【槍弓】あした世界が終わるとしてもこれは恋だと叫ぶがいい
性別も外見もクラスも、すべてを変化させることのできる概念礼装で自分を擬態したアーチャーが、ずっと好きで好きで仕方なかったランサーに別人のサーヴァントとして近付いて、一度だけでいいから抱かれようとする話。
2部のカルデア時空です。
めちゃくちゃに恋の槍弓のつもりで書きました。成就エンドです。
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この話に、2人の初夜と後日談を付け加えたR18完全版を、8/25のるーしこで頒布します。
ページ数など確定したら、pixivに新刊サンプルをあげますので、ご覧ください。
ちなみに、全年齢バージョンで構わない方はこちらに掲載した話だけでも完結しているので、ご安心ください。
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「オーケーエミヤ、いいよ、目を開けて」
ダ・ヴィンチの声に深く息を吸い込んで、さっきから閉じていたまぶたをそっと持ち上げると、目の前に置かれた鏡からまったく知らない英霊がこちらを見つめてきた。すらりと伸びた細い手足とつややかな黒髪、かろうじて普段の面影が残る目元も睫が増えて瞳もはっきりと大きくなっている。体を覆っていた筋肉はずいぶん嵩を減らしており、体を見下ろせば胸の膨らみが視界を邪魔するうえ、視線の位置もずいぶん低くなっているのがわかった。
背後を振り返ると、ひたいにゴーグルを押し上げたシオン嬢と満面の笑みのダ・ヴィンチがちょうどハイタッチを交わしているところだった。
「どうだい、完璧じゃないか!? どこからどう見ても新たに召還されし憂いを帯びたミステリアスな女性サーヴァントだろう」
「いやー、美意識的な観点からも完璧な仕事と言わざるを得ませんね。さすが私たち。この姿をぱっと見てこれがエミヤさんだと見破るのは至難の業ですよ」
「どうだいエミヤ、感想は?」
「……まあ、自分の体のことなので複雑ではあるが、見事な技術だと言っていいのではないかね」
「なにも謙遜する必要はないよ、君は今、どこからどう見ても美女サーヴァントだ!」
「謙遜しているのではないし、別段そう形容されても嬉しくはないが……」
「よーし、ちょっとスキル数値やらなんやらの諸々の調整をしてかまわないかな。それが終われば、実験に入れる。君も心の準備をしておいてくれよ」
「別に準備など必要ない。求められたことをこなすだけだからな」
「いやあ、それでも何の心構えもなくってわけにはいかないでしょ。なにせ、相手にしなきゃいけないのはあのクー・フーリンなんだから」
ダ・ヴィンチが何気なく口にしたのであろうその名の切っ先が、アーチャーの心臓をかすめて表面を傷つけ血を滲ませていく。しかし、そんなことはおくびにも出さずに口の端だけを持ち上げて笑みを作りながら答えた。
「ふん、奴ごときをたばかることなど、さして難しい案件でもあるまい。見くびらないでほしいものだね」
クー・フーリン。
今からアーチャーは、性別もクラスも何もかもを入れ替えたこの偽りの姿のまま、殺しても殺しても殺しきれない想いを抱えている相手であるところの英霊に近づき、「親しく」なることになっていた。
「実験につきあってほしい。考えた結果として、君がこのノウム・カルデアで一番適任だと判断したんだ」
ダ・ヴィンチがこの話をアーチャーに持ちかけてきたのは数日前のことだった。呼び出された彼女の工房に、ついでだからと夜食のスープを運んできていたアーチャーは、それをサーブする暇も与えずに言われた台詞に思わずまばたいた。
「実験、とは」
「これを見てくれないか」
ダ・ヴィンチが手元のコンソールを操作すると、空中にホログラムが浮かんでは飛び交う。いくつかの処理を経てから、様々な魔術を科学的に変換して特殊なカード型に術式固定された概念礼装が一枚浮かび上がったが、しかしそれはアーチャーの記憶にある限り見たことのない概念礼装である。
「これは?」
「最近シオンと研究を重ねて、ようやく実用化させられる見込みのたった概念礼装なんだ。まだ名称すら決めてない」
「効果は?」
「外見、性別、クラス、そのすべてを任意で書き換えてしまう礼装さ。もちろん表面上に限るが」
「失礼、今なんと?」
さらりと発言された内容にさすがに驚いて振り向くと、ふふん、と得意げに目を細めたダ・ヴィンチが胸を張る。
「簡単に言えば、表面上の霊気に干渉してごく限定的にそれを変質させるものだと言えばいいかな。爆発的に戦闘力をあげたり魔力の底上げをしたりはできないけど、その英霊の能力の範囲内である程度スキル数値もいじることができる。外見上は本人の痕跡がまったく残らない新たなサーヴァントの存在を作り上げたり、もしくは他の英霊の姿形を完璧に模したりって芸当が可能になる礼装だね」
「それはまた……いったい何のために?」
