ハッピーエンドは目覚めとともに
大学生の弓が、飲み会で「浮気はどこから?」という話を聞きながら、恋人の槍のことを思い出してもやもやする、よくある感じの話
※現パロです。
※序盤、モブがたくさんしゃべります。
※なんかもう皆いろいろと女々しい。
それでもよければ、細かいことを気にせず、さらりとお読みください。
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「ねぇ、どこからが浮気だと思う?」
斜め前に座る女が、小首を傾げてそう言った。
酒に酔った多くの客で騒がしい店の中、その声は妙にはっきりエミヤに届いた。
「そりゃあ、キスとかはアウトだろ」
そう答えたのは、エミヤの隣に座る男だ。一応、この飲み会の幹事である。
ここにいる5人は皆、同じ研究室の同期だった。
本来なら大学3年になり、研究室に入った直後に同期だけの飲み会をする予定だったのだが、なかなか予定が合わず、夏休み前のこの時期になってようやくこうして集まることができた。
その際に中心となって色々と動いてくれたのが、隣に座るこの男である。
「キスしなきゃいいの?彼女が知らない男と2人で出かけるのとかは?」
エミヤの前に座る女が、幹事の男にどことなく楽しそうに尋ねる。
「良い気はしないけどさ、向こうにも事情はあるだろ。教授の手伝いで駆り出されたとか、サークルの先輩と買い出し行かなきゃいけないとか。その度に文句言ってたら、俺めちゃくちゃ心狭い奴じゃん」
「そうそう。俺の先輩も、彼女が研究室の男の先輩と2人で学会出張行ったって言ってたし。しかも同じホテルに泊まったって」
幹事の奥に座るもう1人の同期がさらりと答える。
「マジで?その先輩もよく許したねー」
「許すも何も、学会なんだから仕方ねぇじゃん。学会に関係のない先輩がついてくわけにもいかねぇし。文句言って、なくなるわけじゃねぇし」
「でも、さすがに同じホテル泊まるのは嫌じゃねぇの?俺、ちょっと嫌だわ」
幹事の男は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、エイヒレに歯を立てる。
「正直先輩も嫌がってたけどな。でも、ホテルが同じって言っても、もちろん部屋は違うし、学会の準備もあったから、2人でのんびり夕食をとるなんて時間も余裕も一切なかったんだと。あと、その先輩の彼女が一緒に行く男のことを日頃からかなりボロクソに言ってたみたいで、まぁ、それなら大丈夫かなって」
そういう状況もあるのか、と思いながら、エミヤは小皿に残っていた茄子の漬物を、ぽり、と齧った。
「私がそうなったら、めちゃくちゃ彼氏に文句言われそうだなぁ」
そうぼやいたのは、最初にどこからが浮気かを問うた女だった。
その隣の女が首を傾げる。
「彼氏、結構そういうの厳しいタイプ?」
「うん。実はこの飲み会も、あんまり良い顔しなかった」
「合コンとかじゃなくて、ただの同期飲みだってちゃんと言った?」
「言ったよー。言ったけど、私が自分の知らないところで男と酒飲んでいるのが嫌なんだって」
女が、呆れるように息を吐く。
「別に2人きりじゃないんだし、恋人いる人ばかりで心配ないって言ってるのに全然だめ。だから鬱陶しくなって、出てくる時ちょっと喧嘩しちゃった」
「それは……、なんかごめんな」
幹事の男が申し訳なさそうに眉を下げる。
「いいよ、いいよ、私がみんなと飲みたかったんだし!」
女はにっこりと笑った後、エミヤを見た。
「エミヤくんはどう思う?」
突然話をふられて、エミヤは思わず目を瞬かせた。
「どこからが浮気という話か?」
「そう」
「そうだな。やっぱりキスだろうな。さっきの学会のように、自分たち以外の理由で出かけなくてはいけない場合もあるだろう。2人で出かけること全てを浮気というのは、いささか乱暴な気がする」
そっか、と彼女は言った。
「あれ、エミヤくんって恋人いるんだよね?」
「ああ。別の大学だがな」
エミヤはあらかじめ決めていた答えを口にした。
「彼女さんは、こういう飲み会のこと、怒らない?」
「いや。向こうのほうが私よりはるかに交友関係が広いからな。飲み会の回数は向こうのほうが圧倒的に多い。今日もバイトの友人達と飲むそうだ」
「女だけの飲み会?」
「多分、違うはずだ」
そう答えてから、エミヤは氷が溶けて薄くなったウーロンハイをゴクリと飲む。
「ふーん。エミヤくんは、彼女がいろんな人とそうやって遊ぶの、嫌じゃないの?」
「いや。それだけ多くの人に好かれているということだろう。そんな魅力的な人と付き合えていることを幸運に思っているよ」
エミヤの答えに、そうなんだー、と彼女は少し残念そうに言った。
おそらく、嫉妬している、とエミヤに言ってほしかったのだろう。
「あ、好かれるといえばさ、エミヤ、あのランサーと仲がいいんだろ?」
突然出てきたその名前に、エミヤの心臓がどくりと跳ねた。
それを一切表には出さず、腐れ縁のようなものだ、と平静を装って答える。
「ランサーもめちゃくちゃ人気だよなぁ。あいつも他校に彼女いるんだろ?それなのにあのモテっぷり。羨ましいぜ」
幹事の男が不貞腐れるように、机に肘をつく。
ランサーというのはあだ名だ。本名はクー・フーリン。
エミヤと違う学部に通っている、同い年の留学生だ。
エミヤの大学はそれなりに規模が大きく、他学部の話題はあまり入ってこない。聞いたとしても、同じ大学に通う芸能人やモデルの噂くらいだ。
なのに、ランサーの噂は他学部の生徒にまで広がっている。
それは彼がこの大学において、芸能人やモデルに負けないほどの人気があるだからだ。
「だって、ランサーくん、めちゃくちゃかっこいいじゃん。見てるだけでときめくレベルだよ」
「だよねー。しかも話しかけやすいし、優しいし、面倒見がいいし。兄貴肌っていうの?あれは惚れちゃうよー」
同じテーブルの女性達が俄に色めき立つ。
