もし、藤田ことねが幼なじみだったら……

  • 126/02/25(水) 18:37:42

    おはようございます。
    タイトルの通り、藤田ことねとPのifストーリーを書きます。
    お互いタメ口で話してるので、文に違和感あるかもしれませんが、楽しんでいただけると幸いです。
    よろしくお願いします!

  • 226/02/25(水) 18:38:58

    【無くなった給食費】

    六月の空気は、湿った生ぬるい風が肌にまとわりついて、ただ座っているだけで嫌な感じがする。

    窓の外では野球部の掛け声や、調子外れな吹奏楽の音が聞こえてくる。

    でも、この教室だけは耳が痛くなるほど静まり返っていた。

    きっかけは、一人の女子が上げた耳障りな悲鳴だった。

    「ちょっと……お金がなくなってるんだけど!」

  • 326/02/25(水) 18:40:57

    その一言で、放課後のだらけた空気は一変した。

    紛失した給食費の袋。

    ざわつくクラスメイト。

    そして、淀んだ空気は出口を探すようにして、ある一点に流れ込んでいく。

    犯人探しの絶好の標的。

  • 426/02/25(水) 18:42:14

    窓際の席で、消しゴムのカスをいじるみたいに俯いて、肩を震わせている藤田ことね
    ──俺の幼なじみだ。

    「……藤田さん」

    担任が、教卓をコンコンと指先で叩きながら一歩踏み出した。

    その顔を見た瞬間、吐き気がした。

    隠しきれない「面倒なことになった」という苛立ちと、「お前がやったんだろ」と決めつけた担任の軽蔑が......。

  • 526/02/25(水) 18:43:26

    俺は、2年前から同じ担任のこういう顔が死ぬほど嫌いだった。

    「正直に言えば、先生怒らないから。……藤田さんの家が、その……少し大変なのは知っている。だから、つい魔が差したんだよな?」

    周囲の視線がことねに突き刺さる。

    「やっぱりかよ」

    「あいつの家、貧乏だしね」

  • 626/02/25(水) 18:44:44

    ひそひそと、自分たちは安全圏にいると思い込んでいる奴らの声が聞こえてくる。

    あいつの事情を、誰もが勝手に解釈して、自分たちが納得しやすい理由に書き換えていた。

    俺はそれに心底ムカついた。

    「……あたしじゃ、ない……」

    ことねの声は、かろうじて形を保っているだけの、震える糸のようで。

  • 726/02/25(水) 18:45:58

    いつもなら、「あたしは世界一可愛くなるんだから!」なんて言って、俺を顎で使い倒すのに。

    でも今のあいつからは、そんな余裕は感じられなかった。

    「みんなに迷惑がかかってるんだ。正直に話しなさい。それとも、鞄の中を見せてもらうことになるけど、いいかな?」

    先生の言葉は、逃げ道を一つずつ潰していく。

    ことねの握りしめた拳は、血の気が引いて真っ白だった。

  • 826/02/25(水) 18:47:27

    その爪が手のひらに食い込んでいるのを見て、俺の中で何かがパチンと弾ける音がする。

    (……ふざけんな。なんで、誰も何も言わねえんだよ。ことねが、やるわけないだろ!)

    心臓が耳のすぐ横で鳴っている、みたいにうるさい。

    あいつが、小さくなった鉛筆にホルダーを付けて、最後の一ミリまで使ってるのを、俺は知っている。

    あいつが、テストの前、ノートを真っ黒にするまで勉強に噛みついているのを、俺は知っている。

  • 926/02/25(水) 18:48:39

    まだ小学生のくせに、可愛げがないくらいに真面目な、ことねのプライドを。

    「先生っ!」

    気づいたら、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がっていた。

    「ことねは、やってねぇよ。俺、知ってるんだよ。だから……ちがう」

    本当は真っ赤な嘘だ。

  • 1026/02/25(水) 18:50:31

    俺はさっきまで図書室でサボってたし、あいつは掃除当番だった。

    でも、そんな事実はどうでもいい。

    俺が声を上げた瞬間、教室中が、一斉に俺の方へとひっくり返る。

    「……でも、君。藤田さん以外に誰が――」

    「やってないって言ってんだろ!ことねは、そんなことしねえよ!疑うなら俺にしろ、あいつにばっか言うのはおかしいじゃん」

  • 1126/02/25(水) 18:52:22

    気づけば、喉の奥が焼けるくらいに叫んでいた。

    俺の本気度に引いたのか、先生は顔を引き攣らせ、クラスメイトたちはバツが悪そうに視線を泳がせる。

    その直後だった。

    「あ、掃除用具入れの裏に落ちてた……!」と、一人の生徒が茶色の封筒を拾い上げたのは。

    一瞬の沈黙の後、教室には「なーんだ」「紛らわしいよ」なんて無責任な空気が戻ってくる。

  • 1226/02/25(水) 18:53:22

    先生は謝らなかった。

    「……あ、あぁ。なんだ、そうだったのか。……まぁ、今回は違ったみたいだな。でも藤田さんも、誤解を招くような態度はよくないぞ」

    ただ自分のメンツを守るように、そそくさと教卓を片付け始める。

    さっきまであいつを泥棒扱いしていた連中も、最初から何もなかったみたいなツラをして、笑いながら教室を出ていった。

    取り残されたのは、俺と、座り込んだまま微動だにしないことねだけ。

  • 1326/02/25(水) 18:54:31

    (……なんだよ、あいつら。……ふざけんなよ)

    胸の奥で、ドロドロとした怒りがずっと消えない。

    その時からだ。

    色眼鏡で、家計の事情で、ことねを判断する奴らが、全員俺の敵になったのは。

  • 1426/02/25(水) 18:55:42



    帰り道。

    夕焼けが長く伸びる通学路を、俺たちは微妙な距離を保って歩いていた。

    「……バカじゃないの、あんた」

    不意に、ことねが立ち止まって背中越しに言った。

    振り返ったあいつの瞳は縁まで真っ赤で、鼻の頭も少しだけ赤い。

  • 1526/02/25(水) 18:56:52

    「あんな嘘、すぐにバレるのはずなのに。……あんたまで、泥棒の仲間だって思われたらどうするつもりだったの」

    怒鳴っているような、今にも泣き崩れそうな声に俺は、なんて答えればいいかわからなくて、とりあえずカバンのストラップを強く握り直した。

    「……やるわけないだろ。……それくらい、わかるよ」

    その言葉を言った瞬間、あいつの瞳から大きな雫がぼろぼろとこぼれた。

    ことねは慌てて、乱暴に汚れた袖で何度も何度も目を拭う。

  • 1626/02/25(水) 18:57:52

    (ちっ、違う……俺は泣かせたかった訳じゃ──)

    そう慰めたかったのに、言葉はまだ出来上がっていない、喉仏付近でとまった。

    「……あーあ。最悪。泣いてるところなんて、一番可愛くないのに……」

    ことねが一歩、俺に近づいた。

    そして、夕日に照らされた長い影の中で、今にも消えそうな声で、こう言ったんだ。

  • 1726/02/25(水) 18:59:18

    「……ありがと。……この貸し、一生忘れてやらないんだからね」

    梅雨に差し掛かる湿った空気。

    でも、あいつが言った一生という言葉のせいか、さっきよりずっと涼しく感じられた。

  • 1826/02/25(水) 19:00:18

    【中学生に上がると……】

    蝉の声が、鼓膜を直接針で刺してくるみたいにうるさい。

    中学校に上がった俺らの教室は、小学校の時よりもずっと広い。

    それなのに、空気はもっとどんよりと濁っていて、息がしづらかった。

    今は放課後。

    部活に行く奴や、教室でたむろする奴らの中で、一人だけ真っ先に教室を飛び出していく背中をいつも見かける。

  • 1926/02/25(水) 19:01:36

    「おい、藤田――!」

    俺はその真相が気になってしまい、つい呼び止めると、あいつは一度だけ肩を跳ねさせて、すぐに振り返らずに早歩きになった。

    ツインテールが不機嫌そうにしているけど、どこか「追ってきなさいよ」と誘っているみたいに揺れている。

    そう、あの日以来、俺たちの間には少し変な距離ができていた。

    学校ではことねのことを「藤田」と呼ぶようになったし、必要以上に喋らない。

  • 2026/02/25(水) 19:02:39

    あいつが「あたしの完璧なスケジュールが狂うから、構わないで」なんて言うから……。

    スケジュールってなんだよ。



    あいつが向かったのは、駅前の少し寂れたスーパーだった。

    自動ドアが開くたびに、冷気と一緒に、少し生臭い独特の匂いが鼻をつく。

    ことねは迷いなく、奥の惣菜コーナーへと突き進んでいった。

  • 2126/02/25(水) 19:03:40

    (……何してんだよ、あいつ)