「備えあれば憂いなし、というやつさ。もっと具体的に言うと、今後のクリプター達との戦いに備えて、考えられる準備は全部しておきたくて開発したんだ。やられっぱなしは悔しいだろう。こっちから仕掛けられる機会があれば仕掛けたい。で、思ったんだ。向こうはそもそもカルデアの情報などすべて抜いてからあの襲撃を仕掛けてきているはずだ。我々の情報や立香くんが呼び出している英霊たちの情報を相当数持っている……というか、ほぼほぼバレてるも同然だろう。つまり向こうは、我々のカードをすべて読み切っているという確信のもとで動いているわけさ。そこに知らないカードが一枚登場するだけでも、相手の情報や作戦を攪乱するには大きな効果がある。場合によっては、この概念礼装を使って作り上げた偽りの姿でクリプター側に侵入することだって可能かもしれない。もちろん、結果としてこれが何の役にもたたずに戦いが終わるかもしれないよ。そうなったらそうなったでかまわない、さっきも言ったけど、私はとにかくできることはすべてしておきたいのさ。君もそういうタイプの人間だろう?」
不意に話を振られて、とっさにうなずいてしまう。しかしまだ話のすべてが見えたわけではなかったので、さらに重ねて尋ねた。
「だいたいのところはわかった。しかし、私の付き合うべき実験とは? もちろん、これを装備しろということなんだろうが」
「そのとーり! 要は相手を欺いて本当の姿を見破られないようにするって用途として、実用に耐えうるものなのかどうかを検証しなきゃいけないんだよね。こればっかりはやってみないとわからないから。それで白羽の矢が立ったのが君さ。こういうことをそつなくこなす口の堅い鉄面皮と言えば君だからね」
「それは誉めているのかね?」
「当然。でも、ただこれを装備してもらうだけじゃないんだ。この概念礼装を使った姿で、このカルデアにいる英霊誰か一人と、意図的に深く関わってくれないか」
意図的に深く関わってくれないか。そのオーダーが何を意味するのかはすぐにわかった。
「要は、化けの皮が何かの拍子に剥がれるような不具合がないか、実地で検証しろということだな」
「まとめありがとう。つまり、デバッグ作業を任せたいってことさ。で、もうひとつ条件があるんだけどね」
ダ・ヴィンチはぴっと人差し指を立てて見せると、少し間を置いてから言った。
「検証の相手には、君と元々関わりの深い誰かを選んで欲しい」
「関係の浅い相手では、そもそも検証のためのデータとしては不十分だからかね」
アーチャーが間髪入れずに打ち返すと、ダ・ヴィンチは笑いながらうなずいた。
「さすが、話が早い。関係の深い相手を騙し仰せなきゃ、クリプターたち相手になんてなおさら通用しないだろうからね」
ホログラムの中心に浮かんでいるカード状の術式を眺めながら腕を組む。次に飛んでくる質問は容易に想像がついたが、その質問を待つつもりはなかった。
「ランサーだろうな」
検証の相手を指名したのだと、もちろんすぐに悟ったダ・ヴィンチは同意を示した。
「まあ、君と関わりが深い英霊と言えば、いの一番に彼かアルトリアが上がるからね」
「セイバーの真っ正直さではそもそも検証の相手として不十分だろう。疑心というものをほとんど持たない英霊だからな、彼女は。だいたい、いくら私と言えど、セイバーをだますのは気が引ける」
「はは、クー・フーリンなら良心が痛まない、かい?」
「少なくとも奴なら怒らせても対処できるからな」
自分の声が淀みなく喋っているのは聞こえているのに、まるで他人が話しているようだった。背中の後ろから、もっとかすかな、しかし嘲りに満ちた囁きが聞こえてくる。涼しい顔をしてよくもまあそんな嘘がつけるものだ。おまえの私利私欲に満ちた浅ましい望みのためにクー・フーリンを選んだのだとなぜ言わない? それが許されないことだと知っているからだろう。
しかしアーチャーはその囁きのことごとくを無視し、ダ・ヴィンチに向かって言った。
「それで、実験作業はいつ開始かね?」
「どれにする? いやーどれも似合うね君は! まあ似合っているのは私の技術のおかげだけどさ!」
「あっこれとか似合いそうでは?」
「いいから君たちは少し落ち着きたまえ」
ホログラム上に次々と霊衣を映し出すダ・ヴィンチとシオンを押しとどめてこめかみを押さえる。これなんかどうだい、と映し出されたものが水着よりも布面積が少なそうに見えたので、これは任せておいたら取り返しのつかないことになる、と彼女たちをコンソールの前からどかして自分でデータを操作する。
「着せかえ人形ではないんだぞ、私は。もっとこう、普通でかまわないんだ、普通で」
「英霊の格好に普通っていう概念なんかあるんですか?」
そう言いながら、シオンは肩ほどの長さに伸び、色も黒く変化しているアーチャーの髪を勝手に編み出している。
「やめたまえ。いいか、概念礼装の効果の強度を試す実験なんだ。人の手を加えてどうする」
「髪型指定のコマンドも組み込みましょうか」