「あー、お前ら彼氏いるんだろ。浮気じゃねぇのかよ」
「浮気じゃないよ。かっこいいものをかっこいいって何が悪いの。そっちだってアイドルとか女優見てかわいいって言ってるじゃん」
ねぇ、と話を振られ、エミヤは、ああ、と頷いた。
「でも、エミヤくんはなんでランサーくんと知り合いなの?サークル?」
「……1年の時に、語学の授業がたまたま同じでね。1年の時は学部が違っても共通の授業が多いだろう?他にも被っているものがいくつかあって、気付いたら知り合いになっていたという感じだ」
声をかけてきたのは、あの男の方だった。授業のノートを見せてほしいと言われた。
その頃はまだ噂も広がっていなかったから、エミヤはその男のことをよく知らなかった。
ただ男の海のような髪の色が、妙に目に残ったのを覚えている。
特に断る理由がなかったエミヤは、素直にノートをコピーして渡した。他の授業でも、見知らぬ生徒にノートのコピーを頼まれることはよくあった。だからこの出来事も、エミヤにとってはよくある出来事のひとつに過ぎなかった。
ただその男が他と違ったのは、ノートの礼に、エミヤを食事に誘ってきたことだ。
昼飯奢るぜ、とにかりと笑いかけてきた男に、エミヤは眉をひそめ、必要ない、と突っぱねた。ノートのコピーを渡すのは構わないが、食事はひとりでゆっくり食べたかった。
それで諦めると思ったのだが、男は予想外にしつこく食い下がってきた。
貰えるものはもらっておけ、それに借りを返さないとこっちの気が済まないと男が言うので、エミヤは仕方がないと、缶コーヒーひとつで手を打つことにした。
本当にこんなものでいいのか、と男はずっと不満げだったが、十分だと男を説き伏せ、礼を言って男とは別れた。
それで、その男との縁は切れると思っていた。
だが、それから授業で顔を合わせるたびに声をかけられ、無視するのも良くないかと一言二言言葉を返しているうちに距離が縮まり、気付けば一緒に食事をしたり、家を行き来するような仲になっていた。
たしか、エミヤにアーチャーというあだ名が付けられたのもその頃だ。
ランサーと仲が良い弓道部の男ということで、エミヤはアーチャーと呼ばれ出した。ランサーもこのあだ名を気に入り、エミヤのことをアーチャーと呼んでいる。
「そうなんだー。ねぇ、エミヤくんはランサーくんの彼女、見たことある?」
楽し気な女の声に、エミヤの意識が現実に引き戻される。
「……いや、見たことはない」
「へー、意外!」
きゃっきゃとはしゃぐ女性達から逃げるように視線を外し、エミヤはグラスに口をつけた。
皿にはもう何も残っていない。料理はもうあらかた食べてしまってた。ここからさらに何か注文するほど腹も減っていない。
気まずさを誤魔化すように、エミヤはちびちびと薄まったウーロンハイを飲み続ける。
「ほら、エミヤくん、かっこいいから、あんまり会わせたくないんじゃない?彼女盗られちゃいそうでー」
「えー、ランサーくん、そんなこと気にするー?」
「いや、意外と、ああいうのに限って独占欲が強い可能性あるって」
盛り上がる同期達の前で、エミヤの心臓は気まずさで張り裂けそうだった。
それは何を隠そう、ランサーの恋人というのが、他でもないエミヤ自身のことだったからだ。
エミヤはランサーに密かに想いを寄せていた。
自覚したのは大学2年の秋頃。でもその頃のエミヤは、すでにランサーの噂を知っていた。
かっこいい、という見た目の噂だけではない。女好きで、遊び人だという噂だ。
美人を見かけると声をかける。恋人が途切れたことはなく、学外でもよく女性と遊んでいる。付き合っても長続きせず、すぐに捨てられる、など。
もちろん噂なので大袈裟に言われているものもあるが、そのほとんどは事実だった。
エミヤ自身、ランサー本人から、誰々に告白されただの、付き合っていたけど別れただの、バイト先に美人がいて、声かけたらデートできることになっただの、友人として色々な話を聞いていた。
そんな女好きの男に、同性のエミヤが告白する勇気はない。
下手を打てば、今の友人という立ち位置まで失うことになるだろう。
だからエミヤは、男への想いを腹の奥に深く沈め、友人として振る舞い続けた。
だが、大学3年になる直前の春休み。
いつものようにエミヤの家に遊びにきた男が、突然エミヤに告白してきたのだ。
はじめは何の冗談だと茶化そうとした。
だが、明らかにいつもとは違う男の雰囲気にのまれ、気付けばエミヤは男の告白に頷いていた。
以来、エミヤはランサーの恋人である。
ランサーと付き合って3ヶ月半。もうすぐ4ヶ月になる。
付き合っていることは内緒にしてほしい、と言ったのはエミヤの方だった。
この目立つ男の恋人が男だと知れたら、大学の人間は面白がって言いふらすだろう。馬鹿にするものも出てくるかもしれない。
この男を、そんな汚らわしい視線に晒したくはなかった。
だからエミヤは、君に懸想している女性達が怖いから、と嘘を吐き、男に自分との関係を秘密にするように約束させた。そして、互いに別の大学に恋人がいることにしたのだ。
「でも、ランサーくんの彼女って大変そう」
空になった枝豆の皮をつまみながら、エミヤの前の女が言う。
「なんで?あんないい男の彼女とか、超自慢できるんじゃねぇの?」
「そりゃあ、彼女の方も自分に自信があったら気にしないだろうけど、普通、自分の彼氏があんなモテたらちょっと嫌だよ」
「普通に美人の女友達も多そうだし。私が駅でランサーくん見かけた時も、外国人の美女と腕組んで歩いてたよ。ランサーくんにその気がないとしても、彼氏の周りにたくさん女の子がいたら気になるって」
彼女達の言う通り、あの男の周りには女性が溢れている。
外国人の美女というのも、おそらく彼の幼馴染の女性のことだろう。たまに来日し、その時は決まってランサーと共に買い物に行く。
エミヤはその女性と会ったことはないが、写真は見たことがあった。
桃色の髪に、すらりと伸びた手足。すれ違う人全てが振り返りそうな、文句なしの美人だった。
