ポジション系譜学・ヤクルト捕手編(2025ver.)
■草創期の捕手陣
1949年11月26日、日本野球連盟はセントラル、パシフィックの2リーグに分立した。以降、続々と新球団が加盟するのだが、国鉄スワローズがセ・リーグ加盟を承認されたのは年が明けた50年1月12日。新球団の中で最も遅いスタートとなったため、同リーグの大洋や広島のように、既存球団からの選手供出を得られなかった。また、アマチュア球界の目ぼしい選手も既に他球団と契約していた。そのため、国鉄各地管理局の野球部から選手をピックアップすると同時に、社会人の選手および3月卒業予定の大学、高校の選手を集めて入団テストを行なう。
こうして集められた創設メンバーの中に、捕手登録は3人。米子鉄道管理局の井上親一郎、東京鉄道管理局の深沢督、社会人コロムビアの勝田興である。さらに開幕後、社会人の東京機器工業から小川利雄が加わった。年齢は井上が31歳、深沢が26歳、勝田が24歳、小川が34歳。50年3月10日、開幕の大洋戦(下関)のスタメンは井上だった。
だが、プロ経験のない選手ばかりで勝てるはずもなく、5月中旬には勝率1割4分台で最下位という惨状に陥る。さらに、6月半ばに正捕手の井上が風邪による発熱で寝込み、2番手捕手の小川は突き指で出場できなくなった。
急遽、捕手補強の必要に迫られた監督の西垣徳雄がセ・リーグ事務局長の德永喜男(のちスワローズ球団常務)に相談すると、ひとりの選手を推薦された。徳永と軍隊で一緒だった宇佐美一夫という男だ。静岡中(現・静岡高)で30年春夏の甲子園に出場し、横浜高商を経て大連満鉄倶楽部の「4番・捕手」として活躍した。14年3月生まれだから、このとき36歳になる。徳永が自著で回想する。
「宇佐美の現住所がどこかわからない。そこで宇佐美をよく知る中沢不二雄氏(後のパ・リーグ会長)に連絡をとってみると、横浜に住んでいるらしいが確かなことは木村コーヒー店に聞いてみよとの返事。さっそく問い合わせてみると、住所はわからないが、週日は横浜商工高校へ給食用のパンを売りに行っているとのことで、横浜商工気付で電話連絡をとった」[1]
入団を承諾した宇佐美は即、遠征への同行を命じられ、6月25日の大洋戦(甲子園)に「5番・捕手」のスタメンで出場する。ようやく初代正捕手が固まったのだ。宇佐美は87試合にマスクを被り、打率.284、5本塁打、33打点。翌51年は一塁手にコンバートされ、52年限りで引退した。
球団草創期、50年から57年までの捕手出場数は以下の通りだ。
佐竹一雄(球歴は大東京〜松竹捕手編参照)は、51年2月に金銭トレードで松竹から移籍してきた。パシフィック〜太陽〜大陽〜松竹と球団名が転々としたチームで5年のキャリアを有しており、前年は初代セ・リーグ優勝チームのメンバーに名を連ねたが、正捕手・荒川昇治の控えという立場に甘んじていた。だが、大ベテランの宇佐美を緊急補強して初年度をしのいだ国鉄にとっては、26歳(移籍時)と働き盛りの年代で、是非とも手に入れたい人材である。佐竹の加入によって、前述のように、宇佐美は一塁手にコンバートされた。
以降、佐竹は国鉄の正捕手としてプレイする。51年はチームトップの105安打、打率.297(リーグ12位)をマーク。そして、引退する57年までの間に完全試合1回、ノーヒットノーラン2回で捕手をつとめた。完全試合は57年8月21日、中日戦(中日球場)の金田正一。ノーヒットノーランは51年9月5日阪神戦(大阪球場)の金田と、56年5月3日中日戦(中日球場)の大脇照夫。佐竹は大陽時代の48年9月6日の阪神戦(甲子園)で真田重蔵がノーヒットノーランを達成したときもマスクを被っているから、生涯で4回、ノーヒットノーラン試合(完全試合含む)の捕手をつとめた。これは、和田博実(西鉄)と並ぶNPB記録だ[2]。なお、この時代の国鉄の投手では宮地惟友が56年9月19日の広島戦(金沢)で完全試合を達成しているが、このときの捕手は入団3年目の阿井利治だった。
引退後はフロントに入り、広報担当などを経て、球団取締役をつとめた。
谷田比呂美は24年兵庫県生まれ。尼崎中(現・県立尼崎高)から鐘紡を経て48年に阪神に入団するが、正捕手に徳網茂がいたため、8シーズンを控えとして過ごす。一塁手として76試合に出場した55年オフに国鉄に移籍し、56年も一塁手として出場。57年から捕手に戻り、同年は佐竹と併用された。58年以降は根来広光(後述)が正捕手となったため再び控えに回るが、金田正一が先発するときは谷田がマスクを被った。58年4月5日、開幕の巨人戦(後楽園)で金田がルーキー長嶋茂雄を4打数4三振に打ち取った試合でボールを受けていたのも谷田だった。60年限りで引退し、64年までコーチをつとめた。
■根来広光の時代
「お前、今日からキャッチャーやれ」
投手だった根来広光は、二軍の練習場を訪れた監督の宇野光雄から唐突な命令を受けた。57年夏のことである[3]。
根来は36年広島県生まれ。府中高から東京鉄道管理局を経て57年に投手として入団した。56年の都市対抗に熊谷組の補強選手として出場し、準優勝。日本石油との決勝では、のちに巨人のエースになる藤田元司と投げ合った。
1年目の開幕から一軍に帯同し、4月10日の中日戦(中日球場)で先発の田所善治郎をリリーフして4回から登板、9回まで6イニングを投げた。だが、西沢道夫と岡嶋博治にホームランを打たれるなど5失点を喫し、試合後に二軍行きを言い渡される。宇野監督にキャッチャー転向を言い渡されるのは、それから3ヶ月後のことだ。
根来はブルペン捕手として一軍に帯同し、金田正一をはじめとする投手陣の球を受けながらキャッチャー修業を積んだ。そして8月30日の大洋戦(後楽園)に途中出場で捕手デビューを果たすが、なんと、初球のストライクを後逸してしまう。それでも同年は捕手として17試合に出場。翌58年は、前述のように開幕戦は谷田比呂美がマスクを被ったが、2戦目以降〝金田以外の投手が先発する試合〟は根来がスタメンで起用される。こうして、正捕手・根来広光の時代が始まった。
捕手転向後、根来は球団から「国鉄スワローズのキャッチャーはな、金田の球をノーサインで捕って一人前なんだからな」と言われた[4]。前述のように、当初、金田が投げる試合は谷田がスタメンで起用されていた。「金田・根来」が初めて先発バッテリーを組んだのは、同年5月31日の大洋戦(川崎)である。根来が、正真正銘の「正捕手」になった日といえるかもしれない。
だが、金田の球を受けるのは容易ではなかった。「今日からお前がサインを出してみい」と言われてカーブのサインを出したらストレートを投げてきた。ボールはミットにかすらずバックネットへ……。そんなことが何度も繰り返された後、金田がこう告げる。
「いいか、ゴロ、よく聞けよ。キャッチャーっていうのはな、カーブが来るだろうとか、ここにストレートが来るはずだとか、思い込んじゃダメなんだ。たとえサインを出してもな、サインちがいのボールが来ても捕れなければ一流のキャッチャーにはなれないんだ。俺はな、お前を一流のキャッチャーにしたくて、わざとサインちがいのボールを投げたんだから」[5]
