投手起用の球団史・巨人編(1995〜2005)
巨人編1987〜1994から続く
9 1995〜2005 世紀末〜新世紀の投手陣
■嵐を呼ぶガルベス
前述したように、90年代後半は槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の「三本柱」が揃ってフル稼働することが難しくなった。誰かが良くても、誰かが欠ける。そんな状況を補っていたのはどんな投手たちだろうか。
まずは先発陣に焦点を当てて、95〜98年を見てみよう。
95年は2人の新戦力が先発ローテーションに加わった。94年ドラフト1位の河原純一(73年生まれ、川崎北〜駒沢大)と、広島からFA移籍した川口和久(59年生まれ、鳥取城北〜デュプロ〜広島)である。だが、2人とも巨人では先発として力を示せず、持ち味を発揮したのは救援に回ってからだった。
96年当初、投手陣の新戦力として期待を集めたのは、95年の福岡ユニバーシアードで銀メダルを獲得した韓国大学代表のエース・趙成珉(73年生まれ、信一高〜高麗大)だった。ドラフト1位に相当する契約金1億5000万円のみならず、8年契約という破格の条件で迎えられたが、入団早々に肩を故障。97年に抑えに起用されて11セーブ、98年は先発に転向して前半戦で7勝したが、オールスターでの登板中にヒジ痛を訴えて戦列を離脱する。結局、契約を1年残して02年限りで退団してしまった。
趙成珉の破格の契約が話題をさらっていた頃、96年春季キャンプでひっそりと入団テストを受けた投手がいる。ドミニカ共和国出身のバルビーノ・ガルベス(64年生まれ、プエルトリコ高〜ドジャース〜台湾・兄弟)だ。メジャー実績は86年に10試合登板しただけで、94年から台湾プロ野球の兄弟に所属したが、素行不良を理由に95年途中で解雇されていた。
2月28日に契約したガルベスは、開幕5戦目、4月10日のヤクルト戦(神宮)で初先発。以降はローテーションの一角を占め、「(右肘手術で離脱した)桑田真澄の穴埋め」という目算をはるかに上回る成績を残した。リーグ1位の203回2/3を投げ、斎藤雅樹と同数でリーグ最多の16勝。防御率ランキングは1位が斎藤、2位がガルベスだった。巨人は斎藤、ガルベスのダブルエース体制で、一時は広島に11・5ゲーム差をつけられる劣勢から大逆転する「メークドラマ」を達成したのである。
96年の12完投、97年の8完投はともにリーグ1位。抜群のスタミナに加え、当時の投手コーチだった堀内恒夫が「右打者の胸元にツーシームのような、シュート気味に入ってくる球は威力抜群だった」[1]と回想するように、ボールを動かしてゴロを打たせるスタイルだった。
96年は桑田が不在。97年は桑田が復帰したが斎藤が不調に陥る。槙原寛己は98年からリリーフに転向した(後述)。「三本柱」体制が崩れた後もチームが大きく落ち込まなかったのは、ガルベスという新たな「柱」が存在したからだ。だが、予期せぬトラブルが起こってしまう。
98年7月31日、阪神戦(甲子園)。先発したガルベスは5回で5失点と打ち込まれ、さらに6回裏、坪井智哉を0−2と追い込んだ後の際どい勝負球をボールと判定され、直後にソロ本塁打を喫してKOされた。交代を告げられてマウンドを降りる際、ガルベスは橘高球審にスペイン語で悪態をつき、さらに、自軍ベンチ前で突然振り返ると橘高球審に向かってボールを全力で投げつけた。ガルベスは即刻、退場処分となり、翌日、セ・リーグから「今季出場停止」処分が下される。さらに、現場責任者の長嶋監督が〝丸刈り〟になるという衝撃の展開となった。