    棚の陰から覗き見ている俺は、相当カッコ悪いと思う。

    (これって、もしかして、ストーカーじゃっ……)

    でも、ことねの背中があまりに必死で、目が離せなかった。

    あいつは、じっと時計を見ている。

  • 2226/02/25(水) 19:04:50

    夕方、十七時。

    店員が黄色いシールを持って現れた瞬間、ことねの目がキラリと光った。

    半額シールが貼られた瞬間、ことねの手が、獲物を狙う鷹みたいにパンの袋へ伸びる。

    カサッ、という安っぽいビニール袋の音。

    「っ、藤田ー!」

  • 2326/02/25(水) 19:06:08

    「ひゃうっ……!?」

    声をかけると、あいつは変な声を上げて飛び上がった。

    ゆっくりと振り返ったことねの顔は、最初は真っ青で、俺だと分かった瞬間に沸騰したみたいに真っ赤になる。

    「……な、何してるの!?あんた、いつからいたの!もしかして……ストーカー!?通報するよ!」

    「今来たんだよ。……何、そのメロンパン」

  • 2426/02/25(水) 19:07:18

    「な、何って……仕方ないじゃん!ちょうど小腹が空いた時に、たまたま半額になってただけなんだから!狙ってたわけじゃないんだよ!」

    手にある半額のパンを、必死に背中に隠そうとする。

    でももう遅かった。

    「……見ないでってば。今のあたし、あんまり可愛くないし……」

    耳から聞こえてきたのは消えそうな声だった。

  • 2526/02/25(水) 19:08:33

    「可愛くないとか、別に言ってないだろ」

    「思ってるでしょ!藤田は可哀想だとか、助けてやらなきゃとか、って……。……ムカつく。あんたのそういう、余裕ある感じが一番ムカつくんだよ!」

    「……うん」

    「あっ……ごめん。ついっ──」

    ことねが初めて、俺を真正面から睨みつけたあと、自分が言ったことに気づいたのか縮こまった。

  • 2626/02/25(水) 19:09:42

    瞳は怒りよりも、今にも溢れそうな涙をこらえるのに必死で、俺は、カバンから結露で濡れたレモンティーを取り出した。

    「おごるよ。……半分こ、しようと思って」

    俺はキャップを開けずに、ことねに差し出した。

    「……は?」

    「……それ、一人で食うのキツいだろ。俺も腹減ってるし。ちょっとよこせ」

  • 2726/02/25(水) 19:10:43

    ことねは呆れたように俺を見た。

    「……バカじゃないの、あんた」

    そう毒づきながらも、レモンティーを奪うように受け取った。

    「……しょうがないなぁ。あんた部活してるからって、甘い飲み物飲みすぎだし、糖尿病にでもなってもらったなら……困るだけだし、貰ってあげるよ!」



    夕暮れの公園のベンチ。

  • 2826/02/25(水) 19:11:45

    俺たちは、お互いの肩が触れそうなほど近くに座った。

    ことねはメロンパンの袋を丁寧に破き、中身を二つに割る。

    そして、すっと少しだけ大きい方の半分を、ことねは俺に突き出してきた。

    「はい。……これであたしたち、共犯だね。あんたも半額のパン、食べたんだから」

    「ああ、美味いよ。……な、ことね」

  • 2926/02/25(水) 19:12:47

    久々に名前で呼ぶと、あいつはレモンティーを吹き出しそうになって、それから真っ赤な顔をしてそっぽを向いた。

    「……名前、安売りしないでよ。今は『藤田』でしょ」

    「ほら、小学校の時のやつ。……あれ、俺もちゃんと覚えてるからさ」

    ことねは黙って、レモンティーを一口飲んだ。

    それから、俺の肩にほんの少しだけ頭を預けてきた。

  • 3026/02/25(水) 19:14:22

    「……ありがと。……でも、今のこれ、利息だからね。一生かけて、あたしに貢いでよね」

    「……ああ、覚えとく」

    俺たちは半分のパンと、一本のレモンティーを分け合った。

    贅沢には程遠いけれど、あいつの呼吸が少しだけ甘くなった気がする。

    俺はこの安っぽさを、これからもずっと、あいつと半分こしていければいいな、なんて思っていた。

  • 3126/02/25(水) 19:15:31

    【夏祭りのおんぶ】

    八月の終わり。

    夜になっても空気はぬるい膜のように肌にまとわりついて、ちっとも涼しくなかった。

    俺は一人で、神社の境内に続く坂道を登っている。

    友達を誘おうかとも思ったけれど、結局やめた。

    ましてや、ことねを誘うなんて……今の俺にはハードルが高すぎた。

  • 3226/02/25(水) 19:16:50

    あいつを夏祭りに誘うなんて、それはもう、別の意味を持ってしまう気がして……。

    (……結局、一人かよ)

    屋台の明かりが遠くに見え、イカ焼きの香ばしい匂いが漂ってくる。

    人混みの中をすり抜けようとした、その時だった。

    「……あ。あんた、何してんのよ」

  • 3326/02/25(水) 19:18:11

    聞き慣れた少し高い声。

    振り返ると、そこには人混みに揉まれて少し髪の乱れたことねが立っていた。

    服装は浴衣じゃなくて、いつもの、少し着古したTシャツにデニムのショートパンツ。

    でも、髪だけは器用にアップにして、小さな花のピンを留めている。

    「藤田……。お前こそ、一人か?」

  • 3426/02/25(水) 19:19:15

    「あたりまえでしょ。あたしを誘う勇気のある奴なんて、この街にはいないからね」

    ことねはフンと鼻を鳴らしたけれど、その頬は屋台の提灯のせいか、少しだけ赤く見えた。

    二人とも一人だった。

    「……喉、乾いたな」

    「あたしも。……あんた、レモンティー持ってる?」

  • 3526/02/25(水) 19:20:36

    「あるわけないだろ。……ほら、ラムネ。一個だけ買ってやるよ」

    「……一本だけ?ほんといっつも、気が利かないよねぇ。……まぁ、いいけど。半分こ、してあげる」

    結局、俺たちはどちらからともなく隣に並んで、賑やかな境内を避けるように、少し外れた暗い裏道を歩き始めた。

    一本のラムネを交互に飲みながら。

    事件が起きたのは、そんな時だった。

  • 3626/02/25(水) 19:21:43

    「きゃっ……!?」

    短い悲鳴のあと、ことねがよろけて、俺の腕にしがみついた。

    「どうした」

    「……サンダルの鼻緒、切れちゃった」

    見ると、あいつの履いていた安物のサンダルが、片方だけ転がっていた。

  • 3726/02/25(水) 19:23:17

    ことねは片足立ちのまま、困ったように眉を下げている。

    「あーあ、最悪……。これ、結構気に入ってたのに……」

    「……歩けるか?」

    「無理に決まってるでしょ!裸足で歩けって言うの?あんた、あたしの足を何だと思ってるの。これは将来、レッドカーペットを歩くための……」

    いつも通りの虚勢の中、ことねの視線は足元の砂利を不安そうに見つめている。

  • 3826/02/25(水) 19:24:26

    (......どっ、どうすれば)