正捕手になって4年目の61年に、根来は金田の球をノーサインで完璧に捕球できるようになった。カーブを投げるとき、ストレートを投げるときの微妙なフォームの違いを瞬時で判断できるようになったのである。さらに、ミットにも独特の工夫を施していた。〝あんこ〟と呼ばれる中央の綿を抜いて懐を深くし、まともに受けるのではなく、横から掴み取るように捕球した。金田の豪速球から受ける衝撃を緩和するためだった。
「ある時、ブルペンで僕があまりにも簡単にノーサインのボールを捕ってしまうので、その日、先発予定の金田さんが僕を呼んで、こう言いました。『おい、ゴロ、俺の球、威力がなくなったか』。心配そうな顔の金田さんに向かって、僕は笑顔でこう答えました。『いや、そうじゃないですよ、金田さん。僕がうまくなったんですよ』」[6]
金田が65年から巨人に移籍すると、敵になった金田を根来はよく打った。フォームで球種が読めるからだ。チームメイトの豊田泰光から「速球とカーブの見分け方を教えてくれ」と頼まれたが根来は応じなかった。誰にも教えないことが、かつての女房役の仁義だと思っていたからだ[7]。
61年の3位以外は万年Bクラスだった国鉄だが、球団創設から11年の間に3人の「完全試合投手」を輩出している。2022年の佐々木朗希(ロッテ)まで「完全試合投手」は16人いるが、国鉄の3人はチーム別で最多である[8]。前述のように、宮地惟友のときの捕手は阿井利治、金田正一のときの捕手は佐竹一雄だったが、61年6月20日の中日戦(後楽園)で森滝義己が達成したときの捕手は根来だった。
「完全試合というのはピッチャーの名前しか記録に残りませんが(中略)キャッチャー同士では勲章です。『俺は完全試合やったぜ』『俺はノーヒットノーランを二回もやった』って」[9]
そう語る根来は、翌62年もあと一歩までいった。7月12日の阪神戦(後楽園)で、先発の村田元一は9回ツーアウトまで一人の走者も許さない。「2年連続の完全試合捕手」という快挙が目前だ。打席には代打の西山和良。西山は、キャッチャーミットの位置をさりげなく観察するクセがあった。根来は外角スライダーのサインを出し、わざと一瞬、内角に構えた。クセを逆手にとったのだ。作戦は成功し、打球は当たりそこねのファーストゴロ。ところがイレギュラーバウンドして、一塁手の星山晋徳のミットを弾いてしまう。記録は内野安打──。
「村田は実にサバサバしてましたよ。(中略)悔しいのはこっちですよ。僕から見れば、相手の裏をかいて見事に打ち取ったんですから。あーあ、二年続けて完全試合だったのになぁって」[10]
大エース・金田正一が64年オフに巨人へ移籍し、翌65年4月23日に国鉄が球団経営からの撤退を発表、5月10日にサンケイ新聞とフジテレビに経営権を譲渡[11]して「サンケイスワローズ」となる。さらに66年からは「サンケイアトムズ」にチーム名が変更された。
環境が激変する中、66年に30歳になった根来は、若手の岡本凱孝(後述)に出番を譲るようになった。そして同年オフ、阪急へのトレードを通告された。68年限りで引退した後は、阪急、ロッテ、ヤクルト、オリックスでコーチ、二軍監督、スコアラー、編成等を歴任する。74年に金田が監督をつとめるロッテに一軍バッテリーコーチとして招かれ、同年の日本一に貢献。現役時代に味わえなかったバッテリーの栄光を、監督・コーチとして分かち合った。
09年11月27日に、73歳で死去。告別式では、金田の弔辞が代読された。
「根来が逝ってしまったという知らせを聞いた時、最初にフッと頭をよぎった記憶は鹿児島県湯之元で根来を背負って山坂の上り下りを繰り返している日々だった。あの時のズシリとする根来の重みが今も背中に残っている。あぁ根来よ、それにしても国鉄は弱いチームだったよなぁ。本当に弱かったぁ。でもそんな中でも相手にサインを盗まれないように工夫していたよな?(中略)本当はワシと根来だけしか分からないサインがあったんだよな。いつも一生懸命だったよな。それに私が打たれて負けた時なんか『お前のせいだ!』と自分勝手に責めまくったこともあった。そんな時、悔し涙を流していた根来の姿も鮮明に覚えているよ。(中略)根来よ、本当にありがとう。また一緒にバッテリーを組もうではないか。それまではどうか安らかに眠ってください。また会おう」[12]
58年から根来が着けた背番号「27」は、この後、正捕手の番号として継承されていく。
根来の時代に2番手捕手だったのが、平岩嗣朗[13]だ。36年愛知県生まれで、根来の1学年上になる。愛知高から立命館大を経て58年に入団し、1年目から一軍に帯同した。65年まで8年在籍して引退。捕手出場数の最多は64年の58で、自己最多の31試合スタメン出場。同年に10勝した佐藤進とコンビを組むことが多かった。
■大矢明彦の時代
チーム名が「サンケイアトムズ」に変わった66年から69年(69年は「アトムズ」)までの、捕手出場数の変遷を見よう。
岡本凱孝は40年大阪府生まれ。浪華商(現・大体大浪商)では張本勲と同期で、立教大を経て63年に入団した。根来と平岩がいたため最初の2年は出場機会に恵まれなかったが、3年目の65年に出場数で平岩を抜いて2番手捕手に格を上げ、飯田徳治が新監督になった66年、開幕2戦目の阪神戦(甲子園)でスタメンマスクを被って以降、主戦捕手として起用される。同年オフに根来が阪急へ移籍した背景には、この世代交代があった。とはいえ、根来と岡本の年齢差は4つだから、それほど開きがあるわけでもなかった。翌67年も正捕手として自己最多の出場数を記録したが、なんと、同年オフに西鉄への移籍を通告される。球団は、さらに大胆な捕手の世代交代を考えていたのである。
加藤俊夫は48年宮城県生まれ。仙台育英高3年次の65年ドラフトで大洋に2位指名されるが、拒否して社会人の日本軽金属に入社。翌66年第2次ドラフトで1位指名したサンケイに入団した。
高校時代から強肩強打の捕手として評判だった加藤は、指名順位が示すように、球団期待のルーキーだった。根来が着けていた背番号「27」を与えられるとともに、67年1月から水野成夫オーナーの邸宅に寄宿して、初代正捕手で当時は二軍監督だった宇佐美一夫から専任指導を受ける〝英才教育〟を施された[14]。
ルーキーイヤーの67年に一軍で41試合に出場して経験を積むと、前述のように、同年オフに正捕手の岡本凱孝が放出され、さらに大洋から移籍してきたベテランの島野雅亘も退団。お膳立てを整えられた加藤は、68年、69年と正捕手としてプレイすることになる。
とはいえ、この捕手陣の世代交代は、後世から見ると〝急ぎ過ぎ〟の感がある。68年に加藤の2番手捕手だったのは、前年まで外野手だった別部捷夫。プロ6年目で、それまで一軍での捕手経験は皆無だった。翌69年の別部は1試合も出場できず、同年の2番手捕手をつとめたのは、やはり前年まで外野手登録だった久代義明だ。性急な人員整理の影響で、加藤以外の捕手層が目も当てられないほど薄くなってしまったのである。