「そういうことではない」
あまりに特徴のありすぎるものは余計なボロを出しかねない。最終的に、白を基調にネクタイとスーツと白衣を複雑に組み合わせたような作りの霊衣をアーチャーが選んだのは、マントに近い長めのケープが体を覆うようなデザインになっていたからなのと、どちらかと言えば現代寄りのデザインだったからだ。普段の肉体とはまるで違う作りの輪郭を剥き出しにするのには抵抗がある。露出がどうこうというよりは、それをランサーに見られてどういう反応をしてしまうのか、自分で自分が不安だった。
二人は、ふむまあいいだろうと多少不満げな顔をしながら霊衣を調整してくれた。その間にあらかじめ打ち合わせしてあった詳細をもう一度確認する。詳細といってもたいしたことはない。そもそも真名から固定してしまうとアーチャーが対応しきれなくなることも考えられるので、今回は真名を自分で思い出せないというエラーを持ったまま召還されたという設定でいくことになっている。むしろそうしておいたほうが、アーチャーをこの工房に呼び戻す口実も作りやすいからだ。マスターにもしばらく真名を明かさずクラス名で押し通していた英霊は、これまでのカルデアにも数人いたので問題はないはずだった。
「クラスはアサシン、と。普段のエミヤとはなるべく遠い設定のがいいからね〜。得物は短刀と魔力射出のできる拳銃。このあたりはまあ、とにかくみんな好き勝手な武器で戦ってるから何持っててもバレることはないだろうけど。期間はひとまず数日様子見ようか。不具合が出たり、予期しない出来事が起きたら実験は中止。検証の仕方は君に任せる。なにはさておきクー・フーリンに疑念を持たれなければ成功、ってことになるかな。礼装の稼働時間は長くても六時間くらいまで。目安は三時間かな。それ以外の時間は普段のエミヤでいてくれてかまわない。オーケー?」
「問題ない」
アーチャーのうなずきと同じタイミングで電子音と共に両開きの扉が開き、立香が頭の横で結んだ髪の一房を揺らしながら工房に駆け込んでくるなり目を丸くした。
「うわっ、えっ、この子ほんとにエミヤ?」
もちろん立香には事情と実験の主旨は伝達済みである。すとん、とアーチャーの隣に腰を下ろしたマスターはまじまじとアーチャーを覗きこんで、肌がやばい毛穴がない……えっなにこの目の澄み方……めちゃくちゃにきれいじゃん……とぶつぶつ言い出す。
「いいかマスター、外見を強制的に変化させて概念礼装で固定してあるだけで、霊基も中身も普段の私だからな」
「うわ、声もぜんぜん違う。でもしゃべり方はよく聞くとエミヤだ」
「クー・フーリンの前では口調に気をつけてくれたまえよ」
「ふん、そんなところでボロなど出さないよ。基本的に奴の前では当たり障りのない敬語を使っていれば大丈夫だろう」
「喧嘩しちゃだめだからね」
「安心したまえマスター。あの男が喧嘩らしきものをふっかけるのは基本的に私が相手のときだけだからな。私でなければ喧嘩になどならないだろうさ」
自分で口にする言葉に抉られていれば世話はない。あの男は本来、自分の力の強大さをよくわかっており、誰彼かまわず噛みつくような真似はしないのだ。隙あらばランサーと自分の間に喧々としたやり取りが生まれるのは、自分の存在がランサーを苛立たせているからだとわかっていた。別人として接すれば喧嘩になる確率などないに等しいだろう。
手順はごく単純だった。アーチャーの召還直後を偽装した工房に、別件で呼び出してあったランサーがちょうどやってくるように調整しておく。これ幸いとばかりにカルデアベース内を新サーヴァントに案内する役目をランサーに任せる。ただそれだけだ。
「よし、時間になるね。さすがに召還自体を演出するのはコストがかかりすぎるから、召還後の霊気チェック中の状態にしておくよ。はいここ立ってて、エミヤ」
体の周りを青いホログラムがかすかな唸りをあげながら取り囲む。アンノウンの文字が踊っているのは、真名不明設定にちなんだものだろう。このあたりの細かい部分はさすがに二人のほうがぬかりないのはわかっているので、特にコメントを差し挟むことはしなかった。
自分の心臓がやけに冷たいのを感じる。今からこの姿でランサーに会うのだ。もう一度見える範囲で自分の体を見下ろす。ケープで見え隠れしているが剥き出しの腕は青白く透き通り、静脈が浮いているのがかすかにわかる。双丘の膨らみでつま先がうまく視界に入らないのがそこはかとなく居心地を悪くさせた。実験が目的であればこんな緊張を覚えるはずはなかった。たとえ失敗に終わったとしても、単に概念礼装の改良点が明らかになるだけだろう。
背中にかじりついた執着の亡霊が耳元へ這うようによじのぼってくるのを感じて、思わずぐっと手を握り込む。
なあ、どんな気分だ? 長年自分でがんじがらめにして腐らせたうえに手のつけられなくなってしまったランサーへの執着を、こんな形で昇華させようだなんて卑怯な思いつき、この部屋にいる彼女らが知ったらどう思うだろうな?
