ポジション系譜学・ヤクルト一塁手編(2025ver.)
■草創期の老兵たち
国鉄スワローズの公式戦初試合、1950年3月10日の大洋戦(下関)のスタメン一塁手は、門司鉄道局から入団した岩橋利男だった。球団結成に際して全国の鉄道管理局野球部から集められた選手のうちの一人で、入団時は29歳。
戦力不足が否めないチームは開幕直後から低迷し、球団は慌てて戦力補強に奔走する。捕手編で記した宇佐美一夫の獲得もその一例だが、宇佐美に先立って途中入団した選手がいた。松竹ロビンスから移籍した森谷良平(球歴は大東京〜松竹一塁手編参照)である。
48年10月に大陽ロビンス(当時)に入団し、49年は89試合に出場して打率.254、15本塁打、41打点。だが、50年は大映から移籍した大岡虎雄がファーストに入ったため、出番を失っていた。こんな状況で国鉄から金銭トレードが打診される。森谷は、36歳でスワローズの一員となった。
5月3日の大洋戦(後楽園)に「4番ファースト」で出場。以降、同年代の宇佐美や藤田宗一(外野手編参照)とともに初年度の打線を牽引する。打率.288、21本塁打、56打点で、打率と本塁打はチームトップの数字だった。
53年限りで引退した後、社会人のいすゞ自動車で監督をつとめた。
50年から56年まで、草創期の一塁手出場数を見よう。
最初の4シーズンの一塁手は〝老兵〟ばかりだった。森谷、捕手兼任の宇佐美、そして52年に広島から移籍した辻井弘(球歴は広島一塁手編参照)も然り。カープの初代主将で、初代4番打者でもある辻井が国鉄に加わったのは35歳のシーズンだ。3年在籍し、54年限りで引退した。
20代の〝若手〟で初めて正一塁手になったのは、石田雅亮である。
36年東京都生まれ。明治高の一塁手として53年夏の甲子園に出場し、ベスト4まで勝ち進む。54年に入団し、翌55年にレギュラーに抜擢された。36年1月生まれだから、10代の正一塁手が誕生したわけだ。球団史には「本格的な左の強打者として、毎日の榎本一塁手(早実高)に劣らない逸材として球界の注目を集めていた」[1]とある。榎本喜八は石田の1学年下で、同じ左打ちのファースト、東京の高校出身ということで何かと比較されたのだろう。55年は2年目の石田が国鉄で、ルーキーの榎本が毎日で、ともにファーストのレギュラーを獲得したのだが、打率.298、16本塁打、67打点でパ・リーグ新人王を獲得した榎本に対して、石田は打率.244、1本塁打、28打点と平凡な成績に終わった。
61年まで8年在籍したが、後述する大物選手の移籍によってレギュラー定着は叶わず、結局、55年が最多出場のシーズンになった。
■飯田徳治の加入
スワローズ初代監督の西垣徳雄は、戦前から戦後にかけて東京鉄道管理局(東鉄)野球部の監督をつとめていた。42年に東鉄に入社した飯田徳治(詳しい球歴はソフトバンク一塁手編参照)は、同年の都市対抗で打率.556をマークして注目を集め、戦後、プロ野球が再開されると各球団から勧誘の手が伸びる。
47年に南海に入団して正一塁手となり、二塁手の鶴岡一人(52年以降は岡本伊三美)、三塁手の蔭山和夫、遊撃手の木塚忠助とともに〝100万ドルの内野陣〟を形成。打点王を2回(51、52年)獲得し、55年にMVPを受賞するなど南海黄金時代の中心選手として活躍した。
その飯田が、57年に国鉄へ移籍してくる。パ・リーグの常勝球団から、セ・リーグで万年Bクラスの新興球団へ。一見、不可解な移籍に思えるが、背景には、当時の「10年選手」という制度があった。飯田のように一つの球団に10年在籍すると「A級10年選手」の資格を与えられ、どの球団とも契約交渉を行なうことができた。そして別の球団と契約した場合、新しく契約を結んだ球団は旧所属球団に同年の年俸の半額を譲渡金として支払うという規定だ。飯田は、この制度を使って国鉄に移籍したわけである。
「いろいろな球団から誘いが来て、条件は阪急がよかったんですが、僕は実家が横浜なんで引退後を考え、家を横浜に建てていたんですよ。ちょうどいいやと思いまして」[2]
現在のFA制度と同様、旧所属球団の南海が好条件を提示すれば引き留めることもできたのだが、57年に33歳になる飯田に南海は固執せず、移籍はすんなりと成立した。
「飯田は『古巣へ戻ったような感じ』と語り、監督からコーチになっていた西垣徳雄は『7年目の恋が成就したようなもの』と喜んだ」[3]
ノンプロとプロの違いはあるが、かつて東鉄という〝国鉄の野球チーム〟に所属していた飯田にとって、まさに里帰りのような移籍でもあった。そして、かつて飯田をプロへ送り出した西垣にとっても感慨深い再会だっただろう。もし飯田が東鉄にとどまっていたら、50年の国鉄スワローズ創設メンバーに加わっていたのではないか。
57年の飯田は開幕から7月27日の阪神戦(甲子園)まで4番を打ち、28日の同カードから閉幕まで1番を打った。打率はリーグ4位の.293で、40盗塁を記録して自身初の盗塁王を獲得する。これで、南海時代の52年から6年連続で40盗塁以上となった。
飯田にはもう一つ、南海時代から継続している記録があった。連続試合出場記録である。48年9月12日の金星戦(後楽園)から始まった記録は、所属球団とリーグが変わっても途切れなかった。しかし、国鉄2年目の58年5月24日、阪神戦(甲子園)でアクシデントが起きる。一塁走者だった飯田は次打者のヒットで一気に三塁を狙って疾走するが、「ポンと音がして転んでしまった。でも、痛くもなんともないので、何が起こったのかよく分からなかった」[4]。診断はアキレス腱断裂。連続出場記録は1246試合でストップした。だが、この時点では藤村富美男(阪神)の1014試合を上回るNPB記録であり、のちに衣笠祥雄(広島)が更新するまで、長く歴代1位の座を譲らなかった。
61年からコーチ兼任となり、63年限りで引退。通算1978安打で、2000本まであと22本だった。64〜65年にコーチ、66〜67年に監督をつとめた。
なお、なぜか引退後の65年3月27日に飯田の「引退試合」が行なわれている。古巣の南海とのオープン戦で、場所は出身地の横浜平和球場(現・横浜スタジアム)。途中から一塁手として出場し、ライトフェンスを直撃する勝ち越しの三塁打を打った。当時の規定では、「10年選手」は引退試合をしてその収益金を取得できる権利があったのだ。対戦相手の南海も、この試合のギャランティを飯田に贈呈したという[5]。
■移籍組と助っ人の時代
飯田を皮切りとして、ファーストは主に「移籍組」に与えられるポジションになった。後述するように、この伝統は80年代前半まで長く続いていくことになるのだが、ここでは、飯田がレギュラーを譲った後の62年以降を見ていこう。
