バレンタインをもういちど
槍への本命チョコレートを自分では渡せず、キャスターに託した弓と、弓の本命は自分だと知らずに、そのチョコレートを弓に突き返した槍による、バレンタインすれ違い寸劇。
※カルデア時空です。
※匂わす程度のキャス影弓と狂王黒弓
※いろいろ女々しい
それでもよければ、細かいことは気にせず勢いとノリで雰囲気をお楽しみください。
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あの男が好きだと思った。
振り返ってみれば、今までもずっと、自分はあの男への想いを抱いていたのだろう。
だが、自分達は基本的に敵対しており、色恋を楽しむような関係にはない。
だから、この密かな想いが育つことはなく、エミヤ自身もそれを改めて自覚することもなかった。
だけど今は違う。
此度エミヤが召喚された人理継続保障機関フィニス・カルデアには、人理を守るという共通の目的の下、多くのサーヴァントが集められていた。もちろん、その中にはあの男もいた。
カルデアにいるサーヴァントは皆、友好的だった。
名だたる英雄達と手合わせをしたり、自由に交流できる環境はエミヤにとっては刺激的で、彼らとの共同生活を、エミヤは心から楽しんでいた。
そんな状態に身を置いたせいだろうか。
エミヤの胸の奥に仕舞い込んでいたはずの想いが、ある時、ひょっこりと顔を出してしまった。
そして間が悪いことに、季節はバレンタイン。
マスターへのチョコレート作りに燃えているサーヴァント達の後ろで、せっかくなのだから自分も想う相手にチョコレートを渡したいと、エミヤは思ってしまった。
別に、チョコレートを渡して告白したいとか、一夜だけでも共にしたいとか、そんな大それたことを考えたわけではない。
ただ、皆に紛れてこっそりチョコレートを渡せさえすればいい。
それさえできれば、エミヤは満足だった。
だが、その前に大きな問題があった。
果たして、エミヤが作ったチョコレートを、あの男が食べてくれるのか、ということだ。
もちろんエミヤはカルデアのキッチンを預かる身。エミヤの作った食事でも、あの男は毎日残さず食べてくれている。
だが、バレンタインのチョコレートとなると、意味合いがかなり変わってくる。
下手したら、受け取ることすら拒否されるだろう。
どうしたらいいものか、とエミヤは悩んだ。
普段の様子を見る限り、男は甘すぎるものは好まないものの、甘いお菓子をマスターに差し出されても、特に断ったりはせず、笑顔で受け取っている。
だから、チョコレートそのものが拒絶される、ということはなさそうだ。
つまり、それがエミヤからのチョコレートだと知られなければ、男は受け取ってくれるはず。
そう気付いたエミヤは、チョコレートを匿名で贈ることに決めた。
ありがたいことに、このカルデアには沢山の職員がいる。チョコレートの交換はマスターとサーヴァントの間、またサーヴァント同士だけではなく、職員とサーヴァントの間でも行われている。
だから、エミヤのチョコレートを名もなき職員からのものだと偽ることは簡単だ。
幸いなことに、エミヤは自分の作ったチョコレートを男に食べてもらえさえすればよかった。男が、そのチョコレートを作ったのがエミヤだと知らなくても全然構わない。
そうと決まれば、とエミヤはバレンタインの前夜、こっそりキッチンに篭り、小さなトリュフチョコレートを作った。
それは、甘くなりすぎないよう何度もチョコレートの配合を調整し、さらに丁寧にテンパリングしたチョコレートでコーティングして美しい艶を出した、エミヤの自信作だった。
その中でも特に出来の良いものを4つ選び、用意してあった小箱に細心の注意を払って並べ、蓋を閉める。
これでエミヤのバレンタインチョコレートは完成した。
後は男に渡すだけ、と思っていたが、ここでまたひとつ問題が発生した。
それは、これをどうやって男に渡すのか、ということだ。
はじめはエミヤが「君宛てのチョコレートを職員から預かってきた」と言って、渡すつもりだった。
だが、そこでもし、無駄に鼻の利く男に疑われたら。男に怪しまれて、受け取りを拒否されてしまったら。
もちろん誤魔化す自信はあるが、何があるかわからない。だから、疑われる可能性は出来るだけ排除しておきたかった。
自分で渡さないとなると、どうすればいいのか。
エミヤは悩んだ末、男に近しい人物からチョコレートを渡してもらうことにした。
「ランサー宛てのチョコレートを、オレからランサーに渡してほしい?」
バレンタイン当日の午後。
エミヤの部屋に呼び出されたキャスターのクー・フーリンは、怪訝そうにエミヤの言葉を繰り返した。
「そうだ」
「はぁ。そんなもん、お前が自分で渡せばいいじゃねぇか」
キャスターはそう言って、渡された水色の紙袋を眺めた。
その中には、昨夜エミヤが作ったチョコレートが入っている。
「私から渡しにくいから君に頼んでいる、というのがわからないのか」
「わからなくはないけどよぉ。こういうのは絶対自分で渡した方がいいと思うぜ」
だって、これ、お前の本命だろ?
