そのたてがみを切って
吸血鬼(のような存在)の槍弓に助けられ、共に暮らす士郎の話 「ほんとうの花をみせにきた」パロですが、元ネタ知らなくても大丈夫です。(展開も途中から元の話と異なります) 表紙はこちらからお借りしました! illust/56150597 // コメントありがとうございます、拝見してます!個別にお返事できなくてすみません……!
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普段は暖炉の火の入って温かな室内は、窓の開け離されているために、まだ柔らかで幼い骨に染み入るように冷たい。重い窓帳が風にはためき、雪が吹き込むびょうという音の響く一方で、遠くから、姉の細く高い悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。
それに息を飲んだ士郎は、書斎の机に身を隠しながら、すっかり灯りの落とされて暗くなった室内に目を据えた。そうして寒さのためではなく震える身体を抱き締め、鳴る歯の根を抑えるように奥歯をきつく噛む。目の前には、夜の薄明りの中、洋墨を零したような血だまりの広がり、その海の中横たわる母の額には大きな穴の開いて、その真っ黒な空洞が己をますます震え上がらせる。
姉の悲鳴はけたたましい一発銃声と共に止み、今では男たちの下世話な声ばかりが身を隠すこちらの耳には届いた。これで全員か、でかい屋敷だから全員探し出すのには骨が折れたなァと話す一人には、いや、十歳のガキがまだいたはずだ、大方外にいるんだろうよ、帰って来るのを一階で待っていようぜ、と嘲笑うような声が返る。母親や姉みたいに顔がよかったら、なぁいいだろ、殺す前に存分に可愛がってやろうぜ、と続く言葉を最後に、声と気配とが遠ざかり、あとはただ一階で物色する物音の響くばかりになる。
つい数時間前まで豊かな暮らしをしていたのが嘘のように部屋の内は荒れ果て、何より血の匂いが濃く喉に絡んだ。己は震える身体で何とか机の下を這いだし、母の死体の傍らを過ぎると、廊下に捨てられていた姉の死体へといざり寄る。姉の黒髪によく似合っていたワンピースは無残に剝がされて、傍に捨てられ、裸の身体がひどく寒そうだった。姉の胸にも撃たれた跡があり、血は今もそこから染み出して絨毯を重く濡らしている。
士郎はそれを眺め、唇を開いては、嗚咽を零しそうになるのを堪えて口を噤んだ。やがてようやく掠れた高い声で、姉さんと呼んで、虚空を見つめたまま見開かれた瞳を、掌でそっと下してやった。
数年前に己達をこの屋敷に住まわせた母の再婚相手は、裕福な異国の男だった。軽薄ながら頭の回る男で、同人種が取りまとめをしているマフィアでも上手く立ち回っていたらしいが、数日前、ボスの恋人と寝、女と金を奪って高跳びをした。
突然窓硝子を破り押し入った男たちが母へと投げた言葉で、己はそうと知らされた。見せしめとして、何の罪もない母と姉と、家政婦三人が殺された。己だって、きっと、そう遠くないうちに虐げられ殺されるだろう。この町を支配するマフィアに目を付けられた以上、屋敷から何とか逃げ果せたとして、すぐに見付かり銃で頭を撃ち抜かれるだろう事は、幼い己にも容易く想像出来た。
階下からは相変わらず、男たちの笑い声と、キッチンを物色しているらしい音が響いている。そちらへと降りて行きさえすればこの恐怖から、永遠の眠りという形で解放されると分かっていても、死ぬのはやはり恐ろしく、足は竦んだように動かない。
その時、書斎の方でほんのかすかな物音の立ち、士郎は身体を強張らせた。男たちの仲間がやって来たのかと思うが、彼らが一階から動いた様子はない。そのまま恐る恐る耳をすませていれば、やがて獣が水を飲むような音が隣の部屋から響いて来る。
己は再び歯の根を鳴らしながら、恐る恐る書斎を覗き込み、母の死体に屈み込む男の姿をそこに見つけて、喉の奥に悲鳴を辛うじて殺した。その唇が血を啜っているのが、薄暗い中でも判然と分かり、父親から昔聞かされた、中国の吸血鬼のような化け物、竹の精だが人の形をしているという、バンブーのことが頭を過ぎる。夜な夜な人を襲い、血を啜るが、陽の光に晒されれば最後、灰のように吹き消える。その話を聞いて、夜が怖いと本気で泣くこちらを胸に抱いて、母はそんなのいるわけないじゃないの、あなたを怖がらせるための嘘よと笑ったが、その母が今は目の前に横たわり、その血が化け物の腹を満たしている。
男は暫くそうして母の血に口をつけていたが、ふと気が付いたように顔をあげこちらを見たので、士郎は今度こそ細く悲鳴を上げた。男はまじまじとこちらを眺め、暫くその目を眇めていたが、気配を消すのが上手だなぁ、坊主、と口元を拭いながら呟いた。
化け物の割に、その声は子供を褒めるような優しさと、からかいのようなものを含んでいる。夜の明かりに美しく透ける紺碧の髪に、血のような赤い瞳と、かすかな笑いの含んだその顔。街中で出会った子供に大人がふと向けるような、その表情の柔らかさを眺めるうち、あれだけ身体を強張らせていた恐怖は次第に落ち着いて、士郎は細く息を吐いた。
バンブー? と恐る恐る聞けば、なんだ坊主知ってんのか、と男が喉を鳴らして笑う。人を襲って生き血を啜るんだろ、と言えば、馬鹿言え、死人から血を拝借するだけだ、こっちにはこっちなりの法律があってね、と彼は途端に眉根を寄せた。そうして草臥れたように開け放されたままの窓に腰掛けると、頬杖をつき、後はこちらを眺めるでもなく眺めているようだった。
己はそんな彼を見上げ、それからまた母の死体へと視線を落とした。啜り泣いて幾筋にも彼女が作った涙の跡は、血ですっかり消されて見えなくなってしまっている。その身体には暴行の痕の色濃く残って、眺めているうち、ひどく胸が痛んで、己は浅い息を吐いた。
己から家族を虐げて奪った、人でなしの男達への激しい憤りが次いで激しく胸を焼き、己は唇を噛み締める。あんな獣たちに命を差し出すくらいなら、目の前の男に捧げた方がきっと幾倍もましだろうと、そうして思って己は顔を上げると、数歩のろのろと足を進め、男の前で両腕を広げて見せる。
男は一瞬呆けたような顔をして、だがこちらの意図を悟ったのか、次の瞬間にははじけるように笑い出した。
「自分から皿の上に乗る魚か、初めて見たな!」
それに、馬鹿にするな! と声を張り上げれば、男はやや極まりの悪そうな顔をし、馬鹿にしたんじゃあないがと言葉を濁す。お前さんの望むようにしてやりたいとこだがな、残念ながら、俺たちは法律で縛られてんだよ。生きた人を襲えば、樽に詰められ、地中に六十年間幽閉だ、な、ぞっとしねぇ話だろ、とそうして続けて言った男に、じゃあ俺の事は食べてくれないのかと訊ねれば、彼はややして深く頷く。己がそれでもじっと見詰めて居れば、男は頬を掻き、困ったように短く息を吐いた。
「そもそも俺は、血の匂いに誘われてここに来たってだけだ。お前を食うつもりも、助けるつもりもねぇよ。それに、お互いにそんな義理もないだろ? そういうわけだから、じゃあな」
そう言って手を振る男に、己は呆気にとられたが、先程張り上げた声が聞こえたのだろう、階段を昇る騒々しい物音が聞こえたのに、はっと身体を強張らせた。気配はどんどん近付いて来、己は祈るようにその場に跪き、組んだ手を額に当てた。
先程見た姉の死体が、その間ちらちらと瞼裏に映り、虚空を見つめる彼女の瞳に浮かんだ恐怖と苦しみとが胸を刺す。この町では弱いものは強いものに踏みにじられて殺されるのだ、己も姉のように冷たい死体になるのだ、と思えば、身体が悪足掻きをするようにかっと熱を上げ、瞳から涙を零させた。
それに、窓より飛び降りようとしていた男は弱ったような顔をして、そうは言ってもな、こりゃあ樽詰めどころか、火刑もんだ、掟は絶対だし、と何やら一人で呟いている。複数人のばらばらと纏まりのない足音は扉の前で一度止まり、消されていた灯りの点けられる、ばちん、という弾けるような音が部屋の隅で鳴る。
「ああ、くそ、泣くなよ!」
男の喉からその瞬間、唸るような声が漏れ、銃がいつこちらを撃ち抜くかときつく瞼を下ろした己は、ふいに、耳元でごうっと言う風の音を聞いた。次いで、浮遊感と冷たさを覚えて目を見開けば、己はいつの間にか男の腕に抱かれ、空を高く飛んでいる。
ちくしょう、あいつになんて言って言い訳すれば、とぼやくように言いながらも、抱きしめる男の腕の力は決して弱まらなかった。多少ふらふらと蛇行はしているが、男は確かに空を飛び、上昇するたび身体にかかる負荷に息苦しさを覚えるうち、あっという間に母と姉を殺した町が眼下に遠ざかる。見える家々は次第に粗末な、小さなものに変わって行き、灯りの数も次第に減って行く。海の近くほど人々の生活が貧しい事を知識として己に教えたのは母だった、とふいに思い出せば恋しさが胸を塞ぎ、また少し涙が滲んで、己は手の甲で目元を擦る。
男がようやくに海の傍らへと辿り着いた時には、月明かり以外に光源はなく、連なる家々も、いかにもバラックという有様をした粗末なものばかりだった。そのうちの一軒へと、男は己を腕に抱えたまま入っていく。俺を助けてくれたのかと訊ねれば、おう、精々感謝しやがれと男は口にして、床にそこらの洗濯物を放り投げると、己をその上に寝かし、こちらの身体にはありったけのタオルを掛けてこの部屋を出て行った。
確かに毛布のような類は、この部屋には存在しないようだった。バラックの中は置かれた燭台に火の灯って明るく、己はそれに眩しげに瞬きをしながら、隣の部屋で誰かに電話をしている男に声を掛けようと口を開いた。だが、安堵したためだろう、草臥れた身体は途端に眠りを欲しがり、瞼を暫く擦っても殺しきれない眠気に、やがて己は小さな欠伸を零して深い眠りへと落ちた。
それからどれだけ眠っていたのだろう、隣の部屋から響く話し声に、瞼は持ち上がらないながら、かすかに意識が浮上した。耳をそばだてれば、先ほど己を助けた男と、あとはもう一人、声を潜めるようにして何やら話をしているのが細々とした響きで耳へと届く。
「だから、毎日少しずつ血を吸って、腹の足しにしようって言ってんだ。どうせ家に連れ込んじまえばばれやしねぇし、いいだろ?」
「まったく、……本気で言っているのかね? 貴様は本当に見下げた器の小さい男だな」
「んだと、じゃあ、いっそ一気に行くか?」
「そういうことを言っているんじゃない。照れ隠しに子供を脅かすなと言っているんだ」
呆れたようなその声は、己を助けてくれた男より低く、かすかな掠れを含んでいる。彼の言葉に苛立たしげに舌を打った男は、ドアを音を立てて開け放し、おい、話は聞こえてただろ、今夜中に食っちまうぞ! と声を張るが、眠り続けるこちらを見ると毒気を抜かれたように、なんだ、寝てんじゃねぇか、と呆れたような声を漏らした。
「ランサー、知らなかったのか? 人間の子供は夜眠るものだ」
「うるせぇ」
「せっかく助けておいて、まず脅かしに掛かる君の方が子供じみていると思うがね。好きであぶない橋を渡ったというに、本当に物好きな男だな」
それにランサーと呼ばれた男は暫く黙り込んだようだった。暫くの逡巡の気配の後で、やがて、わりぃな、アーチャー、お前まで巻き込んじまって、と彼は小さく言葉を漏らす。
「……いや、いいさ、君がお人好しなのは良く知っているし、助けてしまったものは仕方がない」