    気づいたら俺は黙って、ことねの前に背中を向けていた。

    そこからは正直何があったかあやふやだ。

    「……え」

    「ほら、小学校の時のやつ。……あれだし、家までおぶってやるよ」

  • 3926/02/25(水) 19:26:00

    「……っ。バカじゃないの!?重いし、暑いし、第一、恥ずかしいに決まってるじゃん!誰かに見られたらどうするのこれ!」

    「誰もいねえよ、こんな裏道。……早くしろ、置いてくぞ」

    しばらく沈黙が流れた。

    そして背中の後ろで、ことねがモジモジしている気配がする。

    やがて、おずおずと小さな手が俺の肩に置かれ、柔らかな体温が背中に重なった。

  • 4026/02/25(水) 19:27:41

    「……っ。重いって言ったら、ただじゃおかないんだからね」

    耳元でことねが呟く。

    ぐっと腰を抱えて立ち上がると、ことねの心臓の音が、背中を通じて俺の胸まで響いてくる気がした。

    「……ねえ」

    「なんだよ」

  • 4126/02/25(水) 19:28:41

    「……あんた、背中、広くなったね」

    ポツリとこぼれた言葉。

    小学校の帰り道、泥棒扱いされて泣いていたあいつを追いかけた時とは、もう違う。

    俺たちは少しずつ、子供じゃなくなっているんだと思う。

    「……そうかよ」

  • 4226/02/25(水) 19:29:54

    「そうだよ。……だから、今のこれは、あたしが特別に成長を認めさせてあげてるだけなんだから。……ありがと。この貸しも、一生分に足しといてあげる」

    ことねの声が、だんだん小さくなる。

    あいつは俺の首に腕を回して、顔を肩のあたりにうずめた。

    熱帯夜の空気。

    遠くで上がる花火の音。

  • 4326/02/25(水) 19:31:48

    背中に感じる、ことねの等身大の重み。

    俺はこの重さを、一生忘れないだろうなと思った。

    「……寝るなよ、藤田」

    「……寝てない。……まだ、ラムネの味、残ってるんだから……」

    俺たちは静かな夜の道を、ゆっくりと歩いていった。

  • 4426/02/25(水) 19:33:20

    【誰にも迷惑を掛けたくない高校受験】

    気づけば時間が過ぎて、季節なんて数えてる余裕はなかった。

    帰り道に一緒に遊んだり、一本のレモンティーを奪い合ったりしてるうちに、三年の月日が経っている。

    俺たちの身長差は少し開いたけど、やってることは中一の時からあんまり変わらないだろう。

    ただ、教室の空気が、嫌な感じにピリつき始めたのが中三の冬だった。

    「……ねえ。これ、答え合ってる?」

  • 4526/02/25(水) 19:34:50

    図書室の窓の外は、真っ暗で向かい側に座ることねが、俺の方にボロボロのプリントを突き出してきた。

    あいつの机の上には、ノートなんて洒落たものはない。

    学校でもらったプリントの余白が、もう文字を入れる隙間もないくらい数式で埋まっている。

    (……ほんと、こういうとこ真面目だよなぁ)

    「……ここ、プラスとマイナス逆。三回目だぞ、同じミス」

  • 4626/02/25(水) 19:35:59

    「わかってるし!……でも、頭の中がこんがらがっちゃうの。あんたみたいに、一回見て『はい、正解』みたいにいかないんだから……。ほんと、ムカつく……」

    ことねは投げ出すようにシャープペンを置いた。

    右手の小指の付け根が、芯の粉で真っ黒に汚れている。

    そう。

    この様子から見て取れるように、ことねは不器用だ。

  • 4726/02/25(水) 19:37:08

    俺が五分で終わる計算に、三十分かけて、それでも間違えて、唇を噛んでまた最初から解き直すことばかり。

    そんな実力なのに、ことねは滑り止めの、私立の併願を一つも出さなかった。

    三者面談で担任が「一つくらい受けておかないと」と説得しても、あいつは「お金の無駄ですから」と一蹴したらしい。

    親に負担をかけたくないという願望と、俺が行く公立高校にだけは、絶対に落ちるわけにはいかない。

    そんな、逃げ場のない崖っぷちで、あいつは毎日戦っていた。

  • 4826/02/25(水) 19:38:08

    「……藤田。あんまり詰め込むなよ。お前、さっきから手が震えてるぞ」

    「……うるさい。震えてないし。……ただ、ちょっと寒いだけ」

    ことねは、真っ赤になった指先を膝の上でぎゅっと握りしめている。

    俺は黙って、自分のマフラーを外してあいつの首に放り投げた。

    「……ちょっと、何これ。暑苦しいんだけど」

  • 4926/02/25(水) 19:39:20

    「いいから巻いとけ。……なあ。お前、そんなに無理して俺と同じとこ受けなくても、ランク一つ下げれば……」

    「下げない。絶対に下げない」

    ことねが食い気味に遮った。

    顔を上げたあいつの目は、少し充血している。

    「……あんた、あたしと別の学校に行きたいっていうこと?……嫌だよ。あんたがいない場所で、一人でこんな面白くない勉強、続けられるわけないでしょ。……あたしのこと、一人にしないでよ」