69年秋のドラフトは、そんなチーム事情を反映した指名となった。1位で仙台商の八重樫幸雄(後述)、7位で駒沢大の大矢明彦(後述)、11位で日立製作所の内田睦夫と3人の捕手を指名。内田に入団を拒否されると、ドラフト外で石塚雅二(東京ドラゴンズ[15])、奥薗満(鹿児島商高)と2人の捕手を獲得して、一挙に4人の新人捕手が加わることになった(なお、石塚と奥薗は一軍出場機会がないまま退団)。
明けて70年。チームは春先から低迷した。4月は5勝7敗1分だったが、5月に入ると4連敗、5連敗、4連敗という有様で、5月30日の中日戦(中日球場)を終えた時点で月間成績は3勝13敗。翌31日の同カードで加藤はスタメンから外れ、ルーキーの大矢が起用された。この日はダブルヘッダーだったが2試合とも大矢が出場し、第1試合は2−1の投手戦で勝利、第2試合は4−4の引き分け。その後も大矢はマスクを被り続け、6月3日の広島戦(東京スタジアム)から7日の巨人戦(神宮)まで4連勝。捕手が大矢になってから、チーム成績は5勝1敗1分となった。
その直後のことである。試合のなかった6月15日に、加藤が交通事故を起こした。しかも、それは無免許運転だった。球団は18日に、加藤に無期限出場停止処分を下す。グラウンドから消えた加藤はシーズン終了後に解雇され、謹慎期間を経たのち、72年に東映で復帰する(以降については日本ハム捕手編参照)。
加藤が根来から受け継いだ背番号「27」は、71年から大矢の背中に移った。大矢明彦の時代は、こんな形で始まったのである。
大矢は47年12月東京都生まれ。48年1月生まれの加藤とひと月違いの同学年だ。王貞治に憧れて中等部から早稲田実業に入学し、そのまま高等部へ。2年秋の大会中にエースが肩を壊し、捕手だった大矢はチームメイトと2人で部屋に呼ばれる。「どっちかピッチャーをやれ」と命じられ、ジャンケンに勝った大矢が投げることになった。ちなみにそのチームメイトは、後年、ヤクルトで再会する荒川尭(三塁手編参照)である[16]。その後、3年秋に早稲田大野球部のセレクションを〝投手として〟受けたが落ちてしまい、駒沢大へ進む。大学では捕手に専念し、前述のように69年ドラフト7位で入団した。
1年目から正捕手の座を得た背景には加藤の不祥事があったのだが、それだけではない。大矢には、運をつかむ実力があった。
最初に見せた〝実力〟は、その強肩である。70年の盗塁阻止率はリーグ1位の.568(盗塁企図数88、盗塁刺50)。ちなみに古田敦也(後述)の1年目、90年の盗塁阻止率は.527(盗塁企図数55、盗塁刺29)だから、ルーキーイヤーの数字は大矢が上回っている。以降、77年まで8年連続で盗塁阻止率4割以上を記録し、そのうち4回は5割以上[17]。72年に制定されたダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)のセ・リーグ捕手部門初代受賞者となり、以後、同賞を計5回獲得する(72、75〜78年)。
次に示した〝実力〟は、巧みなリード術だった。同期入団の八重樫幸雄は、大矢のリードの特徴をこのように語る。
「キャッチャーには『ピッチャー主体』『バッター主体』の2パターンがあるんですが、大矢さんはどちらも使い分けていましたね。(中略)印象的なのは『バッター主体』の時のリードで、インコースの使い方がすごく上手なんです。バッターの足の踏み込み方を見ながら、『ここは外狙いだな』という時に、インコースにズバッと決めるから見逃し三振が多かった。『このカウントでまさかインコースを攻めるのか!』と、ベンチで見ていて僕もよく驚かされました」[18]
また、一流の捕手に不可欠な〝洞察力〟も備えていた。大矢の自著に、それを物語るエピソードが記されている。
「長嶋さんの最初の監督時代のことだ。当時は長嶋さん自ら三塁コーチに立ってサインを出していた。長嶋さんはサインのわかりやすい人で、例えばコーチャーズボックスのラインを踏んでいる、またいでいるのがキーになっていたり、背中を向けているときがキーになっていたりした。走者が三塁にいて打席にはデーブ・ジョンソン。スクイズのサインが出された。一瞬、『まさか』と思ったが、ジョンソンの表情を見ると彼自身もびっくりしている。これでスクイズを確信した。ところが、誰も予想していないジョンソンのスクイズをウエストで外してしまえば、こちらがサインを見破ったことがバレてしまう。私はカーブで外すことにした。こうすれば、相手ベンチも『たまたまだ』と思ってくれる」[19]
さらに打撃面でも、71年は2ケタの10本塁打、72年はリーグ19位の打率.269。佐竹一雄の通算打率が.239、根来広光が.214だったから、それまでの正捕手を凌駕する打力を示した。
こうして迎えた78年、9年目のシーズン。30歳になった大矢は、まさに円熟期に入っていた。同年、巨人V9の扇の要だった森昌彦(現・祇晶)がバッテリーコーチに就任し、大矢の捕球姿勢を矯正しようとするが、頑として応じなかった。
「僕はゲームで投球に備えて構えるときに右足の位置が5センチか10センチくらい、左足より引くんです。そのほうがスローイングに行くタイミングがつかみやすいという自分なりの感覚があったからです。でも森さんは平行に構えろ、投手に正対しろ、という考え。僕もやってみたのですが、やっぱり、もともと自分がやっていた方法のほうがいいなというのがあり、そういう考え方の違いはしょうがなかったですね。(中略)ゲームで100%の力を出すにはそれがベストだと自分で思いましたので」[20]
こんなエピソードもある。技巧派サウスポーの安田猛とバッテリーを組むときはノーサインだった。独特の速いテンポで投げ込む安田の特徴を活かすにはノーサインのほうがよいという判断で、速球派と技巧派の違いはあるが、金田・根来のバッテリーからつながる〝伝統〟ともいえる。根来と同様、大矢も自身のキャッチング技術に自信があったのだ。それに対して森は「安田のときもサインを出せ」と言う。しかし、これにも応じなかった。
「(投球の間が)長くなるとダメなんですよね。『サインを出すふりするけど構わないで投げてくれ』と内緒で言ってました」[21]
後年の話になるが、引退後に大矢は横浜でバッテリーコーチと監督をつとめ、その時代に谷繁元信が球界屈指の捕手に成長した。それを継いだ権藤博がチームを日本一に導いた後、01年に森が監督に就任する。だが、その年のオフに谷繁がチームを去り、横浜は長い低迷期に突入していく。捕手をめぐる2人の因縁は、時代とチームを超えて続いていた。