そう言って男はこちらの傍に屈み込むと、指の腹で眠るこちらの頬に触れた。氷のようにひどく冷たい指先に意識はすっかり覚めたが、一方身体はぐずぐずと眠りを離したがらずに、ただ小さな唸りが喉の奥より漏れる。
ああ、熱いな、とややして呟いた男は、ランサーの方を軽く振り返ったようだった。火のようだ、とそうして感嘆を声に混ぜて言うのに、ああ、とランサーは笑って答える。生きてるよな、と言うのに、男が頷くのが、空気のかすかな震えで伝わってくる。
気付けばまた眠りの海に沈んで、どれほど眠っていたのか、目を覚ました時にはすでに日が高く上がって、昼を少し過ぎたところであるようだった。 男達の姿は何処にもなく、バラックの窓から顔を出せば、目の前には薄汚れた砂浜と、冬であっても青色の美しい海の眺められる。空はすっきりと晴れ上がって、所々に取り残された雲だけがほつほつと浮いている。
写真で見た事こそあったものの、実際に海を眺めるのは初めてで、士郎はひどく嬉しくなり、昨日家族を失ったというのに海を見ただけでこうも喜べる己に内心ひどく驚いた。その興奮がある程度落ち着けば、途端に忘れていた寒さを身体が再び思い出して、腕を擦りつつ冷えを凌げそうなものを探す。だがやはりそれらしきものは見当たらずに、己は部屋の中央でやがて一つくしゃみをする。
テーブルの上には、何処かの店で買ったのだろうサンドイッチが袋に包まれたまま一つ置かれていた。それを腹に納めた後で、改めて部屋を見回せば、ひどく簡素で物も少なく、必要なものさえ碌に置かれていない室内の様子が狭いために一目で眺められた。その中で唯一目を引いたのは、蓋の重々しく閉まった大きな棺で、水道で手を清めると、己はそちらへと近付き恐る恐る蓋を持ち上げる。
そうして中を覗き込めば、ランサーともう一人の男とが、向かい合うようにして眠っているのが眺められた。大きな棺と言っても大人二人が入るには狭く、互いの身体には僅かの隙間もない。ランサーの手が、アーチャーと呼ばれた男の手を握り、一方のアーチャーも彼の肩に額を預けている。何やら見てはいけないものを見たような気分になりながら、ランサー、アーチャー、と己は彼らを小声で呼んだが、深く寝入っているのか目を覚ます気配はなかった。試しにランサーの頰に触れてみたが、ますます指先が冷えただけで、己はゆっくりと蓋を戻し、後は手持ち無沙汰にまた海などをただ眺めて過ごした。
黄昏に海が金色に染まり、その名残もすっかり消え去って部屋の内が真っ暗になった頃、棺の蓋を押し上げるけたたましい音が背後から響き、うとうととしかけていた士郎は飛び上がるほど驚いた。眠そうな顔をしてドアを開け、部屋へと入ってきたランサーは、よう坊主、元気そうじゃねぇか、とこちらに声を掛けながら、のろのろとハンガーにかけてあったワイシャツを手に取り、前を閉めるでもなくただ肩に羽織った。
後から部屋に入ってきたアーチャーもこちらを一瞥するとワイシャツを羽織り、彼へと指先を伸ばして、互いに互いのワイシャツのボタンを詰めていく。靴下とスラックスを履き、服についた埃は手で払う。そうして櫛で互いの髪まで整え始めたので、一声掛けられて以来放って置かれていた士郎は面食らい、もしかしてあんたら、それ毎日やってるのか、と恐る恐るではあるが訊ねた。
アーチャーはそれに顔を顰めると、無言で背後の鏡を指差す。そこに二人の姿が映っていないのに気付いたところで、俺たちみたいな存在は、こうやってお互いに整えてやらないとすぐに小汚くなるんだよとランサーが苦笑をし、ネクタイを締めるアーチャーの手を労うように叩く。
そうして、それじゃ俺は仕事に出るから、聞きたいことあんならアーチャーの方に聞いてくれ、こいつ今日は非番だからよ、と言って、彼は慌てたようにバラックを出て行った。それを目だけで見送り、くしゃみをすれば、そうか人間は冬寒いのだったな、と己と共に残された男は小さく笑って、クローゼットの中からコートを取り出し、こちらの肩へと静かに掛けた。
彼は部屋中の燭台一つ一つに丁寧に火を灯した後で、椅子に腰を下ろし、己には対面の席を勧める。少し明るくなった部屋の中でまじまじと男の姿を見たが、彼は白髪に近いようなアッシュグレイの髪に、やや灰がかった榛色の瞳、膚は褐色で、ランサーとはまた違った意味でひどく目を惹く容姿をしている。
「ランサーは何処に行ったんだ?」
「仕事先だよ。夜間だけ病院に勤めているんだ。私も同じ場所で働いているが、今日は幸いなことに非番だからな」
ふぅんと頷けば、男はふいにこちらの名を訊ね、士郎と答えれば、そうか、私はアーチャーというと彼は今更に名乗ってみせる。知ってるよと眉根を寄せれば、彼はかすかに喉を震わせて笑ったようだった。姿形も声も表情も、まるで人間と同じだが、バンブーは歳を取らないというから、己より本当はうんと年上なのかもしれない。また、彼の身体からは時折ふと、ランサーと同じ、植物のような爽やかな香りのする。
「それで、士郎と言ったか。貴様にまずは幾つか話しておかねばならないことがある」
「うん、」
「まず一つ目だ。ここは治安が悪い、夜は絶対にこの部屋から出るな。出るなら私かランサーがいる時にしろ。散歩程度も駄目だ、昼間も可能な限り出歩かないようにしろ」
「……俺を助けたのはランサーだ。あいつが命令するならまだしも、あんたの言うことなんか聞く気はない」
彼の高圧的とも思えるその物言いに、ついむっとして言葉を返せば、彼はかすかにその眉を顰めた。だがため息を吐き出すと、すぐに目を細め、静かな声で言葉を続ける。
「確かに貴様の命の恩人は彼だが、私はその同居人として、貴様を守る義務がある。不本意だろうが、わざわざ救われた命をそこらで打ち遣ることもないだろう。路傍の死体になりたくなければ守ることだ」
それに己が黙り込めば、反応を承諾と取ったのか、彼は足を組み変え、ふむと呟いた。時折かすかに瞬く瞳はこちらを捉えて、感情を探るようにこの目を覗き込む。
てっきり見知らぬ子供が突然転がり込んできたのに腹が立ち、強い語調をわざと選んだのだろうとばかり思っていたが、単にそういう言葉の使い方しか出来ない男なのだろう、とそこでようやく士郎は気付いた。実際、その瞳にはこちらを案じる色の滲み、表情にはかすかな緊張の見えるものの、特別に険しいという訳でもない。そこまでを見て取ったところで己はやにわに申し訳ないような気分になり、分かった、と小さな声で呟いた。
「さっき言ったことはここでは絶対に守れ、治安は上の地区とはまるで違う。……それに、どうやら君たち一家を殺す命令をしたマフィアのボスは、よほどご立腹らしいからな。こんな界隈にまで、十歳くらいの見知らぬ少年を見つけたら、連れてこいなどという話が回っている。
全くご苦労なことだと言わざるを得ないが、まぁ、確かに困ったことにはなっているな。だが貴様もずっと外に出ないという訳にもいかんだろう、学校には通うべきだし、昼のうちにいくつか済ませたい用事もあるから、それは貴様に頼みたい」
それに、俺、学校に通えるのか、と驚いた声を返せば、まともに機能している学校ではないが、勉強を教わることはできると彼は答えて、目を細めた。先生は一人だけだし、貧しさのために長く通えない生徒ばかりだがな、悪い所じゃない。それにみんな戸籍もあやふやな連中ばかりだ、授業を受ける際も、偽名を使えばそれでどうとでもなるだろうさと続ける彼に、でも、俺、見つかったら殺されるんだろと声を小さくすれば、アーチャーはかすかに笑ったようだった。
そうして椅子の傍に置いていた紙袋を手で探ると、服を掴んでこちらへと差し出す。受け取ったそれは、丸襟と袖の返しのみ白く、あとは紺色で統一された、シンプルながら可愛らしいワンピースだった。訝しげに首を傾げれば、探せと言われているのは十歳の男の子なんでね、と彼は面白がるような色を頰に浮かべ、それを指差す。
「貴様は今日から、男ではなく女として暫くは生活しろ。どうせ人に溢れたこの町だ、見知らぬ顔に会うことなどいくらでもある。ああ、十くらいの子供だ、と思ったところで、男でないと思えば皆すぐに関心を失うさ」
そう口にした男は「生き延びたいのなら擬態しろ」と言って立ち上がると、こちらを立たせ、己が着ていた服を脱がし、先ほどのワンピースを頭から被せた。そのまま、ランサーにしたように髪を丁寧に梳り、ああ、髪も切らずに伸ばしたほうがいいな、とそこでふと呟く。そうしてこちらを鏡の前へ連れて行き、なかなか似合うじゃないかと言って、背後で小さく笑ったようだった。己の肩に手を置く男は相変わらず鏡には映らず、すっかり幼い少女のようになった己だけが、戸惑ったような表情でそこには映り込んでいる。
その後、彼は学校の位置や、外へ出た時に気をつけるべきことなどを丁寧にこちらに話して聞かせた。そのうち夜が深まり、己が眠くなり始めたのに気付くと、ああ、そうか子供はもう寝る時間だなと言って、ランサーよりは丁寧に床にタオルを敷き詰め、己が羽織っていたコートを毛布代わりにかける。
ああそうだ、あともう一つ、と彼が言うのに、何だよ、と返事をすれば、暫く言い淀んだ後で、たまに気が向いたら食事の材料を買ってきてほしい、と目を反らしつつ言うので、あんたらの食事の? と首を傾げれば、いや、とまたしても言い淀む。
「実は、ずっと料理というものをしてみたくてな。バンブーは血以外受け付けないから、今までは作ったとして、誰も食べられる奴がいなかったが、……これからは、貴様の食事があるだろう?」
仕事先の人間に料理が趣味の奴がいてな、内心では羨ましかった、と照れたように言うのについ声を洩らして笑えば、彼は眦を釣り上げたが、その端が仄かに色付いているのでまるで恐ろしくはなかった。彼はこちらが寝付くまで傍にいてくれたようで、瞼を下ろしていても、時折本のページを捲る音が、潮騒に混じって細やかに聞こえて来た。
士郎がようやく学校に通うようになったのは、冬の冷たさのすっかり温んだ、春を少し過ぎた頃の事だった。アーチャーの方はすぐに学校へ通わせる気でいたらしかったが、頻繁に外に出るようになるのはもう少し髪が伸びた後がいいだろうとランサーが判断したために、冬の間、己はほとんど件のバラックから出ることなく日々の大半を過ごした。
また、疲れが身体に残っていたのと、寒さに晒されたためだろう、風邪をひいたようでもないのに暫く熱を出し、体調が戻るまで己は二人に甲斐甲斐しく看病をされた。常にやや熱を持ったような子供の背を、彼らは時折掌で摩り、額の汗を濡らしたタオルで拭う。浅い眠りを遮らないように、彼らは二人して非番の日にも、声を潜めて話をしているようである。
そうやって数週間を共に過ごして分かったのは、彼らがまるで自分の子供にするように、己に深い愛情を注いでくれていることと、生きている者への羨望を、強く彼らが抱いているらしいということだった。それは敬意と呼び換えられるほどのもので、まだ幼い己をしばしば驚かせた。
寝付くこちらを心配しながらも、発熱する身体に冷えた手で触れては火のようだと言う彼らの目には、羨む色がちらと宿って、それが優しい眼差しの中にふと溶ける。
初めは知らない男たちとの生活に戸惑った士郎も、その頃にはすっかり二人のことを好ましく思って、ランサー、アーチャー、と声変わり前の幼い声で彼らを呼んだ。そうすればランサーは嬉しそうな顔をして、おうと頷き、アーチャーは表情はそのままに作業する手を止めて、こちらへと静かな眼差しを向けた。