軽々しくそう言ったキャスターを、エミヤはぎろりと睨む。
「……くだらないことを言うな。とにかく、これをランサーに渡してさえくれたらそれでいい」
「……はぁ」
引く様子のないエミヤを見て、キャスターは諦めたようにひとつ息を吐いた後、わかった、と言った。
「ランサーに渡せばいいんだろ。まぁ、お前には、あいつとの間を取り持ってもらった恩もあるしなぁ」
それは今から少し前のこと。
深夜にひとりでレイシフトを繰り返すキャスターの行動が、カルデアで問題になったことがあった。
きっかけは、特異点Fにいるシャドウサーヴァントのエミヤだった。
このエミヤは積極的にこちらを妨害したりはしないものの、カルデアからの協力要請をずっと無視し続けていた。
マスターやレオナルド・ダ・ヴィンチ達は無理強いするのも違うしと、そこまで気にしていなかったのだが、その態度がなぜかキャスターの癇に障ったらしい。
まともに会話に応じようとはしないシャドウサーヴァントにムキになったキャスターは、毎夜毎夜、特異点Fに通うようになった。
マスター達から止めるように注意されたものの、キャスターは「今は引けない」とレイシフトを繰り返し、見かねたエミヤが、一度、膝を突き合わせて話すことができれば気が済むかもしれないと、シャドウサーヴァントのエミヤを何とか説得し、2人が話せる場を作った。
そこでどんな話し合いが行われたのか、エミヤは知らない。
だがその後、数日に1回、マスター達の許可を得て、機嫌良く特異点Fにいくキャスターの姿を見るかぎり、良好な関係が築けているのだと思う。シャドウサーヴァントのエミヤも、カルデアの協力要請を前向きに考えるようになったと聞いている。
おそらくキャスターは、その時のことを言っているのだろう。
「礼を言う、キャスター。あと、間違っても私からだとランサーには言わないでほしい」
「はぁ?なんでだよ。お前のだろ?」
「なんででもだ。適当に職員からだとでも言ってくれ。その方が向こうも受け取りやすいだろう」
キャスターは怪訝な目をしていたが、エミヤが真剣な顔で、頼む、と言えば、渋々頷いてくれた。
「わかった。とにかく、あいつにこれを渡せばいいんだな?」
エミヤはこくりと頷いた。
「絶対に私からだと言うなよ。絶対だぞ」
「わかったって。じゃあ、オレ、ちょっとダ・ヴィンチに呼ばれてるから行くわ」
何度も念押ししてくるエミヤを軽くあしらいながら、キャスターはエミヤの部屋を出ていった。
廊下の向こうに消えていく青い髪を見ながら、エミヤはほっと胸を撫で下ろす。
とにかく、これでチョコレートは無事にあの男の手に渡るだろう。
肩の荷がおりたエミヤは、どことなくすっきりとした気分で、夕食の準備をするためにキッチンに向かった。
だが、事件は夜に起こった。
バレンタインで色々と忙しい女性陣に代わり、エミヤは夕食後、ひとりで食堂の片付けをしていた。
そこに、怒りに満ちた表情のランサーが、突然乗り込んできたのだ。
手には、見覚えのある紙袋を持って。
「テメェがここまで腑抜けだとは思わなかった」
男は冷たく吐き捨て、持っていた紙袋をエミヤに放った。
エミヤは慌ててそれを受け止める。
その中には、エミヤのチョコレートが開けられないまま入っていた。
「キャスターのオレを使ったことも気に食わねぇ。テメェのケツはテメェでふけよ。自分で渡す度胸もない奴のものを、誰が受け取るか」
その言葉で、ランサーがこのチョコがエミヤからのものだと知っていること、そしてそのチョコを男が拒絶したことがわかった。
キャスターにはエミヤからのものだと絶対に言うなと言ったはず。
それなのに何故。まさかキャスターが言ったのか。それとも何か行き違いがあったのだろうか。
エミヤは無意識に、胸に抱いた紙袋を握る。
だが、何にせよ、エミヤのバレンタインチョコレートは男から突き返されてしまったのだ。その事実だけは覆らない。
呆然とするエミヤを置いて、男はその青い髪を翻し、さっさと食堂から出ていってしまった。
エミヤはその背に声をかけることもできず、自分が作ったチョコレートを胸に抱いたまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。
あの男は怒っていた。
男の襲来からしばしの時間が経った後、エミヤはようやく持っていた紙袋をキッチンカウンターの上に置いた。
それをエミヤは、ぼんやりと見つめる。
あの男は互いに全力をぶつけ合う、真っ向勝負を好む。