幼馴染とはいえ、こんな美人と出かけられたら、恋人としては不安だろう。
現に、エミヤはそうだった。
幼馴染の彼女だけではない。
顔も広く、気のいい彼は、多くの人間から慕われている。
いくらひどい噂が立てられようとも、その魅力は濁らない。むしろ、こんな素敵な人だからこそ、妬まれてそんな噂が立ってしまうのだと皆信じている。皆、あの男が大好きなのだ。
だから、キャンパスを歩けば声をかけられ、学部の友人やバイト仲間によく遊びに誘われる。飲み会も頻繁にある。
そしてそこには、エミヤの知らない、男の人間関係がある。
『どこからが浮気だと思う?』
数分前に聞いた言葉が不意に頭をよぎる。
男が飲み会に出かけることを、浮気だと思ったことはない。そこに誰がいようとも、ただの友達としての交流だとエミヤはわかっている。そこにいちいち口出しするような、心の狭い男にはなりたくない。
そう、きちんとわかっている。わかっているはずなのに。
「まぁ、ランサーくん、彼女がいても平気で告白されるらしいからねー。彼女としては、いつ自分が捨てられるか気が気じゃないでしょ」
エミヤの心を代弁するかのように女の言葉に、エミヤは少し視線を下げる。
その隣で、そういうもんか、と幹事の男が温くなったビールを飲み干した。
「エミヤの彼女はどう?エミヤも結構モテてるだろ?なんか言われたりする?」
「いや、私の方は特に……」
「じゃあ、エミヤくんの彼女はエミヤくんに愛されてるって自信があるんだね。だから安心してられるんだ」
さすがエミヤくん、と褒められ、どうしていいか分からず、エミヤは曖昧な笑みを浮かべる。
愛されている、か。
確かにエミヤはあの男のことが大好きだ。言葉でも行動でも、いつもきちんと表しているつもりだ。
もちろん、あの男もエミヤが好きだと返してくれる。男の行動からも、エミヤが大事にされていることはわかった。
だが、その理由がエミヤにはわからなかった。
そもそも、どうしてあの男はエミヤを選んだのだろう。
自分のどこがよかったのだろう。何が気に入ったのだろう。
付き合った当初、何度か男にその理由を聞いたこともあったが、男は「お前だから」としか言わない。
そんな曖昧な回答では、エミヤは納得できなかった。
どうしてランサーは、自分に告白してきたのか。
だって、エミヤに告白する数日前まで、男が別の女性と付き合っていたことを、エミヤは知っている。別れたという報告も男から聞いた。
その数日後に、突然自分に告白してきたのだ。エミヤには全く意味がわからなかった。
もしかして、たまには趣向を変えて男の恋人を作るのもいいかと思い立ち、ちょうど都合良く近くにいた自分に告白してきただけではないのか。
エミヤは密かにそう思っていた。
男は恋人と長続きしない。恋人が変わるのを、エミヤは友人として何回も見ている。
早くて2週間、保って3ヶ月。
もうすぐ4ヶ月になるエミヤは、知る限りでの最長記録だ。
でも、エミヤはそれを素直に喜べない。
男との関係がここまで続いた理由も、エミヤはよくわかっている。
エミヤの恋する男の話で盛り上がる同期達の声を聞きながら、エミヤは何かを振り払うかのようにグラスをあおった。
*
日付が変わった深夜の街。
家に続く道を一人でぼんやりと歩いていく。
飲み会は終電が近いということでお開きになり、同期達とは駅で別れた。
エミヤも本来なら電車に乗って帰るのだが、なんとなく歩いて帰りたい気分になり、同期達には寄りたいところがあるからと言って、先に帰ってもらった。
駅前の繁華街を抜け、高架下を通り、エミヤは自分の住むアパートに向けて足を進める。
電車を使えば、だいたい20分くらいでアパートに帰ることができるが、歩けば50分かかる道のりだ。
それでもエミヤはかまわなかった。
明日の授業は3限からだから起きるのは遅くていいし、どうせあの男も飲み会で今日はエミヤの家には来ない。だから急ぐ必要はない。
駅から離れるほど、辺りはどんどん静かになっていく。薄暗い小学校の横を通り過ぎ、ちょっとしたレストランが入っているビルの間を抜ければ、そこには閑静な住宅街が広がっていた。
頬に当たる冷たい風が心地いい。
夏とはいえ、夜は昼間よりも暑さが和らぐ。散歩をするにはちょうどいい気温だった。
何度か、あの男とこうして夜道を歩いたことがある。
それは2人で飲んだ帰りだったり、映画を見て気分が上がった後だったり。
あの頃はまだただの友人で、エミヤが男に勝手に片想いしていた頃だったから、2人で長い時間過ごせることをのんきに喜んでいた。
蘇った懐かしい記憶が、エミヤの胸をじわりと締め付ける。
エミヤがランサーと長続きしている理由。
それは、エミヤが男の行動に文句を言わないからだ。
歴代の恋人達は、男が自分以外と頻繁に遊びに出かけることに耐えられなくて、男に文句を言った。
当時、男から聞かされた愚痴を、エミヤはよく覚えている。
男はただ友達とに遊んでいるだけ。なのに恋人は不機嫌になって、そこに文句を言ってくる。しつこく誰と何をしていたのかを聞き出そうとしてくる。正直に答えても、嘘だと疑われる。
それに耐えられなくなったランサーが、別れを切り出すのだ。
でもエミヤは、男が誰と遊びに行こうと誰と飲もうと、一切何も言わない。
誰々とどこに飲みに行く、という男の話に、そうか、と返事するだけ。
だからこそ、今日まで男との恋人関係を維持することができているのだ。
正直なところ、エミヤだって何も思わないわけではない。
エミヤの学科の後輩に、藤丸立香とマシュ・キリエライトという2人の少女がいる。
知り合ったきっかけは、エミヤの所属する研究室に彼女達が見学に来たことだった。
以前から教授と知り合いらしく、その関係で研究室にたびたび顔を出すようになり、エミヤとも自然と話すことが増えた。
そしてある日、熱心な彼女達に乗せられた教授の話が長くなり、帰るのが遅くなったことがあった。
