ポジション系譜学・広島捕手編(2025ver.)


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2025年終了時。赤字は現役

■門前真佐人と草創期の捕手陣

 初年度の1950年に捕手として登録されたのは阪田清春、山崎明男、長谷部稔、古神利明の4名。プロ経験者は阪田のみだった。地元の広島皆実高から入団した長谷部の回想によれば、50年1月16日から行なわれた合同練習に採用テストを兼ねて参加し、5日目に初代監督の石本秀一に呼ばれると、何の説明も条件提示もないまま「契約書に拇印を押せ」と迫られたという[1]。
 ここでは、草創期の50年から57年までの捕手出場数の変遷を辿る。

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 初代正捕手の阪田清春は、24年兵庫県生まれ。滝川中(現・滝川高)で別所毅彦の2学年下、青田昇と同級生である。戦前最後のシーズンとなる44年に阪急に入団し、全35試合中33試合にマスクを被る。戦後は46年に阪急でプレイした後、47年に南海へ移籍。阪急では日比野武、南海では筒井敬三の二番手捕手だった。48〜49年はノンプロの今泉産業、古沢建設でプレイしていたが、元プロの実績を買われてカープに迎えられた。
 50年4月11日の阪神戦(甲子園)、3回表ワンアウト満塁のチャンスに、阪田がセンターへヒットを放った。これをセンターの後藤次男が後逸し、ボールがフェンスに達する間に打者走者の阪田までホームインする。満塁ランニングホームラン。これが、カープ球団史上第1号の満塁ホームランとなった。

 51年は、初代の正一塁手だった辻井弘(一塁手編参照)が阪田に代わって正捕手となる。投手として入団した武智修を野手に転向させ、ファーストで起用したことによる配置転換だ。アマチュア時代に捕手だった辻井は、46年にパシフィックに入団してからはファーストと外野を守っていたが、移籍前年の49年は捕手として79試合に出場していた。カープの初代主将もつとめたが、わずか2年の在籍にとどまり、52年から国鉄へ移籍する。

 阪神捕手編で記したように、門前真佐人は大阪タイガースの創立メンバーだった古参選手だ。カープに加入した52年は35歳のシーズン。広陵中(現・広陵高)出身で、郷里の球団に帰還したわけだが、そうした地縁のみならず、カープ初代監督・石本秀一との〝因縁〟に導かれるような球歴を辿っている。
 門前にとって石本は、郷里・広島の先輩であり、タイガース時代の監督(36年7月〜39年)でもあった。そして戦後の46年、新しく発足した国民野球連盟(国民リーグ)の「グリーンバーグ」の監督に石本が就任すると門前もそれに加わる。48年2月に資金難から国民リーグが瓦解すると石本は金星スターズの二軍監督に転身し、門前も金星に入団。その後、49年に古巣の阪神に復帰、50年に新球団・大洋へ移籍と目まぐるしく所属先を変え、52年から再び石本と同じユニフォームを着ることになった。大洋の門前と大沢伸夫(一塁手編参照)が石本の誘いを受けてカープ移籍を希望している──との情報を得た球団代表の河口豪は、球団を運営する広島野球倶楽部の会長だった永野重雄(富士製鉄社長)の紹介状を携えて訪れた「隅田川畔の某会社」で資金を受け取り、門前と大沢に30万円ずつ渡して契約を交わしたという[2]。
 辻井に代わって二代目主将となった門前は5シーズン在籍し、56年に39歳で引退した。52〜55年の4シーズンはすべて規定打席に達し、4位に躍進した53年には小鶴誠(外野手編参照)の71打点に次ぐチーム2位の61打点をマーク。守っては長谷川良平、太田垣喜夫(57年以降は備前喜夫)ら草創期の若い投手陣を引っ張った。通算捕手出場数の球団別内訳は阪神302、金星79、大洋221、広島472。最晩年に所属したカープで最も多くマスクを被ったことになる。61〜62年には白石勝巳の後を受けて監督をつとめた。

 門前とともに52年に加入したのが藤原鉄之助(中日捕手編、巨人捕手編参照)だ。戦前の42年に中日に入団し、48年に急映、49年に巨人へ移籍した藤原は、50年の球団創立時に巨人から白石勝巳が移籍する際、「白石さんが広島に行くなら私もいっしょに行きたい」と嘆願した。このときは白石の説得で巨人に残留したが、51年に戦前の正捕手・楠安夫が巨人に復帰したことにより、52年から念願叶ってカープへ移籍する。主に門前のバックアップをつとめ、54年限りで引退した。

 カープの生え抜きで初めて正捕手になったのが、川原政数である。
 37年広島県生まれの地元選手で、尾道西高(現・尾道商)から55年に入団した。2年目の56年に門前と併用され、門前が引退した57年に正捕手となって世代交代を実現する。その後は入団直後に発症した腰痛に悩まされ、加えて、右ヒジ手術、親指骨折、薬指の腱切断、62年7月29日の中日戦(広島市民)でドン・ニューカムと本塁上で激突して1週間意識不明の重傷……と度重なるケガに見舞われ、レギュラーとしてプレイしたのは1シーズンのみだった。
 65年まで控え捕手として在籍したが、「正直に言ってプロに入って良かったのか、悪かったのか、自分でも分からない」と述懐する[3]。引退後はバッテリーコーチ、スコアラー、球団営業部などを歴任し、83年に退団した。

■田中尊の長期政権

 球団創立直後の資金難や解散危機を乗り越え、57年7月24日に新本拠地・広島市民球場が開場する。その翌年、58年から長きにわたって正捕手の座に君臨したのが田中たかしである。