とはいえ、森、そして森を招聘した広岡達朗監督が、大矢の野球人生に大きな宝物をもたらしてくれたことは確かな事実だ。周知のように、78年にチームは念願の初優勝を果たし、日本シリーズで阪急を破って日本一に輝く。リーグ優勝を決めた10月4日の中日戦(神宮)で松岡弘を完封に導いた大矢は、試合後、若松勉とベンチで抱き合って号泣した。正捕手にとって最大の勲章はチームの勝利であり、それを体現していたのがV9捕手の森だった。大矢は「日本一チームの正捕手」という称号を手に入れ、森と対等の立場にたったのである。
78年の日本一は、広岡や森が〝巨人式〟の野球スタイルを導入した改革の成果として語られることが多い。もちろん、そういう側面は大きかっただろう。若松勉(外野手編参照)の意識改革、水谷新太郎(遊撃手編)の技術改革などが、さまざまな取材で語られている。だが、広岡や森に変えられた選手ばかりではなかった。78年のチームには、すでに確固たる自己を確立していた「正捕手」が存在した。
■八重樫幸雄の時代
前述のように69年ドラフトで1位指名され、7位の大矢と同期入団した八重樫幸雄は、大矢が正捕手の地位を固める中、下積み生活を送っていた。八重樫は高卒で大矢は大卒だからデビューが遅くなるのは想定内だが、それにしても大矢の牙城は堅固で、その下積み生活は長くなる。大矢の年間出場数が100を切り、八重樫の出場数と接近するのは81年からだ。そして83年に、2人の出場数がついに逆転する。この年、八重樫は32歳。入団14年目にしてようやく「正捕手」の座をつかんだ。
51年宮城県生まれの八重樫は、仙台商1年の67年に一塁手として、3年の69年に捕手として夏の甲子園に出場している。69年はベスト8まで勝ち進み、強肩強打の捕手としてスカウトの注目を集めた。それが秋のドラフトでの1位指名へつながっていく。73年にイースタンリーグで本塁打、打点の二冠王を獲得するなどドラ1の評価に相応しい力を示していたが、大矢がいるから捕手では使えない。68年から70年途中まで監督だった別所毅彦から「外野をやれ」と言われ、71年から73年まで監督だった三原脩から「サードをやれ」と言われた[22]。実際、71〜80年に外野で17試合、サードで4試合出場している。
転機となったのは、83年に打撃コーチとして復帰した中西太[23]との出会いだった。八重樫は30歳になる頃から乱視のためメガネをかけていたが、バッティングの際に、メガネのフレームで視界が狭くなるという悩みを抱えていた。中西のアドバイスを得て、少しでも視界を確保するため、投手に対して顔が正面を向く、極端なオープンスタンスで構えることにした。80年代の野球少年たちがこぞってマネをした、独特の〝八重樫打法〟の誕生である。83〜85年は3年連続で2ケタ本塁打を打ち、85年はリーグ10位の打率.304をマーク。規定打席に到達して打率3割を超えた捕手は、この年の八重樫が球団史上初だった。
メガネは捕手としての守備面にも影響しそうだが、ここでも八重樫は先駆的な工夫をしている。
「あの頃のキャッチャーマスクって、メガネをかけてマスクをつけるとメガネとマスクがぶつかっちゃって使えないんですよ。だから、最初の頃は前に膨らみが大きい、審判用のマスクをかぶっていたんだけど、いつまでもそれを使うわけにはいかないから、スポーツメーカーに頼んで、メガネをかけたままかぶれるマスクを開発してもらったんだよね。後に、古田(敦也)はそれを使って活躍したんだよ」[24]
80年代中盤、チーム状態はドン底だった。78年の強さは持続せず、再び、Bクラスの常連に戻ってしまう。八重樫が正捕手だった83〜87年の順位は6位、5位、6位、6位、4位。武上四郎、土橋正幸、関根潤三と、5年間で3人の監督が入れ替わった。当時の主力投手は尾花高夫、梶間健一、荒木大輔、高野光。78年の投手陣と比べて、極端に力が落ちるメンバーではなかった。しかし、チームの歯車が狂ってしまうと、勝ちがなかなかついてこない。リードする八重樫は、そんな苦渋を誰よりも感じていた。
「1980年代の低迷は僕らキャッチャーのせいでもあるよね。でも、言い訳になるけど、当時は誰もキャッチャー、バッテリーを指導できる指導者がいなかったんだ。僕の場合も、野村(克也)さんが監督になって初めて、配球や打者心理について学んだから。だから、当時はよく古田(敦也)に言いましたよ、『お前は幸せだな、いい時期にプロ入りしたな』って。そういう意味でも、野村さんのヤクルト監督就任は大きかったし、古田もそういう運を持った男だったんだと思います」[25]
90年から稀代の名捕手・野村克也がチームの指揮をとる。それによって、ヤクルトの捕手史は劇的な展開を遂げることになる。八重樫は代打要員として、そして93年限りで引退した後はコーチとして、その新時代に伴走していく。
■古田敦也の時代
80年代最後の2シーズンは、八重樫に代わって秦真司が主戦捕手をつとめた。秦については、外野手編で詳述する。
89年オフ、関根潤三に代わって野村克也が監督に就任。その直後に行なわれたドラフトで、ヤクルトはトヨタ自動車の古田敦也を2位で指名した。
古田を指名する経緯について、野村は自著でこのように書く。
「ドラフト会議前、片岡宏雄スカウト部長に聞いた。(中略)『いい捕手はいないのか?』『メガネをかけているんですが……』『昔はメガネをかけた捕手は(マスクをかぶるとき邪魔なので)ダメだという固定観念があった。今はメガネも軽量化され、ましてコンタクトレンズまで出来ている。関係ないよ』『それならいいのがいます。古田敦也。ただ、打撃には目をつぶってもらえますか』『捕手と遊撃手は守備が一番。打撃は二の次でいい』」[26]
一方、片岡の著書によれば、古田を推す片岡に対して、野村は「眼鏡のキャッチャーはいらん。大学出で日本代表だからと言っても所詮、アマチュア。プロはそんなに甘くない。それなら元気のいい高校生捕手を獲ってくれ。わしが育てる」と拒絶したという[27]。それを踏まえて、片岡は野村を痛烈に皮肉っている。
「眼鏡のキャッチャーはいらない、と言ったはずが、いまでは『古田はわしが育てた愛弟子』にすり替わっている。その一面がないとは言わないが、古田がそう自覚しているのかは本人に聞いてみなければわからない」[28]
片岡の著書は11年に刊行されているが、その9年後に刊行した自著で野村はこう書く。
「世間では、私もメガネを理由に古田の指名に反対した、などと言われている。それをスカウトが説得して二位で指名して入団にこぎつけた、といった話が広がっているようだ。しかし、これはとんでもない誤解、いや捏造だ。(中略)のちの名捕手・古田を獲得したことを手柄にしたい者がいて、そのダシに私が使われたのだろう。つまらない話である」[29]
野村も片岡も鬼籍に入り、真相を知るすべはない。だが、こうした〝論争〟が展開されたのは、野村が書いているように、入団後の古田が「名捕手」に成長したからこそである。