  • 5026/02/25(水) 19:40:55

    喉の奥で絞り出したような本音が耳にキーンと響く。

    その様子に俺は何を思ったのか、気づけばあいつの机の上に、わざとらしく小銭を置いていた。

    「……何これ。どういう意味?」

    「受かったら、コンビニで一番高いアイス、一人一個ずつ買う。……半分こじゃなくて。それを楽しみに、今はそのプリント埋めろ」

    藤田は一瞬、目を丸くして小銭を見つめ、それから「……バカじゃないの」と小さく笑った。

  • 51二次元好きの匿名さん26/02/25(水) 19:42:12

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  • 5226/02/25(水) 19:43:15

    「……アイス一つで、あたしを釣ろうなんて、考えが安すぎ。……でも、まぁ。ハーゲンダッツなら、考えてあげなくもないけどね」

    「ああ、いくらでも買ってやるよ」

    「……約束だからね。もしあんただけ受かって、あたしが落ちたら……。その時は、一生かけて償わせるんだから」

    「ふっ、それはお前のせいだろ」

    ことねは再びシャープペンを握り直した。

  • 5326/02/25(水) 19:44:59

    相変わらず手は少し震えていたけど、さっきよりは力強かった。

    俺たちの三年間は、この黒ずんだプリントの裏側に詰まっている。

    豪華な塾も、高い参考書もなかったけれど。

    この静かな図書室で、二人で並んでカリカリと音を立てている時間だけは、何よりも充実したものだった。

    「……ねえ。受かったら、名前で呼んでいい?」

  • 5426/02/25(水) 19:46:14

    「……え?」

    「……ううん、なんでもない。……早くそこ、教えて。ここの証明、全然わかんない」

    ことねは顔を真っ赤にして、プリントを俺の顔に押し付けてきた。

    春が来たら、また同じ門をくぐって。

    今度は「藤田」じゃなくて、もっと別の呼び方で呼ぶんだ。

    俺は、自分の心拍数を落ち着かせるようにして、あいつの解けなかった数式にペンを置いた。

  • 5526/02/25(水) 19:47:14

    【ただの合格発表……じゃない】

    掲示板に、俺たちの番号は並んで載っていた。

    それを見た瞬間、ことねは膝から崩れ落ちて、俺の袖を掴んで人目も憚らず泣いた。

    俺も心臓が口から飛び出しそうなくらいバクバクしていた。

    あんなにボロボロのプリントを積み上げて、指を黒くして……。

    あいつの三年間が報われたんだと思った。

  • 5626/02/25(水) 19:51:52

    「……約束、守ってよね。一番高いやつだから」

    「……はいはい」

    涙の跡を拭いながら、ことねはいつもの生意気な顔でそう言った。

    俺たちはその足でコンビニへ向かい、誇らしげに、棚で一番高いカップのアイスを二つ買った。

    ......はずだった。

  • 5726/02/25(水) 19:52:52

    「……ねえ。今の、聞いた?」

    コンビニを出て、駅へ向かう道すがら。

    前を歩いていた同じ中学の連中が、俺たちの合格を知ってか知らずか、勝手な噂を口にしていた。

    『あいつ、本当は県外の特進狙えたらしいよ』

    『なんでわざわざ、地元の公立に下げたんだろうな』

  • 5826/02/25(水) 19:54:28

    『あー、藤田といつも一緒にいたし。……察しちゃうよね。道連れっていうか、足引っ張られたっていうか』

    笑い声と一緒に、最低な言葉が夕方の陽の傾き空気に消えていく。

    俺は「気にするな」と言おうとして、隣を歩くことねを見たけれど……言葉を失った。

    ことねの手にあるアイスの袋が、カサリと音を立てて震えている。

    「……藤田?」

  • 5926/02/25(水) 19:55:35

    「……あたしのせいだ」

    「は?」

    「あたしが、あんたと同じところに行きたいなんて言ったから。あんたの将来、あたしが潰しちゃったんだ……」

    ことねが立ち止まる。

    街灯の下、あいつの顔は合格した直後とは思えないほど、表情が曇っていた。

  • 6026/02/25(水) 19:56:44

    「要領悪いと思う。……あたしみたいなのと一緒にいるために、あんたが妥協するなんて。そんなの、あたしが許せない」

    「何言ってんだよ。俺が自分で決めたことだ。お前は関係――」

    「関係あるよ!あたしがあんたを縛ったの!あたしがいなければ、あんたはもっと……もっと高い場所に行けたのに!」

    ことねの声が住宅街に響いた。

    あいつは、俺が買ったアイスの袋を無理やり俺の胸に押し付けてきた。

  • 6126/02/25(水) 19:57:50

    「もういらない。……貸し、全部チャラにしてあげる。だから、高校は別々に……」

    「……ふざけんな」

    俺は、押し付けられた袋を掴み返して、ことねの肩を強く掴んだ。

    あいつはびくりと体を震わせ、溢れそうな涙をこらえて俺を睨みつける。

    「チャラにするわけないだろ。……お前、俺がどれだけ考えてここを選んだと思ってるんだ」

  • 6226/02/25(水) 19:59:12

    「だから、それが間違いだったって言ってるの!あたしは、あんたの重荷になりたくないの!」

    「重荷なんかじゃねえよ。……お前いない学校とか、つまんねえだろ。……俺が」

    ことねの瞳が大きく揺れた。

    「県外の進学校?特進?……そんなとこ、お前がいないならただの箱だろ。お前がいないなら、どこ行っても同じだろ。……隣にいねえなら、意味ねえよ。俺はそれでいいんだよ。……文句あんのか」

    「……っ、そんなの……屁理屈じゃん。あんた、本当にバカじゃないの……」

  • 6326/02/25(水) 20:00:20

    ことねの力が、ふっと抜けた。

    俺の胸に額を預けて、そして声を殺して泣き始める。

    合格発表の時の嬉し泣きとは違う、自分の浅ましさと、俺の真っ直ぐな言葉に打ちのめされたような、震える泣き声。

    「……あたし、あんたに……一生かけても返せないくらいの貸しを作っちゃったじゃん。……どうすんの、これ」

    「……決まってんだろ。返すなら、逃げんなよ。……ずっと隣にいろや」

    自分で言っておきながら、最高にクサい言葉を言ったと思う。

  • 6426/02/25(水) 20:01:20

    俺がそう言うと、ことねは鼻をすすりながら、シャツをぎゅっと握りしめた。

    「……当たり前。……逃げるなんて、許さないんだから。……あんたが後悔したって、もう絶対に離してあげないんだからね」

    アイスは溶けたけど、まぁいいかって思えた。

    「……ねえ。アイス、ドロドロになっちゃった」

    「……また買えばいいだろ。今度は、もっと高いやつ」

  • 6526/02/25(水) 20:02:51

    「……うん。……覚えとくから」

    ことねは少しだけ顔を上げて、真っ赤な目で笑う。

    それは、小学校のあの日の夕暮れよりも、ずっと綺麗で、眩しい笑顔だった。

    「……あたし、本気でやるから」

    ことねが、空になったアイスのカップを指でペコペコと凹ませながら言う。

  • 6626/02/25(水) 20:04:21

    「……おう。やってみれば。お前、目立ちたがりだし」

    「何それ。……あたしが有名になったら、あんたに全部返すからね。お肉とか、カニとか、すっごい高いやつ、山盛り食べさせてあげるんだから」

    「……カニって。お前、そんなにカニ好きじゃないだろ」

    「……わかんないでしょ。高いカニは美味しいかもしれないじゃん」

    ことねは、へこませたカップをじっと見つめている。

  • 6726/02/25(水) 20:05:25

    あいつが言っているのはカニの話じゃない。

    「お金を返す」という名目で、俺との間に、何か強引な「貸し借り」を作ろうとしている。

    そうしないと、この先の自分がどこか遠くへ行ってしまうのを、あいつも怖がっているみたいだった。

    「……別に、返さなくていい。お前が笑ってれば、それで」

    「……バカ。……そういうのが、一番困るの」

  • 6826/02/25(水) 20:07:49

    ことねが足を止めた。

    俺も三歩分くらい遅れて足を止める。

    自販機の青い光が、ことねの横顔を不気味に照らしている。

    「……あたし、変わるよ。ううん。変わらなきゃいけない。そうじゃないと、あんたの隣にずっといる理由が、なくなっちゃう気がするから」

    「そんなわけ、ないだろ」

  • 6926/02/25(水) 20:09:29

    「あんたには、わかんないよ」

    ことねは、手に持っていたゴミを俺に押し付けた。

    「ほら、捨ててきて!」といつもの調子で笑ってみせるけど、その笑顔は、さっきまでよりもずっと、大人の知らない女の人の顔に見えた。

    「……置いていかないでね。プロデューサーさん」

    「……プロデューサー?何だよ、それ」

  • 7026/02/25(水) 20:10:40

    「……あは。……なんでもない」

    ことねはスキップするように数歩走って、それから、一度も振り返らずに家の方へ消えていった。

    俺の手の中には、ことねの食べたアイスのゴミだけが残った。

    甘ったるい匂いが、いつまでも指先に張り付いて、取れなかった。

  • 7126/02/25(水) 20:11:40

    【新学期、ことねの新しい道】

    四月。

    校門前の桜は、俺たちの合格を祝うように満開だった。

    新しい、少し硬い紺色のブレザー。

    ことねは、短くしたスカートの裾を気にしながら、俺の少し前を歩いている。

    「……ねえ。どう。あたしのこと、二度見した?」

  • 7226/02/25(水) 20:13:12

    四月。

    校門前の桜は、俺たちの合格を祝うように満開だった。

    新しい、少し硬い紺色のブレザー。

    ことねは、短くしたスカートの裾を気にしながら、俺の少し前を歩いている。

    「……ねえ。どう。あたしのこと、二度見した?」

  • 7326/02/25(水) 20:14:13

    ことねは少し照れくさそうに振り返った。

    中学の頃よりも少しだけ伸びた髪。

    あいつがずっと言っていた「世界一可愛くなる」って言葉が、冗談に見えなくなってきている。

    (かっ……可愛いかもな。ちょっとだけ)

    「……まあ、その。……変じゃないよ」

  • 7426/02/25(水) 20:15:53

    「なにそれ、地味な反応。あたしがこの制服の価値を上げてるんだから、もっと感謝してほしいぐらいだけどね」

    そういういつも通りの会話は、喜びも束の間で一瞬に消えていった。

    教室に入れば、嫌でも気づかされる。

    藤田ことねという女の子が、どれだけ周囲の目を引く存在になってしまったか。

    休み時間になると、他クラスの男子がわざわざ「可愛い子がいる」と覗きに来た。

  • 7526/02/25(水) 20:17:22

    あいつが笑うたびに、俺の知らないところで誰かの視線がことねに突き刺さる気がする。

    (……なんだよ、これ。面白くねえな)

    あの日、あの湿った教室で、あいつの隣にいたのは俺だけだった。

    半額のパンを分け合っていたあいつを知っているのは、俺だけのはずだったのに。

  • 7626/02/25(水) 20:18:49

    数ヶ月が経ち、学校生活が日常になった頃。

    俺は昼休みに、一人で購買へ向かった。

    ことねは最近、「やることがあるから」と言って、昼休みに姿を見せないことが増えている。

    購買のワゴン。

    そこには、中学のあのスーパーと同じ、売れ残って割引シールを貼られたメロンパンが転がっていた。

    「……一個、ください」

  • 7726/02/25(水) 20:20:10

    かつては二人で半分こした、安っぽい味。

    それを一人で頬張っていると、不意に後ろから声をかけられた。

    「……あんた、またそんなの食べてるんだぁ。……一口、ちょうだい、ね!」

    振り返ると、そこには少し疲れた顔をしたことねが立っていた。

    (なんか、絡み方が不良みたいだな......)

