ポジション系譜学・広島一塁手編(2025ver.)
■初代主将・辻井弘と大沢伸夫
2リーグ分立の1950年から加入した〝後発〟球団は、当然ながら、他球団からの移籍組と新人選手でチームを構成せざるをえない。即戦力になる新人はほとんどいないから、必然、主力は移籍組となる。同じセ・リーグの大洋もそうだったように、草創期の一塁手は移籍組のベテランを中心にやりくりすることになった。
まずは、50年から56年までの出場数を見よう。
辻井弘(球歴は大東京〜松竹一塁手編参照)は、カープの球団史において3つの「初代」という肩書を持つ。「初代主将」「初代4番打者」そして「初代正一塁手」である。
大陽ロビンスに所属し、48年にリーグ4位の打率.298をマークした実績を持つ辻井がカープへ移籍したのは、大陽の監督だった石本秀一が、自身の故郷である広島に誕生した新球団の初代監督に就任したことによる。石本は大陽から数名の若手選手を引き連れてきたが、唯一の計算できるベテランとして、辻井を強引に譲り受けた。いわば、石本のとっておきの手土産だったのである。50年の開幕直後に33歳となる辻井は、巨人から移籍した助監督兼任の白石勝巳より1歳年上で、野手陣の最年長[1]。年齢的にも、石本監督との関係性からも、初代主将に相応しい存在だった。苦しい球団財政を慮って、大阪遠征の際には若手選手を実家に泊めたこともあったという[2]。
50年3月10日、西日本戦(平和台)。記念すべき公式戦初試合に「4番ファースト」で出場し、4打数3安打2打点と、さすがの働きを見せる。シーズンを通してほぼフル出場し、打率.294、5本塁打、67打点。打率は白石に次ぐチーム2位、打点も樋笠一夫に次ぐチーム2位。4月19日の中日戦(広島総合)では6回裏に服部受弘から逆転満塁本塁打を打ち、詰めかけた観客を熱狂させた。試合後に辻井は「ファンの声援が打たせてくれた」と声を詰まらせて語ったという[3]。今では誰もが口にする陳腐なコメントだが、原爆投下からわずか5年後の広島で、誕生したばかりの新球団の主将が発した言葉として聞けば、これほど重みのあるコメントはないだろう。
翌51年は捕手に転向し、同年オフに国鉄へ移籍したため、辻井のカープ在籍は2年、正一塁手のキャリアは1年で終わった。だが、球団初年度を支えた選手として忘れてならない存在である。
武智修は25年愛媛県生まれ。松山商から43年に阪神に入団した〝戦前派〟の選手だ。当初から投打の二刀流で起用され、阪急に在籍した49年の出場数は投手26、遊撃手20、二塁手11。50年に移籍したカープでは投手で登録されたが、10試合に登板して3勝6敗、防御率6・49。一方、打者としては63安打を打って打率.265。打力を生かすため翌51年は主にファーストで起用され、それによって辻井が捕手に回った。同年はリーグ7位の打率.314とキャリアハイの数字を残した。52年は大沢伸夫(後述)の加入でセカンドに転向し、同年オフに近鉄へ移籍する。
大沢伸夫[4](球歴は中日一塁手編参照)は門前真佐人とともに大洋から移籍し、52年からチームに加わった。移籍の経緯は捕手編の門前の項を参照されたい。移籍時は35歳の大ベテランで、辻井の背番号「3」を引き継いだ。
大洋時代の50年にキャリアハイの189安打を打ち、リーグ5位の打率.327、リーグ1位の45二塁打を打っていた大沢だが、カープ移籍後の通算打率は.257で、峠を越えていた感は否めない。だが大沢の凄みは、52年、53年とも全試合に出場し、現役最終年となった54年も111試合に出場していることだ。年齢でいえば35歳から37歳のシーズンで、現在でも、その年齢でフル出場できる選手は稀である。まして、当時の劣悪な栄養事情、過酷な遠征事情(特に広島は遠距離移動が多い)を勘案すると、タフネスぶりは驚異というほかない。プロ実働14年のうち13年で規定打席に達した大沢は、後述する衣笠祥雄の先駆となる〝鉄人〟だったのかもしれない。
55年の白石勝巳、56年の小鶴誠は、最晩年(白石の引退は56年、小鶴は58年)にファーストに回ったもの。白石は遊撃手編で、小鶴は外野手編で言及する。
■藤井弘の時代
183センチ、83キロ。当時としては〝巨漢〟といっていい。藤井弘は、雄大な体格を活かした右打ちのスラッガーである。35年広島県生まれの地元選手で、盈進商(現・盈進高)からノンプロの倉敷レーヨンを経て55年に入団。倉敷レーヨンでの月給は4500円程度で、カープは3万5000円と聞き「なんとプロ野球はいいところだろう」と思ったというが、入団してみたら給料は遅配の連続だった[5]。
本論からは逸れるが、当時のチームの内情について藤井が回想しているので、いくつか紹介しておきたい[6]。苦しい経営状況を物語る貴重なエピソードだ。
「ユニフォームの支給はというと、ホームとビジターが春夏通して1着ずつしかない。(中略)夏は地獄。すぐに汗と土でドロドロとなり、洗っても染み付いた臭いは簡単に落ちない」
「専用のバスなどなく、一般の乗り合いバスで、合宿所があった段原町から観音の県営球場に向かった」
「合宿所の部屋は狭く、風呂も2人入ればいっぱいで、仕方なく近所の銭湯に通った」
「合宿所では、若手選手10人くらいが大部屋で、みんなごろ寝状態。当時は一人部屋などほとんどなく、本塁打王を取ったことのある小鶴誠さんだって、2人部屋だったと思う」
球団が藤井に期待したのは、54年限りで引退した大沢伸夫の後釜だった。だが、いきなりプロの壁に突き当たる。カーブがまったく打てなかったのだ。最初の2シーズン、55年と56年は大半を二軍で過ごすことになった。前述したように、白石勝巳と小鶴誠が暫定的にファーストで起用されたのは、藤井の伸び悩みという背景もあったわけだ。
「二軍戦で九州遠征に出かけた折には、あまりに情けない成績に落ち込んで、一人たたずんでいた船のデッキで眼下に広がる夜の海原を見ていて、ふと『ここから飛び込んだら、楽になれるな』と考えたこともあった。漆黒の海は引き込まれそうな怖さがあった」[7]