だから多分、それをせず、人を使って安易にチョコレートを渡してきたエミヤの態度が許せなかったのかもしれない。そしてそんなことに、別クラスの自分を巻き込んだことに怒った。
その結果、エミヤのチョコレートは返された。こんなものに受け取る価値はないと。
握ったせいで皺になった紙袋の表面を、エミヤはそっと指でなぞる。
頭に浮かぶのは、昨夜、この袋を選んでいた時のことだった。
はじめは、男の髪のような真っ青な袋にしようと思った。でもそれは少し重すぎるかと悩んでいる時に、キッチンの隅で1枚だけ残っていたこの水色の紙袋を見つけ、これだとエミヤは目を輝かせた。
そして、はやる気持ちを抑えながら、最後の仕上げだと、箱に詰めたチョコレートを丁寧にこの紙袋に入れたのだ。
あの時はこの袋を見ているだけで楽しかったのに、今は目に入るだけで自分の愚かさを突きつけられている気分になる。
こんな見苦しいもの、さっさと処分してしまったほうがいい。
そんな思いに駆られたエミヤが紙袋に手を伸ばした時、食堂に思わぬ人物が入ってきた。
「……なんだ、その見るに耐えない顔は。今にも死にそうじゃないか」
エミヤが振り向いた先にいたのは、オルタのエミヤだった。
オルタは大勢がいるところで食事を摂るのを嫌がり、食堂には滅多に来ない。
そんな男の登場に、普段のエミヤだったらひどく驚いていただろう。だが、心が疲れ切っている今、そんな反応をする元気もなく、エミヤは、何の用だ、とそっけなく返した。
すると、オルタは肩をすくめた。
「ちょっと面倒なことがあってな。キッチンを使わせてもらう」
オルタが何かを作ろうとするのは、明日槍が降ってもおかしくないくらい、本当に珍しいことだった。
だが、わざわざそれを言う気にもなれず、エミヤは好きにしろ、とだけ告げ、カウンターの前に腰を下ろした。
そんな大人しいエミヤの様子に何か思うところがあったのか、それともただ話したい気分だったのかはわからないが、キッチンに入ったオルタはいつもより饒舌だった。
「別にバレンタインなどという馬鹿げたイベントに参加するつもりなどなかったんだがな。どこぞの暴君がチョコレートがもらえず、人のベッドを勝手に占拠して拗ねていると苦情がきていたことを、今さっき思い出してね」
暴君。それはセイバーのネロことだろうか。それともセイバーのオルタだろうか。
ただセイバーのオルタが拗ねている様がうまく想像できず、ネロの方だろうか、とエミヤはぼんやりと思った。
「無視しようかとも思ったんだが、名高い英雄がチョコレートを貰えずに落ち込んでいるのは、さすがに憐れでな。適当なチョコレートでも渡せばいいかと思ったんだが、あいにく、購買のチョコレート菓子は全部売り切れだ。だから、ここに来た」
つまり、オルタはここにチョコレートが残ってないか探しに来たのだろう。
エミヤはのろのろと、キッチンの後ろの棚を指差す。そこには製菓用のチョコレートがまだあったはずだ。
「製菓用のものだから、そのまま渡すのには適さないが……。それでも構わないか?」
「ああ、なんでもいい」
オルタはそう言いながら手を洗い、冷蔵庫から牛乳を出した。
それをマグカップに注ぎ、電子レンジで温める。
そして棚から出したチョコレートを適当なビニール袋にいれ、包丁の柄で砕き始めた。
何を作っているのだろう。
カウンター越しにエミヤがぼんやり眺めていると、オルタは温まった牛乳をレンジから取り出し、砕いて小さくなったチョコレートをその中にいれ、再びレンジで温め出した。
どうやらホットチョコレートを作っているらしい。
甘い香りが、ふわりとキッチンに広がった。
「……良い香りだ。チョコレート好きにはたまらないだろう」
冷え切った目でこちらを見てきた男を思い出しながら、エミヤはぼそりと呟く。
するとオルタは、好きならな、と鼻で笑った。
「……お前が渡す相手は、そうじゃないのか?」
「ああ、むしろこういう甘いものは嫌いだろうよ」
オルタは意にも介さず、さらりと答えた。
「こんなくだらないことにオレを付き合わせたんだ。それくらいの仕返しをしてもかまわんだろう」
「……食べ物を粗末にするのは」
「心配するな。余ったらオレが飲む。どうせ味などわからん」
そう言うオルタの顔は、どことなく楽しそうだった。
オルタのそんな表情を、エミヤはあまり見たことがなかった。
「で、お前はいつまでそこで死にそうな顔をしているんだ」
突然話を振られ、エミヤは思わず視線を外す。
「そんな顔はしていない」