    制服のポケットからは、四つ折りにされた一枚のチラシが覗いている。

  • 7826/02/25(水) 20:21:24

    それは、大手芸能事務所のオーディション募集要項だった。

    「……藤田。それ」

    「……あ。見ないでってば」

    ことねは慌ててチラシを隠したけれど、すぐに開き直ったように俺を真っ直ぐに見た。

    「あたし、決めたんだ。これが一番、あたしが上に行ける道だって。あたしが世界一可愛くなって、お金もしっかり稼いで……。そうすれば、あんたに返さなきゃいけない分も、一気に返せるでしょ」

  • 7926/02/25(水) 20:22:31

    冗談っぽく言ってるけど、目は本気だった。

    「……返さなくていいって。一生かけて隣にいろって言ったのは……」

    「わかってるってば!でも、あたしが納得いかないの!あんたの隣で、ただ守られてるだけの安物でいたくないんだってば!」

    ことねはそう言い捨てると、強引に俺の手からメロンパンを奪い取って半分に割った。

    「ほら、半分こ。これ食べて、あたしの夢に投資してればいいんだから」

  • 8026/02/25(水) 20:24:00



    それからしばらくして、ことねが放課後にバイトを始めた。

    アイドルのレッスン代を貯めるためだって言ってたけど、あいつの生活は中学の頃よりさらに忙しくなっている。

    放課後は飲食店で皿を洗い、夜は公園でダンスの練習。

    中学の頃と同じ、指先や足に絆創膏を増やしながら、あいつは自分を削って夢を形にしようとしていた。

    そして、初めての給料日。

  • 8126/02/25(水) 20:25:13

    夕暮れの帰り道。

    あの日、サンダルの鼻緒が切れた、あの寂しい裏道で。

    「……はい。これ、利息の前払い」

    ぶっきらぼうに手渡されたのは、コンビニの袋だった。

    中には、あの日溶かしてしまった、あの一番高いアイスが二つ入っている。

    「……アイス?お前、これ……」

  • 8226/02/25(水) 20:26:51

    「……何、文句あるの?初給料なんだから、もっとパーッと使えばいいのにって顔してる。……でもね、あたしの中ではこれが一番マシな使い道なの」

    ことねは袋から自分の分を取り出すと、カチカチに凍ったカップの蓋を乱暴に開けた。

    「……半分こ、じゃないよ。今日は一人一個、全部あんたの。……あの日、ドロドロにしちゃったやつ。ずっと返さなきゃって思ってたから」

    街灯の下、ことねはアイスを頬張りながら、冷たさに眉をひそめた。

    ことねが初めて、自分の力で、誰にも文句を言わせないお金で手に入れた贅沢だ。

  • 8326/02/25(水) 20:27:55

    少し申し訳ないと思ったけれど、受け取るのが性だと思い優しく受け取った。

    「……悪かったな。ありがたく食わせてもらうよ」

    「当たり前でしょ。……あーあ、冷た。でも、いいね。自分で稼いだお金で食べるアイスって、こんなに美味しいんだ」

    ことねは、アイスの棒を口にくわえたまま、ふっと夜空を見上げた。

    「……ねえ。あたし、アイドルになってみせるんだ。なって、もっともっと稼いで、あんたに一生かかっても返しきれないくらいの贅沢させてあげる。……だから、それまであたしの隣、空けといてよね」

    「……ああ。覚えとく」

  • 8426/02/25(水) 20:30:12

    【初めてのお家訪問】

    あの日、名前呼んだのにな。

    なんでか知らんけど、高校に入ってから呼びづらくなった。

    あいつが遠く見えて、俺は「ことね」って呼びたくても、つい「藤田」って言っちまった。

    「……ちょっと、あんた。いつまでそこで突っ立ってるの?」

    アパートの錆びついた階段の上から、ことねが呆れたように俺を見下ろしている。

  • 8526/02/25(水) 20:32:50

    期末テスト一週間前。

    「赤点取ったらオーディション辞退」という崖っぷちのことねに泣きつかれ、俺は初めて、あいつの家のドアを叩くことになった。

    「……悪い。……お邪魔します」

    ドアを開けると、そこには俺が想像していたよりもずっと狭いけれど、整頓された部屋があった。

    使い込まれた小さなキッチンに、壁の薄そうな六畳間。

  • 8626/02/25(水) 20:33:59

    部屋の隅には、姿見の鏡と、使い古されたダンスシューズが転がっている。

    「……何?あんたの家みたいに、立派じゃなくて悪かったね」

    ことねは俺から視線を外して、ちゃぶ台の上に参考書を広げた。

    「……そんなこと思ってねえよ。勉強、始めるぞ」

    「……わかってるってば」

  • 8726/02/25(水) 20:35:18

    それから二時間。

    狭い部屋には、紙を擦る音と、重苦しい溜息だけが溜まっていく。

    「……っ、もう!なんでよ!」

    ことねが消しゴムを叩きつける。

    ちゃぶ台のレモンティーが、中身をこぼしそうに揺れた。

  • 8826/02/25(水) 20:36:25

    「落ち着け。符号、逆になってるぞ」

    「わかってる!わかってるよ!……でも、手が言うこと聞かないの。あたし、こういうの向いてないんだってば……」

    ことねがペンを放り出す。

    小指の付け根が、シャー芯の粉で真っ黒に汚れていた。

    「……汚い手だよね」

  • 8926/02/25(水) 20:37:30

    ことねは自嘲気味に呟いて、ウェットティッシュを乱暴に引き抜いた。

    黒い汚れをこすり落としながら、すぐにまた問題集を睨みつける。

    何度も、同じところでペンが止まる。

    五分前に教えたはずの数式を、あいつはまた間違える。

    唇を噛んで、半泣きで、また最初から。

  • 9026/02/25(水) 20:38:39

    「……ことね。少し休め。お前、さっきから同じことしてるぞ」

    「……まだ。あと少しで、ここ解けるから。……あたし、絶対に受からなきゃいけないの。アイドルになって、ここからみんな連れ出して……。それから、あんたに……」

    そこで、言葉が途切れた。

    遠くで電車の音が聞こえる。

    狭い部屋に、俺たちの呼吸だけが残った。

  • 9126/02/25(水) 20:40:31

    「……藤田」

    「……何」

    「……いや。お前、最近……遠いなと思って」

    「……え?」

    「学校でも、みんなお前のこと見てるし。お前はもう、アイドルとかっていう俺の知らない世界を見てるし。……なんか、名前で呼ぶのも、今の俺には贅沢な気がしてさ」

  • 9226/02/25(水) 20:42:00

    俺が自嘲気味に笑うと、ことねは手に持っていたシャーペンを机に叩きつけた。

    そのまま俺のシャツの胸ぐらを、小さな手でぎゅっと掴む。

    「……バカじゃないの!?遠いとか、そんなの……あんたが勝手に離れてるだけでしょ!」

    ことねの瞳が、怒ったように、そして泣き出しそうに揺れている。

    「あたしが、なんでこんなに頑張ってると思ってるの。あんたと、もっと広いところで、胸を張って隣にいたいからなのに……!なのに、あんたが『藤田』なんて他人行儀に呼んで、勝手に線を引いて……。最悪。あんたなんて、本当に大っ嫌い!」