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 田中は36年香川県生まれ。高松商の捕手として54年夏の甲子園に出場し、55年に南海に入団。当時の南海は32歳の筒井敬三と30歳の松井淳が主にマスクを被っていた。捕手陣の世代交代が求められており、田中が入団する前年の54年も、高卒の捕手を3名採用している。和歌山・箕島高出身の松村元助、京都・伏見高出身の山田富一、そしてテストで採用された京都・峰山高出身の野村克也。松村はシーズン途中に退団し、山田は翌55年に登録外選手となってそのまま退団。生き残ったのは野村だけで、そこに1歳下の田中が加わったことになる。野村と田中は、次世代の正捕手を争うライバルだった。
 周知のように、野村は56年に正捕手に抜擢され、以降、日本球界を代表する名捕手への道を歩んでいく。早々に勝負に敗れた田中には、出場機会すら回ってこなかった。一度も一軍に呼ばれることがなく57年にカープへ移籍すると、同年、20試合に出場。ここから新たなキャリアを築いていく。
 翌58年。正捕手の川原政数は腰痛に悩まされ、春季キャンプにギプスをつけて参加する満身創痍の状態だった。田中は4月17日の巨人戦(広島市民)にスタメンで出場し、以降、主戦捕手として起用される。そして、この58年から69年までの12シーズンで、67年を除いてチーム1位の捕手出場数を譲らなかった。50年代末から60年代を通貫する長期政権である。広島で育った山本浩二(46年生まれ)が初めてサインボールをもらったのは田中だったという[4]。
 典型的な〝専守防衛〟型の捕手で、現役通算打率は.196。終盤で代打を出されるケースが多かったためか、規定打席に達したシーズンはない。それでも正捕手の座を譲らなかったのは、投手陣に信頼される技術と人柄があってこそだった。「投手のボールを知り、性格を知る。分業制のいまより、はるかに投手と捕手は一体だった」[5]と語り、備前喜夫、大石清、池田英俊、安仁屋宗八、外木場義郎といった、1960年代の主力投手たちを支えた。外木場は完全試合を1回、ノーヒットノーランを2回記録しているが、65年10月2日阪神戦のノーヒットノーランと68年9月14日大洋戦の完全試合は、ともに田中とのバッテリーで達成したものだ。
 田中の堅実な守備力を示すデータがある。通算捕手出場数と捕逸数について、田中と同時代の主な捕手と比較してみたい。

・田中尊 1423試合/37捕逸=38・5試合に1個
・野村克也 2921試合/207捕逸=14・1試合に1個
・木俣達彦 1998試合/67捕逸=29・8試合に1個
・森昌彦 1833試合/42捕逸=43・6試合に1個
・醍醐猛夫 1698試合/73捕逸=23・2試合に1個
・伊藤勲 1456試合/80捕逸=18・2試合に1個
・岡村浩二 1334試合/57捕逸=23・4試合に1個
・土井淳 1088試合/60捕逸=18・1試合に1個
・和田博実 1086試合/70捕逸=15・5試合に1個
・根来弘光 1066試合/31捕逸=34・4試合に1個

 田中の記録は、森昌彦に次ぐ優秀な数字だ[6]。プロ入り当時のライバルに対して、田中は生涯、ひそかな自負を持ち続けていた。

「野村さんの打撃には絶対にかなわない。でも、守りなら超えられるかもしれない」[7]

「ONLY YESTERDAY」

 72年限りで引退した後は、73年から88年までブルペンコーチ、バッテリーコーチ、総合コーチ、ヘッドコーチを歴任。水沼四郎、道原裕幸、達川光男ら後続の捕手たちを育成するとともに、古葉竹識、阿南準郎監督の参謀格として5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。黄金時代のカープの試合映像を見ると、ベンチの古葉監督、あるいは阿南監督の傍らにピタリと寄り添う田中の姿を見ることができる。89年からフロントに転身し、96年からドミニカのカープアカデミーで育成に従事。カープの礎を築き、黄金時代を裏方として支えた野球人生だった。

 この時代に田中の壁を崩せなかった捕手たちについても触れておこう。

 上田利治は37年徳島県生まれ。徳島海南高から関西大へ進み、村山実(のち阪神)とバッテリーを組んで全日本大学選手権で優勝。即戦力と期待されて59年に入団したが、同年の65試合出場が最多で、実働3年で引退してしまう。入団時から松田耕平オーナーに幹部候補生と期待されており、62年に25歳でコーチとなるが、68年から監督に就任した根本陸夫と対立して69年限りで退団。その後、阪急に移って監督として成功したのは周知の通りだ。上田が退団した翌年に根本がコーチとして広島へ招いたのが関根潤三と広岡達朗で、上田と広岡は、78年に監督として日本シリーズで対戦することになる。

 西山弘二は37年高知県生まれ。学年は上田の1個下になる。土佐高から中央大へ進み、強打の捕手として活躍した。広島にとっては「清水の舞台から飛び下りるほどの大金」[8]を投じて獲得した選手だったが、実働4年、131試合の出場(捕手出場数106)にとどまり、63年限りで引退した。

 田中のバックアップとして、最も安定した働きをしたのが久保祥次である。41年広島県生まれの地元選手で、62年シーズン途中に入団。広陵高時代は軟式野球部で、広島大医学部の事務局に勤めていたときにテストを受けて合格したという異色の経歴を持つ[9]。
 64年以降は二番手捕手として定着し、67年には田中を上回る105試合にマスクを被った。73年に近鉄へ移籍し、同年限りで引退。カープ時代の捕手出場数669は球団歴代7位(2025年終了時)の数字だ。上田や西山のような大学球界のエリートが大成せず、久保のような球歴の捕手が働き場所を得たわけだ。田中にしろ久保にしろ、エリートではない「叩き上げ」が生き残るあたりに、今日まで続くカープらしさを感じることができる。

 なお、65年に入団した衣笠祥雄が66年まで捕手登録だったことも付記しておく。

■水沼四郎と黄金時代

 70年代のカープは野手の世代交代が進み、それが75年のリーグ優勝、79、80年の日本一という〝黄金時代〟となって結実する。69年限りで田中尊がレギュラーを退いた捕手陣の世代交代は、どのように進んだだろうか。
 ここでは70年から81年までを見ていこう。

 旧勢力と新勢力が混じり合う70年代前半の混沌を経て、初優勝の75年に「正捕手=水沼、二番手=道原」という体制が固まる。この一事をもってしても、捕手陣の安定がチーム状態と不可分であるという事実がよくわかるだろう。

 水沼四郎は47年兵庫県生まれ。報徳学園から中央大を経て、68年ドラフト2位で入団した。同年の1位が山本浩二[10](法政大)である。
 1年目の69年から31試合でマスクを被り、当時の監督だった根本陸夫の薫陶を受けた。自身も捕手だった根本は、独特の捕手指導法を実践していた。水沼が回想する。