2年間の苦闘を経て、藤井が一軍に定着するのは3年目の57年。7月に本拠地・広島市民球場が開場した年である。3月31日、開幕2戦目の大洋戦(広島総合)で6回裏に試合を決定づける満塁ホームランを打つと、4月7日の国鉄戦(広島総合)から9日の大阪戦(宇部)まで3試合連続ホームラン。18日の巨人戦(後楽園)では7回表にソロホームランを打ち、この1点をエースの長谷川良平が守って完封勝ち。あっという間に主砲の座についた。カープにとっては、初めて誕生した「生え抜きの主力打者」である。
こうして、一塁手・藤井弘の時代が始まった。
不振に陥った60年を除き、10シーズンにわたって正一塁手としてプレイした藤井は、Bクラスが指定席の苦しいチーム状況で主軸打者として奮闘し、要所で印象深い一発を放ってファンの溜飲を下げた。金田正一(国鉄)とはなぜか相性が良く、58年5月27日の試合(広島市民)で6回裏にソロホームラン。これによって、金田の連続無失点記録を64回1/3でストップした。また、61年7月16日の試合(広島市民)では、0−1で完封負け目前の9回裏に逆転サヨナラ2ラン。これが球団史上初の「逆転サヨナラホームラン」となった。さらに63年7月31日の試合(広島市民)でも、6−6で迎えた延長13回裏、9回からリリーフしていた金田からサヨナラ弾を打ち込んだ。その2発を含む藤井の通算サヨナラ安打12本は、球団史上最多記録(2025年終了時)である。
なお一塁手としては、守備はお世辞にも巧いといえなかったようだ。
「一塁側にフライが上がるとスタンドは一瞬、シーンとなる。藤井がうまくとると『よくとった』どっとスタンドがわいた。ファウルフライでもそうだ。とっても落としてもスタンドがわいたのである」[8]
その藤井が、守備で演じた一世一代のファインプレイがある。58年9月19日の巨人戦(後楽園)で、長嶋茂雄がレフトスタンドに28号を叩き込んだ。ところが、ベースを一周してホームインした長嶋にアウトが宣告される。「一塁ベースを踏んでいない」と藤井が塁審にアピールして認められたのだ。ちなみに、藤井と長嶋は同学年である。
カープ一筋で実働15年。通算177本塁打は球団歴代10位、通算603打点は歴代12位(2025年終了時)。ニックネームはゴジラからとって「ゴジさん」(初代ゴジラの映画公開は54年)。後年の松井秀喜、あるいは松井の流れで「赤ゴジラ」と呼ばれたカープの後輩・嶋重宣の元祖といえる。引退後は72年から88年まで打撃コーチ、二軍監督を歴任した。
■衣笠祥雄のファースト時代
〝鉄人〟衣笠祥雄のポジション別通算出場数を先に記しておこう。
三塁手1638、一塁手1493、外野手56、捕手19。
衣笠と聞いて思い浮かべるポジションは、ファーストか、サードか。それは世代によって分かれるだろう。大雑把にいえば、選手生活の前半がファースト、後半がサードということになる。ここでは一塁手時代の〝若き日の鉄人〟について概観しておきたい。
65年に平安高から捕手として入団した衣笠の野球人生が変わったのは、3年目の67年だった。当時、一軍コーチだった根本陸夫が「明日からもうキャッチャーやらなくていいから、ファーストに行け!」と命じたのだ。単身赴任で合宿所に住んでいた根本は、ナイターから帰ってくると衣笠を部屋に呼び、プロ野球選手としての考え方、気持ちの持ち方を懇々と説いていた。そういう〝お説教〟の延長線上に、突然のコンバート命令があった。
「コンバートの理由なんてまったく説明なしです(笑)。なんでキャッチャーをクビになったのかわかりません。根本さんも現役時代はキャッチャーでしたから、『コイツは無理だ』ってすぐわかったんじゃないかと思います。(中略)ただ、当時はファーストへ行ってホッとしていました。キャッチャーでは怒られてばっかり、ブルペンばっかりですからね」[9]
正確にいえば、前年の66年に一軍で8試合ファーストを守っているが、捕手登録であり、選手起用の都合で守らされたにすぎない。そもそもシーズンの大半は二軍暮らしで、それは67年になっても変わりなかった。
キャッチャーという重荷から解放された衣笠は打撃の向上に専念し、67年の後半戦に一軍に昇格すると、10月8日の大洋戦(広島市民)に「4番ファースト」、シーズン最後の3試合(10月16日の中日戦、19日のサンケイ戦ダブルヘッダー)に「3番ファースト」で起用される。それは、翌年へ向けた布石にほかならなかった。
「年齢的には中間層がいなかったので、ちょうど世代交代の時期でした。ファーストであれば藤井さん、興津さんと、僕より上手なベテランの方がおられたのですが、根本さんは次の時代を考えて、チームそのものを作り変えようとしておられた。そういう意味で、僕はチャンスをいただきました」[10]
68年4月6日、開幕の阪神戦(岡山)。長谷川良平が解任され、同年から監督に昇格した根本は、33歳の藤井弘、32歳の興津立雄(三塁手編参照)を差し置いて、21歳の衣笠を「5番ファースト」でスタメンに起用した。絵に描いたように分かりやすい世代交代である。
以降、根本は72年まで監督をつとめ、山本浩二、水谷実雄、三村敏之、水沼四郎ら75年初優勝の中心メンバーとなる野手たちを抜擢していくのだが、その先駆けが68年の衣笠だった。根本によるカープ改造計画は、衣笠のファースト転向から始まったといっていい。
前掲のように、衣笠が「正一塁手」だったのは68年から74年までの7シーズンで、この間、809安打、162本塁打。通算安打、通算本塁打の3割強を正一塁手時代に打っている。72年はリーグ最多の147安打で、衣笠が最多安打(当時は表彰対象ではない)を記録したのはこれが唯一である。74年には32本塁打をマークし、初めて30本を超えた。そして、70年10月19日の巨人戦(後楽園)から連続試合出場記録がスタートしている。
衣笠にとって、7年間の正一塁手時代は雌伏の時だった。68年に球団史上初のAクラス(3位)となるが、69年以降は再びBクラスに沈み、72〜74年は3年連続最下位。屈辱に耐えながら、それでも確実に自らの技量をレベルアップさせていた。それが、75年以降に実を結ぶのだ。すべては次の時代へつながっていく。衣笠のみならずチーム全体がそうだったことが、やがて明らかになる。
■Vの使者ホプキンス、黄金時代の水谷実雄
75年の「あの試合」を、後年、衣笠と山本浩二が対談で回想している[11]。
衣笠 あの3ランで、「優勝できる」って確信しましたね。