処分明けの復帰登板は、翌99年4月2日、因縁の相手・阪神との開幕戦(東京ドーム)だった。あれだけのトラブルを起こしながら、巨人は契約を打ち切ることはなかった。それどころか、球団の外国人投手として初となる開幕投手(本稿ではビクトル・スタルヒンを「外国人投手」にカウントしない)という舞台を与えた。この時期の巨人にとって、ガルベスはそれほど大事な存在だったのである。
だが、この99年にデビューしたルーキーがあっという間にエースの座につき、ガルベスの存在感は相対的に低下してしまう。00年限りで退団。巨人在籍4年でマークした46勝は、球団外国人投手の最多勝記録だ。
■混迷の救援陣
ガルベスが先発陣の救世主となった96年は、リリーフ陣でも外国人投手の救世主が現れた。95〜98年の登板数とセーブ数は以下の通り。
92年から抑えをつとめてきた石毛博史だが、95年は防御率4・07と安定感を欠き、終盤は3年目の西山一宇(70年生まれ、高知高〜NTT四国)にその座を譲った。だが96年の開幕直後、4月13日の横浜戦(横浜)で5−3とリードした9回裏に石毛と西山で3失点を喫して逆転負け。16日の中日戦(東京ドーム)では3−3の同点で9回表に登板した西山が2失点と、早々に抑えが崩壊してしまった。
窮地を打開すべく、球団は緊急補強を敢行。4月24日に、フロリダ・マーリンズ傘下の3Aに所属していたマリオ・ブリトー(66年生まれ、サントドミンゴ大〜米国マイナー〜台湾・兄弟)と契約した。ドミニカ共和国出身のマリオは同年2月に契約したばかりのガルベスと同郷で、少年時代から知り合いだった。さらに前年はガルベスと同じ台湾プロ野球・兄弟で投げており、いわばガルベスを通じた〝コネ入社〟のようなものでもあった。年俸は格安の1000万円。
5月7日の広島戦(東京ドーム)でデビューしたマリオは、2回1/3を無失点で抑えて初登板初セーブを飾ると、8試合の登板で1勝5セーブ、防御率0・66と予想外の結果を出して一躍、ブルペンの救世主となった。決め球は落差の大きなフォークで、〝スーパーマリオ〟という愛称は瞬く間に浸透したが、癖や球筋を覚えられた後半戦は苦戦し、19セーブをあげたものの防御率は3・33でシーズン終了。オリックスとの日本シリーズでは1イニング投げただけで、契約延長を勝ち取ることはできなかった。とはいえマリオがいなければ、96年の「メークドラマ」はありえなかったはずだ。
マリオとともに96年のブルペンを支えたのは、日本ハムからFA移籍した河野博文(62年生まれ、明徳高〜駒沢大〜日本ハム)だ。移籍前年は先発投手として規定投球回に達していたが、巨人ではリリーフに専念。勝負どころの8月は14試合に登板して4勝1セーブ、防御率1・86で投手部門の月間MVPを受賞する。チーム最多の39試合(マリオと同数)に登板し、同年から制定された最優秀中継ぎ投手賞を獲得した。セ・リーグの同賞は複雑な計算式によるリリーフポイント(RP)で選出され、河野のRPは12・45、次位の山内泰幸(広島)は11・20。05年以降は、より簡明なホールドポイント(HP=ホールド数+救援勝利数)で統一されている。
96年ドラフト1位の入来祐作(72年生まれ、PL学園〜亜細亜大〜本田技研)は、97年にチーム最多の57試合に登板。そのうち56試合がリリーフで、1年目からフル回転した。1勝6敗2セーブ、防御率3・10という成績を見ると冴えない印象だが、同年の巨人は63勝72敗で4位に沈む苦難のシーズンで、35試合に登板したドラフト3位の三沢興一(74年生まれ、帝京高〜早稲田大)とともに、ルーキーを酷使せざるをえない状況だった。入来の年間投球回は90、三沢は57回1/3で、1救援あたりの平均投球回数はともに1・6だから、回またぎも当たり前だった。
翌98年以降、入来は徐々に先発に軸足を移していく。
ここで改めて、90年以降の年間完投数の推移を示す。右はセ・リーグ6球団の平均完投数だ。