「ハッ、面白い冗談だな。今の顔をマスターが見たら、問答無用でお前を医務室に突っ込むぞ」
そんなにひどい顔をしているのだろうか。
自分ではよくわからない。ただ、ひどい気分であることには違いなかった。
「どうせこんな馬鹿げたイベントにのせられて、くだらないことでもやったのだろう。後悔しているのか?」
後悔。そうだ、後悔している。
キャスターに頼らずに、自分で渡せばよかった。そうすれば、義理でも受けとってもらえたかもしれない。あの男に、あんな目で見られずに済んだかもしれない。
あの温度のない冷め切った視線を思い出し、エミヤの胸が再び重くなる。
そんなエミヤを見て、オルタが口を開いた。
「まぁ、いいんじゃないか。そんなくだらないことで落ち込んでいられるのは、このカルデアにいる間くらいだろう」
てっきり嫌味を言われると思っていたエミヤは、まさかの言葉に思わず顔を上げた。
オルタはどこか皮肉げな表情を浮かべたまま、温まったホットチョコレートをレンジから出し、スプーンでかき混ぜている。
「このカルデアにいる連中は、マスターを含め、全員頭がおかしい。兵器であるサーヴァントを集めて、のんきにお菓子の交換だと?まともな魔術師共がこの状況を見たら、泡を噴いて倒れるぞ」
それは確かにそうだ。
でも、こういう日常のイベントをカルデアでやっているのは、サーヴァントの為というより、こんな事態に巻き込まれ、突然日常を奪われてしまったマスターの為でもある。
エミヤがそう言い返すと、オルタは片眉を上げた。
「いくら哀れなマスターの為とは言え、サーヴァントがそれに便乗して盛り上がっているのが異常だと言っている。まぁ、所詮サーヴァントはただの使い魔だ。それがマスターの意向であり、マスターの利益になるというなら、それに従うだけだ」
全く、下っ端は辛いものだ。
オルタはそう言って肩をすくめ、混ぜていたスプーンを取り出し、シンクに置いた。
「だから、好きにしたらいいんじゃないか?ここにいる奴らはみんな頭がイカれている。マスターもそれを望んでいる。ならば、お前が多少おかしなことをしたところで、誰が気にするか。好きにやればいい。オレも好きにやる。それだけだ」
それだけ言って、オルタはホットチョコレートの入ったマグカップと共に、あっさりと食堂を出て行ってしまった。
後に残されたのはエミヤと、チョコレートの甘い香りだけ。
オルタの言ったことを、エミヤはぼんやりと反芻する。
たしかに、こんなことをいちいち悩めるような平和な召喚は、滅多にあるものではない。それを許すマスターも、それが許される環境も、きっともう出会うことはないだろう。
エミヤは今、そんな奇跡の中にいるのだ。
だからこそエミヤは、あの男にチョコレートを作ろうと思った。そう思うことができた。
エミヤは、カウンターに取り残されていた紙袋を見る。
あの中には、エミヤが心を込めて作り、そして突き返されたチョコレートが入っている。
エミヤは立ち上がり、その紙袋の中からチョコレートの入った箱を取り出した。
蓋を開ければ、艶やかな丸いチョコレートが4つ並んでいる。昨夜、エミヤが丁寧に溶かし、練り、固め、飾り付けたチョコレートだ。
英霊エミヤの分霊の中でも、こんなにも熱心にチョコレートを作ったのは、きっと自分くらいだろう。いつもの自分は血に塗れ、常に戦いの中にいたから。
エミヤは箱を持ったままカウンターの中に入り、食器棚から大きめのカフェオレボウルを出した。
その中に、箱の中にあったトリュフチョコレートを全て入れる。
チョコレートがカフェオレボウルにぶつかり、からん、という音を立てた。
そしてエミヤは、少し前にオルタがやっていたのを同じように、カフェオレボウルに牛乳を注ぎ、そのまま電子レンジで温めた。
少し待ってからレンジを開ければ、カフェオレボウルの中でトリュフチョコレートはどろりと溶け、温かくなった牛乳と混ざりあっていた。
ぐるりとスプーンで混ぜると、溶け残っていたチョコレートがぷかりと浮いてくる。
いつもだったら、全てが溶けるまできちんと混ぜていただろう。
でも、今は気にしない。
エミヤはカフェオレボウルを両手で持ち上げ、少し冷ました後、それを一気にあおった。
エミヤが昨日想いを込めて作ったチョコレート。
それを溶かしたホットチョコレートを、エミヤは全て飲み干した。
芳しいカカオの香りが鼻を抜ける。
とても良い香りだ。もう溶けてしまったが、このチョコレートはきっと良い出来だったに違いない。いや、良い出来だった。自分の作ったチョコレートは美味しかった。これほど、あの男に贈るのにふさわしいチョコレートは、きっとなかっただろう。
