嫁が実家に帰りました
hollow設定でCP時空な槍弓バカっぷる話。ふたりがナチュラルに結婚(男男)してますので、苦手な方はご注意を。コペンハーゲンにバイトに行っているのはアーチャーだったりと都合よく設定を変えていますので、諸々の差異は何卒ご容赦下さい。ところで、ここにかっこいいランサーはいません…いません…
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赤く染まるアスファルトの上に、己の影が長く伸びる。
視界の端に、子供達が笑いながら走って行くのが見えた。この先には小さな公園がある。恐らく、そこで遊び終え、これから各々家に帰るのだろう。
元気良く走って行く子供達にランサーは口元を綻ばせつつ、見慣れた小さなアパートを視界に入れて足を止めた。
いつもは小さく見えるアパートが、今日に限ってはとてつもない鉄壁の要塞のように思える。
要塞・・・。そう掠れる様に小さく呟いて、ランサーはこくりと喉を鳴らした。
遥か昔、まだ己が生きていたころに、幾つか堅固な砦を落したことがあった。目の前のアパートは、その時の砦とは似ても似つかないのに不思議とそれに劣らない、それどころか過去最大級で難攻不落な要塞のようにさえ思えてくる。しかも、要塞の中で待ち受けているのは、ランサーが今まで出会った中で最強に分類される敵だ。
難攻不落の要塞、そして最強の敵にいかに立ち向かうか。そんな益体もないことをつらつらと考えながら目的の部屋の前に到着すると、ランサーは気持ちを落ち着けるように深呼吸をひとつした。
仕事用の鞄を小脇に抱え、手早く緩んだネクタイとスーツの襟を調える。
回り道してアイツのバイト先であるコペンハーゲンの店先を覗いてみたら、今日は定休日だった。だから敵は今、確実にこの要塞にいるはずだ。
斥候・・・もとい、手土産に買ってきたケーキは、アイツが好きだと言っていた駅前のカフェのもので、きっと掴みはバッチリのはず。
会社からの帰り道、ずっと脳内でシミュレーションしてきた要塞攻略の手順を反芻しながら、練習した笑顔を浮かべてランサーはドアノブへと手をかけた。
「ただいま~」
ガチャン!
引いた手に、鍵が噛む重い衝撃が伝わる。
は? と思いながらガチャガチャと何度もドアを引くものの、いつもなら開いている筈の扉は、今日に限って鍵がかかっていた。
その普段と違う様子に嫌な予感を覚え、ランサーは慌てて鞄から鍵を取り出すと、乱暴に扉を開けた。
「アーチャー!」
開いた先に人の気配はなく、部屋の中はしんと静まり返っている。
ランサーは蹴り上げるように靴を脱ぎ捨て、持っていた鞄とケーキの箱を放り出すと、そこに在るべき筈の姿を探した。
キッチン、リビング、寝室、トイレに風呂場。ベランダから押入れまで探しても、その姿はなかった。
それどころかアーチャーの旅行鞄と身の回りの品がいくつかなくなっており、ランサーが慌てて玄関に確認に走ると、アーチャーの靴もそこから忽然と消えていた。
「アーチャー・・・」
呆然としたまま誰もいないキッチンへと目を向ける。
ランサーは今朝のアーチャーとの会話を思い出しながら、辿り着きたくない答えに思い至った。
これは・・・つまりアレだな。旦那の浮気に怒った嫁の典型パターン・・・
■嫁が実家に帰りました■
壮絶を極めた聖杯戦争が終結したと思ったら、繰り返しの四日間が始まり、そして夜の聖杯戦争と相対するかのような昼の平穏な日々に皆が慣れきったころ、四日間は終わりを告げ、五日目が訪れた。
サーヴァントは皆、この四日間が終われば座に還るものと思っていたのに、いざ明けてみれば同じ顔ぶれがそこにいた。
しかも聖杯の気まぐれか、サーヴァント達は皆受肉している始末。どこかで悪であれと謳われた少年の笑い声が聞こえる気がするが、繰り返しの四日間に慣れきったサーヴァント達は折角受肉したのだからと、現世を各々謳歌することにした。