「根本さんの時代はキャッチャーが3人、4人いたでしょ。(中略)遠征の時は試合が終わったら1時間くらいキャッチャー全員でミーティングや。コーチが全員おる前で根本さんが『おまえ、今日の試合でこういうリードしたけど、どういう意図があったんだ』って聞くわけよ。出てないヤツにも『おまえならどうする?』って。だからベンチにいるとき、こういう場合はこうしたらいいんじゃないかなって考えながら見てたね。試合中も小さいノートを持って気づいたことを全部書いて、バスの中でも書いてた」[11]

『赤ヘル偉人伝』115〜116頁

 当時の一軍捕手陣は、ベテランの田中尊と久保祥次、そして水沼である。田中や久保のリードについて、常に自分なりの意見を言えるようにしておかなくてはならない。根本が用意した環境で多くを吸収した水沼は、徐々に出場機会を増やしていく。
 初優勝イヤーの75年のスタメン捕手は、水沼が75試合、道原(後述)が55試合。ただし、優勝争いが佳境に入った9月7日の巨人戦(後楽園)から最終戦となる10月19日の中日戦(広島市民)まで、22試合続けて道原がスタメンで起用されている。水沼は忸怩たる思いを抱えていたに違いない。
 優勝を決めた10月15日の巨人戦(後楽園)もスタメンは道原だった。そして4−0で広島がリードした9回裏、古葉竹識監督はキャッチャーを水沼に代えた。

「もうワシの出番はないわと思っとったん。そしたら9回に『行くぞ』って言われて。あの時は初めて涙が出てきた。やっぱり嬉しかったね」[12]

『赤ヘル偉人伝』121頁

 水沼は金城基泰を落ち着いてリードし、球団史上最初の〝胴上げ捕手〟になった。
 この75年を境に、水沼は捕手として一回り大きくなった感がある。何より、バッティングが向上した。75年の打率は.208だったが、76年は.250、77年は.251、78年は.271、79年は.277と年々アベレージが上昇。正捕手の座を確かなものにして、79年、80年に連続日本一を達成する黄金時代の扇の要となった。〝江夏の21球〟で語り継がれる近鉄との79年日本シリーズ第7戦で、6回表に決勝点となる勝ち越し2ランを打ったのは水沼だ。9回裏のドラマは幾度も語られるが、その舞台を用意した殊勲打が振り返られることはほとんどない。
 自らが捕球した〝21球〟について、水沼はこんなことを語っている。

「あの21球も最初は水沼と江夏で比べたら知名度が全然、違うからあれは江夏がすごいんじゃと思って全然、しゃべらんかったんよ。こうして人前でしゃべるようになったんは、野球を辞めて(近鉄の監督だった)西本さんと僕とで福山の野球教室に行った時に『あの時はおまえにやられた』と言われてから。西本さんの一言はありがたかったね」[13]

『赤ヘル偉人伝』127頁

 2年続けて同じ対戦となった80年の日本シリーズでも、水沼は貴重な一打を打っている。近鉄の2連勝で迎えた第3戦。3−3で迎えた9回表に井本隆からタイムリー二塁打を打ち、これが決勝点になってシリーズの流れを変えたのである。
 83年に中日へ移籍し、同年限りで引退した。その後は中日で86年までバッテリーコーチをつとめ、さらに、古葉が監督に就任した大洋のスカウトに転身。97年に広島へ戻り、野球界から離れて飲食店を経営している。

 水沼とポジションを争った道原裕幸[14]は、49年山口県生まれ。山口県桜ヶ丘高から芝浦工大へ進み、71年ドラフト1位で入団した。
 71年といえば、水沼が田中尊と久保祥次の出場数を上回って正捕手への足がかりをつかんだ年だが、そのオフのドラフトで、水沼の3学年下になる捕手を1位で獲得したのだ。指名順を決める予備抽選が行なわれていた時代だが、同年の広島は4番目と早い指名順で、他にも多くの有力選手を指名できる状況だった。当時の監督は前述の根本陸夫である。根本は「あえて」伸び盛りの水沼に新たなライバルを突きつけ、両者の競争を煽って新世代の正捕手を固めようと考えたのではないか。
 結論からいえば、道原はカープ一筋13年のプロ生活で、終始「二番手捕手」だった。最も存在感を示したのは75年の初優勝イヤーだろう。自己最多の出場数を記録し、前述のように、終盤の優勝争いの局面ではスタメンで起用された。さらに阪急との日本シリーズでも6戦中5戦にスタメンで出場し、9打数3安打で打率.333。ちなみに公式戦の打率は.201だ。第6戦では2回表に足立光宏から先制の2点タイムリー。公式戦ではわずか3打点の道原が、シリーズの1打席で2打点をあげた。
 84年限りで引退した後は、一軍・二軍のバッテリーコーチと寮長を長くつとめた。

 70年代前半に水沼、道原と競い合ったのが西沢正次まさじだ。47年愛知県生まれで、豊川高から河合楽器を経て69年ドラフト4位で入団した。水沼の1学年下、道原の2学年上になる。
 田中尊が引退し、久保祥次が移籍した73年に水沼に次ぐ出場数を記録すると、74年は水沼を上回る90試合にマスクを被り、規定打席には達しなかったが打率.267、6本塁打をマークした。ところが同年オフ、2対2の交換トレードで太平洋への移籍を通告される[15]。

「本当に行きたくなかった。苦労してやっとレギュラーになれたのになんで行かないかんのや、と渋ったが江藤監督(注・太平洋監督の江藤慎一)に乞われたということで承服せざるを得なかった」[16]

「あの鯉人たちは今」第33回

 74年シーズン終了後に森永勝也監督が解任され、打撃コーチとしてアメリカから招いたジョー・ルーツが監督に昇格した。ルーツは球団代表の重松良典とタッグを組み、安仁屋宗八、大石弥太郎、白石静生といった主力投手をはじめ、外野手の上垣内誠、渋谷通らを次々とトレードに出して〝血の入れ替え〟を断行。西沢もその流れに巻き込まれた形だ。移籍した太平洋は77年にクラウン、79年に所沢に移転して西武となり、西沢は80年まで在籍して引退した。皮肉なことに、広島も西武も、西沢が去った直後からチームが黄金時代を迎えることになる。

■達川光男の80年代

 78年春季キャンプの前日。ルーキーの達川光男は、母校・広島商の先輩である三村敏之の部屋に挨拶に行った。三村は「ちょっと、バットを振ってみい」と言って、達川にスイングをさせた。三村はため息をついて、こう言ったという。