最後の一滴まで飲み干し、エミヤは空になったカフェオレボウルをキッチンに置く。
そしてもう一度、チョコレートを作ろう、と思った。
さっきのは失敗だった。チョコレートそのものは上手く作れたが、渡し方が失敗した。
だから、もう一度。はじめからやり直すのだ。
今度は尻込みしない。
ちゃんとはじめから、あの男に自分で渡すことを考えて作る。
たとえ、それでも男にいらないと言われたら、それでいい。
どうせこの関係は、カルデアのみのものだ。嫌われたとて、気にするものか。
そもそも、あの男からの好感度は元より高くない。それがさらに下がろうとも、エミヤには痛くも痒くもない。
あの男だって、このカルデアでエミヤがチョコレートを贈ったことなど、わざわざ座の記録に残したりしないだろう。
ただ、エミヤはあの男が好きだった。
好きだということに気付いたから、バレンタインにチョコレートを贈りたいと思った。
そして今、奇跡的にそれが出来る環境にいる。
だから贈るだけ。
そうだ、こんなことができるのは、きっとこの召喚だけだ。次からはまた敵同士になっていて、バレンタインどうこう言っていられるような状況にはない。
だったらもう、嫌がられても今のうちにチョコレートを渡そうと思った。
あっちの気持ちなど知るものか。そもそも、甘いものはそこまで好きじゃないと言っていた。
だから何を贈っても、どうせ喜ばれない。
これはエミヤの問題だ。オルタだって好きにする、と言っていた。
エミヤもそうする。自分が贈りたいから贈る。
今はそれでいい。今、それができるのだから、それでいいのだ。
ちらりと食堂の時計を確認する。
バレンタインが終わるまで、まだ時間はある。
いや、たとえバレンタインを少し過ぎたところで構うものか。
エミヤがバレンタインのチョコレートだと言ったら、それはバレンタインのチョコレートだ。
だからせめて、悔いの残らないように、精一杯、心を込めて作ろうと思った。
もう一度、チョコレートトリュフを作る。
そう決めたエミヤは、まずは鍋に入れた生クリームを火にかける。
それを温めている間に、製菓用のチョコレートをまな板の上に広げ、包丁で細かく刻み、ボウルに移した。
そして温めた生クリームを、そのボウルにゆっくりと注ぐ。
ボウルの中で茶色と白色が混ざり、キッチンには再び柔らかな甘い香りが広がった。
エミヤはそれをゴムベラでゆっくりかき混ぜる。
丁寧に、丁寧に。口当たりが滑らかになるように。
あの男が、少しでもおいしいと思ってくれるように。
綺麗に混ざったら冷蔵庫で冷やし、形を整えてコーティングをしたら完成だ。
エミヤはボウルを触り、チョコレートの温度を確認する。
まだ少し熱い。
冷蔵庫に入れるなら、もう少し冷ましてからのほうがいいだろう。
魔術で一気に冷ましてもいいが、使った器具の片付けもある。コーティング用のチョコレートも用意しなくてはいけない。
それらをしている間に、粗熱も取れるだろう。
そう思い、かき混ぜていたゴムベラをシンクに置いた時だった。
「まだ何か作ってんのかよ」
その声に、エミヤの体が硬直する。
顔を上げると、カウンターの向こうに、あの男がいた。
「……ランサー」
突然の男の登場に、エミヤは思わず手を止める。
男はどことなくつまらなそうな表情のままエミヤの手元を見下ろし、またチョコレートか、と呟いた。
「マスターの分か?それとも、茨木童子にでもねだられたのか?」
驚いたことに、男の口調はいつも通りだった。
もともと切り替えの上手い男ではあったから、チョコレートを突き返して来た時のことは、もうなかったことになっているのかもしれない。
いや、あのことをなかったことにするチャンスを、きっとエミヤにくれているのだ。
だから、これにエミヤが乗れば、男とこれからも、今まで通りの関係を続けていくことはできるだろう。
でも。
エミヤは、カウンターの下で、ぎゅう、と拳を握った。
「いや、本命にだ。前に作ったのは突き返されてしまったからな」
だから作り直している、と、エミヤは今にも張り裂けそうな心臓を隠し、なるべく自然に答えた。
ここまで言えば、男にはエミヤが誰の為にチョコレートを作っているのかわかるだろう。
何せ、この男はそのチョコレートを突き返してきた張本人だ。
呆れられるかもしれない、とエミヤは思った。
せっかく関係を修復できるチャンスを与えられたのに、エミヤはそれを無下にした。男はそれにまた腹を立てるかもしれない。