そんな中で、ランサーが手始めにしでかしたのが、アーチャーへのプロポーズだった。
「お邪魔しましたー・・・」
アーネンエルベの扉がカランコロンとベルを鳴らしながら閉まる。
ランサーは小さくため息を吐いて空を見上げた。青い空に霞むように雲がたなびいている。せっかくの休みだったが、既に半日がアーチャーを探しに街中を駆け回って終わってしまった。
本当なら、久しぶりの休みをアーチャーと二人で過ごしているはずだった。なのにどうしてこんなことになってしまったのか。
ランサーはポケットからくしゃくしゃになったマルボロの箱を取り出すと、人気のない公園の片隅で一本口に銜えた。
ランサーは現在、凛の斡旋で遠坂家に縁のある小さな企業でサラリーマンとして働いている。アルスターの英雄が現代で社蓄というのも笑えない話だが、それがアーチャーを嫁に貰う時に、凛から提示された条件の一つだった。
嫁に貰うといっても、日本では男同士の婚姻を認められていないので、勿論形だけのものだ。
けれど形だけでもきちんとするため、凛に頭を下げて仕事を斡旋してもらい(戸籍は色々と凛が捏造した)、日々パワフルに働いて経済力を身に付け、晴れてアーチャーを嫁に貰った。(本人は嫁という立場に大層憤慨していたが、受けなので仕方ない)。
ジジッと煙草のフィルターが焦げる音がして我に返ると、ランサーは携帯灰皿に長く伸びた灰ごと捩じ込んだ。
毎日が楽しかった。形だけとはいえ、一緒にいられるということが。なのに・・・。
ランサーは段々と午後の日差しに色濃くなる空を見上げながらため息をついた。
今朝のアーチャーとの会話が脳裏をよぎる。
『ランサー、凛が言ったことを覚えているか』
『・・・まだ怒ってんのかよ』
切欠など些細なことだったのだ。
アーチャーを嫁に貰ったのは良いものの、さすが凛の斡旋と言うべきか、ランサーの就職した会社は中堅ながらもブラックすれすれのところだった。
英霊の体力を持ってしても、これってちょっとどーなのよという位の仕事量に、決算期に入った現在はほぼ毎日帰宅が深夜をまわっている。ランサーでもキツイなと思うのだから、普通の人間である同僚達など半死人だ。
そんな仕事漬けの日々だったから、アーチャーと触れ合う時間も自然と減っていた。
最初のうちは深夜に帰るランサーを起きて待っていてくれていたので、少なくとも日常会話は出来ていた。
だが、近頃は先に就寝していることの方が多い。
別に起きて待っていろなどと亭主関白なことを言うつもりはない。アーチャーも昼間は馴染みのコペンハーゲンで配達のバイトをしているので、きっと疲れているのだろう。そう思って、ならば朝に会話をと早起きしてみれば、ここのところアーチャーは朝から忙しく掃除に洗濯にと動き回っていて取り付く島もない。
もちろん、ランサーの朝食も弁当もきちんと用意してくれているのだが、どんなに美味しい料理でも、独りだとつまらないのだ。
別に掃除も洗濯も朝一でやらねばならないことではない。せっかくの貴重な時間なのだから、一緒に食事くらい摂ったらどうかと言ってみたが、そんな暇はない、と軽く一蹴された。
そんな暇って何だ。俺達の貴重な時間をそんな暇って。小さな苛立ちは徐々にランサーの中に塵のように積もっていった。
それからだ、夜も朝も自然と会話がなくなったのは。相変わらず会社は忙しくて、朝早く出社しては、深夜に帰宅する日々が続いた。会話もなければ、顔を合わせることもない。珍しく、何かアーチャーから声をかけられることがあっても、大半がお小言の類ばかりだったので、ランサーは生返事でまともに聞くことすらやめた。
視界の端にお互いがいることは分かるが、その頃にはもう相手に干渉する気にもなれなくなっていた。
そんな中、仕事が一区切りつき、ランサーは同僚達から飲みに誘われた。