そうして日々の生活にも慣れ、身体もすっかり回復をしてからは、己は春の陽射しの下、バラックの街並みを抜けた先に建つ粗末な小さな建物へと向かい、先生にほぼ毎日、朝から夕方まで勉強を教わった。教科書を買う金のない子供も多いのだろう、先生は毎度必ず教科書をコピーしたものを配って、静かな声で授業を始める。教室にいるのは、己も含めて多くても十人と言ったところで、その中でも己は間違いなく、一番に熱心な生徒だった。コピーを持ち帰って、夜になっても己は勉強に励み、そのうち中学の教科書を先生が特別に貸してくれるようになってからは、夜更かしをしてまで様々な教科をよく学んだ。
その様子を見て、坊主は真面目だなぁ、いつかえらい大人になるぞなどと言うのがランサーで、真面目なのは良いが睡眠をよく取らないと身体に障るぞと眉を顰めるのがアーチャーだった。だが、己が分からないところなどを訊ねれば、溜息を一つ零した後で、低く耳に馴染む声で丁寧に説明をしてくれるのも彼である。ランサーはその間、アーチャーの傍らに腰を下ろし、頬杖をついて、彼の声に耳を澄ませているようだった。
きっとランサーはアーチャーの声が好きなのだ、声だけではなくて、アーチャーの全てが多分、大好きでたまらないのだ、というのは、士郎も幼いながらによく理解をしていた。彼が己を呼ぶ声は愛情に満ちていたが、それとはまた別に、何か甘やかなものが、アーチャーを呼ぶ際の彼の声には乗る事があった。
自分が料理を食べられないことを悔しがり、また羨ましがっているのも、料理をしているアーチャーではなく、ランサーその人だった。バンブーは人の食べ物に口を付けられないのだから仕方ないだろうとアーチャーは呆れたような息を吐き、彼には冷蔵庫の中の輸血用パックを投げ付ける。
僅かも口に出来ないのは勿論アーチャーも同じ事で、味見さえ出来ない彼の料理は初めの頃は、味という点においてはとにかくひどい出来だった。塩が入りすぎていたり、逆に味気なく素材の味だけが舌の上に乗る。だが元々何事にも凝る性質なのだろう、最近は見目、味共にすっかり整って、己の胃をその都度温かに満たした。
己はアーチャーの作る料理の中でも、特にじゃがいもと玉ねぎをただバターで炒め、コンソメを少し混ぜただけのスープがお気に入りだった。彼が初めて作った料理がそれで、塩加減などまるで知らないアーチャーのそれは、ひどく塩辛く、食べ終えるまでに己は何杯も水を飲んだ。アーチャーは無理して食べなくていい、と困ったような顔をして言ったが、己は結局全てを無理やり腹に収めた。
食べ終わった時、誰かが自分のためを思って作ってくれる料理はこんなに嬉しいものなのだと思い出し、かつての生活が懐かしく胸を塞いで涙がふと零れた。辛かったけど、美味しかった、と言えば、そうか、とアーチャーは静かに微笑んで、涙の訳は聞かずに、次は何が食べたいかを己にただ訊ねた。己は小さな声で、牛乳をたっぷりと入れたシチューを彼にねだり、彼はそれに小さく頷いた。
死んでしまった姉のことを思い出すのは、そうした日常のささやかな一瞬がきっかけとなることがほとんどだった。死んだ時の、見開かれた目や、流れ出ていく血のことを己は考え、昔よくしたように神に祈ろうとして、止めた。神様が皆が思うような素晴らしいものだったなら、あんなに優しく美しかった姉をあんな目に合わせるはずがないと思って、神を信じるのを士郎はとうに諦めていた。
日々少しずつ大人びていく鏡の中の己に、士郎はつい姉の影を重ねた。髪色以外はよく似た姉弟だったから、と胸の内に呟きながら、優しかった姉の笑顔や、こちらの手を引く掌の温かさをそうして思い出し、時折はランサーが買ってくれた毛布に包まって、嗚咽も殺さずひどく泣いた。
一方、二人はと言えば、己の成長をたびたび大げさなほどに喜んで、また背が伸びたんじゃないかと言っては、こちらの背を柱に当て、頭の高さにたびたび傷をつける。あまりに頻繁にそうやって測らされるものだから、柱は随分細かく傷ついて、見るたび士郎を気恥ずかしいような気分にさせたが、彼らはそれを指差して、子供は見る見るうちに大きくなるな、ああ、だって生きているからな、と顔を突き合わせるようにして言葉を交わしている。彼らは相変わらず、己が成長しているということをひどく尊び、そうしてこいつには俺たちを違って火があるからな、と言って、生きていることそれ自体を祝福した。
ランサーもアーチャーも生きてるじゃないか、と言えば、二人の表情には、よく似た柔らかな苦笑が広がり、互いにふと目配せをする。そう言った一瞬に、士郎は己だけが仲間外れにされたような、淋しさと苛立ちとを覚えて、その表情から思わず目を逸らし、拗ねたように口を引き結んだ。彼らが大好きだからこそ、二人にしか分からない何かがある事がひどくもどかしかった。しかし訊ねたところで余計困らせてしまう事は分かっているために、士郎は結局は何も言えずに口を噤むしかないのだった。
勉強をするようになってからというもの、時間はあっという間に過ぎ去って、半袖の薄いブラウスを着ていてもじっとりと暑さの纏わり付くようになってようやく、ああ、夏がもう来たのだと思って、士郎はひどく驚いた。空には入道雲の白く高く湧いて、時には気まぐれに激しい雨を降らせた。晴れの日は海の照り返しが目に眩しく、かすかに日焼けしたこちらの頰や腕を見て、ランサーはもうすっかり夏なんだなぁと呟き、自分では食べられないアイスなどを買ってきては、冷凍庫に入れて、昼間に食べるように言った。小さな冷凍庫はいつもアイスで隙間も見えず、一方冷蔵庫には、彼らの食事である血液のパックと、こちらの食事の材料が、ちょうど半々に収められていた。
本来は輸血用であるそのパックは、勤務先で購入しているとの事だった。夜間病棟での勤務って、患者の面倒見たりするのか? と聞く己に、ランサーは、俺は警護っていうか棟内の見回りで、こいつはモルグの方の監視だな、と傍らのアーチャーを指差して答えた。モルグって、と首を傾げれば、霊安室だ、死体を盗まれる事があるから、一人監視員を付けているんだとアーチャーは口にし、士郎はそれを想像して少し怖くなった。
更によく話を聞けば、基本誰も夜の間中そこを訪れず、たまに見回り途中のランサーが顔を覗かせるばかりであるらしい。
「死体ばかりの部屋の中で、一人きりで夜を明すんだろ、嫌な感じはしないのか?」
己のその言葉には、彼は薄く笑って、生きている人間より死んでいる人間の方が、私たちには近しいぐらいだ、恐ろしくはないさ、と短く息を吐き出す。死体は貴様のように暖かくはないからな。
ランサーもアーチャーも非番の日を除けば、起きてすぐに忙しなく出て行ってしまうが、どれだけ急いでいる日であっても、アーチャーが毎日欠かさずに、丁寧にこの髪を梳いてくれるのは嬉しかった。助けられたばかりの頃は、いかにも少年らしい短さをしていた亜麻色の髪は、今では肩につくほど伸びて、先の方だけ癖が出てかすかに外側に跳ねている。
こうなってみるとそこらの嬢ちゃんより可愛いぞ、坊主、と自分はすっかり身なりを整えてもらったランサーが、髪を梳かれるこちらを眺めて笑うのには、ああ全く違いないと、アーチャーも揶揄うような目をして頷く。うるさいな、と言っても、二人は小さく声を上げて笑うばかりで、己は悔しがって頬を膨らせ、もう違和感も覚えなくなってしまったスカートの裾を掌で押さえるしかなくなるのだった。服はこの数か月でかなりの枚数になったが、買って来るのはランサーではなく、決まってアーチャーの方だった。
あいつは素直じゃねぇから言わねぇだろうが、お前が指名手配みたいなことになってるって知って、あいつ本当に心配して、慌てて店も遠いってのに服を買いに行ったんだぜ。
初めて女物の服を着せられた翌日、ランサーにそっと耳打ちをされたのを、新しい服を受け取るたび士郎は思い出す。そうして心の底を擽られたような心地になりながら、短く礼を言い、新しい服に袖を通す。すぐに身体が大きくなって着れなくなってしまうのに頭を痛めたのだろう、最近ではやや大きめの服を彼は毎度買って来て、その日買ってきたスカートも試しに履いてみれば、己の足首までをすっかりその豊かな裾で覆い隠した。
彼らと過ごす日々は、士郎にとって、ひたすらに平穏で幸福なものだった。外では人の死体や、売春する男女のまぐわいなどの、嫌なもの、恐ろしいものを多く見せられ、己は家族を殺された日のことをその度に思い出したが、バラックに戻ってくればそれらは急に遠くなって、己は先程まで息苦しかった分を取り戻すように何度も深呼吸をした。
どちらかが非番の日には、彼らは己をソファに呼んで傍に座らせ、ランサーであれば笑いなど混ぜつつ、アーチャーの場合にはただ淡々と、昔の思い出について語って聞かせた。二人は数年に一度、別の街に引っ越すような生活を続けていたために、様々な町のことを知っていた。
さすがに歳を取らないと悟られるとまずいからな、とランサーは言って、喉の奥を震わせるようにして笑う。ひとところに長くは留まれないが、化け物らしく町から町へ渡り歩くのも、それはそれで楽しいもんさ。
寝物語にそれらの話を聞くのが、士郎はとても好きだった。彼の口から語られるのは、山の麓の町の一軒家、よく整備をされた都会の中にほつりと残されている廃墟、湖のほとりの小さな家と、日によって様々で、己を飽きさせるということがなかった。
俺はこう見えて釣りが得意なんだぜ、湖ではよく魚を釣って、それを売って小金を稼いでた、とランサーはたびたび話して聞かせたが、この町だと漁業権だなんだって船持ってる野郎がうるせぇから、おちおち釣りも出来やしねぇんだが、と顔を顰めてぼやいてみせたこともあった。
アーチャーは手先が器用だから、釣竿を作らせても、そこそこのもんを必ず作ってな。ああ、そういや寒い地方だったから、冬になると湖に氷が厚く張るんだ。あいつはそれを眺めるのが好きで、二人で仕事のない日には、その上をただただ向こう岸まで歩いたりした。
何が楽しいのか俺には分からなかったけどよ、上機嫌なあいつなんざ、お前が来るまでそうそう見れるもんじゃなかったから、悪い気分じゃあなかった。輸血用のパックを家まで運んでる間に、凍っちまうのは本当に面倒だったが、それ以外はまぁ良い所だったぜ。あいつも一番に気に入ってたみたいだった。
そう懐かしむように話して彼は笑う。珍しく家を離れる時、名残惜しそうにしてたからな。いつか引っ越す時に、ああいう家が見つかると良いんだが。
そうやってかつての住処の話をしていても、彼の口に上るのはアーチャーの事ばかりで士郎は半ば呆れたが、彼について語る時のランサーの声色は低く囁くようで、耳に快かった。二人で腰掛ける革張りのソファに己の体温の移ってすっかり温んでも、己は強請って、彼に話を続けてもらう日もあった。
「なぁ、このバラックにはいつ頃から住んでるんだ?」
ふと気になってその事についてある日訊ねれば、ここに住むのは実は二度目でね、前に暮らしたのは確か四十年も前のことだったか、と首を傾げる。場所はここで間違いないんだが、建物自体はすっかり建て直されて、以前の名残はなくてな。アーチャーは残念がっていたが、すぐにけろっとした顔で、以前住んでいたバラックよりは出来が良いなと言って、荷解きを始めてたな。あいつ、そういうところがあるんだよ。
士郎がそれに眉を顰め、アーチャーって、神経質だけど時々びっくりするほど大雑把だよな、と言えば、ランサーが声をあげて笑う。四十年も前から、アーチャーと一緒にいたのか、とその笑いが落ち着いた頃に訊ねれば、彼は頷き、目の端に薄く笑い皺を寄せた。
