この世界の居心地の悪さについて(芥川賞贈呈式スピーチ)
本日はこのような場を設けていただき、誠にありがとうございます。
改めて、芥川賞という、たいへん栄誉ある賞をいただいたこと、嬉しく思います。同時に、少しばかり居心地の悪さを感じてもいます。パーティーというのは、また主賓というのはそういうものだ、それぞれがそれぞれの居心地の悪さを担い合うことでしか、場というものは成り立たないのだ、と言ってしまえばそれだけなのですが、今日はもう少しだけそのことについて考えてみたいと思います。
居心地の悪さ、というのは、ごく簡単に言えば、自分がいるべき場所にいない、ということだと思います。逆に言えば、この宇宙にただ一つだけあるのか、それともいくつもあるのかはわからないけれども、ともかくも自分がいるべき場所に、人型に自分の肉体を嵌めるように寸分たがわず身を置いていれば、居心地の悪さ、を感じることはないはずです。
自分がいるべき場所、と言われて、私が思い浮かべるのは温泉です。私は先日鉄輪温泉に行ってまいりました。おひるにそば屋で二、三合ほど飲んだ後に、自分以外誰もいない、がらんとした大浴場で湯につかっているとき、私はもうどこへも行く必要がないという心持になります。しかしそれも束の間で、私はついに見つけたはずの、自分のいるべき場所を、いつかは去らなくてはなりません。なぜか。のぼせるからです。
自分のいるべき場所は刻々と移ろって行く。だから人は移動を宿命づけられている。二次会にも行けば三次会にも行く。引っ越しもすれば転職もする。大陸も渡るし、まだ見ぬ大洋にも漕ぎだしていく。あるいはこの惑星をも離れていく。樹々のように根を生やして一つところにおられない、むなしさやさみしさがいつまでも背に貼りついている。
しかしそのむなしさやさみしさも、移動ができないことのつらさ、に比べれば、大したことではありません。居心地の悪いパーティーで帰ることもできないのはまだいい方で、隣人が毎晩大音量でエレクトリカルパレードをかけるので眠れないが、家を買ってしまいローンがあるため引っ越しができない。教師が、上司が、大家が、事務所が、結婚相手が、親が、明らかにやばいけれども、所属を移ることができない。あるいは今まさに拳が振り下ろされようとしているのに、からだを動かすことができない。ミサイルが落ちてこようとしているのに、逃れることができない。
無論我々はそのような世界を政治によって、運動によって変えていかなければなりません。あらゆる人々が、それぞれのいるべき場所にぴったりと収まる、そんな再配置を夢見なければなりません。けれどもそのような完璧な再配置がいつか完了するとして、それに間に合わない人もいます。少し長いですが、私の大好きなケストナーの『飛ぶ教室』の一節を引用します。マルチンがクリスマスに家に帰れないことについて、考えるシーンです。
<ぼくはぴんぴんしている。足だって折ってやしない。それなのに帰れないんだ。ぼくは両親をとても愛している。両親だってぼくを愛している。それなのに、ぼくたちはクリスマスイブにいっしょになれないんだ。いったいなぜか。お金のためだ。じゃあなぜうちにはお金がないのか。ぼくのお父さんは、ほかの人より働きがないのだろうか。いや、そんなことはない。またぼくは、みんなほど勤勉でないだろうか。そんなことだってない。ぼくたちはわるい人間だろうか。ちがう。
じゃあ原因はどこにあるのか。世の中が不公平だからだ。そのためにじつにたくさんの人たちが苦しんでいる。それを変えようとしているしんせつな人たちもいるが、クリスマスイブはもうあさってだ。それまでには、できっこない>(山口四郎訳)
ここには空間だけでなく時間の問題があります。マルチンは移動がしたい。でもできない。世の中はいつか変わって、移動できるようになるかもしれない。でもクリスマスイブはあさってに迫っている。革命はそれまでには間に合わない。
小説も無論政治や運動と同じように再配置のためにも書かれるべきなのでしょう。しかし小説は何よりも移動が間に合わなかった人々のためにこそ、書かれるべきだと思います。
『叫び』の主人公、早野はあるアクシデントにより、縁も所縁もない茨木という土地に引っ越してきます。それにより通勤時間は増えたのですが、彼はそのアクシデントがひと段落した後も、引っ越しなおしたりはしない。何かが彼に引っ越しを、移動をとどめ、場に縛りつけるのであり、その何かが、最後には彼を破滅へと導きます。
私はこの小説を、この世界のすべての移動の間に合わなかった人々に捧げたいと思います。
ありがとうございました。


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