ふと、アーチャーのことが頭をよぎったが、もうアイツは待っていないのだから構うものかと、誘いに二つ返事でOKした。
きっと夕食を作り置いてくれているだろうが、深夜に冷めた夕食をひとり電子レンジに放り込む虚しさに比べれば、たとえ外食だろうが楽しいほうが良いに決まっている。後ろ髪ひく何かから無理やり目を逸らしながら、ランサーは同僚達と飲み屋街へと繰り出した。
そしてコトはそこで起きた。
日々の仕事への鬱憤がたまっていたランサー達はとにかく楽しく飲んだ。同僚の何人かは既に千鳥足だ。こういう日本人のストレスの発散の仕方は嫌いではない。ランサーからしてみれば取るに足らない酒量だったが、仕事と疲れが溜まっていたせいが、珍しく気分が良くなっていた。
そんな時だった、同僚の女のひとりがランサーにしなだれかかってきたのは。会社の中でも指折りの美女だと言われている彼女の突然の行動に、他の男達からの羨望とブーイングがあがるも、女は、"だってランサーさんかっこいいんだもん。前から好きだったの"と、スーツ越しにも豊満な胸をランサーに擦り付けてくる。
綺麗な女に言い寄られて嫌な気のする男などいない。ランサーは、ありがとよと軽く応えながら、女の腰を抱き寄せた。
女特有の柔らかさと細さに、何故か脳裏に浮かんだのはアーチャーだった。
もちろん、アーチャーには柔らかさも細さもない。しかも男だ。だけど何故だろう。今欲しいのはこんなものじゃない。
ふとそう思った瞬間、急に酒が美味しくなくなった。何を飲んでも水のようで味がしない。楽しいはずの酒席が、つまらなく虚しいもののように思えてきた。
「悪ぃ、帰るわ」
ランサーは財布からお札を何枚か抜き取りテーブルへ置くと、徐に立ち上がった。酔っちゃったから私もと、女もふらつきながら立ち上がる。
同僚達が好奇な視線を送ってくるが、酔った女を放る訳にもいかず、ランサーは女を伴って店を出た。
「なあアンタどうやって・・・」
家に帰るのかと言いかけたところで、女がぎゅっとランサーに正面から抱き付いてきた。
「ねえ、ランサーさん。私帰りたくない・・・いいでしょ?」
甘えた声で女はそう言うと、ランサーのスーツの首元へと唇を寄せながら、飲み屋街の奥へとまるで誘うように視線を流した。あちらは確か、ホテルが建ち並んでなかったか。
ランサーは仕方ねえなと女の肩を抱くとニッコリ微笑んだ。そして、そのまま笑顔で女を傍に停まっていた客待ちのタクシーに放り込む。もちろんお一人様で。欲しくないもので遊んでいるほどランサーも暇ではない。
ドア越しに凄まじい罵声を浴びせてくる女をランサーはそのまま笑顔で見送ると、急いで家路についた。
時間はとっくの昔に深夜を回っている。アーチャーはきっともう寝ているだろう。それでも何故か早く帰りたくて、ランサーは夜道を急いだ。
見慣れたアパートが視界に入った時、ランサーはホッとすると同時に目を見開いた。いつもならダイニング以外消えているはずの家の灯りが、何故か今夜は暖かく点っている。
アーチャーはまだ起きているのだろうか。
慌ててアパートの階段を駆け上がると、ランサーは些か乱暴に扉を開いた。
「アー・・・」
「今何時だと思っている。静かにしろ」
名を呼ぼうとした先に、いつもの仏頂面がいつもより三割り増しの不機嫌さで立っていた。仏頂面ながらも久しぶりに面と向かって見た愛妻の姿に、何か言わねばとランサーが口を開きかけた時、アーチャーの目が冷ややかに細められた。
「・・・何だそれは」
「へ?」
アーチャーの視線が己の胸元に注がれているのに気付き、ランサーは玄関脇の姿見へと目を向けた。姿見に映る自分のYシャツの襟元には、くっきりと赤い口紅の跡が付いている。
やられた・・・。そう思ってももう遅い。よれよれに崩れたネクタイが更に哀愁を誘って泣きたくなった。
「アーチャー、違うんだこれは・・・」
