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(―重い―)
ズッシリとした不快感が首、肩にのしかかっている。
背中辺りは最早血行すら妨げられており、ヒンヤリ冷たい感覚があった。
チラリと上げた視線の先、大通り沿いの雑居ビルに入っているのだろうマッサージ屋の看板を見つけたが、それでこの感覚が解消されない事は良く分かっている。
足を一歩踏み出す度に、重みは更に増している…気がする。
乗っているものが増えた様な感覚だが、だからと言ってそれを確認しようと振り返ってはいけない。
決して。
それは、経験で知っている。
(―重い―)
情けない事に、限界が近い様に思われた。
何処か、店に入って休もうと視線を巡らせる。
マッサージ屋と同様、休んだ所で根本的な解決にはならない。気休めである。
あと10メートル程この重い体を進めた所にレトロなカフェな看板を見つけた。
彼処にしよう。
時間的に満席という事はあるまい。
あと少しだ…そう自分自身にエールを送り歩を進めた。
自分の感覚ではようやっと辿り着いたカフェのドアからは
入れ違いに出て行く客が有り、ふわりとコーヒーの良い香りが漂い出てきた。
カラン
又暖かい印象のベルが鳴り一歩入り込んだ所で、スタッフが1人振り返り
「いらっしゃいませ」
と、通りの良い声をかけてきた。
瞬間だった。
ぶわりと向かい風が吹いた気がした。
心地良いと同時に強い風だ。
そしてその風と一緒に肩の重みが後方に吹っ飛んで…
カラン、パタン
はっと振り返ると、まるで吹っ飛んだものを締め出すかの様にカフェの扉がやけに素早くしかし静かに締まっていた。
「お一人様ですか?」
再び声を掛けてきたスタッフを見る。
ぼんやり入り口のドアを振り返って見ていたので、
連れが居ると思われたのだろう。
「あ、ああ…」
慌ててそう答えると、ギャルソンエプロンを巻いたパンツスタイルのスタッフは
踵を返した瞬間に長く青い尻尾をフリっと振って
「お席へご案内します」
と、やはり通りの良い声で言った。
「いやあ、昨日整体行ったらさあ、何でこんななるまで来ないんですかって怒られちまったよ」
社食で手製の弁当を食べ終わり、無料のお茶を啜っていると
隣の席の別部署の社員が連れ相手に愚痴っていた。
「そうは言っても…ですよね」
と、連れも相手の言外の言葉を解し苦笑している。
「二週に一度は来いっていうけどそうはいかねーよなあ」
「マッサージよりは安いですけど…そうそう自由にはならないですよね」
「それもあるけどまあ単的に面倒くせえ」
「確かに」
ずずずと薄い緑茶を啜りながらアーチャーは内心でうんうんと頷いた。
身に覚えのある感覚ではある。
但し、アーチャーの場合整体やマッサージの話ではない。
空になったランチボックスを大判の布で包み、席を立つ。
ここの所残業続きだったが、今日は定時で上がれそうである。
(今日は寄って行こう)
社食を出てオフィスへ戻る廊下でひとりごちた。
「いらっしゃいませ…っと、久しぶりですね」
カフェのドアを開けるその瞬間、
アーチャーはいつも、少し強目の向かい風の様なものを感じる。
これは、自分の錯覚だとは分かっている。
どんなに空調が強くとも、そんな風に感じるわけがない。
なのに、いつもこのカフェに入る時はそれを感じ、
自分を通り過ぎてから外に吸引される様にして
カフェのドアが素早く閉まる。
だが、閉まる瞬間のドアは極力静かなのが不思議だった。
そういう作りのドアなのだと言われればそれまでなのだが。
「ああ、残業続きでね」
運良く奥のソファ席が空いている。
「いいかな」と指差すと、青い髪の店員は気前良く肯く。
店員は初めてアーチャーがこの店を訪れた時に接客したスタッフで、ランサーと言う。
珍しい青い髪を伸ばし、それを一本に纏めているだけでもだ中々目立つのだが、