星山晋徳は38年愛知県生まれ。中京商(現・中京大中京)の「4番ファースト」として56年春の甲子園で優勝し、58年に阪神に入団した。だが、当時の阪神のファーストは主砲の藤本勝巳がレギュラーで、遠井吾郎が2番手に控えていた。60年までの3シーズンで星山の一塁手出場数は26試合にとどまり、同年オフにトレードで中日へ移籍する。だが、中日のファーストには主砲の江藤慎一が鎮座し、ベテランの井上登や与那嶺要が控えにいるとあっては、出番が回ってくるはずもない。61年の一軍出場はわずか3試合、ファーストを守ったのは1試合のみ。同年オフ、国鉄への移籍を決断する。
新天地でようやく出場機会を得て、62年から64年まで3年連続で100試合以上に出場。63年は自己最高の12本塁打、64年は.272と好打率をマークするが、規定打席には一度も到達していない。左打者の星山は、相手が左投手のときは代えられることが多かったのだ。例えば、62年5月20日の巨人戦(後楽園、ダブルヘッダー2試合目)に「2番ファースト」で出場したが、相手の先発が左腕の伊藤芳明だったため、1回裏の第1打席で飯田徳治を代打に送られている。また、同年8月19日の中日戦(中日球場、ダブルヘッダー2試合目)は「5番ファースト」でスタメンだったが、左腕の西尾慈高に対して第1打席で中村修一郎を代打に送られ、その後の守備から飯田が出場している。こうした〝屈辱的〟な起用法も、当時は戦術として普通に行なわれていた。
64年からチームに加わったのが、小淵泰輔(球歴は西武二塁手編参照)である。全盛期の西鉄で主にセカンドで仰木彬の控えをつとめ、それ以外にも内外野のユーティリティとして起用された。61年に中日へ移るが西鉄時代のような出場機会は与えられず、国鉄に活路を求めた。
ファーストの経験は中日時代の61年に1試合あるだけだったが、国鉄では一塁ベースを主戦場とする。相手投手の左右によって星山と併用され、そこから徐々に出場機会を増やしていく。移籍初年度の64年は規定打席に達してリーグ5位の打率.306をマーク。翌65年はチームトップの17本塁打を打ち、打線の中軸をつとめた。69年限りで引退した後もチームに残り、一軍・二軍の打撃コーチを歴任した。
小淵と同様に西鉄出身の豊田泰光については、遊撃手編を参照されたい。
68年以降のファーストは〝助っ人〟たちの働き場所に変わる。
67年から73年まで在籍したデーブ・ロバーツは、球団史を語るうえで外すことのできない重要な助っ人である。70年までは主に外野、71年以降は主にファーストを守り、通算出場数はファースト475、外野358。ただ、68年と69年のベストナインはともに外野手として受賞しているので、外野手編で詳述する。
この時期、ロバーツとともに打線の中軸をつとめていたルー・ジャクソン(外野手編参照)が69年3月のオープン戦の試合中に倒れ、緊急入院。膵臓壊死と診断され、5月27日に息を引き取る。その代役として急遽、獲得したのがボブ・チャンスだ。
40年米国生まれ。63年にインディアンスでメジャーに昇格し、実働6年で277試合に出場。通算195安打、24本塁打、112打点を記録している。69年7月30日に来日すると、後半戦のみの出場ながら打率.320、16本塁打、46打点と好成績をマークし、翌年以降の働きに期待を抱かせた。だが、開幕から出場した70年は打率.233、6本塁打、26打点に終わり、同年限りで退団。71年以降はロバーツがファーストにほぼ専念した。
■大杉勝男の時代
73年は前年までと同様、ロバーツが正一塁手でスタートしたが衰えは否めず、球団は新戦力の獲得に動いた。そして、とんでもない大物選手との契約に成功する。その名はジョー・ペピトーン。
40年米国生まれ。62年にヤンキースでメジャーに昇格し、実働11年で1363試合、1281安打、216本塁打、702打点(いずれも来日前時点)。60年代に名門ヤンキースの正一塁手をつとめ、アメリカンリーグ一塁手部門のゴールドグラブ賞を3回受賞(65、66、69年)、オールスターに3回出場していた(63〜65年)。
6月23日の巨人戦(後楽園)に「4番ファースト」でデビューするが、「ペピトーン・デー」と銘打って大々的に宣伝していた30日の中日戦ダブルヘッダー(神宮)の第2試合を「柱に頭をぶつけて痛いから」という謎の理由で欠場[6]。7月16日に「前夫人との扶養料に関する裁判出席」という理由でアメリカに帰国。8月8日に再来日するが20日に右足アキレス腱炎を訴えて戦線離脱し、9月12日に「故障箇所をアメリカで治療したい」と、球団に無断で帰国してしまう。日本で残した成績は、14試合出場で43打数7安打1本塁打2打点、打率.163だった。
一塁手事情が迷走する73年に最も多く起用されたのは、ルーキーの小田義人だった。
47年静岡県生まれ。静岡高から早稲田大、大昭和製紙を経て72年ドラフト2位で入団した。73年、74年の2シーズンはレギュラーを引き寄せるほどの成績は残せなかったが、このまま使われていれば、久しぶりに「生え抜きの正一塁手」が誕生したかもしれない。
だが74年オフに、思わぬトレードが成立する。
65年に東映に入団した大杉勝男(球歴は日本ハム一塁手編参照)は、本塁打王2回(70、71年)、打点王2回(70、72年)、ベストナイン5回(67、69〜72年)を獲得した、パ・リーグを代表するスラッガーだ。だが74年当時の大杉は、モヤモヤした気持ちを抱えながらプレイしていた。
「その頃、わたしは落ち込んでいた。立派な親会社と信じていた東映フライヤーズが、日拓ホームに身売りしたばかりか、『この調子では、また身売りするのではないか』と、不安だった。そして、その通りになった。『こんなことなら、いっそセ・リーグにでも行きたい』という心境だった」[7]
日拓は73年に東映から球団を買収したが、わずか1年で球団経営を諦め、74年から日本ハムが親会社になった。それに伴い、三原脩が球団社長に、三原の娘婿である中西太が監督に就任した。74年オフに東映から広島へ移籍した大下剛史が、内情を解説する。
「水原・三原の流れの中で水原派は使いづらいから、ワシが一番最初に出されたんよ。その後、張本さんも大杉も白仁天も、水原派はみな他球団に出されてるからね」[8]
水原茂は61年から67年まで東映の監督をつとめ、62年にチームを日本一に導いている。70年代の主力選手は若手時代に水原の薫陶を受けた面々で、大杉や大下も例外ではない。「水原派」というのはそういう意味である。そして、旧制中学時代に始まる水原と三原の長きにわたる因縁を、野球関係者で知らぬ者はない。