「・・・脱げ」
「・・・はい?」
「それを脱げと言っているのが聞こえないのか!!」
突然のアーチャーの怒声にランサーは思わず肩をビクリと揺らした。アーチャーがここまで怒気を露にするのも珍しい。
何故怒られているのか訳が分からなくてランサーは目を白黒させていたが、今の自分の姿を鑑みてハッとした。
残業しているはずの夫がようやく帰ってきと思ったら、酒の匂いをさせていたうえに、シャツの襟に女の口紅が付いていたのだ。これはもしかして女遊びをしたと思われているに違いない。
「アーチャー違うんだ、これはな・・・」
「香水臭い。とっととスーツを脱いで風呂に入れ」
ピシャリとそう言い放たれて、ランサーは口を噤む。あの女の甘ったるい香水の匂いが、自分にも移っているのだろう。
「あのなアーチャー・・・」
それでも言い募ろうとしたが、それに構うことなくアーチャーはランサーに背を向けると、さっさとひとりでリビングへと引っ込んでしまった。
話くらい聞いてくれても良いじゃないか。そんな憤りを感じてランサーは靴を脱ぎ捨てると、アーチャーを追いかけてリビングのドアを開けた。
「アーチャー!」
ドアを開けた先、アーチャーは何やら戸棚の中を漁っていた手を止めると、キッとランサーを睨みつけた。
「さっさと風呂に入れと言うのが聞こえないのか!」
せっかく話をと追いかければ、そんな素っ気無い言葉で怒鳴られ、流石のランサーもカチンときた。
いつだって自分はアーチャーを第一に考えてきた。ここ最近の残業だってアーチャーとずっと暮らすため。そう思えば鬼畜のような仕事量だって頑張ってこれた。
なのに、少しでも会話を持とうとすればアーチャーに拒否され、浮気なんてしていないのに信じるどころか、話すら聞いて貰えない始末だ。
自分の想いなど最初から一方通行だったのだろうか。ランサーはそう思うと、虚しさを通り越して、段々と怒りを覚えた。
無意識にドアノブを握る手に力が篭り、金属がミシリと音を立てる。
その音に気付いたアーチャーが、あからさまに嫌な顔をしながらため息をついた。
「何度言えば分かる。いい加減に風呂に・・・」
アーチャーが言い終わらないうちに、ランサーはリビングの扉を力任せに閉めた。なかなかに派手な音がしたので、ガラスの何枚かはヒビが入ったかもしれない。
背後でアーチャーが何かを叫ぶ声がしたが、ランサーはそれを無視して風呂へと向かった。
衣服を脱ぎ捨て、頭からシャワーを被る。苛立たしさに身を任せ乱雑に身体を洗い流すと、そのまま湯船へと飛び込んだ。
とにかく腹が立って仕方ない。自分が何のために頑張っているのかアーチャーはまるで分かってくれない。自分ばかりが道化のようで、今にもヘソが茶を沸かしそうだ。
そんなことを悶々と思っていると、ふと気付いた。
湯船には既に湯が張ってあり、それは今入っていてとても丁度良い温度だ。
ランサーは今日の帰宅時間などアーチャーに告げてはいない。無論、いつも残業が終わる時間はまちまちだし、今日に限っては予定外の飲み会が入ったのだ。アーチャーがランサーの帰宅時間など分かるはずもない。
ここのところアーチャーは先に就寝していたので、当然湯船に湯など張られていることはなかった。なので、いつもランサーはシャワーのみで風呂を済ますのだが、今日は湯船の用意がされていた事を考えると、もしかしなくともアーチャーはランサーの帰りを待っていてくれたのかもしれない。
そう思い至ってランサーは慌てて湯船を飛び出すと、脱衣所兼洗面所へと続く扉を開いた。
そこにはランサーが脱ぎ散らかしたはずのスーツはなく、綺麗に折りたたまれたパジャマと下着が置いてあった。
まだ、きっと話せる。
ランサーはそう思って急いで着替えを済ませると、勢い良く洗面所の扉を開いた。
「アー・・・」
灯りの消された真っ暗な家の中に、自分の声が尻すぼみに消えていく。アーチャーはとっくに就寝していた。