山本 1対0のままやったら、分からなかった。ちょうど後ろで見えたから、万歳したもんな。
75年10月15日、後楽園球場。初優勝までマジック1としたカープは、巨人と対戦した。シーズン129試合目で、この試合を落とすと優勝の行方は中日との最終戦(広島市民)にもつれこむ。同じ対談で山本は「あの試合に負けていたら、優勝はなかったと思う。地元で負けていたんじゃないかなと。大一番は地元の選手のほうが硬くなってしまうものですから」と語っている。
試合は5回表に大下剛史のタイムリー二塁打で広島が先制するが、追加点は奪えず、1−0で9回表のカープの攻撃を迎える。ツーアウト1、2塁で迎える打者は「3番ファースト」ゲイル・ホプキンス。左打席からバットを一閃すると、打球はライトスタンドに突き刺さった。この瞬間、カープのベンチも、ファンも優勝を確信した──。
ホプキンスは43年米国生まれ。65年に1Aのサラソタに入団した際は捕手だったが途中から一塁手に転向し、68年にホワイトソックスでメジャーに昇格した。その後、ロイヤルズ、ドジャースに在籍し、メジャー実働7年で324安打、25本塁打。来日前年の74年は主に3Aのハワイ・アイランダースでプレイしていた。30歳を超えて野球選手としての限界を悟り、少年時代の夢だった医師になることを志して大学進学の準備を始めていたが、彼を口説いて来日させたのが、74年オフにカープの監督に就任したジョー・ルーツだった。ルーツは衣笠をサードにコンバートし、ホプキンスをファーストに据えた。
日本でプレイするにあたって、ホプキンスはこう考えたという。
「日本に来て打撃スタイルを変えました。以前は、広いスタンスで広角に打っていました。強い打球は打っていましたが、引っ張ろうとはしませんでした。三振も少なかったです。でも、日本にやってきて変わりました。ルーツ監督は、30本塁打を打てる選手を求めていました。そこで、私はスタンスを狭くし、引っ張る打撃もして要求に応えようとしました。ホームランを打とうと意識したのです」[12]
75年のホプキンスは3番を打ち、打率は.256と低かったが、33本塁打、91打点はともにチーム1位。長打で打点を稼いでほしいという当初の期待に見事に応えた。そのハイライトが、優勝を決定づけた3ランである。
プレイ以外の逸話も多い。優勝争いが佳境に入っていた9月10日の中日戦(広島市民)で本塁上のタッチプレイをめぐって乱闘となり、ファンがグラウンドに乱入する大騒動になったとき、ホプキンスは中日ナインをロッカーへ誘導し、押し寄せるカープファンから敵の選手を守った[13]。医師になるための勉強も継続しており、練習の合間や試合がない日は広島大学医学部の研究室を訪れて顕微鏡を覗き、組織学のスケッチを重ねていたという[14]。
76年は本来の打撃スタイルに戻してリーグ4位の打率.329をマークしたが、シカゴのラッシュ大学医学部に入学するため同年オフに退団。だが、日系2世だったラッシュ大の学長に「納得するまで野球をやったらどうか」と勧められ[15]、77年に南海で1シーズンプレイして、正式に引退した。
念願を叶えて整形外科医となったホプキンスは、2013年5月に広島で開催された日本整形外科学会学術総会に出席し、マツダスタジアムに招かれて始球式に参加している。
再び、75年10月15日の後楽園球場に戻ろう。ホプキンスの3ランで4−0とした後の9回裏、巨人の攻撃はツーアウト。柴田勲が打ち上げたフライをキャッチした──すなわち初優勝のウイニングボールを捕ったのが水谷実雄である。ポジションはレフトだった。
衣笠と同様、水谷も時代によってポジションが異なる。カープでの出場数は以下の通り。
外野手733、一塁手641、三塁手2、二塁手1。
キャリアの前半が外野手、後半が一塁手で、75年はまだ〝前半〟だった。出場数は外野手のほうが多いが、チームの黄金期と自身の円熟期が一致するのが一塁手時代なので、この一塁手編で詳述したい。
47年宮崎県生まれ。64年夏の甲子園に宮崎商の2年生エースとして出場するとベスト4まで勝ち進み、65年ドラフト4位で入団する。だが契約を交わした直後に急性腎炎を患い、「野球をやめないと、生命の保障はできない」と宣告されるほど過酷な闘病生活を送ることになった[16]。「ジンちゃん」というニックネームは腎臓病からつけられたというから、今では考えられない不謹慎な逸話だ。
投手として入団した水谷が打者に転向したのは2年目の66年。同年、コーチとして復帰した初代監督の石本秀一が打者としての才能を見抜き、投手を諦めさせた。「あのジイさんが目をかけてくれんかったら野球界のワシはとうの昔に消えていたよ」と水谷は述懐するが[17]、そこから新たな試練が始まった。
「守備が下手でね、二軍の試合に出るとよくエラーしていたんだけど、先輩のピッチャーが聞こえるように監督に『水谷を代えてくれ』というんだよ。それがつらくてね、でも、それでもスタメンから外されない。あとから聞いた話だけど、私は強化選手になっていて一軍監督の根本(陸夫)さんが水谷は使い続けろと指令を出していたらしいんだ」[18]
一軍に定着したのは70年で、ベテランの山本一義、同世代の山本浩二とともに外野の一角を任された。71年はリーグ3位の打率.283をマークしたが、外野には毎年のように新外国人選手が加入するため、気を抜く暇はない。優勝した75年の開幕戦の外野スタメンは山本浩二、山本一義、そして新外国人のシェーン(リッチー・シェーンブラム)で、水谷はベンチスタートだった。しかし、4月26日の阪神戦(甲子園)から山本一義に代わってレフトで起用されるようになる。
「まあ、世代交代やったと思う。私がカズさんに取って代わった大きな理由はなかったんやろね。でもあれで打線が固定されていったのは確か」[19]
次に転機が訪れるのは77年だ。同年も水谷は開幕からレフトで出場し、ファーストは、退団したホプキンスに代わって新外国人のエイドリアン・ギャレットが守っていた。ギャレットは本塁打を量産したが守備は不安定で、7月20日の阪神戦(甲子園)以降、水谷とポジションを交換した。こうして「一塁手・水谷実雄」の時代が到来したのである。