90年代初頭の巨人のアドバンテージは、他球団より明らかに高い完投能力だった。だが93年以降、完投数は減少し、他球団との差も小さくなっていく。そして97年は、リーグ最多の8完投を記録したガルベスがいたにもかかわらず、年間完投数が17まで落ち込んだ。ガルベス以外に完投したのは槙原寛己4、斎藤雅樹2、岡島秀樹2、宮本和知1。右肘手術から復帰した桑田真澄は26試合に先発したが完投はゼロだった。
そこには槙原、斎藤、桑田の「三本柱」の勤続疲労という巨人固有の事情と、リーグ平均完投数の推移が示す「分業制の浸透」という球界全体の傾向が重なり合っている。こうした状況を踏まえて、長嶋監督は98年に大きな決断を下す。槙原の抑え転向である。
98年の槙原は、5月5日の横浜戦(東京ドーム)で通算150勝を達成。だが、中7日で先発した13日の横浜戦(横浜)は3回1/3で5失点を喫してKOされた。その3日後、16日のヤクルト戦(神宮)は5−5で延長に突入。11回表に巨人が勝ち越しの1点をあげると、その裏、槙原が登板して6年ぶり、通算7個目のセーブがついた。とはいえ、これは延長戦で投手を使い切ったための〝緊急登板〟で、槙原はその後、先発ローテに戻って5試合登板した。
そして、6月28日の横浜戦(東京ドーム)が転機となる。5−5の同点で迎えた9回表、18日の中日戦(東京ドーム)に先発して4回6失点でKOされてから間隔が空いていた槙原を登板させた。するとその裏、清原和博がサヨナラ3ラン。救援勝利が転がり込んだ槙原は、以降、すべてリリーフで登板して18セーブを記録した。
槙原が〝緊急登板〟でセーブをあげた5月16日からこの6月28日まで、巨人は30試合で17勝しているが、その間、リリーフ投手にセーブがついたのは3試合しかない(野村貴仁2、三沢興一1)。誰で試合を締めくくればいいのか、試行錯誤の状態だったのである。
ちなみにこの98年は、横浜が〝大魔神〟佐々木主浩を擁してリーグ優勝と日本一に輝いた年だ。横浜にあって、巨人に欠けているものはあまりにも明らかだった。長嶋監督は、槙原の実績と「救援登板時の勝ち運」に賭けたのだろうか。
■上原浩治の登場
前述したように、99年の開幕投手は出場停止明けのバルビーノ・ガルベス(35歳)だった。ここに〝旧三本柱〟の斎藤雅樹(34歳)と桑田真澄(31歳)が加わって〝新三本柱〟となるわけだが、高齢化は明らかであり、最も若い桑田は手術明けだから無理はさせられない。先発陣の世代交代が急務だった。
98年ドラフトの目玉は横浜高のエース・松坂大輔だったが、競合は必至だ。即戦力の先発投手を確実に補強したい巨人は、松坂ではなく、逆指名できる大学・社会人投手に狙いを定める。そして獲得したのが上原浩治(75年生まれ、東海大仰星高〜大阪体育大)である。
高校時代は建山義紀(のち日本ハムなど)の控えだった上原は、大学で能力が開花。インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、当時、国際大会で151連勝中だったキューバの打線を抑えて一躍注目された。本人はメジャー志望で、エンゼルスで投げていた長谷川滋利を頼って渡米するなど準備を進めていたが、エンゼルスのスカウトから「100%の自信がなければ来るな」と諭され[2]、方針転換して巨人を逆指名した。
99年4月4日、開幕3戦目の阪神戦(東京ドーム)で初先発。ここからルーキーの快進撃が始まる。
すべて先発で25試合に登板。中6日のローテーションで回ったため年間200イニングには届かなかったが、20勝4敗、防御率2・09、179奪三振という成績で最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、沢村賞、新人王とタイトルを独占した。与四球は僅か24で、与四球率(1試合=9イニングあたりの平均四球数)は1・09、WHIP(1イニングあたりで許した走者数)は0・90と極めて優秀な数値を叩き出す。上原の代名詞となる「無駄なボールを投げない能力」は、1年目から遺憾なく発揮されていた。