囁く亡霊の姿は暗がりにまぎれてよく見えない。うるさい、うるさいうるさい、と念じながら顔をあげた。今自分は真名不明のアサシン、召還されたばかり、自分が何者かはわからないが戦い方はわかっている、マスターの目指す人理修復に共鳴する誠実さと生真面目さのある英霊だ。それなりに好奇心は旺盛、目新しいものには手を出したがる、神代の英霊ではなく現代史の英霊であることは何となく体が覚えている。
真名不明とは言え、性格の外殻が固まっていなければ普段の自分のように振る舞ってしまうおそれがあるので、そうならないために、実験を引き受けてから自分で作り上げた設定を心の中で復唱する。ここにいるのはまったくの別人、エミヤという男の要素はかけらもない新しい英霊である。そう強く思いこもうとする。普段通りのような振る舞いをしてしまっては意味がないのだ。実験としても、それから、自分の目的達成のためにも。
目的達成? なにが達成だ。本当はなにが目的かも自分ではっきりわかっていないくせに。
そう思った瞬間、パシュッと音がして工房の扉が開いた。
「よぉマスター、用ってのはなんだ?」
自分の心拍数がどっとあがったのがわかる。表示されているバイタルチェックがただの偽装でよかった。今本当の結果を表示させたら、ランサーの声に誘発された動揺などすぐに伝わってしまうだろうと思うほど、アーチャーの動悸はひどかった。
薄い青に発光しているホログラム越しにランサーと視線がかち合った。あれは知らない男、まだ見ぬ英霊。
ランサーはいつも通りに見えた。見知らぬ英霊が急にカルデアに増えていることなどざらにある。アーチャーを見ても特に表情を変えるわけではない。しかしそれでも、普段自分に向けられる表情とはかすかに違うのがアーチャーにはわかった。
「あ、兄貴来てくれたんだ。ありがと! 明日の周回のこと相談したかったんだけど、それよりも今ちょっと別の問題が発生しちゃったんだよね」
立香の言葉を引き取って、ダ・ヴィンチが続ける。
「見ての通り、今ちょうど彼女を召還したところなんだけど、原因不明のエラーが発生して、本人にも真名がわかってない状態なんだ」
彼女、という言葉と共に自分を示されるのは不思議な感覚だった。普段英霊として性別を意識する瞬間など、言うほど多くはない。しかし、今自分はたしかに「彼女」なのだという認識は、アーチャーの足下をおぼつかない感覚にさせた。
「真名がわかんねえ? 隠してるとかじゃなくてか」
ダ・ヴィンチが手元のコンソールを操作して、アーチャーを覆っていたバイタルホログラムを消す。ランサーはつかつかと目の前まで歩いてくると、アーチャーの数歩先で立ち止まった。背筋をざわりと不可思議な感情がかけあがっていく。自分が首をかなり上へ傾けないと、ランサーと目を合わせることができない。普段の二人の体格はほとんど同じで、身長だけならアーチャーのほうがわずかに高いくらいである。それが、たかが二十数センチほど身長が低くなっただけで、こんなにも圧迫感があるものだろうか。それとも自分がランサーへ抱えているものの重さがそのままのしかかってきているからそう思うのだろうか。
ランサーはわずかに目を細めてアーチャーを眺めた。ここからはもう、アーチャーの手腕にほとんどが任されているといって過言ではない。それが証拠に、ダ・ヴィンチも立香も静観している。
と、不意にランサーが短く言った。
「強いのか? あんた」
呆気にとられる間もなく、ランサーにふっかけられた言葉を打ち返す反射が働いて言い返す。
「試してみますか? あなたに負ける覚悟があるのなら」
敬語を使う、とさっき自分にたたき込んでおいてよかった。うっかり「貴様」と呼びかけてしまうところだった。アーチャーはとっさにそう思いながら、ぐっと目に力を込めてランサーを睨みつける。こればかりはもう押さえようのない反応で、初手からもう間違えたかもしれない、と思いながら目を逸らさずにいると、ランサーはわずかに驚いた顔で目を見開いてから吹き出した。
「それ、エラーありきの反応か? それともあんた、元々そういう性格なのか?」
「知りません。何がそんなにおかしいんですか。だいたい、はじめましての挨拶もなしに無礼です」
いや、すまんすまん。言いながらそれでも小さく笑っているランサーの表情に、アーチャーの頭はぐらぐらと煮えた。今、ランサーは見知らぬ英霊に笑いかけているつもりなのだとわかっていても、自分がこんなふうに笑いかけられていると誤認してしまう。
「んもー、最初っから喧嘩なんかしちゃだめだからね、兄貴」
「喧嘩してねーよ。なんだよ、ほんとに真名不明なのか? そのわりにずいぶんはっきり喋るじゃねえか」
「真名不明状態と本人の意識の明瞭さはあんまり関係ないからね。以前のバーソロミューの件でも証明されてるし。にしてもさっきから、こっちで真名判定しようとしてもエラーを吐き出すばっかりなんだよねえ。私も困っていたところなんだが、活動には支障もなさそうだし、とりあえず気長に調べようかと思っていたところさ。クラスがアサシンってとこまではわかっているから、まあひとまず彼女のことはクラス名で呼んでくれたまえ」
「あ、それでアニキ、ちょっとアサシンにカルデア案内してあげてくれない?」