前述したように、この時期はチームの黄金時代であり、同時に、水谷の円熟期でもあった。チームは79年、80年に連続日本一。そして水谷は、78年に打率.348で首位打者を獲得する。.348は現在でも年間打率の球団最高記録である(2025年終了時)。また、81年にもリーグ5位の.337をマークした。大柄な体躯とワイルドな風貌に似合わず柔軟なバットコントロールが持ち味で、もちろん長打力も兼備していた。大舞台にも強く、79年日本シリーズでは2本塁打5打点で優秀選手賞、80年日本シリーズでも満塁弾を含む3本塁打7打点を挙げた。
82年も3割を打ったが、同年オフ、阪急へのトレードを告げられる。加藤英司との、レギュラー一塁手同士の交換トレードだった。
カープ実働17年の通算1352安打は球団歴代11位、205本塁打は歴代8位、675打点は歴代8位、通算打率.289は歴代7位である(2025年終了時。打率は2000打数以上)。
■長内孝と小早川毅彦
首位打者2回、打点王3回という錚々たる実績とともに83年からチームに加わった加藤英司だったが、肝炎を患った影響もあり、75試合(一塁手出場数67)の出場にとどまる。加藤はオフに近鉄へ移籍し、カープ在籍はわずか1年で終わった。一方、水谷は新天地の阪急で36本塁打、114打点をマークして打点王を獲得。くっきりと明暗が分かれたトレードだった。
こうして、80年代のカープは新しい「正一塁手」を確立する必要に迫られたのだが、そこに台頭したのが2人の左打者だった。
加藤が期待外れに終わった83年に穴を埋めたのは、サードと掛け持ちで〝古巣〟を守った衣笠祥雄と、8年目の長内孝である。
長内は57年青森県生まれ。神奈川に転居し、桐蔭学園から75年ドラフト3位で入団した。78年にウエスタンリーグで本塁打王、打点王の二冠を獲得するが、厚い選手層に阻まれ、なかなか出場機会が巡ってこない。5年目の80年にようやく一軍で初出場し、83年に大きなチャンスをつかむ。この年117試合に出場(一塁手65、外野手47)して18本塁打を打ち、そのパワーを存分にアピール。同年の秋季キャンプでは、古葉竹識監督から「来年は、外国人は補強しないから、お前に三番を任せる」と言葉をかけられた[20]。
確かに外国人の補強はなかった。だが、ドラフトで同じ左打ちの一塁手、小早川毅彦(後述)を指名した。「新人なので気にもしてなかった」[21]長内だが、翌84年に小早川にレギュラーを奪われ、以降は代打および一塁手と外野手の兼任で起用される。
とはいえ、86年は故障した小早川の代役をつとめ、キャリア唯一の規定打席に到達。自己最高の19本塁打、58打点をマークする。同年のカープは5度目のリーグ優勝を飾るが、長内は主に山本浩二、衣笠祥雄の両重鎮の前を打つ3番を任された。
「とにかく私は『後ろにつなごう』という意識だけで打席に臨んでいました。逆に言えば、『後ろにつなぎさえすれば、なんとかなる』と、そう思うことが自分の打撃にも良い影響をもたらしてくれたと思います」[22]
そう振り返るが、シーズンの大詰め、9月30日の阪神戦(広島市民)から衣笠がファーストに入り(サードには木下富雄が入った)、長内はベンチに置かれてしまう。西武との日本シリーズでは、復帰した小早川が全試合にファーストで先発した。
「ある試合で浩二さんがショートゴロを打った際に、走者だった私がセカンドへのスライディングをしなかった場面があり、そのワンプレーがきっかけで次の試合からいわゆる懲罰的な意味で、スタメンの座を剥奪されてしまったのです」[23]
レギュラーを獲りきれなかった長内だが、89年は打率.360、5本塁打と驚異的な代打成績で存在感を示した。だが、カープとの別れは唐突に、非情な形で訪れる。チームが6度目のリーグ優勝を果たした91年10月13日、テレビの優勝特番への出演を終えた後に山本浩二監督に呼び出され、大洋へのトレード(銚子利夫との交換)を通告された。
小早川毅彦は61年広島県生まれ。少年時代から市民球場へ通っていた。
「やっぱり(注・山本)浩二さんですね。まだ痩せていてね。センターからチェンジになって走ってくる姿がね、カッコいいんですよ。帽子を深く被って、顔がよく見えないから。当時は水谷さんだってカッコよく見えたんだから(笑)」[24]
高校はPL学園に野球留学し、捕手から一塁手に転向する。1年上に、のちにチームメイトになる西田真二と金石昭人がいた。法政大へ進むと1年からレギュラーとなり、2年秋に東京六大学リーグ三冠王を獲得。83年ドラフト2位で入団した。地元出身で、法大出身で、長距離打者。右打ちと左打ちの違いはあるが、山本浩二との共通点が多い小早川に、球団やファンは〝ポスト浩二〟を期待した。その重圧との戦いが、野球人生の大きなテーマとなる。
「浩二さんはライト方向にもホームランを打たれていたので、ホームランを増やすには引っ張りだけじゃダメだ。僕は左バッターですから左中間にもホームランを打てるようにならないといけないって、意識して取り組んだのは覚えてます」[25]
ルーキーイヤーの84年。小早川は5月3日の阪神戦(広島市民)に「6番ライト」で初めてスタメンに名を連ね、8日の大洋戦(横浜)から長内に代わって「3番ファースト」で起用される。そのままレギュラーに定着して規定打席に達し、打率.280、16本塁打、59打点で新人王を獲得。順風満帆のデビューである。
だが、それ以降の成績は、厳しい言い方をすれば〝伸び悩み〟と言われても仕方ないものだった。山本浩二が引退した翌年の87年に4番に座り、24本塁打、93打点をマークしたときは〝ポスト浩二〟が現実になったかと思われたが、結局、その数字がキャリアハイで、88年以降は本塁打が20本を超えることはなかった。次のようなコメントを読むと、小早川は埋蔵していた才能をどこまで発揮できたのだろう、と思ってしまう。
「プロに入ってから、この世界でやれないと思ったことが1回もないんだから。(中略)どんなに速いピッチャーが来ても、僕はこれ打てるなって思ってたんですね。たしかに小松(辰雄)さんや江川(卓)さんは速かったですけど、これは打てないって思ったことは一度もなかった」[26]
その江川から87年9月20日の試合(広島市民)でバックスクリーンに打ち込んだ逆転サヨナラ本塁打は、江川が引退を決意した場面として語り継がれている。カープ時代の小早川の、最も印象的な一打かもしれない。