巨人の「20勝投手」は90年の斎藤雅樹以来9年ぶり。そして「ルーキーの20勝投手」は60年の堀本律雄(29勝)、62年の城之内邦雄(24勝)に次いで球団史上3人目だ。ちなみに3人の1年目は堀本が69試合で364回2/3、城之内が56試合で280回2/3、上原が25試合で197回2/3。同じ「ルーキーの20勝投手」でも、ローテーションと分業制が確立された時代の上原は、負担が大きく軽減されている。その反面、限られた登板数で結果を残さないと20勝に到達しないわけで、「25試合登板で20勝」は、違う意味で偉業というべきだろう。
■2000年の「左腕王国」
だが、続く2シーズンは故障の影響もあり、上原の成績は伸び悩む。
4年ぶりのリーグ優勝を果たし、「ON対決」となったダイエーとの日本シリーズを制した00年に先発陣を支えたのは、2人の移籍組と1人のルーキーだった。
98年に阪神に加入して先発ローテーションの一角を担った左腕のダレル・メイ(72年生まれ、サクラメント市大〜ブレーブス〜パイレーツ〜エンゼルス〜阪神)は、札付きのトラブルメーカーだった。99年に野村克也監督と対立し、「私は野村監督が嫌いだ。彼のためにプレーしたくない」などと英語で書かれたビラを報道陣に配って無期限謹慎、罰金1200万円の処分を受けた。
同年オフに自由契約となったメイに声をかけたのが巨人だった。「紳士たれ」を標榜していたかつてのチームなら二の足を踏む選手だったかもしれないが、すでにガルベスというトラブルメーカーを抱えていた巨人にとって「この程度なら大したことはない」と思ったのかもしれない。穿った見方だが、野村がヤクルトの監督だった90年代から延々と続く「長嶋vs.野村」のライバル関係を鑑みると、野村への当てつけのような補強ともいえる。
なお、「巨人と阪神に両方在籍した初の外国人投手」と報道されたが、外野手の呉昌征(呉波)は巨人で1試合、阪神で30試合、投手として登板している。
メイは2000年の開幕5戦目、4月5日の中日戦(ナゴヤドーム)に先発して7回無失点、14奪三振の好投で移籍後初勝利をあげると、年間を通してローテーションに定着。投球回数、先発数、勝利数、防御率(2・95)はすべてチームトップの数字で、優勝に大きく貢献した。ただし、6月7日の阪神戦(東京ドーム)で和田豊の背中を通すような危険球を投げ、試合後に「To him(彼を狙った)」とコメントしたことから10日間出場停止、罰金50万円の処分を受けている。古巣へのわだかまりが消えたわけではなかったのだ。
なおメイの加入により、巨人の外国人投手はガルベス、趙成珉、そして新加入の鄭珉台(大田高〜韓国・ピングレ〜ハンファ)を加えて4人となった。当時の規定では一軍の外国人枠は投手2人、野手2人。メイを除く3人は熾烈な競争を強いられ、その結果、出場機会の減ったガルベスは同年限りで退団した。
99年日本シリーズで、ダイエーは中日を破って日本一になった。その3日後、ダイエーのエース・工藤公康(63年生まれ、名古屋電気高〜西武〜ダイエー)がFA権行使を表明する。「ここまでの話し合いで、駆け引きをしてきた球団に誠意を感じなかった。もうダイエーに残ることはない」[3]と明言した工藤は、巨人、中日と交渉し、巨人を選択した。「大物ベテラン左腕の加入」という意味では、65年の金田正一に似ている。
槙原寛己と同い年で、愛知県の同郷。00年で37歳になる。槙原は翌01年に引退するが、工藤に〝晩年感〟はなく、その投球術は円熟の境地を迎えていた。00年はメイに次ぐチーム2位の投球回数、メイと並ぶチーム最多の勝利数を記録。古巣のダイエーとの日本シリーズでは第1戦に先発した。