「あ? 俺がか?」
「うん、私まだダ・ヴィンチちゃんとやんなきゃいけないことがあって、お願いできたらありがたいなーって。案内終わったら工房にもう一度連れてきてくれればいいからさ」
他の奴らに任せたほうがいいんじゃねえの、とランサーが言い出すこともさっきの打ち合わせでは想定してあったが、ランサーはさほどの逡巡もなくうなずいた。
「ま、特にやることもなかったことだし、別にかまわねえよ」
二人の方へ向けられていたランサーの視線が、アーチャーの上に戻ってくる。見下ろしてくる紅の鮮やかさに気圧されないようにぐっと足裏に力を入れた。
「アサシン、ね」
「それがなにか」
「いいや? 俺はランサーだ」
「名前は?」
「あんたが真名思い出して名乗ったら教えてやるよ。それまではランサーって呼んでくれや」
また胸の奥がぐらりと揺れる。ひとつのクラスに何人もの英霊が召還されるため、ここカルデアでは基本的に互いの呼び名はクラス名でなく真名になる。だからカルデアでクー・フーリンをランサーと呼ぶのは、基本的にはアーチャーを始めとした冬木の第五次聖杯戦争に関わった英霊たちだけだ。アーチャーにとって、クー・フーリンの真名とはまた別に、「ランサー」という呼び名には幾重もの意味がある。ランサーがアーチャーと呼ぶのは自分だけだし、アーチャーがランサーと呼ぶのも彼だけであるという自負が、アーチャーの中にはひそかにあった。
けれど、ランサーにとってはそうではないのかもしれない。初対面の、正体すらわからない英霊に「ランサー」という呼び名を許すというのはそういうことだろう。それとも、もしかしたらランサーはこの英霊を気に入ったのだろうか。いや、それなら好都合だ。自分が何のために今こうしているのか、その目的を見失うな。
「じゃ、案内してやるよ。あとでちゃんとここに送り届けてやるから安心してくれや」
そう言って後も振り返らずに歩き出すランサーのいつもよりずいぶん大きく見える背中を、アーチャーはあわてて追いかける。いつもより歩幅が狭くて、ランサーに追いつくまでの歩数も多いことが、奇妙なほど胸を締め付けてくるのには気づかないふりをすることにした。
ランサーの案内のしかたは、口調こそいつものランサーの大ざっぱさを含んでいたが、思いのほか丁寧だった。距離を測りかねてぶっきらぼうになりがちなアーチャーの態度を気にする様子もない。それどころか、手動の扉をわざわざ自分で開けてからアーチャーを先に通すようなことまでごく自然にやってのけ、ランサーのそういう面をほとんど見たことのなかったアーチャーは、そういう些細な態度の違いにいちいち自分が動揺するのを抑えつけねばならなかった。
カルデアベースの施設は元のカルデアとさして変わるわけではなかったが、それでも配置や細かい部分は違う。ランサーはアーチャーが予想していたよりもずいぶんはっきりとその構造を把握しているようだった。
どの施設について質問してもさほどいい加減ではない、しかしわかりやすく省略された答えが返ってくる。自分だったら今は必要のない情報まで詳しく相手に教えてしまって、かえって戸惑われるだろうなどとよけいなことまで考えてしまうのがわずらわしかった。
「こっちは医療室。人間のスタッフもいるけど、治療狂の英霊どもがいるからめったなことで近づかないほうがいいかもな」
「治療狂」
「そうそ。腕一本治療するために足二本犠牲にするってのが成立しかねねえ医療室だから、まあ用心しときな」
用心しときなと言うわりに、ランサーは楽しそうにしている。こんなとき、このアサシンならどう反応するだろう。深く考えている暇はない。ある程度の脊髄反射で会話をしていくしかないのだ。
「ずいぶん楽しそうですね」
「ん、そうかぁ?」
「少なくとも、あからさまなマッド・サイエンティストたちの医療室を説明しているときの様子ではないと思いますが」
言いながら申し訳程度に医療室のほうを覗く。今日はナイチンゲールの狂腕によって悲鳴をあげている英霊はいないらしい。
「マッド・サイエンティストってわけでもねえと思うんだよな。こう、真面目が行きすぎて狂気になってるっつうか……あんたもわりとそういうタイプに見えるけどな」
「たかが施設を案内してくださった程度の時間でタイプまで判別できるように見えているのなら、私もまだまだですね」
馬鹿か。アーチャーは思わず自分に向かって音もなく呟いた。概念礼装の実験を成功させる目的だけを完遂すればいいのならどう受け答えしようと自由だが、そもそも自分は言ってみればランサーと「親しく」なることを目的にしているのだ。言葉遣いこそ丁寧でも、こんなかわいげのないやりとりでどう親しくなれるというのか。そのくらいのことはアーチャーにだってわかる。
しかし予想に反して、ランサーはアーチャーの言葉に楽しそうに笑った。
「さっきからあんたのそれ、よくそんな間髪入れずに出てくるな。感心しちまうわ」
それ、が何を指しているのかはっきりはわからないが、おおかたこの自分の嫌味一歩手前の態度だろう。嫌味ではなく、どうもただ純粋に感心しているらしいのはわかったが、そう誉められるとかえって言葉に詰まった。何も返せずにいると、ランサーは軽く腰をかがめてアーチャーをのぞき込んだ。ほとんど対等の体格で視線を合わせたことしかなかったので、そんな仕草すら物珍しく、甘さを感じてしまう。