大下と時を同じくして、74年オフ、大杉にトレードが通告される。問題は行き先だ。大杉が聞かされていたのは「行き先は阪神で、江夏豊とのトレード」という話だった[9]。ところが発表の30分前に「ヤクルトになった」と告げられる。三原は73年までヤクルトの監督だったから、自らの裁量と人脈で相手を変え、話をまとめたのだろう。大杉が「突然すぎる」と文句を言うと、三原は「君はそういう性格だから嫌われるんだ。だから出されるんだ」と言い放つ。大杉はそれに対して「性格がダメだからトレードなんて承知できない」と言い返したという[10]。交換要員は前述の小田義人と外野手の内田順三。1対2とはいえ、江夏との〝大物トレード〟とは似ても似つかぬ格落ちの相手だった。
内田の背番号「8」を譲り受けた大杉は、75年からヤクルトの一塁ベースに君臨する。それに伴って、球団史が大きく動いていく。
移籍した大杉を待ち構えていたのは、74年にヤクルトの監督に就任した荒川博だった。
「移ったとたん荒川博さんがオレをケシかけるんだ。『オイ、大杉。王は未完成の打者だったのをあそこまでにした。ところが、お前は素質に恵まれている。うまく伸びたら、王以上のホームラン打者になれるかもしれんぞ』(中略)荒川さんはオレにダウンスイングを教えようとした。もし、オレにこの打ち方がマスターできたら、あるいはもっと打てたかもしれない。しかし、10年もやってきた打ち方を、オイソレと変えるなんて、オレにはできなかった」[11]
ともに荒川道場に通った八重樫幸雄が、当時を回想する。
「大杉さんは5日間ぐらいしか荒川さんの自宅には通わなかったかな。さすがに荒川さんも、大杉さんに『一本足打法にしろ』とは言わなかったけど、全然ハマらなかったんだと思います」[12]
東映時代の大杉に、打撃コーチの飯島滋弥が与えた「月に向かって打て」という言葉は広く知られている。詳細は日本ハム一塁手編を参照していただきたいが、そのスタイルで高めのボールを打とうとすれば、自然と「すくい上げる」ようなフォームになる。荒川流のダウンスイングとは相容れないのだ。
移籍初年度の75年は不本意な成績に終わった大杉だが、翌76年に打率.300、29本塁打、93打点をマークして復活を遂げ、「4番ファースト」として78年を迎える。
76年シーズン途中から監督に就任した広岡達朗は、いわゆる〝管理野球〟でチームの意識を変えていった。その結実が78年のリーグ優勝であり日本一だ、となるのだが、プロ野球チームという集団のダイナミズムは、そんな単純なものではないだろう。のちの西武時代も、広岡に対して田淵幸一や東尾修が面従腹背だったのと同様に、大杉も「いわゆる『相性のいい人』ではなかった。オレにとって、苦手というか、なんとなくなじめないところがあった」[13]ものの、認めるところは認め、チームの和を乱さぬように振る舞っていた。78年の大杉は33歳で、船田和英、福富邦夫に次ぐ年長者である。4番で年長者の大杉が反旗を翻せば、チームは空中分解してしまう。八重樫が当時を回想する。
「常に『チームのために』と考えている人でした。あの頃、伊勢(孝夫)さんもチームメイトだったけど、伊勢さんが何か不満そうにしていても、『伊勢、我慢しろ』とか、『もういいだろう』とか、たしなめていたから。あの2人は同学年だったし、ともにパ・リーグ出身だったからね」[14]
それは広岡に対してのみならず、生え抜きのスター選手だった若松勉に対しても同様だった。若松は大杉の2歳年下である。そして、前述のように東映で「水原派」だった大杉に対して、三原のヤクルト監督時代にレギュラーに抜擢され、打撃コーチだった中西に指導された若松は「三原派」である。だが、大杉はそういうことにあえて拘泥しなかった。
再び、八重樫の回想を聞こう。
「大杉さんは完全に自分の立ち位置を理解して、自ら一歩引いていたよ。若松さんも『オレが、オレが』と前に出るような性格じゃなかったし、大杉さんからも『若松を抑えて、自分がトップになろう』という思いは微塵も感じなかった。(中略)大杉さんから若松さんに対して、『今こそ、ワカがひと言みんなに言うべきじゃないか?』なんて感じで、よくロッカールームで話していたのを覚えています」[15]
78年の公式戦MVPは若松、日本シリーズMVPは大杉が受賞した。
大杉が30本塁打を打ったのは78年が最後だったが、以降は打撃スタイルを修正し、81年は自己最高の打率.343をマークする。外角の際どいカーブを「ボール」と判定され、激昂した江川卓が同じカーブを投げたのを鮮やかにライト線に打ち返して得意満面の笑顔を見せたのもこの頃である。
だが、80年から監督に就任した武上四郎との折り合いが徐々に悪くなっていく。82年にチームが最下位に低迷すると、武上はミーティングで選手を罵倒するようになった。武上と直談判した大杉が、話の勢いでトレード志願を口にしたところ、「そうか。2、3年したら帰って来い」と返され、慰留の言葉もないことに憤慨した[16]。
持病の不整脈の影響もあり、83年限りで引退を決める。同年も21本塁打を打っており、目標にしていた「両リーグ200本塁打」にあと1本に迫っていた。それを踏まえて、引退セレモニーでの感動的なスピーチが生まれた。
「最後にわがままなお願いですが……あと1本に迫っていた両リーグ200本塁打。この1本を、ファンの皆様の夢の中で打たせてやってくだされば、これにすぐる喜びはありません。長い間、本当にありがとうございました」
大杉について、誰もが即座に思い浮かべるシーンがある。阪急との78年日本シリーズ第7戦(後楽園)。1−0でリードした6回裏、足立光宏のシュートをとらえた打球はレフトポール上空を通過した。線審の富澤宏哉がホームランと判定し、それをめぐって阪急の上田利治監督が1時間19分の抗議を展開する──。
しかし、打者・大杉の真骨頂はこの後の打席にある。8回裏、山田久志から左中間スタンドに誰も文句をつけようがないホームランを打ち、同時に日本シリーズ10打点という新記録[17]を達成する。ホームインした大杉は、一塁側ベンチへ戻る途中に大きくジャンプした。「見たか、ザマアミロ」と、その姿が語っていた。
私事になるが、筆者は、同じような大杉のジャンプを目撃したことがある。82年9月5日、新潟市営鳥屋野球場で行なわれた広島とのダブルヘッダー第2試合で17号ホームランを打った大杉は、一塁ベースを回ったところで小さくジャンプしたのである。とりたてて劇的なホームランではない(試合は延長10回で日没コールド引き分け)。おそらくは、地方球場のファンに対するサービスだったのだろう。あれから40年以上経っても、日の傾きかけたグラウンドで小さく跳ねた大杉の姿が、なぜか目に焼きついている。筆者にとって、それはプロ野球の原風景である。