以降、巨人に7年在籍し、789回1/3(年平均113回)を投げて53勝をマーク。なお、巨人通算50勝以上の左腕投手は中尾碩志(209)、内海哲也(133)、高橋一三(110)、新浦壽夫(80)、高橋尚成(79)、伊藤芳明(66)、宮本和知(66)、工藤(53)、山口鉄也(52)の9人。金田正一は巨人通算47勝である。
メイと工藤に加えて、99年ドラフトで巨人を逆指名した高橋尚成(75年生まれ、修徳高〜駒沢大〜東芝)もサウスポーで、00年の巨人は一躍「左腕王国」になった。99年に左腕投手が先発したのは5試合(岡島秀樹3、小野仁2)だけだったが、00年は73試合(メイ24、高橋尚23、工藤21、平松一宏4、小野1)と全試合の半数以上を占めている。
上原浩治と同い年で、誕生日も一日違い(高橋が75年4月2日、上原が75年4月3日)の高橋尚は、00年の開幕6戦目、4月6日の中日戦(ナゴヤドーム)で初先発。8回1失点で勝利投手となった。巨人は広島との開幕3連戦は上原、ガルベス、桑田と右腕3人が先発して1勝2敗だったが、続く中日3連戦は工藤、メイ、高橋尚の左腕3人で3連勝。同年の「左腕王国」ぶりを予感させるスタートとなった。
1年目の高橋尚は規定投球回ギリギリの135回2/3を投げて9勝6敗、防御率3・18。ダイエーとの日本シリーズ第5戦(福岡ドーム)で「新人がシリーズ初登板初完封」というNPB史上初の快挙を成し遂げた。以降、同い年の上原とともにゼロ年代の投手陣を支える存在になっていく。
01年は入来祐作(前述)が先発に本格転向して健闘するが、規定投球回に到達したのは入来とメイの2人だけで、ヤクルトに3ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後、長嶋茂雄監督が退任を発表した。
■上原の復権、木佐貫の苦悩
原辰徳が新監督となった02年に上原がルーキーイヤーの輝きを取り戻し、以降、05年まで先発陣のリーダーとして君臨した。4年連続でチームトップの投球回数を投げ、02年に最多勝、03年に最多奪三振、04年に最優秀防御率、02年と04年に最高勝率と各種投手タイトルを獲得。02年は2度目の沢村賞を受賞した。WHIPは4年連続リーグ最優秀の数値で、そのうち3回は0点台である。「無駄なボールを投げない、無駄な走者を出さない」スタイルにますます磨きをかけていった。
上原、高橋尚に続く先発陣3人目の「逆指名組」が、02年ドラフト自由獲得枠で入団した木佐貫洋(80年生まれ、川内高〜亜細亜大)である。いわゆる〝松坂世代〟で、高校時代は同県の杉内俊哉(鹿児島実)と鎬を削った。杉内は12年に巨人へ移籍するが、木佐貫は10年にオリックスへ移籍したため、チームメイトになることはなかった。
ルーキーイヤーの03年はオープン戦で防御率1点台と好投し、原監督から「オープン戦のMVP」と絶賛される。その流れで開幕3戦目、3月30日の中日戦(東京ドーム)に先発。以降、通年でローテーションを守り、10勝をマークして新人王となった。だが右肩の故障で05年に手術を受け、07年にキャリアハイの12勝をあげて復活するが、前述のように、10年にオリックスへ移籍した。交換要員は左腕の高木康成。当時、フロントの編成にいた香坂英典は、清武英利球団代表から「木佐貫のためにも環境を変えてあげたいんだ。トレードをするなら、ウチは左の中継ぎ投手が欲しい」と相談され、話をまとめたという[4]。
木佐貫は08年5月7日の阪神戦(東京ドーム)で、当時、連続試合フルイニング出場記録を継続中だった金本知憲に頭部死球を与え、危険球退場となった。金本は応急処置を受けて試合に復帰したから記録が途切れることはなかったが、木佐貫はこれ以降、イップス状態に陥ってしまう。本人の回想によれば、一軍での登板が1試合のみだった09年のオフに、契約更改の席で「他の球団から木佐貫を、というお声があったら、トレードを検討していただけませんか」と直訴した[5]。前述の清武代表の言葉は、それを受けてのものだった。