94年以降は控えとなり、96年オフに戦力外通告を受けると、自由契約になってヤクルトに移籍した。そこで〝野村再生工場〟の一員としてもう一花咲かせることになる。
カープでの実働は14年。在籍時の通算安打は、ちょうど1000本である。
■「打点王」ロペスと「怪力」浅井樹
小早川がレギュラーから陥落した94年以降の一塁手出場数は、以下のようになった。
ルイス・メディーナは63年米国生まれ。88年にインディアンスでメジャーに昇格するが、以降もマイナーとの往復を繰り返す。メジャー実働3年で31安打、10本塁打。93年にカープに加入し、同年の開幕戦に「4番レフト」で起用されるが、開幕3戦目の横浜戦(横浜)で帰塁の際に右肩を骨折して帰国。結局、シーズン最初の3試合に出場しただけだった。故障が癒えた翌94年は主に「5番ファースト」で起用され、3番・前田智徳、4番・江藤智と中軸を形成。打率.271、14本塁打、70打点とまずまずの数字を残すが、リーグ最多の106三振を喫する。95年は腰痛に見舞われて戦列を離脱し、同年限りで退団した。
95年は「正一塁手不在」のシーズンとなった。山田和利は、長嶋清幸とのトレードで音重鎮とともに91年に中日から移籍したユーティリティプレイヤーで、移籍後はファースト、セカンド、サードで〝便利屋〟的に起用されていた。95年は出場94試合(一塁手70、二塁手20、外野手13)、82安打、12本塁打、53打点とすべてキャリアハイの成績をあげたが、同年オフ、投手の若林隆信との交換トレードで、再び、音とともに中日へ戻っていった。
90年代中盤のカープは、野手陣の充実が顕著だった。内野はセカンドにベテラン正田耕三、サードに主砲の江藤智、ショートにチームリーダー野村謙二郎。外野はセンターに前田智徳がいて、両翼に金本知憲と緒方孝市が台頭していた。足りないピースは、ファーストだけ。そのピースを埋めるべく、96年に加入したのがルイス・ロペスである。
64年米国生まれ。84年にドジャースの下部組織に加わるが、以降はほとんどマイナー暮らしで、メジャーでは90年、91年に41試合出場しただけだった。〝ハングリー〟な状態で来日したロペスは、96年春季キャンプで打撃コーチの山本一義に教えを乞い、日本人投手の特徴をノートに書き溜めるなど努力を重ねた[27]。その努力は結果に反映され、打率.312、25本塁打、109打点で打点王のタイトルを獲得する。97年は打率.320、30本塁打、112打点とさらに数字を伸ばし、2年連続打点王。5番ないし6番を打つことが多く、前の打者の出塁率の高さが寄与したこともあっただろうが、文句のない成績である。しかし97年オフの契約更改で条件が折り合わず、自由契約になるとダイエーへ移籍した。
ダイエーを1年で解雇された後は米国へ戻って独立リーグでプレイしていたが、00年の開幕後、カープからオファーを受けて再来日する。助っ人としては珍しい〝出戻り〟だ。同年のカープは江藤が巨人へ移籍し、野村は衰え、前田と緒方は故障に苦しんでいて、頼れる打者は金本のみ。かつての強力打線は見る影もなかった。ロペスは5月23日のヤクルト戦(福山)から出場すると、打率.313、20本塁打、88打点をマークして打線の救世主となり、翌01年はフル出場して打率.308、32本塁打、100打点をマークした。
しかし02年の開幕直後、4月6日の中日戦(広島市民)で〝事件〟が起きる。8回裏、二塁に前田智徳を置いてロペスがセンター前ヒットを打つが、前田は三塁を回ってストップしてしまう。ロペスはベンチ裏で「どうしてホームインしなかったんだ」と前田につかみかかった。球団はこのトラブルを重く見てロペスを二軍に降格し、10日間の謹慎処分を科した。この年限りで、ロペスは日本を去ってしまう。
ダイエー移籍の経緯、そして最終年のトラブルの影響なのか、残した成績の割に、ロペスは〝懐かしの助っ人〟として省みられる機会が少ない印象を受ける。チームが優勝から遠ざかっていた時期に在籍したことも影響しているかもしれない。しかし、カープ在籍5年で100打点以上が3回。球団史に残るクラッチヒッターであることは間違いない。カープでの通算打率.305は、鈴木誠也に次いで球団歴代2位である(2000打数以上。2025年終了時)。
98〜99年のロペス不在期間に、主にファーストを守ったのが浅井樹だ。
71年富山県生まれ。高岡商で88年、89年の夏の甲子園に連続出場し、89年ドラフト6位で入団した。ちなみに4位が熊本工の前田智徳で、同じ左打ちの外野手だった。
入団後、前田はあっという間に主力選手になったが、浅井は二軍暮らしが長く続いた。しかし6年目の95年、5月23日のヤクルト戦(神宮)で前田が右足アキレス腱を断裂したため一軍の枠が空き、チャンスが巡ってくる。6月15日の横浜戦(横浜)でプロ初安打を打ち、7月1日の巨人戦(広島市民)の第1打席でプロ初本塁打を打つと、続く第2打席でも本塁打。持ち味のパワーを存分に見せつけた。当時の三村敏之監督は「技術では上回れなくても、精神面で優位に立てれば打てる。例えばその太い腕を見せて相手ピッチャーを威嚇してみろ」とアドバイスし[28]、ここから、浅井のトレードマークとなった「ユニフォームの袖を捲って二の腕を見せつける」パフォーマンスが生まれた。
06年までカープ一筋で現役を全うし、ポジション別通算出場数は一塁手464、外野手211。印象深いのは代打としての働きで、同じ一塁手・外野手兼任の町田公二郎とともに、左右の代打の切り札として大きな存在感を発揮した。通算代打安打154は、宮川孝雄(広島)の186、桧山進次郎(阪神)の158に次いで歴代3位。通算代打打率.315は、若松勉(ヤクルト)の.349に次いで歴代2位である(2025年終了時。打率は代打起用数300以上)。
■2人の和製大砲、新井貴浩と栗原健太
ロペスが去った後、2000年代の一塁手は〝生え抜き〟路線に戻る。藤井弘から続いた伝統への回帰である。その主役は、ともに右打ちのスラッガータイプだ。
03年から11年までの一塁手出場数の推移を見よう。
新井貴浩については、衣笠祥雄と同じ問いを発さなくてはならない。代表的なポジションはファーストなのか、サードなのか。