■広沢克己の時代
大杉が去った84年。一塁手には以下の選手たちが起用された。
渡辺進はユーティリティプレイヤーで、ポジション別通算出場数は二塁手362、一塁手282、遊撃手202、三塁手174、外野手17なので二塁手編で紹介する。この年は規定打席に達してキャリアハイの打率.281を記録している。
84年夏、野球界に大きなニュースがもたらされた。公開競技として実施されたロサンゼルス五輪の野球で、日本代表が金メダルを獲得したのである。ドジャースタジアムで行なわれたアメリカとの決勝で、逆転タイムリーとダメ押しの3ランを打って勝利の立役者になったのは、「5番ファースト」で出場した明治大4年の広沢克己[18]だった。
62年茨城県生まれの広沢は、小山高から明大へ進む。3年時の83年に春夏連続で首位打者を獲得し、4試合連続を含む年間10本塁打[19]と打ちまくって、前述のように4年時に日本代表に選出された。こうした実績に金メダルという勲章が加味されて、84年ドラフトの目玉になる。
ドラフト当日、広沢はヤクルト、西武、日本ハムが1位指名で競合し、相馬和夫球団代表(当時)が当たりくじを引いた。相馬代表は82年の荒木大輔、83年の高野光に続いて3年連続で当たりくじを引き、必ず左手で引くことから「黄金の左」と呼ばれるようになった。ちなみにそのフレーズは、70年代の大相撲の横綱・輪島が、その廻しの色と左下手投げを得意としたことから「黄金の左」と呼ばれたことに由来する。
広沢には、大杉の引退によって欠番になっていた背番号「8」が与えられた。右打ちのスラッガーで、ポジションはファースト。球団が〝ポスト大杉〟を期待していたことは言うまでもない。優勝した78年に157本(リーグ2位)だったチーム本塁打数が84年は101本(リーグ5位)に落ち込み、個人では八重樫幸雄の18本が最高と、大砲不在による得点力不足が深刻だったのである。
上の出場数が示すように、土橋正幸監督(84年途中から監督就任)は、ルーキーイヤーから広沢を積極的に起用した。85年は18本塁打、86年は16本塁打。一方で、85年はリーグ最多の102三振、86年は103三振を喫する。当時、いしいひさいちの『がんばれ!タブチくん』には「ドバシ」「ヒロサワ」というキャラクターが頻繁に登場した。ドバシは何かあると瞬間湯沸かし器のように暴れ出し、ヒロサワはいくら三振しても平然とした顔でグダグダと意味のないことを喋り続ける奇怪なキャラクターだった。
関根潤三監督時代の87〜89年に、広沢は外野(主にライト)にコンバートされる。その間、ファーストに入ったのは以下の選手たちである。
レオン・リー(球歴はロッテ一塁手編参照)はロッテ、大洋を経て86年に移籍。同年は主にサードを守ったが87年は広沢に代わってファーストに入った。打率.300をマークするなど衰えは感じさせなかったが、同年限りで退団。杉浦享については外野手編を参照されたい。
ラリー・パリッシュは53年米国生まれ。74年にエクスポズでメジャーに昇格し、実働15年で1891試合に出場。1789安打、256本塁打、992打点を記録した一流メジャーリーガーだった。89年に加入すると全試合に出場し、42本塁打、103打点で本塁打王を獲得。球団としては、57年の佐藤孝夫以来32年ぶりの本塁打王だったが、129三振を喫するなど打撃スタイルは粗く、後述する監督交代によって構想外となり阪神へ移籍した。後年のインタビューでは、日本時代に対戦した投手たちの思い出を語っている。
「クワタはマイク・ムシーナ、マキハラはジャック・モリスみたいだった。でも、僕がいちばん手こずったのは、サイトウの緩い変化球。あれが打てなくて、ずいぶん悔しい思いをしたなぁ」[20]
外野に回った3年間の広沢は、相変わらず毎年100以上の三振を喫していたが、88年に初めて30本塁打を記録し、打率も2割8分台に上昇するなど、徐々に向上の兆しを示していた。そして90年、新しい監督の就任によって、チームは転換点を迎える。
「当時のヤクルトは大洋に負けたら最下位だから、とにかく雰囲気が暗い。過去の栄光にとりつかれているような感じで。ビールは飲むな、麦飯を食え、みたいな。そこからチームがどう変わっていったかと考えると、やはり野村さんの存在しかないでしょ」[21]
広沢が回想するように、90年に監督に就任した野村克也によって、チームの空気は大きく変わった。空気のみならず、ポジションの配置も変更された。野村はルーキーの古田敦也を正捕手に抜擢し、正捕手だった秦真司を外野へコンバートし、広沢をファーストに戻したのである。
こうして広沢は、再び、正一塁手としてプレイすることになった。
92年開幕前のインタビューで、広沢はこんなことを話している。
「一昨年から野村監督になって、3番を打つようになったんですが、4番のマーフィーが4月の終わり頃にリタイアしちゃって、僕が4番を任されるようになったんです。それからずっと4番を打っているんですけど、僕にとって蒔かれた種というのは、4番打者としての経験でしょうね。最初は単なる『4番目のバッター』だったのが、去年の夏くらいから少しずつ『4番』ということが自分の中でも定着してきましたから」[22]
91年に広沢は99打点をマークし、初の打撃タイトルとなる打点王を獲得している。同じインタビューにこんな一節がある。
「ホームランだけを狙っていけば、打点もそんなに減らないと思うけど、数字だけじゃなくて、内容のある打点じゃないと。たとえば打率は2割5分、ホームランは十何本でもいいから、打点が100以上あるとか、そういうバッターになりたいですね」[23]
野村は、90年監督就任時の広沢に対する印象を「明治の大砲」と称した。「明治大出身の長距離打者という意味ではない。明治時代につくられたような古い大砲。つまり、なかなか当たらない」。だが、93年に2度目の打点王を獲得すると「明治の大砲から、押しも押されもせぬ和製大砲に成長を遂げた」と賛辞を与えている[24]。
92年に14年ぶりのリーグ優勝を飾り、93年にリーグ2連覇を達成するとともに西武を破って15年ぶりの日本一に輝く。90年代ヤクルト黄金時代の第1期といえるこの時代に、広沢は野村監督の信頼を得た「4番打者」として貢献する。この2シーズンで広沢がチームトップの打撃成績を記録したのは93年の打点数(94打点)のみで、数字だけ見れば、古田敦也やジャック・ハウエル(三塁手編参照)のほうが上である。だが広沢は、大事な試合で勝負を決する重要な一打を打っていたイメージがある。