■岡島と河原
上原浩治の鮮烈なデビューで「先発の軸」ができた99年だが、同時期のリリーフ事情を振り返っておきたい。
まず99〜01年の登板数とセーブ数を見てみよう。
引き続き抑えは槙原寛己だったが、日本一イヤーの00年は4・12という防御率が示すように安定感を欠き、足の負傷も重なったことから、後半は7年目のサウスポー、岡島秀樹(75年生まれ、東山高)にその座を譲った。
93年ドラフト3位で入団した岡島は先発投手として育成され、4年目の97年に一軍で25試合(先発21)登板して4勝9敗、防御率3・46。98年は14試合(先発12)で3勝6敗、防御率4・33。両年とも与四球率が4を超え、制球難がネックだったが、その原因を独特のフォームに求める声も多かった。リリースの時に捕手から目を切り、下を向いてしまうのである。
だが、98年に二軍投手コーチに就任した鹿取義隆は岡島の「ノールック投法」を修正せず、リリースポイントでの腕の位置など細かい部分に修正を施して、制球難の解消に尽力した[6]。そして、自身の現役時代の仕事だった「救援投手」への転向を導いていく。
99年の岡島は37試合(先発3、救援34)に登板し、中継ぎとして実績を積む。00年は完全にリリーフ専任となり、チーム最多の56試合に登板。前述のように、後半からストッパーを任された。同年のダイエーとの日本シリーズでは、巨人が勝った4試合のうち3試合で最終回のマウンドにいたのが岡島だった。翌01年はNPBでのキャリアハイとなる58試合[7]に登板し、25セーブを記録した。
優勝イヤーの00年は、岡島のほかに、50試合以上登板したリリーバーが2人いた。54試合登板した右の木村龍治(70年生まれ、中京高〜青山学院大)、50試合登板した左の柏田貴史(71年生まれ、八代工)である。2人はともに99年、00年と2年連続で50試合以上登板しており、第2期長嶋監督時代の末期に最も重用された救援投手といってよい。
とりわけ柏田は、89年ドラフト外で巨人に入団するも芽が出ず、97年に渡米してニューヨーク・メッツと契約し、メジャーで35試合に登板。翌98年に巨人に〝出戻り〟復帰という異色のキャリアを持っていた。パイオニアの野茂英雄とは違う意味で「メジャーを身近に感じさせる」きっかけをつくった投手でもあった。
02年に原辰徳が監督になると、リリーフ陣の編成に変化が生じる。以下は、第1期原政権の2シーズン。
河原純一(前述)は94年ドラフトで巨人を逆指名し、1位指名で入団。ルーキーイヤーの95年に14試合に先発して8勝をあげるが、肩・ヒジを相次いで故障し、通年で稼働できない状態のまま8年目のシーズンを迎えていた。
02年の巨人は、開幕から3連敗と最悪のスタートになった。4戦目、4月3日の中日戦(ナゴヤドーム)は2−2で延長に入り、10回表に巨人が1点を勝ち越すと、その裏、原監督はシーズン初登板となる河原をマウンドに送った。河原は三者凡退で試合を締めくくり、ここから巨人の新しい守護神として、2位のヤクルトに11ゲーム差をつける独走優勝の原動力になっていく。前年までの抑え・岡島は、同じ左腕で中日からFA移籍した前田幸長(70年生まれ、福岡第一高〜ロッテ〜中日)とともに河原への〝つなぎ役〟に配置転換された。
岡島とは対照的なオーソドックスなフォームからスピンの利いた速球を投げ込む河原は、マウンド上で表情を変えないことから「鉄仮面」と称されたが、その形容は70〜80年代の加藤初の「継承」である。ただ、丈夫で長持ちだった加藤とは異なり、上の表が示すように、03年の河原の成績は急降下してしまう。守護神として稼働したのは1シーズンのみだった。