新井のカープでのポジション別通算出場数は、こうなっている。
一塁手708、三塁手642、外野手41。
ファーストが上回るが、その差は僅かだ。そして新井の場合は、阪神在籍時代を挟んで「第1期カープ時代」と「第2期カープ時代」がある。ルーキーイヤーの99年から阪神移籍前年の07年までの「第1期」の出場数は以下の通りだ。
・99年 一塁手28、三塁手3、外野手2
・00年 三塁手39、一塁手25、外野手2
・01年 一塁手47、三塁手45、外野手37
・02年 三塁手102、一塁手72
・03年 一塁手106、三塁手37
・04年 一塁手70、三塁手8
・05年 三塁手121、一塁手35
・06年 三塁手143、一塁手1
・07年 三塁手144、一塁手1
この期間の通算出場数は三塁手642、一塁手385。03年と04年はファースト主体だったが、それ以外は基本的に「サード新井」である。付記すれば、03年と04年は打撃成績が落ち込んだスランプ期間でもあった。「第1期カープ時代」の新井については三塁手編で触れたい。「第2期」については、次項で後述する。
栗原健太は82年山形県生まれ。日大山形高から99年ドラフト3位で入団した。3年目の02年に初めて一軍に昇格し、9月5日の阪神戦(広島市民)で藤川球児からプロ初安打となる本塁打を打つ。出場機会が増えるのは04年からで、同年は一塁手で40試合、三塁手で50試合出場。05年は一塁手56試合、三塁手15試合。こうした過程を経て、06年から「正一塁手」の座についた。
07年は全試合に出場して打率.310、25本塁打、92打点をマークし、順調に打者としての成長曲線を描く。同年オフに新井貴浩がFAで阪神へ移籍したため、翌08年に4番を任されることになった。
「開幕直後から調子も上がらずに、感じたことのないプレッシャーに襲われた。『これが四番の重みなのか』と思ったし、これまでとの状況の違いを身を持って痛感しましたね」[29]
そう振り返る栗原だが、鮮やかにプレッシャーを克服してみせる。全試合で4番を打ち、打率.332、23本塁打、103打点。安打数185は内川聖一(横浜)の189安打に僅かに及ばず、一塁手ベストナインもその内川が受賞したため打撃部門のタイトルや表彰には恵まれなかったが、一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。それも、阪神に移籍した新井と同票数でダブル受賞という皮肉な結果だった。09年、11年にも同賞を受賞しているが、カープの一塁手でゴールデングラブ賞を受賞したのは栗原だけである(2025年終了時)。
09年3月のWBCには故障した村田修一(横浜)の代替選手として代表に招集され、出場機会は少なかったが優勝メンバーの一員になる。この時点では、カープの看板打者への階段を一歩一歩、確実に上っているように見えた。パワフルだが粗さもある新井が〝衣笠型〟だとすれば、率を残せて長打も打てる栗原は〝山本浩二型〟。キャリアを重ねるにつれ円熟していった山本浩二をイメージするなら、栗原はこの先、どこまで大きな選手になるだろうと想像したファンは少なくないはずだ。
だが結論からいえば、08年が成績のピークだった。以降は腰痛や死球による手首骨折など数々の故障に見舞われる。11年は3年ぶりに全試合に出場して打率.293、17本塁打、87打点をマーク。〝全盛期〟ほどの成績ではなかったが一塁手部門のベストナインを初受賞するも、翌12年に「変形性右肘関節症」の手術を受け、シーズンの大半を離脱。結局、肘の故障から回復できなかった。
「投げること、打つこと、両方に影響が出ました。僕は右投げ右打ちで、バッティングの際にはやはり右腕が起点になるわけです。利き腕ですから右の力のほうが強いですし、バットを振るときには最後の押し込みにも使う。右の感覚が繊細なだけに、手術をするとそれが狂ってくる。(中略)思いどおりにいかないし、自分の中で怖がっているということもあり、徐々に打撃フォームを崩していきました」[30]
13年に24試合出場したのを最後に、栗原の姿は一軍のグラウンドから消えた。15年オフ、球団は減額制限を超える大幅減俸を提示し、自由契約を選んで楽天へ移籍した。しかし一度も一軍に上がれず、16年秋に引退を発表する。同年、カープは25年ぶりのリーグ優勝を果たしていた。引退会見で栗原は「一つ悔いがあるとしたら、リーグ優勝の経験がないこと」「(注・カープ優勝の)その中に自分がいられなかったのが残念」と語った。
15年にカープに戻った新井貴浩は、まさに優勝の輪の中心にいた。もし、栗原が故障を克服してプレイを続けていたら、新井に戻ってくる場所はあっただろうか。
■エルドレッド、そして新井貴浩の帰還
栗原健太の故障によって、一塁手は再び助っ人路線に舵を切る。
ブラッド・エルドレッドは80年米国生まれ。05年にパイレーツでメジャーに昇格するが定着できず、以降も大半はマイナーでプレイしていた。メジャー実働4年で56安打、15本塁打、打率.203。ポジション別出場数は一塁手60、外野手8。
12年シーズン、開幕のスタメン一塁手は栗原だったが、前述した故障発覚により、4月24日の阪神戦(甲子園)を最後に離脱してしまう。その後は5年目の松山竜平、4年目の岩本貴裕、当初は外野で出場していた新外国人のニック・スタビノアを併用していたがいずれも期待した成績を挙げられず、打線のテコ入れが急務となった。そして、間もなく夏になろうとする6月21日に新しい外国人選手の補強が発表される。それがエルドレッドだった。
7月10日の巨人戦(京セラドーム)に「7番ファースト」で初めて出場したエルドレッドは、閉幕まで65試合に出場して11本塁打を打つ。同年のカープの最多本塁打は堂林翔太の14本で、途中参戦のエルドレッドの11本はそれに次ぐ数だった。当時のチームは深刻な長打力不足に陥っており、シーズン中の補強に踏み切ったこと、そして翌13年もエルドレッドが残留したことは、ともに必然だった。