「あいつとは、そもそもこの町で出会ったんだよ。だからこそここにもう一度戻って来たんだ。いい思い出のあまりない町だが、俺に取ってもアーチャーに取っても、なんつーか、縁の深い場所だからな」
ランサーはそう静かな声で言って、こちらの表情を覗き込むように頬杖をつく。
そうして幾つかの街の話を聞いても、まだ眠気が瞼を重くしない時には、己はバンブーについて、知っている事を教えて欲しいと彼に頼んだ。アーチャーに頼むと彼は眉間に薄くしわを寄せて黙り込んだが、ランサーは誰にも言うなよと前置いて、訊ねる事はほとんど全て教えてくれた。
バンブーは人間に紛れて、大抵どこの町でも生活をしている事、特にこの町にはかつての王族の子孫がいるために、その男が大抵の事は取り仕切っている事、月に一度の集会では、町中のバンブーたちが集って情報を交換する事。その他様々を、整然と順序立ててランサーは説明した。
鏡には映らないが、吸血鬼ではないので十字架は恐ろしくない、血は新鮮なものであれば、人間ではなく家畜のものでも飲める、日の光を浴びれば膚が焦げて行って炭になり、最後にはただの灰になる、あとはなんだったかと首を捻るランサーに、そういえばバンブーって中国の妖怪じゃないのかと訊ねれば、彼は暫く唸って、まぁあれだ、近代化が進んで、今までは人と上手くやっていけていた怪物まで人里から駆逐されたんだよ、と呟いた。
半分は人なんか立ち入れないような山奥に逃げて、もう半分は船を作って、命からがら逃げ出した。アーチャーもその中の一人だったらしいが、その辺りはあいつあんまり話したがらないんだよな。正直俺は、バンブーたちの、法律を破った者にひどい刑罰を与えて見せしめにする性根には虫唾が走るが、法律が必要だってのはちゃんと分かってる。俺たちは人に存在を知られれば、迫害される宿命だから、知られるような行為は互いで牽制しあって、やめさせにゃならねぇってわけだ。
だから、人を殺すと樽に詰められて地中に埋められるんだな、と言えば、彼はよく覚えてるなと言って、目を細める。火刑とかもあの時言ってた気がするけど、それって何、と訊ねれば、柱か何かに縛り付けられたまま、陽の光を浴びさせられるんだよ、そうすると焦げて死ぬだろう、それをあいつらは火刑って呼んでる、と彼はひどく嫌そうに答え、胸ポケットを探ると煙草に火を点けた。でも、それって、どんな法律を破った時に行われる刑罰なんだ、と次いで訊ねれば、そこで初めてランサーは言い淀み、目を細める。
ランサー? と促せば、うんと悪い事をした時だな、他のバンブーたちにも危害が及ぶような、とだけ言って、あとは重く口を閉ざした。訝しく思い、もう一度訊ねようとした所で、アーチャーが帰って来、ランサーは先程まで話していた事を忘れたように、いつもの笑顔で彼を迎え、労わるようにその肩を優しく抱いた。
ある日、いつものように勉強を終え、バラックに帰ってきた士郎は、棺を拳で軽く叩いてただいまの挨拶代わりにした後で、冷凍庫からアイスを出し、海を見ながらすぐに溶け始めるそれを一口ずつ丁寧に食べた。最近は非番時のアーチャーと共に料理をする事も増えて、自分でも食事を作れるようにはなっていたが、そこまで空腹ではなかったのでアイス一個で事足りた。
今日はスコールのような雨が降っていて、窓の向こうの海は普段の青さを忘れたように暗い。バラックの薄い屋根を激しく雨が叩いて騒々しく、雨が隙間から漏れ入って来やしないかと士郎は心配だった。今日は雨のために学校に長居出来ず、また家で勉強をしようにも屋根の音が騒々しく、気が散ってため息と共に教科書を片付ける。そうして海を横目にしつつ、己はソファにごろりと横になり、瞼に乗った眠気に抗わず、暫くの間眠りについた。
ふと目覚めるとすでに夜になっていて、雨は和らいだもののまだ屋根を叩き続けていた。二人はもう目覚めているはずだが、気配が隣の部屋にあるだけで、物音もせず静かだ。かすかに頭を持ち上げれば、開け放されたドアの向こう、二人が顔を突き合わせて、何やら小声で話しているのが目に入る。ランサー、と己は呼ぼうとして、彼の掌がアーチャーの頰を優しく撫でたのに、呼び掛ける声を慌てて喉の奥に仕舞い込んだ。
彼は指の腹で頰を数度辿るようにしてからこめかみに口付け、その後で彼と唇を静かに合わせた。アーチャーは目を細めて彼の好きにさせていたが、やがて手を持ち上げ、抱き返すように彼の背へと緩く腕を回した。唇の表面を擦り合わせるだけだったそれが、数度繰り返すうちに強く押しつけるようなものになり、ランサーがシャツの裾から手を差し入れその腹を撫で上げるのに、ランサー、ここでそれ以上は、と彼は小さく声を漏らしたようだった。
分かったよ、でもキスだけならいいだろ? と笑い、唇を薄く開いたところで、アーチャーはふとこちらの視線に気付き、はっと身体を強張らせた。己も驚きにびくりと身体を揺らし、彼の視線から逃れるように僅かに身を引く。
ランサー、と言って慌てて彼は胸を押したが、その意図には気付かなかったのか、ランサーは再び唇を重ねて、制止の言葉を吐こうと薄く開いた隙間から舌を差し入れた。アーチャーの肩がふるりと震えて、押し留めようとしていた手が、彼のシャツを縋るように掴む。薄い褐色の頰が、それでも上気して赤く染まるのが、薄暗い中でも良く分かり、きっと己は今見てはいけないものを見ていると思って、早鐘を打つ心臓を宥めつつ視線を彼らの足元へと下ろし、身体を小さくした。
ようやく唇が離れた時、ランサーは胸を強かに殴られ、短く呻いたようだった。痛ぇじゃねぇか、と言ったところで、ようやく居た堪れないこちらの様子に気付いた彼は、坊主、起きてたのか、悪ぃな、お子様にゃちいっとばっかり早かったよな、とからりと笑う。一方のアーチャーはその背を強か掌で叩くと、申し訳なさそうな面持ちで、嫌なものを見せたな、と言ったので、士郎は慌てて首を横に振った。
彼は暫く黙り込んでいたが、その様子だと何も食べていないだろう、何か作ろう、と努めて普段通りの声色で言って、キッチンへとその足を向ける。己はその間にランサーへと近寄り、彼に聞こえないよう小声で、あんたら恋人同士だったのかと訊ねたが、ランサーの方では隠す気も特にないらしく、ああ、もうずっと数十年くらいな、と小さく笑って答える。
あいつが坊主には見せたくないって言うから、普段は病棟のほうでしかやらないんだが、と首の後ろを掻いて、まァ、見せられて気持ちいいもんじゃねぇよな、悪かったよ、と繰り返すので、それにも己は首を横に振った。ランサーだけでなく、アーチャーもまた彼のことが好きなのだと思えば、ふと嫉妬が胸に閃いたが、それはどちらか一方へ向けたものではなく、大切な人を二人いっぺんに取られたような、淋しさと幼い独占欲とが混ざったものだった。それに胸を散々に掻き乱されて、己はしばらくの間、困ったように眉を寄せていた。
その日の食事は、トマトとチーズのリゾットだった。それを口に運びながら己は、ここでこれ以上はと言ったアーチャーの言葉と、病棟でしかこういったことをしないというランサーの言葉とを思い返し、常に明かりの絞られて薄暗い霊安室の事をつい脳裏に思い描いた。
普通の病棟なら、モルグの壁についた大きな引き出しの中に遺体は仕舞われるんだが、貧乏な病院なのでね、ただベッドが並んでいるだけなんだ、とかつてアーチャーが話した通りに想像の中の彼とランサーは、死体の並ぶ部屋の中で空いているベッドに二人乗り上げ、互いの膚に触れ、口付けていた。普段から掠れたアーチャーの声は、ますます掠れて甘さを含み、薄く透ける青色の髪をその指先が掴む。ランサーの目が優しく細められ、彼の歯が薄褐色の喉を噛む。
そのままどこまでも進みそうになる想像を士郎は振り払って、己と対面に座り、相変わらず気遣わしげな顔をしているアーチャーに、今日のご飯も美味いよと笑いかけた。そうして匙で掬った分を口へと運び、緩く嚥下すると、沈黙が重くならないうちにテレビを付け、夜のニュースを暫くの間眺めた。
その後ランサーの方は開き直ったらしく、己が見ている前でも、時折はアーチャーの頰や口の端などに口付け、その髪を指先で梳くようになった。性的な意図はなく、ただ愛しさを込めたようなそれは、士郎を戸惑わせることはなく、また初めの頃は嫌そうにしていたアーチャーも、そのうちに諦めたようで今では彼の好きにさせている。
恋仲である事を知ってからというもの、彼とアーチャーとが二人、ソファなどに座っている際に互いに凭れ合うようにしているのにも、士郎は別段の違和感を抱かなくなっていた。時折寂しくなって二人の隙間に割り込むが、彼らは嫌がるでもなく、一人分の隙間を空けてくれ、なんだ、寂しかったのか、とアーチャーが意地悪く喉の奥で笑う。それに、そっぽを向けば、ランサーと今度は目が合い、犬にするように頭を撫でられるので、折角梳いてもらった毛は途端にぐしゃぐしゃになり、ひどく縺れるのだった。
そうして三人並んで座り、やや電波の入りの悪いテレビをしばしば眺めた。運が良ければ音も飛ばずに番組を眺められたが、電波の上手く拾えない時には砂嵐が画面をただ流れる。
夏であっても彼らの膚は時折ぞっとするほど冷たかった。一方のアーチャーは暖かくて火傷しそうだなどと言うので、気を使って身を離しかければ、ああ別にこいつも悪い意味で言ったんじゃないと、ランサーの腕に引き戻される。
二人とも二十歳を少し過ぎたくらいの見目の男性ではあったが、こうしてどちらもが非番の日に三人並んでテレビや映画を眺めていると、両親と子供が並んで家族としての時間を過ごしているような奇妙な感慨があり、己は時折甘えるように彼らの手をおもむろに握ってみたりした。
「そういえばバンブーって、大抵は二人で暮らしてるんだよな? 人間でもなかなか恋人とか友人同士で暮らしたりするのは難しいのに、大変だよな」
ある時もテレビを眺めようと三人並んだが、風の強い日でアンテナのそっぽを向いたのだろう、砂嵐ばかりで見る番組もなく、手持ち無沙汰に己がそう訊ねれば、恋人同士友人同士で暮らしてる奴らもまァいるがよ、とランサーが言って、軽く肩を竦めてみせる。
「服装とか髪とかが乱れてると、途端に仕事につきにくくなるんだよ。だから同居はしてるし身支度は手伝うが、それ以外は触れず触らずみたいにやってる奴らの方が多いぜ。目的の一致ってやつさな。片方が出てったり何らかの理由で死んだりしたら、すぐに一人で暮らしてる奴を探して、一緒に住んだりするらしいしな」
じゃああんたらも、もし万が一って事になったら、別の誰かと暮らすのか? とふと不安になって訊ねれば、いや、とランサーは短く笑って目を伏せた。
「俺ァこいつに操を立ててるんでね。一人でも十分に生きていける自信もあるしな」
己がそれに頷き、次いでアーチャーへと視線を投げれば、私はすぐに別の誰かを見つけて共に暮らすがな、と言って鼻を鳴らした。ランサーはそうしないって言ってるのに、あんたは! と己が怒ったように言葉を強めれば、ふいに傍らから愉快そうな笑い声の立つ。
「おっまえ、そんな事言って、俺より何倍も長く生きてるくせに、俺に会うまでずっと一人だったじゃねぇか! 坊主、あんな、お前がガキで、可愛くて堪らねぇからこいつも優しく接してるってだけで、普段の態度はそりゃあもうひでぇからな。すぐ皮肉と嫌味言ってきやがるし、その上強情だからなかなか謝って来もしねぇ。坊主が思ってるより何倍も面倒臭い奴で、だからこいつと一緒に住むなら、俺くらい器の大きい男じゃないとな」