「そんでこれには困んのかよ。加減どうなってんだ」
笑う彼の光彩の向こうに、こちらへの興味がまたたいているのが見える。ランサーはこんなにわかりやすく誰かへの興味を示すような男だったろうか。しかしそもそも、アーチャーにわかるランサーの他人への距離の取り方など、自分やセイバー、キャスターやロビンに向かっている時が関の山でしかない。そう気づいて、また胸が鈍痛を覚える。
いつの間にか、英霊たち用の部屋がいくつか並ぶ区画にたどり着いていた。入り組んだ廊下の一方の奥をランサーの指が示す。
「ここの奥行くとレクリエーションルーム。ボードゲームからビデオゲームまでだいたい何でも揃ってるぜ。っつっても、イメージわかねえか」
「いえ、知識だけなら聖杯からもらっていますから」
「そ。暇な奴らがよくたまってるから、興味あったら覗いてみるといい。変なのに捕まると賭事に巻き込まれるから注意したほうがいいけどな」
この間、モリアーティを捕まえて胴元稼業に長々と小言を与えたというのに、このランサーの口調からするとまだ秘密裏のギャンブルが開催されているらしい。あとでもう一度教授を捕まえること、とやるべきことリストに付け加えながら、アーチャーは尋ねた。
「あなたはやらないんですか」
「ゲームをか?」
「いえ、賭事を」
実際には、ランサーが自分から賭に加わっているのは見たことがない。どちらかと言えばキャスターのほうがギャンブルは好きなのをアーチャーは知っている。
「はは、俺は幸運値低いからあんま賭事向いてねえんだわ」
ランサーはそう言いながら、ごく自然な口調で続けた。
「ま、今日は普段より幸運値高い日かもな」
一瞬、聞き間違いかと思ったが、しかしそこに込められた意味がわからないほど疎くはない。つとめて平静を装って聞き返す。
「どういう意味ですか」
「あんたの案内がたまたまできてラッキーってこと」
想定よりさらに直球で返された答えに、思わず隣を見上げた。背も肩幅も何もかも、今は自分よりはるかに大きいランサーの輪郭をやけにくっきりと感じる。ランサーは、台詞のわりに屈託のない表情でアーチャーに笑いかけた。
「別にそんな警戒心丸出しみてえな目で見なくたって、今ここで手出したりしねえよ」
「当たり前です。だいたい、顔を合わせて数十分の英霊相手になにを言い出してるんですか」
「俺ぁわりと自分の直感に信頼置いてるタイプなんでね」
「直感が間違えることもあるでしょう」
「けど今感じてる直感が間違いかどうかは、検証してみるまでわかんねえしな」
「あなたの直感に人を巻き込まないでください」
「はは、ほら、その感じ。やっぱいいな、あんた」
やっぱいいな、あんた。裏表のない好意をまっすぐランサーからぶつけられて、逃げ出さなかっただけでも誉めてほしいくらいだ。頬が熱い。胸が苦しい。あまりにも単純な反応を示す自分の体がうらめしかった。
アサシンを演じる自分の何がランサーからそんな言葉を引き出したのか、アーチャーにはさっぱりわからなかった。やっぱいいな。それは、どこが? 聞ければ楽なのに、聞くのは怖いのだ。馬鹿馬鹿しい。
外見だろうか。さっき鏡で確認した自分の姿を脳裏に思い描いたが、自分だと思うとその外見が果たしてどう評価されるものなのか判断できない。
そもそもアーチャーは、ランサーの異性の好みなどまるで知らなかった。戦場で邂逅しては殺し合い、繰り返される四日間の中で奇妙な交流を経験もし、そしてこのカルデアで肩を並べて何度も死線をくぐりぬけて、ランサーとの距離はずいぶん縮まったように感じていたが、それでも互いの恋愛観など話題にのぼったことはない。カルデアはべつだん恋愛御法度というわけではなく、英霊同士で関係を結んでいる者たちがいるらしいことはアーチャーも知っていた。もしかしたらそれ以外にも、人知れず関係している者たちや割り切った関係の者たちもいるかもしれない。が、カルデアに現界してからランサーにそういう気配を感じ取ったことはなく、彼が女性の話をしているのも、そう言えばほとんど聞いたことはなかった。
安心していたのか、私は。アーチャーはふとそう思って、頬を張り飛ばされたような心持ちになった。
生前はいざ知らず、英霊としてのランサーが、カルデアの長い現界生活で恋にも欲にも興味を持たずに生活しながら、何かといえば自分にちょっかいをかけに来て言い合うのを楽しそうにしている様子に安心していたのだ。その安心が砂上の楼閣の上に鎮座した幻想だったのを目の前で見せつけられて、おまけにそれを暴いたのは別人のふりをした自分だったなどと、笑えもしない。
ぐっと奥歯を噛みしめた。なにをぐらつく暇がある。好都合じゃないか。おまえはこれを望んでいたんだろう? 背中の後ろでまた声がする。耳をふさぎたいのにそれすらできない。
「んで、ここがシミュレーションルーム」
いつの間にかレクリエーション区画を通り過ぎていたらしい。ランサーの声にはっと我に返ると、目の前にはいつの間にか真っ白い無機質な両開きの扉があった。
「シミュレーションルームというのは」
「ま、なんでも再現機ってとこさね。基本的には戦闘シミュレーションに使ってるが、それ以外の使い方してる奴もいるな。カルデアにデータのある敵ならほとんど全部再現できるっていう話だ」