それが違和感無く馴染む程の美丈夫である。
作りだけを見れば酷く繊細な美しさのある美人なのだが、
その印象を覆す男臭い振舞いと表情を見せるものだから、
彼の容姿を表現する時は美人ではなく美丈夫となる。
例え同性でも、これだけ見目も気持ちも良い青年に接客されるのは悪くない気持ちになるのか、
店の雰囲気の割に男性客も多い。
各言うアーチャーも、席を案内されながらそのスタイルの良さに見入ってしまう。
案内される時は後ろ姿なのだが、身長に相まった肩幅も背中も引き締まった腰に男らしい小ぶりな尻にまで。
何せ足も長い。
別にイヤらしい目で見ているわけでもないのにこっそりと。
人は、美しいものを見るとストレスが減る気がするのだ。
それは美術鑑賞に近いものがあった。
勿論本人には言えないが。
ソファに重い体を沈め、コーヒーとスコーンを頼む。
スコーンには紅茶ではないかと思うだろうが、スコーンはチョコチップ入で
甘い作りになっているのでブラックコーヒーの香ばしさと合わせると、
疲れた体に良く合うのだ。
タバコの匂いのしない、コーヒー豆のローストされる匂いが強い店内の空気をすうっと吸うと、どっと肩の力が抜ける。
タイは緩め、いや、もう帰るだけなのだからと、外して鞄へ突っ込んだ。
そのタイミングでチョコチップスコーンとブレンドが運ばれてきた。
丁寧にサーブされるそれにお礼を言うと、何時もなら「ごゆっくり」と添えるだけで去っていくランサーがじっとアーチャーを見つめた。
ただの店員と客なら可笑しな空気にもなろうが、
アーチャーも常連という奴になりつつたるので、何だろうと思う位だった。
「何か」
「いや…残業、忙しかったのかい」
ランサーは、基本マナーのしっかりした店員なのだが、
常連相手だと砕けた物言いを
する時があった。
それはもっと昔からの常連であろう紳士や奥様方相手が多く、
アーチャーには珍しい事だった。
というのもアーチャーは此処でスタッフとお喋りをしようというタイプの客ではなく、
単にコーヒーの香りでリラックスする為に来ているからで、
ランサーもそれを良く読み取っていたからなのだが。
「あ、ああ…ちょっとトラブル続きでね。でも何とかなって…今日無事に此処でリラックスが出来る。君の入れるコーヒーの香りで疲れが取れる様だよ」
それは、比喩ではなく本心。
このカフェの空間は、アーチャーにとって他のどんな店よりも緊張感が溶け、
何なら頭痛も治る程なのだ。
そんなアーチャーの様子を見て、ランサーは小さく笑った。
本当にそれは豪快そうなイメージの彼にしては密やかなものだった。
「そりゃ…バリスタ冥利に尽きるってもんだが。
なら、そんなクタクタになる前にもっとマメに通わなきゃダメだぜ」
「ははは」
頭を過ったのは昼食時に別部署の社員が整体院の施術師に言われたという言葉。
だが彼と同じようにアーチャーだって中々通おうと思ってもできない。
面倒なのではなく、単純に忙しいだけだが。
だから、意味の無い笑いで誤魔化すしかなかった。
丁度新しい入店があったのでランサーは会話を切り上げ踵を返した。
彼にサーブされたコーヒーの芳しい香りを吸い込む。
いい香りだ。
アーチャーの数少ない小さな幸せの瞬間だった。
コーヒー一杯と甘いチョコチップスコーンを平らげ
読みかけの小説を切りの良いところまで読むと背中と肩の凝りすら良くなった気がする。
「うーん…」
少し、凝りの酷い右肩と肩甲骨を意識して回す。
店内の壁にある時計を見ると21時を示していたので会計の為立ち上った。
会計は別のスタッフで、入口まで行くと丁度外のメニューボードを下げて来たランサーが
ついでとばかりにドアを押さえてくれた。
「ありがとう」
「又お待ちしてます…」
ドアを押さえてくれているランサーに、丁度背を向けた時だった。
バン!