「おまえ、なんでプロに入ったんじゃ。四郎さん(水沼)もミチ(道原)もたいしたバッティングはせんが、もうちょっとましだぞ」[17]

『熱烈!カープ魂』71頁

 先輩を嘆かせたルーキーは、その4年後、水沼と道原を抜くことになる。

 55年広島県生まれの達川は、広島商の正捕手として73年春の甲子園で準優勝、同年夏の甲子園で優勝。東洋大へ進み、77年ドラフト4位で入団した。カープは当初、達川を5位か6位で指名する予定だったが、大洋の関係者に「4位でいかないんなら、ウチが指名しますよ」と言われて、急遽、順位を繰り上げたという[18]。77年のカープで一軍の試合に出場した捕手は水沼と道原の2人だけで、20代前半の若手で戦力になりそうな捕手がいない。慌てて順位を繰り上げた背景には、そのようなチーム事情もあっただろう。
 アマチュア時代に錚々たる実績を残した達川だが、先輩2人の壁は簡単に破れず、78年から81年までの4シーズンを控えとして過ごす。その間、黙々と投手の球を受け続け、キャッチングの技術を磨いていった。

「古葉監督は『ユタカ(江夏豊)のボールをノーサインでも捕れるようになったら、試合でも使ってやる』と言ってくれた。それを江夏さんに伝えたら、言われたよ。『もっと、もっとキャッチングの練習をしてこい。今のままじゃ下手すぎる。10万球受けたら、考えてやってもいいから』(中略)野手がフリーバッティングするときのボールも延々と受け続けたよ。ブルペンでも、どこでも受けた」[19]

『熱烈!カープ魂』17頁

 また、入団時は捕手だった衣笠祥雄は、こんな言葉で達川を励ましたという。

「おれがどうしてキャッチャーをやめたか、わかるか? おまえならわかるだろう。嫌になったんだよ。ピッチャーはどいつもこいつもワガママだから。真っ直ぐのサインを出してるのにカーブが来たり、カーブのサインを出したら真っ直ぐ投げたり。そういうやつらをリードすることに飽き飽きしたんだよ。(中略)おまえはキャッチャーをやめちゃいかん。おまえはおれと違って不器用だろう。キャッチャーしかできないんだから。どんなにつらくてもやめるな。辛抱してやれ」[20]

『広島力』135頁

 そして、82年シーズン。水沼は35歳、道原は33歳、そして達川は27歳になる。各月のスタメン出場数は以下のようになった。

・4月 道原7、水沼6、達川5
・5月 水沼12、達川11、道原1
・6月 達川18、水沼1、道原1
・7月 道原10、達川8
・8月 道原18、水沼4、達川1、木本茂美1
・9月 達川10、道原3、木本3
・10月 達川10

 こうして見ると、チームトップの捕手出場数を記録したとはいえ、「正捕手」として起用されたのは5〜6月の一時期と9月以降である。82年のカープは5年ぶりにBクラス(4位)に沈んだシーズンで、9月以降は来季を見据えて達川を優先的に起用したと思われる。つまり、82年の9月と10月が「正捕手能力検定」の最終試験だった。そして同年オフ、長く正捕手だった水沼が中日に移籍。こうして翌83年から、達川は不動の正捕手となった。

 92年まで正捕手だった達川は、その間、リーグ優勝3回、日本一1回。ベストナインとゴールデングラブ賞を各3回受賞した(ともに84、86、88年)。ベストナインもゴールデングラブ賞も、カープの捕手が受賞したのは達川が初めてである。
 達川が正捕手だった時代、すなわち80年代から90年代初頭のカープは「投手王国」と呼ばれ、北別府学、山根和夫、大野豊、川口和久、津田恒実、小林誠二、川端順、金石昭人、長富浩志、佐々岡真司など、好投手を次々と輩出した。達川のキャッチャーとしての最大の功績は、投球スタイルも性格もバラバラなこれらの投手たちを巧みに操縦したことだろう。良い捕手がいなければ「投手王国」は成立しないのだ。
 達川光男とは、どんな捕手だったのか。バッテリーを組んだ投手たちの証言を並べてみよう。

「オレの真っすぐが、まったく走っていないというときがあったんだけど、そのとき達川さんはカーブばかり要求してきていた。でも、そのカーブをたくさん投げている間に、途中から真っすぐも速くなってキレも良くなっていくんだよね。それで最後完投したという試合も結構あった。カーブをたくさん投げることで必然的にヒジの位置が高くなり、腰の回転がスムーズになるから、それで真っすぐにも角度ができて調子を取り戻すという流れになっていった。達川さんはそういう部分をしっかり分かっていたんだと思う。達川さんはオレの投球やクセをよく知っていたからね。オレだけじゃない。とにかく達川さんはチームのすべての投手とよく話して、その投手の性格と投球の特長を見抜いてのリードが多かった」(川口和久)[21]

「投手・川口和久が語る名捕手の条件」

「達川に助けられた部分も大きかったと思いますよ。ほとんど首を振ることはなかったですし、投げやすかったですね。また彼はキャッチャーとしての洞察力にも優れてたし。だから自分が投げたいボールと違うボールを押してくることもあるんですよ。僕はサインがイヤだったら首を振らずにジーッと見とくんです。大体は別のサインを出すんだけど、それでも変えない時がたまにあるんです。そういうときは『よしっ、わかった。そこまでおまえが言うなら投げよう』って、そのくらい信頼してましたね」(大野豊)[22]

『赤ヘル偉人伝』38頁

「一度、ここで内角のストレートはないだろうなと思っていた時にそのサインが出て、1ストライク目を取ったら、また次も同じサインが出た。甘く入って打たれたら危険な状況でね。しかし、その2球続けたストレートに相手はピクっとしただけで、まったく打てなかった。達川さんは、特に私のようなタイプに対しては、何通りものシナリオを用意していましたよ。たった1人を打ち取るためにね。それと記憶力がずば抜けて素晴らしかった。ある試合で急にマウンドに近づいてきて『お前、覚えとるか?』と言って、打席に立っている打者を何年か前に抑えたシーンを話し始めるんですよ。こっちはそんなこと覚えてないのに『あの球で抑えたろう』と言って、私をその気にさせるんです」(北別府学)[23]

「達川さんのシナリオ通りに投げれば打たれなかった」

 83年から正捕手に君臨した達川だが、その間、最大のライバルとなったのが山中潔だ。
 61年大阪府生まれで、PL学園から79年ドラフト4位で入団。5年目の84年から一軍に帯同するようになった。達川は「若いライバル」として山中に脅威を感じていた。