外は真っ暗。大学から最寄り駅までは少し距離がある。さすがに若い女性だけで帰らせるのは危ないと思ったエミヤは、駅まで彼女達を送ることにした。
そして、その道中で偶然、ランサーに出会ったのだ。
さすがに無視するわけにもいかず、エミヤは彼女達にランサーを紹介した。別の学部の3年だと。ランサーにも研究室によく来る後輩だと言った。
そして4人で駅に行き、そこで彼女達と別れた。
その数日後、再び研究室に現れた彼女達から、ランサーと一緒に昼食を食べたという話を聞いた時は、さすがに少し複雑な気持ちになった。
もちろん、後輩に奢るのは悪いことではないし、エミヤも先輩から奢ってもらったことがないわけではない。
だが、相手は出会って間もない後輩の女性2人で、一応恋人になったばかりのエミヤとしては、優しすぎないか、とか、相手が誤解して恋をしてしまったらどうしよう、と思った。
思って、ひどく後悔した。
こんな小さなことでいちいち嫉妬してどうする。そんなことでは、この男の恋人は務まらない。
男の性格はわかっている。顔見知りの後輩がいたから、食事を奢っただけ。純粋な気遣いで、その行為になんの下心もない。
頭ではきちんとそれをわかっている。
わかっているのに、何かが腹の中で蠢く。
エミヤはそれを必死に飲み込んだ。
今まで男の恋人に関する愚痴を、エミヤは友人としてたくさん聞いてきた。
必要以上に疑われるのは腹立たしい、そんなに自分に信用がないのかと、男はよく憤っていた。
もしエミヤが男の行動に口を出せば、きっと歴代の恋人と同じく、男はエミヤを煩わしく思うだろう。ただでさえ、友人の頃から小言が多いと言われているのだ。これ以上何かを言ってしまったら、あっという間に別れることになる。
男の恋人であり続けたいのであれば、エミヤは飲み込み続けなければいけない。
今まで通りにいたいのならば、絶対に。
でも、ひとりの時にふと思う。
それは一体いつまで。
男がエミヤに飽きるまで。もしくは、エミヤが耐えきれなくなるまで。
エミヤが、あの男に振られる覚悟ができるまで。
どろりと思考が沈みそうになった時、不意にエミヤの携帯が震えた。
誰もいない静かな道に、携帯の呼び出し音が木霊する。
さっきまで飲んでいた同期達からだろうかと画面を見れば、そこに表示されている名前は、ずっとエミヤの頭を悩ませている男のものだった。
『よぉ、アーチャー。今、平気か?』
電話に出れば、酒のせいか、いつもよりも少しテンションの高い男の声が聞こえた。
多分、今日の飲み会が楽しくて、気分が上がっているのだろう。
胸の奥にじわりと湧いた感情を、エミヤが静かに飲み込んだ。
「大丈夫だ。飲み会は終わったのか?」
『ああ、今から帰るところだ。そっちは?』
「ああ。私もだ」
『私も、ってどういうことだ?』
男が訝しげな声を出す。
どうしたのだろうと、エミヤは酒に浮かされた頭で考える。
そういえば今日飲み会があったことを、この男に言っていなかった気がする。向こうも予定があるのだし、わざわざ言う必要はないかと思ったのだ。
「言い忘れていたが、研究室の同期の飲み会があったのだ。今、歩いて帰っているところだ」
『ふぅん。歩いてって、どこから?お前ん家の最寄りの駅か?』
「いいや。ちょっと歩いて帰りたい気分だったのでな」
さっきまでの重たい気持ちが嘘のように、するすると言葉が飛び出してくる。
酒を飲んだせいか、それとも男の声を聞くことができて、はしゃいでいるのか。
単純な自分に呆れながら、さっきまでいた駅の名前を言えば、電話の向こうで男は少し戸惑ったようだった。
『……そこから歩くと、お前の家まで1時間くらいかかるだろうが』
「そんなにかからない。せいぜい50分程度だ」
『だいたい一緒だろ。なんでわざわざ歩こうと思ったんだよ』
「なんとなくだ。君とだって、昔歩いて帰ったことがあっただろう」
『それはそうだが……。……お前、もしかして酒飲んでるか?』
「まぁ、飲み会だからな」
『酔ってるだろ』
「酔ってない。足取りはしっかりしている」
すると、電話の向こうで溜め息を吐くような音が聞こえた。
『今、どの辺りだ?』
「どの?」
『……やっぱり酔ってるだろ』
「酔ってない」
『どのくらい酒を飲んだんだ?』
「3杯くらいだ」
『お前にしちゃ飲んでる方じゃねぇか。飲み会とやらはそんなに盛り上がったのか?』
「まぁ、それなりに」
どちからというと、気まずい話題が出てきたから、誤魔化すために飲み続けていただけなのだが、とエミヤは胸中で付け加える。
『で、今どこにいる?迎えに行く』
唐突な男の言葉にエミヤは首を傾げる。
この男はエミヤのことをか弱い女性だと思っているのだろうか。
それとも今までの会話で、エミヤが前後不覚になるほど酒を飲んでいる、とでも思ったのか。
「大丈夫だ。君は確か明日1限で朝が早いだろう。私は3限からだから大丈夫だ。気にせず先に休んでくれ」
『おい、アーチャー』
「そっちこそ、今日はどうだったんだ?楽しかったのか?」
『……まぁな』
「そうか。じゃあ、よかった」
いっそ全然楽しくなかったとこき下ろしてくれたら、エミヤの中のモヤモヤも少しはおさまったのだろうか。
そんなことを考えてしまう自分は、男の言うように、やはり少し酔っているのかもしれない。
誰もいない道の上で、エミヤはひとり、小さく笑った。
『……おい、今どこだ。答えろ、アーチャー』
「家に向かう道の途中だ。やはり夜は涼しくていいな。昼もこのくらいの気温ならいいのだが」
『そうじゃねぇよ。お前がそんなに飲むとか珍しいだろ。そこで何か言われたのか?』
男の言葉に、ぴたりと足が止まる。
別に同期の彼らに何かを言われたわけではない。
ただ、話を聞いているうちに、エミヤの中にあった不安がぽっかりと浮かび上がってきただけだ。
でも、それをこの男に言うわけにはいかない。