ランサーは怒りたいのか泣きたいのか、訳の分からない想いをぐるぐるさせながら、アーチャーの隣に敷かれた布団へと大人しく潜り込んだ。
もう一緒に寝なくなってどれ位だろう。ランサーの残業が始まった辺りから、布団を分けることにしたのだ。ランサーはもちろん反対したが、アーチャーが、一人のほうが寝易いからと譲らなかった。
あの時、自分は折れなければ良かったのかもしれない。仕事の忙しさの方が勝って了承してしまったことが、今更ながらに悔やまれた。
もうアーチャーは自分と一緒に居たくないのだろうか・・・。
一瞬、そんな嫌な考えが頭をよぎって、ランサーはそれ打ち消すように首を振った。
そっと目をやれば、暗闇の中、アーチャーの背中が見える。
もうあの背にどれだけ久しく触れていないだろう。でも今日は何故かは分からないが、確かに待っていてくれたのだ。きっと明日の朝には話せる。
そう信じてランサーは目を閉じたが、青天の霹靂がその朝に待っていることなど、その時には知りもしなかった。
「ランサー、凛が言ったことを覚えているか」
「・・・は?」
朝起きて、とにかく話をしようと急いで出社の準備をしてリビングに赴くと、対面キッチンにいたアーチャーから逆にそう問われた。
一瞬、ランサーは何の事か分からずに目を見開いたが、ふと、あることに思い至って、スッと目を細めた。
「・・・オマエはまだ怒ってんのかよ」
腹の底が冷えていく感覚と共に、押し込んだはずの苛立ちと怒りが沸々と湧き上がる。
ランサーの静かな怒気を感じているはずなのに、アーチャーはそれに動じることなくカウンターの上へとランサーの朝食を用意していった。
アボカドとスモークサーモン、それに卵とレタスのサンドイッチとセイロンのストレート。どれもランサーの好きなものばかりだ。なのに今は何故か食欲がそそられない。しかし、出社までの時間も余りないので、ランサーは渋面でカウンターに座ると、砂を噛む思いでサンドイッチを口に放り込んだ。
「そんな話をしているのではない。私は凛の話を覚えているかと聞いている」
その瞬間、ランサーはカウンターを殴りつけた。その勢いで、傍らのティーカップから紅茶がこぼれる。
「覚えてるも何も・・・。テメェはそれが望みか」
「望み? それが凛との約束だろう?」
何を言っているんだとばかりにアーチャーが眉間にシワを寄せ、ため息を吐く。その態度に妙に腹が立ち、ランサーは朝食も半ばに鞄をひったくるように立ち上がると、玄関を飛び出した。背後から"ランサー、弁当!"と聞こえたが、苛立ちの勝るランサーは振り返ることなくそのまま会社へと向かった。
凛との約束など例のヤツしか思い当たらない。
アーチャーを嫁に貰う際に、凛と交わした三つの条件のことだ。
一、きちんと就職して経済力を身につけること
二、ちゃんとした住まいを用意すること
この二つの条件をクリアして、晴れてアーチャーを貰い受ける時、凛が最後の条件を提示した。
三、浮気したらアーチャーは凛に還すこと
きっと、アーチャーの言う凛との約束とは、このことだろう。
自分は浮気などしていない。アーチャー以外、添い遂げる相手など考えようがないのだ。だから凛に頭を下げて嫁に貰った。なのにアーチャーは自分を信じるどころか、話を聞く気もないらしい。
凛に還すということは、この形ばかりの結婚を終わらせると言うことだ。形ばかりでも、自分には大切なことだった。大事だった。けれど、アーチャーには違ったらしい。
それが腹立たしくて苛立たしくて、ランサーはそれをぶつけるかのように朝から仕事に没頭した。
鬼気迫る形相のランサーに、最初は周囲の同僚達もざわついていたが、決算の近い社内にそんな余裕はなく、みな各々の業務へと取りかかっていった。
視界の端にこちらを恨めしげに見据える件の女の姿が映ったが、もう構う気にもなれなくて、ランサーは気付かないフリを決め込んだ。