「こいつ(注・山中)はキャッチングがうまい。ワンバウンドを捕るのも上手じゃけぇ。ワシは2割5分も打てんかったけど、山中は2割7分くらい打つ力があったから」[24]

『熱烈!カープ魂』37頁

 二軍での下積み時代に、山中がキャッチングの技術を学んだのは水沼だった。一軍練習に呼ばれたある日、山中は水沼から「おれのミットを磨いておけ」と命じられる。水沼のミットを手にした山中は、あることに気づく。

「芯の位置が違うんですよ。簡単に言うと、ぼくのミットの芯は、指を入れる先のほうにあった。ところが、水沼さんのミットの芯は、親指の付け根寄りのほうにある。ボール1個、あるかないかの差なんだけれど、受けるときにはこの差がものすごく大きい」
「水沼さん、教えてくれたんですよ。ミットを磨けと言って、芯の位置が違うぞ、と」[25]

『キャッチャーという人生』48頁

 85年は、達川と山中の距離が最も縮まった年である。同年の2人の成績を比較しよう。

・達川 捕手出場数94/打率.230/4本塁打/31打点
・山中 捕手出場数84/打率.276/6本塁打/22打点

 山中は、達川を完全に射程圏内にとらえた。打力で勝り、キャッチング技術でも一日の長がある。フォークを多投する大野豊が登板するときは、山中がマスクを被るのがルーティンになっていた。それを象徴するのが阪急との84年日本シリーズ第4戦(西宮)、2−2で迎えた8回裏のシーンだ。ワンアウト2、3塁のピンチで古葉竹識監督は3番の蓑田浩二を敬遠して満塁策をとり、この年三冠王のブーマー・ウェルズの打席で大野を投入した。古葉がマウンドで大野に「とにかく落ちるボールを投げろ」と指示すると、マスクを被っていた山中が「ワンバウンドでいいですよ。全部止めますから」と言い、結果、ブーマーはワンバウンドのフォークを振って三振に倒れた[26]。この場面で古葉の信頼を得た山中は、翌85年に出場機会を増やしたのである。後年、古葉は東京国際大の監督を退任するとき、後任監督に山中を招聘している。

 達川の幸運は、86年に監督が古葉から阿南準郎に代わったことだ。阿南は、達川の目に見えない力を高く評価していた。以下は当時の阿南のコメントだ。

「タツにはピッチャーの状態、相手バッターの狙い球がよく見えている。それが、攻めるところは攻め、引くところは引くインサイドワークにつながっとるんや」[27]

『キャッチャーという人生』76頁

 86年の阿南は、130試合中128試合で達川をスタメンで起用した。同年のカープは2年ぶりにリーグ優勝を果たし、達川の地位は盤石となる。山中は88年オフにダイエーに移籍し、以降、中日、日本ハム、ロッテと渡り歩いて96年まで現役を続けた。

 山中の移籍後、達川の二番手捕手となったのが植田幸弘である。64年和歌山県生まれで、南部高から82年ドラフト外で入団した。93年まで在籍し、同年オフに投手の鈴木哲とのトレードで西武へ移籍。西武では伊東勤の控えをつとめ、99年限りで引退した。山中と同様、二番手捕手としてのプロ野球人生だったが、91年の広島、94年の西武と、異なるリーグで日本シリーズに出場している。

■西山秀二の90年代

 達川の引退は、唐突だった。
 37歳になる92年シーズンは、例年より減ったとはいえ、捕手出場数はまだチームトップだった。しかし、10月4日の巨人戦(広島市民)の試合開始前、球団から達川の引退が発表された。会見もなく、マスコミへの事前の情報提供もない。いつ引退を決めたのかと問われた達川は「きょう決めた。球場に来てから。3時5分頃じゃったかのう」[28]とだけ答えた。球団との間に何があったのか、引退の背景については何も語らなかった。同日の試合で7回裏に代打で出場した達川はそのままマスクを被り、最後は盟友の大野豊とバッテリーを組んで現役を締めくくった。
 ひとつの時代があっけなく幕を閉じ、93年から新たな時代が始まった。

 西山秀二は67年大阪府生まれ。八尾市立大正中学の野球部で、桑田真澄(のち巨人、パイレーツ)とバッテリーを組んでいた。西山によれば、当時の桑田は「ほぼ打たれることがなかったです。構えたところにしかボールがこなかった」。時間は前後するが、プロ野球の世界に入った西山は、通常とは違う意味のカルチャーショックを受けたという。

「中学時代に桑田と普通にやってたことが、プロ野球に入ってみると当たり前ではなかったわけですよ。『え? キャッチャーのサインどおり投げられないやつがプロ野球に入れるんですか?』って。桑田の球を受けていたから、そういう感覚になってました」[29]

「西山秀二の『ザ・捕手目線』」第4回

 西山は上宮高に進んだが、桑田と清原和博を擁するPL学園に阻まれ、甲子園には出場できなかった。高校2年の大阪大会でPLと対戦したとき、打席に入った清原のスパイクに足で砂をかけたことがある。

「その頃は『PLに負けるか!』っていう気持ちでやってるから、やっぱり喧嘩腰になってたんでしょうね、お互いが。若いし、やっぱり」[30]