たとえば92年10月6日の阪神戦(神宮)。優勝争いのライバルとの直接対決で、0−0の7回裏に仲田幸司からバックスクリーンに叩き込んだ決勝のソロアーチ。あるいは西武との93年日本シリーズ第7戦(西武)で、1回表に渡辺久信からバックスクリーンに打ち込んだ先制の3ラン。年間にいくつもない〝絶対に負けられない試合〟で、チームとファンに勇気を与える一打を打つ。広沢は、これぞ4番打者という働きを示したのである。
もうひとつ「4番の条件」を加えるとするならば、決して試合を休まなかった。87年から94年まで、8年連続で全試合出場。移籍した95年以降も連続試合出場記録は継続し、NPB歴代7位(2025年終了時)の1180試合に達した。
94年オフ、広沢はFA権を行使して巨人へ移籍することを決断する。「行かせてください。子供の時からの夢だったんです」と言う広沢に対して、野村は「お前、巨人の歴史を勉強したのか。よそ者はダメ、行ったら使い捨てよ。使えなくなったらポーンと放られるぞ」と諭したという[25]。その後の推移を振り返ると、残念ながら、野村の予言は的中したと言わざるを得ない。
■オマリー、小早川、ペタジーニ──優勝請負人の系譜
91年から阪神の主軸打者として活躍していたトーマス・オマリー(球歴は阪神一塁手編参照)は、94年オフに球団からオリックスへの金銭トレードを打診された。表向きの理由は「長打力不足」、実際には2億を超える高年俸がネックと報じられた。だが、オマリーはそれを拒絶し、自由契約となる。
「心の底ではセ・リーグに残りたいと思っていた。日本で4年プレーして日本野球に関する知識はあったけど、やはりセ・リーグの方が投手と実際対決して慣れていたからね」[26]
広沢の移籍で空白になった「4番ファースト」を埋めたいヤクルトは即座に動き、推定年俸1億7500万円でオマリーと契約する。ちなみに、広沢の同年の推定年俸は1億8000万円だった。阪神のフロントが指摘した「長打力不足」について、野村監督は「広い甲子園球場に比べたら、狭い神宮球場で本塁打は増えるだろう。(中略)本塁打1本にこだわるより安打10本打ってくれるほうがどれだけ助かるか」[27]と意に介していなかった。
この補強は、ヤクルトにとって大正解となる。
2年ぶりのリーグ優勝と日本一を達成した95年、新しく「4番ファースト」に座ったオマリーは打率.302、31本塁打、83打点とチーム三冠の打撃成績に加えて、リーグ最多の96四球を選んで92年から4年連続となる最高出塁率を記録し、MVPを獲得した。本塁打数は前年の15本から倍増し、野村の予言を立証した形となった。さらに〝因縁〟のオリックスとの対決となった日本シリーズでも17打数9安打、2本塁打、7四球、出塁率.667でMVP。95年は、まさに「オマリーの年」だった。
オマリーは、配球を読み、投手のクセを見抜いて打つ選手だった。慣れ親しんだセ・リーグへの移籍を望んだのは、自身のスタイルを生かすためだったと思われる。その観察眼には、野村も一目置いていた。
「オマリーは小さなクセもよく見つけた。その球種はどこでわかるんだとこちらが疑問に思うことでも、『ほら、あそこを見てくれよ』と即答してくれるといった具合に、目のつけどころが実によかった」[28]
96年も打率.315、18本塁打、97打点と素晴らしい数字を残すが、契約交渉が折り合わず、同年限りで退団となった。
オマリーが退団した96年オフに、FA権を行使した清原和博(西武)が巨人に移籍した。それによって、ファーストの定位置を失う落合博満は自由契約を申し出る。落合の獲得に名乗りをあげたのは、ヤクルトと日本ハム。落合は高条件(年俸3億円で2年契約)を提示した日本ハムを選択し、ヤクルトの補強プランは白紙に戻った。
同じ頃、93年まで広島の正一塁手だった小早川毅彦(球歴は広島一塁手編参照)が戦力外通告を受けていた。小早川は現役続行を希望し、自由契約となってヤクルトへ移籍する。
97年4月4日、開幕の巨人戦(東京ドーム)。前年はわずか8試合しか出場していなかった小早川が「5番ファースト」で起用された。相手投手は斎藤雅樹。この試合で、小早川は〝伝説〟をつくる。なんと、斎藤から3打席連続本塁打。一度はクビを言い渡された36歳のベテランが、開幕戦で鮮やかな復活を遂げたのだった。本人が回想する。
「ヤクルトでのミーティングは、仮に1時間だとすれば、そのうち55分間が斎藤の攻略に費やされた。具体的にいうと、カウント3−1から左打者に投げてくるのは九分九厘、外角から入ってくる変化球。『凡打してもいいから、これをたたけ! 斎藤は混乱する!』だった。実際に自分が打った3本塁打のうち、2本はカウント3−1からの変化球。その通りに打てた自分にも驚きだが、打たせてくれたのは野村さんだった」[29]
本来、この開幕戦は巨人の「4番ファースト清原」のお披露目試合で、世間の話題もその一点に集中していた。だが、主役を奪ったのは、試合前は誰も話題にすることのなかったヤクルトの「5番ファースト」だった。ヤクルトはこのままシーズンを独走し、日本シリーズでも西武を破って2年ぶり4度目の日本一に輝く。小早川の3連発が生み出した勢いは、とてつもなく大きなものだった。
98年は正一塁手不在のシーズンだった。外国人選手のライル・ムートン、エリック・アンソニーがともに期待外れに終わったためである。
翌シーズンへむけて、新しい助っ人を探さなくてはならない。98年9月、国際スカウトの中島国章は、ある選手を視察するために急遽、渡米した。選手の名は、ロベルト・ペタジーニ。
71年ベネズエラ生まれ。94年にアストロズでメジャーに昇格するが、その後もマイナーとの往復を繰り返していた。マイナーでは97年、98年と連続でMVPを獲得しているのに、なぜかメジャーに定着できない。98年までのメジャー実績は、実働5年で通算193試合、69安打、10本塁打。
いわゆる〝セプテンバー・コールアップ〟[30]によってメジャーに上がったペタジーニは、中島の目の前でホームランを打ってみせた。だが、中島は別のところに着目する。
「私がなにより感心したのは、ホームランよりもファウルの打ち方だった。どっしり構えてボール球には手を出さず、きわどい球は粘っこいスイングでファウルにしていたのだ。(中略)重心の移動も非常にスムーズで安定感があった」[31]
中島はすぐに代理人との交渉に入り、「ヤクルトに入ってくれたら毎試合出場できることを約束する」と明言し、契約にこぎつけた。