そもそも、こういう何かを匂わすような態度を、男は好まない。
ランサーは、正々堂々、真正面から勝負を挑むような潔さを好むのだ。
だから尚更、そんな態度を取るようなつまらない奴だとは思われたくなかった。
エミヤはぎゅ、と唇を引き締める。
『おい、聞いてんのか?アーチャー』
「あぁ、聞いている。大丈夫だ。なんでもない。楽しい飲み会だったよ。料理もなかなかだった。大衆向けの居酒屋も侮れないな。酒も、まぁ、たまに大学生らしく飲むのも悪くないと思った。……さて、君は早く眠った方がいい。そっちも気を付けて帰るのだぞ、ランサー。おやすみ。いい夢を」
そう言って、エミヤは通話を切った。
彼が何か言っていたような気はしたが、全部、聞こえなかったことにした。
*
50分の道のりは意外とあっという間で、つらつらとどうにもならないことを考えながら歩いているうちに、エミヤは見慣れたアパートにたどり着いていた。
2階建ての小さなアパート。エミヤが大学に入学してから、ずっと住んでいる場所だ。
ほら、ひとりできちんと帰れたではないか。
誰に言うわけでもなく、胸中でそう呟きながら、エミヤは2階の自分の部屋の窓を見上げる。
カーテンの向こうにある部屋は暗い。誰もいないのだから当たり前だ。
あの部屋の合鍵を持っている男が、中で待っているはずがない。
そんな期待をしていたわけではない。ないはずなのに、エミヤは無意識に、カーテンの隙間から漏れる明かりを探してしまった。
エミヤは自分を戒めるようにきつく拳を握りしめ、外階段を上り、2階にある自分の部屋の鍵を開けた。
誰もいない1DKの部屋は静かだった。
あの男が来た時は賑やかになるこの部屋も、今はまるで水の底に沈んでいるかのように、何もかもが息を潜めていた。
さっきの男との通話を思い出す。
何の話をしていたのか。いつも通りの反応ができていたと思うが、男が妙にしつこかったから、もしかしたら変なこと口走ってしまったのかもしれない。
念のため、明日、フォローしておいた方がいいだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら靴を脱ぎ、酒でどことなく重たい体を引きずって部屋の中に入る。
その時、外からガンガンと勢いよく階段を駆け上がる音が聞こえた。
もう夜も深い時間だ。こんな夜中に一体誰だ、近所迷惑になるぞ、と眉をひそめていると、その足音はエミヤの部屋の前でぴたりと止まった。
そして次の瞬間、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。
まさか、と思い、エミヤは玄関を振り返る。
たしかにエミヤは少し期待していた。エミヤの様子を不審に思ったあの男が、ここに来てくれるかもしれないと。
だが、いざそれが本当に目の前で起こってしまうと、急にどうしたらいいかわからなくなった。
エミヤの態度が気になったのなら、明日起きた後にもう一度電話をすればいい。
明日は1限で朝早いというのに、わざわざ男がここに来る意味がわからない。
いや、もしかしたらこれはあの男ではなく、偶然エミヤの家の鍵を拾った泥棒が盗みにやってきたのかもしれない。そうだ、そっちの方が納得がいく。
だが、勢いよく扉が開き、そこから飛び込んできたのは、やはり息を切らしたランサーで。
ぎらぎらとした赤い瞳に、うっすらと上気した頬。そしてその青い髪がふわりと揺れるのを、エミヤは呆然と見ていた。
どうしてこの男はここに来たのだ。
喜びよりも疑問がエミヤの中を埋め尽くす。
混乱する頭で、エミヤは必死に考える。
やはりさっきの電話で、自分はおかしなことを言ってしまったのだろう。
自分ではしっかりしているつもりだが、一応酒は飲んでいる。無意識のうちに、男の気を引くために何か余計なことを言ってしまったのかもしれない。
でなければ、この男がわざわざこんな夜遅くに部屋に来たりはしない。
余計な面倒をかけてしまった。
狼狽えるエミヤに、男は真っ直ぐに手を伸ばしてきた。
男の艶やかな赤色に、エミヤがくっきりと写る。
「おい、大丈夫か?」
男の指がエミヤの腕に、ぎちりと食い込んだ。
その必死そうな形相に、自分は一体電話で何を言ってしまったのだと、エミヤは焦った。
だが、おそらく何か誤解をさせてしまう態度をとったのは間違いない。
これ以上、男に迷惑をかけるわけにはいかないと、エミヤはしっかりと表情を作り、先程以上に言葉を選んで答えた。
「すまない、さっきの電話で、私が相当酔っているように聞こえてしまったのだろう。余計な気を揉ませて申し訳ない。見ての通り、私は大丈夫だ」
「……本当か?」
男はまだ疑っているようだ。その証拠に、男の手は未だエミヤを捕まえたままだ。
エミヤは男の目を見て、はっきりと言った。
「本当だ。紛らわしい態度をとってしまってすまない。ほら、君は明日1限だろう。早く帰って寝るといい」
そう告げた瞬間、エミヤを掴む男の手に、さらに力がこもった。
「何故、オレを帰そうとする」
男の燃えるような視線が、エミヤを射抜く。
「いつも、1限ならこの家の方が大学に近いし、起こしてやれるから泊まっていけと言うのに、今日はどうしてオレを帰そうとする」
男の声は淡々としていた。
そのせいか、いつも明るく、からりとしているはずの男の声が、今日はやけに重く聞こえる。有無を言わさぬ雰囲気とでも言うのだろうか。答えるまで離さない、と、言外に言われているような気がした。
普段と様子の違う男に、エミヤは内心狼狽えた。
「すまない、酒のせいで、頭があまりうまく回っていなかったようだ。泊まりたいなら泊まっていってかまわない。今、風呂の用意をしよう」
そう言ってエミヤは男から離れようとしたが、男の手が相変わらずそれを許さない。
どうしたものかとエミヤは悩む。
そしてそこでふと漂ってきた酒の匂いに、そういえば目の前の男も飲み会帰りだということを思い出した。
もしかして、この男も結構酔っ払っているのではないだろうか。