それは別に構わない。全て覚悟の上だ。
だだ、エミヤの自己満足の為に、男にまた不快な思いをさせてしまうことだけが申し訳なかった。
エミヤは罪悪感から目を伏せ、静かに口を開く。
「……さっきは不快な思いをさせて悪かった。あとでキャスターにも謝っておく」
男からの返事はない。
それでもエミヤは話し続けた。
「君に言われて目が覚めた。だから、もう一度だけやり直させてくれ。チョコレートも作り直して、今度はちゃんと自分で渡す。結果はわかっているが、それでも。……そうしないと、ちゃんと諦められないだろうから」
エミヤは顔を上げ、これからチョコレートを渡す本人に苦笑いをする。
「まぁ、こんなのんきなことができるのは今くらいだからな。面倒に思うかもしれないが」
付き合ってくれると嬉しい、とエミヤは言おうとした。
だがその前に、男の手がカウンターの中にするりと伸び、粗熱をとっていたボウルを掴んだ。
突然の男の行動に、エミヤの反応が遅れた。
呆気にとられるエミヤの目の前で、男はボウルを持ち上げる。
そしてそれを口にあてがい、ぐい、と傾けた。
「な」
エミヤが止める間もなく、男はボウルの中にあったチョコレートクリームを、喉を鳴らしながら飲み始めた。
男の奇行に、エミヤは言葉を失った。
ボウルの中のものはチョコレートと生クリームだから、別にそのまま食べても腹を壊したりはしない。しないが、それはあくまで材料。エミヤが今から冷やしてチョコレートトリュフにする予定のものだ。
それが今、エミヤの目の前で男の口の中に飲みこまれていく。
何故。どうして。
突然の事態にエミヤは混乱した。
もしかして、喉が渇いていたのか。でも、それならこんな喉が乾きそうなものは飲まない方がいいし、言ってくれたら紅茶くらい淹れた。
いや、そもそもボウルに入っているものを普通飲むだろうか。
それとも、この男には、これが調理中のものだとはわからなかったのか。
とにかく今からでも、この男を止めなくては。
ようやくその結論に達したエミヤは、取られたボウルを取り返そうとカウンターを飛び出した。
だが一足遅く、エミヤが男の前に立つ頃には、男は空になったボウルを悠々とカウンターの上に置いていた。
「な、何をやっているんだ、ランサー……!」
エミヤの声は動揺で揺れていた。きっと情けない顔もしていただろう。
男はそんなエミヤにちらりと視線を寄越した後、汚れた口の端を鬱陶しそうに腕で拭い、口を開いた。
「お前の想いを突き返すような奴に、お前のチョコはもったいねぇよ」
そう言って、男はべろりと舌を出した。
「全部飲んでやった。ざまーみろ」
その舌はエミヤのチョコレートで、薄く汚れていて。
エミヤは盛大に混乱した。
どういうことだ。ざまあみろ、とはどういう意味だ。
それはランサーに贈るチョコレートになるはずのものだった。
だが、男は形になる前にそれを全て飲み干してしまった。
これはどうしたらいい。ランサーにバレンタインのチョコレートを贈れた、と考えてもいいのだろうか。
立ち尽くすエミヤに、男は一歩近付いた。
「一度は引いてやったが、二度はない。お前が惚れた相手がそんなクソみたいな奴だと、オレに知られたのが運の尽きだ。いいか」
そう言って男は手を伸ばし、エミヤの顔を両手でがしりと掴んだ。
ボウルを持った時についてしまったのか、ランサーの指についていたチョコレートが、エミヤの頬を汚した。
「ならば、オレがもらう。チョコレートも、お前も。そんな奴に、何ひとつお前をくれてやるものか」
強い執着を表すかのように、エミヤの顔を掴む手に力がこめられる。
こちらを見つめるその赤色は灼熱で滾り、その視線の熱さに、エミヤは今にも焼かれてしまいそうだった。
この男は何か勘違いをしているのかもしれない。
エミヤはようやく、その考えに至った。
エミヤが惚れているのは、今にも射殺してしまいそうな目でエミヤを見ている男だ。チョコレートを作ったのも、全部この男のため。
だが、なぜか男はそれに気付いていない。
どうなっている。キャスターに預けていたチョコレートをもらって、それがエミヤからのものだと聞いて怒っていたのではないのか。男の思考が全くわからない。
とにかく話を聞いてもらわなくては。
男の迫力に飲まれそうになっている己を叱咤し、エミヤは必死に言葉をかき集める。
「ランサー、違う、私は」
「まだそんな奴をかばうか」
不意に男の顔が、ぐい、と近付けられる。
思わず後ろに引こうとするが、顔を掴む男の手がそれを許さない。