「西山秀二の『ザ・捕手目線』」第4回

 早稲田大進学と思われていた桑田を巨人が1位で単独指名し、巨人を熱望していた清原の交渉権を西武が獲得した85年のドラフト。世間がKKコンビの明暗に騒然とする中、西山は4位指名で南海に入団した。しかし、2年目の87年シーズン中に広島へのトレード[31]を告げられる。南海に入団するが、一度も一軍で出場することなく広島へ移籍──それは、かつての田中尊とまったく同じパターンだ。新旧のカープの正捕手を結ぶ、奇妙な因縁である。西山自身は「正直、南海は待遇面などで、プロのようでプロのチームじゃないような感じ」だったため「セ・リーグに行けることがうれしかった」[32]という。
 初めて一軍でマスクを被ったのは90年。92年に達川を脅かす二番手捕手となる。とはいえ、リード面では苦労した。北別府学にはサインが合うまで首を振られ、大野豊に「好きにリードしてみろ」と言われてサインを出したらメッタ打ちされた。達川に教えを請うと「ニシ、お前が思ったサインとは反対のボールを投げさせろ」[33]。百戦錬磨の先輩による〝教育環境〟に恵まれ、達川引退後の93年から、すんなりと後継の正捕手の座につくことができた。
 ただ、西山が正捕手になった時代は、カープのチームカラーの転換期でもあった。それまで「投手王国」を形成していたピッチャーたちの力が落ち、一方、野手では野村謙二郎、前田智徳、江藤智、金本知憲、緒方孝市といった才能が開花する。いつの間にか「打高投低」のチームに変貌していたのである。キャッチャーである西山には、充実した投手陣をリードしていた水沼や達川が味わうことのない苦労があったはずだ。また、正捕手としての優勝体験がないことが、水沼や達川に比べて、球団史における存在感を薄くしている面は否めない。だが、西山が残した実績は、2人の「優勝捕手」に劣るものではない。
 94年と96年には、ベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞。古田敦也(ヤクルト)、谷繁元信(大洋)、中村武志(中日)、村田真一(巨人)ら強力なライバルがいる中で獲得した、価値あるタイトルだ。93年と97年には、彼らを抑えてリーグ最多の盗塁刺を記録している。また96年にはリーグ8位の打率.314をマーク。規定打席に到達して3割を打ったカープの捕手は西山が初めてだ[34]。
 94〜98年に監督をつとめた三村敏之は、守備シフトのサインはすべてキャッチャーに任せていた[35]。99年5月8日の中日戦(広島市民)で佐々岡真司との同級生バッテリーでノーヒットノーランを達成した際、佐々岡は「リードどおり投げただけ」とコメントしている。指揮官やチームメイトに信頼される技量を備えていた西山は、正捕手の座を譲った後も04年までカープに在籍したが、コーチ就任の打診を断って巨人へ移籍し、05年限りで引退した。

 当初、球団が〝ポスト達川〟として考えていたのは瀬戸輝信だったかもしれない。
 69年福岡県生まれ。福岡大大濠高から法政大へ進んだ。高校時代は通算33本塁打、大学時代は日米大学野球に3年連続出場。90年ドラフトでカープは亜細亜大のサウスポー小池秀郎を1位指名したが8球団が競合して抽選で敗れ、その〝外れ1位〟で指名したのが瀬戸だった。
〝外れ〟とはいえ、大卒ドラ1の瀬戸は、移籍組で叩き上げの西山とは対照的なエリートだ。当時の監督は法大の先輩である山本浩二だったし、小早川毅彦、西田真二など法大出身者もチームに数多い。大きな期待をかけられていたわけだが、前掲の年度別出場数が示すように、達川引退後の正捕手レースで2歳年上の西山に完敗した。西山が故障で離脱した98年に唯一レギュラーをつとめたが、それ以外は「二番手捕手」として過ごし、04年限りで引退。大卒ドラ1で入団し、「二番手捕手」として生きた球歴は道原裕幸と同じだ。カープの捕手史には、随所でこのように奇妙な反復がある。

 02年にチームトップの捕手出場数を記録した木村一喜は、77年山梨県生まれ。帝京三高から日通浦和を経て99年ドラフト2位で入団した。社会人時代に都市対抗準優勝の実績があり、1年目から一軍に帯同。3年目の02年は打撃不振の西山を上回る105試合にマスクを被り、規定打席不足ながら打率.314をマークする。だが、03年以降は後述する〝守備型捕手〟に出番を奪われ、07年オフに戦力外通告を受ける。08年は楽天に在籍し、同年限りで引退した。

■石原慶幸の長期政権

 97年の3位を最後にカープは低迷期に突入し、98年から15年連続でBクラスに沈む。石原慶幸はそんな時代に正捕手となり、やがて来る再興期まで、長く現役を続けた。

 石原は79年岐阜県生まれ。県岐阜商から東北福祉大を経て、01年ドラフト4位で入団した。「西山・瀬戸時代」が終わりつつある頃で、チームは新世代の捕手を欲していた。入団時のバッテリーコーチだった道原裕幸は当時を回想する。

「石原はとにかく我慢強かった。防具のないところにボールが当たることがあるでしょう。もちろん痛いんですけどね、痛がらないんですよ、あいつは。キャッチャーが痛がったりしたらダメなんです。切り替えができないと」[36]

「〝恩師〟が見た広島・石原慶幸が信頼される理由」

 03年、山本浩二監督はその石原を正捕手に抜擢する。この時点で5年連続Bクラス。思い切った改革が必要だった。捕手の世代交代は改革の一環だっただろう。
 その後、05〜07年の3シーズンは倉義和(後述)と併用されるが、08年以降は正捕手の座を固め、09年WBCでは〝第三捕手〟として日本代表に選出された。盗塁阻止率は決して高くない(通算阻止率は.289)。打撃成績も地味(通算打率は.236)。それでも高く評価されたのは、優れたキャッチング技術と落ち着いたインサイドワークがあったからだ。前出の道原は石原の技術をこう評価する。

「例えばキャッチングです。際どいところをボールと判定されても、ちゃんと捕ってくれればピッチャーも納得するわけですよね。『仕方がない。いまのはええ球やったな』と。でも、ミットが流れてしまったら『しっかり捕ってくれよ。ストライクじゃないか』となってしまう。石原はそういうことができる。ほかにもピンチのときの間の取り方。他球団の捕手を見ていると『もう少しゆっくり返球してやれよ』と感じることもある。しかし石原は落ち着いて、ちゃんと間を取って投手に返球できるんです」[37]

「〝恩師〟が見た広島・石原慶幸が信頼される理由」

 10年、13年に前田健太とともに最優秀バッテリー賞を受賞したが、それ以外は地味なキャリアを積み重ねていた石原に光が当たったのは、37歳になる16年シーズンだ。前年、若手の會澤翼(後述)が出場数で上回り、石原の時代は幕を引くのかと思われた。だが、この年のカープは首位を独走し、25年ぶりのリーグ優勝へ突き進んでいた。そうなると、ベテランの安定した技術と落ち着きが必要になる。石原は3年ぶりに100試合以上マスクを被って優勝に貢献するとともに、初めてベストナインとゴールデングラブ賞に選出された。
 20年まで現役を続け、カープひと筋で実働19年。18年5月11日の阪神戦(マツダ)で通算1000安打を達成した。38歳8ヶ月での1000安打到達は、史上最年長記録だ。そして、カープの捕手で1000安打に到達したのは石原だけである[38]。
 冒頭に示したように、通算捕手出場数1598は球団歴代1位(2025年終了時)。引退試合には黒田博樹と新井貴浩がサプライズで登場した。黒田と新井がチームに復帰した際、彼らと若手選手とをつなぐ役割を果たしたのが石原だった。15〜20年に在籍し、リーグ3連覇に貢献した左腕投手のクリス・ジョンソンは「石原をアメリカに連れて帰りたいよ」と語り、常にバッテリーを組んでいた。
 なお、石原には「6年連続サヨナラ打点」という珍しい記録がある。その内訳は以下の通りだ。