「エネミー対戦のシミュレートだけですか」
「え? ああ、サーヴァント同士の戦闘もできるぜ。あんた、クラス相性の知識は?」
「さっき工房でざっとデータは見ました」
「んじゃわかると思うけど、たとえばあんたならキャスタークラスの奴には力を発揮しにくい。けど、このシミュレーターの中ならクラス不利打ち消しの状態でフィールド生成することもできるから、クラス関係なく純粋な力比べも可能だな。あとはエネミー討伐数競ったりだとか」
そこで一度言葉を切ったランサーは、アーチャーを正面から見下ろした。身長差にも視線の高さにもようやく少し慣れてきていたところだったが、こうして正面から相対すると、体の幅そのものがまったく違うことをくっきりと意識してしまう。おそらく今のアーチャーなら、ランサーの体躯にすっぽりと収まってしまうだろう。
「試してみるか?」
一瞬、自分の脳裏に浮かんでいたことを見破られたのかと思って、アーチャーは狼狽した。しかしすぐに、ランサーがシミュレーターを指していることに気づいて息をつく。
「さっきも言いましたが、あなたに負ける覚悟があるのならどうぞ」
アーチャーの言葉に、ランサーは目を細める。紅い光彩を縁取るまつげは存外長いと、アーチャーはよく知っていた。
「案内終わったら工房に連れてこいって言われてるし、今日やったらマスターにどやされそうだから、明日にでもやるか。あんたに、負ける覚悟があるんならだけどな」
そのまま打ち返してきたランサーに、アーチャーは思わずふっと息だけで笑った。こういう男なのだ、ランサーというのは。さっきからひどく緊張していたアーチャーの一挙一動の中で、はじめて本心から出た笑いだった。
「わかりました。時間は?」
「十五時くらいでどうだ」
「いいですよ。では、その時間にシミュレーションルームで」
りょーかい、とランサーが笑う。アーチャーは、ランサーが戦場で飢えた獣の凶悪さで笑う顔も知っているし、好物を山盛りにしてやったとき開けっぴろげに笑う顔も知っている。けれど今ランサーがした笑顔は、アーチャーの知るそのどれとも微妙に違っているように見えた。
いちいち動揺するな。どれほどの効果があるかはわからないが、そう自分を叱咤する。見たことのないランサーを見て動揺するくらいなら、こんなことに手を出さなければよかったのだ。
「これでだいたい回ったかな。ああ、あと工房戻るついでに食堂の場所も教えとくわ」
食堂という単語に反応して、うっかり先導してしまいそうになるのを慌てておさえ、アーチャーはランサーの半歩あとから踏み出した。自分がずいぶん早足で歩いている気がするのは、歩幅がまったく違うからだろう。ランサーはさして急いでいるふうには見えないが、そもそもアーチャーがアサシンに擬態していなくともこの男の腰の位置のほうが高いのだ。半歩の差が一歩半ほどになりかけて一瞬小走りになったアーチャーを振り返ったランサーは、わり、と足を止めた。
ランサーに謝られることなどめったにないので思わずまばたいてしまうと、なんだよその顔、と今までで一番距離の近い口調で笑われた
「別になんだということもありませんが、そんな些細なことで素直に謝る人なのかと思っただけです」
「謝らねえ「タイプ」に見えるってこと?」
さっきのアーチャーの嫌味を軽口に混ぜて返してくるので、思わずアーチャーは声をあげて短く笑ってしまった。一度吹き出したせいで、わずかに緊張がゆるんできたのかもしれない。
「口の減らない人ですね。たしかに今のは私の失点です」
「あんたこそ、そういうふうに笑うんだな」
また何か好意を滲ませた言葉が続きそうにも聞こえたが、ランサーはそのあとになにか続けようとして、結局やめたようだった。
「ここが食堂。サーヴァントは普通の現界なら別に飯食わずにいられるけど、カルデアはちょっと特殊でな。できるだけ飯と睡眠で魔力補っとくのが正解だぜ」
あと一時間もすれば、アーチャー自身がここに立つ時間だが、半端な時間なので、厨房のカウンターの向こうに人の姿はない。ふと魔が差して、アーチャーはランサーに尋ねた。
「調理は誰が?」
口にしてから後悔した。なにを期待してそんなことを聞いたのかわかっているから、自分の内側がどろりと濁る。しかしランサーは簡潔に、料理できるサーヴァントが何人か交代でやってんだよ、と答えただけだった。その答えにほっとする。今この状態で何か自分についてランサーが話すのを聞いて、平静でいられる気がしなかったからだ。それならば聞かなければいいものを、と自嘲する暇もなく、工房の方へ歩き出したランサーを追った。
「真名不明の状態って、飯の好みの感覚とかも消えてんの?」
「生前に好きだったもの、という意味でなら、今は特に心当たりありません」
「へえ。んじゃ、唐揚げとオムライス美味いぜ」
え、と間の抜けた声をあげたアーチャーに、ランサーは繰り返した。
「食堂で飯食うとき。余裕あるときなら好きなもん作ってくれるから、唐揚げかオムライス頼んでみろよってこと」