「そんな奴より、オレの方がお前を愛しているというのに」
唇に吐息が当たる距離でそう囁かれ、今度こそエミヤの頭は真っ白になった。
絶句しているエミヤを見て、息が詰まりそうなほどの殺気を放っていた男の目が、不意に弱まった。
「だからどうか」
男の指が、愛おしそうにエミヤの頬を撫でる。
こつり、と額を当てられた。
「オレのためにチョコを作ってくれよ、アーチャー」
何を。
何を言っているのだ、この男は。
その言葉で、エミヤの中の怒りに火が点った。
最初にチョコレートを返してきたのはそっちだろう。
刺し殺しそうな目をしてエミヤを責めたのも、弱腰ではあったけれど、それでも一生懸命作ったエミヤのチョコを突き返したのはそっちのはずだ。
「……何を言っている。これ以上、私に何を求めるのだ」
エミヤは無意識に言い返していた。
男の眉が怪訝そうに寄せられたが、今は気にしていられなかった。
「貴様に返されたチョコも、貴様が飲んだチョコも、全部貴様のために作ったものだ。だというのに、貴様は……!」
最初からずっと、エミヤはこの男のためだけに作り続けていた。
それを一度返しておきながら、さらに何かを寄越せと言う。
自分は何ひとつくれないくせに。エミヤの想いを受け取ってさえくれなかったのに。
受け取ってさえくれたら、それでエミヤは満足できたのに。
エミヤは怒りに体を震わせながら、すぐ前にある男をぎろりと睨む。
対して男は、きょとりと目を瞬かせていた。
「……待て。あのキャスターに預けてたチョコって、もしかしてオレ宛てか?」
「そうだが」
エミヤが苛立ちを込めて答えると、男から、さっきまでの重く刺さるような雰囲気があっさり消えた。
そして掴んでいたエミヤの顔からパッと手を離し、小さく首を傾げる。
「あれ?じゃあ、お前の本命ってオレってことか?」
「そうだと言っている。キャスターから聞いているんじゃないのか?」
「何も」
エミヤの問いに、ランサーはふるふると首を横に振った。
その本当に何も知らなそうな男の反応に、エミヤの怒気がわずかに弱まる。
「……じゃあ、どうしてあれが私のチョコレートだと知っていたのだ」
「あれは、オルタから聞いた」
「オルタ?」
まさかの名前に、エミヤは目を瞬かせた。
「私のオルタか?アレに言った覚えはないが」
「いや、オレのオルタだ。バーサーカーの。夕飯の後、キャスターの部屋に行ったら、何故かオルタがキャスターの部屋でふて寝しててよ。その時、聞いた」
「キャスターの部屋に彼が?キャスターは部屋にいなかったのか?」
「ああ。あいつ、次のレイシフトの打ち合わせで出て行ったっきり、ずっと戻ってきてねぇんだと。オルタが言ってた。ダヴィンチも見かけないし、今もまだ終わってねぇんじゃねぇの?」
そう言われて、エミヤもチョコレートを預けて以降、食事の時もキャスターの姿を見ていないことに気付いた。
「で、その時、お前のチョコが入った袋を見つけて、何の気なしにオルタに聞いたら、お前の本命チョコだって言われてよ。まさかキャスターに宛てたものかと思ったら、そうじゃなくて、お前が自分で渡せないから代わりに渡してくれと、キャスターが頼まれたものだと聞いた」
おそらくキャスターは部屋を出る前、勝手に触らないように、クー・フーリン・オルタにチョコのことを伝えたのだろう。
これはエミヤの本命チョコで、代わりに渡すよう頼まれているものだから触るな、と。ランサー宛て、というのは伏せて。
だからこそオルタは、部屋にやってきたランサーに、それをそのまま伝えてしまった。
それでランサーはそれが自分宛てとは知らないまま、エミヤに突き返してきた、ということか。
「……私はてっきり、キャスターが君に渡したものを、君が返しにきたとばかり……」
「そんなことはしねぇよ。返したのは、お前の惚れた奴が別にいると思ってカッときたからで……」
男は言いにくそうに、エミヤから視線を外した。
「あれがオレ宛てだって知ってたら、怒ってお前に突っ返すようなことはしなかった。……多分」
「なぜ最後、ちょっと弱気なのだ」
「だって、せっかくならお前から手渡しで欲しいだろ」
ぼそりと気まずそうに男が呟く。
「だいたい、なんでキャスターに頼むんだよ。直接オレに渡せばいいだろ」
「君が私のチョコレートを受け取るかどうかわからなかったからだ」
「好きだって持ってきたものを突き返すほど、オレは冷血じゃねぇよ」
「現に返してきたではないか」
「あれはオレ宛てだと知らなかったからだっつってんだろ」