古田は65年兵庫県生まれ。小学生で野球を始めたときからキャッチャーだった。川西明峰高から一般入試で立命館大へ進み、大学4年時にはドラフト候補に挙げられるほど成長していた。事実、阪神は指名を検討したが「メガネをかけた捕手は大成しない」という理由で見送っている。社会人のトヨタ自動車時代に日本代表の正捕手となり、88年ソウル五輪で野茂英雄、石井丈裕、潮崎哲也、渡辺智男ら、のちにプロ入りする投手たちとバッテリーを組んで銀メダルを獲得。そして、ヤクルト入団へと至る。与えられた背番号は、根来広光、加藤俊夫、大矢明彦と受け継がれた「27」。大矢が85年限りで引退した後は3年間欠番で、前年は外国人投手のロン・デービスが着けていた。
入団時の状況について、古田が回想している。
「そのときキャッチャーが六人か七人いて、レギュラーの秦さん、ベテランの八重樫さん、君波さん、中西さん、飯田でしょ。それで僕かな。僕は守りが得意だったんで、それをアピールするしかなかった。このなかで守りがいちばんよかったのが飯田だったんですよ。肩も強いし、動きも俊敏だし。だから自分のライバルは飯田だと。(中略)飯田になんとか勝てれば、一軍に残っていけるなと考えていた」[30]
高卒3年目の飯田哲也は、古田より3歳年下である。このあと、飯田は野手にコンバートされ、90年代ヤクルト黄金期の名センターとして活躍する(外野手編参照)。
野村は、早い段階で古田の能力を見抜いていた。
「キャンプのブルペンで投手の球を受けていた姿を見て、ひと目惚れしてしまった。(中略)古田は、基本的な捕球術と送球術は、すでに秀でたものをもっていた。『受ける』『投げる』に加えて、古田には股関節の柔らかさがあった。座っていると、お尻がペタンと地面についてしまうのだ。よく野球の世界では、捕手を評価するとき『座りがいい、悪い』などと言う。古田は抜群の『座りのよさ』を持った選手だった」[31]
八重樫幸雄も、キャンプの時点で大選手になる片鱗を感じたという。
「彼は手首が柔らかいのが特徴で、入団当初から実にしなやかなキャッチングができたんだよね。プロのピッチャーのストレートに力負けすることなく、スーッ、スーッとボールがミットに吸い込まれていくようなキャッチングは最初からできていた」[32]
惚れ込んだだけに、野村は古田の起用に慎重を期した。
「その時点で私の頭のなかではほぼ古田を正捕手に決めたのだが、開幕から各球団との対戦が一巡するまでは秦でいくことにした。(中略)1年目の開幕からいきなりレギュラーをもらったのではプロを甘く見てしまう。彼の人生にとってはよくないと思ったからだ」[33]
90年シーズンが開幕した。4月7日の巨人との開幕戦(東京ドーム)から26日の大洋戦(神宮)までの13試合は秦が先発でマスクを被り、28日の巨人戦(神宮)で初めて古田が「8番キャッチャー」でスタメンに名を連ねる。そして、秦がスタメンに戻った29日の試合で1ー11と巨人に大敗すると30日のスタメンは古田になり、それ以降、正捕手の座に固定されることになった。野村の著書には、このような記述がある。
「90年のとある巨人戦、打者は誰か忘れたが走者なし、カウントは3ボール0ストライク。相手ベンチは出塁させたい、走者をためたい場面だから、指示は100パーセント『待て』。こちらは走者を出したくない。言わずもがな『ストレートでど真ん中』。それを、ある捕手は変化球を投げさせて四球。その捕手は『3ボールからでも打ってくると思いました』と答えた。『ストレートでど真ん中』を本塁打されてもたかだか1点なのに。投手も投手、首を振ればいいのだ。これがヤクルトの野球か、と半ばあきれた。それで頭に来て、研修期間中の古田を『もういい、行け!』とヤケ気味で使った。それが直接のきっかけ。古田のレギュラー定着の時期が少し早まった」[34]
これが「古田敦也の時代」のスタートである。
ルーキーイヤーの90年、古田は106試合に出場し、リーグ1位の盗塁阻止率.527を記録してゴールデングラブ賞を獲得する。野村の見立ては間違っていなかった。ただ打撃成績は打率.250、3本塁打、26打点と平凡なもので、こちらも「打撃は二の次でいい」と言っていた野村の想定通りだった。
「野村克也監督から『全日本(大学選手権)に出ていたらしいが、何番を打っていたのだ?』と聞かれたので、『八番か九番を打っていました』と正直に伝えると、『アマチュアで八番、九番なら、プロでは一五番目くらいか。それじゃ到底使えないな』と言われてしまったのをよく覚えています。そうなると、課題は明確にバッティングということになります。監督の意識にある『一五番目くらい』をなんとか最低でも『八番』まで持っていかなくては使ってもらえません。ではバッティングを磨くにはどうしたらよいか。毎日一〇〇〇本素振りをしたらよいか、というとそんな単純なものではない。僕がまずしたのは、周りにたくさんいるプロのよく打つバッター達を間近で観察することでした。自分のバッティング練習よりも、観察の方を大事にしていたぐらいです。当時広澤克実さんや池山隆寛といったクリーンアップを打つ面々が、簡単にスタンドに放り込むような素晴らしいスイングをしていました。彼らを観ながら、どんなバットを使っているのか、どんな手の使い方をしているか、腰の回転はどうなっているのかなどを細かく観察したのです。(中略)それまでの意識を変えて、周りを観察することで、正しい努力を重ねることができるようになったのです」[35]
翌91年、古田は打撃開眼する。落合博満(中日)と熾烈な首位打者争いを繰り広げたのだ。残り1試合の時点で古田がリードしていたが、落合が10月15日の広島とのダブルヘッダーで6打数5安打と固め打ちして逆転した。16日の広島とのシーズン最終戦(神宮)に、古田はタイトルを賭けて出場する。そして第1打席で三遊間を破り、落合を再逆転したのだった。最終打率は古田が.3398、落合が.3395。僅か3毛差だった。92年から打順は「3番」となり、以降、守備の要であると同時に打線の主軸に座った。そして、リーグ優勝5回(92、93、95、97、01年)、日本一4回(93、95、97、01年)というヤクルト黄金時代を体現する存在となる。
07年まで実働18年。古田の業績をまとめておこう。MVP2回(93、97年)、首位打者1回(91年)、最多安打1回(93年)、ベストナイン9回(91〜93、95、97、99〜01、04年)、ゴールデングラブ賞10回(90〜93、95、97、99〜01、04年)、日本シリーズMVP2回(97、01年)。最優秀バッテリー賞は6回受賞しているが、西村龍次(91年)、岡林洋一(92年)、テリー・ブロス(95年)、田畑一也(97年)、五十嵐亮太(00年)、藤井秀悟(01年)とすべて違う組み合わせである。盗塁阻止率リーグ1位は10回を数え、90年から02年まで13年連続で4割を超えている。そのうち6割以上の阻止率が2回あり、93年の.644はNPB歴代最高記録[36]。通算2008試合は宮本慎也、若松勉に次ぐ球団歴代3位、2097安打も若松、宮本に次ぐ歴代3位。1009打点は歴代1位で、球団通算1000打点を超えているのは古田だけである(2025年終了時)。