だからお前も、俺がいなくなったら一人で生きてくつもりなんだろ、と彼が続ければ、アーチャーはまた鼻を鳴らして、そっぽを向いた。ランサーはその肩を抱き寄せて、なぁ、と答えを促すように優しく囁く。
私のような男と暮らせるのは、お前のような頭の足りない男だけだからな、と呟く声は、気恥ずかしさにかかすかに常より掠れ、ランサーはすっかり頰を緩めて、お互いがお互いの運命なんだ、仕方ねぇさ、と言ってその頭に緩く頰を預けた。
秋になり冬が過ぎ、陽気が春めく頃には、すらりと伸びた背のために足首までを隠していたスカートもすっかり短くなり、今では幼さの残る丸い膝が辛うじて隠れる程度になっていた。一方、伸びた髪はアーチャーに一つに結わえられて、彼はそこにランサーの髪色に似た青のリボンを毎日結ぶ。学校の友人たちと遊んで路地を駆け回るたび、髪は馬の尾のように揺れて背中を擽り、一方髪留めをほどいている時には、量が多い上に海の湿気をよく吸う髪は、背中を覆うように緩く広がった。それを眺めるランサーは、獅子の鬣みてぇだなぁと、しばしばからかうように口にし、アーチャーも違いないと笑いつつ、多少はましになるよう、丁寧に髪を梳る。
授業はその頃になっても変わらずに楽しく、先生も熱心に生きるための知恵と教養とを教え続けてくれていたが、十人もいなかった生徒はさらに半分ほどに減って、小さな教室は時折はっとするほど寂しかった。コンテナ船への荷運びや、売春や、その他子供でも辛うじて出来る仕事のために、時間が取れなくなったのだと、町中で顔を合わせると皆口を揃えて言った。俺たちはどうせこの町で汚らしい大人になってくんだよ、でもお前はきっと違うよな、頼むから立派な大人になってくれよ、と祈るように告げられて、士郎は胸の詰まる思いだった。
「この町の大人は皆疲れたような顔をしてるし、年齢よりずっと老いて、いつも苦しそうだ。それでも、人間として生きるってことを、二人は素晴らしいことだと思うのか?」
そんなことが続いたある日、丁度揃って非番であった二人にほつりとそう訊ねれば、アーチャーは眉根を寄せつつも小さく口の端を引き上げ、ランサーは深く頷いた。そっかと呟き、そこで話を終わらせようとするこちらに被せるように、なぁ坊主、とランサーが存外静かな声を出す。
「人間って言うのは皆、命と言う火を持ってるし、その火がある限り、生きて成長していける。その間に、年だって取るだろう、老いて身体が言う事を聞かなくなる事もあるかもしれねぇが、それでも、火を燃やして忙しなく生きてくのが人間ってもんだ。俺たちにはそれがただ眩しいし、ひたすらに誇らしい」
分かるか、と言うのに頷かずに彼の目をただ見上げれば、彼の口元に柔らかな苦笑がふと滲んだ。まぁまだお前さんにゃ難しいかもしれねぇなぁ。そう呟き、かすかにその目を伏せた彼は、膝の上で手を組み替え、ふと息を吐く。
「なぁ坊主、誰にだって子供の頃は、俺たちのような親しいおばけの一人や二人いるだろう。でも大人になって、忙しなさのうちに少しずつ忘れ去っていく。それくらいでいいんだ。多くのものを取りこぼして、それでも新たなものを掴み取っていく、人間の性情ってやつが俺はたいそう好きなのさ」
それに、俺はあんたたちのこと、絶対忘れないし、ずっとここにいるんだから忘れようがないだろ、と怒ったように言えば、ランサーはその表情にちらと寂しさを覗かせて、こちらの頭を乱雑に撫でた。彼の優しい掌にかえって胸に切ない気持ちの染みて、己は目を伏せ、唇を噛む。
むしろ俺はあんたたちみたいになりたい。俺だけいつも仲間はずれみたいで厭なんだ。そう俯いて口にすれば、やめとけやめとけと言った後で、まぁ実のところ、なれねぇことはないんだが、とランサーは困ったように話を続ける。
「元々、俺も人間だったしな。アーチャーの方は生まれつきなんだが……。吸血鬼の話は聞いたことあるか? 血を吸われた奴も吸血鬼になるってやつ。バンブーの中にもそうやってなっちまったやつもいるが、基本人間を襲うような奴は確実に仕留めてから血を飲むから、正直なところそうそうない。基本は血液感染で、傷口なんかに血が触れると、身体がすっかり作り替わって、その夜のうちに同じ化け物になる」
「ランサーはなんでバンブーに?」
「俺の場合は、お前の家族を殺したのとは別のマフィアに属してたんだが、へまをしてね。撃たれて死にかけてるところに、こいつがやって来た。てっきりとどめを刺しに来たと思ったら、ただ傍に立ってじろじろ見てる。何だよ、って腹の傷を抑えながら聞いたら、こいつ、平気な顔で、『生きてる人間の血を啜ると法律に触れるから、君が死ぬのを待ってるんだ』とか言いやがるんだぜ? 俺としても、どうあがこうが死ぬと分かってたから、特に文句も言わずに蹲ってたんだが」
その時のことを思い出したのだろう、懐かしがるような彼の眼差しに、笑いの色がふと混ざり、だがそれも撹拌されたようにすぐに消えて見えなくなる。彼の目が一瞬アーチャーを捉えた後で、再びこちらへと静かに向けられる。
「だがそのうちにこいつが俺の前にしゃがみ込んで、死にたくないかと訊ねたから、俺は迷わずに頷いた。死なないだけで、二度と人として生きられないとしてもかと続けて聞かれたから、それにも頷いた。こいつは俺に血を分け与えて、このバラックに連れて帰ったよ。身体が作り替わっていく間、ひどく苦しかったし、身体の中から熱が消えてなお、身体が動き続けているのがひどく恐ろしいような気がした。
俺は部屋の中で暴れまわって、多くのものを壊したが、こいつは何も言わずに、黙って見ていた。衝動のまま、俺が犯してもそれは同じだった。俺は自分の身体がすっかり熱を失ったと思ってたが、こいつの膚に触れて、その冷たさに、まだ仄かに火の名残りが胸にあるのに気付いて泣いた。こいつも俺を抱き締めて、そこでようやく口を開いて、まだ少し暖かいななんて言った。その後二人なんとか寝れる棺の中で、抱き合って眠った。
それからずっと、こうして暮らしてる。あれだけ愛していた昼の海を見ることも、鏡の中に自分の姿を見ることもない。たとえ苦しみが伴うにしても、生きることへの倦怠が耐えがたくとも、老いってのは一種の贅沢だ。……まだお前さんにゃ難しい話だと思うがな、それでも自分から生きてることを手放すなよ、頼むから」
彼の声には有無を言わさない強い響きがあった。己は言葉に詰まって、縋るようにアーチャーを見たが、彼も緩く首を横に振った。永遠にあんたたちと一緒に過ごしたいって願いより、生きてくことが大事だなんて俺には思えない、と泣きそうになりながら言えば、そうだな、お前に生きてほしいと思うのは、私たちのただの我儘なのだろうとアーチャーは口にして、片膝をつくとこちらの身体を宥めるように抱き締めた。彼からは相変わらず、青く清々しい香りがして、士郎はふと滲みかけた涙をこらえながら、それを胸一杯に吸い込んだ。
それから一年が過ぎ、二年が過ぎ、士郎の背は他の男子と同じかそれ以上にすらりと伸びた。もう小さい子供じゃないんだから、と言って己は身長の高さを柱で測るのを止めさせようとしているのだが、ランサーはいいからいいからと言って、数か月に一度は必ず柱に傷をつけた。
しかし改めて柱を眺めると、まだ十歳だった、ここへ来たばかりの己は年の割に随分小さかったのだなと思え、また何十年も生きた彼らからすれば、あの頃の己は確かに赤子も同然だったのだろうとも考えた。家族を一夜にして奪われた経験は、発育不全の子供を急に大人びさせたが、その一方で胸の底に、まだまだ甘えたりないような頑是ない心が今でも蟠っていることを士郎はよく知っていた。薄く喉仏の張り出して、声変わりが終わり、身体は大人になりたがる一方で、あとしばらくだけは小さな子供のように、親であり友人でもある彼らの膝に凭れていたいと己は願って止まなかった。
声変わりのためにやや掠れた声については、どう足掻いても誤魔化しようのなかったために、苦し紛れながら、学校の先生には風邪を引いてしまってと伝えて納得をさせていた。だが、あまりにその期間の長く続いたのに心配をしたのだろう、医者にかかる金はあるのかある日訊ねられ、己は慌ててそれに頷いた。
その頃には生徒は三人から己一人だけになり、先生ももはや教卓は使わずに、己と一つの机に向かい合って授業を行っていた。教室の奥まで届かせるために声を張る必要がなくなったために、先生の声はしぼんだ風船のように、張りのなく小さかった。
この町で暮らす子供たちは皆、すぐに死んでしまうか、すぐに落ちぶれて行ってしまう。勉強を教え、せめて生活を助けようとしても、目先のお金のために、親たちは彼らを労働力として消費してしまうばかりだ。教えても、教えても、それが実ることなくただ潰えてしまうことが、僕にはただ悲しい。君だけは、きっと、高校へ行って、ただ一人の人として尊敬されるような、そういう仕事についてくれたらと思う。
ほつほつと零されるその言葉に己は続けるべき言葉を失ったが、やがて一つ頷けば、彼は眼鏡の奥の瞳を緩めて、有難うと呟いた。風邪、お大事にね、あまり長く続くようなら医者にかかりなさい、と慈しみを込めた声で微笑まれ、己は頷き、席を立った。高校へ進学したいことは、ランサーにもアーチャーにも己の口からすでに伝えてあり、奨学金などのことについて説明をした時には、私たちも出来得る限りの手伝いをしようと言って、アーチャーは目を細め、穏やかに微笑んだ。
己の顔立ちや背が大人びていく一方で、やはり彼らの姿はまるで変わらず、今では親と言うよりは、やや年の離れた兄のように眺められた。また、改めてよく見れば、彼らの造作の所々には未だ、幼さの名残のようなものが留まっていた。頬骨より下の、頬の輪郭や、膚の艶やかさ、濁ることを知らない美しい瞳に、士郎は時折は幼さ、瑞々しい若さのようなものを覚え、いつかは己は失ってしまうだろうそれらの眩さを目を細め眺めた。
見た目の年の差は、今、十あるかないかと言うくらいだろうか。彼らと同じ存在になりたいという憧れは未だ胸にあったが、期待を裏切りたくないという思いがそれを押し留めて、最近はそう口にすることも少なくなっていた。少しずつしなやかに伸びていく手足や、大人びていく自分の顔を眺めることは、変わっていく寂しさだけでなく、生きている誇らしさもまた胸に連れて来た。
だが現実の問題として、今は化粧で誤魔化しているものの、このままではいつか誰かに男だということが知られるのではないかと言うことが、己を漠然と不安にさせた。性別を偽っていると知られれば、疚しいことがあるのだと皆気付くだろう。上の方の町は相変わらず同じ連中が治めて目を光らせているはずで、己は腰に届くほど長くなった髪を時折指で弄びながら、そのことについて考えるでもなく考えた。
己と同じようにアーチャーも、こちらの髪を梳くような時には、ややしっかりとしてきた頬骨や、丸みを失いつつある頬を指で撫で、何やら考え込むような遠い目をすることがあった。明け方近くの己がうとうとと微睡んでいる時に、彼が誰かと電話をする声が耳に届くことが近ごろ増えたが、囁くように話すその内容まではよく聞き取れない。
翌日彼が目を覚ました時に訊ねれば、古い知り合いでねと彼は呟き、それ以上は話そうとはしなかった。彼が考えていることが、薄い膜越しに輪郭だけ捉えられるような、そうでもないような、曖昧で不安な心のまま、己はそれでも欠かさず毎日先生の待つ学校へと通った。