ただ、7シーズンも在籍することになるとは、この時点では誰も予想していなかっただろう。球団の外国人選手としては、日系2世の平山智(外野手編参照)の10年に次ぐ長期在籍記録である[31]。13年以降はチーム事情に応じて一塁手と外野手を兼務し、さらには代打の切り札としても働いた。カープ通算のポジション別出場数は一塁手315、外野手245。14年には37本塁打、104打点をマークして本塁打王となった。この後、16年から始まる3連覇へ向けてチームは強力打線を形成していくのだが、その呼び水となったのはエルドレッドの存在だった。
25年ぶりにリーグ優勝した16年、エルドレッドは丸佳浩、新井貴浩、鈴木誠也の中軸の後を打つ〝脇役〟に回り、21本塁打、53打点は14年の数字から大きく減らしたものの、打率は14年の.260から.294に上昇。さらに、14年に.329だった出塁率は.362に向上した。その結果OPSは.900となって、14年の.873を上回ったのである。日本ハムとの日本シリーズで大谷翔平からのバックスクリーン弾を含む3試合連続本塁打を打って敢闘選手賞に選ばれたように、長打力が衰えたわけではない。良い意味でプライドに拘らない柔軟性があったからこそ、長期にわたってチームに必要とされたのだろう。
グラウンド以外でも、エルドレッドは日本での生活への順応力が抜群だった。球団通訳の西村公良はこう語っている。
「何でも自分から挑戦しようとしましたね。たとえば『ここに行きたいんだけど』と聞かれても、一度教えればすぐ一人で出かけられる。(中略)遠征先でも一人でいろいろなところに行くんですよ。東京遠征の際にどこかにお昼ご飯を食べに行きたいと言ってきたんです。『スシヤカード』と言うからどこかのお寿司屋さんのカードかと思ったんですけど、よく聞いてみると『あのピッってやるヤツ』だと。何かというとSuicaのことだったんですよね。みんなが使っているから気になっていたようで。結局、Suicaを買って、一人で銀座に行ってお寿司を食べて帰ってきました(笑)。東京に関しては僕よりもよっぽど詳しいですね。僕が『原宿のあの店はどうやって行くの?』と聞くくらい」[32]
ママチャリで広島の街を移動する姿はたびたびファンに目撃され、SNSで拡散された。チームに溶け込み、街に溶け込んだエルドレッドは、球団史上最も愛された助っ人だったかもしれない。18年オフに自由契約となったが、翌19年9月15日のヤクルト戦(マツダ)の試合後に引退セレモニーが開催された。帰国後はカープの駐米スカウトに就任。日本へ送り込む選手には「日本の文化、環境に対してオープンマインドになること」「エゴを出さないこと」を伝えているという[33]。
FAで阪神へ移籍した新井貴浩が、カープ復帰を決めたのは14年オフである。翌15年から、新井の「第2期カープ時代」が始まる。
阪神最終年となった14年、37歳になっていた新井はレギュラーから陥落する。新外国人のマウロ・ゴメスにファーストのポジションを明け渡し、94試合出場だがほとんどが代打での起用だった(守備についたのはファースト16試合、サード26試合)。打撃成績は打率.244、3本塁打、31打点。オフに大幅な減俸を通告されると自由契約を望み、古巣からのオファーを受け入れる。カープが提示した年俸は2000万円。14年の年俸は2億円だった。
「第2期カープ時代」のスタートは、15年3月27日のヤクルト戦(マツダ)。新井は7回裏に代打で登場してライトフライに倒れるが、本人はそれを「特別な打席だった」と振り返る。
「一度カープを出て行った私は、『もう(ファンから)応援してもらえないだろうな』と思っていました。(中略)代打でネクスト(バッターズサークル)に向かう私を、大声援が後押ししてくれました。その瞬間、一気にハートに火がついた」[34]
開幕当初は新外国人のヘスス・グスマンが「4番ファースト」で先発していたが、4月7日の巨人戦(マツダ)で新井がそのポジションにとって代わり、17日の中日戦(マツダ)以降は「4番ファースト新井」が定着する。同年は規定打席に到達して打率,275、7本塁打、57打点という成績で復活の足がかりをつかんだ。
そして迎えた16年。このシーズンが、新井にとって野球人生のハイライトとなる。開幕直後は6番を打っていたが、4月19日のDeNA戦(横浜)から4番に座り、驚異的な勝負強さで打線を引っ張っていく。4月26日のヤクルト戦(神宮)で通算2000安打、8月2日のヤクルト戦(神宮)で通算300号本塁打と節目の記録を達成。チームは首位を独走し、9月10日の巨人戦(東京ドーム)で優勝を決める。ウイニングボールをつかんだファーストの新井は、両手を突き上げてマウンドへ駆け出す途中でしっかりとボールを尻ポケットに収めていた。この年の打撃成績は打率.300、19本塁打、101打点で、自身初のMVPを獲得する。39歳でのMVPはセ・リーグ最年長記録だ[35]。
チーム躍進の象徴は、進境著しい若手・中堅の野手たちだった。1〜3番の〝タナキクマル〟田中広輔、菊池涼介、丸佳浩。そして、この年にブレイクした鈴木誠也。彼らの結節点に、39歳の新井がいた。その立ち位置は、伸び盛りの若手だった中西太や豊田泰光を従えて「4番」に座った、西鉄全盛期のベテラン大下弘を思わせる。またカープの伝統でいえば、40歳になる現役最終年に「4番」を全うしてチームを優勝に導いた、86年の山本浩二に通じるものがある。
チームが3連覇を果たした18年限りで引退。カープ通算1336安打は球団歴代12位、233本塁打は歴代7位、804打点は歴代4位である(2025年終了時)。
引退の年に、エルドレッドとの間にこんなエピソードがあったことを明かしている。
「カントリー(注・エルドレッドの愛称)との思い出の一つに、ある試合前練習での忘れられないやり取りがあります。私が引退する18年シーズン。急に『アライサン、イツ引退トカ考エテイル?』と聞いてきたことがあったんです。実はそのとき発表こそしていませんでしたが、自分の中では引退の意思が固まりつつあった。だからドキッとしてしまって(苦笑)。『もう若い選手も出始めているし、自分はいつでも身を引く準備はできているよ』と答えると、『アライサンラシイネ』と返ってきました。 逆に同じ質問をしてみると、カントリー自身も『考エ始メテハイルヨ』と」[36]
カープの幸福な時代を彩った2人の一塁手は、ともに18年が最後のシーズンとなった。
■新時代の一塁手は?
