケアは業務内容じゃなく、人の相性で組むのが筋だろう。あんたが言った通り、辞令でやるもんじゃない。筋が通らないことは、通す必要はない。
あんただって知ってる通り、俺はただの新卒でもない。ある程度組織づくりや仕組みについては勉強してんだ。なあ、エミヤ先輩。これは理不尽だろう。俺は理不尽が嫌いだ」
ランサーはうつむきがちなエミヤの顔を覗き込むようにして、もう一度問うた。
「これは、気持ちの問題だ。エミヤ先輩は、俺のメンターをするのが嫌なのか」
── 嫌だと答えるべきだ。
エミヤは頭の中で即答したが、声には出せなかった。声に出そうとしても、意思に反するように唇が乾き、上手く言葉が出てこない。エミヤは机の上で組んだ両手を強く握りしめた。
── 彼の今後を考えるなら。この会社で出世の見込みもない、自分の元へ置いておくことに何の意味があるのか。間桐課長のほうが、彼の知りたい情報だって持っている。自分は潔く彼を手ばなすべきだ。もう一ヶ月以上悩んできた。何度考えても、結論はとっくに出ている。ただ、実行に移せなかっただけだ。
ランサーは気の長い方ではない。はやく返答が欲しいランサーはうつむきがちなエミヤの顔を覗き込もうとして、肩を机につけるほど、低い姿勢を取ったため、うつむいていてもランサーの顔がエミヤの視界に入った。
誠実な赤い瞳がまっすぐにエミヤの唇を見ていた。その顔を見て、エミヤはすとんと腑に落ちた。
── 私は、君の事が好きなんだ。
どうしても『手放したくない』理由に唐突にピントが合った。何度も考えて、正しい理屈と判断をいくら用意しても、メンターを降りられず、今だって、降りたくないと思っている。ずっと悩んでいても見つからなかった答えが、根拠のわからない理不尽で頑固な自分の中の気持ちの名前が、唐突に見つかった。エミヤの口から言葉が、零れ落ちた。
「君のメンターを、降りたくない。降りたくないんだ」
少し震えた自分の声が、そう告げるのを聞き、エミヤは手で顔を覆った。
── ばかな事を言った。どうせ長くは側にいられないなら、この執着が醜く大きく育つ前に、早く手放したほうが苦しくないはずだ。それも、わかっている。わかっていても出来ない自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。
とんでもなく執着している自分に驚き、呆れ、エミヤは黙り込んだ。
ランサーはその様子をしばらく不思議そうに見ていたが、エミヤが顔を隠したまま動かないので、手を伸ばした。
熱を持った褐色のエミヤの手に、白く冷たい指先が触れた。その指がエミヤの手を掴んでひっぱるので、エミヤは少し顔をあげた。
いつの間にか立ち上がっていたランサーは、高い位置からエミヤの顔を覗き込んでいた。そしてエミヤの顔を見て「よかった」と言って、くったくなく笑った。
「ああ、よかった。あんたが俺のメンターを辞めたいと思っていたら、どうしようかと思っていた。それだけが怖かった。
あんたが辞めたくないと思ってくれるなら、まだ大丈夫だ。協力してくれよ、エミヤ先輩」
── 目眩がしそうだ。
ランサーの笑顔を見たエミヤは、眩しそうに目を細めた。何の覚悟もしていなかったのに、唐突に後戻りできない深い穴に落ちたような気持ちになった。
「……どうして、私なんだ。私に関わって、君にいいことなど何もないのに」
「『気に入った』に理由なんてないだろう。またそれかよ」
ランサーは呆れたようにため息をついた。
── 理由がないから、困るんだ。
エミヤはそれを言葉にして口にしようとして、やめた。代わりに曖昧に笑い、「仕方がない」と返事をした。
結局、クー・フーリンの希望通りに、メンター交代の話は、白紙になった。