・09年 6月18日の楽天戦でサヨナラ本塁打
・10年 4月13日のヤクルト戦でサヨナラ本塁打
・11年 5月14日の巨人戦でサヨナラ押し出し死球
・12年 7月17日の中日戦でサヨナラスクイズ(記録は内野安打)
・13年 9月17日の阪神戦でサヨナラ本塁打
・14年 8月27日のヤクルト戦でサヨナラ内野安打

 石原とポジションを争い、「二番手捕手」としてチームを支えたのが倉義和だ。75年京都府生まれで、京都成章高ではのちにメジャーリーガーとなる大家友和とバッテリーを組んでいた。京都産業大を経て97年ドラフト5位で入団。石原が春季キャンプ中に故障した05年は106試合にマスクを被り、06年、07年はほぼ併用の形で熾烈な正捕手争いを展開した。だが、当事者2人は「ライバル」という関係性とは微妙に違っていたようだ。

「石原とはよくメシにも行きました。そういうときは黒田さんなど投手を交えて『何をどうしていかないといけないのか』とよく話をしていました。(中略)ライバル関係を強調してチームが勝てるならそうしていたでしょうけど、そうじゃない。蹴落とすようなことは年下の選手に与える影響もよくないと思っていましたし、同じ方向を向いてやっていくことが大事だと」[39]

「黒田の専属捕手・倉義和が語るカープ人生」

 発言の中に登場する黒田博樹の登板時には常にバッテリーを組み、12年4月6日のDeNA戦(横浜)では前田健太とのバッテリーでノーヒットノーランを達成した。16年に二軍バッテリーコーチ兼任となり、同年限りで引退してコーチ専業になった。

■「打てる捕手」の時代──會澤翼から坂倉将吾へ

 ここまでカープの捕手史は、総じて「専守防衛型」で占められてきた。しかし2010年代後半以降、その流れが変わろうとしている。攻守兼備、すなわち「打てる捕手」の登場である。

 會澤翼は88年茨城県生まれ。水戸短大付高から06年高校生ドラフト3位で入団した。初めて一軍で出場したのは3年目の09年(15試合/捕手出場数9試合)。その年のオフ、石原に食事に誘われ、こんな言葉をかけられた。

「お前は2番手を目指すな。2番手を目指したら、そこまでの選手になる。お前は1番手を目指せ」[40]

「広島を牽引する2人の熱血捕手」

 會澤が頭角を現したのは8年目の14年シーズンで、石原の負傷もあり、60試合にマスクを被る。特筆すべきはその打撃成績だった。同年の石原と會澤を比較しよう。

・石原 193打数37安打/打率.192/4本塁打/19打点
・會澤 179打数55安打/打率.307/10本塁打/30打点

 こうして足がかりをつかんだ會澤は、15年、16年の石原との併用時代を経て、17年から正捕手の座についた。16〜18年のカープ3連覇の中で、石原から會澤への継承が行なわれたのである。連覇を続ける過程で正捕手が交代するケースは珍しいが、違う見方をすれば、チーム力を落とさずバトンタッチが完了する、理想的な世代交代ではないだろうか。
 17〜19年に3年連続でベストナインを受賞し、18年は規定打席に足りなかったが打率.305をマーク。19年のプレミア12で日本代表に選ばれ、韓国との決勝戦でスタメンマスクを被って優勝に貢献した。後述する坂倉将吾の台頭後も要所でマスクを被り、24年6月7日のロッテ戦(マツダ)でノーヒットノーランを達成した大瀬良大地は、自身のブログに「一度も首を振らず、信頼して思い切り投げられる配球をしてくれた」と會澤への感謝を綴っている[41]。
 21年12月に日本プロ野球選手会の第10代会長に就任。カープの選手が会長に就任するのは正田耕三以来2人目[42]、捕手としては古田敦也、嶋基宏、炭谷銀仁朗に続く4人目。12年以降、嶋、炭谷、會澤と3代続けて捕手が会長をつとめている。

 會澤は19年に国内FA権を取得したが、権利を行使せずカープに残留。だが20年から次々と故障に見舞われ、出場機会を減らしてしまう。そこに台頭したのが坂倉将吾だ。
 98年千葉県生まれで、會澤よりも10歳若い。名門・日大三高で「4番キャッチャー」としてプレイし、16年ドラフト4位で入団。1年目からウエスタンリーグで99試合に出場し、リーグ2位の打率.298をマークして非凡な打撃センスが注目された。
 21年は離脱した會澤に代わってマスクを被るだけでなく、4番・鈴木誠也の後を打つ5番打者としても欠かせない戦力となり、捕手で62試合、一塁手で62試合出場。初めて規定打席に到達してリーグ2位の打率.315を記録した。22年は主に三塁手として出場し、23年に初めて100試合以上でマスクを被った。24年は捕手76試合、一塁手51試合。同年のプレミア12で代表の正捕手をつとめ、打率.444(18打数8安打)、OPS1・282で大会ベストナインに選出された。
 25年はより捕手に専念したが、打撃成績は下降。今後の起用法が注目されるが、「打てる捕手」として坂倉が定着できるか否かは、カープのみならず日本代表の編成にも影響を与えそうだ。

■総論──「二番手捕手」の系譜

 カープの正捕手は総じて長命、かつ在籍年数が長い。田中尊、水沼四郎、達川光男、西山秀二、石原慶幸と、歴代の正捕手はすべてカープで1000試合以上マスクを被っており、會澤翼も1000試合が射程圏内だ。
 2リーグ分立の50年からNPBに加わった〝後発〟球団であることを考えると、1000試合以上出場の捕手が5名もいるのはきわめて特徴的だ。長い球団史を持つ〝戦前組〟の球団──巨人の4名(森昌彦、山倉和博、村田真一、阿部慎之助)、阪神の2名(矢野輝弘、梅野隆太郎)、中日の3名(木俣達彦、中村武志、谷繁元信)よりも多いのである。