色々なことを振り切るように仕事に没頭していたが、キーボードを叩けば叩くほど、自然と頭と心が凪いでいく。
ふと空腹感を覚えて顔を上げれば、とっくに時間は12時を大幅に過ぎている頃だった。
フロアを見渡せば、いつの間にか同僚達の姿はそこにはない。きっとランサーが気付かないうちに、皆昼食を摂りに行ったのだろう。
弁当・・・と思って鞄に手を伸ばしかけるが、そういえば今朝、自分はわざと受け取らなかったことを思い出した。
朝は怒りに任せて家を飛び出してしまった。とにかく苛立ちが勝ってアーチャーの顔を見ていたくなかった。別れたいのか、そうでないのか。凛との約束を持ち出したアーチャーの真意は、最後まで話を聞かなかったため分からない。
そういえば、最初から結局のところ、自分達は何の話も出来ていないのだ。
アーチャーだって別れを切り出すその日に、何もわざわざその相手の弁当など作らないだろう。
けれど確かに朝、家を飛び出すとき、アーチャーはランサーに叫んだのだ、"ランサー、弁当!"と。
やはり、自分達は一度きちんと話をするべきだろう。その結果が良い方向へ転ぶか、はたまた悪い方向へ転ぶかは分からないが、今よりはきっと進展する。それに簡単に悪い方向へと転ばせる気など毛頭ない。
せっかく苦労して得た最高の獲物で好敵手で最愛の嫁をみすみす手放すつもりはないのだ。
生き汚さが自分のポリシーなのだから、ここも最後まで足掻いて見せるべきだろう。
「たしか・・・有給たまってたっけなあ」
会社の決算期など、もうどうでも良い。今はランサーの決戦の方が先決だ。
ランサーは迷うことなく、午後からと明日の有給申請の書類を昼食で不在の上司の机に叩きつけると、アーチャーを如何に攻略するかの算段を思い巡らしながら会社を後にした。
――そして冒頭に至る
結果から言うと、もうお分かりの通り、大層な肩透かしを食らった。それはもう見事な。
まさか嫁に逃げられた亭主の気分を、こんな現代で味わえるとは思いもしなかった。
ランサーはそんなくだらないことをつらつらと考えながら、二本目の煙草の吸殻を携帯灰皿へと押し込んだ。
あの肩透かしを食らった後、ランサーは探せる場所はその日の夜に全て探した。
最初に遠坂邸へ向かったが、屋敷内に人の気配はなく留守のようだった。それから間桐邸に柳洞寺に穂群原高校にセンタービルの上と、行ける場所は全て見て回った。勿論、外からだが教会も覘いた。
その全てにアーチャーの姿はなく、ランサーは朝を待って、今度は昼間にしか回れない場所を回った。
商店街にデパートに遊興施設・・・etc。
アーチャーのバイト先でもあるコペンハーゲンでは、暫くまとまった休みが欲しいと本人から言われたとの話を聞いた。もちろんそんな話、ランサーは知らない。
『今ちょっと忙しい時期だから、こっちとしてはもっと出て欲しかったんだけどね』
そう言って笑う店主の娘だという人物に、ならアーチャーはいつまたバイトに来るのか尋ねてみたら、出れるようになったら本人から連絡があるとのことで、それもいつかは分からないとのことだった。
そして今、アーネンエルベを覘いてみたが、やはりそこにもいなかった。
最後に残るのは、もうあの場所しかない。
「あそこだけはアイツも絶対行かねえと思ったんだがなあ・・・」
ランサーは頭をバリバリと掻くと、小さく嘆息して公園を後にした。
向かう先は魔窟・・・もとい、衛宮邸。
士郎を毛嫌いするアーチャーが行き先に選ぶとも思えないが、冬木中を探しても見つからないのだ。もう残るはそこしかないだろう。
しかし――と、ランサーの足取りが重くなる。
濡れ衣とは言え、もし万が一、アーチャーから自分の浮気の件を衛宮邸の連中が聞かされていたならば、自分は連中の視界に入った途端、座に還されるだろう。恐らく話も聞いて貰えないうちに。