  • 9326/02/25(水) 20:43:11

    「……っ。悪かったよ」

    俺は藤田の震える手を、そっと自分の手で包み込んだ。

    「……ごめん。……ことね」

    久々に口にしたその名前。

    言った瞬間、ことねは顔を真っ赤にして俺の胸に額を押し当てた。

  • 9426/02/25(水) 20:44:32

    「……遅い。……バカ。利息、十倍にしてやるんだから」

    「ああ、いくらでも払うよ」

    部屋の隅、窓際の棚には、使い込まれたノートや、くたびれたペン立てが置かれていた。

    ことねは、あの日から何も変わらず、必死に前を向いている。

    俺の方は、目をそらさずにいられなくて、つい立ち尽くしてしまった。

  • 9526/02/25(水) 20:45:34

    「……ねえ。お腹空いた。あたし、レモンティーの隠し味入れた煮物、作ってあげる。……食べてってよね」

    「……それ、絶対変な味するだろ。普通に醤油だけでいいよ」

    「うるさいなぁ、黙って食べてってば!ほら、あんたはそこ立ってて。……あ、邪魔。そこどいて」

    ことねに背中を押され、俺は狭いキッチンに追いやられた。

    狭いシンクは、ことねの洗い残したマグカップや、適当に置かれたザルで埋まっている。

  • 9626/02/25(水) 20:46:44

    ことねは冷蔵庫から、しなしなになった大根と、いつ買ったのか怪しい鶏肉を取り出した。

    「いい?煮物の基本はね、大根をどれだけ『ことねちゃんサイズ』に切るかなんだよねぇ」

    「……なんだよ、そのサイズ。普通に乱切りにしろよ」

    「あんたは黙ってて。……あ、包丁!指切るから、あんたが切って。あたしは味付け担当だから」

    結局、俺が包丁を握ることになった。

  • 9726/02/25(水) 20:47:59

    狭いキッチンで、ことねが俺のすぐ真横に張り付く。

    肩と肩が触れ、あいつの髪から洗いたての石鹸の匂いがふわりと漂ってきた。

    さっきまで勉強を教えていた時の「ピリついた空気」が、包丁がまな板を叩くトントンという音に溶けていく。

    「……ねえ。それ、厚すぎ。もっと薄くして。火が通るまで待てないんだから」

    「薄すぎると溶けるだろ。大体、煮物にレモンティーって、何考えてんだ。せっかくの出汁が台無しだぞ」

  • 9826/02/25(水) 20:49:02

    「あんた、分かってないなー。レモンの酸味と紅茶の渋みが、お肉を柔らかくして、こう、ケミカルな味にするの!ほら、早く入れて。……あ、そこ。火が強すぎ!焦げたらあんたのせいだからね!」

    ことねは俺の腕の隙間から手を入れて、コンロのつまみをガチャガチャといじる。

    距離が近すぎて、あいつの吐息が俺の腕にかかる。

    同棲してるわけじゃないのに、こうして同じ鍋を覗き込んでいると、ずっと昔からこうしていたような、妙な錯覚に陥りそうになった。

    「……ことね」

  • 9926/02/25(水) 20:50:17

    「何?今忙しいの。……あ、お玉どこやったっけ?醤油、醤油……」

    「お前、さっきからレモンティー入れすぎだろ。それ、もう茶だぞ」

    「いいの!これがあたしの隠し味なんだから!ほら、味見して。……はい、あーん」

    ことねが、木べらに少しだけ載せた茶色の液体を、俺の口元に突き出してきた。

    「熱いから気をつけてよ」と言いながら、あいつは自分の指先をふーふーと吹いている。

  • 10026/02/25(水) 20:51:55

    恐る恐る口に含むと、醤油の塩辛さの後に、強烈なレモンの香りと、微かな午後の休息の味がした。

    「……どう?びっくりするほど美味しいでしょ?」

    「……びっくりはした。味は……まあ、食えなくはない」

    「何それ!素直に美味しいって言ってよ!ほら、もう一口!」

    狭いアパートのキッチン。

  • 10126/02/25(水) 20:53:37

    換気扇がカラカラと鳴り、鍋からは変な匂いの湯気が立ち上っている。

    勉強の不安も、アイドルのプレッシャーも、全部この正体不明の煮物の煙の中に消えてしまったみたいだった。

    俺たちは、そんな下らない言い合いを三十分も続けて、ようやく一皿の煮物を完成させた。



    「……はい。これ、熱いから気をつけてよ」

  • 10226/02/25(水) 20:55:26

    ことねが差し出してきたのは、大口で切られている大根の煮物が入った小鉢。

    レモンティーを隠し味に入れたとかいう、あいつらしい無茶苦茶な料理。

    でも、狭い部屋に立ち込める湯気と醤油の香りは、びっくりするほど俺の胃を刺激した。

    「いただきます。……あ、意外と……普通に美味い」

    「何、意外とって。……あたし、やればできるんだから。可愛くて、ダンスもできて、料理まで完璧。あんた、あたしのこと捕まえといて、ほんとこっちが羨ましいぐらいなのに」

  • 10326/02/25(水) 20:56:48

    ことねは俺の隣に座り、自分の分を突きながら、ふっと笑った。

    けれど、食事の手が止まると、急に部屋の狭さが意識にのぼってくる。

    外はもう、藍色の夜が降りてきている。

    ことねの家族は揃って修学旅行だったり、夜勤だったりして……誰もしばらく帰ってこない。

    つまり、この古いアパートの、鍵のかかったこの部屋には、今、俺とことねしかいない。

  • 10426/02/25(水) 20:58:02

    「……ねえ」

    「……なんだよ」

    「あんた、さっき遠いって言ったでしょ。あたしがアイドルになっちゃったら、もう会えなくなるんじゃないかって、本気で思ってるの?」

    ことねが、膝を抱えるようにして俺を見た。

    少しだけ乱れたおくれ髪から、洗いたての石鹸みたいな匂いがして、俺は無意識に唾を飲み込む。

  • 10526/02/25(水) 20:59:36

    「……まあ、そうだな。テレビの中の人になっちまったら、今までみたいにうまくもいかないだろ」

    「ほんとそういうとこバカだよね。……あたしがどこに行っても、あんたにだけは一番可愛くないところ見せるに決まってるじゃん。……あーあ、ちがう。こんなこと言いたいんじゃなくて──」

    ことねの声が少しだけ熱を帯びる。

    あいつは、吸い寄せられるように俺の肩に頭を乗せてきた。

    薄いTシャツ越しに伝わる、ことねの体温。

  • 10626/02/25(水) 21:01:43

    「……藤田、じゃなくて」

    「……何?」

    「ことね。……お前、今、相当危ないこと言ってるのわかってるか」

    俺が声を低くして言うと、ことねは肩をびくりと揺らした。

    でも、あいつは離れなかった。

  • 10726/02/25(水) 21:29:49

    それどころか、俺のシャツの袖をぎゅっと掴んで、さらに体を寄せてくる。

    「……いいよ。あんたなら。……だって、あたしを一番に信じてくれたのは、あんたでしょ。……他の誰かに見せる前に、全部、あんたに……」

    ことねが顔を上げる。

    至近距離で重なる視線。

    あいつの瞳に、戸惑っている自分の情けない顔が映っている。

  • 10826/02/25(水) 21:32:45

    あと数センチ顔を近づければ、届いてしまう距離。

    「……っ、だ、だめだ」

    俺は、絞り出すように言って、ことねの額をそっと手のひらで押し返した。

    「……な、何!あたしが勇気出してあげてるのに、拒否するわけ!?ほんといつもそうだよね、このヘタレ!」

    ことねは真っ赤になって怒鳴ったけど、その顔は安堵と、少しの寂しさが混ざっていた。

  • 10926/02/25(水) 21:34:48

    「ヘタレでいいよ。……お前さ、これからアイドルになるんだろ。……大事な時期に、俺がその足を引っ張るわけにいかないんだ。……お前が、誰にも文句言わせないくらい完璧なことねになってから……その時に、全部もらいに行くから」