原監督が2年で退き、04年から堀内恒夫が指揮をとる。V9時代のエースだった監督に課せられたのは投手陣の整備だったが、堀内政権の2年間は、救援陣の編成に関しては試行錯誤のまま終わった印象が強い。
05年から公式に「ホールド」が記録として規定されたので、表に加えている。いずれにせよ、中継ぎ・抑えともに流動的な2シーズンである。
この2年間で最も多く登板したのはロッテから移籍したブライアン・シコースキー(74年生まれ、ウエストミシガン大〜レンジャーズ〜ロッテ)で、05年の年間70試合は当時の球団記録だった。1936〜2005年に巨人で年間60試合以上登板した投手のリストは次のようになる。
登板数の意味合いが時代とともに変わっていることは、投球回数との関係を見れば明らかだろう。ただ、本格的な「分業制」が始まっていくのはここからだ。次章で述べる06年以降、救援投手の「60試合以上登板」は珍しいものではなくなっていくのである。
20世紀初頭に抑えをつとめた岡島秀樹と河原純一は、キャリア中途で巨人を去っている。河原は05年3月に後藤光貴との交換トレードで西武へ移籍。その1年後、06年3月に岡島は實松一成、古城茂幸との2対1の交換トレードで日本ハムへ移籍した。
だが、2人は新天地で逞しくキャリアを継続していく。
河原は西武を戦力外通告になった後、1年の浪人を経て09年に中日と契約し、落合監督時代の強いチームで中継ぎとして復活。11年まで現役生活を続けた。
岡島は日本ハムで06年に日本シリーズ優勝、レッドソックスで07年にワールドシリーズ優勝。NPBとMLBの両方で主力投手として頂点に立ち、15年限りで引退するまで日米通算815試合登板(NPB549、MLB266)という偉大な足跡を残した。
後から振り返ったタラレバだが、巨人は2人を「見切る」のが早すぎたのではないか? それとも、巨人という環境から離れたからこそ、2人の新たなキャリア形成が可能になったのだろうか。その答えは分からない。
巨人編2006〜2015へ続く
(資料1)投球回数ランキング
(資料2)登板数ランキング
(資料3)先発数ランキング
(資料4)勝利数ランキング
(資料5)セーブ数ランキング
(資料6)ホールド数ランキング
参考文献・資料
『読売巨人軍75年史』(株式会社読売巨人軍、2010)
「ジャイアンツ栄光の70年」(ベースボール・マガジン社、2004)
「ジャイアンツ90年史」(ベースボール・マガジン社、2024)
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)
個人年度別成績 日本野球機構
日本プロ野球記録
週刊ベースボールONLINE「堀内恒夫の多事正論」2018年8月1日
週刊ベースボールONLINE「プロ1年目物語 上原浩治」2024年12月23日
時事ドットコム「2度目のFAで巨人へ」
週刊ベースボールONLINE「裏方が見たジャイアンツ」第76回 2022年10月20日
Number Web「プロ野球PRESS」2025年7月1日
週刊ベースボールONLINE「個性的なフォームで日米815試合登板した鉄腕とは」2020年11月2日
註
[1] 「堀内恒夫の多事正論」
[2] 「プロ1年目物語 上原浩治」
[3] 「2度目のFAで巨人へ」
[4] 「裏方が見たジャイアンツ」第76回
[5] 「プロ野球PRESS」
[6] 「個性的なフォームで日米815試合登板した鉄腕とは」
[7] MLBを含めたキャリアハイは09年の68試合。



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