また、98年から日本プロ野球選手会長に就任。球界再編騒動が起こった04年はシーズンと並行してオーナー側と交渉を続け、12球団制存続を訴えて史上初のストライキ決行を決断した。
前掲の90〜05年の捕手出場数に明らかなように、右手人差し指を骨折して戦列を離脱した94年と、晩年の05年以外はほとんどの試合で古田がマスクを被っている。この時代にヤクルトに所属した捕手たちは、ほとんど出番を与えてもらえなかった。
「古田の時代」に遭遇した不幸な捕手を2人挙げておこう。
野口寿浩は71年千葉県生まれ。習志野高から89年ドラフト外で入団した。つまり、古田と入団同期である。古田があっという間に正捕手となり、さらには球界を代表する捕手になっていく一方で、野口は二軍暮らしが続いた。ここまでは、大矢明彦と八重樫幸雄の関係性に相似している。
チャンスが来たのは5年目の94年。前述のように、右手人差し指を骨折した古田が戦列を離れたのだ。普通なら、2番手捕手として常にベンチ入りしていたベテランの中西親志が起用されるところだが、野村監督は、前年まで一軍で1試合しか出場していない野口を抜擢した。94年の古田と野口の成績を並べてみよう。
・古田 捕手出場数76/62安打/打率.238/3本塁打/19打点/盗塁阻止率.500
・野口 捕手出場数61/38安打/打率.270/0本塁打/10打点/盗塁阻止率.393
だが、野口が脚光を浴びたのはこの年だけだった。古田が健康体である限り、出番はない。97年には、野村監督の息子である野村克則に野口より多い出場機会が与えられた。同年オフ、野口は移籍を志願するが一旦は拒絶された。しかし年が明けた98年開幕直後の4月6日、突然、日本ハムの内野手・城石憲之との交換トレードが発表される。ヤクルトは正遊撃手の宮本慎也が脱税事件で出場停止処分を受け、日本ハムは捕手陣の補強を欲していた。両球団の利害が一致したトレードだったが、新天地で野口は積年の鬱憤を晴らすことになる。以降については日本ハム捕手編を参照されたい。
小野公誠は74年東京都生まれ。聖望学園から東北福祉大へ進み、96年ドラフト4位で入団した。1年目の97年7月20日、巨人戦(神宮)で三澤興一からプロ初打席初本塁打と派手なデビューを飾るが、98〜99年は一軍出場なし、00年は9試合(捕手出場数1)と足踏みが続く。ようやく2番手捕手の地位を得たのは01年シーズンで、以降、晩年の古田のリザーブ役をつとめ、古田が40歳になる05年に自己最多の62試合出場(捕手出場数54)を記録した。だが、古田が老いるのと同様、小野もすでに30歳を超えていた。ようやく正捕手の座が見えてきたときには、後ろから若手たちが迫っていた。
■〝ポスト古田〟は誰だ
05年オフ、古田は退任する若松勉の後任として、選手兼任監督に就任した。師匠の野村克也以来、NPBでは29年ぶりとなるプレイングマネージャーの誕生だ。だが、野村が南海でプレイングマネージャーをしていたときは「4番キャッチャー」だったのに対して、古田の場合は、選手としての「半リタイア」を意味していた。古田はチームを指揮するとともに、自らの後継者を育てなくてはならなかった。
06年以降の捕手出場数を見よう。
06年に古田が後継者に指名したのは、高卒7年目で24歳の米野智人だった。
82年北海道生まれ。北照高から99年ドラフト3位で入団した。身長183センチの大型捕手で、強肩と長打力がセールスポイント。古田というより城島健司タイプの逸材として期待された。だが、115試合に捕手として起用されたにもかかわらず、チャンスを生かせなかった。引退後の米野が、当時を振り返る。
「古田さんはキャッチャーを育てるつもりだった。そこで僕を気に留めて、期待してチャンスをくださった。ミスをしても使っていただいていたのに、そこでしっかり正捕手の座をつかめなかったのは、本当にもったいなかったと思います」
「ミスをしたとき、『次にミスをしたら、もう試合に出られなくなるな』という強迫観念を強く持ちまして。その中で野球をしていたので、どんどん、どんどん自信を失っていきました」[37]
07年以降は徐々に出場機会が減り、開幕から二軍暮らしが続いていた10年6月、投手の山岸穣との交換トレードで西武へ移籍。新天地では外野にコンバートされた。16年に日本ハムへ移り、同年限りで引退。西武時代の12年4月26日、ソフトバンク戦(Yahoo!JAPANドーム)で2点ビハインドの9回表にブライアン・ファルケンボーグから代打逆転満塁本塁打を打ち、西武ファンを歓喜させた。これが現役最後の本塁打だった。
福川将和は76年大阪府生まれ。大体大浪商から東農大生産学部(現・東農大北海道オホーツク)、三菱自動車岡崎を経て02年ドラフト5位で入団。30歳で迎えた07年、開幕2戦目の中日戦(ナゴヤドーム)にスタメン出場し(開幕戦のスタメンは古田)、08年まで2シーズンにわたって主戦捕手をつとめた。08年は盗塁阻止率.400(盗塁企画数45、盗塁刺18)を記録し、.367の阿部慎之助(巨人)、.366の矢野輝弘(阪神)、.333の相川亮二(横浜)、.328の谷繁元信(中日)、.309の石原慶幸(広島)と並居る正捕手たちを抑えてセ・リーグ1位になった。
12年限りで引退後、ブルペン捕手を経て、15年から捕手出身としては珍しい打撃投手に転身。超スローボールを打ち返す川端慎吾の独特の打撃練習でパートナーをつとめ、同年の川端の首位打者獲得に貢献している[38]。
この間、古田は07年限りで現役を引退し、同時に監督も退任。08年から高田繁がチームの指揮をとる。古田は、自らの手で後継者をつくることはできなかった。
08年のオフ、横浜の正捕手・相川亮二(球歴は横浜DeNA捕手編参照)は海外FA権を行使してメジャー移籍を目指した。だが契約はまとまらず、国内でのFA移籍に方針を転換する。もちろん、FA権を行使したうえで横浜に残留する選択肢もあった。だが横浜は相川を慰留せず、獲得に手を上げたヤクルトへ移籍することになった。
福川と同い年の32歳で、横浜時代に通算761試合でマスクを被った相川は、ヤクルトにとって得難い人材だった。相川ならあと数年、安心して正捕手を任せられる。その間に〝ポスト古田〟を育てればいい──。FA制度は93年オフから始まったが、ヤクルトからは選手が出ていくばかりだった。相川は、制度導入15年目にして、ヤクルトが初めて獲得したFA選手だったのである。
上の3シーズンが、ヤクルトにおける〝相川1強時代〟だ。付言すれば、生え抜きではない選手が正捕手になるのは、佐竹一雄以来である。
この間、11年シーズンは前半から首位を快走し、一時は2位に8ゲーム差をつけた。しかし8月から失速し、中日に逆転優勝を許してしまう。さらにCSでもファイナルステージで中日に敗れた。「キャッチャーで、レギュラーで出て優勝してなんぼというのを、ずっと目標にやってきた」相川は、現役時代の最も悔しい思い出として、2勝2敗(中日の1勝はアドバンテージ)で迎えたCS第4戦、トニ・ブランコに先制タイムリーとダメ押しのホームランを打たれて敗れた試合を挙げる[39]。