18年以降は、確固たる「正一塁手」が存在しない。
松山竜平は外野手編で、堂林翔太は三塁手編で言及する。16年に育成選手として入団したサビエル・バティスタは18年に25本塁打、19年はファーストに定着して8月17日時点で26本塁打を打っていたが、ドーピング検査で陽性通知を受けて同日に一軍登録を抹消され、翌年3月に契約を解除された。
21年に打率リーグ2位となった坂倉将吾については、捕手編を参照されたい。22年は新外国人のライアン・マクブルームが打率.272、17本塁打、74打点とまずまずの成績を残したが、23年限りで退団。25年は新外国人のエレフリス・モンテロが中軸を打った。
新世代か、それとも助っ人路線か。新時代の一塁手の姿は、まだ見えていない。
■総論──「一塁手専任」は少ない
一塁手に「専任者」が少ない傾向は、プロ野球全体に共通する。キャリアの中途でコンバートされる場合もあるし、他のポジションと併用される場合もある。パ・リーグの場合はDHと併用というパターンもある。
その中でもカープの一塁手は、とりわけ「専任者」が少ない。それぞれの球歴を通じて、一塁手での出場数と、他のポジションでの出場数が拮抗している選手が多いのだ。
文中と重複するが、冒頭に示した一塁手出場数通算200試合以上の16人の選手について、それぞれのポジション別出場数(カープ在籍時通算)を年代順に並べてみよう。最多出場のポジションを太字にした。
・大沢伸夫 一塁手360、二塁手2
・藤井弘 一塁手1245、外野手20
・興津立雄 一塁手396、三塁手846、二塁手2
・衣笠祥雄 一塁手1493、三塁手1638、外野手56、捕手19
・ホプキンス 一塁手247
・水谷実雄 一塁手641、外野手733
・長内孝 一塁手502、外野手281
・小早川毅彦 一塁手956、二塁手67、三塁手8、外野手6
・ロペス 一塁手563
・浅井樹 一塁手464、外野手211
・町田公二郎 一塁手200、外野手368
・新井貴浩 一塁手708、三塁手642、外野手41
・栗原健太 一塁手870、三塁手140
・エルドレッド 一塁手315、外野手245
・松山竜平 一塁手349、外野手511
・堂林将太 一塁手352、三塁手424、外野手200(2025年終了時)
外国人選手を除くと、「ほぼ一塁手」といっていいのは大沢伸夫、藤井弘、小早川毅彦で、それ以外は他のポジションとの兼任、あるいはコンバートである。25年終了時で捕手434試合、一塁手179試合、三塁手119試合の坂倉将吾は、この伝統に正しく連なる選手といえる。
もちろん、カープが一塁手というポジションを軽視しているわけではないだろう。背景には、チーム編成をめぐる事情が透けて見える。
セ・リーグの他の5球団の一塁手は、2000年代以降、ほぼ「助っ人外国人、もしくは移籍選手用のポジション」になっている。巨人、阪神、中日の老舗3球団は特にその傾向が強い。しかしカープは、落合博満や清原和博や小笠原道大や中田翔を獲得した巨人のような補強はできないし、毎年のように取っ替え引っ替えファースト用の助っ人を獲得していた阪神とも方針が異なる。そして、中日のダヤン・ビシエドのように長期にわたって定着する助っ人一塁手にも恵まれなかった。こうした中で、カープは限られた〝資源〟をその都度ファーストに割り振って戦ってきたといえる。
捕手、二遊間、中堅手というセンターラインはどの球団も自前で育成しようと試みるが、一塁手に〝育成〟というイメージは薄い。そのため、「必要なら外から調達しよう」という考え方に傾くのだろう。だが、外からの調達が難しいカープは、内部のやりくりで凌いでいくほかない。歴代のファーストを見ていると、そんな現実が見えてくるのだ。
そして、カープはそういうやりくりに非常に長けている。それは今に始まったことではなく、衣笠祥雄や水谷実雄のコンバートを円滑に行なって成功させた時代から続く伝統なのである。(了)
参考文献・資料
「広島東洋カープ70年史」(ベースボールマガジン社、2020)
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「1989−2000 90's広島東洋カープ」(ベースボールマガジン社、2021)
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関三穂・編『燃える赤ヘル軍団 広島カープ球団史』(恒文社、1979)
河口豪『栄光の広島カープ 風雪25年』(恒文社、1975)
河口豪『カープ風雪十一年』(青志社、2016。原著はベースボールマガジン社、1960)
西本恵『日本野球をつくった男 石本秀一伝』(講談社、2018)
グレート巨砲『赤ヘル偉人伝 広島カープ黄金戦士かく語りき』(白夜書房、2016)
堀治喜『カープ猛者列伝 私家版』(文工舎、2007)
高橋安幸『根本陸夫伝』(集英社、2016)
越智光夫「医師・ホプキンスの凱旋」(「文藝春秋」2013年9月号)
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
「ベースボール・レコードブック」(ベースボールマガジン社)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)
NPB 個人年度別成績
スタメンアーカイブ
スタメンデータベース
日本プロ野球記録
広島アスリートマガジン
週刊ベースボールONLINE「プロ野球20世紀・不屈の物語」
駒沢悟「波瀾万丈。水谷実雄『ジンちゃん』の野球人生」
週刊ベースボールONLINE「セ・リーグ6球団 1990年代の最強助っ人は誰だ?」
週刊ベースボールONLINE「栗原健太 引退惜別インタビュー」
週刊ベースボールONLINE「球団通訳を直撃! なぜエルドレッドは愛されるのか」
web Sportiva「 エルドレッド『ざるうどんが恋しい』」
週刊ベースボールONLINE「新井貴浩コラム 今週の感謝人 ブラッド・エルドレッド」
註
[1] シーズン途中に、辻井より1歳年上の山口政信と高木茂が入団した。
[2] 「広島東洋カープ60年史」37頁
[3] 『V1記念 広島東洋カープ球団史』178頁
[4] 50年までの登録名は「大沢清」。本稿は広島時代の「伸夫」で表記する。
[5] 「広島東洋カープ60年史」38頁
[6] 「広島東洋カープ60年史」38〜39頁
[7] 「広島東洋カープ60年史」39頁
[8] 『V1記念 広島東洋カープ球団史』276頁
[9] 『根本陸夫伝』80頁
[10] 『根本陸夫伝』82頁
[11] 「広島東洋カープ60年史」11頁
[12] 広島アスリートマガジン【蔵出しインタビュー】2021年5月17日
[13] 「広島東洋カープ60年史」61頁
[14] 「医師・ホプキンスの凱旋」
[15] 「プロ野球20世紀・不屈の物語」
[16] 『カープ猛者列伝 私家版』237頁
[17] 「波瀾万丈。水谷実雄『ジンちゃん』の野球人生」
[18] 「広島東洋カープ 黄金時代の記憶」40頁
[19] 「広島東洋カープ 黄金時代の記憶」40頁
[20] 「広島東洋カープ 黄金時代の記憶」66頁
[21] 「広島東洋カープ 黄金時代の記憶」66頁
[22] 広島アスリートマガジン「カープOB長内孝が語る、4番の重圧とミスター赤ヘルの偉大さ」2020年9月10日
[23] 「カープOB長内孝が語る、4番の重圧とミスター赤ヘルの偉大さ」
[24] 『赤ヘル偉人伝』149頁
[25] 『赤ヘル偉人伝』154頁
[26] 『赤ヘル偉人伝』157〜158頁
[27] 「セ・リーグ6球団 1990年代の最強助っ人は誰だ?」
[28] 広島アスリートマガジン【カープの名スカウトの証言 浅井樹】
[29] 「広島東洋カープ60年史」80頁
[30] 「栗原健太 引退惜別インタビュー」
[31] 「広島東洋カープ70年史」はエルドレッドが「球団の外国人選手では最長」と記している。
[32] 「球団通訳を直撃! なぜエルドレッドは愛されるのか」
[33] 「エルドレッド『ざるうどんが恋しい』」
[34] 「広島東洋カープ70年史」27頁
[35] 史上最年長MVPは88年門田博光(南海)の40歳。
[36] 「新井貴浩コラム 今週の感謝人 ブラッド・エルドレッド」



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