酔っているからこそ、ひとつの物事に異様にこだわったり、些細な言葉尻が気になって難癖をつけたりするのだ。
同じことを何回も聞いてくるのも、突然連絡もなしにエミヤの部屋にやってきたのも、酔っ払っているからだと思えば納得がいく。
この男は酒に強く、飲んでもあまり顔には出ないからわかりにくいが、もしかしたら今日はかなりの量の酒を飲んでいるのかもしれない。
ならば風呂に入るのは危険だ。今日のところは水をたくさん飲ませて、早く休んだ方がいい。風呂は明日の朝にでも入ればいいだろう。
「わかった。君も結構酔っているようだし、今日のところは早く寝よう」
「はぁ?」
エミヤの言葉に、男は盛大に顔を歪めた。
「オレはお前と違って酔ってねぇよ」
「そうだな、酔っ払いはみんなそう言うんだ」
「酔っ払いはそっちだろうが。おい、聞いてんのか、アーチャー」
「聞いてる、聞いてる。寝るなら、顔を洗ってこい。私も着替えたいし、君の服も持ってこなければ」
一歩踏み出せば、男の手からすでに力が抜けていたのか、エミヤの体は思いの他あっさり自由になった。
そのままふらりと洗面所に向かえば、男は慌ててついてきた。
「おい、アーチャー」
「聞いてる、聞いてる。ほら、君はこれを着るといい。私は歯を磨く」
「おい」
「聞いてる、聞いてる」
「聞いてねぇだろうが。おい、酔っ払い」
「酔っ払いはそっちだろう」
エミヤがそう答えれば、男は、ああもう、と声を荒げた後、オレも磨く、とエミヤの横に並び、立てかけてある歯ブラシを掴んだ。
「わかった。オレも酔っ払いでいい。だがな、アーチャー」
「あぁ、新しい歯磨き粉はこれだ」
「サンキュ……、じゃなくて!」
男は新品の歯磨き粉を持ったまま、ぐるりとエミヤの方を向いて怒鳴った。
「飲みに行くなら言えよ!そんな飲むなら迎えに行きてぇし」
「大丈夫だ。そんなに飲んでいない」
「飲んでるから言ってんだろうが」
喉の奥で唸るように男は言った。
「飲んでいない。君からしたら私は酒に弱いのだろうが、弱いと自覚しているからこそ気を付けて飲んでいる」
「同じ量でも酔いやすい酒もあるし、酔いやすい体調の時もあんだよ。特にお前みたいに酒を飲み慣れていない奴なら尚更」
「それくらい私にもわかっている」
ムッとして答えれば、男は埒があかない、というように溜め息を吐いた。
その態度に苛ついたが、相手が酔っ払いだということを思い出し、ぐっと堪える。
ランサーはまだ何かぶつぶつ言っていたが、腹が立ったので全部無視して、歯磨きに集中した。
いいじゃないか、たまに飲みに行っても。
そっちだって事あるごとに誰かと飲んでいるではないか。どうして自分の時ばかり文句を言われなくてはいけないのだ。
歯ブラシを動かしながら、胸中でぼやく。
エミヤの今日の飲み会は、とてつもなく健全なものだった。研究室の同期で全員知り合いだし、ほとんど恋人がいるし、なおかつ真面目な人間ばかりだから、そこで不貞を働こうなどと思う人間もいない。全員互いに指一本触らず、酒を強要してくる者もおらず、過度のスキンシップもない、真面目なものだ。
対してランサーの行く飲み会には、酔っ払ったフリして隙あらばこの男にベタベタ触ったり、恋人がいても気にせずにモーションかけてきたりする者がたくさんいる。少なくとも、エミヤが恋人になる前のランサーが行く飲み会は、そんなものばかりだった。
付き合ってからも、名前こそ違えど、合コンまがいの物にランサーが誘われて行っているのも知っている。
そんな男に、自分の酒の飲み方や、自分の行く飲み会について、とやかく言われるのは納得がいかなかった。
イライラしながら歯磨きを終え、顔を洗い、着ていたシャツをガバリと抜けば、隣にいた男は歯ブラシを咥えたまま、ぎょっと目をむいた。
一体この男は何に驚いているのだ。
呆れながら着ていたものを洗濯かごに入れ、下着姿でふらりと洗面所を出る。
確か洗いたてのTシャツとハーフパンツが寝室に置いてある。今日はそれで寝よう。
そのままふらふらと寝室に向かえば、急いで歯磨きを終えたらしい男が慌てて駆け寄ってきた。
「おい、そんな格好でどこに行く気だ」
「寝室だ。服を取りに行く」
全く、何に焦っているのだ。今は夏なのだから、多少裸でいても風邪などひかない。
それなのにランサーはばたばたとエミヤを追い抜かして寝室に行き、黒いTシャツを持ってきてエミヤの頭にガバリと被せた。
「……自分で着れるのだが」
「いいから。ほら、さっさと腕通せ」
有無を言わさぬ口調に、エミヤは渋々言われた通りにする。
一人でできると言っているのに。
文句を言ってやろうかと思ったが、酔っ払い相手にいちいち反抗するのも面倒だ。
差し出されたハーフパンツも素直に履けば、男はようやく安堵したように息を吐いた。
全く、なんだと言うんだ。そんなにこの肉体が見苦しいのだろうか。
エミヤだってそれなりに体は鍛えている。人に見せても恥ずかしくない物に仕上がっていると自負している。
それを男から隠すように言われるのは、何だか少し傷付くものがある。
たしかに、男が今まで付き合ってきたグラマラスな美女達に比べたら、自分は男の好みからかけ離れているのかもしれない。
それを表すように、エミヤと男は恋人になっても、未だに体の関係はなかった。
同じベッドで眠りはするが、少し指を絡ませたり、子どものようなキスを額に降らせたりするだけ。一線は越えていない。
おそらく男は、それ以上の行為をエミヤに望んでいないのだろう。
それがわかってしまったから、エミヤは行為に関して触れないようにしていた。
「ほら、さっさと寝るぞ」
見慣れた部屋着に着替えた男が、そうエミヤに呼びかける。
もし、エミヤが男好みの体付きをしていたら、この男は。
「アーチャー?」
「……なんでもない」
そっけなく返し、エミヤは男を置いて寝室に向かう。
なんだかひどく胸の中が重たくなったような気がした。