「もちろん、私には選手の起用を決める権限はない。それを決めるのはあくまで監督だ。しかしあのとき、私は100%試合に出場させることを約束するだけの自信があった。『ケガさえしなければペタジーニは必ず結果を出す』という自信があったからこそ、そんな条件を提示することができたのだ」[32]
99年4月2日、開幕の横浜戦(横浜)にペタジーニは「4番ファースト」で出場。ここから4シーズン、その座に君臨する。
中島は「ペタジーニは必ず結果を出す」と確信していた。その「結果」は以下の通りだ(太字はリーグ1位)。
・99年 打率.325/44本塁打/112打点/OPS1・146
・00年 打率.316/36本塁打/96打点/OPS1・033
・01年 打率.322/39本塁打/127打点/OPS1・099
・02年 打率.322/41本塁打/94打点/OPS1・087
ヤクルト在籍4シーズンの通算OPSは1・091。所属年数が異なるため正確な比較にはならないが、ランディ・バースの阪神時代(83〜88年の6シーズン)の通算OPS1・078、落合博満のロッテ時代(79〜86年の8シーズン)の1・076、アレックス・カブレラの西武時代(01〜07年の7シーズン)の1・058を、いずれも上回っている。
99年から若松勉が監督になり、野村時代を継承しつつ新しいチームカラーを構築し始めたスワローズは、01年に4年ぶりのリーグ優勝と日本一を達成する。それは、1番の真中満から宮本慎也、稲葉篤紀、ペタジーニ、古田敦也、岩村明憲、アレックス・ラミレス、土橋勝征と続く不動のスタメンで勝ち取った横綱相撲の勝利だった。打線が機能したのは、その中核にペタジーニがいたからである。
ただし、球団には新たな悩みが浮上していた。毎年ここまでコンスタントに成績をあげ続ければ、当然ながら、年俸はどんどん高騰していく。前出の中島がその舞台裏を明かす。
「ヤクルトで最後の年となった四年目の年俸は400万ドル。当時の為替レートを一ドル=約120円として計算すると、約4億8000万円になる。それが、ヤクルトがペタジーニに支払える年俸の限界だった」[33]
中島によれば、ペタジーニは02年の契約にあたって複数年を希望していたが、その希望総額は球団のキャパシティを超えており、1年400万ドルという条件で妥協した。その交換条件が「来年はフリーになる」だったという。もはや、ヤクルトに引き止める〝余力〟は残されていなかった。02年オフに退団したペタジーニは、推定年俸7億2000万円で巨人と契約する。
■混迷期を勝ち抜いた畠山和洋
03年以降の一塁手は、再び〝やりくり〟の時代になる。
助っ人勢から見ていこう。
トッド・ベッツは73年カナダ生まれ。93年にインディアンス傘下のマイナーでキャリアをスタートするが、一度もメジャーに昇格できなかった。マイナーの通算成績は実働11年で1064試合、1025安打、126本塁打。ペタジーニの後釜として03年に加入し、当初は3番を打っていたが6月以降は7番に降格となり、1年限りで退団。打率.287、15本塁打、52打点という成績で迫力不足は否めなかった。
アダム・リグスは72年米国生まれ。97年にドジャースでメジャーに昇格し、実働4年で通算61試合、33安打、3本塁打。大半はマイナー暮らしで、本職のポジションはセカンドだった。来日1年目の05年は代打要員か、時おり外野で起用される程度でほとんど出番がなかったが、鈴木健(後述)の故障で7月30日の阪神戦(甲子園)に「6番ファースト」で出場してからスタメンに定着し、打率.306、14本塁打と結果を残した。
翌06年、プレイングマネージャーになった古田敦也は新機軸を打ち出す。「バントをしない2番打者」としてリグスを起用したのである。99年に日本ハムの上田利治監督が小笠原道大を攻撃的な2番打者として起用し、さらに遡れば西鉄黄金時代に三原脩監督が豊田泰光を2番に据えるなど、決して目新しい用兵ではないが、ヤクルトには宮本慎也という典型的な「つなぎの2番打者」がいただけに、意外な印象を与えた。古田は自著でこのような持論を述べている[34]。
「よく一番が出塁して走れる選手で、二番がセカンドにランナーを送る、小細工ができる選手とくくられることがあります。二番は小技とバントのできる選手、などと言われます。(中略)しかしながら、このやり方ではあまり大量点はのぞめないでしょう。やはり序盤は一点を取るより、二点三点と取ってゲームを優位に進めたいものです。僕が監督の時は、二番の役割としてバントでつないでもらうより、打ってつないでもらうことを考えました」
出塁率の高い青木宣親を1番に置き、以下、リグス、岩村明憲、アレックス・ラミレス、グレッグ・ラロッカとパワー系の打者を並べた中で、最も結果を残したのが「2番ファースト」のリグスだった。5月に12本塁打を固め打ちして月間MVPを受賞し、チームトップの39本塁打を記録。チーム得点数は前年の591から669に上昇したから、それなりの効果はあったというべきだろう。
だが、リグスが通年で活躍したのはこの06年だけだった。07年はヘルニアと腰痛で戦列を離れ、08年は打撃不振で5月に二軍に降格、そのまま退団となった。
リグスが退団した翌年の09年に加入したのがジェイミー・デントナだ。82年米国生まれで、08年にダイヤモンドバックスでメジャーに昇格し、18試合に出場している。09年は4番を打ち21本塁打、83打点とまずまずの数字を残すが、10年は打撃不振に陥り、途中加入のジョシュ・ホワイトセルに出場機会を奪われて同年限りで退団した。
移籍組のベテランで気を吐いたのが、鈴木健(球歴は西武三塁手編参照)である。
02年オフに西武から戦力外通告を受けた鈴木は、ヤクルトに拾われる形で入団。翌03年、岩村明憲の故障によってサードのレギュラーをつかみ、リーグ5位の打率.317をマークしてカムバック賞を受賞した。岩村が復帰した04年からファーストに回り、05年シーズン中に故障するまで定位置を確保した。若松監督時代ではあったが、鈴木の新天地での姿は、90年代の〝野村再生工場〟の伝統が継承されていることを感じさせてくれた。
この時期、生え抜きの中で「将来の正一塁手」と期待されていたのは武内晋一だ。
83年兵庫県生まれ。智弁和歌山高2年時の00年春の甲子園で準優勝、同年夏の甲子園で優勝。夏の大会で合計100安打、13本塁打という記録をつくった伝説の智弁和歌山打線で3番を打ち、打率.538(26打数14安打)をマークする。早稲田大では1年春からレギュラーで、2年春は青木宣親、鳥谷敬、田中浩康ら、のちにプロ入りする先輩たちの中でクリーンアップを打って打率4割超え。4年時には日米大学野球で日本代表の主将をつとめてMVPに選ばれている。アマチュアでの華麗な実績をひっさげて05年ドラフト希望枠で入団すると、広沢克己の入団時と同様に背番号「8」が与えられた。大杉勝男から広沢へ継承された伝統のバトンが、その背中に託されたのである。