間桐課長は会社からの命令という形でメンター交代を言いつけるつもりだった。メンターの交代を軽々しく行うべきではないと横槍が入り、4人でミーティングを行うことになった。横やりを入れた人物は古いエミヤの知人で、名を遠坂凛と言う。
エミヤは間桐からメンター交代の打診をうけた当初から、凛に相談をしていた。相談内容は常に『クー・フーリンの今後のためにどうするのが最適か』だったが、ここへ来てエミヤが『メンターを降りたくない』と自分の希望を告げ、彼女はひどく喜んだ。
「だったら話は早いわ。変える必要がないなら、続投でいいんじゃないかしら。間桐課長?」
「遠坂。これはうちの部署の話だ。お前には関係ない」
「あら。今期の新人教育は横串でやるって決まったばかりじゃない。だから各部署で足並みを揃えましょうって複数人の部署の課長が集まって取り回しているわけでしょう? 間桐課長のところだけ、特別ルールなんてちょっと筋が通らないんじゃないかしら。
だいたいメンターなんて仕事の効率の話じゃないんだから、本人たちの言い分を無視して業務命令で進めることこそ非効率よ」
間桐と遠坂は役職は同列の課長ではあるものの、部署的には遠坂の所属部署の方がすこぶる売上がいい。凛自身、売上に大きく貢献しており、本人も四半期ごとの総会で何度も表彰されている。間桐は遠坂に強く出る手札を持っていなかった。
間桐は最後の賭けとばかりにエミヤに食ってかかり、「お前も俺の方が向いていると思ってんだろ」と言外に圧力をかけ、エミヤを睨みつけた。
エミヤは静かな鈍色の瞳を伏せて、淡々と「これまでも何回もお伝えしていますが」と前置きをした後、答えた。
「私には過ぎた役割です。だから、間桐課長のご提案に長く迷っていました。それは、今も変わらない。
でも。クー・フーリンが私をメンターとして信頼に値できる人間だと評価しているならば。精一杯応えるのが筋かと」
「はい、結論でたわね。この話はここまで」
遠坂凛はさっさと会議を終わらせ、間桐は悔しさに歯噛みし、「お前…エミヤのくせに覚えてろよ」と唸ったのだった。
「クー・フーリン」
憤慨した間桐課長が荒々しく会議室を立ち去った後、執務室に戻ろうとするランサーとエミヤの背後から、高坂凛が声をかけた。そして、ランサーの手を引くと、エミヤに聞こえないようにその耳元で囁いた。
「アーチャーをよろしくね。不器用なところもあるけど、いいやつなのよ」
「アーチャー?」
思わず声を出したランサーをエミヤが振り返った。
「おい、凛。一体何を吹き込んでいる!?」
「ごめんなさい。ついうっかりあだ名で呼んじゃった。エミヤくんは昔弓道部でとても強くて、そんなあだ名がついていたのよ」
「へえ。かっこいいじゃん。アーチャー」
ニヤリと意地の悪い顔で笑うランサーに、アーチャーは目を細め、口の端を歪めて笑って見せた。しかし、目は一切笑っていない。
「意味がわからないな。会社で使うのはやめてくれたまえよ、二人共」
「まあそうだなあ。アーチャーって呼びたいけど。いきなりあだ名で呼ぶのはハードルが高いから、もう少し仲良くなったらそう呼ばせてくれよ」
ランサーは『ランサーと呼んでくれ』と自分が言ったときのアーチャーの返答を真似してみせた。エミヤは眉を顰め、皮肉げに笑った。
「そうしてくれたまえ、ランサー」
「おうなんだ。もう呼んでくれるのかアーチャー」
嫌がらせのつもりで呼んだあだ名に嬉々として返事を返され、エミヤは苦い顔をした。
「……君のそういうところが嫌いだよ」
言葉とは裏腹に、その声色に棘はなく、ランサーはにんまりと笑って見せた。
「ああ。いろいろと安心したら、腹が減ったな。エミヤ先輩、今日はどこかに食べにいかない? メンター続行記念日なんだから、いいだろ」
「かまわないといいたいところだが。弁当があるんだ」
「あら。じゃあ、それは私がもらってあげるわ。せっかく嫌な話が解消したんだもの。今日くらい、二人で羽根を伸ばしてきなさいよ」