「だとしても、あそこまで怒る必要はないだろう」
エミヤの反論に、だってよ、と、ランサーが口籠る。
「正直、複雑な気持ちにもなるだろ。なんで惚れた相手の本命チョコレートを渡す手伝いを、別クラスとはいえ、オレがしなくちゃいけねぇんだ。知るか、邪魔しないでおいてやる代わりに、せめて自分でやれと思ったんだよ」
まぁ、全部勘違いだったわけだが、と男はがりがりと頭を掻いた。
「でもその後、チョコひとつにあそこまで言うことはなかったな、とちょっと冷静になってよ。頭に血が上っていたとはいえ、さすがに言い過ぎた。だからひと言謝ろうかとお前を探してたら、またなんかチョコ作ってるし。本命とやらには無事にチョコを渡せたのかと思ってたら、突き返されたから作り直しているとか言うし」
「突き返したのは君だからな」
「悪かったって!しょうがねぇだろ、オレ宛てって知らなかったんだから」
必死に弁解してくる男に、エミヤは腕を組み、小さく息を吐いた。
「……それで、私のチョコレート作りの邪魔をしたと」
「邪魔っつーか、お前が作ったものを突き返すような奴に、これ以上お前が何かやるのは腹立たしいと思ったんだよ」
つまりランサーは、エミヤの本命は自分以外の誰かで、チョコレートを返した後、エミヤはその本命に、ちゃんと自分でチョコレートを渡したと思っていた。
だがエミヤの言葉で、せっかく自分が返してやったチョコレートを本命は受け取らず、エミヤに突き返していたことを知った。
その人の好意を無下にする行いに、ランサーは激怒した。
いくら惚れていようと、そんな相手にエミヤもチョコもやれるかと憤り、エミヤのチョコレート作りを阻止する為、冷ましていたチョコレートクリームを一気飲みする、という奇行に走ったらしい。
なるほど、そういうことだったのか。
やっと状況が飲み込めたエミヤは、うんうんと頷いた。
そして改めて今の状況を振り返り、少し前に自分が男から熱烈な告白を受けていることに、ふと気付いた。
おそらくランサーも、エミヤの本命が自分、という言葉をようやく認識したのだろう。
驚いたような顔でこちらを見ている。
ばちりと目があった2人の間に、なんとも言えない空気が流れる。
しばらく見つめ合いながら、あ、とも、う、とも言えない言葉を互いに呟いた後、先に口を開いたのはランサーだった。
「……悪かった。知らなかったとは言え、オレはお前の気持ちを無下にした。情けなくて過去のオレを殴りたいくらいだ」
「いや、私の方こそ、回りくどいことをしてしまった。挙句の果てにキャスターまで巻き込んで……。その、詫びと言ってはなんだが」
ごほん、とエミヤがわざとらしく咳払いをする。
「……カルデアキッチンを預かる身として、中途半端なものを食べさせるのは私のプライドが許さない。だから、今からもう一度チョコレートを作ろうと思う。バレンタインは少し過ぎてしまうかもしれないが、それでもよければ」
食べてもらえるだろうか。
恐る恐るエミヤは男に尋ねた。
男は。
「お前が詫びることなんざ、何ひとつねぇよ」
きっぱりとそう言って、エミヤに一歩近づいた。
「お前が何か作ってくれるなら、喜んで食うぜ。いくらでも待つ。ちょうど口寂しくなってきたところだしな。……その間、お前といられるのなら文句はない」
男はエミヤの頬に手を伸ばし、そこについていたチョコレートを指でなぞる。
そしてゆっくりと顔を近付け、べろりと舌を這わせた。
そのくすぐったさに、思わずエミヤは身を捩る。
「どうせ夜は長い。バレンタインが終わっても、ゆっくり楽しもうぜ。アーチャー」
男はそう言って、にかりと笑った。
(アーチャー、マジですまねぇ!打ち合わせがすげぇ長引いて、部屋に帰ってきたら預かってたチョコレートはねぇし、ご機嫌でココアみたいなの飲んでるオルタに聞いたらランサーが持ってったって言うし、今から急いで特異点Fに行かなきゃいけねぇんだが、その前にどうしてもお前にひと言詫びなきゃと思って……、……お前ら、こんな時間に2人で仲良く何食ってんだ?)
おわり
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ちょっと遅れたけどハッピーバレンタイン!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
トリュフチョコレートをカフェオレボウルに投げ込んだら、からん、という音が本当にするのか不安になって、何度も家のカフェオレボウルにトリュフチョコレート投げ込んでたのは私です。