*
「今日の飲み会で、どんな話をしたんだ?」
男と2人、狭いベッドの上で身を寄せていると、ふと、そんなことを聞かれた。
視線を上げれば、カーテンの隙間から差し込んできた白い月明かりが、男の顔を照らしていた。
「別にたいした話はしていない」
少し重たくなってきた瞼を懸命に押し上げながら、エミヤは答える。
「ふぅん。つーか、お前行く飲み会って、いつもどんな話をしてんだ?」
「いつも?」
「あぁ、お前の周りのやつって真面目そうだし、そんな場でどんな話してんのか気になってさ」
そんなところでも勉強の話とかしてんのか、と揶揄うような口調で言われ、エミヤはムッとする。
「飲みの席だからな。大学生らしい浮ついた話くらいするさ」
「へぇ、例えば?」
「恋人の話とか……、あぁ、どこからが浮気かという話もしたな」
今日の飲み会での思い出しながら話す。
「異性と2人で出かけるのはどうなんだ、という話になった。現にひとり、恋人の束縛が激しい子がいて、今日の飲み会も快く思われなかったと言っていた」
「それで?」
「でも、学会とか本人の意思とは関係なく、どうしても異性と出かけなくてはいけない場合もあるから、一概にそれを浮気だと断じるのは難しいのでは、という結論になった」
「ちなみに、お前はどこからが浮気だと思うんだ?」
言われた言葉に、そういえば男とこういう恋愛観の話をあまりしていなかったことを思い出す。
「私は普通にキスからだと答えた」
「知らない女と出かけるのとかは?」
「……まぁ、それが耐えられなかったら、君とは付き合えないだろうよ」
君は人気者だからな、と口の端を上げる。
そうだ、エミヤがそれに耐えられなくなった時が、この恋人関係が終わる時だ。
エミヤが男の行動を問い詰め、鬱陶しく思った男がエミヤを振る。それでこの関係は終わる。
それまであったはずの友人としての関係も、きっとその時点で終わるだろう。
そう思った時、エミヤは男の恋人となったことを、ほんの少し後悔した。
もし、エミヤがあの時の告白を受け入れなかったら。断っていたら。
エミヤはずっと友人として男の側にいられたかもしれない。
恋人となっても、エミヤと男の関係は友人の頃から変わっていない。
合鍵を渡す前から、男はエミヤの部屋によく遊びにきていたし、一緒に食事をして、そのままこの部屋に泊まることもあった。はじめのうちは、泊まるランサーの為に客用の布団を出したりしていたが、そのうち片付けが面倒だろうと男はエミヤのベッドで一緒に寝るようになった。
狭い、もっとあっちに行けとお互いを蹴りながら笑い合っていた光景が、不意にエミヤの胸に蘇る。
男との関係は、恋人であっても友人であっても変わっていないのだ。
だったら、ただの友人のままでいた方が良かったのではないか。
あの時、エミヤが何を馬鹿なことを、と言って告白を受け入れなかったら。
男を夜中に、わざわざここまで来させることもなかったのかもしれない。
罪悪感から逃れるように、エミヤはそっと目を伏せる。
「……オレは全部嫌だわ」
上から降ってくる男の言葉が、一瞬何を指しているのかわからなかった。
「惚れた相手が自分の知らない奴と出かけるのも、オレのいない所で楽しそうに笑ってんのも、無防備に酔っ払うのも」
エミヤの白い髪を撫でていた男の手が後頭部に周り、ぎゅうと、エミヤの頭を抱きこむ。
この男は優しいのだ。
一度愛すると決めたら、相手がエミヤであってもきちんと愛してくれる。誠実でいようとしてくれる。
こういうところが、きっと多くの人間を惹きつけるのだろう。
男の交友関係の広さなど、付き合う前からわかっていた。
自分がそんな心の広い人間でもないことも。
男が知らない女と遊びに行くのが嫌なら言えばいい。
だが男に、そんな狭量なつまらない人間だと思われたくはない。
だからエミヤは、全部飲み込むことを選んだ。
でも、そんな無理が長く続かないことも分かっている。
いつかエミヤは耐えきれなくなって、男に言うだろう。
そうしたら、自由を好むこの男は、エミヤを置いてどこかに行く。
そこまで分かっているなら、初めから受け取らなければよかったのだ。
だけど、好きだった相手に好きだと言われて嬉しくて、エミヤは舞い上がってしまった。
「……次から、出かける時はきちんと君に報告するようにしよう」
「……ああ」
エミヤの頭を抱く男の手に、わずかに力が込められる。
これ以上、男に面倒をかけないようにしなくては。でないと、別れはもっと近くなるだろう。
エミヤは男の胸元で、小さく口を開く。
「もし」
もし別れたくなったら、なるべく早く言ってほしい。
すぐに離れる準備をするし、男のいない日々にも早く馴染めるように努める。
多分、友人には戻れないだろう。ランサーは戻れるかもしれないが、エミヤには無理だ。できたとしても、少し時間がかかる。
正しい距離感なんてもうわからない。どこまでが友人としての適正距離か。
例えば、今こうして同じベッドで眠っているのは適正なのか。一緒に朝ごはんを食べるのは。出かけるのは。もし、ランサーの新しい恋人がそれを良しとしなければ、エミヤは男との関わりを断たなくてはいけない。
「なんか言ったか?」
「……何も」
そうか、と男が静かに返す。
もし、自分がランサーが好むような容姿をしていたら、男はすぐにでも抱いてくれただろうか。
それとも、男はそれでも、エミヤを抱こうとはしないのだろうか。
ならばどうして、男はエミヤを恋人にしたのだろう。
「アーチャー、キスしていいか?」
「……好きにしろ」
エミヤの答えの後、額の上にそっと柔らかなものが落とされる。
男の唇。苛烈さのかけらもない、優しくて甘い児戯のようなふれあい。
そんなものが男の本質でないことをエミヤは知っている。
引き千切られ、叩きつけられるような強烈な愛。その愛にだったら叩き潰されてもいいと思うのに、男は決してそれをエミヤに向けてはくれない。無理矢理押さえつけ、エミヤの意思なんか全て無視して、自分の欲をぶつければいいのに。男は決してそれをしない。