ある秋の日も、己はバラックの中を一通り掃除し、海沿いの道を辿って学校へと向かった。日に日に潮風の冷たくなって、塩を含んだそれが膚を少しかさつかせる。浅葱色の上着の襟をかき合わせ、思わず足を早めた士郎は、いつものように教室へと入ったところで、ふと喉に絡むような嫌な臭いを覚え、身を竦ませた。やがてそれがかつて嗅いだ覚えのある濃い鉄錆の臭いだと気付き、細い息を吐きながら、のろのろとした足取りで臭いを辿る。
覗き込んだ机の陰には血溜まりの眺められ、そこに力なく投げ出された足が履く見覚えのある靴に、士郎は細く、先生、と呼んだ。近寄れば、俯せに倒れた先生の胸に刺さっているナイフの柄が眺められる。近くに投げ出された鞄には漁られた跡があり、強盗だろうかと頭の中の、かすかに残った冷静な部分が囁いた。
混乱と驚きとに足は震え、士郎はそのままその場に座り込んだ。首筋に触れれば膚はすっかり冷たくなっていた。スカートの裾に血が滲みて肌寒く、かつての雪の日につま先を濡らした、母の血を己は思い出す。
学校には先生の他には、幼馴染だという用務員の男が一人いるだけだった。混乱がようやく喉元を過ぎて、足が動くようになった頃に、己は彼を教室まで連れてきて、どうすればいいのか指示を仰いだ。
死体を眺めて、彼はひどく呆けた顔をして、その身体を揺すり、数度それを繰り返した後で、その死体を抱き上げた。己は彼の意図を悟って、その後について学校を出、細い路地を二人しばらく並んで歩いた。先生の家はそこから程近くの、特に家々の密集した区画にあった。他に家族もいないということだったので、己と用務員の彼とで、先生を寝台の上に寝かせ、しばらくの間黙祷を捧げた。殺人があったからといって、通報するような先も、この街には存在しなかった。死体が腐ると衛生的に悪いという理由で焼き場はかろうじてあり、後で死体はそこへ運ぶと用務員の男は言って、後は黙り込んだまま先生の顔を眺めていた。
己もその横に座って、この数年、ずっと己に勉強を教え、生きる術を学ばせてくれた先生の次第に青ざめていく顔を見つめ、恐る恐る手を伸ばしてその指先を握った。ランサーやアーチャーのように、氷のように冷たい指先だった。
喉の奥に嗚咽がこもったと思えば、目から涙が溢れて止まらなくなり、手の甲でひたすらにそれを拭った。善い人ほど早く死んでしまう、と己は思って、母や姉や、己を慈しんでくれた家政婦たちのことを思った。若くして亡くなった本当の父のことも考えた。用務員の男は治安の悪さを理由に挙げて、一人で焼き場に行くと言ったが、己はそれに伴って、待合室で先生がすっかり焼けて骨になるのを待った。
骨を拾った頃にはすっかり日も暮れていた。まだ煩雑な手続きが焼き場であるようだったので、己は別れを惜しみつつ、家族が心配していると告げて一人で建物より外に出た。己の身体にはすっかり血の匂いが染み付いて、真っ白に洗い晒していたスカートは裾だけを黒く染めている。
海沿いのバラックまでは、およそ二十分という距離だった。確か二人が務める病院もこの傍だったなと思いながら歩くうち、ふと風を切るような音を耳の傍に聞く。それに振り向くより先に、身体に重いものが当たり、己は地面に胸を強打した。呻きつつ身を捩って仰向けになれば、こちらの背を強く殴り付けた少女の姿の、ふと目に入る。
強い痛みのために、立ち上がれずにいるこちらへとそのまま馬乗りになった彼女は、己と同じ年頃に見えたが、肩を掴む掌の冷たさに、彼女も己のよく知る怪物なのだと悟って背の冷えた。顔が近づけられ、噛みつかれるという恐怖にその頰をしたたかに殴りつけたが、かすかにその頭の揺らいだ程度で、肩を掴む掌はまるで緩むことを知らなかった。己も先生や家族と同じように、理不尽に命を奪われるのか、と思って身体を強張らせれば、少女はこちらを安心させるよう、ふと微笑んだが、その脇腹がふいに爪先に蹴飛ばされ、彼女の身体は地面に強く叩きつけられる。
坊主、大丈夫か! と傍らより響いたランサーの声に、ああ、助けに来てくれたのだと思って、深く安堵の息が漏れた。ランサーより少し遅れて駆け寄ってきたアーチャーが、こちらの背に手を差し入れ、立ち上がれるかと言うのに頷き、震える膝を叱咤しながら己は身を起こす。
その時ランサーがこちらの耳元で、いいか、俺たちのことは知らないふりをしろ、と囁くのには怪訝な表情を浮かべかけたが、呻いて立ち上がろうとする少女を数人の大人が取り囲み、腕を掴んで連れて行くのに、ふいに言葉を失った。
彼らの数人が、振り返ってこちらの姿を眺めている。アーチャーは彼らに小さく会釈をすると、我々の方でこの子は家まで送って行きますと言って、彼よりやや背の低いこちらへと右肩を貸す。
「おい嬢ちゃん、こんな夜にそんな格好をして歩くんじゃねぇよ。家はどこだ? とりあえず近くまでは送ってやっから」
そうやや声を張るように言って、ランサーは去って行く男たちの方へとちらと視線を向けた。己は戸惑いつつも、あっち、と指差して、それにアーチャーは頷いた。三人で歩き、家の傍まで来た頃に、悪かったな、人間と住んでると知られるといろいろ面倒なんでな、とランサーは小さく眉を寄せ、苦笑をする。
そしてちらとこちらのスカートの裾へと目を向け、しかし一体何があったんだと怪訝そうな声色で訊ねた。先生が強盗に刺されて死んで、焼き場で骨を拾ったんだ、と泣いたためにひどく掠れた声で言えば、そうか、と相変わらず肩を貸したままのアーチャーが静かな声で相槌を打つ。
また涙が溢れそうだったが堪えて、肺の底まで深く息を吸えば、潮の香りが胸を満たした。女の子を連れてった人たちもバンブーなのか、あの子、樽の中に詰められちゃうのか、とやがて訊ねれば、ああ、掟を破ったからな、と静かな声の返る。夜の薄暗闇の中で見るアーチャーの顔は、ひどく青ざめて眺められ、己がしばらくそれを見上げていれば、心配させまいとしてか彼は小さく笑んだ。坊主、今日は疲れたろ、早く寝ろよ、とランサーは優しい声で囁いて、家に戻ってからは温かなココアを一杯淹れてくれた。
ゆっくりをそれを飲み干して、己は毛布にくるまったが、瞼は降ろさずに暫しの間、今日あった様々を思い出した。なぁ、ランサー、アーチャー、人間はすぐに死んじゃうんだ、火を理不尽に奪われることだってよくある事で、俺だって今日死ぬかもしれなかったし、明日死ぬかも分からないだろ、と小さく呟く。二人はそれでもいいの、と言えば、良くはないし、出来得るだけ長く、そして満ち足りて生きて欲しい、とアーチャーがこちらの肩を撫でて呟く。
だがそれが生きているということだ。いつ来るかも分からない終わりを見据えて、それでも歩き続けるのが、人間の美しさであり、強さだと私は思うよ。
その言葉を傍らで聞いていたランサーも、同意するように目を細めた。人間じゃないから、そんなことが言えるんだと顔を顰めれば、アーチャーは少し考え込むような顔をした後で、少し昔の話をしても構わないか、と静かな面持ちのままで言う。己が頷けば彼はかすかに目を細め、夜の海の広がる窓へとやがて静かな視線を流す。
「……まだ中国にいた頃、一度だけ、夜明けの瞬間を見たことがある。用事を済ませるのが思いの外遅くなって、家へと戻るのが遅れてな。あともう少しで家へ着くと言う時に、世界のふと明るくなって、振り返れば空の端が赤や紫に染まっていた。稜線が陽の光に縁取られて白く光って、ひどく美しかったのを覚えている。また、私が身を置く林の中にも、柔らかな蔭の浮かび、葉の隙間から細い光の溢れていた。
陽に炙られ、頰の火傷するように痛むのに我に返って家に転がり込んだが、今でもあの一瞬の美しさが忘れられない。きっとお前にとってみれば、見慣れた景色に過ぎないだろうが、怪物になれば、昼間の光の美しさも、青い海も空も、食事の美味さも、体温も心音も、全て奪われる。そうして光を恐れながら、恒久に近い時間を過ごして行くのは、あまりに悲しいだろう。
光を一度見ただけの私でさえそうなんだ、ランサーはもっと様々を恋しく思っているだろう。私は彼を助けたことを後悔していないが、彼から死以外の、本当に多くのものを奪ってしまったことを申し訳なくも思っている」
彼はそこで一度言葉を切り、こちらの瞳を静かに覗き込んだ。榛色の瞳が、部屋の中の燭台の火を映して美しく透けている。睫の蔭が落ちたところだけ瞳の色が深く、散々泣いたために未だ腫れの残る目で己はその色をただ見詰める。
「……高校へ進学し、立派な大人になるのが夢だといつだかに話してくれたろう。それは化け物になってしまっては出来ないことだ」
「うん、」
「あとは、そうだな、……今度カメラを買って来るから、私に、昼間の世界の美しさを教えてくれ。海や空の色が見てみたい」
「うん」
頷けば、彼の頰の辺りに漠然と留まっていた強張りが、ふと解けたような気がした。彼は毛布に包まるこちらの頭を撫でると、水に濡らしたタオルを片手に戻って来、それを瞼の上に置く。礼を言えば、ああ、とだけ返事があり、彼はソファに座るランサーの傍らへと、やがて腰を下ろしたようだった。
詳細までは聞き取れないような静かな話し声がそちらから響き、その囁きに耳を傾けつつ、先生のこと、家族のことを考えて、細く息を吐く。今頃樽に詰められているだろう女の子のことも、浅い微睡みの中で考え、六十年と言う月日の長さを思う。
人間だったら生まれて老いるほどの時間を、何も見えない暗闇の中で過ごして、寂しくないだろうか、怖くはないだろうか。彼女を捕まえ、引きずっていたバンブーたちの背を瞼裏に描き、こちらをちらと見た時の彼らの瞳の冷たさを思い出せば、今更ながら背に震えの走る思いだった。
その恐れもやがて微睡みの中解けて、己は沈み込んだ眠りの中で、久しぶりに姉の夢を見た。彼女は幼いこちらの手を引いて、黄昏の道を歩いていた。まだ母が再婚する前で、姉の身なりはひどく見窄らしかったが、それでも若さと美しさが彼女を誰よりも輝かせていた。
ようやく歩けるようになったばかりの己を連れて、彼女は用水路の淵を辿りながら、伸びやかに鼻歌を歌っていた。風になびくその髪が夕焼けに透けて燃えるようだった。燃えてるみたいと声に出せば、彼女は振り返り、金めいた瞳を細めて、あなたもそうよ、士郎、と歯をかすかに覗かせて笑った。あの凄惨な日の記憶に埋もれて、今の今まで忘れていた、美しく優しい記憶だった。
目を覚まして鏡を見れば、目の腫れはすっかり引いて、やや草臥れたような己が、こちらを静かに見返した。かすかに口角を引き上げ、長くなった髪を一つ結びにすると、後は必要なだけの金を懐に入れて外へと出る。眠っているうちにもうすっかり陽は昇り、秋になっても眩しさを失わない陽差しが、泣き疲れた目に染みた。
士郎は安いカメラを露店で買い求めて、その日は日がな一日、海や空や、海の傍で打ち上がった魚を食む猫や、陽を受けて柔らかな影を伸ばす家並みをただ映した。先生の家も訪れたが当然無人で、また骨壷もその中には見付けられなかった。きっと用務員の男が、まだ熱を持ったそれを胸に抱いて、昨晩は帰路に着いたのだろう。
夜、己の撮った写真を眺めて、アーチャーとランサーはひどく熱心に言葉を交わした。ランサーは懐かしいなぁと言って海を映した画面を指先でなぞり、アーチャーが猫さんの写真が多いなと口にしたのには、お前と長年暮らしてきたがよ、猫のことそう呼ぶの初めて知ったわ、と苦笑をする。