結論からいえば、武内は一度もレギュラーの座をつかめなかった。最も多く打席に立ったのは3年目の08年で、169打数39安打で打率.231。本塁打は10年の6本が最高だった。それでも18年限りで引退するまで13年の現役生活をヤクルトで全うし、球団歴代9位の一塁手出場数415を記録する。その要因は、巧みなハンドリングを活かした守備力にあった。リードした試合の後半で「一塁の守備固めに入る武内」は、ヤクルトファンにとってお馴染みの光景だった。
ファーストベースをめぐる、生え抜き選手たちの戦い。そこから頭角を現したのは、エリートの武内ではなく、叩き上げの武骨な男だった。
畠山和洋は82年岩手県生まれ。専大北上高から00年ドラフト5位で入団した。二軍暮らしが長く、07年までの7シーズンで一軍出場は計19試合にすぎない。
畠山には〝戸田の問題児〟というレッテルが貼られていた。
「練習をサボることしか頭になかった。〝1時間打て〟と言われたら10分だけ打って、あとの50分は風呂に入ってました。戸田の寮もよく抜け出しました。門限は夜の10時なんですが、夜中に浦和や川口の繁華街に繰り出す。酒もボトル1本は軽かったですね」[35]
この間、二軍監督はずっと小川淳司だった(99年に就任)。その小川が08年に一軍ヘッドコーチに配置転換されたことで、チャンスが巡ってくる。
「開幕からリグスが不調で、高田(繁)監督が小川ヘッドコーチに『誰か打てるヤツはいないのか?』と聞いたそうです。そこで小川さんが僕を推薦してくれて、チャンスをもらえたのが一番です」[36]
この年、121試合に出場(一塁手88、三塁手24)して打率.279、9本塁打、58打点。初めて一軍で実績を残したが、翌09年からデントナ、ホワイトセルと外国人選手の補強が続き、つかみかけたポジションをあっさり剥奪されてしまう。
だが、10年に再びチャンスがやって来た。ここでもキーマンは小川だ。
成績不振のため高田監督が休養し、5月27日から小川が代行監督に就任する。畠山は夏場以降、主にレフトでスタメンに起用されるようになり、自己最多の14本塁打を記録。そして翌11年から、小川は畠山を4番に固定する。ポジションはファーストとレフトの併用で(11年はファースト111、外野62)、12年からファーストに専念させた。11年は自己最多を更新する23本塁打を打つとともにリーグ最多の78四球を選び、粘り強い打撃スタイルを習得する。14年は打率.310で、初めて規定打席で3割を超えた。
そして、キャリアの絶頂となる15年シーズン。14年ぶりのリーグ優勝を果たしたこの年、畠山は105打点を記録して初の打撃タイトルを獲得する。2番の川端慎吾が首位打者と最多安打、3番の山田哲人が本塁打王と最高出塁率と盗塁王、そして4番の畠山が打点王。それは、極上の打線のつながりがもたらした結果だった。
「15年は『最高の結果を求めない』をテーマにしていたんです。例えば満塁の場面でホームランを打てば4点じゃないですか。野球選手である以上、チャンスではホームランを打ちたくなるものなんです。でもその欲求をかき消してでも、目先の1点を取りにいく。最高の結果を求めず、最低限の仕事をすることでチームに認められ、チームが必要とする存在になれると気づいたんです。たまに手にする大手柄よりも、『この場面で畠山に回せば、最低限の仕事をきっちりしてくれる』という信頼を得ることのほうがチームにとって大事だし、最終的に評価されるのはその部分だと思ったんです」[37]
同年の打率は、前年の.310から.268に下降している。だが四球数は前年の36から62に増え、さらにリーグ最多の8犠飛を記録した。かつての〝戸田の問題児〟は、献身的で泥臭いスタイルでタイトルをつかんだのである。
この15年が、畠山がレギュラーで稼働した最後のシーズンになった。16年以降は相次ぐ故障に見舞われ、19年限りで引退した。
畠山のリタイア後は、ユーティリティプレイヤーの荒木貴裕を起用したり、坂口智隆を外野からコンバートするなど、苦心の起用が続いた。
そんなところに現れた〝救世主〟が、19年に高卒2年目で36本塁打96打点と大ブレイクした村上宗隆だった。ただ、村上は21年以降サードに定着しているので、三塁手編で詳述する。
村上のサード固定を可能にしたのは、21年に加入したホセ・オスナの存在である。
オスナは92年ベネズエラ生まれで、17年にパイレーツでメジャーに昇格。実働4年で通算276試合、159安打、24本塁打がメジャーでの実績だ。
21年は3番の山田哲人、4番の村上の後を打つ5番を任され、後半戦は数字を落としたものの、6年ぶりのリーグ優勝に貢献。オリックスとの日本シリーズでは打順が7番に降格したが、第4戦で決勝タイムリー、勝負を決めた第6戦では山本由伸から3打席連続安打を打ち、20年ぶりの日本一を引き寄せる働きを見せた。翌22年もポストシーズンに抜群の強さを見せ、阪神とのCSではMVP、オリックスに敗れた日本シリーズでは打率.367、2本塁打、8打点で敢闘賞を受賞している。
主力打者が相次いで故障離脱した25年も、オスナはほぼフル出場してチームの窮地を支えた。25年終了時で一塁手出場数は歴代4位まで上昇。成績を望む以前に「選手の健康」を願うようなチーム状況にあって、頑健で献身的なオスナの存在がファンの希望をつないでいる。
■総論──大らかな「4番ファースト」
大杉勝男、広沢克己、畠山和洋。
3人とも、優勝イヤーの「4番ファースト」だ。右打ちで、どっしりした体躯で貫禄十分。頼もしい存在感と親しみやすさも共通している。
そうでありながら、3人には「脇役感」も漂うのである。
それぞれの時代の「主役」は、むしろ3番打者ではなかったか。大杉の時代は若松勉。広沢の時代は古田敦也。畠山の時代は山田哲人。打者としての優劣という意味ではなく、各時代の象徴となる「看板選手」という意味において。若松、古田、山田がいずれもMVPを受賞しているのに対して、大杉、広沢、畠山は誰もMVPになっていないことが、その証左ではないだろうか。
文中で触れたように、大杉は生え抜きの若松との関係性に気を配っていた。古田に対する広沢、山田に対する畠山にもその気配がある。というより、3人とも、そもそも「お山の大将」志向が希薄なキャラクターのように思えるのだ。
東映時代の大杉は、張本勲という兄貴分とのコンビで存分に打棒を振るった。いわば、次男坊的なポジションである。もし東映での大杉が、張本のような長男格の選手だったら、ヤクルト移籍後にうまくチームに溶け込めただろうか。