それだけの悲しい自信がランサーにはあった。きっと瞬殺。悲しいけど。
けれども、もう残された場所はそこしかないのだから行くしかない。
ランサーはゴクリと喉を鳴らすと、腹を括って衛宮邸へと足を踏み入れた。
「あれ? ランサー」
不意に庭先から士郎に声をかけられて、ランサーはぎくりと肩を揺らす。
「よ・・・よう、坊主」
ぎこちない笑みを浮かべるランサーに士郎は首を傾げるものの、不穏な空気は感じない。
おや? とランサーが怪訝に思っていると、今度は道場からセイバーが姿を現した。
「シロウ、昼食は・・・、ランサー来ていたのですか」
すわ来るか! と身構えたものの、セイバーはランサーを別段気に留めることもなく、士郎に昼食のメニューについてのリクエストを始めた。
予想外の状況に脳内が着いていけず、ランサーが首を傾げていると、昼食の算段が終わった士郎とセイバーがランサーを振り返る。
「ランサーも昼ごはん食べてくだろ?」
「折角ですから、ランサーも一緒にどうですか」
笑いながらそう誘ってくれるふたりに、ランサーはようやく何も知らないのだと思い至った。
濡れ衣とはいえランサーの浮気の事を知らないと言うことは・・・。ランサーはハッとしてふたりに詰め寄った。
「アーチャーはここに来てねえのか!?」
突然のランサーの言葉に士郎とセイバーは目を丸くする。
「アーチャーって・・・ランサーは何も聞いてないのか?」
「何もって何をだ!?」
必死な様子のランサーに、士郎とセイバーは訳が分からないような表情を浮かべ顔を見合わせる。そのじれったさにランサーが痺れを切らして更に二人に詰め寄ると、士郎が不思議そうに首を傾げながら口を開いた。
「アーチャーなら昨日、遠坂がロンドンに連れて行ったぞ」
空はもう茜さしていた。
衛宮邸からどこをどうやって歩いてきたのか覚えていない。
気付けば目の前は自分のアパートだった。正確に言えば、もう自分ひとりのアパートだ。
アーチャーは凛の許へ還り、凛はアーチャーを連れてロンドンへ行った。それはもうここへ戻る意思はないという事だろう。
一瞬、ロンドンへ行くことも考えたが、凛の行き先が時計塔だと思えば迂闊に手を出すことも出来ない。しかも相手はまだ卵とはいえ、やがては魔女になる女だ。それにアーチャーもいるとなれば、ただでは済まないだろう。
だが、己だって負ける気など更々ない。取り返せないのなら殺してしまっても良い。そうすればずっと・・・。
そんな不穏なことをぐるぐると考えながらランサーは慣れた手つきで鍵を開けると、静まり返る部屋へと足を踏み入れた。
男二人では狭いと感じたアパートが、たったひとりになるとこうも広く感じるものなのか。そう思いながらぼんやりしていると、不意に腹が鳴った。
そういえば、朝から何も食べていない。そう思い至って、ランサーは重い足取りでダイニングへ向かうと緩慢な動作で冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫には料理の盛られた小鉢や皿がラップをかけておいてあった。それぞれふたつづつ。
もしかしなくともこれは自分が飲んで帰って来た日、アーチャーが一緒に食べようと用意していた夕食ではないだろうか。
恐らくランサーがあの日飲んで帰ってきたため、夕食も既に外で済ませたのだろうとアーチャーは判断して、自分も食べないまま片付けたのだろう。
その下には翌朝に持って行かなかった弁当がそのまま入っていた。
アーチャーはあの日、どんな思いでこの夕食と弁当を作ったのだろう。
最後に一緒に摂ろうとした食事と、最後に持たせようとした弁当。
ランサーはずるりと床に座り込むと己の前髪をかき混ぜた。
腹立たしさとか苛立ちとか後悔とか、そんなことはもうどうでも良かった。
今はただ無性にアーチャーに会いたい。ランサーの心を占めるのは、もうそれだけだった。