 さらに特徴的なのは、各時代に確固たる「二番手捕手」がいることだ。田中尊に対する久保祥次、水沼四郎に対する道原裕幸、達川光男に対する山中潔、西山秀二に対する瀬戸輝信、石原慶幸に対する倉義和。彼らは、正捕手が故障や不調の際に穴を埋めるバックアップ要員というだけではない。正捕手と遜色ない技量を持ち、いつレギュラーが入れ替わってもおかしくない存在だった。道原と瀬戸はドラ1のエリートだし、文中で触れたように、達川は山中にレギュラーを奪われかけた。別の言い方をすれば、優秀な「二番手」からの刺激が常にあったからこそ、正捕手たちは気を緩めることなく研鑽を積み、コンディションに気を配り続けたのではなかったか。それが、カープの正捕手が長命を保った背景ではないだろうか。
 そう考えると、石原慶幸が會澤翼にかけた「お前は2番手を目指すな。2番手を目指したら、そこまでの選手になる。お前は1番手を目指せ」という言葉が、非常に深いものとして伝わってくる。カープの捕手たちは、正捕手と二番手捕手との間に展開される熾烈で残酷な戦いについて、誰よりもよく理解しているのだ。(了)

参考文献・資料

「広島東洋カープ70年史」(ベースボールマガジン社、2020)
「広島東洋カープ60年史」(ベースボールマガジン社、2009)
「広島東洋カープ 黄金時代の記憶」(ベースボールマガジン社、2014)
「1957−2008 広島市民球場とカープ野球」(ベースボールマガジン社、2019)
「1975−1985 古葉カープ 赤ヘル伝承」(ベースボールマガジン社、2022)
「1989−2000 90's広島東洋カープ」(ベースボールマガジン社、2021)
『V1記念 広島東洋カープ球団史』(中国新聞社、1976)
関三穂・編『燃える赤ヘル軍団 広島カープ球団史』(恒文社、1979)
河口豪『栄光の広島カープ 風雪25年』(恒文社、1975)
河口豪『カープ風雪十一年』(青志社、2016。原著はベースボールマガジン社、1960)
西本恵『日本野球をつくった男 石本秀一伝』(講談社、2018)
グレート巨砲『赤ヘル偉人伝 広島カープ黄金戦士かく語りき』(白夜書房、2016)
堀治喜『カープ猛者列伝 私家版』(文工舎、2007)
堀治喜『全身野球魂 長谷川良平』(文工舎、2007)
大野豊、達川光男『熱烈!カープ魂』(ベースボールマガジン社、2013)
達川光男『広島力』(講談社、2019)
赤坂英一『キャッチャーという人生』(講談社、2009)
『我が道 古葉竹識』Kindle版(スポーツニッポン新聞社、2018)
「野球小僧」2012年8月号(白夜書房)
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
「ベースボール・レコードブック」(ベースボールマガジン社)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)

Baseball-reference.com

NPB個人年度別成績
スタメンアーカイブ
スタメンデータベース
「あの鯉人たちは今」第14
週刊ベースボールONLINEONLY YESTERDAY
「あの鯉人たちは今」第33
週刊ベースボールONLINE「投手・川口和久が語る名捕手の条件」
デイリースポーツONLINE「達川さんのシナリオ通りに投げれば打たれなかった」
現代ビジネス「西山秀二の『ザ・捕手目線』」第4回
週刊ベースボールONLINE「プロ野球回顧録」
週刊ベースボールONLINE「〝恩師〟が見た広島・石原慶幸が信頼される理由」
web Sportiva「黒田の専属捕手・倉義和が語るカープ人生」
Number Web「広島を牽引する2人の熱血捕手」
「大瀬良大地オフィシャルブログ」


[1] 『全身野球魂 長谷川良平』27頁
[2] 『カープ風雪十一年』70頁
[3] 「あの鯉人たちは今」第14回
[4] 「広島東洋カープ70年史」17頁
[5] 「ONLY YESTERDAY」
[6] 『プロ野球記録大鑑』960頁による。
[7] 「ONLY YESTERDAY」
[8] 『V1記念 広島東洋カープ球団史』291頁
[9] 『V1記念 広島東洋カープ球団史』307頁
[10] 当時は「浩司」。
[11] 『赤ヘル偉人伝』115〜116頁
[12] 『赤ヘル偉人伝』121頁
[13] 『赤ヘル偉人伝』127頁
[14] 72〜79年は「博幸」。
[15] 広島から西沢と投手の松林茂、太平洋から投手の三輪悟と内野手の米山哲夫。
[16] 「あの鯉人たちは今」第33回
[17] 『熱烈!カープ魂』71頁
[18] 『広島力』114頁
[19] 『熱烈!カープ魂』17頁
[20] 『広島力』135頁
[21] 「投手・川口和久が語る名捕手の条件」
[22] 『赤ヘル偉人伝』38頁
[23] 「達川さんのシナリオ通りに投げれば打たれなかった」
[24] 『熱烈!カープ魂』37頁
[25] 『キャッチャーという人生』48頁
[26] 「我が道 古葉竹識」Kindle版
[27] 『キャッチャーという人生』76頁
[28] 『キャッチャーという人生』154頁
[29] 「西山秀二の『ザ・捕手目線』」第4回
[30] 「西山秀二の『ザ・捕手目線』」第4回
[31] 森脇浩司、永田利則(いずれも内野手)と西山プラス金銭のトレード。
[32] 「プロ野球回顧録」
[33] 「プロ野球回顧録」
[34] 2021年に.315を打ちリーグ2位の坂倉将吾は捕手62試合、一塁手62試合。96年の西山は捕手123試合。
[35] 「野球小僧」2012年8月号 127頁
[36] 「〝恩師〟が見た広島・石原慶幸が信頼される理由」
[37] 「〝恩師〟が見た広島・石原慶幸が信頼される理由」
[38] 2位は達川光男の895安打。
[39] 「黒田の専属捕手・倉義和が語るカープ人生」
[40] 「広島を牽引する2人の熱血捕手」
[41] 「大瀬良大地オフィシャルブログ」
[42] 新井貴浩は阪神在籍時に会長になった。


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