翌12年もCSに進出するが、ファーストステージで中日と当たり、1勝1敗で迎えた第3戦で8回裏にブランコに逆転満塁ホームランを打たれて敗退した。相川が自身の捕手人生で、日本シリーズという大舞台に最も近づいたのがヤクルトでの2シーズンだった。その夢は、ともにブランコの打棒に砕かれたのである。
■中村悠平の時代
11年から監督に就任した小川淳司は、99年から07年まで9年にわたって二軍監督をつとめていた。長い育成のキャリアを持つ小川は、若手を積極的に登用し、チームの新陳代謝を進めることが自らに期待された役割だと理解していた。
そして、12年シーズン。相川が開幕直後に故障すると、小川は高卒4年目の若手捕手を抜擢する。〝相川1強時代〟は、ベテランと若手の一騎打ちの時代に様相を変えた。
中村悠平は90年福井県生まれ。福井商で07年、08年の夏の甲子園に連続出場し、08年ドラフト3位で入団した。09年から11年まで3シーズンの一軍出場数は21試合、捕手出場数は14試合にすぎなかった。
上の3シーズンの相川と中村の成績を比較しよう。
【12年】
・相川 220打数54安打/打率.245/1本塁打/28打点/盗塁阻止率.395
・中村 209打数53安打/打率.254/1本塁打/15打点/盗塁阻止率.467
【13年】
・相川 219打数61安打/打率.279/6本塁打/30打点/盗塁阻止率.314
・中村 239打数56安打/打率.234/4本塁打/24打点/盗塁阻止率.233
【14年】
・相川 192打数48安打/打率.250/2本塁打/21打点/盗塁阻止率.135
・中村 325打数97安打/打率.298/5本塁打/41打点/盗塁阻止率.262
当時について、中村が振り返っている。
「僕は『相川さんを抜かないとレギュラーになれない』と思ってやってきました。キャッチャーには投手中心にいくのか、打者中心にいくのか、状況中心にいくのかという3つの考え方があるんですけど、相川さんはまず投手の良さを引き出しながら、どのタイミングで打者の弱点を突いていくのかを考えるんだと教えてくれました。僕も基本的なところは相川さんの考え方がベースになっています」[40]
出場機会を、そして念願の優勝を求めて、14年オフに相川は2度目のFA宣言をして巨人へ移籍する。だが、翌15年に「優勝捕手」となったのは中村のほうだった。
相川が去り、中村が正真正銘の正捕手となった最初のシーズンに、チームは14年ぶりのリーグ優勝を遂げる。大矢明彦が優勝したのは30歳、古田敦也が最初に優勝したのは27歳だから、25歳の中村は球団史上最も若い「優勝捕手」となり、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、そして石川雅規とのコンビで最優秀バッテリー賞を受賞した。
だが、翌年からチームは再び低空飛行に戻ってしまう。16〜20年の順位は5位、6位、2位、6位、6位。とりわけチーム防御率は5年連続で4点台と深刻な状態で、必然的に、正捕手・中村に対する評価も頭打ちとなった。20年は相次ぐ故障でわずか29試合の出場に終わり、気がつけば30歳を超えていた。
21年の春季キャンプで、高津臣吾監督は臨時コーチに古田敦也を招き、捕手陣の指導を託した。07年に退団して以来、球団とは疎遠だった古田をあえて招いたのは、「投手成績を向上させるためには捕手の意識も変えなくてはいけない」と高津が感じていたからだろう。意識変革の第一のターゲットは、もちろん中村である。「お前ら捕手がその気になることが何より大切だ」と古田に説かれた中村は、意識の変化を具体的に語っている。
「それまでの僕には、弱腰のところがありました。捕手というのは、ストレートを要求して、それを痛打されるのがいちばん嫌なんです。そこで相手をかわそうとするあまり、際どいところに変化球を要求して打たれたら仕方ない……と自分の中で逃げていました。でも昨季(注・21年)は、とにかくストライクゾーンで勝負していく姿勢を徹底し、勝負どころでもストレートを躊躇わず要求できるようになっていったんです」[41]
投手が誰であろうと判で押したようにコースにミットを構え、その結果、ボールが先行して余計にピッチングが苦しくなる──。そんなお馴染みの光景が変わったのが、21年だった。6年ぶりのリーグ優勝、20年ぶりの日本一。チーム防御率は前年の4・61から3・48へ大きく改善された。そして、中村の捕手としての「大きさ」を示したのが、ポストシーズンで若手の先発投手と組んだ2つの試合だ。巨人とのCS第1戦で20歳の奥川恭伸が完封。オリックスとの日本シリーズ第2戦で24歳の高橋奎二が完封。後者では、制球に難がある高橋に前半はカーブを多投させてペースを整え、終盤はストレート主体で強気に押し切った。老獪さと強気を使い分けるリードは、かつて〝暴れ馬〟と言われた石井一久を巧みに導いた古田の姿を彷彿とさせるものがあった。
15年以来2度目となる、ベストナインとゴールデングラブのダブル受賞。日本シリーズではMVPを獲得。シーズン終了後、中村の背番号が「27」に変更されると発表された。古田の退団以降、ずっと欠番だった「正捕手の背番号」が戻ってきたのだ。
23年WBC決勝戦で、中村は日本代表のスタメン捕手として出場。7人の投手をリードしてアメリカ打線を2得点に封じ、大谷翔平がマイク・トラウトを三振に打ち取る歴史的ウイニングボールを捕球した。
中村が35歳になった25年は、16年ドラフト5位で入団した27歳の古賀優大が、初めて出場数でチーム最多となった。
〝次の時代〟が始まろうとしている。
■総論──大矢と古田
文中で、大矢とバッテリーコーチの森昌彦とのエピソードを紹介した。「キャッチングの際は投手に正対して平行に構えろ」と指示する森に対して、右足を引いて構える自分のやり方を大矢は譲らなかった。
古田にも、似たようなエピソードがある。八重樫幸雄が回想する。
「古田はキャッチングの時に左足を後ろに下げて捕球するんです。右利きの場合、普通ならば右足を後ろに下げるでしょ? でも、古田の場合は左足を下げる。だから、『おいフル、どうして左足を下げるんだ? ランナーが出たらどうするんだ?』って聞いたことがあるんです。そうしたら、『ランナーが出たら元に戻します』って言うから、『それなら、最初から右足を下げた方がいいんじゃないの?』ってさらに聞いたんだよね。(中略)彼の場合、ももの付け根から膝までが長いんですよ。それに股関節が柔らかいから、ケツを深く落とすことができる。そうすると、左ピッチャーが右バッターのインサイドにスライダーを投げると、肘と膝がぶつかるんだって」[42]
大矢は右足を、古田は左足を引いて捕球していた。ともに、セオリーから外れたスタイルである。だが、大矢も古田も、それが自分に適したやり方だという考えがあった。