    俺がそう言うと、ことねは呆れたように俺を凝視して、それから「ぷっ」と吹き出した。

    「……あはは!何それ、かっこつけすぎ。……でも、いいよ。あたしが売れたら、その時に一番に返してもらうからね」

    「……ああ。約束だ」

    俺たちはまた、少しだけ距離を空けて、冷めかけた煮物を食べ直した。

  • 11026/02/25(水) 21:36:05

    窓の外で、遠くの電車の音が聞こえる。

    この境界線を越えるのは、今じゃない。

    でも、あいつの指先にできたペンダコが、俺の手のひらに触れた時、言葉以上の何かが二人の間に流れた気がする。

    「……ね、もう一回だけ。……名前、呼んで」

    「……ことね」

  • 11126/02/25(水) 21:37:22

    「……うん。……もう、藤田なんて呼んだら許さないんだからね」

    夜がゆっくり降りてきて、二人を静かに包んだ。

    この六畳一間で交わした約束が、いつかあいつの帰る場所であり続けるように、俺はそっと思った。

  • 11226/02/25(水) 21:38:47

    【疎遠になっていく俺たち】

    ことねが向こう側に行ってから、俺たちの関係は一気にボロが出始めた。

    あの六畳一間で交わした約束から数週間後、ことねは並み居る候補者をなぎ倒し、大手事務所の最終オーディションを突破。

    そのニュースは、瞬く間に学校中に広まった。

    「藤田さん、マジでアイドルになるらしいよ」

    「やっぱりあの子、住む世界が違ったんだね」

  • 11326/02/25(水) 21:40:13

    廊下ですれ違うたびに聞こえる、賞賛と羨望が入り混じった声が聞こえてくる。

    それが聞こえるたびに、俺の心臓は少しずつ冷えていく感覚があった。

    「……合格、おめでとう。ことね」

    放課後の誰もいない教室でようやく二人きりになれた一瞬、俺はあいつに言葉を贈った。

    けれど、ことねはいつものように生意気に笑う余裕すらないらしく、慌ただしくカバンに荷物を詰め込んでいた。

  • 11426/02/25(水) 21:41:34

    「……ありがと!でもごめん、今からすぐレッスンなの。事務所の車が迎えに来てるから、今日は一緒に帰れない」

    「ああ……。そうだよな」

    「また連絡するから!あたしのこと、ちゃんとテレビでチェックしといてよ!」

    ことねは駆け足で教室を飛び出していった。

    あいつの背中が小さくなっていく。

  • 11526/02/25(水) 21:42:48



    「……一個ください」

    昼休みの購買。

    俺は一人で半額のメロンパンを買って、誰もいない屋上の踊り場に向かった。

    一口かじると、パサパサとした生地が喉に詰まる。

  • 11626/02/25(水) 21:44:23

    あいつがいれば「ちょっと、半分ちょうだい!」って奪いに来るはずなのに……。

    あいつがいないメロンパンなんて、ただの安い、質の悪い小麦粉の塊みたいなものに思えてくる。

    スマホを開くと、通知欄には「藤田ことね」の名前じゃなく、ネットニュースの速報が見えた。

    『藤田ことね、初ライブで「私、皆のこと大好きー!」と宣言』

    「……みんな、ね。……勝手にしてろよ」

  • 11726/02/25(水) 21:46:44

    やり場のないイライラで、パンの袋をくしゃくしゃに丸めた。

    応援したい気持ちはある。

    でも、それ以上に、俺が積み上げてきた貸しを、世の中の知らない奴らに一瞬で上書きされていくのが、たまらなく惨めだった。



    その日の夜、我慢できなくなった俺は、気づいたらことねのアパートに向かっていた。

  • 11826/02/25(水) 21:48:17

    あいつの家族がいない時間は知っている。

    階段を駆け上がり、ドアを叩こうとして中から聞こえてきた音に、手が止まった。

    ガシャーン、と何かが割れる音。

    続いて、聞いたこともないような、ことねの荒い呼吸。

    「……っ、できない。……なんで、できないの!」

  • 11926/02/25(水) 21:49:18

    俺は鍵のかかっていないドアを押し開けた。

    (......一体、なにがあったんだよ)

    恐る恐る、近寄るとそこには、あの狭い六畳一間で、ぐちゃぐちゃになった衣装を床に投げつけ、鏡に向かって泣き叫んでいることねがいた。

    「……ことね?」

    「……っ。な、何。……なんで、あんたがここにいるの」

    振り返ったことねの顔は、テレビで見るアイドルの姿とは程遠かった。

  • 12026/02/25(水) 21:50:35

    メイクは涙でドロドロに崩れて、目の下にはひどいクマ。

    指先は、ダンスの練習のしすぎで、新しい絆創膏だらけになっていた。

    「……ひどい顔だな」

    「うるさい!見ないでよ!今のあたし、一番可愛くないんだから!……あーあ、最悪。あんたにだけは、こんな惨めな姿、見られたくなかったのに……」

    ことねは床に座り込み、膝を抱えて震え出した。

  • 12126/02/25(水) 21:55:16

    あんなに強気で「上に行く」って言ってたあいつが、今は今にも消えてしまいそうに小さい。

    「……ねえ。もう、やだ。……アイドルなんて、全然稼げないし、時間はないし、あんたとは喋れないし。……これじゃ、あたしが頑張ってる意味、全然ないじゃん……!」

    「……ことね」

    「あんたのせいでしょ!あんたが、あの日あんなに格好いいこと言うから!あたし、あんたに相応しい女になりたくて……」

    「…………」

  • 12226/02/25(水) 21:59:43

    「なのに、なればなるほど、あんたが遠くなるし……。……もう、どうすればいいか、わかんないよ……」

    「……遠くなんてねえよ。俺はここにいるだろ」

    俺はことねの隣に座り、震える肩を強引に引き寄せた。

    「アイドルだろうが何だろうが、俺にとっては、今ここで鼻水垂らして泣いてるお前が、一番本物のことねだよ。……半分こ、しに来たんだよ。お前のその、ぐちゃぐちゃな気持ち」

    「……バカじゃないの。……そんなの、半分こにできるわけないじゃん……」

  • 12326/02/25(水) 22:00:58

    ことねは俺の胸に顔を埋めて、子供みたいにわあわあ泣いた。

    石鹸の匂いじゃなく、汗と、悔しさと、必死に生きてるあいつの匂いがした。



    ことねが泣き止むまで、どれくらいの時間が経ったか分からない。

    狭い六畳一間。

  • 12426/02/25(水) 22:02:17

    外では遠くのパトカーのサイレンが鳴り、部屋の中には俺たちの重い呼吸だけが残っていた。

    「……ねえ。あたし、やっぱりバカだね」

    ことねが俺の胸に顔を埋めたまま、掠れた声で呟いた。

    「もっと楽に稼げると思ってた。アイドルになって、チヤホヤされて、お金いっぱいもらって、あんたにドヤ顔で貸しを返すつもりだったのに……」

    「……うん」

  • 12526/02/25(水) 22:04:14

    「実際は、寝る時間もなくて、毎日誰かに怒られて、あんたに会う時間すら削って……」

    「……ああ、最悪だな」

    俺はことねの頭をそっと撫でる。

    あいつは「上に行きたい」って言ったけど、肩越しに見えるその目は少し揺れていた。

    「……あたし、もう辞めようかな」

  • 12626/02/25(水) 22:05:29

    その言葉に、俺の指が止まった。

    ことねは俺から体を離し、真っ赤な目で俺を見上げた。

    「あたしがアイドルでいようとすれば、あんたとはもう普通には会えないでしょ。ファンのみんなのものだって言わなきゃいけない。……そんなの、あんたを縛っておくには、割に合わないもん」

    ことねの自嘲気味な笑い。

    その笑顔には、頑張ろうとする決意と、諦めそうな弱さが入り混じっている。

  • 12726/02/25(水) 22:07:22

    俺は胸がぎゅっと締めつけられ、思わず立ち上がる。

    棚に目をやると、あの日ことねが初めての給料で買ってくれたアイスの空きカップが置かれていた。

    それを手に取ると、懐かしい匂いと、あの頃の二人の時間が蘇ってくる。

    「……ことね。あの日のアイス、覚えてるか」

    「……忘れるわけないじゃん。ドロドロに溶けちゃってさ」

  • 12826/02/25(水) 22:09:39

    「……ああ。でもさ、あれ、ドロドロに溶けてたけど、普通に食えただろ。……お前がアイドルになっても、もし大失敗してボロボロになっても、そんなの関係ないんだよ。俺にとっては、ただこうして、お前とぐだぐだしてる時間が……一番、マシなんだ」

    俺はことねの前にしゃがみ込んで、絆創膏だらけの、あいつの汚れた手を力任せに握った。

    「金とか、贅沢とか、そんなのどうでもいい。……俺が欲しいのは、今ここで鼻水垂らして泣いてる、お前そのものなんだよ。お前が隣にいないなら、どんだけ高いアイス食ったって、ちっとも美味くないんだよ……」