わかりました、と短く答えるのが精一杯だった。ランサーがそのふたつをリクエストしてくるのは、きまってアーチャーに向かってだったからだ。喜んでいいのか、ショックを受けていいのか、感情の塊がずたずたに切り裂かれて喉元に詰め込まれているようだ。ちょうど廊下のつきあたりに工房の扉が見えて、アーチャーはかろうじて息を整えてからランサーの腕を引いた。
「ここまでで大丈夫です。あの奥の扉が工房ですよね」
今はもうこれ以上ランサーのそばにいられないと思っての台詞だった。
「おう。案内した中でもうちょい説明聞きたいとこありゃ、俺に聞くよりダ・ヴィンチとマスターに聞いてくれや」
「いえ、助かりました。ありがとう、ございます」
ありがとうで切ろうとして、敬語を崩さないほうがいいだろうかと慌てて「ございます」を付け足したが、ランサーには伝わってしまったらしい。
「別にありがとうでいいぜ。変に律儀だな、あんた」
「そういうわけにもいかないので」
「どういうわけだよ」
くっく、とランサーは笑いながら、じゃあまた明日な、と特にぐずぐずするわけでもなくきびすを返した。そういうところもランサーらしい。明日。そう、明日も約束をしたのだ。シミュレーションルームの前、午後三時。
「また明日」
アーチャーがランサーの背中に投げかけた声に、ひらりと一度だけ手を振ったランサーは、すぐに廊下を曲がって姿を消した。
その瞬間が、限界だった。
工房の手前、右隣の部屋が空き部屋になっているのを知っていたアーチャーは、一も二もなくその部屋に飛び込んだ。バシュッという電子音とともに扉が閉まり、廊下からさしこむ明かりが遮断されて暗くなる。それと同時にアーチャーはどっと体ごと壁にぶつかるようなやり方でずるずる床にしゃがみこんだ。
苦しい。苦しくて苦しくて、どうしようもない。こんなに苦しいならこころを吐き出して握りつぶしてしまいたい。かつてあの男が槍の一突きでそうしてくれたように? 反射的にそう思った自分のあまりの懲りなさに、いっそ笑い出してしまいそうだ。心臓を上から力任せに押さえたところで苦しさが軽減するわけではないのに、床にうずくまって膝を抱えるようにしたアーチャーは耐えきれずに胸を押さえた。指が双丘へ柔らかく沈んでいくのを感じる。いつもの自分にはない、甘やかな柔らかさ。それははっきりとした絶望の感触だった。性別も、クラスも、なにもかも違う体。たぶんきっと、ランサーにとっては好ましいものであるはずの、この輪郭。ランサーが好きだ。まるで、初めてそう気づいたように思う。好きだ。単純で、しかしだからこそ逃れようのない感情だった。カルデアの最初期に共に召還され、同じマスターの元で同じ目的に向かって共闘してきた時間のなかで、自分がランサーに抱くようになった感情に、これまでも無自覚だったわけではなかった。けれど、今までとは比べものにならないほど鮮やかな色で明滅する激情が、あっという間に自分の内側を蝕んでいくのがはっきりと感じられる。カルデア内ではきっと誰よりランサーの近くにいながら感情を殺し続けるのが苦しくて、それが少しでも昇華されればと思って手を出した行為だったはずだ。それなのに、どうして。
「ランサー」
自分のものとは思えない細い肩を抱え込むようにしながら呟く。結局、今日は彼をそう呼べなかった。会話の中で名前を呼んだ方が不自然ではない場面でも、それをやり過ごしてしまったからだ。この姿で慣れた呼び方で彼を呼んだらどうなるか、自分でもわからない。
概念礼装の実験を断ろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。適当な理由をでっちあげるのは、そう難しいことでもないだろう。しかしそう考えながらアーチャーは、自分がその選択肢を選ばないだろうことも正しくわかっていた。なぜ、と自分に問いかけようとしてやめる。そんな欺瞞が通用しないほど、その理由にもはっきり気づいていたからだ。
ランサーに好意を向けられるのが、嬉しかった。
そうだ、とアーチャーは思う。そうだ、単純で強烈な喜びが今だってまだ頭をぐらぐらさせている。こんなに苦しいのに、ランサーから向けられる好意で犯されていく心がぐずぐずに崩れていってしまう。概念礼装で性別と見た目を変えたからと言って、自分の思うような展開にならない可能性だって十分すぎるほどあったのだ。だから、今日の展開は想定以上にうまくいったと表現したってかまわない。嬉しかった。自分がランサーの求める対象に入ったことが、馬鹿みたいに嬉しかった。今さらそんなくだらないことで、こんなにも感情を揺さぶられるなんて馬鹿馬鹿しい。そう思うのに歯止めが利かない。
ランサーを好きだと思うだけで、論理的な思考は吹き飛び、正しい優先順位がわからなくなり、冷静さも何もかも失われていく。今もそうだ。この苦しさに論理的な理由など何もないのを、頭の片隅でアーチャーは正確に理解しているが、その理解は苦しさを増幅させるだけだった。
息を深くつく。いつまでもここにいるわけにはいかない。工房に戻って、少なくとも今日程度の接触で正体がばれるようなことはないとダ・ヴィンチに報告し、そのあとは元の姿に戻って夕食の準備をする。その手順を思い描きながら、アーチャーは立ち上がった。部屋を出て、明るい廊下の下で自分の体をもう一度見下ろす。そこにあるのはやはり、華奢でやわからかな見慣れぬ肢体だった。