「好きだ、アーチャー」
そして、そんなひどいことを言う。
「私もだ」
そう答えれば、エミヤを抱く男の手に力がこもった。
どうしたのだろう。男のこんな甘えるような態度は珍しい。
そしてすぐに思い出す。そういえばこの男も酔っ払いだった。
だからいつもより少し、感傷的なのかもしれない。
「本当か?」
「ああ、本当だ。本当に君のことを愛しているよ」
こんなつまらない男になってしまうほど。
エミヤはそっと目を閉じる。
「オレも好きだ。なぁ、お前、ちゃんとわかってんのか?」
「ああ。ありがたいと思っている」
「そうじゃなくて。オレがお前を好きなこと、わかってんのか?」
「ちゃんとわかっているよ」
男がエミヤを大事にしてくれることはわかっている。
男は優しく、情が深い。様子がおかしいエミヤを心配して夜中に家にまで来てくれた。
男は男なりに、エミヤを誠実に愛してくれていることはわかっている。
ただ、その愛に終わりがあることも、エミヤはちゃんとわかっている。
「アーチャー。本当か?」
「本当だとも。さて、君はもう寝る時間だ。おやすみ、ランサー」
そう言って、寝かしつけるように男の肩を軽く叩く。
だが、男はまだ不満気だ。
やはりこの男は結構な量の酒を飲んだのだろう。今日は随分としつこい。
「なぁ、アーチャー。俺はそんな薄情な男に見えるか?」
「そんなことはない。君は情に厚い人間だと思っている」
「だったら、どうしてオレを信じない」
「信じているよ。ちゃんと」
ぽつぽつと言葉を返していると、不意にエミヤの意識がふわりと飛びそうになる。
このままだとエミヤの方が先に眠ってしまいそうだ。男の方を先に寝かせなければいけないのに。
夢現にそんなことを考えている間も、男の声は止まらない。
「アーチャー、オレは本気だからな」
「そうだな」
「お前は信じてないかもしれないが、本気だからな」
「あぁ」
「お前が別れたいと言っても、絶対に別れないからな。ジジイになっても、絶対にお前を離さないからな」
「そうか」
男の声が遠い。
自分が目を開けているかどうかも、エミヤはよくわからなかった。
「絶対に別れない。お前みたいな底抜けの馬鹿を愛せるのはオレだけだ。告白だって、お前はノリで言ったと思ってるみたいだが違うからな。ずっと好きだったんだ。でも、突然言ったらお前は戸惑うだろうし、変に思い詰めて、オレと距離を取り出すかもしれない。だから、しばらくは友達で我慢しようと、オレは告白されるがまま、いろんな奴と付き合ってた。でも、ある時、大学で告白されてるお前を見た。お前も人気があるということは噂には聞いていたが、ああいう光景をこの目で見たのは初めてだった。その時は何も思わなかったが、その後お前と会って食事をして、いつもみたいにお前の家でだらだらしていた時も、お前は告白されたことをオレには一切言わなかった。真面目なお前のことだから、相手のことを気遣って言わなかったんだろうが、オレはその時初めて、自分が知らなかっただけで、今までもこういうことがあったんじゃないかと思った。自分の知らないところで、お前はたくさん告白されていた。全部断っていたようだが、それがいつまで続くかはわからない。ある日突然、なんの予兆もなしに、恋人ができたと言われる日が来るかもしれない。もし、そう言われても、オレは多分、笑って祝うことはできるだろう。オレはお前の友達だ。それくらいはしてみせる。だが、その光景を想像すると、たまらない気持ちになった。どうしてオレじゃないのだと、胸を掻きむしりたくなった」
静かな声が心地よい。
男が何かを言っている。
もう一度言ってほしい、とエミヤは思う。
これが酔っ払ったエミヤの見た夢だったとしても、愛しさに溢れた男の言葉に、もう少し包まれていたかった。
「その時、心からお前の幸せを祝えないのなら、潔くお前に告白した方がいいと思った。それで断られて距離ができても、また最初から埋めればいい。そう思ってあの日、お前に告白した。だから、気まぐれとかじゃねぇ。おい、聞いてんのか?今だって、お前をめちゃくちゃに抱きたいの、すげぇ我慢してんだぞ。キスだって、キスしたら絶対止まらなくなるし、お前のことだから、下手に今、この状況で抱いたら、男とヤリたくて興味本位でお前に告白したんじゃないかとか、男の体が気持ち良くてハマったんじゃないかとか変なこと考えだすだろ。だから抱くのは、まずお前にオレの気持ちをちゃんとわからせてからだと決めたんだ。それなのに、お前はフラフラとオレに内緒で飲み会に行くわ、知らない間に後輩たらし込んでるわ。言っておくが、お前の方がオレに対して不誠実だからな。わかってんのか?アーチャー。一体いつになったら」
お前はオレを信じるんだ。
ぽつり、と男が最後に何かを呟いた。
でも、わかったのはそれだけ。
言葉の意味はほとんど理解できなかった。
エミヤ自身も少し酔っているせいだろう。
朝起きて、顔を洗ったらきっとスッキリする。
この夢のような男の言葉達も、アルコールが見せた都合のいい幻だと諦められるはずだ。
だけど。
「なぁ、アーチャー、本当に好きなんだ。ずっとずっと、お前が好きだ」
その男の訴えるような声が、まどろむエミヤの胸を締め付ける。
たとえ夢であっても、この言葉だけは忘れたくなかった。
エミヤはうっすらと笑みを浮かべ、あたたかな眠りの底に落ちていく。
「何のんきに笑ってんだよ、馬鹿野郎。……くそ、朝起きたら覚えておけよ。もう一度、絶対同じこと言うからな。その惚けた頭に刻みつけてやる」
そんな拗ねたようなその男の声を、エミヤは夢の中で聞いたような気がした。
おわり
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ここまで読んでいただきありがとうございました。
こういう話が大好物です。