    ことねの瞳が再び大きく揺れた。

    「……アイスの代わりだ。あの日溶かしたやつの代わりに、今の俺をやる。……だから、アイドルでも何でも好きにやれよ」

  • 12926/02/25(水) 22:11:21

    「どこに行こうが、俺は絶対隣にいる。……離れるなんて、絶対に、ないからな」

    「……っ。ほんと……バカじゃないの、あんた」

    ことねは再び、俺の首に腕を回して泣きじゃくった。

    今度は、さっきみたいな絶望の涙じゃない。

    あの日、合格発表の夜に流した、あの熱い涙と同じだった。

  • 13026/02/25(水) 22:12:47

    「……わかったよ。そこまで言うなら、あたし、世界一になる。……その代わり、あたしの隣は、地獄までついてきてもらうからね」

    「……おん」

    「……一生、離してあげないんだから!」

    「ああ。望むところだ」

    六畳一間の狭い空気が、少しだけ軽くなった気がした。

  • 13126/02/25(水) 22:14:32

    【俺たちのこれから】

    高校を卒業して数年が経った。

    ことねは今、テレビで見ない日がないほどのトップアイドルだ。

    俺はその隣で、スーツを着てスケジュールを管理する立場にいる。

    仕事が終われば、重い事務所のドアを閉めて、窮屈なネクタイを緩める。

    そこからが、俺たちの時間だ。

  • 13226/02/25(水) 22:16:07



    「……ちょっと!プロデューサー、早くしてってば!あと五分でタイムセール終わるじゃん!」

    夕暮れのスーパー。

    ことねは深く帽子を被って、マスクまでしているけれど、俺を顎で使い倒す口調は、あの裏道で鼻緒を切らした頃と何一つ変わっていない。

    「わかってる。ライブの後なんだから、少しは大人しくしろ」

  • 13326/02/25(水) 22:17:18

    「バカ言わないで。ステージも、スーパーの特売も、あたしにとっては戦場なの。ほら、カゴ持って」

    店内に入ると、ことねの歩調はさらに速まった。

    精肉コーナーの前でピタリと止まり、獲物を狙う鷹のような目で棚を睨みつける。

    「……ねえ。これ見て。こっちの豚細切れ、100グラム98円。でも、あっちのジャンボパックなら92円。……どう思う?」

    「……どう思うって、そんなの量が多い方が安いに決まってんだろ」

  • 13426/02/25(水) 22:18:40

    「あんた、ほんと分かってないよねー。ジャンボパックは確かに単価は安いけど、今のあたしたちのスケジュールでこれ全部使い切れると思ってるの?」

    「でっ、でも冷凍すれ──」

    「冷凍すればいいとか思ってるでしょ。冷凍焼けしたお肉なんて、あたしの美肌の敵なんだから。……でも、6円の差はデカいかぁ……」

    俺のことは全部お見通しらしい。

    (まあ、もう十三年の付き合いだしな)

  • 13526/02/25(水) 22:19:49

    ことねはパックを両手に持ったまま、真剣な顔で数秒フリーズした。

    その間にも、横から他のおばちゃんがパックをさらっていく。

    「ああっ、ちょっと!今あたしが目をつけてたのに!……もういいや、今日はこっちの鶏胸肉にする。見て、このハリ。あたしみたいにピチピチじゃない?」

    「……はいはい。じゃあ、それ入れるぞ」

    「待って。そっちの野菜コーナー、小松菜が二束で150円って書いてあった。一束だと80円。……ねえ、二束買うべきかなぁ?」

  • 13626/02/25(水) 22:21:09

    「お前、小松菜そんなに食わないだろ」

    「……くっ、痛いところをついてくるなー。でも10円安くなるし。10円あれば、さっきの肉の差額が帳消しになるじゃん」

    結局、ことねは五分ほど野菜の前で悩んだ挙句、一束だけをカゴに放り込んだ。

    勝ち誇ったような顔をしているが、計算は合っているのか怪しいものだ。

    「……ふん、完全勝利ぃー!今日も無駄遣いしなかったぞー!」

  • 13726/02/25(水) 22:22:34

    レジ袋の重みを右手に感じながら店を出る。

    夜風が少しだけ、ことねの火照った頬を撫でた。

    「……ねえ、プロデューサー」

    不意に、ことねが俺の空いた左手をぎゅっと握りしめてきた。

    「あたしたち、卒業しても、結局これだよね。テレビじゃ理想のアイドルなんて言われてるけど、実際は半額シールに必死になって。……全然、キラキラしてない」

    自嘲気味に笑うことねの指には、あの頃と同じ、必死に生きてる奴の硬さがあった。

  • 13826/02/25(水) 22:23:47



    新しく借りたアパートは、二人で住むには少しだけ広い。

    買ってきたレモンティーを、二つのコップに注ぐ。

    一本を奪い合う必要はもうないけれど、俺たちは今同じリズムでそれを喉に流し込んでいた。

    「……あ。あんた、明日の朝ごはん何がいい?」

  • 13926/02/25(水) 22:24:53

    コップを置いたことねが、唐突に言った。

    「……なんだよ、急に」

    「いいから。ご飯?それとも、さっきのパン?本当はフレンチトーストがいいけど、明日はダンスレッスンだし。お腹重いと回れないよねぇ。……あ、卵。一個余ってる。賞味期限、今日までだっけ」

    「……お前、さっきから食べ物のことばっかりだな」

    「うるさい!お腹空くんだもん」

  • 140二次元好きの匿名さん26/02/25(水) 22:25:33

    >>1

    pixvでやりなさい

  • 14126/02/25(水) 22:25:59

    ことねは俺の横に座り、じっと俺の肩口を見つめた。

    「……あ。ボタン、また緩んでる。脱ぎっぱなしにしてた、仕事用のシャツ」

    「え?どこだ」

    自分の袖を見るが、よくわからない。

    同棲を始めて四六時中一緒にいる。

  • 14226/02/25(水) 22:26:59

    なのに、こういう些細なことには意外と気づかない。

    お互い、自分のことで精一杯だったのかもしれない。

    「もう。プロデューサーなんだから、身だしなみくらいちゃんとして。あたしがいないと、あんたすぐボロが出るんだから」

    「……悪かったよ。後で自分でやる」

    「……嘘。あんたがやったら、糸がぐちゃぐちゃになるでしょ。後で貸して。……貸し、一個追加」

  • 14326/02/25(水) 22:28:12

    ことねが少しだけ満足そうに笑った。

    かつて泣いていた少女が、今は俺のボタンを心配して、卵の期限を気にしている。

    沈黙が流れた。

    「……わかってるよ、あたしも。今はまだ、この関係が一番効率がいいってことくらい」

    ことねが窓の外、遠くのライブ会場の照明を見つめる。

  • 14426/02/25(水) 22:29:28

    「でもね、あたし、決めてるの。絶対に、もっと上に行ってやる。誰にも文句言わせない、手の届かないくらいのことねになってやるんだから。……その時はさ、覚悟しといてよね。あたしのわがまま、一個残らず、一生かけて、ぜーんぶあんたに押し付けるんだから……」

    ことねはテーブルにスマホを置いた。

    待ち受けは、あの卒業式の日に撮った、少しだけボケている二人の写真だ。

    「名字が変わるのは、まだ少し先かもしれないけど。……でも、予約はしとくから。あたしの名字、あんたが責任を持って、その……書き換えてよね」

    ことねが、俺のシャツの袖をぐいっと引いた。

  • 14526/02/25(水) 22:30:34

    俺は、その小さな手を握り返す。

    「……ああ。他の奴に、そのチャンスをやるつもりはない」

    「……ふん。利息、来世の分までたっぷり貯めといてよ」

    「……もう財布はことねが握ってるだろ」

    「あー、そうだっけ……えへへ〜」

  • 14626/02/25(水) 22:32:19

    ことねは俺の肩に、すとんと頭を預けてきた。

    窓の外には、静かな夜の街が広がっている。

    明日はまた、仕事現場へ向かう二人だ。

    でも、俺たちの名字は、もうすぐ変わるらしい。

    「……おやすみ、プロデューサー」

  • 14726/02/25(水) 22:34:01

    「ああ。おやすみ、ことね」

    開いた窓から、春の風が入ってきた。

    もし、藤田ことねが幼なじみだったら──。

    たぶん、俺は何度生まれ変わっても、またあいつを選ぶとおもう。

    おしまい。

  • 14826/02/25(水) 22:36:22

    これにて終了です。
    ここまで読んでくださった方、お疲れさまでした。
    私なりの解釈で幼馴染だったら......っていう話を書いていったけど、楽しく読めましたかね?
    個人的にはきれいに終われたから大満足です。
    同じ気持ちになってくださる方がいてくれたら嬉しいです。
    ありがとうございました!

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