子供のように目を輝かせるアーチャーに、己は一つ一つ、写真を指差し、風景や写っている建物などについて説明をした。彼は黙ったままそれを聞いていたが、やがてふと目を細め、お前は黄昏が好きなのだなと呟いた。確かに黄昏の写真が多く、己は気付かなかったけど、そうみたいだなと呟いて、小さく口の端を緩める。
「姉さんと昔黄昏の中を歩いたことがあって、だからかな。昨日、ようやく思い出せたんだ」
その言葉にランサーはこちらの頭を撫で、いつもより少し遅れて仕事に向かった。一方のアーチャーはいつまでもカメラを手放さずに、画面を覗き込んでいた。己は頬杖をついてそれを眺め、やがて降り出した秋雨に、瞼を下ろしつつ静かに耳を傾けた。
秋から冬にかけて、どうにもアーチャーとランサーは忙しなかった。アーチャーの方では相変わらず夜中に誰かへと電話することを数日に一度繰り返していたし、ランサーはランサーで大きなトランクを二つ用意して、そこに最低限の服やら何やらを詰め込んで、それを部屋の隅に揃えて置いた。
そのトランク、一体どうしたんだと訊ねれば、ああ、おいおいここも引っ越さねぇとならねぇだろうしな、今のうちから準備しとこうと思ってよ、とからりと笑う。数年に一度住処を変えることは以前から聞き知っていたので、己は一つ頷いて、そのトランクの背を時折は掌で静かに撫でた。
次に住むところは決めたのか訊ねれば、湖の傍がいいとは思うが、なかなかしっくり来る場所が見付からなくてな、としばらく唸って小首を傾げる。
己は己で、学校に通うことがなくなったので、写真を撮りに出る時と、買い物に出る時以外は、基本家に籠って自習をした。秋に入ってから天気の悪い日も多く、屋根を叩く激しい雨音のために、そもそも出掛ける気にならない日も多かった。何より近頃は人目が気になり、己は用があって外を出歩く時には、目深にパーカーを被り、顔を見られないよう深く俯いていなければならなかった。
あれだけ姉に似ていた己の容姿は、近頃では少しずつ男らしくなって、スカートから覗く足も、すらりと細いのは変わらないながら、やや骨ばって、美しいばかりではなくなって来たような気がしていた。高校受験は来年に控えており、奨学金を受けるための勉強を続けながら、己の脳裏には戸籍などの問題が、時折浮かんでは消えた。
別にこの街から高校へ進学した人間がいないわけではないだろうし、彼らはおそらく戸籍など持ってはいなかっただろうと思いながら、それでもいつか、性別を偽るために使っていた姉の名前を捨てて、士郎に戻らなくてはならない日が来るのだろうと考え、雨の窓より外を眺める。
近頃の騒々しさは己をひどく落ち着かなくさせ、二人が非番の日に三人でソファに腰掛けても、上手く言葉の出てこないことが増えた。己が昼間写真屋に頼んで現像してもらった写真は、一度皆で眺めた後で、トランクの中にランサーの手で丁寧に仕舞われた。
そのうちに、いつの間にか冬も深まり、夜などには薄く雪の積もることの随分増えた。薄汚れたバラックはそれに白く飾られ、普段よりかえって清潔に眺められる。今日も昼過ぎから雪のはらつき始め、屋根はすっかり白く染まり、また夜になる頃には気温の下がって、部屋の中でも吐き出す息が白くなる。窓も結露にその表面を白く暈している。
その日、非番だったアーチャーは、寒そうにするこちらに時折目を流しつつ、ソファに腰掛け中国の詩集を読んでいた。掌を摩り息を吐きかけつつその傍に寄り、何て書いてあるんだと訊ねれば、彼は指で指し示しながら、一語一語、美しい発音で読み上げていく。意味はと次いで訊ねれば、彼は同じように指先で辿った後で薄く唇を開いたが、その時、ふと車の音がし、アーチャーははっとしたように顔を上げると、本を閉じ、それをトランクに手早く仕舞い込んだ。そうして慌ただしい手付きで、クローゼットから出した外套をこちらの肩にかけ、促すようにこの腕を強く引く。
なぁ、どうしたんだよ、とそれに訝しげに呟いたところで、仕事中であるはずのランサーが部屋の内へと入って来、脇に寄せてあったトランク二つを手早く持ち上げた。そうしてバラックの前に止めた車の後部座席へと半ば強引にそれらを詰め込み、こちらを振り返り、いいから早く乗れ、今すぐ出るぞ、と声で促す。
戸惑い立ち竦むこちらを、アーチャーは後部座席に押し込み、自分は助手席に乗り込んだ。彼はキーを回すランサーへと目を向けた後で、病院の社用車を拝借して来たのか、と呆れたように口にする。それには、空なんざ飛んでたらすぐに見つかるだろと返して、ランサーは深くアクセルを踏む。
車は海沿いのろくに舗装されていない道をしばらく走り、やがて太い道路に出ると更にその速度を速めた。他に走る車もなく、街灯の数も少ない中で、ヘッドライトが煌々と夜を照らしている。ランサーはいつの間にか煙草を吸い始めて、時折は煙を細く吐き出し、灰皿に灰を落としている。
やがて揺すぶるような車体の揺れの収まったところで、何、と今一度己が訊ねれば、ランサーはかすかに気まずそうな顔をして、バックミラー越しにこちらを眺めた。お前さんのことが上にばれてなぁ、と少しの沈黙の後で呟き、半ばまで吸った煙草の先を灰皿へと押し付ける。
「ばれたって、職場に?」
「違ぇよ、前話したバンブーの王族ってやつだ」
「でも、ばれたって別に問題ないんじゃないのか。バンブーもまさか、あのマフィアと手を組んでる訳じゃないだろ」
それにランサーは口を開いたが、唇に指の背を押し当て、しばしの間黙り込んだ。彼が何事か深く考え込む際、しばしば晒して見せるその仕草に、己はふと不安を覚えてアーチャーを見る。そうではないんだ、とランサーに代わるように口にした彼は、安堵の息を吐くこちらを見詰め、静かな声で続く言葉を唇に乗せた。
「お前が士郎であることが知られたのではなく、私たちが人間と暮らしていることが知られたんだ。バンブーにとって、人に知られることは死に繋がるだろう? だから人と共に暮らすことは、本来であれば法律で禁じられているんだ」
「法律で?」
「ああ」
頷く彼に、かつてランサーが己をバラックに連れ帰った日の事をふいに思い出し、己は喉を細く震わせた。あぶない橋を渡った、とアーチャーはあの時ランサーに話していたのではなかったか。樽詰めどころか、というランサーの呟きがふと耳に蘇るようで、己は一瞬きつく目を瞑ると、喉の奥から呻くような声を漏らした。
「俺を助けた時、樽詰めどころか、火刑ものだって、ランサーが……」
「ああ。そうだな」
「なんで今まで、話してくれなかったんだよ、そんな大切なこと、」
「話せばお前はきっと部屋から出ず、学校へも通おうとはしなかっただろう。……罰を受けるだろうことを、覚悟の上で私たちはお前を育てたのだから、気に病む必要はない。まぁ素直に罰を受けてやるつもりもないから、こうして逃げているわけだが」
そう言って彼にしては珍しく、悪戯っぽい笑みを口元に滲ませ、そうして腕時計に目を落とした。夜明けまで今の季節ならあと四時間はあるかとそうして呟き、こちらを振り返る。小さい方のトランクを開けろと指示された通りに蓋をあげれば、そこにはジーンズとシャツと、暖かそうな男物のジャケットが丁寧に畳まれてその中に収められていた。
今のうちにそれに着替えておけと言うのに戸惑いつつ頷けば、アーチャーは目を細め、あとは黙ったままフロントガラス越しに夜の景色を眺めているようだった。彼はランサーの胸ポケットから煙草を取り出して、彼に咥えさせると火をつけた。さんきゅ、と言って、ランサーが細く車窓を開ける。白い煙が隙間から流されて行き、煙草の火が薄暗い車内で明らんで眺められる。
車はやがて小さな公園の駐車場に止まり、彼らはトランクを車から出すと、バラックのソファでよく並んだように、己を真ん中にして林の中のベンチに腰を下ろした。ランサーは己の髪を結わえていた青色のリボンを解くと、それをこちらの手首に結んだ。一方のアーチャーは士郎、と呼びしばらく瞳を覗き込むと、トランクから出した櫛で丁寧に髪を梳き、名残り惜しむように一束を摘んで指先に絡める。そうしてよく研いだ鋏を手に取り、長かったその髪を一息に切り落とす。
彼の掌には、断ち切られた己の髪がしばらくそのまま握られていたが、風が吹くと少しずつ指先から零れ、地面を滑り遠くへと飛ばされていく。彼は己のジャケットを脱がせて散った髪を払うと、あとは鋏の先で丁寧に髪先を整えていった。晒された頸が冬の空気に冷えていく。鏡がないので判然とは分からないが、恐らく拾われたばかりの頃のような、少年らしい髪型をしているのだろうと思って、後手に回した指先で髪の端を撫でる。
すっかり短くなった髪を見て、やっぱり坊主にはその髪型が似合うなぁとランサーは喉を鳴らすようにして笑った。己はそれにようやく小さく笑みを返して、ジャケットを羽織り直しつつ彼の瞳を見上げる。なぁ、これからどうするんだ、とそうして訊ねれば、彼はちらと苦笑を覗かせ、それには静かに口を噤む。
一方のアーチャーは、そろそろ始発の列車が来るはずだと、時計に目を落として呟き、先にベンチから立ち上がった。そうしてこちらへと小さな方のトランクを押し付け、持てと言いつつ腕を掴む。
「でももう夜も明けちゃうだろ。今日はどこか陽の当たらない所で休むんじゃないのか」
「……そうだな、俺たちはそうしなきゃならねぇが、お前さんはそうじゃねぇだろ。昼も動けるんだから、列車でうんと遠くに逃げるのがいい」
それに言葉を失い、やがて、俺も二人と一緒に行く、と掠れた声を漏らせば、士郎、とやや強い声を出して、アーチャーが何やら紙切れをこちらへと握らせた。電話番号と人の名前とが書かれたそれを眺め、再び彼へと目を向ければ、かつて少し世話になったことのある人間でな、切嗣という男なんだが、と言って彼は静かに目を細める。
「近頃しばらく連絡を取っていたんだが、お前を養子にしてくれるそうだ。高校へ通うなら、義父だろうと戸籍上の親がいた方がいいだろう。大丈夫、あの人のことだ、きっとお前のことも大切にしてくれるだろう」
「でも、」
「坊主、俺たちはこの通り目立つ容姿をしてるだろ? 三人一緒に逃げるより、あいつらの目を欺いてやった方がいい。お前に関しては、男の格好で一人で逃げりゃ、見つかることはまずないだろ」
「ここから駅まではすぐだ。そこまでは見送るから、あとは終着駅で降りて、彼に電話をしてくれ。大体の事情は説明せずとも汲んでくれるはずだ」
「二人はどうするんだ?」
泣きそうな思いで訊ねれば、んなもん、捕まんねぇように遠くに逃げるに決まってんだろとランサーがからりと笑った。また新しい住処が見つかったら、お前にゃ知らせるからさ、というのに、絶対だからな、と声を強めて言えば、ああ、と彼は笑みを深めた。列車の出る時間が近いらしく、アーチャーはこちらを急かし、一人で先に歩き出した。
ランサーは大きい方のトランクを持ち、己は小さいほうのトランクを抱えて、やや離れた彼の背を足早に追った。薄暗い町の中で、信号機の点滅だけが目に眩しい。駅は明かりも薄く、静まり返っていたが、駅員は一人眠たげに改札近くに立っており、アーチャーは一人分の切符と、二人分の改札の通行券を彼から購入し、切符をこちらへと差し出した。
いつの間にか再び雪の降り始めて、線路の周りはかすかに白で化粧をされている。アーチャーは自分の首に巻いていたマフラーを外すと、その髪では寒いだろうと言って、それをこちらの首に巻き付けた。かすかに彼らの、清々しい香りのそこからは立ち上って、それがすぐに自分の匂いに塗り替えられてしまうだろう事を、士郎は指先で触れながら惜しみ、目を伏せた。