同じことは広沢にもいえる。90年に野村克也が監督に就任した時点で、広沢はすでに主力打者の地位を確立していた。年齢は28歳で、野手陣では年長者だった。それまでと一変した野村の指導方針に反発しておかしくないようにも思えるが、広沢は素直に野村のミーティングに耳を傾け、チームに波風を立てなかった。古田が脚光を浴びても、池山隆寛が派手な人気を集めても、常に泰然としていた。
〝戸田の問題児〟だった畠山が、一軍の4番に座ったときには自己犠牲を厭わない心境に達していたことも文中に記した。さらにいえば、15年の畠山はより難しい状況に立たされていた。3番の山田にトリプルスリー(打率3割、30本塁打、30盗塁)達成の期待がかけられていたのだ。山田が出塁したら、当然、盗塁のシチュエーションになる。次打者の畠山は、山田がスタートするまで待球しなくてはならない。通常なら2番打者が強いられるような仕事を、4番の畠山が黙々と遂行していたのである。
〝我こそは主役なり〟というオーラを発する、唯我独尊系の4番打者。
〝ミスター○○〟という称号が自然と付けられるような、華のある4番打者。
ここに挙げた3人は、そういう4番打者像とは微妙に異なる。主役の資格を十分に持ちながらそこに固執せず、時には脇役になることも厭わない、大らかな4番打者。ヤクルトは、そんな「4番ファースト」を代々生み出してきた。(了)
参考文献・資料
「スワローズ全史 国鉄・サンケイ・アトムズ・ヤクルトの軌跡」(ベースボールマガジン社、2020)
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「愛しの東京ヤクルトスワローズ」(ベースボールマガジン社、2018)
「1976−1979 ヤクルトスワローズ 広岡革命」(ベースボールマガジン社、2012)
「1990−1998 野村ヤクルト ID野球の遺伝子」(ベースボールマガジン社、2021)
徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』(ベースボールマガジン社、1992)
堤哲『国鉄スワローズ1950−1964』(交通新聞社新書、2010)
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グレート巨砲『赤ヘル偉人伝』(白夜書房、2016)
「日本プロ野球偉人伝vol.7 赤ヘル旋風&阪急黄金時代の90人」(ベースボールマガジン社、2013)
「Sportiva」2006年11月号
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野村克也『私の教え子ベストナイン』(光文社新書、2013)
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中島国章『プロ野球 最強の助っ人論』(講談社現代新書、2015)
古田敦也『うまくいかないときの心理術』Kindle版(PHP新書、2016)
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
「ベースボール・レコードブック」(ベースボールマガジン社)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)
NPB 個人年度別成績
スタメンアーカイブ
スタメンデータベース
日本プロ野球記録
週刊ベースボールONLINE「プロ野球仰天伝説58」
web Sportiva「八重樫幸雄のオープン球話」第48回
web Sportiva「八重樫幸雄のオープン球話」第50回
sanspo.com「私の失敗(1)小早川毅彦」
週刊ベースボールONLINE「畠山和洋 引退惜別インタビュー」
現代ビジネス「遊び好きの元『不良選手』が打点王になるまで」
註
[1] 『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』71頁
[2] 「日本プロ野球偉人伝vol.3」53頁
[3] 『国鉄スワローズ1950−1964』160頁
[4] 「日本プロ野球偉人伝vol.3」53頁
[5] 『国鉄スワローズ1950−1964』163頁
[6] 「プロ野球仰天伝説58」
[7] 『大杉勝男のバット人生』146頁
[8] 『赤ヘル偉人伝』80頁
[9]『大杉勝男のバット人生』221頁に「夏頃から阪神へトレードの噂が立ちはじめていた」とある。
[10] 「日本プロ野球偉人伝vol.7」20頁
[11] 『大杉勝男のバット人生』103頁
[12] 「八重樫幸雄のオープン球話」第48回
[13] 『大杉勝男のバット人生』25頁
[14] 「八重樫幸雄のオープン球話」第50回
[15] 「八重樫幸雄のオープン球話」第50回
[16] 「日本プロ野球偉人伝vol.7」21頁
[17] 84年に長嶋清幸(広島)が10打点を記録して並んだ。
[18] 96〜98年の登録名は「広沢克」、99年以降は「広澤克実」。本稿はヤクルト時代の「広沢克己」で表記する。
[19] 東京六大学の年間本塁打記録は岩見雅紀(慶応大)が2017年に打った12本。
[20] 「Sportiva」2006年11月号43頁
[21] 「東京ヤクルトスワローズ50年史 1969−2019」15頁
[22] 「Number」1992年4月5日号24頁
[23] 「Number」1992年4月5日号26頁
[24] 『私の教え子ベストナイン』140〜141頁
[25] 『私の教え子ベストナイン』142頁
[26] 「Number」1995年11月23日号53頁
[27] 『私の教え子ベストナイン』145頁
[28] 『私の教え子ベストナイン』147頁
[29] 「私の失敗(1)小早川毅彦」
[30] MLBでは9月になると登録枠が25人から40人に増え、マイナーにいた選手が〝お試し〟的に起用される。
[31] 『プロ野球 最強の助っ人論』140頁
[32] 『プロ野球 最強の助っ人論』142〜143頁
[33] 『プロ野球 最強の助っ人論』46〜47頁
[34] 『うまくいかないときの心理術』Kindle版
[35] 「遊び好きの元『不良選手』が打点王になるまで」
[36] 「畠山和洋 引退惜別インタビュー」
[37] 「畠山和洋 引退惜別インタビュー」



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