セオリーにとらわれない〝自己流〟を確立する。それは、金田正一のストレートを「まともに受けるのではなく、横から掴み取るように」捕球していた根来広光にも通底するものだろう。歴代の27番は、誰もが柔軟で、なおかつ、頑固だった。
誰かに教わったことをやっているだけでは一流になれない。最終的なスタイルは、自分でつくりあげなくてはならない。彼らが実践していたのは、そういうことだ。
大矢は自著で、古田について次のように書いている。
「野村監督が指導したからといって誰もが一流捕手になるとは限らない。古田があそこまで成長したのは、野村監督から学んだ捕手としての考え方やかけひきの仕方を、自分なりに常に考え、勉強していたからこそだろう」[43]
大矢は横浜の監督をつとめた96〜97年に「捕手・古田」と対戦している。敵将の立場から、古田をどう見ていたのか。
「捕手・古田を機能させないためにはどうしたらよいか。(中略)実際に選手に言ったのは『打者は反応するな』ということだ。感覚の鋭い古田は見逃し方一つで打者の待っている球を読み取る力がある。それをさせないためには反応せず、動きを見せないほかない。狙っている球が来たら初球からでも積極的に打たせるようにしていた」[44]
97年のペナントレースはヤクルトと横浜が優勝争いを展開し、結局、ヤクルトに軍配が上がる。古田は全試合に出場して2度目のMVPを獲得するのだが、両チームの直接対決では横浜が14勝13敗と勝ち越している。ヤクルトが負け越したのは横浜戦だけだった。スワローズ歴代の正捕手対決、新旧の27番対決で、大矢は意地を見せたのである。(了)
参考文献・資料
「スワローズ全史 国鉄・サンケイ・アトムズ・ヤクルトの軌跡」(ベースボールマガジン社、2020)
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「東京ヤクルトスワローズ40年史 1969−2009」(ベースボールマガジン社、2009)
「1950−2011 わが愛しのスワローズ」(ベースボールマガジン社、2011)
「愛しの東京ヤクルトスワローズ」(ベースボールマガジン社、2018)
「1976−1979 ヤクルトスワローズ 広岡革命」(ベースボールマガジン社、2019)
「1990−1998 野村ヤクルトID野球の遺伝子」(ベースボールマガジン社、2021)
徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』(ベースボールマガジン社、1992)
堤哲『国鉄スワローズ1950−1964』(交通新聞社新書、2010)
根来広光、小田豊二『みんな、野球が好きだった』(集英社、2006)
大矢明彦『大矢明彦的「捕手」論』(二見書房、2002)
野村克也『私の教え子ベストナイン』(光文社新書、2013)
片岡宏雄『プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である』(双葉新書、2011)
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古田敦也『うまくいかないときの心理術』Kindle版(PHP新書、2016)
「Number」2022年3月31日号
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
「ベースボール・レコードブック」(ベースボールマガジン社)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)
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註
[1] 『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』33頁
[2] 『プロ野球記録大鑑』910頁
[3] 『みんな、野球が好きだった』53頁
[4] 『みんな、野球が好きだった』72頁
[5] 『みんな、野球が好きだった』79〜80頁
[6] 『みんな、野球が好きだった』83頁
[7] 『みんな、野球が好きだった』82頁
[8] 巨人、近鉄、大洋、西鉄、ロッテが各2人。広島、東映、阪急が各1人。
[9] 『みんな、野球が好きだった』150頁
[10] 『みんな、野球が好きだった』154頁
[11] フジサンケイグループは62年8月から球団に資本参加していた。
[12] 『国鉄スワローズ1950−1964』134〜135頁
[13] 58〜60年の登録名は「次男」。
[14] 『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』170頁
[15] 米国で設立された国際的独立リーグ「グローバル・リーグ」に日本から参加したチーム。中日OBの森徹が選手兼監督だったが、同リーグは69年のみで解散した。
[16] 「デーブ大久保チャンネル」
[17] 『プロ野球記録大鑑』957頁
[18] 「八重樫幸雄のオープン球話」第63回
[19] 『大矢明彦的「捕手」論』99〜100頁
[20] 「1976−1979 ヤクルトスワローズ 広岡革命」19頁
[21] 「1976−1979 ヤクルトスワローズ 広岡革命」20頁
[22] 「八重樫幸雄のオープン球話」第1回
[23] 三原脩監督時代の71〜73年にもコーチをつとめている。
[24] 「八重樫幸雄のオープン球話」第1回
[25] 「八重樫幸雄のオープン球話」第11回
[26] 『私の教え子ベストナイン』125頁
[27] 『プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である』152頁
[28] 『プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である』154頁
[29] 『ヤクルトスワローズ論』158頁
[30] 『古田式』82頁
[31] 『ヤクルトスワローズ論』158頁
[32] 「八重樫幸雄のオープン球話」第10回
[33] 『野村ノート』55頁
[34] 『私の教え子ベストナイン』127〜128頁
[35] 『うまくいかないときの心理術』Kindle版
[36] 盗塁阻止率が明らかにされている1967年以降のランキング。
[37] 「パンチ佐藤の漢の背中!」
[38] 「野球界を支える舞台裏の仕事人」
[39] 「相川亮二 引退惜別インタビュー」
[40] 「石田雄太の閃球眼」
[41] 「Number」2022年3月31日号 27頁
[42] 「八重樫幸雄のオープン球話」第10回
[43] 『大矢明彦的「捕手」論』117頁
[44] 『大矢明彦的「捕手」論』117〜118頁



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