ろくに言葉をかわす間もなく、すぐに列車が駅のホームに滑り込み、停車をした後でゆっくりとその扉が開く。己は彼らに見送られながら列車に乗り込み、だがその場ですぐに振り返ると、二人の身体を一人ずつ力強く抱きしめた。彼らの腕もそれに応え、背中へときつく回されたと思えば、髪へと頬が寄せられる。
やがて発車の合図が鳴ったところで、己は名残惜しげにその身体を離し、座席へと駆けて、一息に窓を押し上げた。坊主! とランサーがこちらの名を呼んで、窓越しにもう一度強く抱擁する。
絶対に新しい住所教えてくれよ、手紙も書くし、写真だっていくらだって送るから、と言えば、楽しみにしている、とアーチャーが目を細めて笑う。彼の手が髪をかき混ぜ、だがそれもすぐに離れていく。
警笛と共に列車は静かに滑り出して、こちらを見送る彼らの姿が次第に暈け、小さくなっていくのを、目を凝らすようにして士郎は暫く眺めた。そうしてその姿の完全に見えなくなった頃に、冷たい風の吹きこむ車窓を下ろし、士郎はマフラーに顔を埋めるようにして、誰もいない車内で嗚咽を殺しながら泣いた。
紙切れは四つ折りにしてジャケットのポケットに大切に仕舞い、時折は指の先でその感触を確かめる。夜の中で鏡のようになった窓には、どう見ても男にしか見えない、短髪の己の姿の映り込んでいる。
それを指先でなぞり、士郎はかすかに目を細めた。やがて夜明けのやって来、空の縁が明るくなったと思えば、草臥れた街並みを、冬の陽差しがほの明るく照らし出していく。
眩しさが目を刺し、士郎はそれでも夜と朝のあわいから僅かも目を逸らさなかった。やがて明け切った空に緩く瞬きをした己は、腕に結ばれた青色のリボンをほどいて、それを大切にトランクの中へと仕舞った。
九時過ぎに終着駅に着いてからは、駅員に頼んで電話を借り、アーチャーが切嗣と呼んだ男へ、連絡を入れて己の名を伝えた。平日で仕事もあっただろうに、彼はすぐに駆けつけてくれ、労りの言葉を二、三向けると、こちらを車の助手席に乗せ、屋敷までの数十分の道を走る。その間己は黙って、窓の向こうを流れる景色へと目を据えていた。
新旧の家並みの綯い交ぜになったような街の様子は、清潔に美しく、また人の息づく気配を感じさせる。彼の住む平屋の日本家屋も、古いが広々として快く、小さな庭は雪に化粧されていた。また張り替えたばかりの畳の藺草の匂いの立ち、己は彼に連れられて屋敷を歩きながら、それを深く胸に吸い込んだ。
彼は幾つも並ぶ部屋の内の一つを選んで襖を開け、ここを使うといいと言って、そのまま手ずから床を整えた。そうして、詳しい事情を己に訊ねる事はせず、大変だったろう、今日はもう寝るといいと言って、こちらの背を優しく撫でる。
アーチャーから話は聞いているよ、高校に進みたいんだろう。あの子もランサーも、聞いた時はひどく喜んでいたよ。彼らなら大丈夫だから、ゆっくり休んで、精一杯勉強するんだ。二人から連絡があれば、僕の方からすぐに伝えるから。
そうやって小さな子供に言い聞かせるように穏やかに口にする彼に、己は頷き、ようやく彼と目を合わせた。少し無精髭の伸びた、頬の辺りに草臥れた色の滲む男で、歳は三十を幾分過ぎた所だろうか。目元と口元を穏やかに笑ませた彼に、士郎、と名を呼ばれると、乱れていた心のようやく落ち着くようで、ふいに深い息が漏れる。
己は彼が促すまま、整えられた床の中でしばしの間眠りにつき、その後目を覚ましてからはトランクの中の整理をした。何が入っているのか道中から気になっていたが、己が着替えたワンピースと、カメラ、それから下着の数点の他はほとんど何も入っていない、軽いトランクだった。あのバラックにはそもそも三人の私物と呼べるようなものがほとんど存在しなかったことに今更ながらに己は気付いて、それをひどく惜しく思った。彼らを思い出すよすがになる物が、もっと多くあれば良かったのにと考え、目を伏せる。己はワンピースを一度抱き締めた後で、丁寧に畳み、与えられた部屋のクローゼットにしまい込んだ。リボンは迷った末に、ハンガーの端に結い付けた。
それから数日のうちに、切嗣は己を養子にする手続きをし、また、勉強のための教科書や参考書を、本屋に足を向け買い揃えた。仕事が忙しいのか、彼は長く家を開けることもあったが、新しい生活に未だ慣れないこちらを心配してだろう、しばしば連絡を寄越し、己は彼と電話でここ数日の出来事を報告し合った。血の繋がらない息子とは言え、彼がこちらを愛そうとしてくれている事は言葉や仕草の端々から伝わり、己はその頃には彼のことを、親しみを込めてじいさんと呼ぶようになっていた。
一方、アーチャーとランサーからの連絡は、待てど暮らせど己の元に届かなかった。日に日に不安を募らせ、顔色を悪くするこちらに、そう心配しなくとも、あの二人は捕まるようなへまは決してしないさ、と言って、養父の掌が頭を撫でる。
己はその言葉に頷いて、彼らからの手紙を祈るような思いで待った。それが届くより先に春が来て、庭先には美しい桜の花が咲き、士郎は久しぶりにカメラを取り出すとファインダー越しにそれを眺め、シャッターを切った。ここへきて初めて眺めた花だが、降り始めの雪のような、白く細やかな花弁の美しかった。
やがて初夏になり、庭の楓の青々とし始めた頃、一通の手紙が郵便受けに届けられているのを見、士郎はそれを取り上げ、すぐに宛名を確かめた。そうして緊張に震える指先で、その封を切れば、アーチャーとランサーの字で埋められた数枚の便箋が、その中から滑り落ちてくる。近況の報告と、長らく待たせてすまなかったという謝罪、現在の住所と、後は美しい夜の湖の写真が一枚。全てに目を通し終えた後で、湖の傍の物件なんか探すから、こんなに連絡が遅くなったんじゃないだろうなと呟いた己は、安堵に柔らかな苦笑をふと零した。ランサーはまた釣りを始めるつもりらしく、釣竿をあいつに今作ってもらってんだと、美しい筆跡で最後に書き添えている。
便箋の裏に走り書きされた電話番号を己は指で辿り、夜になるのを待って、こちらから電話を入れた。先に出たのはランサーで、よう坊主、久しぶりだな、待たせてすまなかった、と言うのに、本当だよ、心配ばっかりかけさせやがって、と返し己は小さく笑う。電話越しに、彼の声は記憶の中の物よりかえって若々しく聞こえ、だが草臥れた気配が隠しようもなく滲んでいた。ようやく住処を定めるまで、己の窺い知れないような様々があったのかもしれないと、その声に耳を傾けつつ思う。学校には通ってんのか、とやがてランサーが訊ねるのに、高校はまだだけど、とりあえず中学校にはと答えれば、そりゃよかったな、と随分と嬉しそうに彼は笑う。
アーチャーは、と訊ねれば、ここにいる、とすぐに傍よりかすかに掠れを含んだ声がした。元気にしているかと訊ねた彼は、その後も二、三、こちらの近況を訊ねては相槌を打ち、養父の事に話が及ぶと、不器用だが優しい男だろうと小さく笑う気配が返る。
彼は話の最後に、お前がいないと料理を作れなくて張り合いがない、と冗談めかした言葉を漏らして、夏の休暇にはこちらに遊びに来るのだろうと訊ねた。士郎はそれに頷きつつ、そう遠くない夏の日を思い描き、頭の中で旅の予定を組み立てる。ここから彼らの住処まで、列車で半日と少しと言ったところで、気楽に遊びに行ける距離でもなかったが、別段遠すぎるということもない。
釣りしたことないんだ、そっち行ったら教えてくれよ、と言うのには、いいぜ、坊主の分の釣り竿も用意しとくな、と楽しげな声が受話器越しに響く。
そんな夏の休暇を心待ちにしながら、己は中学校に通い、時には友人と放課後に遊びに出掛けつつも、日々努めて勉学に励んだ。部活に加入するよう先生に言われたので、悩んだ後で美術部に入り、水彩を学んだ。拙いながらも何度も何度も練習をし、もう失ってしまった人の面影や、新しい家族となった男や、アーチャーやランサーの顔を、記憶を丁寧になぞるようにして描く。
自分でもよく似ていると満足の行く出来栄えとなったそれらを、士郎は部屋へと持ち帰り、壁へと貼って飾った。悲しみより先に懐かしさが胸を満たし、己はそれらを良く眺めては、部屋を訪れた切嗣に覚えている限りの思い出話をした。
待ちに待った休暇には、例のトランクにたくさんの写真を詰め、男物の着替えも詰めて、列車に飛び乗った。列車は海沿いをなぞるように進み、陽を弾いて眩しく輝いている。士郎はそれも写真に収め、座席に深く座り込む。暫くうとうとと微睡んでも、まだ目的の駅にはつかず、乗客はその間に増えたり減ったりする。
いつの間にか陽の低くなって黄昏が海に流れ、夜がかぶさって来た頃に、よく覚えておいた駅名が読み上げられて、己はトランクを片手に席を立った。
湖は駅から少しばかり歩いたところにあった。畔の一軒家のドアをノックすれば、すぐにそれが開いて、煙草の香りの混ざる身体にきつく抱き締められる。大きくなったなぁ、坊主、とそうしてランサーが言うのには、あと半年で高校生だからね、と己は懐かしさと嬉しさに胸を一杯にしつつ、口元を綻ばせ小さく笑った。鼻が痛んで、涙の滲みそうで、堪えるように深く息を吸う。アーチャーは少し遅れて部屋の内から出てきたが、ランサーと同じようにこちらを抱き締め、よく来たなと呟くと幼い子供相手にするように暫くこの頭を撫で、背中を数度掌で叩く。
駅で別れた後の話など、聞きたいことは様々あり、話したいことも同じ程度に己の胸の内にはあった。だが薄く唇を開いたところで、まだまだ休暇は長いのだから、それは後でもいいだろうと思い直して、そうだ、釣り、教えてくれるんだろ? と笑いつつ小首を傾げれば、おう、ちょっと待ってな、とランサーの応えが返る。彼は壁に掛けた鍵を取ると、床に付けられた南京錠を外し、切り抜かれた床板を引き上げる。かすかな水の匂いに薄暗いその奥を覗き込めば、そこには地下へと続く、古びた階段の眺められる。
彼らに連れられるまま、一階から階段を下れば、そこがもう湖に繋がって、小さな舟がそこには舫で繋がれていた。舟を傾けんじゃねぇぞ、と言いながらも、ランサーは先にそれに乗って、こちらの手を引いた。三人乗ればぎゅうぎゅうになるような、ひどく小さい舟だった。
釣りを教えてくれると言ったのに、彼らはただ静かに艪を漕いだ。月が雲一つない空に浮かんで、その光が湖に白く流れている。冬にはきっと氷が張るぞ、その時にはまた遊びに来るんだろうと気の早いことをいうアーチャーに、己はふと胸が一杯になるのを覚えて、かすかに微笑みながら、うん、と頷く。寄せては返す波に舟はかすかにゆらゆらと揺れて、風が湖面を細やかに波立たせる。
何度だって会いに来るよ、俺がしわくちゃの爺さんになるまで。そう言って瞼を下ろせば、月明かりが瞼裏を白く照らし、己は甘えるようにアーチャーの肩に緩く凭れると、波間にやがて静かに息を吐き出した。ランサーはそんなこちらをちらと見遣って柔らかに笑うと、良い月夜だなぁと言って取り出した煙草に火を点け、しばらくは目を細めたまま、白い煙を夜の中で細く燻らせていた。
終わりに近づくにつれ、ああ、この2人は見つかって捕まって燃やされてしまうのだろうか、もしかしたらそれが幸せだとと思っているのかもしれない…。 などとハラハラしながら読み進めていましたが、3人が仲良く小舟で湖を揺蕩う姿で幕が降り、本当に安心して、胸が幸せでいっぱいでした。