「った!」
いきなり背中を叩かれた。
かなりの衝撃に思わず後ろを振り向けば、犯人は当然ランサーだった。
じっと此方を怖いくらいの目力で見ている。
「何するんだ?!」
「いや、猫背」
「は?!」
「猫背だと肩凝るだろ」
「あ…え?…ああ」
猫背…だっただろうか。
確かに、此処でリラックス出来たとはいえ疲れているので
そう見えたかもしれない。
それにしても背中がじんじんしている。熱い位だ。
そんなに強くて叩かなくてもいいじゃないか。
何と答えたらいいのか分からず、アーチャーがモゴモゴしていると
無表情と言っていい顔で此方を見ていたランサーがふっと表情を崩す。
「本当さ、もっとマメに来なきゃダメだぜ。あんた」
先程の話題だ。
猫背の指摘といい、相当うらびれて見えているのかもしれない。
それにしても、顔の良い店員にこんな風に表情を崩して言われると
自分が女だったら勘違いしていたかもしれない。危険だ。
「そうだな。時間が出来ればそうさせてもらうよ」
取り敢えずそうとだけ言って、
アーチャーは踵を返した。
「ただいま」
誰もいない一人暮らしなのにそう言ってしまうのは
実家暮らしの長かった癖なのだろう。
リビングを通り過ぎて寝室でスーツを脱ぎ部屋着へ着替える。
ふと、寝室の窓の横、部屋の隅を見ると古ぼけた刻印の様な魔法陣の様な印の描かれた紙が
貼られている。
紙は破れているところもなくぴったりと貼られていた。
同じものがこの部屋にはリビングやバスルームにもある。
故郷の友人である少女が持たせてくれたものだ。
「…………こういったものは、あのカフェには無いよな…」
独りごちた。
ランサーがマメに来いという営業文句を言ってくれたからではないが、
アーチャーだって出来ればもっとあのカフェに入り浸りたい。
アーチャーには秘密がある。
故郷の家族と少しの友人、地元のお寺の住職しか知らない秘密だ。
アーチャーは所謂霊媒体質で、それはもう良くないものをどんどん寄せ付けてしまう。
アーチャー自身はそれを多少見えたりしても、祓えるとか特殊能力は無いのに、寄ってくるモノのせいで悪い影響ばかりが自身の身体に出てくるのだ。
あまりに重い肩凝りと背中の凝りなんかはそれが原因である事が多い。
アーチャーが今の部署に転勤になった時、故郷の友人はあの魔法陣の様な模様を描いた紙を持たせてくれた。
これを部屋に貼れば悪いものは入ってこれない。
とはいえ、外では色々拾ってしまうしそれも部屋に入ってこれなくとも、
一度アーチャーを見つけてしまうと外に出れば戻ってきてしまう。
肩凝りと背中の凝りが酷い時は塵積も状態なのだ。
それが、あのカフェに入ると劇的に楽になる事に初めて入った時にはもう気付いた。
まるで聖域である。
教会か何かか?と問いたいくらい。
何度店を見回しても、この紙の様なものは見当たらない。
勿論そういうものがあったとしても客の目に付く様な所には貼らないかもしれないが。
兎にも角にもそんなわけでアーチャーだってあの店にはもっと入り浸りたいくらいなのだが、社畜はそれが出来ない。
「もう少しすれば仕事も落ち着く。辛抱だ」
それは、多分3ヶ月前にも言ってた言葉だが、アーチャーは忘れたフリをして自分に言い聞かせた。
あとがき
一応続くつもりの槍弓のつもり…