凛に笑顔で言われ、エミヤは少し考えた後「ではそうするか」と頷いた。ランサーは嬉しそうにその場で軽く足を踏み鳴らした。
「この生意気な新卒にも、今回は私のせいで気苦労をかけてしまった。詫びはせねばならないな。しかし、凛。私達が外食するにしても、君が無理に私の弁当を食べる必要はないぞ。どうせ昨日の残り物だ」
「あら、いい加減に自覚したら? エミヤ君。あなたの料理はそこらへんの定食屋なんて、とっくに超えている一流料理なんだから。私からしたらタダで美味しいお弁当が手に入ってラッキーってものよ」
並んで歩いていたランサーは、凛の言葉を聞いて、足を止めた。凛とエミヤが怪訝な顔でランサーを振り返ると、ランサーは二人よりさらに怪訝な顔で、問うた。
「……待て。エミヤが毎日持ってきている弁当って、誰が作ってんだ?」
エミヤと凛は互いに顔を見合わせ、同時に「私だが」「エミヤ君に決まってるじゃない」と答えた。
ランサーはしばらく黙り込んだ後、「まじか」と呟き、再び歩きだした。
「だってよ。あの弁当、先週マシュが食ってたから、てっきりマシュがあんたの弁当を作っているのかと」
「そんなわけはないだろう。彼女はリツカにぞっこんだぞ」
そんな事もわからないのかと言わないばかりのエミヤの視線に、ランサーはうんざりとした面持ちで視線を返した。
「お前みたいなごつい強面の男があんな繊細な弁当作ると思わないだろうが」
── しかも、その飯に胃袋を掴まれていたなんて、思いたくもないだろうが。
ランサーの気持ちもつゆ知らず、エミヤは「見た目で人を判断するとは君もまだまだだな」と鼻で笑った。
「ここ1ヶ月は特に間桐課長に頻繁に呼び出されていたし、凛に相談したいことも多かった。社内では話しにくい話題だし、ランチミーティングをやることが多くてね。私の料理が好きだといってくれるマシュには何回か食べてもらえて、随分助かったよ」
「はあ…それを知っていたら、俺がもらったのに…。なあ、今度から弁当が余ったら俺に優先的に回してくれよ」
「なぜ」
あからさまに怪訝な顔をしたエミヤの顔を見て、ランサーは苛立ちから反射的にエミヤの尻を叩いた。スパン!といい音が響き、凛が吹き出した。
「痛い! 何をするんだ!!」
「いい加減に、褒められても素直に受け取らないエミヤ先輩にイライラした。俺もあんたの飯が美味言ってんの。だから、他のやつにやるなら俺にくれって言ってんの。アピールしてんの!ここまで言わせるな。いい加減に察しろよ。細かい事までよく気がつくくせに、そんなところだけ、なんで鈍いんだ」
ランサーは口を尖らせて嫌そうに文句をつけた。
「…………そうか。それはすまない。てっきり何かの嫌味かと勘ぐってしまってね。しかし、家庭料理に飢えているとは、可愛いところもあるじゃないか」
「はいはい」
先程、凛がエミヤの料理を誉めたことも、エミヤには届いていなかったらしいとランサーはため息をついた。
── 家庭料理に飢えているわけでも何でもなく、エミヤ先輩の料理を褒めている事がなぜわからないのか。
凛とランサーは少し目配せをして、やれやれと肩をすくめた。
エミヤがカバンから取り出した弁当を受け取った凛は、去り際に「いいコンビね。あんたたち。もう今回みたいな邪魔は入らないように根回ししておくから、きっちり仕事の成果を挙げてちょうだい。期待しているわ」と言って去っていった。
「いいコンビだと…? あの女の目、さては節穴だな」
「同感だ。彼女は時々ド天然だからな」
ビルの外へ出ると、空は梅雨の晴れ間が覗き、すがすがしい初夏の日差しが辺りを照らしている。
「さて、今日は何を食べようか。何が食べたいんだ?ランサー」
「そうさね。あんたに任せるよアーチャー」
二人は顔を見合わせてニヤリと笑い合い、肩を並べて日差しの中を歩き出した。